梗 概
老婆アリス
ビルの垂直壁に人を乗せた巨大な巻貝が張り付いている。乗っているのは記録映像でしかお目にかかれないような老いた人間、有須川 甲である。ビルの屋上からロープを垂らし心配そうに見下ろす青年、述と、ビル下の地面に体を投げだしている談。そこに爆音が響き、カタパルト融合メガニウラが飛来する。
三人は、特殊免許(旧型身体運用資格)の実地試験受験者である。
培養人体への記憶移植は成人の権利である。性能の劣る古い体を使い続ける者は危険視され、免許取得が義務付けられている。免許試験は正常範囲の能力を持っていると証明する実地テストで、試験場での二週間の自活である。
ノベルは、宇宙開発員を目指し特殊免許試験を受けようと友人のカタルを誘った。カタルは体を買えないほど貧しいので馬鹿にされたと憤慨して一旦断る。しかしなぜか数日後受験すると言い期日を指定する。
利用者が殆ど無い試験場は東京湾内の人工島で外部との通信が遮断されている。島への船には子どものような体躯と老婆の姿を持つコーラが乗り合わせ、自分は無人格の前頭葉分離体だと語る。「私は嗅覚受容器実験体です。実験は終了済で廃棄処分になります。免許がなければ」三人はチームを組むことにする。
島は半機械生物の虫と陸貝が環境を整備しており、起伏のある草原に古い建物が点在する。非常時救援物資があるはずのビルの内部は階段が崩落しているが、通常なら不要であり青年二人なら快適に生活できるはずだった。しかしコーラは弱い体で何もできないのに命令ばかりする。ノベルは辟易するがカタルは老婆を嫌う表情を見せながらも親切に面倒を見る。コーラは人や生き物の心を読めるようであるが、笑いかけるのはカタルにばかりでノベルは劣等感を抱く。
コーラが可愛がった有毛虫に、ノベルは食料を分け与えてしまう。それは禁止行為で、味を覚えた群れが集まり食料の多くを食われる。
コーラが火を起こして群れを退ける。
コーラは自分は不合格でいいから残りは二人で食べろと言う。自分は心を真似ているだけだからと。そしてメガニウラを呼び寄せ乗り去る。
ノベルも試験を放棄しようとするがカタルに一喝される。カタルはコーラに雇われ助けていたという。ノベルが自分を内心軽蔑していたことは見抜いていたが、それでも友達だと思って協力もしたのだと。ノベルは二人に償おうと決意する。
コーラを探す二人は、発光虫が集まる児童館を見つける。中ではコーラが古代の紙の本を読んでいる。「このままじゃどうなる」「死ぬじゃないか」語りかける二人に「死んだらどうなるか私知ってる」コーラは言う「あなたたちが私を思ってくれる」三人に信頼が生まれる。
三人でビルを登ろうとするが劣悪な運動能力プログラムしか身につけていないカタルは転落。死亡したカタルの保存されていた過去ログはコーラに移植される。
数年後、訓練を終えたノベルは木星行きの船に雇われる。雇い主はコーラであった。
文字数:1242
内容に関するアピール
半機械貝が二酸化炭素を炭酸カルシウムに変えながら巨大建築を築いている未来。
人の意識を移植できる培養体が高性能になり、生来の体を使い続けようとする老人は身体運用免許の返納を求められる。体を新しくする行為は世代交代や相続に準ずるとされ累進課税を課される。そこで資産家の老人が免許更新のために悪戦苦闘し、若者を雇ってテストの補助をさせるという背景を考えました。
老婆アリスは、嗅覚受容器実験体です。象並の嗅覚受容器を持つ人間、ただし実験用途なので前頭葉を抑制し人格を認められていません。特殊機能として生物の分泌物を嗅ぎ分けられ、その感情を理解できる。それを利用して小動物に弱い支配力を持ちます。このため長期生かされたものの、老化して実験に耐えられなくなり廃棄されそうです。人格が付与されずともある程度の権利はあり、長く生きている間に資産を築いています。
実作は人間関係と異世界描写を楽しみたいです。
文字数:396
老婆アリス
§1
ふたりを引き合わせたもの、それは不滅のお役所仕事だった。述は役場の生活安全課に通うこと三日目だが、いまだ手続きは何一つ進んでいなかった。そもそも自分はスタートさえしていないのでは? ノベルは焦っていた。
(ただ運転免許証が欲しいだけなのに)
ノベルの目的は「旧型身体運用能力認定試験」を受けることだった。将来宇宙開発団員になりたいと願っているノベルには、自分の体をそのまま使い続ける資格を手に入れる必要があった。地球外では記憶の電磁記録が取れないから、体が損傷しても新しい別の体に記憶移植できない。その他の想定外なアクシデントにも対応する必要から自分の体を古くなるまま持ち続ける免許は開発団員の基礎資格だった。まずこの試験に受かってから、開発団の専門教育プログラムを受けようとしているのに。
遠い星の世界へ赴くことを夢見る、健全青少年育成標準プログラムを修了して一ヶ月のノベルは、つまらないコントの登場人物のようにこの三日間たらい回しされつづけていた。
