遺された角

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梗 概

遺された角

遠くから微かに鼓と笛の音が聞こえる。その瞬間、薬師の娘エーネは煎じている最中の薬草を土瓶に残したまま急いで家の外へ出た。きっと母様が宮仕えの任期を終えて帰ってきたのだとエーネは思った。霧が立ち込める深山幽谷にあって、それらの音色は誰かを里まで先導するためのものか、儀礼祭祀のためのものかに限られる。時期から見て前者だと踏んだがやって来たのはエーネの知らない人物だった。そしてエーネにとってそれは生まれて初めて目にすることになる男という存在でもあった。

エーネの里は古来より女人のみが足を踏み入れ住むことを許された男子禁制の里であり、基本男が入ることは出来なかったが、例外として男根と睾丸を切除し仙人の修練に打ち込もうと志す男の滞在は許されていた。男は名をマウリといい、実に数十年ぶりに仙人志望としてやって来た自浄(官位のない去勢者)だった。世話役として指名されたエーネは初めマウリに苦手意識を感じていたが、マウリの求道に対する真摯な姿勢と平民出とは思えない博識ぶりに魅了され、すっかり尊敬するようになっていった。

ある日マウリはエーネにこの辺りに伝わる一角様の伝説について尋ねた。何でも一角様から生えた角を挽いて作られた粉にはどのような病でも癒す万能の効能があるのだとか。エーネはマウリへの信頼から里の重大秘密である一角様の住処を教え求道のためにどうしても必要だというマウリのために普段は専ら神事に使う角を分けてもらえないか交渉することを請け合った。その日の夜皆が寝静まった後エーネはマウリを連れ一角様の住処へ向かった。道すがらエーネは一角様が強い神通力を持ち疚しいことを考えている者の許には決して現れず幻覚を見せることを告げた。マウリが黙ったままであることを訝り、エーネがふと後ろを振り向くとマウリの姿はなかった。

そこには代わりに体長約四十センチの一本角を生やした人型生物、一角様が立っていた。一角様はマウリが元は宮の官吏であり皇帝の寵愛を受けていたエーネの母と密通していたこと、それがばれてエーネの母は毒をあおり自死しマウリは去勢され放逐されたことをエーネに明かす。エーネはあまりのショックに母を誑かし死に追いやったマウリを恨み復讐を誓うが、同時にマウリがここへ来た目的がマウリとエーネの母との間に儲けられた幼子の病を癒すための薬を手に入れることだと知り逡巡する。子に罪はない、例えその子が生き残れたとしても親を奪えばその子は自分と同じ苦しみを抱えて一生を生きていかなければならなくなるかもしれない。それを想うとエーネは辛くてたまらなかった。ついにエーネは決心しマウリと母の子のために角を分け与えて欲しいと懇願する。一角様はその清らかな心に誓い角を与えることを約束した。後、数日迷い続けたマウリは山の出口に出ると祠に一本の見事な角が供えられているのを見て涙を流さずにはいられなかったということである。

文字数:1200

内容に関するアピール

他者のことを想い他者のために何かを決断するという人間としてもっとも強く正しいあり方とされるものの一つは、SNSなどによる新たなコミュニケーションが発達した現代においてますます希少なものになりつつあるのではないでしょうか。そんな今だからこそもう一度シンプルにそうしたあり方をフィクションを通して活き活きと描いてみたい。一度抱いた恨みつらみを完全になかったことにするなんて聖人めいたことは叶わなくとも、そうした思いを(あるいは一生)抱えつつも、他者を赦し他者のためにあるいは巡り巡って自分のために何をするべきか、何が一番正しいことかを考えることが出来るのが人間という生き物であり、それは決して矛盾ではないのだと思っています。

実作では里での人々の生活やマウリとエーネの心温まる交流、一角様の生態などを細かく入れ込みながら楽しく書ければと考えています。

文字数:372

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遺された角

1

 

強く風が吹き抜けるかのように間延びした甲高い音と、木々や地を揺るがせるように響く重々しい音。それらは互いに重なり合いながら一種独特なリズムを刻み、日中濃霧に覆われて視界の悪い深山を上へ上へと目掛けてゆっくりと迫り上がってゆく。

未だ遠く幽かでしかないそれらの音をおそらくは里の誰よりも早く聞きつけ、エーネはぴくりとその小さな肩を震わせた。
(母様……?)

すっとその場から立ち上がり、今度は注意深く耳を聳ててみる。するとヒュー、ヒューと頼りなさげに流れる音は確かに里の楽者が奏でる笛の音で、ドォン、ドォンと徐々に湧き上がって響く音は確かに里の楽者の叩く鼓の音だと知れた。
(ついに……母様が帰ってきた…!)

つい今しがたまで全身の注意を傾け煎じていた薬草やそれを収めた土瓶のことなどどこ吹く風と、エーネはこじんまりとした造りの家の外へと思わず駆け出していた。

この刻であれば里長は家にいるか、あるいは里の東南に位置する殿で里衆たちを集め会合を開いているはずだ。会合中の殿に無断で立ち入るのは固く禁じられていたのだけれど、普段から度々悪戯を働いては大人たちから叱責と罰を受け慣れていたエーネのこと、そんなことは露ほども気にならなかった。逸るエーネの足はどんどんと速さを増していく。ぼんやりとけぶる真っ白な視界のことなど無視するかのように。
「エーネっ!」

急に呼び止められたため、エーネは反射的に声の方へと顔を向けた。瞬間、軽やかに運ばれていた両の足がもつれ何かに躓く様にしてつんのめる。危うくそのまま地面に滑り込みそうになるのをすんでのところで踏ん張り堪え、その場に立ち止まった。
「エーネっ!あなたこんなところで何をやっているの?」
「あ、リンネ姉さま…。」

エーネの浮かべるあからさまに厭そうな表情を見つめ、リンネは小さく嘆息した。
「あっ、て……。あなた、仕事はどうしたの?まさかまた何か悪戯を働こうって魂胆じゃないでしょうね?」
「まさか!私ももういい歳なのだから、悪戯がいけないことだって分かってる。それに今の私はそんなに暇じゃないの。」
「仕事を放っておいて何て言い草!このことは里長に報告します。覚悟しておくことね。」

リンネの叱責もあまり耳に入らず、そわそわと身体を揺らし続けるエーネ。その様子を見ていたリンネは、ますます怒りを募らせたように肩を震わせながらエーネを睨みつけた。これはまずい。エーネは慌てて今思い出したといった調子で話題を逸らす。
「そういえば、姉さまも聞こえるでしょ?さっきからずぅっと音が…。」
「…音?もちろん。楽者様の鳴らす笛の音と鼓の音のことでしょう?実は…って、ああそういうこと…。」

