梗 概
エレクトりシティ・ストりーム
社会は『所有』を放棄しかけていた。カメラやマイクで電子的に取得された個人情報を政府や企業や治安機構に提供することで歩行者天国は安全になると信じられていたし、必要なものがあれば情報提供を専業とする『コンテンツ企業』が独立回線で『配信』してくれていた。素服が数着あれば服飾情報でどんな衣服も再現できたし、遠くへ行きたければ公共交通網から路面電車などの移動資源を手配できた。だが今回の選挙でとある政党から、情報の改変・複製・再配布を合法化する――情報を個人が『所有』する――『ブルー・オーシャン法案』が提示される。根拠は寡占状態にある情報市場の適正化。コンテンツ企業側はそれを『海賊的法案』や『物象主義』と呼び、政戦となった。
そんな授業中、野崎萸き雛は今晩も現れるであろう下着泥棒の対策で頭がいっぱいだった。素服と服飾情報があっても、下着だけは数少ない『所有』物なのだ。物象主義者達は、『青少年法』という未成年の個人情報保護の法律に守られた、萸き雛のような少女のそれを狙う。下着と、付着した個人情報を。個人情報の簒奪を嫌悪する萸き雛は、男装の悪友、紺堂流り烏と協力し下着泥棒のへ対策を講ずる。
結果、下着泥棒を貸会議室へ追い詰め、萸き雛達も飛び込むが、中には『ブルー・オーシャン法案』推進派の男性議員候補と秘書の二人だけがおり、下着泥棒と思しき人物の姿はない。不法侵入を問われそうになった萸き雛と流り烏は、補導を避けるため、違法な情報的手段を複数使い自分たちを隠蔽しながら逃走する。議員は独占使用が許された移動資源である選挙カーで二人を追う。このままではいずれ捕まることを悟った二人は、逃走しつつすべての隠蔽を外し位置情報をはじめとする個人情報を公開しながら動画のライブ配信を開始する。そこで根本である下着泥棒の解決と金銭面の支援を募った。途中、動画の回線が自分たちの個人情報を守るための青少年法で逆に切断されそうになった時、莫大な金額の資金が提供され、二人はその資金を元手に起業し、企業向けの独立回線を契約し配信を続ける。
最終的に歩行者天国へ逃げ着くと、配信の効果で大量の人がごった返しており、萸き雛達も、議員も、大勢の視聴者に包囲される。全員逃げ場が無くなり、下着に残された犯人の個人情報により、犯人は議員本人ではなく秘書だとわかる。コンテンツ企業側の人間だった秘書が議員に罪を被せ法案を潰そうとしたらしいこと、そして莫大な資金提供者が真相解明を望む議員だったことが判明する。
萸き雛は下着を奪還するが、議員は盗まれ続けた複数の下着を手渡す瞬間に報道を受けイメージダウンの末に落選し、法案は施行されず、社会はまた『所有』を放棄しつづける。
文字数:1196
内容に関するアピール
100年後という今から地続きの未来では電気通信技術によりコンテンツが電子化され、社会は個人での所有という概念を少しずつ放棄し続けたが、まだ完全には捨てきれない。ほとんどが『kindle版』であり、『紙の本』は嗜好品となる世界。それはモノ自体に価値を感じるオタク的な感性=フェティシズムの歓迎されない世界だ。
そんな世界で、一人の少女の下着というフェティッシュが盗まれる。世界に対して矮小すぎる事件だが、少女にとっては大事件だ。
複雑に絡み合った利権や政治や野次馬精神の世界で、少女の下着というフェティッシュの物語が、電気通信技術により分裂し、拡散し、炎上する。
少女は自分の下着=フェティッシュ=『紙の本』を返してくれと社会に要請する。
それは『わたし』なのだ、と。
たかだか下着をあるべき場所に戻すために社会が右往左往する、ばかばかしくも切実な物語を提案したい。
文字数:382
ブルーだけでは足りなくて(原題:エレクトりシティ・ストりーム)
1.
水色のブラジャーとお揃いのショーツ。そのしとやかで鮮やかなブルーが彼女の心を打ったのだ。
ブラにもショーツにも、紺色の薔薇が愛らしく細やかに刺繍され、要所要所を繊細な白いレースが柔らかく覆っている。
十三歳の頃の野崎萸き雛が、初めて自分で選んだ下着がそれだった。選んだ時、可愛くて、嬉しくて、どきどきした。
下着はずっと母親に買い与えてもらっていたもので、萸き雛の趣味には合わない無地ものばかりだった。自分のものが欲しいと言い出すのには勇気が必要だった。仕事で忙しい両親の帰宅のタイミングがずれるまで一晩待って、決心してからも言い出せずにまた一晩過ぎた。さらに次の日の夜遅くに仕事から帰ってきた母親にだけ告げた。
「そっか、ヒナもそんな歳なのね」
母親はそう言って微笑み、強引に有給休暇を取って翌日のランジェリーショップへの買い物に付き合ってくれた。
萸き雛が思い出せる、下着にまつわる一番古い記憶だ。そして、その初めて下着を選んだ時のどきどきは、十七歳になった萸き雛が今、二両編成の軽路面電車内でつり革を掴みながら感じているどきどきとは、正反対のものだった。
夏みかん色の西日が、電車内にも外気温の暑さを伝える。電車内の人々は電子書籍を開いていたり、オーディオ端末から楽曲の配信を受けていたり、涼し気にコンテンツを消費していた。けれど萸き雛の手には緊張の汗が滲み、つり革から滑りそうになる。まだ退社時間には早い電車内には人もまばらだが、萸き雛の数歩横でつり革に掴まるスーツ姿の男が、萸き雛の感じたくもないどきどきの原因だった。
尾行の最中だった。連日彼女の下着を盗んでいく下着泥棒の。
「見失っちゃいないね? ヒナちゃん」
不意に、耳元で自動読み上げ機能が流暢に囁いて、受信したメッセージの件名を萸き雛に知らせた。尾行前に悪友たる紺堂流り烏から助言を受け設定していた機能だった。音声は外耳道を塞がないようにはめたイヤーピースから指向性の音波が鼓膜に直接届いた。
メッセージの本文を確認するために、学校制服のポケットから片手で計算液晶を取り出す。長方形に切り取られたふちのない灰色の摺りガラスとでも形容できるそれを手元に持ってくると、データ化された虹彩やら静脈やら指紋やらDNAの塩基配列やらをもとにした生体認証――個人情報の照会――が行われ、メッセージの本文が表示された。萸き雛の手には取り落としそうなくらい大きいそれの画面を、やっとの思いでスクロールさせる。差出人は助言した紺堂流り烏本人で、本文はこうあった。
『焦って電車内でそいつを捕まえようとしてはダメだよ。なにをされるかわからない。なにより——』
続きを読む前に、萸き雛は心の中で、続くだろう文言を唱えた。
——なによりそいつは、カメラに映らないから。
