〈九十九〉たちの葬列

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梗 概

〈九十九〉たちの葬列

今朝方「母」は静かに息を引き取った。

つい数時間前、実家に備え付けられた〈自律式高度医療端末〉から危篤の報せを受けて急ぎ駆け付けたセイランは、冷たくなった彼女の養母アオニの遺体を徒に感情を高ぶらせるでもなく、ただ平静とまではいかない奇妙な視線でもってしばらくの間眺め続けていた。

ぼんやりとして霞がかった彼女の頭の中に、徐々に確かな輪郭を伴って象られる無数の〈遺物〉たち。

幼い頃のセイランもまたそれら無数の、持ち主をなくし失意の内に沈んでいるかのように見えた物たちの中に紛れ込むようにしてアオニの許にやって来た「孤児」であった。

 

晩年のアオニは特に彼女自身中心となって開発に携わった〈領域内多層分心析出装置〉(通称〈九十九官界〉)が齎した、新しい存在たちの喧騒にとり憑かれていたと言ってもいい。

彼女にとってセイランの発する声もまた、そうした数ある喧騒の内の一部でしかなかったのだろう、と思う。

 

「セイラン、周りを見てごらんなさい。あなたの愛すべき兄弟姉妹たち。わたしの愛すべき子どもたちを。あなたは決して一人ではないのだから…。」

 

そう一言、アオニの口から漏れ出る信仰めいた言葉を耳にするたび、セイランは己のことを人間だと思い込んでいる滑稽な人形の類なのではないかと感じていた。

人格も、それを築くための土台である過去や記憶も、すべては仮初の、誰かにあてがわれた声なき声に過ぎないのではないか。

やがて月日が経ち、彼女が半ば逃げるようにアオニの許を去るその時にあっても、決してそうした疑念が晴らされることはなかった。

それはいわばモノとヒトの間を覆う細やかな闇となって、彼女の心に冷たく被さっていた。

 

部屋から出てきたセイランを待ちかねた様子で、ヨハンとワヒドはそれぞれ彼女に分かりきった顛末を尋ねた。

セイランが、アオニが苦しむことなくこの世を去ったことととても穏やかな表情を浮かべていることを伝えると、ヨハンは幾分かその銀色の光沢を白ませ、ワヒドはその柔らかそうな襞を優しく揺らしたかに見えた。

そして彼女は、アオニに施した施術がもう間もなく完了することを付け加えた。

『アオニは本当にそれを望んでいたのだろうか。』

ヨハンがそう呟くと、ワヒドは『それが彼女の望みであり、唯一の救いだ』と応えて言った。

おそらくその通りだろう、とセイランも思う。

アオニはもうじき「復活」を遂げる。

腐らない身体を携えて、モノとしての新しい生を受けるのだ。

それは〈九十九〉たちから疎外された彼女が何よりも望んでいたことに違いない。

しかしそれでもヒトとしての彼女は、決して戻ってこない。

ただ擬似的な魂が宿る器として、〈九十九〉たちの喧騒の一部を形作る要素となる。

それだけのことだ。

 

〈九十九〉たちが「復活」を今か今かと待ちわびている傍らで、セイランは小さく笑いながら思った。

故に「私」はいつまでも覚えていよう。この〈九十九〉たちの葬列を。

文字数:1200

内容に関するアピール

2119年の未来においては、モノに擬似的な魂が与えられヒトとモノとの共存関係が結ばれる社会が実現している、という設定です。

その中で暮らすセイランは、幼い頃から自分がモノなのかヒトなのか、置かれた環境によって曖昧にされるというトラウマ的体験に苛まれていました。

それ故にヒトである(とみなされる)ことを執拗に望む彼女は、反対にモノであることを望むアオニの絶望と願いを受け入れ、最後にはそうした感情を抱かざるを得なかった人間アオニの魂を、他ならぬ〈九十九〉たちの姿を通して見送ろうとします。

ヒトはヒトのことを偲ぶことが出来る、そう信じて。

この作品を通して、モノとヒト、あるいはモノを通したヒトとヒト等の織りなす関係性や、そこから見えてくるであろう、100年後の未来においてヒトとして生きるとはどういうことか、というようなテーマを限られた紙幅の中で少しでも掘り下げて読者に伝えられればと思っています。

文字数:396

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〈九十九〉たちの葬列

やけにゆっくりとした動作で開く自動ドアを潜り抜けると、そこにはただ白色としか言い表しようのない空間が拡がっていた。まるでペンキの中身をそのままひっくり返してしまったかのように無差別で容赦のない色使い。それからそんな原白色に半ば同化するように中央にはものものしい機械類と、ベッドが浮かび上がっている。ベッド、そう。あのベッドの上の盛り上がりこそ、おそらくはセイランを十年ぶりに養家へと再び訪れさせることになった原因であるはずで…。

無論、そんなことは分かり切っている。だが、それでもセイランはこの目で確かめずにはいられなかった。

胸の辺りが熱くなり鼓動が早まるのを感じながら、セイランは思いのほか確かな足取りでベッドの方向へと歩みを進めた。すると、そこには大量のチューブに繋がれ、精密機械が奏でる雑多なリズムによってはかなげな命の所在を指し示す身体が一つ。

 

それは紛れもなく“母”だった。

 

〈自律式高度医療端末〉は、古き良き機械らしくセイランの“母”、正確には養母であるアオニが緩やかに死に向かっていること、それから決して快復する見込みのないことだけを端的に告げていた。その情報に示されている通り、アオニの呼吸はか細く今にも消え入ってしまいそうなくらい心許ない。きっと、もうどんなに小さな反応さえアオニが返してくれることはないのだろう。深く複雑に折り重なった皺や襞も数こそ増えたように見えるが、昔はあんなに不気味に、生き生きと蠢いていたのに、今ではまるで息絶えた一個の生命のように深く沈み込んでいるばかり。

ああ、本当にアオニは死ぬのだ。

それはどうしようもない事実で、まごうことなき現実で、目の背けようもない真実だった。

(憎きアオニ、わたしの…たったひとりの、困った家族。)

アオニの細長い腕の付け根から、干からびた手の甲までをなぞるようにして、そっと触れてやる。当然、セイランが加える一連の刺激に対して反応が見られることは決してないことを理解しながら。それでもセイランはしつこくアオニの身体のあちこちを触り、撫で、揺さぶり続ける。

もうじきに、アオニは死ぬ。

今この瞬間にも、アオニの魂(仮にそういった代物があったとして)は摩耗し、何らかの奇跡でも起こらない限りやがて完全にこの世から潰えることになるだろう。そしてそのことは同時に、アオニが完全で純粋なモノへと変わりつつあることをも意味している。

純粋なモノへと変身を遂げること、それはある意味においてアオニがもっとも望んでいたことだった。

何故なら、アオニにとって“生きた人間”であり続けることは、他の誰しも想像だにすることの出来ない孤独を、アオニ自身にもたらしてきたはずだから。

そしてあの頃、確かにセイランはアオニとともに“生きた人間”からはまったくかけ離れた、もう一種の別様な魂を持つ存在たちと暮らしていた。

〈九十九〉——。

擬似的な魂を与えられ人間と自由にコミュニケーションを取ることが出来るモノ。この驚嘆すべき存在を生み出したのは、他ならぬアオニ自身だった。そしておそらくは、この世界でもっとも彼らに耽溺し執着し憧憬し欲望した人間もまたアオニ自身を措いて他にはいない。

〈九十九〉に対する愛があまりに深すぎるが故に、アオニという人間は周囲の人間たちからほとんど理解されることがない特異な存在だった。だから晩年はこんなところで隠居同然の暮らしをしていたのだし。何よりアオニ自身、セイランを含めて“人間”に対してさらさら何の興味も抱いていなかったのである。

だからアオニの瞳はいつだって〈九十九〉たちと、〈九十九〉としての、あるいはアオニが所有する“お人形”としてのセイランに対してだけ向けられていた。

憎きアオニ……。

結局のところ、アオニという存在が抱えることになった孤独のせいで、アオニの許で過ごしたあの頃のセイランもまたやっぱり孤独に陥ることでしか、自らの支えを見出すことが出来なかったのだ。

モノへの憧れからやってくる孤独と、モノと分け隔てなく扱われることからやってくる孤独。ヒトであることによる孤独と、モノとして見られることによる孤独。

言い方なんて何だって構わない。

だって、この二つの孤独に違いなんてないのだから。

アオニの身体から、手を放す。するとふいにセイランは少し寂しげな笑みを浮かべ、そのまま静かに瞼を閉じる。

瞼の裏に映し出されるのはセイランが生きた、様々な時期の断片的な記憶。あるいは些細で人によっては至極ありきたりだと思えるであろう、記憶の結晶。

———

 