事情を察したのかリンネは再び嘆息すると、その場に屈んでエーネのその妖しい輝く瞳を下から覗き込んだ。燃え上がるような紅蓮の光を湛えた両の眼。それはエーネにとって母であるミウネとの思い出を繋ぐ大切な宝物ではあるものの、改めてこうして見つめられると幾分落ち着かない気持ちになる。

十年前エーネがミウネに連れられて初めてこの里にやって来た時のことを、エーネはほとんど覚えていない。何せ物心のつく前の話だ。けれどずっと里の中で暮らしある程度物事の分別がつく年頃になると、里衆がエーネに向ける奇異や侮蔑の視線を否が応でも感じざるを得なくなった。そう、エーネが持つこの紅い瞳。里衆はエーネの視線が自分に向けられることを恐れ、忌避した。血塗られた瞳…呪われた魔性の娘……。一方で今も続くそうした心ない言われ様に、エーネ自身全く傷つかないといえば嘘になるだろう。しかし他方で里長やリンネのように噂を気にせず厳しくも対等に接してくれる大人たちのいることを思えば、そうした悪意に一々目くじら立てること自体馬鹿馬鹿しいとすら感じられてもくるのだった。それに何より、この瞳は、母が……。
「…エーネ?」

リンネの言葉にはっと我に返ったエーネは、しどろもどろになりながらも弁解する。
「ごめんなさい、リンネ姉さま。でも本当に今回ばかりは違うのよ。だって、この笛と鼓の音は母様が帰ってきたことを報せるもので……。」
「やっぱり…。いい?エーネ、あなたは大きな勘違いをしている。この笛と鼓の音はね、あなたの母様が帰ってきたから鳴らされているものじゃないのよ?」

先程までとは打って変わって優しく言い含めるようにリンネは言った。エーネはリンネの態度と言葉に対して、きょとんとした表情を浮かべ小首を傾げる。
「でも、今は祭祀の時期でもないし、里を離れているのは今のところ母様しかいないじゃない。だとしたら、楽者様たちの鳴らす笛や鼓の音は誰かを安全にこの里へ先導するために奏でられるもののはずだわ。そしてそれを頼りに帰って来るのはただ一人、母様だけ。違う?」

エーネはなおも自信たっぷりに自らの推論を披露し、興奮冷めやらぬといった風に顔を紅潮させていた。どんな打消しの言葉も、今のエーネには届かないのではないかとそう思われるくらい。それほどエーネの心は喜びに満たされ浮足立ってしまっているのだった。

もうすぐ母様が帰って来る!もう何年も顔すら見ていない。けれど不思議なくらいはっきりとその優しい面影と温もりを思い起こすことの出来る、大大大好きな母様…。

エーネの母であり高名な薬師でもあるミウネは数年前都からの要請があって今は宮仕えの任についている。それからずっと都に行ったきりで里には一度も戻っていない。そしてエーネが最後にミウネの顔を見たのは、エーネがまだ五歳になったばかりの頃だった。そんなエーネにとって、ミウネが都から戻ってくることは何よりも望むべきことであり、そのことはエーネの姉分であるリンネを含め里衆の全員が知っていることでもある。

今まさに自分の裡で作り上げた幸せの只中にいる、そんなエーネの姿を目の当たりにして、ただリンネは対称的に悲しそうな表情を浮かべながら力なく首を横に振った。
「エーネ…。そうじゃないの。残念なことに…。あなたをこれ以上失望させたくはないのだけれどね、もう一度言うからよく聞いて。これからやって来る人はあなたの母様じゃない。」
「…姉さま。嫌な冗談はやめて?いくら私が普段姉さまを困らせているからってそんな仕返しあんまりだわ。」

リンネの言葉に、エーネはほんの少しだけ声を荒げて抗議する。するとリンネはそのままエーネの頭に右手を添え、それからその艶やかな黒髪を撫でながら言葉を続けた。
「エーネ…。私を信じてくれなくてもいい。でも、あなたが何と否定しようと、これは覆しようのない事実なの。実は…そのことでちょうど里長からあなたを連れてくるように仰せつかっていたのよ。これからあなたの家に赴こうとした矢先に当のあなたが走ってきたものだから吃驚してしまったのだけれど。まあ後のことはあなた自身の耳と眼で直接確かめてみなさい……。」

 

2

 

殿の中には数種類かそこらを混ぜ合わせて焚かれた香草の得も言われぬ匂いが充満し、視界は外と大して変わらず白く濁っていた。エーネ自身殿には数えるほどしか出入りしたことがなかったが、前にリンネから殿は祭祀の際の神楽や卜占を行う場として使われることもあるのだと聞いたことがあった。持前の好奇心を隠そうともしないエーネは少しの間きょろきょろと辺りを見回していたが、リンネに一睨みされたので大人しく目線を前に向ける。すると白く濁った視界が徐々に晴れると同時に、一際目を惹く装飾が施された空間とその場を占める多数の人影がはっきりと露になった。その中心に縮こまるようにして佇む一人の老体。その人物こそ、里の政の一切を取り仕切る里長その人だった。里長はエーネとリンネの顔を交互に見回してから厳かに口を開いた。
「リンネよ。ごくろうじゃったな。そしてエーネ、よく来てくれた。」
「里長!そんな挨拶はいいから、早く教えて!今外で楽者様たちが楽器を奏でているのは、母様が…ミウネ母様が帰ってきたからなんでしょう?」
「エーネっ!里長に向かってそんな口の利き方!」

居ても立ってもいられないといったエーネをリンネは嗜めようとする。しかし里長は特に気にするでもなしに身振りでリンネの言葉を遮った。
「よい。これも幾分可哀そうな身の上じゃ。だがな、エーネ。すでにリンネから聞き及んでいるかもしれぬが、これからやって来るのはお前の母君ではない。いや、これでは迂遠じゃの。はっきり言おう。これからやって来るのは“男”と呼ばれる人…いや、かつては“男”だった者というべきか。」

里長が発した“男”という言葉に反応してか、既に経緯を知り及んでいるはずの里衆も含めその場がにわかにざわめいた。それほど、この里に住む人々にとって“男”とは特別である種の畏れを含んだ存在であるとでもいうかのように。
「“男”…?」

エーネはその言葉の持つ独特な響きや意味合いを噛み締めるように何度も頭の中で反芻した後、やはり納得いかず困惑した調子で反論する。
「この里の外に、そう呼ばれている人たちがいることは当然知っているし、物語や史学の時間でも散々耳にしてきた。でもっ!この里に“男”が足を踏み入れるなんて、それだけは絶対にあり得ない。そんなことこの里に住む者なら誰だって分かってる。だって…。」

