彼女は決して名乗らない

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梗 概

彼女は決して名乗らない

神話にあるように、かつて人は親と子から始まった。

ふたりは力を合わせて作物をつくり、農耕地を広げていった。人手が足りなくなると、森の動物が雄雌の番で生活している様子を真似て仲間をつくりだした。親は子を、子は親を模して身体をつくり、神から授かった息吹を分け与え、娘とその母とした。それ以後、親は神に頼らずに子を成すようになる。娘と母は、後からつくられた人を意味する〝織為(後に女、女性)〟として括られた。神話を受け、女性を道具として扱う文化と、人が人を為すための宝として扱う文化とに世は分かれ、工業を扱い始めた現代においてもその影響が色濃く残っていた。

佐久は、瓢箪型をした島国の半ばに暮らす人である。家は島の中心付近、瓢箪のくびれ部分にある。女性を人と異なるものと見なす南半島から、平等を謳う北半島へと移住が進み、人口の比率に偏りが生じている。仕事は教師で、北半島側の自宅から南半島側の小学校へ語学を教えに通っている。佐久自身は、母の昔語りに影響を受け、神話を疎み平等を願う立場にあった。

小学校では、八つまでの子等が過ごす。九つからは子と娘とを区別するが、小学校までは同列に扱われ、着物や履物も揃いのものを身に着ける。反物を元にした一枚布と帯からなる着物は被り物まで皆白い。髪も同じに切り揃えるため、整列すると誰が誰だか見分けがつかないこともある。

佐久の教え子に卒業を控えた宗司、そしてイリという娘がいる。宗司はイリに比べて大人しい。二人で遊ぶというと、宗司がイリに付いていって真似をするということが多い。宗司以外にもイリを慕う子は多い。何度か転校を経験し物知りであること、また赤味のある頬と唇が溌剌とした印象を与えるからであった。

卒業の日、娘等は列を為して舞い、その後に卒業の書を受ける。先頭を任されたのはイリであった。しかし、足を挫いてしまい、踊ることができなくなってしまう。ここで踊らなければ、娘等が式を台無しにしたと悪評が広まってしまう。イリは、挫いた足のことを誰にも言えず、囁かれるだろう周囲の声に怯え、足を犠牲にしてでも踊り切る覚悟を固めていた。ただ一人イリの不審な様子に気付いた宗司は、事情を知るとそっとイリの手を握り、任せてほしいと申し出る。

 大歓声に包まれた校庭では、娘等が踊りの終りに深々と礼をしている。揃いの衣装で列を乱さず、麗しく踊り切った娘等への労いの声が響く。娘等は、息を切らしながらも紅潮させた頬を緩ませる。娘等に混じった宗司は、誰にも見られないように頬と口元に触れ、口紅が落ちていないことを確かめる。

式が終わり、佐久は校門で子等を見送る。大きな声で帰りの挨拶を交わし、明るく帰途に就くイリの姿に僅かな違和感を覚える。子等の姿が消えるまで見守ってから校舎の方を振り返ると、紅く輝く夕日と顔を合わせ、気付いた。そうだ、この煌めきだ。彼女の口元は仄かに紅く染まっていたのだった。

文字数:1200

内容に関するアピール

強さとは、正しさとは。そう問われたとき、定義できるような回答を出すことはできませんでした。その代わり、「ヒーロー」という存在をヒントに、一時的であり、相対的であり、限りなく個人的である性質に着目しました。逆境において、大切な人のために自身を奮い立たせて立つ姿を「ヒーロー」像と捉えました。

性差を設定の背景に据えたのは、「正義のヒーロー」は浮かんでも、「正義のヒロイン」はぱっと浮かばない自己への問題提起からです。

「ヒーロー」に変身はつきもの。ここ数年、様々なメイク動画を目にしますが、特にドラァグクイーンとして活躍する方々の動画には見入るものがあります。自分自身にメイクという魔法を施して「変心」し、マイノリティに属する個人が社会の常識というある種の「巨大な敵」に立ち向かい、堂々と戦い続ける構図に、強さと恰好良さを感じるのは確かです。

文字数:368

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I meet boy or girl or …

 

明日は卒業式だ。晴れた日の午後。昼食後の穏やかな時間。午前まで曇りがかっていた空から、ゆっくりと日が差す。春風に乗ってカーテンが揺れる。こんなに穏やかな時間が、今日で終わりだなんて。もうすぐ卒業して大人になるのに、こんな気持ちでやっていけるのだろうか。そもそも大人になる必要があるのか。眠気に支配された頭でぼんやり考えながら、頬杖をつき、耳を澄まして目を閉じる。トイが教科書を読み上げている。