来歴は不明で、街頭のいたるところに設置された撮影端末が死角なく撮影し配信する定点映像にも、もちろんに野崎家に設置された防犯カメラの映像にもそいつだけ綺麗に映っていなかった。高度な情報技術を用いた電子的隠蔽か、他者による情報取得を制限する法的根拠かのどちらか、あるいは両方を施された人間だった。情報的に判断できる証拠がないから、被害届も出せなかった。ゆえに今まさに肉眼で追っていた。
軽路面電車が、住宅街と都市部をつなぐトンネルに差し掛かり、窓の外が暗くなる。視界の端で、萸き雛の制服の表面に一瞬細やかなノイズが生じた。ほかの乗客が纏ったスーツや学生服もみなそうだったから、誰も気にしなかった。単に無線通信の根本的な欠点として、トンネルの建材や土などの構造体を貫通させるのが難しい。特に素服に流すような高密度な服飾情報の通信ならなおさら。
萸き雛はそのノイズを見て、暗澹たる気持ちに襲われた。私たちは、服飾関係では『下着』だけが所有物となり、服さえも配信されているのだと。
窓に萸き雛の姿が映る。肩口でそろえた淡く波打つ栗色の髪は見慣れているが、特徴的な両の瞳を意識してしまって自分でもひやりとした。両目とも、茶色の虹彩を中央から上下に分断するかのように真一文字に明るく変色していた。未だ万能足りえない再生医療の帰結であり、DNAの配列情報による認証と基盤を同じくする双子の技術たるそれが、自分自身の肉体さえ配信されているような気にさせられた。
一生光を失うことに比べれば見栄えや嫌悪感程度。いつものようにそう考えて萸き雛は溜飲を下げた。そしてあきらめたように手元に視線を落とし、計算液晶を見た。やっぱり、下着に縫い付けた追跡機の信号は妨害されて受信できていなかったが、流り烏からのメッセージはしっかり受信できていた。
『なにより――この都市を統べる、都市管理知性群に対してどんな影響を及ぼすかわからないから』
丁度トンネルを抜け、都市部の全容が窓の外に広がった。
医療関係企業や配信サービスを牛耳るコンテンツ企業が入った高層ビルが薄紫の空を裂き、その足元には建物たちがひしめく。テナントビルのカラオケボックスや貸会議室は空間を時間単位で切り売りしていたし、峡谷のように歩行者天国を囲ったビル群は、壁面に巨大モニターを備えて、無料で配信されるコンテンツと広告を提供する。
移動資源たる自動運転車や軽路面電車は、『止まれ』を意味する赤信号で進路を判定された。交通も経済活動も配信されるコンテンツも、それらの流通を判断する個々の『信号機』自体に仕込まれた学習性のAIが判定を下す。その信号機たちが形成する分散ネットワークを疑似的に都市管理知性群と呼んでいた。それはビル内のテナントや、住宅街の映像や、交通や、服飾や、人々の端末に配信されるコンテンツなど、あらゆるものが赤信号の判定を仰がなくてはならない――個人がそのモノに対する責任の全権を持てない――『所有』が無くなりかけた社会だった。
萸き雛は、つり革を握る手を強めた。
萸き雛達に許された数少ない『所有』物を――下着を、取り返す。
改めてそう心を定めたとき、ちょうど軽路面電車が駅に着いた。各路線が都市部に集約される広めの末端駅で、電車内の全員がそこで降りた。まばらな人波のなかで、萸き雛がスーツ姿を尾行していると、隣に一人の少年が並んだ。中性的な美少年で、濡羽色の黒髪にシンプルなワイシャツと黒のスラックス、生成の帆布で作られた大きなトートバッグ、萸き雛は隣を見ずとも彼女がそんないつもの恰好をしているのだと知っていた。
「あれが、そうなのかい? ヒナちゃん」
萸き雛の視線の先を確認した紺堂流り烏が訊いた。萸き雛は無言で頷き返した。
流り烏は自分の計算液晶を取り出して、駅構内の撮影端末から映像を配信させた。
「確かにね」
映像には、人波にぽっかりと一人分、空白ができていた。
二人が追跡しているスーツ姿が、駅から都市部に出て、人通りの少ない裏道の方へ歩みを進めた。
大通りから一本外れた裏通りにも、大通りと変わらないくらいの撮影端末が設置されていた。カフェの軒下もそうだし、とうとう点灯し始めた街頭の下にもあった。
「厄介だね、慣れてる」
「歩行者天国とかのほうが、人ごみに紛れられそうなのに……」
「逆。街頭映像の配信を見れば、人ごみの中の空白が丸わかりだろう? 私たちの青少年法と同じだよ」
流り烏はそう言って、萸き雛の計算液晶に通信結節を張って一本の動画配信をリンクさせた。先ほど萸き雛が乗っていた軽路面電車内の映像だった。つり革につかまる萸き雛の姿が違和感がない程度に、ぼやけていた。都市管理知性群の仕業だった。未成年の保護のために、十八歳以下の人間の情報取得が制限されていた。
「私は私の所有さえ許可されない」
いつの時代も変わらない反骨精神を抱えた萸き雛達を煽るように、背後から車の走行音が聞こえた。同時に、スピーカーから流される流暢な合成音声の選挙演説も。振り返ることすらなく、選挙カーだと二人は察した。歩道の端に寄り、スーツ姿を見失わないように選挙カーの背後を視界の隅で見送った。議員の名前よりも、その隣の文言のほうが、萸き雛の興味を引いた。
『ブルー・オーシャン法案』――情報の改変・複製・再配布を合法化する――情報を個人が『所有』することを打ち出した法案で、かの議員候補が当選したあかつきには、議会に提出されるはずの法案だった。
「あれ、学校でも話題になった。知ってる?」
「知ってると思うかい、優等生?」
「……その通りね、不良少女」
そんな他愛ない会話が続いたが、追うべきスーツ姿は見失わなかった。辿り着いたのは、テナントビルに入った企業向けの貸会議室だった。駐車場には、さっきの選挙カーも止まっていた。
何の変哲もないテナントビルの自動ドアを通り、萸き雛と流り烏が侵入した。安っぽいカーペット張りの床が、ちょうどよく足音を消してくれていた。受付で認証を済ませるスーツ姿を横目で見ながら、流り烏が青少年法を悪用した。萸き雛達の情報的な状態を不審者に襲われた時用の非常設定に切り替えた。流り烏と萸き雛の侵入を『非常時による一時的な逃走』と定義させ、貸会議室内の中枢以外の認証・セキュリティの両システムを黙らせた。
スーツ姿が認証を終わらせ歩き出すのと同時に、萸き雛たちも追いかけた。目の前でスーツ姿が扉を開き、室内に消えた。映像での情報取得ができない犯罪者である以上、自分の目を信じるしかなかった。萸き雛は頷いた。行こう、と。
二人でゆっくり物音を立てないよう近づき、貸会議室の扉を開いた。もちろん無許可だった。
なかにいたのは、選挙カーの使用主である議員候補と、スーツ姿の女性秘書だった。あのスーツ姿の男はどこにもいなかった。
その場にいた四人の顔が、一様に歪んだ。どういうことだ、と。
2.