だって、この里は古くから男たちが住むことはおろか立ち入ることを禁じる女人の園なのだから。だからエーネは勿論、リンネやこの里から一歩も外へ出たことのないその上の多くの世代にとってさえ“男”とはおとぎ話に出てくる伝説上の生物と大差ない。その“男”がこの里にこれからやって来る…?歳のせいかは知れないが、里長もついに気が違えてしまったのではないか。
「そう思うのも無理はないか…。何せこの里にそのような輩がやって来ることなどここ数十年は終ぞなかったことだからの。しかし、近頃の若い衆ときたらあまりに物事を知らなさすぎる。」

それこそ歳のせいか、一気に長い言葉を発するだけでも一苦労と言った様子で息を整えると、里長は目の前の無垢で無知な少女に対して諭すように言った。
「よくお聞き。これからやって来るのは“男”とは言えどただの“男”ではない。それは俗に“自浄”と呼ばれておる。男性器を切り落とし、子を作る能力を喪った存在。あるいは我らにとっての“穢れ”を禊ぎ、その性を曖昧に揺らがせるに至った存在。それが“自浄”なのじゃ。そして、そのような存在が求むる唯一の道に奉仕することもまた、我らが先達より代々伝えられる重大な責務である。まあ今では忘れられて久しい責務ではあるがな。」
「…責務、ですか?」

里長の言葉に思わず口を挟むリンネ。里長は静かに頷き言葉を続ける。
「うむ、生きながら不老不死の身となり超常の力を用いる人ならざる人。つまりは“仙人”になるべくして道を窮めんとする者らに道を示すことこそ、我らが責務。そしてエーネよ。お前をここに呼んだのは他でもない。先にこの場で執り行った卜占の結果によれば、これから来る求道者に奉仕する人物としてお前ほど適した者はおらぬとのこと。そこで協議の末、この度正式にお前へその役を一任することとした。光栄に思え。」

そこでエーネはついに我慢が出来なくなり、里長に向かって怒声を挙げた。
「いい加減にして!どうして誰も彼も私から母様を遠ざけようとするの!?そんな子供騙しに私が易々丸め込まれるとでも思ってる?冗談やめて!これからやって来るのはそんな得体の知れないやつじゃない、これからやって来るのは母様ってそう決まっているの!」

里長の滔々とした物言いに対する苛立ち、怒り、不安…。そうした言葉にならない感情が白くけぶった霞のように胸中を覆い尽くし、一人の少女の心を盲目にしてしまっているかのようだった。
「エーネよ、お前…。さては“一角様”のところに無断で足を運んだか。」

エーネはあからさまに顔をこわばらせる。里長の見透かしたような一言は見事に真実を言い当てていた。

皆が寝静まった三日前の夜中、エーネは“一角様”と呼ばれるこの深山幽谷の主の許へ出向き、あることについて教えを乞おうとしたのだった。それは母ミウネ帰還の具体的な目途について。何でも“一角様”は神通力と呼ばれる不思議な力を通して未来の出来事について自在に知ることが出来るという。勿論エーネはそれが本来、里の命運を左右する重大事に祭祀を通して振るわれるべき特別な力であると弁えていた。しかしそれでも、ミウネに一刻も早く会いたいとする溢れんばかりの想いは自分でも如何ともし難いものだった。だからエーネはこれまで何度か里の皆には内緒で“一角様”の許へ足を運び、その度に母の帰還がいつになるのか尋ね続けていたのである。そして三日前のその日、ようやく“一角様”はエーネの切実な願いに応えるようにある啓示をエーネに託した…。
「“一角様”は確かにこうおっしゃった。これより数日の後、ある人物がこの深山を抜けて里にやって来ると。その者は約束の験を携える。その片割れはこの里に住まう者の手の中にあるのだとも…。」

するとエーネは首にかけていた装飾具に手をかけてそれを外した。それは精巧で何とも美しい光沢を放つ銀色の首飾りだった。五年前、ミウネが宮仕えのために里を離れる折エーネに手渡したものの中でも、エーネが肌身離さず持ち歩いている大切な“約束の験”。夜空に輝く三日月の形を象ったもので、ちょうど内側の縁に沿って太陽の形を象ったもう一つの飾りが組み合わさるように出来ている。
「母様は、私にこの月の首飾りを渡し代わりに自分の下に太陽の首飾りを残した。つまり、“片割れ”というのはこの月の首飾りのことで、もう一つの“片割れ”を持ってこの里に向かっているのは必然的に…。」

その時、リンネが急にエーネの前に立ってその華奢な肩を両手で掴んだ。その表情は苦痛に耐え忍ぶ時のようにあちこち歪み、先ほどの比ではないくらい深い哀しみに満ち溢れているように見えた。
「エーネっ!あなたはどうしてそこまで…。私との約束を忘れたの…?里の掟を破らない、夜勝手に外出しない、そして皆の助けが届かないほど遠くへは絶対一人で行かない。あなたは、いっつも破ってばかり…。あなた自分の命が大切じゃあないの?あなたにかかっている“呪い”のことまで忘れたとは言わせないわ!」
「リンネよ、今は控えい。そのことについては追って言い聞かせればよい。それよりも…来たか。」

里長の言に合わせて礼の挨拶とともに、一人の屈強な女性が殿の中に姿を現した。
「フュネ姉さま…。」
「おやエーネかい。これまた珍しいところで会ったね。だが悪い。今はかまってあげられないんだ。」

フュネはそう言うとエーネに向けていた視線をすぐさま里長に戻し、手短に報告する。
「里長。件の“自浄”ですが、無事里の入り口まで到着しました。このまま殿の方へ案内しても?」
「うむ。楽者頭としての任、大変ごくろうであったの。この場に御客人を連れてきたらお前さんはゆっくり休め。」

フュネは一礼だけ示し、足早に殿を出てゆこうとする。しかしその直後フュネの右太腿の辺りに何か重たいものがしがみつき、それから下の方でぼそりと呟く声がした。
「…私も連れていって。」

 

すでに里の入り口付近には里衆たちによる人だかりが出来ていた。この時間帯には珍しく早くも霧が払われつつあり、一段高いところを歩くエーネの位置からはその様子がよく見渡せるのだった。さらにその人だかりに取り囲まれるようにして、一仕事終えた楽者たちが己の楽器を携え暢気に談笑している様子が見える。それからそれよりもさらに内側の方へと目を向けてみるも、屈強揃いの楽者たちの姿に隠れよく見定めることが出来なかった。前にいたフュネを追い越し勢いよくその場へと続く坂を駆け下りたエーネは、人だかりをかき分けずんずんとその中心へ進んでいく。上から眺めた限りでは、ミウネの姿を見つけることは出来なかった。しかし比較的背の低いミウネならば、楽者たちの背に隠され見えなかったということも十分にあり得る。何より、エーネには“一角様”の託宣という絶対の味方がついているのだ。この先に佇む人物が母でないはずがないではないか。中心に近づけば近づくほど胸の内が熱く焦がれる。それこそそのままどろどろに溶けてしまうのではと思われるくらい。全身が脈打ち、己の身体が己から離れて行ってしまうかのような…妙な心地だった。それでも足は前へと進み続ける。この時間が永遠にも感じられる。そして、そして…ついに…。