思えば、幼い頃のセイランはいつも一人ぼっちだった。

二人揃って高名な生物学者だった父と母は、いつだって仕事の都合で忙しそうに各地を飛び回っていたため、満足に遊んでもらった記憶などほとんどない。

それでも、セイランは限られた少ない時間の中で目いっぱいの愛情を注いでくれた実の両親のことが本当に大好きだった。月並みな言い方だけれど、セイランにとって確かに二人は何よりも代えがたい、大切な存在だった。

だから余計に、二人に対してもっと一緒にいて欲しいなんて、この時のセイランには口が裂けても言えなかったのだ。

どんなに寂しくても、どんなに不安でいっぱいでも、我儘を言っちゃいけない、我慢しなくちゃいけないということを、セイランは幼いながらにきちんと理解していた。

そして言うまでもなく、そのことを誰よりも痛いくらいに分かっていたのは彼女の両親だったはずで。当時、そんなセイランの見せる精一杯の小さな頑張りに対して、親として最大限報いなければならないと思っていたのだろう。

セイランの五歳の誕生日、この記念すべき日を祝うために両親が用意したのは、一匹のぬいぐるみだった。二十一世紀も終わりを迎えようとしているこの時代、五歳の子どもへのプレゼントにしては少し幼すぎる感が否めない、至極平凡でありきたりな一匹のぬいぐるみ。

ただ強いて言うなら、そのぬいぐるみには普通のそれとはちょっぴり異なる点が二つほどあった。

一つは、モデルとなっている動物が“おたまじゃくし”という一風変わったものであったこと。さらにこちらの方がより肝要な点なのだけれど、もう一つは、人間の言葉を理解し言葉を紡ぐことが出来たということ。

そしてそのぬいぐるみの名は、フランカといった。

この頃のセイランにとって、彼女の生涯の中で生まれて初めて接する〈九十九〉であるところのフランカは、やっぱり特別な存在だった。だってフランカだけが両親の代わりにいつでもセイランの傍にいてくれる、唯一の存在だったから。

 

「ねぇ、フランカってば!ちゃんときいてた?」

『んん何だい、セイラン?』

セイランは、口をとがらせて小突くようにフランカの背中?の辺りに手を触れた。

まただ、このおたまじゃくし!肝心なところでいっつもぼうっと呆けちゃって!

「だからぁ、お父さんとお母さんのことだってぇ。さっきから言ってるでしょ!」

『もちろんちゃんと聞いていたし……うん、ちゃんと聞いていたとも。』

なんとものほほんとした口調で、いけしゃあしゃあとこんな答えにならない答えを言うのである。セイランの顔はといえば、それはもうまるで破裂寸前の風船のように赤く膨れ上がっている。

「もういい!せっかくわたしの誕生日にお父さんとお母さんが喜ぶだろうからって、フランカがぜんだいみもんのちょうぜつだっしゅつマジックをひろーするって話をしてるのにぃ。」

セイランの言葉にフランカは思わず目を白黒させたように見えた。よもやそんな話になっていようとは、さしものフランカ自身も思っていなかったのだろう。

『ちょっと待って、セイラン。よく分からないんだけど、それってどういうこと?』

「だぁかぁらぁさー、せいきのちょうだっしゅつマジックなんだってば!こうね、ぼおぼおって火がもえてるでしょ?そこからね、フランカがこう、こう、シュンってね、消えて別の場所からわぁって出てくるの」

“ぼおぼお”とか、“シュン”とか、“わぁ”とか、人間の、特に子どもの身体感覚に深く根ざす擬音語というやつに圧倒されたのか、フランカは一瞬沈黙を余儀なくされてしまう。けれど、セイランの言わんとしていることは辛うじて理解してくれたようで、すぐさま穏やかな口調で言葉を継いだ。

『…フランカが思うに、セイラン。君は二つ、大切なことを忘れているんじゃないかな?』

「大切なこと?」

興奮もいつの間にか冷め止んで思わず目を丸くするセイラン。本気で思い至らない。

『いいかい、まずフランカはぬいぐるみなんだ。君も知っての通り、ぬいぐるみってやつは本来動くように出来ていない。』

「だから?」

『要するにだ。君の考えでは燃え盛る火の海からフランカが消えて、そしてどこか別のところから現れるって算段になっているんだろう。けれどそもそもぬいぐるみは動くことが出来ないんだから、況してや勝手に消えることも現れることも出来っこないだろう?』

「でもでも、わたし前に動くぬいぐるみ見たことあるしぃ」

どうも腑に落ちないといった表情を浮かべながらセイランはこんなことを言い始める。

こうなってくると、後は子どものもっとも得意とする屁理屈の独壇場だ。

大方唐突な大脱出マジック計画にしても、あるいは動くぬいぐるみ発言にしても、学校で流行っていた全身体感型VR番組からの影響であるに違いない。子どもというのは得てして影響されやすくまた冷めやすい生き物であり、自分の信じた物事に他人を無理矢理巻き込む天才でもある。

けれど、フランカがセイランと初めて出会ってからもうすぐ一年が経とうとしているのだ。故に、殊セイランの扱いにかけてフランカは実の両親以上の見事な手際をしばしば見せるようになっていた。例えばこんな具合に。

『分かった。それじゃあ、もう一つ君が思い至っていない大切なことを教えてあげようじゃないか。』

フランカの口調は飽くまで穏やかで、まるで小さな子どもと同じ目線でもって接する出来た大人のような優しい表情を浮かべているように見える。

『いいかい、君がやろうとしていることは結果的に君のお父さんとお母さんを悲しませることになる。何故だか分かるかい?』

セイランは首を横に振った。

『簡単な話さ。それはね、セイラン。今君が言ったことを実行しようとすれば、君自身の身に避けることの出来ない危険が及ぶからだ。火を扱うっていうのはそういうことなんだ。一歩間違えれば火傷を負ったり、最悪の場合、死んでしまったりすることだってある。』

「死ぬ?それって…」

死について、以前セイランは何気ない会話の中で父に教えてもらったことがあった。人間は、すべての生物は、死ぬといなくなる。もう二度と戻ってはこないのだと。

『もしも、セイラン。そんな危ないことをして、君が死んでしまったとしたら。その時、君はもう二度とお父さんとお母さんに会うことが出来なくなってしまうだろう。そして、それはお父さんとお母さんも同じなんだ。もう二度と、セイランに会うことが出来なくなってしまう。その時、お父さんとお母さんはきっと深く“悲しむ”に違いないんだ。』

ここまで話し終えるとフランカは一旦息をついたかに見えた。セイランはしばし虚ろな眼を宙に漂わせていたが、突如感情が爆発したように溢れみるみるうちに表情が崩れてしまう。涙と鼻水と涎の大洪水、顔はくしゃくしゃ、声にならない嗚咽がひっきりなしに鳴り響く。

「ぞんな…ぞんだどぉ、やだぁ、やだぁああぁーーー」

セイランがひとしきり顔中に潜んでいた体液を出し切り疲れたような表情を見せるまで、フランカはただ沈黙し、待っていた。こんな時、親であれば嗚咽にふるえる子の肩を優しく抱き留め、安心させてやろうとするだろうか。しかしフランカは一匹のぬいぐるみ。決して自分からは一切の行動を起こすことが出来ない、ただの物質に過ぎない。

やがてセイランが大分落ち着いて、というよりもシュンと落ち込み始めた頃を見計らい、フランカは言った。

『セイラン、それでも君の今抱いているその気持ちは、きっとお父さんとお母さんに届けることが出来るんだ。だからフランカに任せて!君のために素晴らしい代案を用意しようしてみせようじゃないか。』

フランカの声は、不思議といつもセイランの心を落ち着かせてくれた。まるで〈九十九〉が奏でる柔らかな“子守唄”のように、いつだってそれはセイランを励まし勇気付ける魔法の言葉となった。

「うんっ!」

セイランはくしゃくしゃな顔のまま満面の笑みを浮かべ、力強く頷いた。

けれど…フランカが言ったその“素晴らしい代案”が実行される日は、終ぞやってこなかったのである。

 

その日はいつもと特に変わった様子もない、平和で穏やかな一日であるように見えた。

けれど、セイランにとってはその日が一年の中でもっとも特別な一日なのである。

だってこの日は、セイランの六歳の誕生日なのだ。父と母、そしてフランカが諸手を挙げてセイランを祝福し、いつもは決して思っても口にすることの出来ない、ありとあらゆる望みが聞き届けられ、あわよくば叶ってしまう、そんな素晴らしい一日なのだ。

逸る気持ちを何とか抑えつけて、セイランは両親の帰宅を今か今かと待ちわびていた。あまりに楽しみ過ぎて、毎週心待ちにしているはずの子ども向けVRアニメーションの内容なんて、まったく頭に入ってこないほどだった。

そんなそわそわして落ち着かないセイランを、相も変わらずのほほんとした調子で見守っているように見えるフランカ。父と母の代わりにセイランの日ごろひた隠している我儘や欲求を、一身に引き受けている一匹のぬいぐるみからすれば、今日ぐらいは実の両親に対してその栄えある役割を譲ってやろうという魂胆なのかもしれない。

もうすぐ、お父さんとお母さんが帰ってくる!

