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個人的進化物語 -POPを巡るリハビリテーション-

 

 

第一部 からっぽな〈僕〉

 

 

あなたは映画館でポップコーンを食べるだろうか。〈僕〉は食べない。喉が渇くからだ。あと、咀嚼音も気になる。映画に集中しづらい。このことについて、一緒に映画を見に行った友人に言われたことがある。「お前は全然ポップじゃないね」と。もちろんこれは何も考えることなく出てきた軽口だろう。しかし、〈僕〉は考えてみる。ふむ、ポップコーンを食べない〈僕〉はポップじゃないのか。いや、待てよ。ポップってなんだよ?

 

「pop」のもっとも古い使用方法は、「ぽんっ」という擬音らしい。それから「突然飛び出す」のような意味もあるらしい。ポップコーンの「pop」もこの意味で用いられていて、「はじけるコーン」みたいなことだろう。とすると、ポップじゃない人とは、はじけるような生命力に欠けたつまらない人間という意味にでもなるのかね。

 

また、「pop」には「popular」の略語としての意味もある。「popular」は今でこそ「人気のある」という意味で用いられることが多いが、もともとは「人々に属する」という意味の政治用語であったらしい。この意味でいえば、「popular」であることは集団化を伴う。とすると、ポップじゃない人とは、集団から外れた孤独な人間という意味にでもなるのかね。いずれにせよ、あまりいい意味でありそうもないなぁ。

 

ポップカルチャーに含まれる「pop」は一般的には後者の意味で用いられることが多い。Popularカルチャーの略語としてのポップカルチャーである。それは広く評判のいい(popularな)カルチャーを指す。「人々に属する」ということを噛み砕いての意味合いだろう。広く評判がいいということは、そのカルチャーに属する人々がたくさんいて集団をなしているということだ。「人々に属する」という意味のポップカルチャーは集団化を前提とする。集団化を伴わないカルチャーはpop(ular)ではないとも言えるかもしれない。

 

しかし、そのような集団化によって孤独を免れることができるということではない。ポップカルチャーを通じて集団構成員になり、「人々に属する」ことができたとしても。むしろ、そのようなPopularカルチャーは孤独であることを突き付けるだろう。

 

例えば、作品の解釈を通じて集団化を果たせたとしよう。ただ、作品の解釈が他者と完全に一致することなどほとんどない。自分にしか見いだせなかった作品の解釈、すなわち集団に拾われない解釈があるかもしれない。その時、人は自分だけが見てしまった共有不可能な世界を感じ、孤独感を覚えるだろう。一旦、表層的に集団化を果たしながらも、再び孤独化する。

 

また、あえて集団化しないということもあるだろう。表層的な集団化を図るくらいなら、独自の世界観を掘り進めるという強い自分を持った人もなかにはいる。行為のレベルで集団からあえて外れていくことで、孤独化していく。そのような強い自分を持つ人は孤独という表現がお気に召さないかもしれない。ならば、孤高化と言ってもいい。

 

どちらにせよ、それは集団からはみ出ることによる孤独化だ。そこでは独自に世界へアクセスするがゆえに、はみ出てしまう。だが、〈僕〉はいずれのプロセスによっても、そのような孤独感を抱いた経験が一度もない。ただ、〈僕〉は違った形で孤独感を覚えていた。それはより深い孤独感かもしれない。

 

〈僕〉が抱いた孤独感は、この世界から切り離された孤独感だった。どのような方法でも世界にアクセスしている感覚がない。大げさに言えば、いったい〈僕〉は誰なのか。どのようにして世界と接続しているのか。そのことについて不明瞭になることで抱く孤独感。存在論的な不安。集団化後に再び孤独化するのではない。集団化しても拭えない孤独感が僕にはあった。

 

もう少し具体的に説明しよう。〈僕〉にとってポップカルチャーは「人々に属する」ための道具に過ぎなかった。ポップカルチャーが集団を前提とするなら、ポップカルチャーを通じて集団に入り込んでいくことはたやすい。ポップカルチャーが生み出す集団におけるコードを読み取りさえすれば、集団に参入できる。

 

このとき、ポップカルチャーは集団化を目的とする道具として用いられる。ポップカルチャーを取り換えることで、複数集団のコードをインプットし、様々な「人々に属する」ことになる。接続過剰なまでに。「人々に属する」Popularカルチャーはいつの間にか人々との関係を逆転させて、人々が属するカルチャーとなる。そうしていくつもの集団に飲み込まれた個人にとって、世界は捉えどころのないものとなる。

 