その瞬間、エーネは眼を最大限に見開き硬直せざるを得なかった。

人だかりをかき分け視界が開けたその先に待っていたのは、これまでに見たことのない身体つきをした奇妙な一人の人間の姿。いや、はっきりと人間である…と言い切ってしまってよいものか。というのも、その人物はエーネも思わず目を背けられなくなるほど、何か人間離れした、それこそ化物じみた雰囲気を纏っていたのだから。とはいえ、その姿は別に恐ろしいとか怖いといった感情を芽生えさせるわけではない。そうではなくて、それは何か全体として不安定で歪な…敢えて言い切ってしまえば畸形じみた奇妙さなのだった。
「こらエーネ!勝手に先を行くんじゃないよ。」

幾分遅れてやって来たフュネがエーネに近づきその身勝手な行動を叱りつけると、エーネは大きく見開いたその眼をそのままゆっくりとフュネの方へ向け直した。その瞳には決壊寸前の堤防さながら溢れんばかりの涙が溜まり、今にも頬や地面へめがけて零れ落ちようとしている。
「母様が、いない……。」

エーネの示す悲嘆に事情をよく知らないフュネは頭を掻きつつ戸惑いがちに応える。
「…母様?ミウネ様のことかい?いやあ今回私らが連れてきたのはそこにいるマウリって“男”だけさ。よく知らんが、ミウネ様は今も宮にいるんだろう?」

エーネは愕然として力なくその場に崩れ去った。堰を切ったように次々と嗚咽が生まれては、それをなぞる様にして溜まっていた涙が止めどなく流れ出してゆく。

母様は…本当に、帰っていないんだ…。リンネ姉さまや里長の言葉は、正しかった…。

あらゆる期待や予感は裏切られ、残るは重苦しく息を詰まらせるような深い絶望だけだった。どこまでも深くて暗い底なしの絶望があんぐりと口を開けて、今まさにエーネを飲み込まんとしている。そしてその光景をフュネや周りの衆は、ただ黙って見つめ続けることしか出来ない。

しかし同時にこの時、ただ一人だけ。エーネの許へ歩み寄り声をかけるものがあった。
「大丈夫ですか…?」

この声の響きは、一体なんだ…?

これまで聞いたことのない、妙ちきである種の可笑しみさえある音…。例えばこの世界からそれと似たような音を探し出そうとしても決して見つかることのないのではないかとそう、思われるくらい…。しかし何より不思議なのは、そのような声であるにもかかわらずどこか懐かしい感じすらあって、有体に言えばひどく安心するのだった。

エーネは右手の甲で乱暴に涙を拭うと、未だ赤くしわくちゃな顔でもってその声の主を見た。改めて、まじまじと見れば見るほどに普通の人間とは思われなくなってくる。眼は…一応二つ付いていて髪の毛はなく、全体的に痩せこけて胸は膨らんでいないどころか窪んでしまっていた。顔は一面蒼白で病者のようだが、不調とは無縁だと言わんばかりに大地にしっかと二本の脚を据え背筋を伸ばし綺麗な姿勢を保っている。背はエーネよりも大分高いものの、フュネや屈強な楽者たちに比べれば取るに足らない。寧ろ背に関しては、リンネよりも幾分低いくらいではないか。
「……あの、何か?」

“男”は躊躇いがちに声を発した。エーネは再びその音を耳にして、それの持つ独特な響きに眩暈のようなものを覚える。老人のようにしわがれた声、けれどどこか芯が通って若々しく色気すらあるような声。老人なのか成人なのか、病者なのか健者なのか、人間なのかそうじゃないのか、全く分からない。けれどそのちぐはぐな雰囲気の全体がエーネを優しく包み込んでくれているかのようにも思えて…。それはまるで霧深い山間を抜けて差し込む陽光のようにエーネを明るく照らすのだ。たった今までエーネを襲っていた絶望は今や、突然他愛のないちぐはぐさからやって来る可笑しみにすっかり口を塞がれ息も絶え絶えとしている。そうして、遂に。エーネは心の淵に積み重なったあらゆる負の感情を全て洗い流すかのように、吹き出し声を挙げて笑った。ただひたすら笑い続けた。何がそんなに可笑しいのか、やはり本当のところはよく分からなかったけれど。
「…なんだなんだ。突然泣き喚いたかと思えば今度は笑ってやがる。まったく、忙しいやつだね。」

フュネは半ば呆れ半ば安堵したように笑い続けるエーネに手を貸し立ち上がらせる。それからやはり事情をよく呑み込めず目を白黒させている“男”に付いてくるよう促すのだった。

 

こうして、エーネはマウリと呼ばれる男との不思議な出会いを果たしたのである。

 

3

 

殿にて里長から改めてマウリの世話役を引き受けるように命じられたエーネは、渋々ながら了承せざるを得なかった。エーネは未だマウリに心を許したわけではない。それを証拠に里長がマウリに一切を説明している間、エーネは警戒心を露にしながらずっとフュネの後ろに隠れてその様子を窺っていた。元々エーネは里の外から出たこともなければ、里衆以外の、それも“男”と呼ばれる人間にこれまで一度たりとも出会ったことがなかったのだから、考えてみればそれも無理からぬこと。見知らぬ者という存在自体を見知らぬ少女にとって、それは未だ不安や恐怖と隣り合わせの未知なる体験でしかなかった。しかし、だからといって里長の命を拒むことは出来ない。何しろエーネは無断で“一角様”に接触したばかりか、託宣まで授かってしまったのだから。もし拒めばどんな罰がエーネを待っているのか…エーネはそれを考えただけで全身に鳥肌を立たせて身震いするのだった。

エーネがマウリを連れて家に戻る道すがら、そこでもエーネはなるべくマウリと距離をとって木々が鬱蒼と生い茂る山道を歩いていた。普段であればまっすぐ家へと戻るところだが、折より依頼されていた薬の材料が足りていないことを思い出したのである。エーネはこっそりと後ろを歩くマウリへ目線を向けた。マウリもまた先からエーネの後をつかず離れずただ黙って付いていくことだけに徹しているようだった。あんなにひょろくて弱そうな身体つきなのに、先まで山を登り続けてきた者のそれとは到底思えないしっかりとした足取り。しかもよくよく見てみれば息を切らしている様子すらない。“男”というのは皆そんなものなのか、それとも彼だけが特別なのか…これもまた経験の足りないエーネには知る術のないことだった。