きっと今夜調理されて食卓に並ぶことになるであろう豪華な食材と、セイランが想像も出来ないくらいエキサイティングなプレゼントと一緒に。しかも今回は、それだけではない。フランカが用意してくれた“素晴らしい代案”を、大好きな父と母に披露する、そんな日でもあるのだった。

セイランは、スカートのポケットの中に潜ませていた一枚の紙に目をやると、思わず笑みをこぼさずにはいられなかった。この日のために一生懸命に書いた、お父さんとお母さんへの感謝の手紙。これまで字を自らの手で書くという、前時代的な作業を一切したことがなかったセイランは、この短い手紙を書き終えるだけでも相当苦労を重ねなければならなかった。何度も何度も諦めかけてはフランカの助言に支えられて、何とか完成までこぎつけたのである。そのかいもあって、手紙は内容に多少の拙さはあるものの、手書きの温かみとそれを書いた人間の強い思いがこもった、それは見事な贈り物に仕上がっていた。こんな手紙を他ならぬ自分の子からもらった日には、今時の世の中の相当数の親たちは感激のあまり卒倒してしまうのではないかと、そう思われるくらい。

かくしてセイランとフランカの準備は万全だった。後は父と母が「ただいま」と言って玄関を潜り抜け、一人と一匹の待つリビングルームに入って来るのをただ待つばかりだった。その時になって、セイランとフランカの「おかえり!」という柔らかな言葉が両親を温かく迎え入れることだろう。

チャイムが鳴った。

一目散に駆け出すセイラン、あまりに急いでいたせいで普段は必ずチェックするインターフォンのディスプレイを見ないまま勢いよく玄関のロックを外し、扉を開ける。

すると、そこには物々しい装飾に包まれた見知らぬ二人の男と、灰色のスーツを着た見知らぬ一人の女が立っていた。

前にいた女が後ろにいる男の一人に向かって捲し立てるように何かを言うと、今度はセイランに向かって作ったような微笑みを浮かべた。

「大崎セイランさん、でいいのよね?」

———

最初、セイランは玄関の前に立って上から一方的に言葉を浴びせかけるこの見知らぬ大人たちが何を言っているのか、まったく理解出来なかった。

大人たちの話から何とか聞き取ることが出来たのは、「貴方のお父さんとお母さんが事故に巻き込まれて…」とか「救急病院に搬送されたが、意識がまだ戻っていない」とか、そんな取り留めのない言葉の羅列に過ぎず……。けれど、それが何を意味しているのか、セイランにはこれっぽっちも理解することが出来なかった。

セイランにとって、もしかしたらすべからく大人という生き物は訳の分からない言葉を子どもに向かって放ち続ける不気味な“異星人”なのではないかと疑わせるくらい、本当に何を言っているのか分からなかったのだ。この日セイランは、初めてこれまで彼女が主に接してきた大人たち、例えば父や母、あるいは保育所の先生とはまったく違った種類の“大人”がいることを知った。いや、世の中は寧ろそんな大人たちで溢れかえっているのだと、この後幼いセイランは思い知らされることになる。

 

程なくして施設に預けられたセイランは、周りの環境に馴染めずいつもフランカとばかり遊んでいた。そのせいか、同じ施設の子どもたちからは気持ち悪がられ、時には揶揄われたり虐めを受けたりすることもしばしばだった。施設の大人たちは大体セイランを虐め揶揄っていた子どもたちの行動よりも、そうした行動を引き起こす原因となったセイランの協調性のなさを問題視した。

そんな悪夢のような生活の中、セイランは度々“施設の大人たちにとって”目に余るような問題行動を引き起こし、その度毎に大人たちはこれ以上面倒見切れないとばかりにセイラン(とフランカ)を別の施設に移した。“取り扱い注意”というレッテルとともに、セイランはその後四年間で数か所の施設をたらい回しにされ、そこで同じような事件を起こし続けた。

このもっとも困難な時期、セイランの味方としていつでも傍にいてくれる存在は、フランカをおいて他にいなかった。大人も子どもも、この世界に存在している人間は揃いも揃って全員セイランの“敵”でしかあり得なかった。無論、セイランの味方になってくれるはずの唯一の人間である父と母も、もうこの世にはいない。それなら、セイランに残された道は、一つしかないのではないか?

すなわち、一人の人間と一匹のぬいぐるみ、ともに手を携えて誰に頼るでもなく生きていく以外、道はないのではないか?

凍てつくように冷たい社会の坩堝の中に投げ込まれ、この四年間いやというほど“現実”を目の当たりにしてきたセイランの顔は、もはや若干十歳の子どもが見せるそれではなくなっていた。四年前まではまだ子どもらしい無邪気さやあどけなさを辛うじて残していたのに、今ではほとんど見る影もない。

けれどこの時点で如何に甘ったるい考えを捨て、自分一人(と一匹)の力だけで生き抜いていこうと決心したところで、セイランはまだ十歳の子どもであるという事実に変わりはなかった。故に、思い立ったが吉日と言わんばかりにすぐ実行に移せるわけではないことも、セイラン自身痛いほどよく分かっていた。

そんな矢先、施設の部屋の窓越しにセイランは、ある一人の見知らぬ老婆の姿を見かけ、そして知ることになる。

その老婆こそ、後にセイランの養母となり、ある意味で“第二のトラウマ”を与えるきっかけを作った、小埜アオニその人であった。

 

小埜アオニは調べれば調べるほど何とも不思議な人間だった。何でも小高い山の中腹に佇む古びた白亜のお屋敷に、たくさんの〈九十九〉たちと暮らしているのだという。最初にアオニを見た時セイランは、その異様な雰囲気に今まで会ったことのあるどんな人間とも違った、魅力とも恐れともつかない“何か”を感じ取り、それ以来アオニを見かける度にその姿を目で追うようになっていた。

端末の情報によれば、アオニはそこそこ著名な科学者で、今でこそ隠居同然の暮らしを送っているものの、その類稀な才能から様々な価値ある研究成果に貢献してきたのだという。その中でもっとも優れた成果こそ、〈九十九〉に宿る擬似的な魂を生み出す装置である〈領域内多層分心析出装置〉、またの名を〈九十九官界〉の基礎理論を樹立したことだった。要するにアオニはフランカも含め、全ての〈九十九〉の生みの親だというわけだ。

初めは何か気になる、といった程度のものだったが、セイランは時間が経つにつれどんどんアオニという存在自体に強く惹かれていくようになった。けれどそれは、フランカの魂を作ったアオニへの尊敬とか感謝とか、さもなければ〈九十九〉という技術に対する知的好奇心といった理由からではない。それよりも寧ろ、アオニという“個人”が〈九十九〉という存在を作った動機について、セイランは興味があった。

すなわち、それが成立するまでのもっと大きな政治的思惑や社会的経緯は一旦脇に置いておくとして。何故小埜アオニという存在個人は〈九十九〉という存在一般を生み出そうとしたのか、ということについて興味があった。

我ながらおかしな話だな、とセイランも思う。

大体そんなこと知って何になるのか、彼女は自分でもよく分かっていなかったのだし、そもそも明確な動機自体あったかどうかさえ定かではないというのに。

しかもアオニは、セイラン自身信用することの出来ない“敵”として認定しているはずの“大人”の一味でもあるのだ。そんなアオニに何故これほどまでに強く興味を惹かれるのか、正直なところよく分からなかった。

けれど見方を変えれば、それほどまでにアオニという存在はセイランにとって“未知”だった。今まで出会ったどんな“異星人”たちよりもわけがわからない、しかしそれ故にもしかしたら一周周ってすっかり分かり合えてしまえるんじゃないかって思わせてくれるような“謎”そのものだった。