萸き雛が自分の席から校庭の隅の森を眺めていると、午前の授業は終わっていた。下着泥棒への対策に頭を悩ませていたらチャイムが鳴っていたのだ。萸き雛が通う女学園にはスクールバスで一時間は揺られる必要があるだけあって、緑がたくさんあった。校庭の隅の森には都市部から追い出された鳥たちが集っている。担当教諭が教室から出ていくと、萸き雛の周りのクラスメイト達が立ち上がりお昼ご飯の用意を始めた。一つだけ授業中からすでに空席だった机には、もう仲良しグループがおしとやかに黄色い歓声を上げながら移動していた。
そんななか級友の一人が萸き雛に声をかけた。『コンテンツ企業』について訊きたいらしかった。
「そうね、両親が勤めているってのもありますし、私自身もそこの中に居たことがありますし」
「まぁ! インターンシップか何かですかしら? そのときのこともぜひ聞きたいですわ」
級友は笑いながらそう言った。本音でも、建前でもあるのだと知れた。社交界流の二枚舌が仕込まれた少女たちの学園では、日常的な会話だった。形式に乗っ取った交流と情報収集だ。
「この目が、こうなった時のことよ」
萸き雛が自分の瞳を指さした。こげ茶色の虹彩を上下に分断するように一部が琥珀色に変色している瞳を。再生医療の傷跡を。
級友が気勢をそがれ、しり込みした。それでも軽く解説した。
映像や、音楽や、文学や、服飾や、あらゆる形態で配信されるものをコンテンツと定義して、一括管理することになった複合企業群をコンテンツ企業と呼んでいた。
級友は納得し、声のトーンを変えてこう聞いてきた。
「今度の選挙、萸き雛さんはどうなると思います?」
こっちが本題だった。議員や官僚の娘が多く通う学園で、コンテンツ企業の重役の娘である萸き雛に意見を求められるというのは、例の法案がらみだと知れた。
「『ブルー・オーシャン法案』ですの?」
「さすが事情通でらっしゃるのね!」
「情報の、複製・改変・再配信を認めるなんて、品がないと思いますわ」
社交界流の二枚舌で感情を押さえつけた。複製・改変・再配信を認める、合法化する。それはつまり、配信された情報を個別に『所有』できるということだ。萸き雛はそう考えると、少し憧れた。
級友はその返答に満足したのか、二言三言喋ったあと、彼女が所属する友人グループとのお昼の時間を過ごすため去った。萸き雛はため息をこぼし、再び校庭を見つめる。級友たちとは不仲ではない、ただ、社交界を好きにもなれなかった。教室で話されるのは、選挙や、親類の事業やなどの話だ。計算液晶で時間を確かめてから萸き雛は席を立った。「この目が、こうなった時のこと」を思い出しながら。
萸き雛の認識からすれば、ただの災害だった。あの時は、それを握っていた誰かよりも、路地裏で夕日を照り返して踊るナイフそのものに目を奪われた。文字通りの意味でも。
幸運だったのは、指定通学路以外の街頭にも撮影端末が普及し始めていて、たまたま萸き雛達が襲われた歩道にも配備されていて、稼働したての都市管理知性群と治安機関の連携が完璧になされ被害を食い止めたこと。
不幸だったのは、その頃から管理されるのを嫌っていた流り烏が、萸き雛を誘って指定通学路以外の裏道を通って帰宅していたこと。
そのとき流り烏に傷はなかったが、萸き雛の様態はひどいものだった。両方の虹彩が裂傷し、刺された左胸は開放性気胸となって肺を狭窄させていた。さらには肺内部の出血による呼吸困難で、その場にいた大人たちさえ、誰もどうしていいかわからなかった。
流り烏は、目の前でこぼれていく命に恐怖し、萸き雛の身体に触れる事さえできなかった。血の臭いが漂い、大人たちの怒号が飛び交う路地裏が、夕焼けで地獄のような赤さとなって、流り烏の心を拭いきれない罪の意識で焼いた。
完璧になされた都市管理知性群の連携で、医療機関への搬送まで寸分の誤差なく完遂され、萸き雛ようやく一命をとりとめたが、とりとめただけだった。
頭部を固定され、両目を塞がれ、口から送気管を通され、医療関係者以外には全く把握できない量の点滴を両腕に供えられた萸き雛は、格好の神輿だった。両親がコンテンツ企業の重役勤めだった事も、ある意味災いといえた。誰も、子供が被害者となった親が児童全体の安全のために、人々から情報を提供させる社会づくりに邁進することを、美談として語る以外の言葉を持たなかった。
当の萸き雛自身が、何とか正気を保てたのは、毎日流り烏が来て、手を握り話をしてくれたからに他ならなかった。
再生治療が始まると、個人情報という語が表す範囲はもはや当人の遺伝子や免疫系の情報にまで拡大されていて、そのデータをもとに虹彩や水晶体や角膜や左肺が再生された。ただ、足を骨折した人間が、ギブスを外してもすぐには歩けないのと同じで、肺を再生したからと言ってすぐに呼吸が楽になるわけでもなければ、虹彩とその周辺を再生したからと言って、すぐに目が見えるわけでもなかった。
だから、萸き雛が数か月ぶりに瞳を開いたとき、目に入ってきたのは滲んだ水彩画のような世界だった。医者が言うには、脳内にいくつかある視覚野というものが『モノの見えかたを忘れかけている』ということらしかった。目の使い方を思い出すまで、一か月ほどの期間を要した。ある時、ふと何かを思い出すように、流り烏の横顔がぴたりと詳細に像を結んだ。
「流り烏、ずいぶん可愛い顔してたんだね。傷、つかなくて良かった」
萸き雛を見た流り烏は、伸びた髪を振り乱し手を握ってわんわん泣いた。刃物が怖くて、髪さえ切れなかったそうだった。
そして翌日、病室に入ってきた流り烏を見て萸き雛は驚いた。流り烏がバッサリと髪を切っていた。
「本当に見えるようになったんだね。傷の代わりに差し出せるものがあれば、何でも言って?」
流り烏はそう言って、いつも通り手を握り、些細な話をして帰っていった。萸き雛が搬送されてから退院するまでの十一ヶ月間、ずっとそうし続けてくれていた。
「来ると思ってたよ。優等生」