するとその時突然、マウリはその場に立ち止まったかと思えば、驚いたような表情を浮かべ屈み込んだ。遠目には何かに触れようとしているように見える。エーネは嫌な予感がして思わず叫んだ。
「待って!駄目!!」

伸ばしかけた右手を反射的に引っ込めるマウリ。エーネはマウリの許へ向かい、マウリが覗き込んでいた地面の辺りを眺めてやる。案の定そこにあったのは手を出してはならない毒草の類だった。
「よかった…。ちょっと!勝手に触っちゃ危ないじゃない!それはフネンリョといって人間の心に自生することが出来る観念植物の一種なの。青い光沢を帯びていて一見とても綺麗に見えるけど触れたが最後、種がその触れた者の心に根付き際限なく自生し始めてね、あらゆる心的能力を奪ってしまうわけ。いわゆる腑抜けってやつになっちゃう。」

エーネの淀みない説明に感嘆すると、マウリは慌てて申し訳なさそうに頭を下げた。
「申し訳ない。てっきり都の方では珍しいとされる薬草とばかり…。」
「やっぱりねぇ。いい?絶対に見た目だけで安易に判断しないこと。この山で暮らしていくならこのことは特に肝に銘じておかなくちゃ。そうじゃないと命がいくつあっても足りやしない。」

その後もエーネは段々と得意になってきて、マウリに見識を垂れ続けるのだった。まるでマウリに対して抱いていた警戒心などとうに忘れてしまったかのように。
「それでね、本草分類指南によれば…ってどうしたの?」
「いえ、しかしエーネ様は植物について随分とお詳しいようだ。その年頃でこれは大したものだと思いまして。」

マウリの言葉にエーネは頬を少しばかり紅色に染めるも胸を張って応える。
「当然でしょう?だって母様が教えてくれたんですもの。」
「……お母上様、ですか?」

マウリは一瞬言葉に詰まったように見えた。エーネは怪訝な顔をするも頷き言葉を続ける。
「ええ。ミウネ母様。あなたも都にいたのであれば聞いたことくらいあるでしょう?なにせ母様は今上の天子様に直接見出され宮仕えを許された超優秀な薬師なんだから!」

母の話となるとエーネは誰に対してもこの調子だった。とにかく生き生きとした表情でそれは嬉しそうに語るのである。しかしマウリは首を横に振るばかりだった。
「私は宮には縁遠い一介の市井の民に過ぎませぬ故…存じ上げませんで。」
「そう…。ああ、そう言えばあなた、もしかして都の本草学に造旨がある人?ほら、さっきフネンリョに触れようとしてた時、都では珍しい薬草がどうのって言っていたでしょう?」
「いえ…確かに都では…師の下で本草学を学んだこともありました。とはいえ、諸学の一としてごく初歩的な知識を教わっただけなので…。」

その言葉を聞いたエーネは思わず嘆息する。そんなあやふやな知識で、しかも初めて入る山の植物をよくもそう易々と触れようと思ったものだ。
「とにかく!あなたは危なっかしいところがあるみたいだから、最初のうちは決して一人で外に出ようとしないことね。それで何かあったら怒られるのは私なんだから。」
エーネは人差し指をピンと立ててマウリに言った。自分で言っておいてなんだが、エーネ自身リンネ辺りに日ごろから口をすっぱくして言われていることを他人に言い聞かせることになろうとは、少々気恥ずかしくもある。
「…私はてっきり貴方に歓迎されていないのではないかと思っておりました。」

マウリの言葉にエーネは立ち止まり、後ろを振り向きざまこう返した。
「歓迎なんてしていない。ただ、一度請け負った以上あなたの世話をするのは当然の責務ってだけ。」

やはり未だエーネは心のどこかでマウリのことを完全には信用していないのだった。エーネはそのまま顔を前方に戻すと、ゆっくりと右手を挙げてある一点を指さした。
「あすこが私の家よ。まあ短い付き合いにはなるだろうけれど、それまでどうぞよろしくね、マウリ。」

 

それからしばらくの間、マウリはエーネに付いて深山で生きてゆく上での基礎的な知識を学ぶことに時間を費やした。例えば深山における天候予測、地理と道の把握、山で迷わないための工夫、迷った時の工夫、生息する動物や虫類で気を付けるべきこと、食べられるものと食べられないもの、その他の深山特有と思われる自然現象、超自然現象について、そして特に植物や菌糸類の適切な見分け方や採集手順から分類指南の基本まで、到底全部は語り尽くせないほどである。しかしエーネにとって何よりも驚くべきはマウリの持つ知識に対する吸収の速度、そして物事への理解力の高さだった。エーネが一を教えれば、マウリはたちまちそこから十のことを理解する。エーネが生まれてから十年間かけて積み上げてきた知や経験を、大袈裟でなくマウリは数週間ほどの速さで見る見るうちに体得してしまうのだった。
「エーネ様、この書物に書かれた『分けるとは観ることなり。』とは何を意味しているのですか?」
「それは、分けるという行いは何を為しているのかということを説いているのよ。分類とはある人の観ることによって初めて生まれる。人間から見て、蛇と蜥蜴は似ているから同じ枠組みで語ってしまおうというふうに。あるいは人間にとってこれは薬でこれは毒で…というのも観ることによって分けているでしょう?けれど、それは飽くまで人間から見た観点で、その他の観点というのは実のところ無数にあるの。さっき例に挙げた蛇で言えば、蛇から見たものの分け方というのも人間には覗い知れないだけで当然あるはず。私が思うにこの書で本当に説かれているのは、今の分け方が自明であるという信念を捨てて、自由になれと言うことではないかと思うの。そうすればどこまでもものの見方を自由に変えてもっと高みを目指すことが出来るんじゃないかって。」
「…なるほど。それは素晴らしい考え方だ。だとすればこうも言えるのでは?すなわち『分けるとは生むことなり。』と。エーネ様は薬師としてまさに従来の分け方に捉われない新たな分け方を生み出すことで、人々の生活に貢献するよりよい方途を探ろうとしている。まさにエーネ様の信ずる“道”そのものではありませんか。」

マウリの解釈を聞いた途端にエーネは照れたように顔を綻ばせた。そうか、そういう見方も出来るのかもしれないな、などとそう思いながら。マウリの声を聞いていると何故か温かな春風が吹き抜けるようにエーネの心によく沁み渡っていくような心地さえ覚える。まるで…そう、母様と話しているみたいな感覚。何故この間までこれっぽっちも知らなかったこの“男”のことを、そのように思えてしまうのだろう。そのようにして日に日にマウリと話せば話すほど、エーネの心に残っていた疑念が徐々に溶けていってしまうのだった。だがそれでも、何かとても小さな棘が心のどこかに残っていて…やはり完全にはマウリのことを信じ切ることの出来ない自分もいる。それが一体何故なのかは分からないのだが…。きっと思い過ごしであると、そう思いたい。今はただ目の前にある安らぎを、信じていたいから。