初日は受付に申し出、指示された交通安全課にたどりついて再び用件を申し出、行列もないのに待たされ、本人確認に時間を取られ、生活安全課の管轄だと申し渡されて終わった。二日目は前日と同じ人物が対応に来たのにやはり本人確認に時間を取られ、そこでノベルが未成年であることに気づかれ、最上階の別室で心理適性検査を受けるように指示された。そこにたどり着くまでの苦難は下らなすぎて脳裏には再現できない。多分どこか雲のかなたでノベルの一生を記録し続けている保管庫だけが、出来の悪いどたばたを忠実に保持しているのだが、それは誰にも取り出すことができないし、当の本人すら必要としないデータだった。とにかく曲がり角の多い廊下と階段を進み、歩き、曲がり、昇降機は全く見当たらず、見つければ屋上のヘリポート直通で、上り、下り、やっとたどり着いた小部屋でいくつかの質問に答えると、
「最近人の死に出会っているのですね?」
そう念を押された。ノベルは焦った。それはノベルにとって確かに重大事だったが、それで申請却下されてはたまらない。
「その影響で試験を受けるわけではなくて、この試験はその、ずっと前から受けるつもりで、目的は、」
宇宙飛行士になりたいんですという前向きな希望を言ったもののどう解釈されたのだろうか、
「結構です」
遮られて終わった。
結果がでるまで元の窓口で待つように言われ、どうやって戻れたのかさえ判らないが今いるここと同じ場所に戻れば窓口は終了時間になっていた。
今日は朝一番に来たのに、例の部屋に行って検査結果を受け取ってくるように言われ、ノベルは嫌気がさして一度ヘリポートに出てみた。
昇降機の扉が空くと、すぐそこにメガニウラがいた。
機械動力融合のオオムカシトンボだ。人の数倍大きいが、その長い胴体は人間が乗るには細すぎるから、小型輸送機なのだろうか。使役生物はインフラ整備に欠かせないが高価すぎて個人所有はまずない。ノベルは疑似体験でしか知らないメガニウラの巨大さにたじろいだが、繋留綱に繋がれているのを見て、静かに近寄った。
金属光沢の目と体、そして遠目には不規則で脆弱に見えるのに、近寄れば稠密な規則性に満ちた強靭な羽の網目。
それはこの三日間で唯一楽しい経験だった。二畳期の大昔蜻蛉を更に巨大化した設計なのだろうと思っていたが、その目は複眼では無かった。日光の屈折調整を必要としないメガニウラの目はアミノ酸で作ったレンズで、光を眼球の奥底に吸収し余光は瑠璃色に光りながら、ノベルを映し輝いていた。
しかし階下に降りたノベルは、またお役所仕事の伝統に捕まっていた。好ましからざる者を徹底して無視、あるいは冷遇する行政現場の伝統だ。そこから可能な限り美点なり教訓なりを引き出すとしたら、役所こそは神の存在証明だった。―――この世に永遠に続くものがあるのだと人間に信じさせるための神の御技だとしか思えないほど待たされる。その永遠の待機時間は、確かに人知を超えていた。
ノベルはため息をついた。
その微かな呼気が合図であったかのように、少し離れた席に座っていた子供が絵本を閉じて立ち上がり、近づいた。ノベルは子供がやって来ることに何の感慨もなかったが、目の前に立たれたので目をやると、本は本物の紙製だった。外側だけクラシックなデザインを施した子供向けの情報端末ではないことにノベルは驚き、その持ち主の顔を見た。
「失礼しますが、あなたも旧型身体運用免許で待たされていますか?」
小さな体からの細い声は芝居の子役のような口調だった。しかしその声質は低く荒れている。ノベルは言葉の調子に面食らったから、相手をまじまじと見るばかりで何も言わなかった。子供は重ねて、
「いきなり失礼しました、私は有栖川と申します。有栖川コーラ。あなたは新しく免許をお取りになる方かと思ったものですから。私も免許更新をするので」
やはり芝居のような口調。礼儀正しいというより古典映画の芝居のようだ。“あなた”なんて呼ばれ方、自分はされたことがあっただろうか。子供にしては妙な声で……免許更新? ノベルは途端に態度を変えた。
「あ、そーす。免許を取りたくて。俺はノベルって言います」
自分はなんてみみっちい奴なんだろうと思いながら応えた。
「やっぱり。あなた……ノベルさんは、本当に若い人なのね。生まれたままの体でいる人に会うのは久しぶりだからお話をしたくって、お嫌でなければいいですか?」
耳慣れない古風な話し方は、さっきまで芝居の子役のように思えたのに今では上流階級(そんなものありはしないが)の上品さに聞こえた。ノベルは声も出さずただ頷き、けれど席を少し開けた。有栖川というご大層な名前の主は隣に腰掛けた。
“免許更新”といえば、とてつもない大金持ちがするものだと相場が決まっている。
成人になれば誰でもというほど、来の体は取り替えるものだ。最新機能を搭載した体に記憶移植して乗り換えるのは当然の習慣である。性能の落ちる古い体を使い続けたいと望むのは精神的偏向を疑われるほどで、昨日までノベルが受けた仕打ちはそのせいだろう。ただ巨富を持つ者たちだけは古い体にしがみついて当然と思われていた。身体変更には高率課税が伴うからだ。
述が生まれたのは今世紀の初めだが、それ以前に人体への記憶移植はまったく心配のない技術になって、数十年使った自分の体をまっさらな〈新者〉に乗り換えるのは、成熟した個人の持つ当然の権利だ。金が無ければ無いなりに、程度のいい〈中古者〉もある。次々高性能な新型が発売されるから、今時古い体を使い続けようとする人間は少ない。
技術革新が進む人工培養体に、脳と中枢神経の電磁記録を移植するのは、成人の権利であり常識だった。