校庭の隅の森に、紺堂流り烏は居た。都会から追われた黒い鳥が木陰で羽を伸ばすかのように、木の幹に背を預け濡羽色の短い髪を惜しげもなく風に任せている。
「お昼前の授業さぼってなにしてたのよ、不良少女」
校舎の窓からは茂った葉で死角になる木陰に足を踏み入れた萸き雛は、軽口で返しながら流り烏の元へ進む。教室に一つだけあった空席の机の主が、涼やかな黒い瞳で萸き雛を捕らえた。
「お昼寝」
あきれながら流り烏の膝の横まで歩みを進めた萸き雛が、自分のスカートのお尻部分を太ももに這わせるように撫でながらしゃがむ。
「手伝ってくれる?」
「いいよ」
「訊かないのね」
「訊くまでもないのさ。君のお願いなら、なんだって」
萸き雛は返答を聞いて後悔した。助けてほしいのは事実だったが、ここまで無分別に請け負われると、ずきりと萸き雛の左胸が痛みを覚えた。この不良少女にはいまだに、昔の萸き雛への負い目が残り続けている。その負い目を利用してしまっているようで、左胸がずきずきした。だが、返答をもらった後で願いを取り消すことが、流り烏を余計に傷つけると萸き雛は知っていた。
「下着泥棒なの」
萸き雛が感情をあらわにしないよう簡潔に言った。とたん流り烏はきょとんとし、くつくつ喉の奥で笑った。
「下着ねぇ…… 新しいの買えば?」
「ママと同じこと言ってるわ…… そうじゃないのよ」
「いやごめん、わかってるよ。萸き雛がそう思うなら、それは正しいことだ」
流り烏が立ち上がり、片手でもう片方の腕の肘をつかんで背筋を伸ばす。
「下着ね、売れば高いんだよ? ヒナちゃん体形が昔と変わらないからより高く売れる」
その平静さに、萸き雛も合わせた。しゃがんだまま流り烏を見上げる。
「あきれた。流り烏、お金に困る家ではないでしょうに」
「家とあたしはちがうよ。この制服を着てるからって、萸き雛が社交界を好きじゃないようにね」
校門に向かって歩き出す流り烏を、萸き雛は止めない。
「こんどこそ、あたしが守るよ」
茶化されることのない真摯な返答に、萸き雛の胸がまた痛んだ。
「信じてるわよ、もちろん」
痛みを隠すため、社交界流で返した。慣れたくもなかった二枚舌が、いまは幸いした。
3.
「つまり、治安機構の監視のある場所まで赴き、私のカバンの中身を確認させてほしい。君の要望はそういう事かい? 紺堂さん」
応接用のソファーにかけ品のいいグレーのスーツを身に着けた鷺島つと鉾候補が、テーブルを挟んで向かいに座った流り烏に言った。萸き雛は流り烏に縋りつくように二人掛けソファーのもう片方に座り、口をつぐんでいた。秘書の鶴石空き良という長髪の女性が三人の前にコーヒーを置いて、部屋の隅に下がった。
「そうです」
流り烏のいらえは端的だった。それが、鶴石秘書を怒らせた。
「あなたね! 自分達が何をしてるのか――」
鷺島候補が鶴石秘書の言葉を手ぶりで止める。
「こちらに、その義務はない」
鷺島候補も端的に答える。流り烏は閉じて座った膝の上に指を置き、とんとんしながら聞いていた。
「公正な選挙のための情報保護を根拠とした『候補者特権』によって、所有物の開示を拒否できるし、君が言う通りカメラでの情報取得も法的根拠により拒否できる」
所有物という言葉が萸き雛の琴線に触れた。縋りついていた自分を奮い立たせて、鷺島候補に視線を向けた。なんとなく聞き覚えのあるような声だった。彼が胸の前で組んだ手の、左の小指と薬指が震えていた。それの意味を考える前に、流り烏が次の質問をした。
「どこの許可があれば、開示していただけますか?」
「区の選挙管理委員会が、一定以上の有権者の同意を確認すれば、開示請求をよこす」
青少年法の対象たる十七歳とは決して相容れない、有権者という言葉が萸き雛達には遠かった。
「期待してました」
「何に?」
「万人が持つ善性に」
「青少年法を悪用している痕跡が見受けられる君たちはそれを持っているのかね?」
鶴石秘書が小さく頷いたのが萸き雛には見えた。萸き雛達の行動の痕跡を、都市管理知能群に請求したらしかった。
『萸き雛、逃げる準備して』
イヤーピースの読み上げ機能が萸き雛にささやいた。流り烏が先ほどからとんとんしていた膝は、体表越しに情報コマンドを打ち込んでいたらしかった。
『お手洗いに行く、って言って立ち上がって』
「お手洗いに行く」
萸き雛は緊張のあまり、そのまま言って立ち上がった。鷺島候補者と鶴石秘書が怪訝さも隠さずに萸き雛を見つめた。流り烏は一秒だけ内心で頭を抱え、二秒後には行動した。
「すみません、あたしも――」
言いながら立ち上がろうとし、途中でわざとコーヒーカップをひっかけ盛大にやった。黒い液体が、交渉が決裂したことを表す罅のようにテーブルに広がった。
流り烏が右手で自分のトートバッグを、左手で萸き雛の手を取って駆け出し、来た時と同じように鍵のかかってない扉を開け放って廊下を馳せた。
「まったく可愛すぎるね!」
「だって、だって!」
萸き雛が走りながら弁明した。二人は来た時は違う駐車場側の裏口から外に出て、一番近くの裏路地に入って呼吸を整えた。湿ったコンクリートとビルの壁面を染める苔とカビの匂いが不快だったが、二人とも必死に酸素を取り込んだ。
流り烏が肩掛けのトートバッグを室外機の上に下ろし何かを出す。
「なんで逃げたの? 逃げ切れるの?」
萸き雛が息もたえだえに問いかけた。
「答えがもらえたから。で、逃げ切れるかどうかだけど、やるしかないね」
応えながら流り烏が取り出したものを見て、萸き雛は絶句した。口を結んだ使用済みと思しきコンドームの束を物色しながら、流り烏は真剣な顔をしていた。
「安心して、使ってない。これが一番衛生的だから入れ物にしてるだけ」
流り烏が切々と応えた。コンドームの中には、それぞれに小型の回路基板と小さなカプセルが埋め込まれていて、ものによってはそのカプセルがコンドーム内で割れていた。
「見知らぬ大人たちの、髪の毛とか切った爪とか、もっと不衛生なものが入ってる。生体認証を突破する時のDNAの配列情報を取得するために」
解説を聞きながら、萸き雛がコンドームの束の一つをつまむ。