 

その日、エーネとマウリはいつものように早朝からの採集作業を済ませ帰宅の途に着いていた。家に帰ったら早速薬を里へ届けなければならず、猫の手も借りたいほどの忙しさだった。
「そうだ。マウリ、悪いけれど先に戻っていて?」
「それは構いませんが、何かあったのですか?」
「ちょっと、ね…。それほど時間はかからないと思うから、あなたは先に戻って準備の作業の方をお願い。」
「一人で大丈夫なのですか?」
「大丈夫、それよりも準備の方にかかる時間が心配なの。少しでも誰かが進めていてくれていた方が正直ありがたいもの。」
「分かりました…。どうかお気をつけて。」

エーネは足早に進んでいた道とは逆向きに駆けていった。後ろ手には未だ心配そうに見つめるマウリの姿。さてはリンネ辺りから何か余計な事を吹き込まれたか。けれど心配御無用、この山に来て僅か数か月たらずの人間にそのようにされる謂われはない。目的の植物もそれほど遠くにあるわけではないし、ここ最近は身体の不調もなくいたって健康そのものだった。エーネは辺り一面霞がかり視界の悪いにもかかわらず、さらに速度をあげて山道を突っ切っていく。そしてあっという間に目的の場所まで辿り着き、その植物を摘み取ろうとした、その矢先。

がくんと身体の力が抜ける。そして、心の奥底から突如燃え滾る黒々としたヘドロのようなものが這い出してきて全身をものすごい勢いで駆け巡っていった。身体中が千切れてしまったかのように悲鳴を挙げる。エーネは苦しそうに呻き、その場に完全に倒れ込むと息を荒げ天を仰いだ。視界は相も変わらず白く濁っている。何も見透かすことの出来ない孤独の色…。やがてその濁りでさえ徐々に遠のき、辺りは完全に闇に包まれていくのだった……。

 

目を覚ますと、段々と見慣れた天井がそこに現れそこがエーネの家であると気がつくのにそう時間はかからなかった。どれくらい眠っていたのだろう。エーネは身体を起こし、今が夜間であることを察した。
「まだ起き上がってはいけません。」

声がする方に顔を向ける。そこにはここ数ヶ月で随分と見慣れた顔があった。
「マウリ…。私は一体……?」
「あと少し発見が遅れれば大事になるところでした。“呪い”だそうですね。」
「リンネ姉さまから聞いたの…?」

マウリは何も言わない。沈黙を置いてエーネは再び呟くように言った。
「そう言えば…薬の納品は?今日は何日?」
「…貴方が倒れてから日を跨いではいませんよ。納品についても御心配なさらずに。リンネ様やフュネ様に手伝っていただき先ほど無事終わりました。」
「身体が随分と軽い…。“呪い”でうなされる時は決まって数日以上寝込んでいたのに…。あなた、何かしたの…?」

エーネは心底驚いた様子でマウリを見つめる。
「大したことは何も。ただ今回は貴方の教えに助けられました。」

そう言うが早いか、マウリは青白く光る粉を瓶に入れて振って見せた。
「それって…もしかして、フネンリョを挽いたもの?」
「有体に言えば。初めてあったあの日、この植物を触ろうとして貴方に咎められてからというもの、そして貴方に分けることとは何たるかという“道”を教わってからというもの、ずっと考えていたのです。『分けることは観ること』、そして生むこと。このフネンリョという植物は心的機能を不能にさせる。しかしものの見方を変えて見てみれば、不能にさせることが即座に毒となるとは限りません。この側面を如何に弱め“呪い”に関わる特定の心的機能に作用するよう限定するか…その方途さえ割り出せれば毒は薬となり、効能となる。」
「それはおかしいでしょう。幾らあなただって、そんなに早く答えを導き出せるはずが…。」

エーネの疑問は至極全うなものだ。一体どうやってこの短期間でマウリは迷わず正しい“道”を探し出すことが出来たというのか。
「実のところ、新しい何かを生み出すためにはもう一つ肝要な要素があるように思います。それは…掛け合わせること。この点に関しては貴方のお母上であるミウネ様に感謝しなければなりません。」

もう一つ、マウリが反対の手に持っていたのは薄汚れた巻物だった。
「これは…随分前にエーネ様の家の裏に備え付けられた納屋から偶然見つけ出したものです。恐らくミウネ様が都へ出立なさる前から書き連らねていたものでしょう。初め見た時は何の事が書かれているかてんで検討がつかなかったが、貴方の症状を目の当たりにして確信しました。これはエーネ様、貴方の“呪い”を完全に解くための方途を探し出すために書かれたものだった。そして私はここに記されている成果にほんの少し己の解釈を混ぜ合わせることで、この薬を作り上げることが出来たのです。」

エーネは目にうっすらと涙を浮かべて力なくはにかむ。まさか母様がそんなものを残してくれていたなんて…。全然…知らなかった。自分の“呪い”のことだから、昔ミウネが教えてくれた方法通りに薬を作り備えてはいたが、それだって所詮は対症療法にしかならず根本的な解決が期待出来るわけではなかった。そう、“解決は出来ない”ものだと勝手に決めつけて何もしてこなかった自分…。ものの見方を変えるなどと偉そうなことを言っておいてエーネは自ら作った枠組みの中に閉じこもっていただけだった。そんな中エーネすらも半ば諦めていたことに対して、ミウネはずっと諦めず立ち向かい続けていたのだ…。そして、それはマウリも同じ…。
「残念ながら…この薬にしても完全に“呪い”を解くには至らないと思います。だが先のエーネ様の驚きから察するに効能の程度は大幅に改善されているはず。これも全て貴方の“道”が示し成した貴方とミウネ様の正しさの結晶だ。それに比べれば私がしたことなど無きに等しい。」

マウリはそこで言葉を終えると、初めて歯を見せ心底安心したように笑うのだった。再びしばしの沈黙の後、エーネは目を瞑り静かに尋ねた。
「マウリは、私の“呪い”についてどこまで知っているの?」
「多くは知りません、ただ幼い頃から見られる原因不明の病だとしか。」
「…昔、母様がこの里を去った後に私は偶然里長と里衆たちの会話を聞いてしまったの。私が“呪い”に苦しめられる原因を作ったのは他ならない母様自身だったって…。私たちが住む深山は本当に摩訶不思議な場所で、特に山の外と内を繋ぐ通路は適切な手順を踏んで通らなければ様々な悪影響を及ぼすとされている。例えば全く別の空間や時代に飛ばされたり、身体の組成が全て組み代わってしまったりね。何でも母様が私を外の世界へ迎えに行く折、山への出入りの手順を逆にしてしまったことが後に明らかになったそうよ。そして私の“呪い”は恐らくその影響によるものだろうって皆話していた…。」
「…外の世界へ、貴方を迎えに?」