まれに生体記録が破損していたという真偽不明の怪談話は流れるし、新しい脳髄に移植された記憶に不満を申し立てる者もいる。しかし体を取り替えることの危険性はせいぜいが、いきなり空から降ってきた亀に当たって死ぬくらいの確率と思われている。そして耐用年数の過ぎた整備不良の体を取り替えずにいるのは、金の亡者だけだと思われていた。法を犯してはいないが反社会的な不良老人というわけだ。
地球上には未開の地が残されてはいるし、そこで生きる人間は今でも百年前の先祖と同じ一生を送っているだろう。しかし地球表面に暮らす大半の人間は、事実上の不死に向かっていた。このことは同時に資本主義社会が逃れることのできない「富は資本家に集中する」現象への警戒を強めた。それでも資本主義は予想外なほど命脈を保った。培養体は公的権力によって徹底管理して欲しいという大衆の欲求は国家と国境意識を強め、国家と分かちがたく結びついた貨幣経済は生き残ったのだ。だからこそ、体を乗り換える時には相続税に準じた累進課税が課される。古い体も外見は改造するし、部品も交換できる。しかし老体は老体だ。もし街中で体の動きがぎこちなく表情に乏しい、お付きの者を何人も連れた人物を見かけたら、それはたいへんな金持ちだろう。老人は人の世話を受けながら、衰えた肌に美しい衣服をまとい、衰えた味覚で最高の美味を口にし、遠くなった耳に天上の楽を聴かせる。
富の専横はかつてないほど羨望されることがなくなっていた。老い衰えた体を抱えながら金にしがみつくなど愚かなことだ。大富豪が死の間際に記憶移植して国家予算並みの納税をしたことは美談として知られていた。もっとも、もし自分が大金をつかんだとしたら? その立場になればきっと老体を手当し続けて生きるだろうと考える者は多かった。
富の独占を牽制する制度は、課税の他にもう一つある。旧型身体を危険なく使っていることを示す許可証、運転免許証の取得が義務付けられているのである。
大富豪が権力をふるって広大な土地に壁を築いたり、公衆道徳に反する恥知らずな言動を続ければ、免許は返還を求められる。個人の命が無限に近づいたからこそ独裁者の出現は牽制され、誰もトランプのキングで居続けることはできないのだった。
目の前の子供は実は老婆で(あるいは老爺で)有り余る資産を一切手放さないために、整形手術を重ねながら古い体を使い続けている、化物のような金の亡者なのだとノベルは思った。しかしなぜか反感は抱かなかった。胡麻をすっても何も出ないだろうが、大金持ちとの会話は珍しい体験になるだろう。
(カタルが戻ったら話すネタになるかな)そうノベルは思った。
幼い頃から一番の友人であるカタルは、今いないのだった。
卒業以来会っていなかった友人はつい先日死んだ。といっても事故だから死因確定すれば記憶は新しい体に移植されてカタルは生き返るはずだ。
卒業以来、カタルとはほとんど会わなかった。電視の会話は続いていたが、同じ場所を共有したしゃべりとは違った。ノベルとカタルは親友同士だったからこそ、わずかな気脈のずれや、無理に作った話題に耐えられなかったのだ。一番仲がいい友人であることは変わらないのに、何か口実が無いと会うことさえなくなるということは、世の中に放り出されたばかりのノベルにとって驚きだった。学校を卒業して、仕事も金もコネも身分も無く友達も間遠になった自分は、まるで裸で生きているように頼りなく感じた。それはきっとカタルも同じだと思っていたのに、手動運転による過失事故で命を落としてしまったのだ。カタルの精神状態はノベルとは全く違うレベルで落ち込んでいたに違いなかった。
それでも自殺判定されることはないだろうとノベルは思っていた。最後に会った時、互いにまた会いたがったのは本当だったから。
(早く戻ってくれないかな)
戻ったら他愛ない、他人には何の価値もない、だからこそ互いにだけは大切な話をしたかった。
(下らない思いをしたことが、カタルとならとてつもなく楽しい話題になるのはなぜなんだろ)
友達だけがそんな気持ちにさせてくれるのだ。
「ここね、何日も続けて来ていらっしゃる?」
ノベルは気持ちを引き戻された。
「三日です。あの、コーラさん。そんなに手間かかるものなんですか、旧型身体運用免許って」
つい相手に合わせた調子になる。いや、相手におもねった調子になった。
「手間はかからないの本当は。多分今日あたり書類を書けば受理される。何日間かたらい回しにすれば、やめちゃう人がいるでしょ。やめさせたいだけなの。多分ね」
同じひどい目にあった同士の連帯感を感じているのだろうか、口調は静かだが茶目っけがあった。
「多分、人類が“お役所たらい回し”を発明したのは、役場の出現より古いんだと思いますよ。本能に刻まれてんでもなきゃ、こう悠久の時間待たせて平気なわけない」
ノベルも軽口で返した。隣に座るコーラさんはノベルの言葉に眉と口角を上げた。“面白いこと言うじゃない”そんな顔だ。
「そして人類初の役人が任命された時には、既に地球上の全サピエンスが“役人への賄賂”という概念を知り、実用していたに違いない」
それは初対面同士にしては飛躍した会話だったが、だからこそノベルとコーラの会話は弾んだ。不思議なほど何を言ってもいい気持ちになっていた。
二人は、とにかく人間の文明というものは、しょっちゅう順序を間違えているのだということで意見の一致をみた。