「どこで手に入れたのよ……」
「ネットの個人販売。そういう大人が、巨大なリスクと性欲を一緒に詰め込んで、無料みたいな金額で配ってる――よし、いくつか生きてる。つながった」
流り烏が計算液晶を取り出し、萸き雛と一緒にのぞき込んだ。複数の映像全てが、まったく知らない名義で取得されていた。
街頭カメラからの配信映像は、テナントビルから出てきた鶴石秘書が誰かを探している様子が映っていた。二人の予想した通りだった。そこまでは。
ある配信動画が最悪だった。
無学な児童が、面白半分で議員候補の選挙事務所に乗り込み、善意で出されたコーヒーをひっくり返して逃げ去る様子が流れていた。映像の流出だ。萸き雛と流り烏は青少年法で暗号化されていたし、鷺島議員も鶴石秘書も候補者特権で映像から消えていたから身元こそ特定はされずに済んでいた。
悪辣な言葉で児童たちをなじるコメントがあふれ、視聴数を爆発的に伸ばしていた。広告収入をもたらす視聴数に目がくらんだ人間が通信結節をつなぎまくっていた。真っ赤になったサーバの負荷状況が、まさしく炎のように広がり続けた。
民主主義を馬鹿にしている、と誰かが言った。その言葉が、拡散し、分裂し、禍々しい言説のナイフが形成された。数万人がそのナイフで二人の児童をめった刺しにしていた。
萸き雛は、過去に類を見ないくらい気分が悪くなった。涙が滲み、胃の中身を全てひっくり返しそうだった。
流り烏はこらえきれないような悲しみを痛切に感じた。自分のせいでまた萸き雛か傷ついたことに。
おくびにも出さず萸き雛の手を握って走り出した。コンドームの束をトートバッグにおしこみ、通信結節は生きたままにしながら。計算液晶の映像の一つで、鶴石秘書が萸き雛達が身を隠した路地裏に近づいてきていたし、遠くから不穏な声が聞こえてきていた。
「鷺島つと鉾。鷺島つと鉾。鷺島つと鉾をよろしくお願いいたします!」
二人が顔を上げた瞬間、路地裏の出口に一台の車が止まった。独占利用が許可された移動資源である、選挙カーだった。鷺島つと鉾候補みずからがハンドルを握り、運転していた。
萸き雛は思わず短い悲鳴を上げた。血の気が引いた。流り烏は萸き雛の手首をつかみ素服の制御端末を操作した。素服の表面が一瞬のノイズまみれになって、すぐもとに戻った。
「これは?」
流り烏は答えるよりも先に、手近な雑居ビルの裏口へ萸き雛を連れ込んだ。あらゆるセキュリティが一切反応しなかった。
「AI迷彩。ごめん、闇市でちょろまかした認証期限切れの軍用品。違法ギリギリの複製品」
「何が変わったの?」
「物理的には素服の発色繊維が点滅するようになった、秒間二百四十回で。情報的には――」
「結果だけ言って」
「都市管理知性群が、私たちを認識しなくなった。人間には知覚できない点滅間隔で、映像解析の学習性AIが異常値と判断するパターンを流してる」
「それで、どこに逃げるつもりなの」
流り烏が差し出した計算液晶に映っているのは、路地裏の出口で街頭演説の体制に入ってしまった鷺島つと鉾候補と、逆方向の通路から追ってきた、鶴石空き良秘書だった。萸き雛達には階段を上るしか逃げ道はなかった。流り烏は途中の階段の踊り場にあった窓を、全て開けながら上に向かった。六階まで登るとスチール製の扉があって、流り烏が情報的にこじ開けた。
深紅と薄紫が入り混じる夕焼けと温くて気持ちよくない風が二人を出迎えた。遠くに見えるビルが、沈みかけの夕陽に照らされて、都市外縁まで影を伸ばしている。
手すりの向こうには十センチと離れていない隣のビルの緑化屋上が、段々畑のように下に続いていて、都市に吹くビル風の軌跡が草の揺れるパターンとして浮かび上がっていた。
「とりあえず、あたしたちにできることが一つある『開示請求』だ。鷺島候補が自分で言ったんだ、『一定数の有権者の同意があれば、地区の選挙管理委員会が開示請求をよこす』って」
「私たちは有権者じゃないでしょう」
「だから、配信で呼びかける。この地区の有権者に、鷺島つと鉾候補への開示請求を出すために。そして、萸き雛の下着さえ見つかれば、そこで治安機構に通報すればいい」
「見つからなかったら?」
「議員候補の疑惑が晴れて万々歳だ」
「私たちはどうなるのって話!」
「全部、不良少女たるあたしのせいだよ。安心しな優等生」
萸き雛はナイフでも突きつけられたみたいに言葉を失った。もし実際に揮われたなら、炎上する情報空間で形成された歪な言説のナイフよりも、端的なそのナイフのほうが何倍も鋭く深く自分の心を傷をつけるだろうことが分かった。左胸の傷跡が痛んで仕方なった。
普段通りの顔つきで飄々と通信結節の接続を確認している流り烏に、屹然と言った。
「私が、やる。これは、私のモノだから」
計算液晶を構えた流り烏が、半透明の構造体自体が受光素子でもあるその延べ板で、夕焼けを背景に巨大な黒いビルに押しつぶされそうになっている萸き雛を映している。
「初めまして、今日は――今日は? ううん、今回は助けてほしくて、この配信を始めました。この声が、届いていますか――」
映像配信が正常に行われていることを示すコメントが数件、ぽつぽつと配信画面に浮かび上がった。
「現在選挙に出馬しているとある議員候補が、私の下着を盗んだ可能性があって――」
コメントは二種類あった。『炎上』と『開示請求』でどちらも同じ速度で反応があった。炎上は、まさに今燃え上がっている動画の新たな薪木として通信結節の接続が乗算で増え、視聴数があっという間に四桁を超えた。
その裏で開示請求の話題が微かに話題になりつつあるタイミングで、流り烏が配信音声を街頭カメラから拾ってきて、配信映像に重ねた。
――鷺島つと鉾。『ブルー・オーシャン法案』と『情報の所有』という連想が、勝手に視聴者に発生するように流り烏が仕向けた。『開示請求』は鷺島つと鉾候補を対象にすべきだと共通意見が固まりかけていた。