エーネはこくりと頷いて言葉を続ける。
「そう、だから私は母様の本当の娘ではないの。大体この里に住まう女人たちにしたって、皆が皆外の世界で幼い頃に拾われたり預けられたりした血のつながらない集団なのだから、何の不思議もないでしょう。別に生殖行為や“男”との関係自体が禁止されているわけではないけれど、少なくともこの里にはそれらを持ち込むことは許されない。」
「エーネ様…貴方は…。」
「勘違いしないでね。それはこの里では普通のことであって、血のつながりがある方が異常なのだから。血は不浄であり、忌むべきもの。私の瞳の色もまたその印象を思い起こさせるからこそ忌み嫌われる…。そんなことは分かっているの。でも母様は…母様だけは私の瞳の色を愛してくれた。綺麗ねっていつだって褒めてくれた。例え私の“呪い”の原因が母様の行動にあったのだとしても、関係ない…。だから私にとっては、ミウネ母様ただ一人だけで十分なの。他には誰もいらないって…今まで…そう思っていた。」

エーネはマウリの方に顔をしっかり向けて、そして言った。
「あなたの声を初めて聞いた時。その見た目以上に驚いてしまって…。だって、母様の声以外であんなに胸が温かくなって安心することがあるんだなんて、ついぞ知らなかったんだもの。だから、だからね?もしかしたらもし私に“父様”って人がいたらこんな感じなのかなって思ったりもしたの…。あなたは、私にとって……。」

それからも続くエーネの語りに耳を傾けていたマウリは右手で顔を抑え俯いたままずっと黙りこくったままだった。ただほんの一瞬、マウリがぼそりと何かを呟いたような気がした。エーネにはそれが、誰かに向けた懺悔と謝罪の言葉のように聞こえた。

 

4

 

翌朝、エーネは大分体調を取り戻し比較的自由に身体を動かすことが出来るまでに快復していた。とはいえ未だ安静のため、この日はここ数ヶ月で作業にも随分と慣れてきたマウリが一人で採集に向かうことになった。家を出る支度をしていたマウリをエーネは呼び止め言葉をかける。
「私は、あなたに到底返すことの出来ない恩義が出来てしまった。これでは私の気が済まないの。良ければ何かお礼をさせて欲しい。」

エーネの申し出にしばし逡巡するマウリ。やがてマウリは意を決したように顔を上げると徐にエーネに対してこう提案した。
「一つ…教えて欲しいことがあるのです。」
「何?」
「私がこの深山に入ろうとする以前に、偶然耳にした話なのですが…。何でも、この山には“一角様”と呼ばれる神様がお住まいで、その額に生えた角にはどんな絶望的な病もたちどころに治癒させてしまう力を持っているのだとか…。御承知のように私は仙人となるべくこの山にやって来ました。故に、もしその噂が真であるなら仙道を窮めるためにも…どうしてもその角の一部を分け与えていただきたいものと常々考えておりました。」

マウリの願いを聞いてエーネは沈考する。というのも、“一角様”の角は里にとって最も神聖な信仰の象徴だったからだ。その象徴をいくら一部とはいえ外の人間に無断で手渡してしまってよいものかどうか…。いや、考えるまでもなく普通は絶対に犯してはならない禁忌の部類ではあるのだろう。しかし…。エーネはそこで静かに顔を挙げて、マウリに向かって頷いた。
「…いいわ。“一角様”には会わせてあげる。ただし、その後はあなたが直接交渉してみなさい。つまり角が手に入るかどうかはあなた次第ってことね。」
「本当によろしいのですか…!」
マウリは本当に嬉々として言った。その子どもっぽくもある心底からの喜びようを見ていると、エーネまで何だか無性に嬉しくなってくる。まるで心の草原にじんわりと心地の良い風が吹き抜け、昨日までそこにあった焦土は悪い夢幻であったのではないかと思えるほどに。ほんの少しではあるけれど、こんなことでマウリに恩返しが出来るのであれば安いものだ。この時のエーネは本当に純粋に、そう思っていた。

 

決行の日、その夜は比較的気候も穏やかで空には一面まるで砂金を万遍なく撒いたかのように煌々とした星々が瞬いていた。決行の時間を夜間としたのは、エーネの経験上“一角様”と接触しやすいということとやはり秘密裡に行動するには夜の方が好都合であるためだった。幸い礼儀正しく真面目なマウリは里長や里衆からの信頼も厚く、そのおかげでエーネの行動に対する監視の目もここ最近は緩やかになりつつあった。
「エーネ様、お尋ねしても?」
「ええ、どうぞ。」
「貴方の“呪い”を解くために“一角様”の角を使おうとは思わなかったのですか?」
「当然の疑問だけれど、残念ながらそれは出来ないの。私たち深山に長く住む命は、この深山とそれを統べる“一角様”に深く同化してしまっていて、貴方の言うところの角の効果は無に等しい。例えば、ある個体が持つ要素は他の個体に対する薬にはなるけれど、その個体自身に対する薬にはなり得ないのと同じこと。それは裏を返せばあなたのような外部の人間や世界には甚大な影響を及ぼす可能性があると言うことでもある。だからその影響を最小限に抑えるため、角をこの深山の外へは絶対に持ち出してはならないと昔から言い伝えられてきたの。」

夜中の山道を灯り一つで迷うことなく進むエーネを前に、マウリは合点がいったように言葉を紡いだ。
「なるほど、故に貴方は私自身に交渉の一切を任じたのですね?貴方の言葉から推察するに、角の影響は必ずしも良い方向ばかりのものとは限らない…。だからこそ、これは私の覚悟のほどを見極める試練となる。」
「理解が早くて助かる…と言いたいけれど。確かにその角を首尾よく手に入れたとしてそれがあなたの望む効果をもたらしてくれるかは分からない。でも、問題はそれよりも前の段階にあるの。そもそもあなたは“一角様”の何たるかを未だ理解していない。もしあなたが少しでも…心に疚しいようなところがあれば“一角様”は…マウリ?」

背後に蟠るどことない違和感。エーネはすぐさま後ろを振り向くがそこにマウリの姿はない。代わりにその場所には細い山道に埋もれるようにして何か光るものが落ちていた。エーネはゆっくりと近づきそれを拾い上げる。
「…これって、まさか…。」

それはエーネにとって見覚えのあり過ぎる代物で…見間違えるはずもない。五年前に母からもらった三日月の首飾りの片割れ。そう、それは母ミウネが肌身離さず持っているはずの太陽の首飾りだった。エーネがそれを認めた瞬間、辺りは眩い光に包まれる。思わず目を塞ぐエーネ。そして次にエーネが目を開けた時には、辺りはすっかり見知らぬ世界に様変わりしているのだった。ここは…察するに都の宮中だろうか?前に巻物に記された絵図を見たことがある。けれどいきなり何故こんなところに…?エーネが訝しんでいると、エーネが立つ回廊の奥から誰かの姿が現れる。その姿は段々とエーネに近づき…やがてエーネは驚愕のあまり手に持っていた首飾りを床へ落してしまう。
(…嘘…何で…?)