「私だって生まれてない頃の物だけど、缶詰って知ってる?」
「ええ。金属の円筒に食べ物が入ってる」
それは有名な遺物だ。コーラは話を続けた。
「缶詰は缶切りが発明される七十年前に大量生産が開始されているの」
「え。」
実物を見たことはないが、あの物体を開くには、特別な道具が必要としか思えない。
「当時のキャッチフレーズはナポレオンのお墨付きで“永久保存可。腐らない食品”――― 買った人間は七十年保存したと思う? 」
「や、だって当時、十九世紀とかでしょ。人間の平均寿命はもっと、」
「五十歳に届かなかったでしょうね。きっと」
「きっとって、そうですか。見当もつかないな。きっと、とんでもなく可笑しい話がありそうだ」
当時の缶詰一つ一つにどのようなお笑い事件が起きたのか、ノベルには想像もできなかった。しかしこの三日間の自分のように無為な徒労が繰り広げられたに違いないと思われた。
愚かな行為の数々が。
とはいえ科学と発明は人類の文化文明を発展させてきたのだ。一度死んだはずの人間さえ人生を再開できるほどに。
三世紀前には紡績が、二世紀前には自動車が、人類最大の巨大産業だった。どちらも人間を包むものだ。そして今世紀、人間をくるむ産業は人体製造そのものだ。
ひとしきり話して、それから真面目に免許取得の話題になった。心身健康で自活できると認められれば免許証は交付されるのだという。
「試験場の場所は知ってる?」
「マジックキングダムの近くですよね、湾内の島」
「そう。マジックキングダムは今でもあるものね。このアトラクションは今もある?」
胸に本をかざしたタイトルは『海底二万里』で、ノベルにはわからなかった。おそろしく古そうな書名だ。コーラは残念そうな顔をしたので、ノベルはご機嫌取りに
「どんな話ですか」
そう尋ねた。
「ノーチラス号でネモ船長が海底探検に連れて行ってくれるんです。海の底に大きな真珠貝があって、中に大きな真珠があるのを見せてくれるのに、採らないで秘密にしておくの」
楽しそうなのだがその表情は子供とは違う追憶に見えた。
「あの島、今はね、カジノ専用に造成された島だから、電磁網から完全に遮断されてて普通は誰も寄り付かない。昔は不正防止だけが重要で生体記録を取る世の中になるなんて思ってなかったのね。あの頃は魔法の王国で遊んで、賭け事に負けて正気に戻ってから、みんなおうちに帰ったけど、今は試験場くらいしか使い道が無くなった」
その口ぶりでは何度も試験場に行っているのだろうか。
「ログは一時停止して、ウェブや外部記憶の助けを借りずに一定期間自活する実地試験だって聞いてますけど、どんなですか」
ノベルは尋ねた。
「ああ。私、試験受けるのは初めてなの。最初の免許取得は無試験だったから」
「昔は制度が違ったんですか」
「違ったのは私。あのね、」
コーラは少しためらってから、
「私、実験体なんです。戸籍はあるけどずっと研究所管理だったから、データ提出すれば免許登録できてたの。実験終了になって契約解除されたから、自分で免許更新しなきゃならなくなった」
その内容を飲み込むのには時間がかかった。培養体の研究には多くの実験体が作られ、新型に搭載すべき能力が試されていることは知っていた。しかし実験体には意識がないはずだった。
(実験体は脳活動を制限して感情や意思を持たせないはずだ。魂が無い容れ物だから実験用に使えるわけで)
ノベルの戸惑いをコーラは見つめた。
「私の実験はとても長かったから、財団員の戸籍に入って人権も持っています。でも前頭葉活動は制限されていて、私には、心はありません。心の動きを真似ているだけ」
ノベルは自分を、何も持たない間違いばかりしている人間だと思っていた。けれどこの時言った言葉だけは、後々正しかったと思えた。その場では自分の言った本当の意味にさえ気付かなかったのだが。
「そうは見えません。あなたに心が無いなら自分もそうに違いないな」
目の前の人間は最初見知らぬ子供で、さっきまで見た目と違う偽物の老人で、今では自分に感情を示す培養体だった。しかしそれが偽物の人間だろうか。
(意識を持っているのに心が無いなんて思えない)
そう思って発言したけれど、コーラの反応が長く絶えた。
(ひどく失礼だったのかな)
謝るべきかと思い始めた頃やっと、
「ありがとう。お願いがあるのだけど、あなた私に雇われる気はないかしら、この試験中だけ」
そう言われた。
「私は決めたけど、あなたも考えてて」
言い置いてコーラは窓口に行き、担当者に声を掛けた。お待ちくださいと慇懃無礼に言われるはずが、なぜか数名が寄って来た。短い受け答えと数分の後、コーラは二枚の書類を手にして席に戻った。
「これ記入するだけ。もう私たちは受験者になる」
驚かされ続けたノベルは、
「これ、さっき言ってた“全サピエンスが知る概念の実用”ですか?」
賄賂が渡されたのだとしか思えない担当者の豹変ぶりだった。コーラが金持ちだという認識は改める必要がなさそうだった。
「私は、ああいう人たちは動かせるの。決まりきった役割をさせるだけなら」
そうして、
「あなたをフェアに雇いたいから言います。私は嗅覚刺激分泌実験体。変なことばね。欲求を刺激する匂いを作れるの。あの人たちの罪悪感と任務遂行欲を刺激しただけ。」