例えば目の前には、小埜アオニと呼ばれる“深淵”があり、セイランはまるで光に向かってまっすぐ進む蛾や蝶のように、為すすべなくそれへと吸い寄せられて……。セイランは一度でいいからアオニという人間と一対一で話をしてみたかった。そして、その願いはそれほど遠くないうちに叶うことになる。

 

施設職員からその話を聞いた時、セイランは驚きのあまりつい年相応の無邪気な喜びの表情を浮かべそうになるのを我慢しなければならないほどだった。なんとアオニの方からセイランに近々会って話がしたいという申し出があったのだ。理由はよく知れなかったが、セイランとフランカの関係に興味を抱いてくれたらしい。

そして、今。セイランの目の前でこうして縮こまるように身体を折り畳んでいるアオニの姿は、予想よりも一回りも二回りも小さくて。しかしそれがかえってアオニという存在の不気味さに拍車をかけているように思えた。アオニの視線はさっきから見定めるべき焦点を見失っているかのように宙に投げられたきりで一向に帰って来る様子がない。

セイランは居住まいを正した後、慎重に質問すべき事項について思案していた。

すると、突然、無から有が突如として立ち上がるように、どこからともなく言葉が紡がれた。

「あなた、そうね…セイラン?初めに勘違いしているようだから言っておくのだけれど、わたしは人間に興味がないだけで、信用していないわけじゃないの。」

セイランは最初、その声がどこからやって来たものなのか判然としなかった。だが、少し遅れてそれが目の前に居座るアオニから発せられたのだと、理解した。

まるで頭の中に直接言葉という液体を優しく注ぎ込まれたかのように、じんわりと脳の中に拡がっていく。ちょうど〈九十九〉たちが発する言葉がそのようにして伝わっていくように、それは奇妙なほど心地よく響いた。

セイランは驚いて、思わず隣に座っている施設職員の様子を伺った。しかし、もう慣れてしまったとでもいうように彼は一切身じろぎせず座っているばかりだった。

「それは…どういう意味ですか?」

アオニの言葉を前にして、セイランはおそるおそる聞き返した。つい先ほどまで思案していたはずの質問のことなどすっかり忘れてしまっていた。

悠久にも思える沈黙が続いた後、再び無を壊すようにして唐突に言葉が生み出される。

「セイラン、ここにいる人たちからね。あなたのこと、少し聞かせてもらったの。あなたは、いえ…あなたたちは、四年前にご両親を亡くし、それから複数の施設を転々としながら生活を送ってきた。それは事実ね?」

“あなたたち”というのは、セイランとフランカのことだろうか。無言の肯定。アオニは言葉を続ける。

「そして、セイラン。あなたは、施設の中で様々な“現実”を目の当たりにしなければならなかった。おそらくは、あなたにとってそのほとんどが辛く困難なものであったのでしょう。それこそ、自分自身とあなたのパートナーである〈九十九〉、フランカを除いて、この世のすべてが信用ならない“敵”であるように思えるくらい。」

アオニはまるでセイランについてそのすべてを見透かしているとでも言いたげに、相変わらず焦点の定まらない瞳を宙に投げかけていた。アオニがその瞳の奥に本当は何を映し出しているのか、セイランは空恐ろしくてまともに考えることすら出来なかった。

「先にも言ったように、わたしは人間を信用していないわけではないの。ただ、人間に興味がないだけ。ううん、もう少し正確に言うとね、わたしは人間という存在をただ諦めてしまっただけなの。」

そう言い終えると、アオニの顔の表面に深く刻まれた皺が、アオニとは別個の意志を持つ生物のように活き活きと蠢き立つのだった。

わたしは一体何と話しているのだろう。そう、思わずにはいられないくらいセイランは、目の前に座るアオニという存在のでたらめさ加減に打ちのめされていた。“一周周ってすっかり分かり合える”?そんな生易しいものではない。今まで出会ってきた大人や子どもは、理解し難いところはあっても、一旦慣れてしまえばそれなりに対処することが出来た。しかしアオニに対してはどのように対応すれば正解なのか、まったく分からなかった。

そして、分からないと言えばもう一つ。そんな人間に興味を抱くことのない理解不能の存在であるところのアオニが、フランカだけならまだしもまた何だって普通の“人間”であるところのセイランに興味を持ってくれたのか?セイランの困惑と疑問の表情をやっぱり見透かしたかのように、アオニは言った。

「ただ、セイラン?わたしは確かに人間自体に興味はないのだけれど、人間の、それもあなたのようにまだ本当に幼い時期から〈九十九〉と接してきた子どもたちについては興味があるの。」

「?」

「そうね、簡単に言ってしまえば。子どもというのは、大人に比べれば未だ外界、特に人間社会と取り結ぶ関係性が希薄で、“現実”についての知識や経験をそれほど多く持ち合わせていない。そのような条件の下、早いうちから〈九十九〉というまったく異質の“他人”と関係を築いたとして、その子の心にどのような影響が生じてくるのか、そういうことに興味があるの。」

まだよく分からない。そんな疑問符だらけなセイランに構わずアオニは続ける。

「わたしが、この施設に通っているのもね。今言ったような関心事に基づいてのことなの。ほら、ここには様々な年代の子どもたちが暮らしているでしょう?その内の何人かに〈九十九〉を与えてみて、どのような結果が見出せるか調べているわけ。」

初耳だった。施設の職員の誰もそんなこと教えてくれなかった。確かにアオニが何故この施設に頻繁に出入りしているのか不思議ではあったし、一度そのことを尋ねてみたこともあったが、結局皆だんまりを決め込んだままだった。あるいは子どもたちにしても、セイランは極力かかわらないようにしていたため、そういった情報について耳にする機会もなかった。

「〈九十九官界〉は、比較的最近になって実装されたばかりの技術でしょう?それに都市部の、それなりに裕福な家庭に限って普及している技術に過ぎないから、まだ色々と分からないことだらけなの。後関係ないことだけれど、あなたが他の子たちから〈九十九〉のことで揶揄われるのって、この技術の普及範囲の偏りに一因があるんでしょうね。」

そういう話ならセイランにも実感としてある程度は分かる。普段〈九十九〉という存在に慣れ親しんでいない施設の子どもたちからすれば、セイランがフランカとばかり喋っている姿はひどく不気味なものに映ったことだろう。結局、異質な分子は排除される運命にあるのだ。

「つまり小埜さんは、幼い頃からフランカと接してきたわたしに、興味が…あると?」

「ご名答。」

わざとらしく手をたたいて見せるアオニ。セイランの隣にいる施設職員の男はさっきからさして興味もなさそうに窓の外をぼんやり見つめ続けていた。

「さっきの“実験”でも傾向としてよく見られるのだけれど、一般に〈九十九〉たちと人間の関係が十全に築かれるまでの時間は、その人間の年齢が若ければ若いほど短縮されるの。そこに性差や体型などの個体差による影響はほとんど見られない。要するに人間の子どもというのは心の次元においても大人に比べて柔軟だってことなの。」

セイランがフランカに出会った当初、フランカとのコミュニケーションはぎこちなく極めて微かなものだった。だから初めは、父や母に翻訳してもらいながら、何とかフランカとの関係性を育んでいったのだ。正確に思い出せないものの、父と母という“補助輪”なしでフランカと話せるようになるのに一ヶ月近くを要したのではないか。

「それで…結局、〈九十九〉に幼い頃から接してきた子どもはどんな影響を受けているのか、分かったんですか?」

セイランの問いに対して一言「分からない。」とだけ返すと、最後にアオニは…果たして“表情”と呼び得るものであったかさえ定かではないような表情を浮かべ、こう締めくくった。

「ただ、子どもという存在は寧ろ、置かれる環境によっては〈九十九〉たちの方に限りなく似通ってくるんじゃないかって思うの。セイラン、貴方を含めて。」

施設職員の男は時計をチラチラと確認し、そろそろ話を切り上げてくれるよう無言で訴えかけていた。

セイランは別れ際、これだけは聞いておかなければならないと思っていたことをアオニに尋ねた。

「あなたは…あなたはどうして、〈九十九〉をこの世界に生み出そうと思ったんですか?」

ひょっとするとこの質問を発したその時からすでに。セイランの運命は決していたのかもしれない。

その瞬間、漫然と宙に投げかけられたアオニの瞳は己の帰るべき港を見つけ出し、そして鋭く射貫くような視線でもってセイランを見つめ返した。

「あなた、そうね…セイラン!家に来る気はある?もちろんフランカも一緒に。」

「それはっ……!」

施設職員の男が慌てて立ち上がり続けて何か言いたげな表情を浮かべるものの、アオニの示すその静かな気迫に怖気づいたのか、力なく自分の席へ座り直った。

その後の事務的でひどく退屈な細かい経緯について、ここで敢えて触れるつもりはない。

ただ事実として、セイランは正式にアオニの“養子”としての人生を歩み始めることとなったのだった

  