流り烏は、厳重な暗号化と中間の通信結節の多重階層化をこなすプログラムを走らせながら萸き雛の配信を守った。結果的に、萸き雛が配信してくれたおかげで、配信の通信結節管理と、執念深く追いかけてくる鶴石秘書の監視ができた。
「逃げるよ!」
鶴石秘書がこのビルの階段を駆け上がっていて、すでに三階に到達していた。流り烏は手すりを乗り越え、縁ギリギリにまで外に足を踏み出した。
「どこに逃げるのよ!」
萸き雛が声を上げる。
本来ならけたたましく警告を放つはずのビル外壁のセキュリティは、流り烏を認識しなかった。AI迷彩の面目躍如といえた。流り烏が屋上の縁を蹴って跳んだ。十センチと離れていない、隣接したビルの緑化屋上へ。落差は三十センチほどあり、階段三段分ていどは下に位置していた。
宙に踊る流り烏が、後ろを向き、萸き雛に手を差し出した。もう片方の手は、映像配信を続けていた。後ろ向きで着地できるはずもなく、流り烏は尻もちを搗きながら、隣の緑化屋上に着地した。
萸き雛がうろたえているあいだに、鶴石議員が六階に上ってきており、流り烏が認証を破ったドアを、物理的に蹴り開けて、屋上にやってきた。
「待ちなさい!」
手すりを乗り越えようとしていた萸き雛に、鶴石秘書が迫った。萸き雛は慌てて縁に降りた。
「おいで!」
流り烏が叫んで、萸き雛が縁を蹴った。
萸き雛の身体を、嫌な浮遊感が包んだ。髪も、ブラウスの裾も、スカートも、ふわりと浮き上がり風を浴びた。そして、流り烏よりもきれいに両足で着地できた。
あえて尻もちをついて、撮影の視点を下げていた流り烏も、目的だった萸き雛のジャンプの瞬間にめくれるスカートの中をしっかりと撮影し、視聴数の増加のため効果的に利用した。コメントが沸きに沸いた。炎上どころではなく、めったに見れない『不慮の事態』の生配信に、視聴数が一万を超えていた。
何より、鶴石秘書は跳べなかった。候補者特権でも、ビルから身を踊らせる権利は与えられていなかった。
流り烏も尻もちをついていた状態から立ち上がる。
西日が、手すりから身を乗り出すことしかできない鶴石秘書を炙った。数秒だけ、萸き雛と流り烏は彼女と向かい合った。
「そのまま、そこにいなさい」
「こちらに、その義務はない」
流り烏が、鷺島候補の言葉をそのまま、口調まで真似て言った。鶴石秘書は表情を消し、無言で踵を返した。萸き雛と流り烏はにやりと笑い合った。
炎上の陰に隠れて、『開示請求』に興味を持った視聴者の一群が、この地区の選挙管理委員会の各種申請ページを探し出し、配信の通信結節にしれっとリンクを張っていた。
「事実、このように私たちは追われています。かの議員候補が、下着を盗んだのでなければ、こんなにも私たちを追うでしょうか?」
少女が、燎原を背景に訥々と語った。公正な言葉ではないと萸き雛にもわかっていた。でも、求めていたものが来た。同時に副産物も。『開示請求』のための同意署名を示す画像と、電子通貨によるキャッシュデータの支援が。日本円に換算して百円ちょっと。
――とりあえず、これでジュースでも飲め。
付随していたコメントに、萸き雛の目が潤んだ。金額の問題ではなかった。なんてことはないありふれた善性が、未だに炎上を続けるさなかにあっても垣間見えたことが、心の底から嬉しかった。
萸き雛は感謝を述べてすぐに画像とキャッシュの両方を受領した。そして、ジュースという単語が、コメント欄を面白がらせた。
――俺も買ったよ、ジュース。これがレシート。
五百円ほどのキャッシュデータと、『開示請求』の同意著名の画像データが送られてきた。『ジュース』と『レシート』という語感が、情報空間に蔓延した。
流り烏が声をかけて、下の階への階段へいざなった。流り烏の計算液晶には隣のビルから駆け下り、萸き雛たちのいるビルのセキュリティを解除させている鶴石秘書が映っていた。
流り烏は下り階段の窓を一つずつ開けていた。数個開けたところで、先ほどの登ったビルの、階段の踊り場の窓につながっていた。流り烏が隣のビルを登っていたときに、開いておいた窓だった。
その窓から二人で、さっきのビルに戻って窓を閉めて鍵をかけた。これで鶴石秘書と入れ違いになり、しばらくは逃げ延びられるはずだった。
そのまま階段を下りて、さっきとはまた違った路地裏に身を隠した。ビルの壁面と壁面が向かい合っているだけの、何もない路地だった。街の喧騒が遠く聞こえた。近くにある歩行者天国が、夜へ移行し始めるころ合いだった。
二人とも、憔悴していた。息は荒く、配信最中であるにも関わらず、呼吸を整えるのに必死だった。そんななか、有志の人間が、『レシート』の集計プログラムを作成して通信結節に開放し、配信映像にリンクを張った。アップロードされた、『レシート』の枚数を記録し、開示請求までの実数と現状のパーセンテージで示すという簡単なものだったが、目に見えて効果があった。未だ目標まで十パーセントにも満たない『レシート』の枚数が、むしろ視聴者の興奮を煽った。
ふいに、通信結節の一つが都市管理知性群の赤信号に捕まって切断されていた。もはや数万規模に膨れ上がった、通信可能を示す青色の通信結節の中で、その通信不可能を示す赤信号は嫌でも目についた。
流り烏の表情が陰り、あきらめたように頭上を振り仰いだ。何もないビルの壁面が、真一文字に裂けた上空まで続いてた。空の色はもはや、夕焼けを通りこして夜になる前の濃い紫色だった。
「ねえ、これ……どうしたの? 軍用なんじゃなかったの?」
「横流し品ね。脱法ゆえに認証切れで更新が止まってるとも言った。こんな数万の通信結節にデータ流してたら、そりゃ、学習性のAIには克服される」
流り烏の声には哀切が滲んでいた。
外縁の通信結節で数か所、配信が切断された。萸き雛の計算液晶にぽつぽつと切断を意味する赤信号が増えていった。通信結節が切れて、コメント欄にも、混乱が渦巻いていた。『レシート』と『ジュース』は少しずつたまっていったが、いまだ目標の十五パーセントにも満たなかった。
萸き雛は凍えるような寒さを感じた。炎上の方がよっぽどよかった。声が届かなくなる感覚だった。
――起業すれば?