目の前の人に心が無いということと同じくらい、信じられなかった。その説明を信じるのは保留にしたが、ノベルは言うべきことを言った。
「試験中雇われるって、どういうことですか」
「試験は一週間、外部に頼らず自活すること」
「ええ」
「受験者同士は頼っていいの。私にはできないこともあるから」
「金は欲しいし、その間だけなら受けます。でも、」
ノベルは息をついだ。
「雇わなくても僕を操れるのじゃ? 」
途端に、コーラはいたずらそうな顔をした。
「私、あなたに嘘をひとつ吐いてました。初めからあなたが本物の若い人だとわかってた。私は象の嗅覚受容体も持っています。犬の倍で人の百倍くらい。でも、」
そしてすっかり笑顔になって、
「さっき私を信じてくれて、今は疑ってるとわかる人を操りたくない」
その顔には屈託が無かったから、ノベルは雇われることにした。多少操られても構わないとも思った。今までの一生も、誰かに操られて求められる通り動かされ続けて来たのだという気もしていたから。それが金であろうと嗅覚分泌物であろうとそう変わらない。
それからあっけなく手続きが完了し、建物から広い中庭に出たノベルはモーター音に上空を見上げた。
ノベルはコーラが言った全てを信じた。
メガニウラが飛んでいる。モーター音は巨大トンボの補助駆動装置であるらしい。そして羽の付け根に、人が乗っていた。子供に見えるけれどコーラだ。薄青いぼやけた空にそこだけが強い色と動きを持ち、トンボは燐光を反射させて飛んでいった。あの上空から下を見てはいないだろうけれど、ノベルはトンボに手を振った。
§2
試験場まで空輸で行く金は無かったから、検索画面を眺めた時間はわずかだった。ノベルは軌道カプセルを選んだ。一番安い乗り物だ。
錆びた軌道に運ばれる風船玉のような輸送カプセル。全く自分にあてがわれるのはいつもこんなものだ。〈最低限の安全は保証します。お支払いが最低で済むことを最高のサービスと考えるお客様、ぜひお選びください〉そう言われているような気になる。そう言われ続けて育ったのだという気がして、ノベルはざらざらした気持ちになった。このいらだちはやがて擦り切れるんだろうか。自分が知っている年寄りたちはみんな、すっかり擦り切れてそれと引き換えに自信たっぷりなあきらめを示しているように見えたものだ。親も、学校教師も。
(それが俺にできる唯一の選択だとしたら ――― それのどこが選択なんだ?)
「最高に最安」
ふてくされたつぶやきの相手は人間ではないから聞き逃されることなく拾われて、耳輪が応えた。
「「オービットカプセルご利用で、旧型身体運用免許試験場にお送りします」」
滑らかないい声。ノベルをノベル自身よりも知り抜いている情報端末は、自動的に一番安い走行ルートを提示した。多分、いや間違いなく、一番見るべきものがない経路なのだろう。他のルートと金額は見る気にもならなかったから、そのままノベルは申し込んだ。
社会保障番号プラス名前。
<予約手続完了。原則として返金はいたしません。>
その後で「有栖川コーラ様よりご連絡」が届き、同行したいと言われ違う交通機関を使うべきだろうと思ったが、コーラはちゃちな輸送手段を面白がった。ノベルは一名追加した。
案の定、軌道カプセルに運ばれてゲートウェイから海にたどり着くまで、目を引くものは何もなかった。一番安上がりな交通手段を選んだのだから殺風景なのは当然だった。
けれど埠頭が近づき光の反射が感じられるようになって、海の照り返しなのだろうと思っていたノベルは、それが競技場からだとわかった時、小さな歓声を上げた。その光景は今日一番の見ものだった。歴史的モニュメントとして保存されていたのだろう建造物が、巨大なカタツムリたちに解体されていた。建築に使う陸貝は珍しいものではないが、一体が小屋ほどもある巻貝が大量に動いている。光はその外殻の乱反射だったのだ。
競技場は歴史的モニュメントとしての価値評価が低下したか保存コストが高騰したのだろう。建物の移設保管はしないようで、カタツムリたちは外壁に幾体も張り付き、炭酸カルシウムを消化しながら部材を切り出していた。使役陸貝は遠目にこそ蝸牛に似ているが、牛に擬されるような鈍重さは全く無い。螺旋状の外殻はノベルたちが乗り込んでいる輸送カプセルより大きいのだが、その曲面は蠱惑的なほどデリケートな関数値で設計されているのだろう。なめらかに見える表面はどこにも鋭角がないのに硬質なオパール光を放っていたし、オーム貝のような多触手と偽足の動きは脊椎動物には到底不可能な素早さだった。巨大カタツムリは中枢神経に埋め込まれた指令通りに、恐るべき速さでセメント塊を切り出し運んでいた。
「いいなあれ。ひどく良い」
ノベルはわざと矛盾した表現をした。生体記録のバグチェックが脳内にチリチリと警告を出した。論理的に破綻した言語活動は、保存媒体に負担をかけ記録精度を落とすとされている。金をかけて育てられる子供なら、幼いうちに歪みのない健康な思考と発語をするようにしつけられる。けれどノベルは違う育ち方をしたし、違う育ちだと示すことが習慣になっていた。
ノベルが仲間だと思える者たちにとっては、ルール違反の言葉を使うことはありふれた楽しみだった。
「本当、いいカイジュー。満足して働いてる匂いがする」
コーラはのんびりと笑った。
「それってどんな」匂いとは?