あの頃のセイランは、真の意味で本当に何も知らない、ただの子どもに過ぎなかった。

人間社会が突き付ける“現実”に対して、上手く馴染むことが出来ず、世の中のすべてを“敵”だと認定することで自分自身を必死に守ろうとしていた、未熟な子どもに過ぎなかった。

だからこそ、安易にも自分が決して傷つくことのない“理想郷”を求め、そして…〈九十九〉たちが形作る“偽りの楽園”に自ら身を投じてしまった。

それは、確かにアオニが築き上げたアオニ自身の楽園でありながら。しかし同時に決してアオニが入り込むことの出来ない世界でもあって…。故にアオニはきっと、セイランという存在を、あるいはもっと広く次世代を担う人間の子どもたちという存在一般に、自身の決して叶わぬ理想を押しつけようとしたのだろう。セイランは、その幻想を幻想のままに留め置くための“共犯者”だった。それこそいつの時代にも見られる、親の抱く狂信的な理想に半ば同一化して自分から身を切り刻むことをよしとする子どものように。そのことに疑いを抱くこともない——ただの世間知らずなままの子どもに過ぎなかった。

 

セイランがアオニの許にやって来てから一年が経とうとしていた。

セイランの周りには、いつも〈九十九〉たちの“会話”とも“喧騒”ともつかない賑やかな声が響き渡っていた。やって来た当初は、やっぱりぎこちなく微かにしか聞き取れなかった〈九十九〉たちの声も、聊かボリュームが大き過ぎるという問題はあったものの今でははっきりと理解することが出来る。

『やあ、セイラン!調子はいかが?』

『おやおやセイラン、お出かけかね?』

『セイラン!後でみんなを呼んでゲームするんだけれど、君もどう?』

『セイランー。アオニが呼んでたけど、何かあったのかなぁ?』

こんな調子でもって、通りがかる度に名前が連呼されるのである。

セイランは元々、特に両親を亡くしてからは、静かな環境で過ごす生活を何よりも好ましく思う性格だったが、ここではそんな生活送るべくもなかった。何しろ家中の至る所で、喧騒という喧騒が始終鳴り響いているわけだから。

家の中が始終喧騒で埋め尽くされている生活なんて、最初は耐えられるわけがないと思っていたけれど。不思議なもので、そういった状況であっても人間すっかり慣れてしまえるものなのだった。

それに、〈九十九〉たちの言葉は人間の言葉とは異なり、ただ音が大きく五月蠅いという性質のものではない。その言葉には何故か音楽性のようなものが感じられるのだ。それはフランカとずっと一緒に過ごしてきたセイランにも、実感としてよく理解出来る感覚だった。

〈九十九〉たちはてんでバラバラに喋るにもかかわらず、発せられた声と声が複雑に組み合わさって壮大な“ハーモニー”を奏でてしまう。このことについてアオニは何も言及していないけれど、セイランにしてみれば〈九十九〉という存在を理解する上で何か本質的な事実を示唆しているように思えた。

この日、セイランはフランカの姿を“探していた”。

だが、それはセイランがフランカをどこかにやってしまって居所が分からなくなってしまったから探す、という意味においてではない。そうではなくて、フランカが自分からどこかへ行ってしまったから“探さなければならなくなった”のである。動かないはずのモノが動く…。この屋敷では、フランカに限らずそういった事象をしばしば観察することが出来る。ただし、それは決してセイランやアオニの計り知れない力によってではなく、れっきとした科学技術によって引き起こされる事象だった。

仕組みはよく分からないのだけれど。屋敷全体が〈九十九官界〉の取り結ぶネットワークとリンクしているらしく、床や天井から壁、階段の一部が〈九十九〉たちの発する思念に反応して稼働する仕組みになっているのだという。もちろん、動ける範囲は限られているのでおのずとあたりはつくのだが、何せこの屋敷、やたらと広いのである。

セイランはちょうど、向こうからやって来る“赤いドレスを着たマネキン”、ではなく“マネキンに着られた赤いドレス”を呼び止めた。(こう表現しないと怒られる。)

「ごきげんよう、ワヒド。」

『ごきげんよう、セイラン。』

ワヒドは一旦立ち止まって?挨拶を返すと、赤い襞の部分を軽くはためかせたかに見えた。

ワヒドは“赤いドレス”の〈九十九〉で、この屋敷に住まう〈九十九〉たちの中でも古株の一着だった。少しばかり融通の利かない性格ではあるものの、〈九十九〉たちの中では珍しくわりと静かな方であるせいか妙に親しみが持てた。少しフランカと似ていたからかもしれない。

「フランカ、どこにいるか知らない?」

『ああ、知っているよ。先まで一緒にいたんだが、ヨハンのやつと音楽室にまだいるんじゃないかな?』

なるほど、音楽室。ヨハンと一緒というのであれば、なおさらそうだろう。

『セイラン。気のせいか君の心は弾んでいるようだ。何かあったのかな?』

ワヒドの言葉に、セイランは微笑み頷いた。

「まあ、ね。懐かしいものがね、出てきたの。」

『懐かしいもの?』

セイランが手にしている一通の封筒。その中に入っているのは五年前、両親のために苦労して認めた一枚の手紙だった。フランカが提案してくれた“素晴らしい代案”に基づいて書いた、一枚の手紙。今読んでみると笑っちゃうくらい間違いだらけで。けれど、あの頃のセイランの思いが、両親への愛が…ぎゅうと詰め込まれている唯一無二の紙切れだった。両親を亡くし、その後色々あったせいで手紙のことなどすっかり忘れてしまっていたのに、今朝方部屋を整理していた矢先、それは薄汚れた練習帳の間に何気ない形で挟まっていた。

結局両親に渡すことは叶わなかったけれど、それでもセイランにとって、この手紙は両親とセイランそしてフランカを繋ぐ大切な標だった。そしてフランカにとってもまた言うまでもなくそうであるはずだと、セイランは確信して疑わなかった。

『今は亡きご両親への手紙、か。』

セイランにはその時、何故だかワヒドの呟きが少し硬く強張って聞こえた。

ほんの少し、意識しなければすぐに分からなくなってしまうくらいの、微かな違和。

セイランは少し迷って、それから遠慮して今まで聞けなかった問いを投げかけた。

「ワヒド、あなたは……その、時々寂しくなったりしない?」

『質問の意味が分からない。』

「あなたの元の所有者のこと、ふいに思い出して悲しくならない?」

セイランはワヒドにも意味が取れるように言い直した。

以前アオニからワヒドの元所有者も、その…不慮の事故で亡くなったのだと、聞いていたから…。

しかしワヒドは、さも不思議そうな口調で、次のように言ってのけた。

『セイラン。君はいちいち起こった過去の“事実”一つにそこまで心を高ぶらせるのか?それはまた、ごくろうなことだ』

 

セイランは走った。とにかく、走った。

とてつもなく、嫌な予感がした。

最初にワヒドの答えを聞いた時、何かの冗談ではないかと疑った。

けれど、ワヒドは本当に、心の底から、純粋な気持ちでもって、そう答えた。

もちろんそれは、単純にワヒドという一個体の性格に由来するものかもしれなくて。もしそれだけの話であれば、なんて薄情で冷淡やつなんだと、ただ憤慨して終わらせれば、よかった…。

ただ、どうしてもセイランは引っかかってしまう。もし仮に、この性格が〈九十九〉という存在一般に見られるものだとしたら…。

そんなこと、あるわけがないと一方では思いつつ。他方で、もしかしたら…という疑惑を何故か捨て切れない。胸中に巣くった疑いの芽は一度成長したら最後、取り除いても取り除いても次から次へと生え出してくる。

セイランは三階へと続く階段を無我夢中で駆け上がった。その階段を昇った右突き当りの音楽室を目指して。

段々と近づいていくにつれて、これは…ヨハンの音?中で誰かが弾いているのか…?

