梗 概
ストロベリーパイ
官僚である私は、22世紀をシミュレーションした世界を体験する。
それは、おそろしいまでに不便で遅れた世界だった。
いまは62世紀。
人類は巨大播種船で宇宙を旅しながら、日々の生命維持活動に勤しんでいる。
清潔で明るくはあるが索漠とした宇宙船の中で、肉体維持のための作業や繁殖行為を行いながら、それを人々はコンピュータの見せる覆囲現実(カバード・リアリティ)により、健康で文化的な生活だと錯覚して暮らしている。我々は、それによって精神と肉体の健康を維持しているのだ。
だが、健康を管理されているとはいっても、世代ごとの人数の増減は避けられない。
そこで100年ごとに、覆囲現実の内容が見直される。
その時々の人口に適した時代の生活に置き換えられるのだ。
現在の私たちが見せられているのは、23世紀の生活。
しかし、この100年で人口が大幅に減少したため、次の100年は22世紀の時代の生活が採用されることになっている。
100年の区切りを過ぎた瞬間、覆囲現実の内容が22世紀の生活へと入れ替わり、誰もが、ついさっきまで過ごしていた23世紀の生活を忘れしまうのだ。
次の100年で人口が持ち直せば、その更に次の100年は再び23世紀の生活に戻ることだろう。
しかし、そこで見せられる23世紀が、いま私が生きている23世紀と同じになるとは限らない。
覆囲現実は、かつての時代の記録を元に、その時々の役人が内容をデザインするものだからだ。
そして私も、次の100年の覆囲現実をデザインすべく、いま見せられたばかりの22世紀の暮らしに、同僚たちと会議をしダメ出しを始めるのだった。
会議の途中で、おやつのストロベリーパイを食べながら、私はふと思う。
次の100年で人口が増加し、更にその次の覆囲現実が23世紀の生活に戻ったとする。
もしかしたら、自分の子孫が役人になって、更に次の100年のために覆囲現実をデザインしたりしてるかもしれない。
その時、私の子孫が見る23世紀の景色に、いま私の過ごす23世紀の何が残っているだろう?
たとえば、いま私が食べている23世紀スタイルのストロベリーパイが、次の23世紀でもレシピを考案されたりするのだろうか?
以前の23世紀から、100年を経て、再び23世紀で考案されたストロベリーパイ。
それは、いったいどういう存在であるのだろう?
そして、どういうことであるのだろう?
それは、元に戻ったのか?
それとも、辿り着いたのか。
皿の上のストロベリーパイを見つめながら、私は、そんなことを考えるのだった。
どこか、名状しがたい寂しさを感じながら。
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内容に関するアピール
時が未来に進むと、誰が決めたのか?
そんなこと言われたって、時は未来にしか流れない。
ただ時折、過去にあったのと同じものが蘇ったりするだけだ。
車輪の再発明や喪失論。
そういった言葉で説明できるような心情を、冷笑的にでなく描いてみたい。
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