なんの気なしに、一つのコメントが来た。一万円相当のキャッシュデータとともに。確かに、起業はできた。起業は資本金が一円以上であれば問題なかった。だが、起業したところで、どうなるのか。炎上と同時に議論がなされた。青少年法による未成年の通信制限が通信結節への赤信号の原因なのであれば、法人としてコンテンツ企業と同じ保護回線の契約をすれば問題ないのでは。
動画の向こうの大人たちが、勝手に議論をすすめていた。
――もう少しだけ、配信を延長してください。
再び、一万円分のキャッシュデータとともに。
「どうすればいい?」
なけなしの体力を絞り出して、萸き雛が訊いた。
「移動体通信の基地局はビル区間ごとの極小範囲で管理されてるから、その基地局間を都市管理知性群の申請よりも早く――」
「結論!」
「走れ!」
萸き雛は言葉通りにした。流り烏も追った。今日一日走り通しで、足が震えた。それでも、通信結節の向こうの人たちを信じて走った。湿ったコンクリートと、苔とカビの匂いがする、灰色の路地裏を。子供の身体だからすり抜けられる速度で室外機や出窓の隙間を駆け抜けた。
『万人が持つ善性』――流り烏が鷺島候補に言った言葉を思い出していた。意に反して、青かった通信結節が続々と、赤く染まっていった。対応策として、『レシート』を発行した人間は、彼女らが近くにいるらしい歩行者天国に集まる算段が整えられた。『レシート』そのものも、集計プログラムを確認する限り三十パーセントほどまで集まってきていた。万単位の『ジュース』も、もはやコメント同士の投げ合いになっていた。
次々に通信結節が赤く焼かれた。そのたびに有志が複製した。加速度的に学習を早める都市管理知性群に何とか対抗しようとしていた。コメント欄の議論が、炎上を上回り始めた。炎上よりも、法と経済を悪用して合法的に無茶を通そうとする方を、みな面白がった。
萸き雛は、走りすぎて肺が痛かった。けれど、疼くような左胸の痛みではなかった。どきどきした。自分から流り烏の手を取り、ビルの路地裏を縦横無尽に駆けた。
『レシート』は四十パーセントを超え、『ジュース』も六十万円相当が集まっていた。ただ、もうほとんどの通信結節が真っ赤だった。いつでも起業できるように、法務局の申請ページに個人情報の認証を通してあった。
結論が出た。
『起業すれば可能、ただし、企業向け保護回線の予算は最低でも百五十万円相当』
だれもが沈黙した。萸き雛の脚が止まり、その場にへたりこんだ。
届かなかった。ひどく現実的な、金銭の壁に遮られた。通信結節が真っ赤に染まる寸前だった。
最後の瞬間、保護回線からコメントが来た。
――子供が悲鳴を上げていたら、手を差し伸べるのが大人の矜持というものだ。
百万円相当のキャッシュデータが、何の気なしに目の前に現れていた。
嘘みたいな気持ちで、法務局に起業の申請を出した。あっさり通った。
「契約!」
流り烏が叫んだ。萸き雛が保護回線の契約をした。起業も、回線契約も、あきれるほど学習し手慣れた都市管理知性群が、数秒も立たずにやってのけた。百五十万円相当のキャッシュデータの代わりに。
真っ赤だった通信結節が、萸き雛の企業名義で鮮やかなブルーに塗り替わった。
夕焼け空を逆回しに再生したみたいに。
萸き雛は感謝の言葉を唱えたかった。けれど、肺は痛み、視界はぼやけ、入院してた時のように何もできなかった。ただ、万人が持つ善性というものに感謝していた。
4.
雑踏、としか言いようがなかった。配信を見た人々が集まっていて、もはや歩行者天国の範囲外まで人波があふれていた。交差点から、一台の車が侵入してくる。鷺島候補が乗った選挙カーだ。合流したらしい鶴石秘書が車を運転していた。徐行した車の上で、鷺島議員が強面を引き締め、堂々と周囲を睥睨している。そろりそろりと歩行者天国に近づく車に、車道にあふれ出していた人波が割れる。誰しもが、この議員と、社会規模の炎上を巻き起こした少女との対談を待っていた。
空撮端末からの映像を見ていた萸き雛はそう思った。
「行ってくるね」
「ああ、行ってきな――」
流り烏に手を振って、裏路地から歩行者天国へ。瞬間、素服も靴も脱ぎ捨てて萸き雛は雑踏へ踏み出した。覚悟していたことだった。
萸き雛に気づいた人波がさあっと割れた。誰もが、下着姿の萸き雛に気づいては距離を取った。そのあとで莫大な歓声が沸いた。いまだ続いているライブ配信で、萸き雛の下着姿は、全世界に中継されていた。都市制御知性群は世界規模の『児童ポルノ』と判断して、萸き雛の企業に赤信号を送り続けた。けれど百五十万で契約した保護回線は萸き雛の配信を『企業行為として行う女性用下着のプロモーション』と定義して、停止すれば個人の自由と経済活動の侵害であり女性差別でもあると法的に判断させ、赤信号を黙らせた。
萸き雛は無言で問いかけていた。この下着まで奪うのか、と。雑踏は線でも引くように、選挙カーの元へと道を作った。
服を拾った流り烏が、遅ればせながら萸き雛に追いつこうと駆けだしたが、すでに雑踏は萸き雛の退路を埋めてしまっていた。
夏の夜空は肌寒い風を投げかけたが、その場にいる人間の熱気が上回っていた。
鷺島議員も、選挙カーの隣に立ち、萸き雛が歩いてくるのを待っていた。
そして、萸き雛が手に届く距離に近づいたとき、議員は自身のジャケットを脱いで、萸き雛の肩にかけた。情報化されていない本物の布の服だった。映像配信の向こうで、コメントが沸いた。歩行者天国を囲むビル群の壁面モニターに、流り烏が保護回線を使って、『レシート』の集計プログラムを映した。残りは十パーセントもなかった。
あっけにとられた萸き雛に、鷺島議員が、ドスの聞いたくせにどこか優しい声で言った。
「子供が悲鳴を上げていたら、手を差し伸べるのが大人の矜持というものだ」
百万円相当のキャッシュデータとともに届いた秘匿コメントと全く一緒だった。萸き雛が息をのんだ。企業用の保護回線で送られた秘匿コメントをハッキングできる人間なんて、いるわけなかった。この人が、最後の最後に支援をしてくれた大人だった。
「なぜ、ですか?」
「先ほどの言葉では、理由にならないかね?」
「最初に貸会議室で会ったとき……」
「あれは、すまなかった。私も、鶴石君を信じたかった」
そう言って、鷺島候補は選挙カーの運転席の扉を開いた。鶴石秘書がハンドルに突っ伏していた。
「私は、あなたに、愛されたかった。『所有』されたかった」
呻くように、鶴石秘書がいった。