勢いよく扉を開けた。

中にはヨハンとフランカ…そしてアオニがいた。セイランが入って来るのとほぼ同時に弾いていた曲目を中断すると、アオニはピアノ、いや…ヨハンに手を置いたまま顔をゆっくりと上に仰向け、そして目を瞑った。

「フランカ!」

アオニやヨハンに構うことなく、セイランは叫んだ。

「フランカっ!」

もう一度、今度は声を強く震わせながら、叫んだ。

『何だい?セイラン。』

いつもと同じ、のほほんとした口調で言葉を返すフランカ。その姿はいつも通りの、変わらぬ“おたまじゃくし”のぬいぐるみ。

「これ、これ見て?懐かしいでしょ?思い出すでしょ?あなたがこれを書けば…絶対お父さんとお母さんが喜ぶからって!書いたの、ほんとよ?わたしが。わたしの手で……!」

声が、どうしようもないくらいに震えてしまって。セイランは自分が何を言っているのかさえ、よく分からなくなっていた。

それでも、いつだってフランカは。セイランの気持ちを汲み取り、セイランにとって、父と母にとって、一番よいと思える道を指し示してくれたのだ。だから今回もしどろもどろなセイランの言葉を、理路整然と組み立て直して全部、セイランの気持ちを理解し包み込んでくれるに違いないのだ……!

『ああ、もちろん覚えているとも!』

のほほんとした声が頭の中に響き、セイランは心からの安堵の表情を浮かべ…。

 

『でもよく分からないよ、セイラン。君はなんだってそんなものを今更掘り返してきて、なんだって終わってしまった過去の事実に対してそこまで心を高ぶらせているんだい?』

 

この感覚は、どこかで抱いたことがある。

父と母を亡くし、いきなり家にやって来た“見知らぬ大人たち”。

セイランが初めて知ることになった絶望を乗せてやって来た、あの意味不明な言葉を一方的に話してくる“異星人”。それこそ絶対に人間には理解し得ない“何か”……。

セイランはその場から一歩も動くことが出来なかった。手には一枚の紙きれが握られているはずなのだが、感覚はとうになくなって久しいように思われた。

心はただ漂白され、さっきまでそこに抱かれていたはずのあらゆる感情や思いは、すべて押し流されてしまったかのようにきれいさっぱり見当たらなかった。

まるでセイランの中に備え付けられた、絶望の針が振り切れてしまったかのように、心は…動きを止めた。

「素晴らしいでしょう?」

そんな一旦止まってしまった心を強制起動させようとするかのように。どこからともなくアオニの言葉が、心の中にぼたぼたと流れ込んでくる。無から有が、どろりとした粘着質な言葉が産み落とされていく。

「〈九十九〉はね、セイラン。絶対に“傷つかない魂”を持っているの。“この子”たちは“今”という時間軸との関係でのみ、感情や思いを有している。過去に対する郷愁や後悔や執着、況してや未来に対する希望や不安や“絶望”なんてもの一切持ち合わせることがない、完璧な魂なの。」

心の容量はすでに限界を迎えているはずなのに、それでも言葉は堰き止められることなくなだれ込み、心を窒息させようとする。わざと意識を戻させて、それから、苦しみを長引かせるように。

「わたしは“この子”たちの魂の在り方に憧れ、焦がれ、強く惹かれてしまった…。それはもうどうしようもないくらい。……でも、そう思ってしまう時点で、人間であるが故の執着を持ったわたしは、やっぱりどうしようもなく欠陥品だったの。」

塞ぐべき穴を見出せないままぼたぼたと垂れ流される言葉の羅列に心は悲鳴を上げようとするものの、悲鳴を上げる穴すらないことに今更ながら思い至ってしまう。

「だからね。わたしは無理でも。せめて、せめて子どもたちだけでも、救ってあげたいって。欠陥品の魂を完璧な魂に交換してあげたいって思ったの。人間の、それもまだ幼い子どもたちが〈九十九〉と早い段階から関係性を育むことで、結果として人間の心の形成それ自体に〈九十九〉たちの完璧な心が混ざり合って、不可逆な化学変化を与え得るかもしれない。わたしはそれに賭けようと思い、そして、セイラン。あなたと出会えた。あなたはきっと、分かってくれると思った。あなたはきっと、わたしと同じ。分かった上で完璧な魂を欲し、分かった上でわたしの考えに協力してくれる。そして、もしかしたら、あなたの年齢であればまだ間に合うかもしれないとも、思えた。」

クルシイ……クルシイ……心は今まで自分が地獄にいたことに気が付いていなかったのだ。どろりとした粘着質の言葉を、勝手に天上の音楽なんかと勘違いして。心地よく浸っていたものが、実のところ自らの身を焦がす灼熱であることに、まるで気が付かなかった。

「ねぇ、セイラン?だからそんな顔しないでね?そういう時こそ周りをもっとよく見てご覧なさい。わたしの“愛おしい子どもたち”、そしてあなたの愛すべき“兄弟姉妹”たちのことを。あなたもその一員であり、そしてあなたは決して独りじゃないのだから…。」

「……て。」

その瞬間、臨界点に達した言葉は、心から勢いよく噴き出し、逆流した。

「や…て。」

心は、他ならぬセイランの心は、叫ぼうとしていた。だが、それはセイランの心が復活の兆しを見せたからというよりは、心が自動的に自らのテリトリーを守ろうとする防衛反応に近いものだった。俯き力なく項垂れた身体はただ小刻みに震えるばかり。

「や、めてぇ……!」

そして無駄だと分かっていながら、セイランの両手は自らの両耳を塞ぎ、それでも入り込んでくる言葉については、自らの口から出てくる言葉でもって押し返そうと必死になった。

「そんな、の…人間じゃ、ない。そんな、そんなの。お父さん、とお母さんのこと、ただの…ただの、事実だなん、て…!そこに、思いも、なにも…ない、なんて……そんなっ…!」

認めない、絶対に…絶対に、そんなこと、認めない……!

セイランの心の叫びを聞いた瞬間、アオニの両頬から垂れ下がり襞となった皮膚がまるで別様の生き物のようにぶるりと震えた。そして、アオニは少しばかり詰まらなそうにしながら呟いた。

「あなたも結局は、“人間”ぶったことを言うのね。」

その言葉を聞いた直後に、ふつりと意識が途切れセイランはその場に倒れ伏した。

 

あれから、どれほどの時間が経ったのだろう。

あの日から、セイランの心は言葉にならない苦痛の悲鳴を上げ続けていた。

この屋敷で生活している限り、どこへ行っても逃げ場はない。どんなに自分の部屋へと引き籠ろうと、〈九十九〉たちの喧騒は壁やドアをすり抜けて、まっすぐとセイランの心の中へずけずけと土足で上がりこんでくる。セイランの精神状態は、つねにぼろぼろで。かといってもともと外界から逃げて、この場所にやって来たセイランに、屋敷を出て駆け込む居場所なんて他に、なかった。人間社会からも、〈九十九〉たちが狂騒する閉ざされた世界からも、セイランは耳を塞ぎ、心を閉ざし、頑なになってただ自分の身を守るしか他に、術がなかった。セイランには、この空っぽになった身一つ以外にはもはや何も…持ち合わせているものがなかったのだ。全てを…失ってしまった。

それでも、セイランに唯一残されたものがあるのだとすれば。それは、もう失われて久しい両親との、フランカとの楽しかった日々の思い出だけ。あの頃に戻れたら、どんなに素敵だろう、と切に思わずにはいられない。

そういえば…フランカ。

フランカとはあれ以来顔を合わせていなかった。セイランが自室に認証ロックをかけて以来、例え〈九十九〉であったとしてもセイランの許可がない限り、勝手に入ることは出来ないようにしてあったから、まあそれも当然のことなのだけれど。

両親を失って、フランカとセイランだけが残されて……。フランカはいつだってセイランの味方になってくれた唯一の親友で、家族も同然だった。そして誰よりも近くでセイランの悲しみと傷みに寄り添ってくれた、一匹の“おたまじゃくし”のぬいぐるみだと、そう、思っていた。

だが、それはセイランの勝手な思い込みに過ぎなかったのではないか?

フランカの言葉は、セイランが傷ついたり悲しんでいたり理不尽に怒りを爆発させたりした時にはいつも、セイランの心を柔らかな風となって包み込み、癒してくれた。両親を喪った後のセイラン自身がこれまで抱いてきたすべての感情や思い、そのほとんどがあまり思い出したくもない出来事に伴ったものであったとしても。その感情や思いをもたらす根底にはやはり父と母という二人の存在への溢れんばかりの愛着があり、それ故に生じ続ける喪失への深い絶望が埋もれていた。そしてフランカは、そんな“傷”を唯一共有してくれる、同じ絶望を背負った家族として、今まで傍にいてくれていたものだと……。

しかし、その全てがセイランの壮大な勘違いであったとしたら。フランカはその時々で表面的にセイランの心の高ぶりを感じ取り、それが根源的にどこからやって来るものなのかよく分からないまま、セイランに温かい言葉をかけていたのだとしたら……。

ふとアオニの言葉が、脳裏を過る。

 

“〈九十九〉はね、セイラン。絶対に“傷つかない魂”を持っているの。“

 

あの言葉、セイランにとって知りたくもなかった〈九十九〉の、真実。そして、その後にアオニの口にした“おぞましい理想”がくっきりと形を成して、セイランの心を深く覆った。

 

“だからね。わたしは無理でも。せめて、せめて子どもたちだけでも、救ってあげたいって。欠陥品の魂を完璧な魂に交換してあげたいって思ったの。”

 

“もしかしたら、あなたの年齢であれば、まだ間に合うかもしれないとも、思えた。”

 

……違う。わたしは、〈九十九〉の魂なんて、これっぽっちも欲していないし、そもそも“あいつら”と違って、ちゃんとした人間の魂を持っているんだ……!