「虫や貝の喜びは、花粉に似た匂いなの。ね」
それから自分の隣で体を縮めて丸くなっているメガニウラを撫でた。カプセル内に収めると目玉と口ばかり目立つ。こちらのほうが怪獣だろう。
「そのメガニウラ、」
「Tフォードって言うの。研究所の検体はみんな大昔の文明を支えた名前。私も昔はコカだった。仲間はペプシ」
それは適当すぎる命名に思えたが、本人は気に入っているようだった。口調が違う。
「Tフォードはコーラさんが匂いで操っているんですか」
「そこまで細かい操縦は無理。ここに、打ち込むのね」
胸にコントローラーがあった。
「メガニウラは本当にただ飛ぶための生き物だから、地球の歴史で一番機械に近いっていわれたことがあるの。だから好き」
「それって、自分に近いと思えるということですか」
「ああ。多分ね」
コーラはノベルのひねくれた言葉に笑いながら、そのくせ自分ではおよそ誰かや何かを咎める気配がなかった。本当に自我を持たない実験体なんだろうか。今使った“怪獣”という言葉にしても、いかにも子供っぽかった。
(カタルも同じことを言いそうだ)
ノベルはコーラの依頼を受けたのは、この子供っぽさのせいだと思った。年寄りはなんだか子供っぱく思えることがあるけれど、この人は特別だった。
そんなことを思うノベルがカタルやコーラと気があったのは、結局自分も子供っぽいからなのだと、その時のノベルは気付かなかった。
すぐにすねたりはしゃいだりするのは自分のほうで、相手は自分に付き合ってくれていたのに。
初めて来た試験場は東京湾内の人工島だというのに、サバンナだった。見渡す限り建物は一つ。あたりは青草が広がっている。埠頭から十分でたどり着く島は見事に孤立していた。
軌道カプセルが安いからにしても、ほど近いゲートウェイから一時間かかった。そしてたどり着けばひどいさびれ方。完全公営の施設なのだから、これも不滅のお役所仕事の賜物なのだろう。
古い体を使い続ける権利は認めるが、徹底して冷遇するというわけだ。
世間から白眼視される権利行使は冷遇してもかまわないのだろう。
「カジノというより、」
あたりを眺めてノベルが言いかけ、
「サマーキャンプ場?」
コーラが続けた。
かつて公営ギャンブルのために造成されたこの人工島は、不正防止のために徹底してウェブを遮断している。基礎工事段階で土壌下の電磁遮断が行き渡っているから、もう直すことはできない。それで施設完成後すぐに人が寄り付かなくなったのだという。客もだが、従業員がいなくなったのだ。その頃すでに一般市民が脳活動を電磁的に記録することは浸透していたが、その記録を新しい脳内に記憶として移植する技術が確立されからだ。
人は自分の体よりも一生を克明に記録することを重視して、一時的にでも記憶が欠損することを忌避するようになった。新しい体に記憶の脱落があると気づいた者の不安は大きい。PTSD記憶の切除痕跡なのかと焦慮した。ましてカジノ島の従業員たちは膨大な記憶の脱落を抱えるようになったろうから、この島が放棄されたのは当然だった。
そんないきさつを調べて来たノベルだったが、島に着いて港にある唯一の建物で受付をするまではそう驚かなかった。
ほとんど廃屋だった。
受付の受像機に試験期間中の過ごし方について記されたが、屋内施設は最低限の手入れしかされていないようだった。標準食料だと配給された箱はやけに重く、飲料水も入っていると知って初めて焦慮を感じた。
風雨は軌道カプセルでも防げる。
しかし、サバイバル訓練ではないはずだ。
「長期キャンプですね」
だから自分を雇おうとしたのだろうか。
「キャンプだと思えば楽しいかな。一人じゃなくて良かった」
ノベルは何をしますかと雇い主に尋ね、まず施設を見て、明日から薪を拾ってきてちょうだいと言われ驚いた。
「焚き火をするんですか」
「何もしないと退屈だから」
確かに時間を潰すことが、島での一番の問題になりそうだった。
「あのね、焚き火をしてるとね、とてもいいことがあるの」
「暖かいとか獣よけとか?」
「焚き火してる間はね、人はつらくないの。本当にそうなの」
ノベルにはその意味がわからなかった。
一週間だ。
ほとんど見知らぬ老人と一週間サバイバルするというのは二重の意味でサバイバルだった。
ノベルは初日、施設内を確認した。ほとんど生活する最低限の物も揃っていないことに驚いて、なんとか不衛生ではないらしい部屋を二つ用意した。
二日目、薪を集めた。つまり島中をうろつきまわったということだ。
三日目、島には草と虫と小動物しかいないことに耐え切れず、軌道カプセルを軌道から外して乗ってみた。
草の中を電動車に走らせることは楽しいが無謀である。
四日目、緑に隠れた石にカプセルは横転した。それは速度こそ違ったけれどカタルが最後にしたことと同じで、ノベルは草に放り出された。
島に来てつらいのは、カタルを思い出すからだ。ずっと思わずにいられなかった。
昨晩は夢を見た。一緒にこの試験場に来る夢だ。その夢は現実と混じりながら生々しすぎて、今一人でここにいる現実の方が嘘のようだった。
―――軌道カプセルが海を潜り島に上がる。そこで一度降りた二人は、それぞれの生体記録を落とした。めったにしない面倒な認証手続きを経て、雲の彼方にある電磁記録倉庫はふたりの時計を止めた。
「もし、あの島で死んだら、」ノベルは言った。「次の体はここから生き始めるわけだ」
それは不真面目な口調だったからカタルは気軽に応じた。
「ノベルがそうなったら、たくさん騙して奢ってもらう」
笑いかける時に上唇が反って前歯が覗いた。たわいない冗談だった―――
冗談だったら良かったのに。
草の匂いに慣れると、あたりは潮の匂いと波の寄せる音が浮かび上がった。水平線に続く空には筋雲が流れていた。外海と違って湾の水は波が穏やかでも色が薄い。上空に行くほどに青を加える眺めは絶景ではないが温和だったし、潮の匂いは悪臭でしかないはずなのに心地よかった。
モーター音がした。次第に大きくなって、メガニウラが飛んで来た。
ノベルの上を旋回して、降りた。
「探しました」
コーラはノベルの肩口に近寄って覗き込んだ。
「肩から血が出てます」
「もう止まってる」
「痛いなら島をでましょう」
「痛くない」
腕は動かせる。ただの打ち身だ。血も動脈ではないから止まっている。
「本当ですか」
「本当」嘘。
「まだ私に雇われていますか」
「うん、出来ることあったら命令して」
「たくさん、お話しませんか。焚き火をして」
ノベルは寝転んだまま、
「カプセルなんか要らなかったんじゃないですか。そんな乗り物あれば。それに俺もいらないっしょ」
そう言った。何の役にも立っていない。重いものを運んだり部屋を掃除したりなんて、機械のほうがうまい。それにお話なんて何の役に立つ?