「長い夜が明ける。大地を覆う瓦礫の中で、ひとりともうひとりが目を覚ます。ふたりは目覚めの喜びを分かち合い、水を求めて歩きまわり、光を求めて糸を紡ぐ。木々と草花の力を借りて、ふたりは田と畑を作り始めた。水はふたりの身体を癒し、穀物はふたりの身体を温めた。そうして田畑を広げていったが、今度はふたりでは手が足りない。森の動物立ちに習い、ふたりは番をつくった。身体をつくり、神から授かった息吹を分け与えた。四人は互いに支え合い、豊かに暮らした。穀物を糧にして、それぞれが丈夫な身体をつくり、神の息吹をさらに分け与えていく。そうして彼らはひとつの種となった。」

「はい。結構」

教室の真ん中にいる先生がパタンと教科書を閉じる、と同時にヨランの頭に教科書の角をぶつける。コンコン、と二回。先生は浅い溜息をついて教卓へ戻る。

「これが現存するなかで最も古い歴史の描写だ。覚えているかな、わたしの最初の授業でもこの文章がはじまりだった。物事のはじまりは、とても簡素で明快だ。しかし、時が経つにつれ、物事はどんどん複雑になっていく。ヨーカードの戦いを覚えているかい、ササヤ同盟は何度もテストに出したね。キチロ条約があるからこそ、今のこの教育がある。わたしが教えた様々な歴史も、元を辿ればただひとつの〝誕生〟から始まる。はじまりの人はきっと素っ裸だったに違いない。今のきみたちのように、美しい制服を着ているわけではない。しかし今、きみたちは、白い制服に身を包み、わたしの言葉を聞いている。きみたちの人生も同じものだ。はじまりはなにもない。けれどこれから、様々な経験をするだろう。今までの、与えられ、守られるだけの暮らしではなくなる。自ら選択し、生み出すことを、何度も何度も繰り返していくだろう。後悔することもあるだろう、投げ出したくなることもあるだろう。けれど、思い出してほしい。今日まで、きみたちは只々与えられてきた。その不自由を思い出してほしい。選択することを躊躇わず、勝ち取ることを恐れない、そんな大人になってほしい。この学校生活の間に、みんな少なからず選択をしている。それが正解なのか失敗なのか、きっと知ることはできない。だからこそ、楽しむと良い。どんな困難も、喜びも、君たち自身が選び取るものだ。他のだれのものでもない。それが、自分を大切にする、ということだ。楽しみなさい。みんな、元気で」

先生は、ひとりひとりに目配せをするようにゆっくりと教室を見渡した。一瞬目線が落ちるのは、ヨランの方に目を向けたからだ。あいつはまだ寝ている。

「まあ、帰り際にだれかヨランを起こしてやりなさいね」

先生はそう言って教室を出ていった。

 

まわりのみんなも帰り支度を始める。周囲が騒がしくなって、ヨランもやっと起き出した。

「もー、最後まで寝てるなんて」

「挨拶に行っておいでよ」

「連れてくから」

「職員室。まだ間に合う」

「最後なんだから」

「一生会わないかもしれないのに」

いつも通りの散々な言われようで、ヨランは数人に引きずられていった。明日会うよ、とか、なんで、とかぶつぶつ言っていた。その一団以外は、みんな名残惜しいのか、なかなか机を離れようとしない。その内に、誰ともなく言い出した。

「ね、どっちにした?」

「言えないよ」

「どっち?」

「わかんないよ」

「じゃ、せーので言おう」

「だめ、だめ!」

「違法なんだよ。逮捕されちゃう」

「わかるわけない」

「知りたくない?」

「知りたい」

「知りたいけど」

「だめだって」

「そうなれるかも、わからないし」

「明日教えるから」

「お楽しみに」

「えー、ずるい」

「秘密にしなきゃいけないって言われたよ」

「ずるくない。怒られるよ」

「そうだー」

好奇心旺なニヒはここ数日ずっと聞いてまわっている。進路選択は、守秘義務のある最上級の契約なのに。最終試験を終え、面接を終え、結果発表の前に、全員が宣誓の契約をしたはずだ。自分が選んだ身体について、手術が完了するまで他言しない、というものだ。これを破ってどう罰せられるかはわからない。だからこそ、言ってはいけない。ただ、聞いて回るのは自由だ。話したがりのニヒが興奮するのもわかる。先生はああ言っていたけれど、この制服は素っ裸とおんなじだ。自分と誰かを隔てるものがないから。でも、明日からは違う。自分で選んだ身体で、制服でない服を着て、髪型だって変えられる。眼球の色を変えたって良いし、皮膚の色を混ぜたっていい。足の大きさも、指の太さも自由に選ぶことができる。社会に出る前に、友達がどんな理由で、どんな身体を選んだか、知れるものなら知りたい。次に会える理由をつくっておきたい。そう思うのは当然だ。

 