父と母を悲しみ悼み、そして愛をもって思い返すことの出来る、人間の心を——。

 

しかし、本当にそうなのだろうか?

セイランは幼い時から、ほとんど〈九十九〉とだけ満足に接し、アオニの屋敷に来てからは特に、その傾向に拍車がかかるばかりだった。日常生活を送る上で最低限の人付き合い、例えば施設や学校で取り結ぶコミュニケーションなどを別にすると、セイランは確かに人間との関係を極端に避け続けてきたのである。だとすれば、セイランは…アオニが言ったように、“間に合って”しまうのだろうか?

今はまだそうでなくても、やがてセイランの心は、父と母の思い出を事実として処理するようになり、そこに如何なる思いも感情も抱くことのない、“完璧な魂”へと成り果ててしまうのだろうか……?

腹の奥底から急激に何かすっぱいものが込み上げ、喉元を迫り上がってくるのを感じた。

セイランはベッドに蹲り、苦しそうに息を荒げた。

 

——わたしの愛おしい“子どもたち”、そしてあなたの愛すべき“兄弟姉妹”たちのことを。あなたもその一員であり、そしてあなたは決して独りじゃないのだから——。

 

孤独だ、どうしようもなく、セイランは孤独だった。

果たして自分は、ヒトなのか、それとも…モノなのか?

〈九十九〉たちの織りなす閉ざされた世界の中で。アオニという、セイランにとってもっとも理解し難い存在が創り出した、この狂乱の世界の中で。セイランは自分が〈九十九〉たちと同化し、“人形”と化してゆく未来を、その運命を呪わずにはいられなかった。

だから。だからこそ、なのかもしれない。

セイランの、未だヒトであることを信じ続ける心の一部は、一縷の望みに賭けて、しかし意外なほど冷静に、セイラン自身へとこう訴えかけ続けるのだ。

このままでは絶対に、ダメだ。このままでは——自分は自分であるという、確かな感覚さえ〈九十九〉に明け渡してしまう——。それだけは、絶対にダメだ——。

そして、セイランの心は続ける。

この地獄、いやそんな言葉では到底言い表し得ないこの世界に対して、どこかで行動を起こさなければならないのだ。そこから抜け出すための、たった一つの行動を——起こさなければならないのだ————。

 

その日、セイランはフランカの姿を“探していた”。

途中で通りかかった〈九十九〉たちに居場所を尋ね、フランカがどうやら東館の団欒室にいるらしいことを突き止めると、セイランは脇目も降らずまっすぐにその部屋を目指した。

フランカ…これまで一番長く、セイランを見守ってくれていた、家族。

本当に、父や母と同じくらい大好きで。何物にも代えがたい大切な、家族…だった。

でもきっと、それはセイランの描いた、夢見がちで独りよがりな絵空事の関係に過ぎなくて。セイランはそんなフランカに自分勝手に甘えていただけなのだと、今では思う。

ごめんね、フランカ。こんな、身勝手で、現実のことから目を背け続けて夢の世界に浸っていた子どもの相手をさせられて…。あなたは何も、悪くない。それこそ人間の都合でたまたま魂を与えられて、人間の都合にたまたま付き合わされているってだけ。そしてこの世界に生れ落ちた全ての〈九十九〉たちも結局は、そうなのだ。

団欒室の見た目だけは重々しい扉を、開ける。

すると一際大きなテーブルの上で、一匹の“おたまじゃくし”のぬいぐるみが後ろ姿のまま佇んでいる姿が、あった。その姿は今更ながら驚いてしまうほどみすぼらしくて。何一つ昔と変わっていなかった。

『やあ、セイラン。どうしたんだい?』

まるで時間を感じさせない、まるで毎日のように会っている友人や家族に話しかけるようにのほほんとした口調でフランカは言った。

「ねぇ、フランカ?」

『何だい?』

言葉に少し詰まり、それからゆっくりと息を整え、穏やかな表情を浮かべようとするセイラン。

「まだ、まだ……お父さんとお母さんがまだ元気だった頃さ。覚えてる?わたしの六歳の誕生日に、わたしがお父さんとお母さんを喜ばせるんだって言って……。“せいきのちょうだいだっしゅつマジック”?だっけ…。我儘なわたしは動けないフランカに無理矢理やってやってってお願いした…。そしたらフランカってば、すぐに、そんなことしたらお父さんとお母さんが悲しむよって、優しく言ってくれたよね……?」

本当に小さい頃のことなのに、何故だか今でも明瞭に思い出せる。たくさんの思いや感情を伴って、今でもはっきりと思い出せた。

『ああ、そうだった。覚えているとも。』

フランカは聊かも迷うことなく、言い切った。

「それは……事実として?」

セイランは間髪入れずに問い返す。フランカは後ろを向いたまま答える。

『そうだ。あの時の出来事も。それに付随する思いも感情も、事実としてありありと思い出せる。』

「……それを思って、今振り返って、何か感じたり、思ったり…しない?あの頃に戻りたい、とか、寂しい悲しいって、感じたり…しないの……?」

答えは分かり切っている。それでも、セイランはそう、問わずにはいられなかった。ひょっとしたら、もしかしたら…まったく反対に。セイランの人間の心が、フランカに不可逆の影響を与えているってことも、あり得ない話じゃないんじゃないかって、思ったから。

『それはないよ。だって、それは終わってしまった事実であり、今まさに起こっていることじゃないじゃないか。セイラン。フランカにとって、一つの出来事に付随する悲しみも寂しさも、あるいはその他のあらゆる思いも、全て、一回限りの現象でしかないんだ。君と接していると、そのことがよく分かる。確かにフランカは、そういう感情や思いを抱くことがあるけれど、それは全て論理的に、非時間的に導かれる一種の帰結でしかない。感情や思いは今実際に起きている物事という刺激があって、初めて析出される一種の反応なんだ。』

フランカはさも当然に、少しの嘘偽りを混ぜることなく、〈九十九〉の魂のメカニズムについて極めて明晰に答えて見せる。

それでも、それでもセイランは。話せば分かってくれる、心から理解してくれると未だ信じているといった顔を装って、本当はそんなことはあり得ないと分かっていながら言葉を返した。

「でも…あなたは!あの時、お父さんとお母さんが“悲しむに違いない”って、言ってくれた。それって、それってさ。わたしとお父さんとお母さんのことを、本当に大切な家族だと思ってくれているから、論理とかそんなんじゃないところから勝手に沸いて出てくる……そういう思いや感情から、かけてくれた言葉じゃなかったの……?」

次に来る答えが、あまりにもありありと思い描けるものだから、セイランは却って意固地になってしまっているのかもしれない。

『そうじゃない。それは、ある程度知能の発達した生物であれば誰もが持ち合わせている、“学習”と言われる能力の帰結に過ぎない。複数回の経験によって、刺激と反応のパターンそれ自体を学習した生物が示す“予測”と同じだよ。』

フランカの言葉を聞き終えると、セイランは今度こそ、目の前にいる〈九十九〉という存在の有する魂が、人間の有する魂と相容れないほどに、かけ離れていることを実感した。もはやこれ以上の言葉は、両者の溝をより深めるだけのように思われた。

もちろん、ここに来る前から、こうなることは…分かっていたのだ。

望みなんて、本当はどこにも存在しないなんてこと、そんなのとっくの昔に分かり切っていることだった。

だから、セイランは独り言を言うように、フランカにも感じ取れないくらい心を絞って、呟いた。

 

「わたしがいなくなったら……。フランカ…?あなたは、ずっとずぅっと悲しんでくれる?」

 