「何度も言っている。私は誰も愛せない」
「それは僕が男だからですか?」
鶴石秘書が、突っ伏した顔を上げながら、自身の髪を後ろに引っ張った。するりと毛髪の塊が後ろに落ち、萸き雛が軽路面電車内で追っていた顔が現れていた。義髪、それとおそらく、声帯も。
「いつも言っていた。自分の肉体は、自分で『所有』しろと」
「この体は、自分だけで持つには重すぎる」
自重に耐えかねるとでもいうように、鶴石秘書は再度ハンドルに突っ伏した。
「私の下着を身に付ければ、その体が軽くなるとでも思ったんですか?」
言わねば萸き雛の気が済まなかった。突っ伏したまま顔だけ横を向いた鶴石秘書が、苛烈な眼光を投げてよこした。ついでに助手席に伸ばした手で、萸き雛が追いかけていた鞄も。
それが萸き雛にぶつかる寸前、鷺島候補が左手をかざして鞄を防ぎ、そのまま運転席の扉を閉めた。閉じられた窓からは、鶴石秘書が身を震わせる姿が見えた。
鷺島候補が地面から鞄を拾う。萸き雛は肩から高級品らしいそのジャケットを下ろし、丁寧に腕にかけ、鷺島候補に突き返した。
ほしいのは、自分の下着だった。
萸き雛の肺や虹彩がすでに再生医療で代替品となってしまっているように『自己同一性』は、素肌の一枚上という場所に投射されるしかないのだ。ゆえに流り烏は『男装』を『自分』とした。『所有と実在を謳う候補』たる鷺島は『実物のジャケット』を着ていた。
水色のブラジャーとお揃いのショーツ。萸き雛の心を打つ、しとやかで鮮やかなブルー。盗まれ続けた下着の中で最後の最後に残されたものだった。十三歳の時に今と体形の変わらない自分で選んだ、可愛くて、嬉しくて、どきどきする下着を纏った萸き雛は言う。
「返してください」
それは『わたし』なのだ、と。
人々がごった返す歩行者天国で、街頭の巨大モニターに表示された『レシート』の集計プログラムが、有権者による同意数の達成を知らせた。笑ってしまうくらいチープな電子音のファンファーレが鳴った。自分が下着姿でこんなところに立っていなど、萸き雛には何もかも悪い冗談に思えた。
だが現実に開示請求が通達され、萸き雛からジャケットを受け取りながら、鷺島候補が鞄を開いた。
鞄の中に入っている色とりどりの下着は、萸き雛のものだった。
「聞かせてほしい。君は、下着さえ『所有』できなくなったとしたら、どうする?」
真摯な瞳が、萸き雛を射た。強面は、間違いなく社会を憂いていた。
「人が欲してるのは『所有』できるモノではなく、自身の存在を確かめられる『感覚』ではないでしょうか」
「たとえ肉体さえ『所有』できなくなっても?」
「『感覚』が肉体を定義すると思います。リハビリをしなければ治った肉体も異物でしかないように。そこに存在があってほしいという人の意志が、なによりも先行するはずです」
「根拠は?」
「ありません。ただ願っています」
根拠はあった。この下着を選んだ時の嬉しいどきどき。そして、暗闇の中で手を握り続けてくれた人が度々こぼす涙を拭いてあげたくて、視覚のリハビリを続けたこと。見たいものを映すために、人は目を開くということを、萸き雛は知っていた。人の視覚がモノを見るとき、実際の感覚に先行して、脳内に見たいものの像がある。けれど、言わなかった。萸き雛は、その思い出だけは誰にも渡したくなかった。
「でも、あなたが尊重し、そのために得票を集める法案とは、本来そんな願いの現代的な表現なのではないですか?」
萸き雛には、願いが拘束力をもつことを法と呼べるように思えた。未成年を守るという願いが青少年法を生んだように。
鷺島候補は、自身の左手の小指と薬指を差し出した。再生医療の後遺症で、色がわずかに異なっていた。『なんとなく聞き覚えのあるような声』がすとんと、胸に落ちた。萸き雛が光を失ったときに聞いた声だった。
鷺島候補が、地に落ちた雛鳥をそっとすくって巣に戻すような手つきで、盗まれた続けた下着を萸き雛に差し出した。萸き雛がそれを受け取った時、街の彼方から治安機関の移動資源が放つサイレンの音が聞こえ始めていた。
5.
学園は平穏だった。鶴石秘書側の弁護士との示談の話も、萸き雛の停学中に大枠は終わっていた。停学明けの萸き雛と流り烏は校庭の隅の森で、計算液晶から選挙速報の配信を眺めていた。ちょうど授業終わりの時間と選挙の開票速報が重なった。あんなにも脅威に思えていた鷺島つと鉾議員は、複数の候補者のうちの一人の名前でしかなく、投票率も思わしくなかった。
いつものように木の幹に背中を預けた流り烏がぼやく。
「そりゃそうだよ。萸き雛に下着返すときの瞬間を動画で流されちゃ……」
騒動のあと、記録された映像は無数にあって、コンテンツ企業も視聴数のためにインパクトのある写真や動画を使ったのだ。
流り烏がなげだしている脚の間に座り込み、彼女の胸に後頭部を乗せた萸き雛が、なんとも言えない顔になった。
選挙速報で、当選の報が入った。まだ全部の票が開かれたわけではないようだったが、なにやら大人たち特有の計算をすると、もう当選した議員以外に議席は無いようだった。当然、鷺島つと鉾という議員も当選しなかった。『ブルー・オーシャン法案』も、報道の中でいつの間にかあの法案としか呼ばれなくなっていった。
「どうしようもないんだよ。あたしたちは、まだ子供なんだ。選挙権の代わりに青少年法が与えられるような」
萸き雛が、持っていた計算液晶を近くの草むらに放り投げ、空いた右手を上に伸ばした。
「いずれ、もっと失われていくかもね」
「それは、嫌」
萸き雛の手が、ふいに流り烏の右手を攫った。
「なに?」
「『わたし』の内側にあるものを知っておいてほしくて」
つかんだ流り烏の手をブラの中に滑り込ませた。
「小さいね」手の中にある左胸を茶化すように、流り烏が笑った。
「そう、子供のころから変わらないの」
「まだ子供でしょ、青少年法が適応されるくらいには」
「いずれ青少年を越えてしまったら?」
萸き雛の瞳が揺れる。選挙権に手が届かず『所有』が失われていく時代を目の当たりした瞳が。
「変わらないものもある、と?」
都会から追われた黒い鳥じみた少女が、萸き雛を見た。流り烏のたおやかな指が、こわばった左胸の傷跡を撫でる。すでに代替された肉体の内側ではなく、消えることのないものを。
「信じさせて」
萸き雛が言ったきり、学園が終わるまで二人でずっとそうしていた。
その想いの鮮やかさを伝えるには、ブルーだけではたりなくて。
〈了〉
文字数:19943