その姿を見た瞬間居ても立ってもいられずエーネは駆け出していた。この日を何度夢に見てきたことか…。ついに、ついに会えるのだ…。
「母様!」

エーネはミウネに近づき、勢いそのまま抱き着こうとする。だが…それは叶わなかった。エーネの身体はミウネをすり抜け、無残にも床に滑り転んでしまう。それでも身体を起き上がらせてエーネは叫び続けた。母様…私はここにいます。どうか気づいて…!

しかしエーネの叫びが届くことはない。ミウネはエーネを置いて無限に長い回廊を過ぎ去ろうとしている。しかしその時ミウネの足が不意に止まり、ミウネはエーネの方を振り返った。届いた…!エーネがそう思った矢先、エーネの後ろから石の床をうつこぎみの良い靴音が聞こえ「ミウネ!」と叫ぶ太い声が回廊全体にこだまする。ああ、聞いたことがないはずなのに…何故かその声の持ち主が誰かエーネには分かってしまうのだ。エーネは認めたくない一心で後ろを振り返らなかった。だが、エーネを通り越してミウネの許へやって来たその背は…。エーネが知っている弱っちそうな痩せ細った姿とは似ても似つかない剛健な身体つき、にもかかわらずそれがマウリその人であると…エーネは知っていた。仲睦まじそうに話を交わす二人を前に、エーネは全てを理解する。

そうか、マウリは…全てを知っていてこの山にやって来たんだ……。

 

それからエーネはこれまでに味わったどの出来事よりも苦痛に満ちた体験をせねばならなかった。決して目を背けさせてはくれない、エーネにとって辛すぎる現実の数々。それは宮仕えの薬師ミウネと高級官僚マウリの幸せに満ちた日々から始まり、徐々に転落へと向かう過程を克明になぞってゆく。ミウネが天子の寵愛を受け半ば無理矢理後宮へ取り入れられそうになったこと、それをよく思わない周りの宮女や官吏たちがミウネとマウリの“密通”を密告したこと、それによって天子の怒りをかった二人は迫害を受けなければならなくなったこと、そして…エーネにとって最も受け入れ難いであろう、苦痛の末自ら調合した毒を仰ぐしかなくなったミウネの最期…。場面は次から次へと途切れることなく切り替わり、憔悴し切りのエーネを決して待ってくれることはない。やがて罪への贖いとして去勢を施されたマウリは、ミウネの死の直前彼女との間に儲けられた一つの命とミウネの形見である太陽の首飾りを抱えて都を後にする。その小さな命は蜃気楼の如く儚く明滅し、今にも消え行ってしまいそうなほど…。そうして、マウリは一つの決意を胸に秘め深山へとやって来たのだ。絶対にこの小さな命を守り抜こう…。例え己の命に代えてでも……。

 

気がつけばそこは元の山中だった。エーネは膝をつきただ放心するばかりだった。どこからともなく老婆の歯ぎしりのような奇妙な音が聞こえてくる。エーネが顔を上げ虚ろな瞳でゆっくりと前方を見やると、そこには体調一尺半ほどの小人が立っていた。額から立派な七色に輝く角を生やした奇妙な生物。その生物は絶望するエーネを後目になおも愉快そうにキロキロと音を立てている。
「……許さない…絶対に!」

エーネの瞳は怒りに紅く染め上がっていた。抑えることが出来ない衝動を言葉に乗せてエーネは吼える。「あの男がいなければっ!母様がああして死ぬことはなかった!!」
「あの男と出会わなければ…!きっと母様は…母様はぁああ!」

怒りに任せ我を忘れつつあったエーネはマウリに対して復讐しようと固く心に誓う。絶対にこの手で…。でなければ、母様はきっと…。

だがその時、目の前が突然青白い光に包まれエーネの眼を塞いだかと思えば、その光の繭から一人の赤子が生まれ落ちる。それは先にマウリが抱いていた“小さな命”だった。その赤子を最初は敵意を持って観ていたエーネも、次第に心に小さな動揺が芽生えそれは徐々に大きくなっていった。もしマウリに復讐してしまったら…この子はどうなるのだろう?例えこの子が助かったとしても、この子がこれから歩む人生には愛してくれる母も父もいなくなってしまうのではないか…。そう思った時にはすでに、先まで抱いていた怒りや憎しみは行き場を失ったかのように心の壁に当たって行き詰ってしまう。当然エーネの中にはマウリに対する怒りや憎しみが残り続けるだろう。しかしそれでも曲りなりに愛し合っていたように見えたエーネとマウリのあいだに生まれた子どもには何の罪もない。この時確かにエーネの心は復讐と赦しの狭間で揺れ動き、不思議な均衡を保ちつつあった。エーネは体液塗れの顔を拭うと、目の前の赤子、つまりは“一角様”に向かって力いっぱい叫んだ。
「私は、やっぱりあの男のことがどうしても許せない…。でも、でもね…。それはきっと私の我儘に過ぎなくて、私の怒りや憎しみが何かを奪ったりもしかすると新たな憎しみを生むかもしれないって思ったら私は……。だから、お願い…。あの男を、マウリを…角と一緒にあの子のところへ返してあげて!」

エーネの言葉に“一角様”は一層愉快で愉快で仕方がないという風に音を荒げる。すると突然ふっと、その姿は不気味に響く奇妙な音とともに夜の山中へと溶けていった。

 

5

 

深山の中を三日三晩歩き続けたマウリは、目の前に眩いばかりの光が差しているのを認め足を速めた。光の穴を抜けるとそこは山の出口で、その出口の傍には小さな祠が供えてある。マウリが祠を覗くとそこにはそれは見事な一本の角と、月と太陽が組み合わさった精巧な首飾りが置かれてあるのだった。マウリはそれらを手に握りしめ、しばらくはただ咽び泣くことしか出来なかったということである。

 

文字数:19995

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