何かが焼ける焦げ臭い匂いがした

セイランの両手に提げられているのは可燃性の液体が入ったポリタンクで、すでに半分ほどの量に減っていた。セキュリティシステムは作動しない。動力は既に断ってある。

沈黙の只中でセイランは残りの液体を撒き終えると、ここに来る途中行ったのと同じ要領でもってポケットからライターを取り出し、火を着けた。赤く輝く、セイランの…魂の灯、人間の魂の…抗いの光。

そして、セイランはゆっくりと手の平を開き———。

 

勢いよく燃え盛る炎に取り巻かれてなお、セイランはとても穏やかな心地だった。もうすぐ、セイランの病める孤独をどうしようもないほどに進行させるに至った“楽園”は、〈九十九〉たちと、そして他ならぬセイランともに、完全に消えて無くなるだろう。

これで、ようやく……静かに、なる。ようやく、解放される……。

「ねぇ、フランカ?」

『何だい?』

「あなたにとって、わたしって何だったの?」

後ろ姿の“おたまじゃくし”のぬいぐるみは、答えない。

その代わり、うっかりこぼすように、ただ一言だけ。

『セイラン。これはいつも思っていたことなんだけれど、君ってやつはなんて忙しなく、なんて色鮮やかな魂を持っているんだろう。』

気のせいか、“羨ましい”なんて言葉が、聴こえたような気がした。

 

結局、セイランは死ぬことが出来なかった。

次に目を覚ましたのは病院のベッドの上で、セイランはその後屋敷がどうなったのか、〈九十九〉たちがどうなったのか、話を聞かされることになった。まず当然のことながら、屋敷は残らず火事で全焼し、あの時屋敷に存在したほとんどの〈九十九〉たちが無残な姿になって発見された。

アオニに関して言えば、セイランはわざと彼女が長時間不在にする時間を見計らって計画を実行に移したので、生きているのは当然と言えば当然である。

セイランはアオニが、アオニの生きている意味それ自体を壊されたことによって、セイラン自身を恨んでくれれていればどんなにいいだろうと、そんなことを思っていた。けれどアオニは、恨むどころかセイランを見舞い、あまつさえこんなことを言うのだった。

「言ったでしょう?セイラン。わたしはとっくの昔に、人間を諦めているって。」

そして少し迷ったような、セイランがほとんど初めて目の当たりにしたかもしれない人間らしい表情を浮かべながら、アオニは言葉を続けた。

「わたしがね、セイラン。〈九十九〉の研究を続けていた時、わたしのことを誰よりも理解し支えてくれた人がいたの。でも結局、それはわたしの思い違いだった。彼は、あなたと同じように最後にはわたしの許から離れて行ってしまった。それ以来、わたしはね。人間という存在を、全面的に諦めようって。そう、心に決めたの。」

するとアオニは、自らの過去を覗き見ようとでもするかのようにセイランの知らないどこか遠くの方へと視線を移した。

その時、セイランは思った。

ああ、この人もきっと。同じなんだ……。

ずっと勘違いしていた。アオニは、セイランにとって、人間にとって、決して理解出来ない存在なんかじゃ、なかったのだ……。

病室の窓は開けたままになっていて、ふわりと撫でるように風が通り過ぎた。よく晴れた、涼やかな秋の夕暮れ時だった。

 

それ以来、今日に至るまでアオニの姿を見ることはなかった。

あの時とは立場が逆転し、今度はセイランがアオニを見舞い…いや、看取ろうとしている。

「アオニ……。あなたは…!」

その時、〈自律式高度医療端末〉からけたたましいアラーム音が鳴り響き、各種機械の示すあらゆる数値や情報が、ありとあらゆる仕方でもって目まぐるしい変化を示し始めた。

一人の人間の命が潰えようとする、まさにその瞬間をセイランは今、間の辺りにしている。

アオニが死ねば、今ここで様々な変化を見せている機械たちは一斉に沈黙し、何の反応も示さなくなるだろう。

そしてその時になって初めて、セイランはやっとアオニの身体に顔を埋め、一人言葉にならない声を上げ、憎しみも後悔も悲しみも怒りも寂しさも…全てないまぜとなった感情を爆発させるに違いないのだ。

そこにあるのはただ、かつて人間を“諦めてしまった”一人の人間の身体と、かつて人間から目を背け“逃げてしまった”一人の人間の、心に宿った溢れんばかりの思いであった。

 

セイランが部屋を出ると、ワヒド(なんとセイランが屋敷を燃やしたあの日、ワヒドはたまたま近くのクリーニング店にクリーニングに出されていたせいで難を逃れていたのである!)、そしてその他の種々雑多な〈九十九〉たちが待ち構え、一斉にセイランへと言葉を浴びせかけた。皆が皆、アオニの分かり切った“顛末”について尋ねたかったようだけれど。何せセイランにとっても、〈九十九〉たちにとっても、出会って間もない相手の声は意味の取れる言葉にはなかなか収束してくれそうになかった。

そこでワヒドが咳払い一つすると、たちまち〈九十九〉たちが発するノイズのようにかすかな声の波が引いていき、心にさっきまでの完全な静寂が戻ってきた。ワヒドはそのままほんの少し間をおいてから、静かに襞を翻したように見えた。

『セイラン、アオニはその、どうだった。』

「……心配ない。とても安らかな表情を浮かべて、旅立っていったわ。」

心から穏やかそうに、セイランがそう口にした瞬間、〈九十九〉たちはそれぞれの仕方でもって安堵の溜息を洩らしたかに見えた。

そして、セイランは今思い出したとでもいった表情で、〈九十九〉たちに言った。

「そうそう、ワヒドとヨハンにはもう話を通してあるんだけれどね。後数時間くらいで、うまくすれば、アオニ、〈九十九〉になるから。」

何とも軽い調子でもってとんでもないことを言い始めるセイラン。

ワヒドがセイランの言葉を〈九十九〉たちに翻訳してやると、あれよあれよと喧騒と混乱と歓声と喝采が拡がり、セイランにはかすかにしか感じ取れなくても〈九十九〉たちが狂喜乱舞していることだけは、なんとなく分かった。

その狂騒を前にして、ほんの少しだけ。セイランは自分の下した決断に不安を覚えるのだった。

「本当に、これでよかったのかな…?」

セイランがぽつりとこぼした台詞を拾い上げるように、ワヒドが言葉を継いだ。

『何、セイラン。君が出したその答えこそ、アオニが何より望んでいたことであり、唯一の救いなんだろうさ。』

ワヒドは飽くまで泰然と、〈九十九〉たちの喧騒を眺めているばかりで。そんなワヒドと〈九十九〉たちを前にして、セイランは今更ながら考えてしまう。

 

アオニは人間であるが故に孤独だった。

セイランは人間であるが故に孤独だった。

人間が人間である限り、否応なく過去に縛られ、無駄だと分かっていながら何度も何度も後悔したり、あの頃に戻りたいと願ったり。取り返しのつかないことをいつまでもいつまでもくよくよと考え続けてしまう。例え自分がそれを望んでいなかったとしても、過去の記憶は予期せぬところで甦ったり、またそれ故に未来への不安や絶望が予期せぬ形で先取りされたりする。

けれど、だからこそ人間は、過去の出来事を悼み思い返し、未来への不確定な出来事に対して希望を持つことも出来る。故に、人間は前へ進み続け、そして何かを生み出し続ける力を持っている。例えばアオニが〈九十九〉という魂を生み出したように。セイランが両親という面影を何度も生み出し続けようとするように。それは必然的に莫大なエネルギーを代償とするものであるのだろう。そしてあることがきっかけとなって、アオニはそんな営みを歩むこと自体に、疲れてしまったのだ。だから“人間を諦めた”。

そして、それはセイランにとっても同じこと。セイランはまだ若く未熟であったが故に、アオニのように人間を諦めるところまではいかなかったが、それでもいつだってそうなってしまう可能性は、大いにあった。

だとしたら、人間にそのことを気付かせてくれる〈九十九〉とは、一体何なのだろう?

〈九十九〉はいつか、人間の手を借りずに何か人間には想像すら出来ないものを生み出してくれるのだろうか?

セイランには、よく分からない。

けれど、いつかそういう日が来てくれたらいいなと、セイランは心から思う。

 

〈九十九〉たちは、扉の前で整然とそれぞれの持ち場について一つの列を為し、アオニの“復活”を今か今かと心待ちにしているように見えた。

けれど、セイランにとって、そんな姿はまた、別様の意味を持っているようにも見えてしまう。

今ここにはいない、かつて確かにそこにいた者への、“魂振りの道”———。

セイランは自分でも気が付かないくらいかすかに、小さく笑いながら思った。

 

だからいつまでも覚えていよう。この〈九十九〉たちの葬列を。

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