道具的にポップカルチャーに接する時、自分だけに固有な作品の「見方」など持たないだろう。なぜなら、そこでの作品の見方、もっと大げさに言うなら世界の見方は環境依存的であり、集団で共有されるコードに従うのみであるからだ。

 

とするならば、ポップカルチャーを通じた集団化というのは、自らの孤独を突き付けるものになるのではないだろうか。ポップカルチャーに対して道具的に関わり続ける限り、固有の世界観を持つことはない。世界との直接的なかかわり方を持たない。だからこそ、集団化を通じて世界に参入していくしかない。しかし、それは孤独を突き付けるものでもある。集団化を通じて孤独を免れたことなどない。〈僕〉はさみしかった。孤独であることと「人々に属する(popular)」ことは矛盾しない。

 

 

第二部 集団的である「私たち」

 

 

みんなが良いと言っているからその作品を摂取し、みんなが良いと思わないものは摂取しない。そのような食わず嫌いをして生き抜いてきた。集団から浮くことは何よりも恐怖であったし、自分だけが気に入るものも見つけられなかった。いつからだろう、そんな世界との関わり方に嫌気がさしたのは。その反動で、みんなが良いというものを全く摂取しなくなった。高校生の時に大ヒットし、当時みんなが見ていた『君の名は。』も見ようとしなかった。パズドラもモンストもやらなかった。集団との接続を断った。Popularカルチャーを通じてますます孤独を突き付けられる。

 

だからだろうか。『聲の形』を観たとき、とても心を動かされた。この映画のメインキャラクターである石田将也も集団との接続を断っている。将也は人々の顔を直接見ることができない。将也の世界では人々の顔にバツ印が貼り付けられている。しかし、映画の最後にはそのバツ印が全て取れる。『聲の形』は集団的であること通じて、将也が世界を再構成していく物語である。

 

この映画は群像劇である。小さなコミュニティにおける様々な世界の見方が提示される。世界の見方は決して固定されることなく、観客はいくつもの見方によって揺れ動く世界の中に置かれる。たとえば、花火大会のシーンでは、各キャラクターのそれぞれの景色から花火を眺める。そこで映し出されるのは後ろ姿であり、観客はキャラクターそれぞれの花火の見方を見る。それぞれのキャラクターにはそれぞれの世界の見方があるのだ。

 

にもかかわらず、映画の終盤においてキャラクターたちは集団的にまとまる。別に、キャラクターたちが一つの世界の見方を共有したわけではない。ただし、それぞれの在り方は緩やかに結びついて集団的である。これはポップカルチャーを道具的に用いて集団になるのとは、異なる集団化であろう。では、将也たちはどのようにして集団的であるところまで至ったのだろうか。

 

ヒントをもらうために、一冊の本を当たろう。土居伸彰は『21世紀のアニメーションがわかる本』のなかで『聲の形』の「私たち」性に注目する。「私たち」性とは固有な「私」という視点を持たずに描かれる、21世紀のアニメーションのモードのことを指す。そのアニメーション中のキャラクターたちはユニークな来歴を持つことなく、匿名化される。いじめっ子だった将也も、聴覚障害を持つ硝子も、学校で将也の隣の席だった植野もすべて同じような比重で描かれる。キャラクター間の差異は認められるが、特定のキャラクターが特別扱いされることはない。キャラクターは大体同じものとして緩やかにまとめられる。そうしてアニメーション中で緩やかにまとまるのが流動的な「私たち」である。

 

『聲の形』のキャラクターたちはそれぞれの仕方でうまく集団と繋がれずにいる。その繋がり方に差異はあるが、うまくまとまれないということについては大筋一致する。最後までなんとなくバラバラであり続ける。そんな彼らが集団的であるにはどうすればよいのか。土居は言う。「自分が知らなかったいくつもの小さな差異を学びはじめることできて、そしてそれを「私たち」の中に宿すことができる。」

 

たしかに将也は、世界の見方における他者との差異を知らなかった。映画前半の将也の被害妄想は、将也の世界の見方のみによって繰り広げられる。一人で弁当を食べる将也を嘲笑う声は、すべて将也自身の声なのである。他者の世界の見方を知らないゆえに、自分の声しか聞こえない。だから、将也は他者の声を聴いて、差異を学ぶことでようやく集団的に「私たち」であることができるであろう。他者の聲の形をつかもうとすることで、異なる世界が混じり合う。

 