そうこうしている内に、みんな帰り出した。教室に残っているのは、自分とあとひとり、イリだけだ。まだ自分の机に座っている。

「帰らないの?」

声をかけると、むっとしたような、困ったような顔をして

「まだ」

と俯いた。聞くと、ポケットにしまったはずのパレットがないのだそうだ。

「今日は授業で中庭と実験室に行ったから、きっとそこだよ。行ってみよう」

まばらに人のいる廊下を、並んで、少し離れて歩く。

「パレットって、どんなの?」

「これくらいで、金色で、四角いの」

イリは両手で四角をつくって見せた。

「きみとは、いつも探しものをしている気がする」

イリと過ごした時間は長くない。イリは半年前にこの学校やってきた転校生で、自分と席が近いわけでも、係が同じわけでもなかった。出会ったときは、自分の方が探しものをしていた。偶然見つけてくれたのがイリだった。落としたのは小指の先くらいのボタンで、学校中を探し回っても見つからず、途方に暮れていたところに「これ?」とイリが声をかけてきた。。

「そんなことない」

イリはさらにむっとしだした。

「そんなにそそっかしくない」

「いや、いつも助けてもらってるからさ」

「あ、そっち?」

「そう。卒業して、ひとりでやっていける気がしないよ」

半分は冗談で、半分は本音だ。今日まで一緒だったのに、明日から違う自分になる。管理された生活の中で、自由を望むものがほとんどだろう。けれど、自分は違う。明日がこわくて仕方がない。

「ニヒにチョコレート十枚積まれたよ。どっちか教えてって」

イリが笑いながら言う。

「十枚か。…迷うな」

教えるわけにはいかない。けれど、十枚は魅力的だ。

「最初から決まってたら楽なのに」

…言ってしまった。しまったと思った。

「うーん、しょうがないよ、そういう生き物なんだから」

イリは前を見ながら言った。

「どうして、こうなんだろう」

一度口にしてしまえば、あとは簡単に吐き出せた。

なぜ。なぜ選ばなくちゃならない。

イリに応えを求めてはいない。ひとりごとに近い問いに、イリは「そうだね」と応え続けた。

 

中庭で、パレットは簡単に見つかった。イリが座っていたベンチの下にあった。掌に収まる大きさのパレット。イリが持っているのを見かけたことがある。

「ひとつお願いしていい?」

パレットについた土を掃いながら、着けてほしい、と言ってきた。何を?どこに?

「明日から大人なんだから、予習」

事も無げに言う。

「どっち?」

パレットを開けると真ん中に仕切りがあって、左右二色に分かれていた。

「どっち?」

「どっちでも」

「どっち?」

「どっちでもいいよ」

イリは選ばない。右側の粉塵を親指でなぞり、イリの頬に当てた。

ふふ。こらえきれずにイリが笑いだす。

「くすぐったい」

「動かないで」

「これも大人がすることなんだって」

「ふうん」

やりかたの正解がわからない上に、なんだかうまくできていない気がしている。

「これで合ってる?」

「たぶん合ってる。いふぃふぃ」

「痛くない」

夕日が沈もうとしていた。細い朱色の光に照らされて、イリの瞳と頬が、同じ色に光った。

「うん、これで完璧」

指の跡を塗りつけられた頬を撫でながらイリは言った。

「帰ろう」

 

告白する。自分はこれがひと時の別れでないことを知っている。きっとみんなも心のどこかで気付いているだろう。これから、新しい身体を授かり、社会に出ていくのを一度は心から待ちわびた。大昔に、はじまりの人がただの「命」から性を授かり、個を授かった奇跡を願った。けれど今、新しい身体を得ることがこんなにもこわい。前を歩くイリの背中を見ながら、叫び出したいのを必死に抑えた。イリ、きみも気付いているだろう。どうして平気でいられる。明日になれば、今日までの全部がなくなってしまう。試験も、卒業も、手術も、選ぶのも、こわくはないのか。

昇降口の出入り口でイリは立ち止まり、振り向いた。

「じゃ」

言いながら、ポケットを探る。

「はい」

差し出されたのは、パレットだった。ふたりで探し当てた、きっとイリがベンチ下に置いたであろう、イリの瞳の色が入ったパレットだ。

「見つけてね」

僕の左手を覆う、上下に重なるイリの手が、頬よりも温かかった。

「またね」

離れていく手が今、ただ懐かしい。これを手掛かりにすれば、いつかきみに会えるだろうか。

 

明日、この学校と身体を卒業する。性別を得、個性を身に着けることを許される。大人になるとは、大人の身体になるということだ。学校を去るとき、過ごした記憶はきっと残らない。脳の容量は限られているから。学校のカリキュラムは終わった。身体と回路の検査も終わった。学校を出て、次は新しい社会が待っている。

ずっと寝付けないでいたのに、最後の夜だけは安眠できた。きみが、みんなが、どんな選択をしたのか、遠くの未来で知りたいと思えたからだ。

文字数:4053

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