「この子はね、そんなには飛べないし、それに」
コーラは言った。
「私はあなたの話、たくさん聞きたいです」
ノベルは唇を噛んだ。
「焚き火しながら?」
「そう。焚き火しながらお話しましょう」
「多分、俺の話じゃなくて、友達の話をする」
「たくさん聞きたいです」
それから残りの日の意味が変わった。
ノベルは友人と自分のことばかり話し、コーラは楽しそうに聞くのだった。
「本当に若い人は、気持ちと同じ匂いがします。あなたがお友達の話をするときは、汗をかいたマンゴーの匂いがする」
「どんな意味があるんですか、それ」
むちゃくちゃに聞こえる。
「マンゴーや桃が傷つかずに実った匂いは、誰かに大切に思われてる匂いと一緒。幸福を感じている猫のお腹と同じ匂いがするの。でもマンゴーの汗は、それが終わった時の匂い。」
そんな言葉を普段聞いたら何一つ納得できないだろう。
ところが全く腑に落ちた。そして焚き火を見ながら話すと本当に辛くなかった。
揺らめく火の熱を顔に受けながら、ふたりは一晩中語った。
コーラは最近まで研究所にいた。ゲノム編集だけでなく遺伝子組み換えもしているから最近まで戸籍もなかった。引き受けてくれる保護者がいなかったらロボトミーまがいの大脳拘束を受けたままだったろう。他の嗅覚実験体は亡くなって、自分の実験も終了する時、誘導質問がなされた。生きる意志の確認だ。
「私や仲間は危険だから、もう作られません。私はもう野放しにしてもいい年だから残しても大きな影響はないそうです。それを聞いて、私はチューリングテストも通らないと思うけれど、嘘をつきました」
「生きたいって? それ嘘でも言えるなら生きたいんでしよう?」
「生きたいっていうくらいじゃダメ。発語能力があっても自己意識が無い培養体は生存意思が無いことを見破られて処分されてしまいます」
コーラが生きる意志を検出されたのは、焚き火に似た夕焼けのおかげだという。
「私は人間がみんな、焼けた匂いが好きなのを知ってます。メイラード反応に人間は逆らえません。美味しく焼けた食べ物の匂いを嗅ぐと誰でも、私でも、海馬が生存欲求を高めます」
意志確認の日に、コーラは密室に置かれて質問を受けた。分泌物で人を操るのだから換気は厳重に行われていた。嗅覚にばかりこだわった研究者たちは、コーラが夕焼けの写真を持ち込んだのに気付かなかった。
「夕焼けを見た私は、まるで天然の動物のように、強く生きたいと反応しました。それは食欲だったかもしれません。ただの反射で、生きる意志ではなかったと思います」
「それって本当に生きたいんでしょう?」
「私はそれがわからないのです。わからないのだから、やはり私に心は無いようです。今でも私にはログもありません。この体がなくなったら死にます」
「でもさ、」
ノベルには何を言っていいかわからなかった。
「生きられるんだから生きててよ。俺もさ、嘘ついてて。多分カタルは当分生き返らない」
養育施設で生まれた人口調節児であるカタルは、ホスピタルファミリーを転々として育った。計画産児はゲノム編集はしていないと政府は公式発表しているけれど、遺伝リスクを回避した卵だけを抽出して育てるから、おしなべて優秀だ。カタルはほんのすこしうまくやれば、いい保護者も見つけられただろう。けれど度々遠くに引き取られたカタルはその度に舞い戻り、ノベルと同じ学校に通うことになった。
結局最後まで同じ学校で育成プログラムを終了したばかりなのだが、これからの人生を援助もなしにどう生きていくのか、カタルは語ったことがなかった。一番の友人の触れられたくないことに思えて、ノベルからも尋ねなかった。
本当にカタルは学校という偽物の経験を終えて、世の中に放り出されたばかりだったのだ。そこで自爆事故による事故死では、誰がカタルを再生してくれるだろう。
「自殺と確定はしなくても、再生申請する人がいなきゃ、無理なケース」
ノベルが申請できるのはずっと先の話だろう。
その夜は焚き火を囲んで一晩過ごした。
朝露が草に降りる時間、ノベルは起きだした。
その朝の出来事はノベルにとって忘れられないのに、記憶のなかで不思議なほど現実感が無い。
座り込んで寝入ったから体が痛い。体を伸ばすつもりで草の中を歩いていると、自分と同じくらいの大きさの有毛虫にでくわした。
島の草を伸びすぎないよう調整に使われている草食虫で、飛んで行かないように幼生成熟している。モフはノベルの目の前で、木の皮を綴った天蓋を造り、卵を産んだ。ひとつぶひとつぶ黒い覆いの下に卵は盛り上がって行った。
(コーラに見せてあげよう)
虫が大切に守ろうとする卵。それはあるものに似ていたから、コーラが喜ぶはずだった。
焚き火の場所にコーラを呼びに行くと、年取った子供はぐったりしていた。発熱していた。弱い体に無理をさせたからだ。声をかけると相槌は打つ。
ノベルはコーラに助けられたと思っていた。だから助けなければと思った。助けたかった。受付に行って確認すると、終了以前に医療救助を求めると不合格扱いになるのだった。途中棄権で合格できる特例は人命救助ぐらいだった。
軌道カプセルは横転している。