他者の声を聴くということ。聲の形を確かめるということ。このことを将也が最も意識的に行うのが、硝子とのコミュニケーションにおいてである。硝子は聴覚に障害を持ち、正確に発声することができない。それゆえ、硝子の声は不確定なまま留まる。だから、硝子の声はいかようにも解釈できてしまう。たとえば、硝子が将也に「好き」と声で伝えたとき、将也はそれを「月」と勘違いする。その日は月がきれいだったからだ。硝子の声がはっきりした形を持たないがゆえに、発声者と受け取り手の間でズレが生じる。その小さなズレこそ世界の見方の差異である。

 

映画の最後のシーン、将也はふさいでいた耳を開放する。もちろん、嫌な声も聞こえてくる。それでも、他者の声をすべて聴く。自分の声だけでなく。そうして、人々と再び接続できるようになる。自分だけの世界の見方から脱して、人々の声を聴くとき、人々の顔に貼りついたバツ印は取れる。人々の聲の形を知り、他者の輪郭を知る。「この作品が語るのは、デフォルトにおいて匿名化・抽象化・集団化していた「私たち」を少しづつ活性化し、その輪郭を少しづつ浮かび上がらせる様子である。」

 

 

第三部 個人的な〈私〉

 

少し話を振り返っておこう。〈私〉は回想する。この物語は、popの二つの意味のうち、「人々に属する」という意味のPopularカルチャーへの考察から始まった。「人々に属する」ことを目的とし、道具的にポップカルチャーに関わることは、世界からの孤独化をもたらす。積極的に集団化しようという姿勢、集団構成員になろうとする姿勢は世界からの孤独を突き付けるものだった。例の、〈僕〉の話だ。

 

これを受けて、そのような集団構成員に「なる」集団化ではなく、集団的で「ある」集団化を『聲の形』に見た。土居の議論に沿いながら、徐々に集団の輪郭をあらわにしていく集団化を描いてみた。そこで重要なのが、差異を学ぶこと、他者の声を聴き、聲の形を確かめることだった。そうして、集団的な「私たち」が浮かび上がる。気づくと第二部には〈僕〉は出てきていない。

 

差異を学ぶということは、他人に抱く違和感を受け入れることである。差異は「私たち」の中に取り込まれ、他者と自分が描く「私たち」の輪郭を示す。そして、それは同時に、「私」性を高めることにもなるだろう。違和感は、それを感じている「私」の存在を浮き彫りにすることにもなるからだ。つまり、小さな違和感は、他者だけでなく、「私」の輪郭も浮かび上がらせる。

 

『聲の形』における硝子の声は相手にきちんと届くかわからないほど、個人的な声である。その声を受け取る将也は、自分の世界にあるものでなんとか補おうとする。「好き」をその時見えた「月」に置き換えたように。制約のかかった個人的な声は受け取り手の「私」によって変化を受ける。その意味で、硝子の声は俳句的、或いは短歌的である。

 

たしかに、短歌は制約を受ける個人的な声である。短歌は一人称の言語芸術であり、徹底的に個人的な世界を描くことができる。例えば、次のように。

 

きみが十一月だったのか、そういうと、十一月は少しわらった

フラワーしげる

 

詠み手に見えた十一月とはどのようなものなのか。十一月が少しわらうとはどういうことなのか。そもそもなぜ十一月なのか。全てが詠み手の心の中だけにある。しかし、読者はわらう十一月をなんとなくイメージしてしまうのも確かである。

 

歌人の穂村弘は近代以降の短歌の根源には「〈われ〉の生のかけがえのなさ」があるという。個人的な生の一回性を詠むのが短歌であり、それゆえその世界は徹底的に個人的な世界なのだ。だからこそ、短歌の読者も想像力を働かして世界を個人的に思い描く。いくつもの「私」だけの世界が生まれる。個人と個人の掛け合いが、豊饒な世界を生み出す。

 

短歌の読者が個人的な世界を思い描くことができるのは、その制約による。周知のとおり、短歌は5・7・5・7・7の31音で構成され、表現上の制約が極めて厳しい。それゆえ一音一音に世界が凝縮されている。読者は凝縮された世界を独自に解凍することが求められるだろう。また、詠み手が描いていない世界まで読者が思い描くこともあり得る。あるいはそれを狙って、あえて欠如を作る短歌もある。読者の想像力に委ね、短歌の世界を無限に変容させるのだ。例えば、次のように。

 

あそこから冬の林に見しものを誰にともなく語り続けぬ 

岡井隆

 

どこから、何を見て、誰に語り続けるのか。この短歌にはそのことを意味する要素がことごとく欠如している。しかし、だからこそ、読者はいかようにも解釈することが可能であり、個人的な世界が開かれる。同じ世界を共有しながらも、そこに開ける情景は異なる。そうして「私たち」でありながら、「私」が浮かび上がる。

 

そして、短歌はその個人性ゆえに他者との小さな差異を描くのにも長けている。限られた文字数を些細な差異の記述に費やすことで、個人的な世界から見た、他者との差異を際立たせることができる。そこで描かれる差異は具体的で小さな違和感であり、現実的には役に立たないことが多い。しかし、それ故に、個人的世界を生々しく補強するのである。例えば、次のように。

 

ガンバレ(≧▽≦)と思う 下積みアイドルがAKBに「さん」付けしてて

新道拓明 男 24才

 

この短歌は「私」の世界と「私たち」であることの共存を31音の中で描き出している。まず、AKBへの「さん」付けが詠み手の抱いた小さな違和感である。普通ならAKBに「さん」付けなどしない。下積みアイドルの世界は詠み手の世界とは違うことが「さん」付けで明らかになる。そして、差異化を経た後で、詠み手の「私」はアイドルを応援する。アイドルの個人的な世界に緩やかに接近する。

 

この歌がアイドルについて詠まれたものだということも示唆的である。現代のアイドルは一つの物語、世界観に身を置く存在である。その世界観・物語に参入することでファンは集団化する。しかし、この短歌が描く世界観に沿えば、その集団化は「人々に属する」ためになされるのではない。あくまでも、アイドル個人の世界に共鳴することでファンが集団的である状態へと導かれるのである。個人的な世界を支えるために、集団的であることを受け入れる。

 

短歌は個人的な生の一回性をその基礎に置く。短歌の数だけ個人的生きられた生があるともいえる。すなわち、現実は一様ではありえない。このことは新道の短歌が収録された『短歌ください 君の抜け殻編』の形式からも明らかだ。この本は、穂村が一般人から公募した短歌で構成されている。つまり、この本の中に収められる短歌のほとんどが素人の短歌なのだ。多数の匿名的な存在が、それぞれ別のしかたで世界を語る。その様々な世界の見方、リアリティが一つの本の中に凝縮している。まさにこの本こそ世界を生きる無数の「私」が差異を保ちながら「私たち」を形作っていると言えよう。

 

さらに、それらの短歌は一つのテーマが与えられたうえで詠まれる。したがって、一つのテーマが様々な角度から語られる。この本を通して複数提示される世界観を時に共有し、時に違和感を抱きながら、自分だけの世界の見方が立ち上がってくる。「私」は最初からあるのではなく、他者との共鳴の中で浮かび上がるだろう。「私たち」であることは同時に「私」性を高める。したがって、徹底的に個人的な世界に触れ合うほど、「私たち」と「私」の輪郭は浮かび上がる。

 

短歌は他者との差異を明示的あるいは暗示的に描く。しかも、日常に根差した感覚を31音に込めることによって。そこから広がる無限の世界に心を強く動かされたことを〈私〉は今でもはっきり覚えている。今でも心の奥底に眠る短歌がある。あの日の感動は何だったのだろうか。〈私〉はその短歌に何かを見てしまった。

 

哲学のような重苦しい言葉で世界について語るのではなく、また小説のような壮大なリアリティを作り出すのとも違った形で、短歌は個人的な世界のリアリティを日常言語の中に凝縮する。批評も同じではないか。〈私〉が批評に出会う前、批評が好きになる前、短歌に心動かされたのにはどこか関連性があるように思う。

 

穂村は短歌を「クシャミをするように」詠むという。クシャミのように「突然にはじけ出てくる」ということだろうか。偶然的に、「ぽんっ」と出てくるのだろうか。だとしたら、短歌はまぎれもないPopカルチャーである。「人々に属する」という意味ではない「pop」のもう一つの意味は、ポップコーンのように「はじけ出る、飛び出す」ということだった。

ポップカルチャーは集団的である中で「私」の孤独化を引き起こす。それは集団からの逸脱でも、世界からの孤独でもない。「私」の個人性を高め、集団のなかでその存在を浮き彫りにする。「私」を立ち上げるには、集団的であることを前提とするのだ。そして、集団を作り上げることはポップカルチャーの強みでもあった。ポップカルチャーは集団化と孤独化あるいは個人化を同時に喚起する。個人的であることと集団的であることは矛盾しない。

 

サボテンと呟く声のその低さそれは何かの暗号ですか

えむ 女 21才

 

(おしまい)

 

 


参考文献

『Popの交錯する地勢 アメリカ/ウォーホールと沖縄のポップ文化誌』 山城雅江

『21世紀のアニメーションがわかる本』 土居伸彰

『短歌の友人』 穂村弘

『短歌ください 君の抜け殻編』 穂村弘

『短歌ください その二』 穂村弘

文字数:7599

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