メガニウラのプログラムは汎用だったからノベルにもできる。そこに救助要請の文面も添えた。
――― 軌道カプセル事故により、受験者一名負傷救助願う。当方看病中、有栖川コーラ―――
それからメガニウラを出発させて、ノベルはコーラを背負った。肩が痛いけれど、腕は動く。救助が来る前にノベルはやっぱりモフの卵を見せたかった。
「ねえ、コーラさん、いいもの見せてあげる」
「はい」
「ほらこれ」
もう有毛虫はいなくて、産卵の巣だけが残されていた。ノベルは黒い木の皮を糸で綴った鞘をそっとめくった。
「あ、」
「ね、真珠」
虫の卵は守られて、湿度を保ち大きな真珠にしか見えなかった。白い真球の珠は艶やかに様々な色の光を反射させた。
「真珠ね」
こんなにもきれいなものが、こっそり隠されているのだ。
「あのね、死んだらどうなると思う」
「消えてなくなる」
「違う。死んだらさ、どうなるか俺知ってんの」
コーラは熱に浮かされていたから聞いていなかったかもしれない。でもノベルは言いたかった。
「その人を大切だって思ってる人たちがさ、死んだ人のことをさ、」
「悲しむ」
「違う。悲しいけどその先があるの。ただ思うんだよ。悲しくなくなってからもその人のことをさ、思うんだよ」
しばらく卵を見つめて、それからそっと鞘を戻し、ノベルは港に向かった。
コーラを騙す計画はうまくいった。怪我したノベルの救助要請をして看病したのはコーラだということになった。人命救助による疾病で、倫理的に顕彰される行為だから老人の免許は更新された。
ノベルは不合格になった。当然ながら。
「いいんだ。俺の方はいつかまたやり直せるし、そっちは生きててよ」
病室に行ったらコーラは怒った顔で、でも、
「お礼はします。裏金と思われないように」
そう言った。
二人がふたりのまま会ったのはそれが最後になった。ノベルのもとにはそれから何度か、Tフォードが現金を配達してくれたのだけれど、それもノベルが住所を変えるまでだった。
§3
ノベルは結構紆余曲折したものの、望んだプログラムを受けられた就職もできた。地球に十年帰れないしログも取れない職種なのだから、まあ楽勝就活ではあったけれど。
木星開発船は月面基地から出発した。それでも船窓から一番の見ものは地球だった。
視野いっぱいの青い球は渦巻く白い雲をおそろしい速さでうごめかせ、しかしそれが次第に遠ざかる。どこまでも大きな力学を見せつけて、天体は運動し、自分の乗る船は進んで行くのだった。
「天体は生きているようですね」
ふいに後ろから声をかけられて、けれどこの光景を共にしている人の言葉なら、どれほど大げさでも驚かなかった。
「本当に」
「ところで、気づきませんか私に」
振り向くとコーラがいた。
「船主に挨拶に来てくれないかとも思ったのですがいらっしゃらないし、恩人を呼び出すのも失礼な気がして日が経ちました」
またノベルはこの人に雇われたのだった。
「コーラさん」
「申し訳ないのですが、それが違うのです。私はあなたの知っている人間ですが違う人になりました」
妙に大げさな言葉遣い。意味がわからなかった。また例の匂いによる例えのように誰にもわからない話ではないか。
「二年前に記憶移植事故があったことを覚えてますか? 事故死亡で次の体を用意できなかった未成年の記憶が、間違った体に移植されたという」
「それ」
「コーラはカタルの記憶を引き受けました。ショックでしたが、誰も体を用意してくれる人がいないのですから、了承してくださいました。申し訳ないことにもう私たちは分離できません。もう私は昔のコーラともカタルとも違う人間です」
「そんなできすぎな偶然」
確かに記憶移植が間もない人間は接続が滑らかになるまでおおげさな身振りや大げさな言葉使いをするものだ。しかしそんな偶然が起こるものか。
「ええ。全サピエンスの知るお金のもっとも有効な使い道です」
しかし笑顔の筋肉の動きが、上唇を反らして前歯が覗く表情がノベルの記憶を呼び覚ました。
「本当にカタル?」
「そう。今では私はノベルの子供時代の後暗い悪事さえ知っています。大したことはしてないですね。それに、今では私には心があるのです」
そんなふざけたことがあっていいのかとノベルは思った。そんなことばれるに決まってる。
「生体記録でバレるし長期間ログを取らなきゃ捜査が入って、あ、」
この航海は十年だ。十年も経てば人格統合は終了しているだろう。多分外見のちぐはぐさもまとめて新しい人格に陶冶される。
「だから木星に?」
「それだけが理由じゃありません。カタルはノベルに言えなかっただけで、できるはずなかった将来の夢を叶えたというわけです」
言えなかった夢。いつもノベルばかり宇宙開発員になると言っていたのに。
ノベルがカタルに謝ろうとするのは遮られた。
「大切なものほど秘密にされるものです」
それから同じ口が違う口調で言った。
「海の底で真珠貝が真珠を育てているように」
それから三人は初めて出会う二人になって、初めて出会うのに旧交を温めた。
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