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メメントとの遭遇 − ポップカルチャーの向こう側

 

 

大学の生協で、宇野常寛『ゼロ年代の想像力』を立ち読みした。きっかけは、そこに『木更津キャッツアイ』についての言及があったからだ。批評が何なのか全く理解もしていないまま、その部分だけ読んでみた。木更津はぼくの地元だ。だから2002年のドラマはもちろんリアルタイムで見ていたし、色々と気になるところがあったのだと思う。言語化され批評に組み込まれたドラマの解釈に触れて、それに共感することもあれば、東京湾をめぐる描写の欠落に違和感を感じることもあった。ともあれ、自分の身近なコンテンツが、色々な難しいことをふまえつつ複層的に出来上がっていたことに、ぼくは批評を通して初めて気がついたのだ。

ぼくにとって、ポップカルチャーが初めて衝撃を与えたのはやはりこの瞬間だったと思う。批評がここで効果的な媒介になっていることは間違いないのだが、より重要なのは、ポップカルチャーが、芸術にほとんど触れ合うことのできなかったぼくのような人間にも「誤配」を届ける可能性を持つということの方であった。

それ以降、あらゆるポップカルチャーの「裏側」を読み取ることが好きになった。だから表象の向こう側に深みを持った何かが設計されていること、そこに「メタファー」というものが絡んでいるということに気がつき始めたのはほぼ大人になってからである。究極的に宇宙とつながるような孤独で幸福な「原体験」を少年時代のぼくは持っておらず、ここで詳細に述べることはできない。だがしかし、個人的な問題意識の中で、〈いま〉そのような体験について考察することはできる。本文はその思考の軌跡だ。

ポップカルチャーの中に、メタファーを通してさらに奥の深い議論が導かれる可能性がある。そのように考えるぼくからすれば、少なくとも2種類のポップカルチャーが存在する。ひとつは、それを通して大衆が世界に対する好奇心を深められるようなマスコンテンツ。もうひとつは、孤独で鋭い芸術表現を内包しながら、大衆が鑑賞する機会へと開かれているものである。

「言説」を作り、マスコンテンツの見方を変化させること。「言説」を作り、先鋭的な表現の存在を活性化させること。特に、コンテンツへより簡易な表現を好む若者が増えてきた2010年代〈から〉行動を起こしていくぼくの世代にとっては、この両輪を同時に動かすことこそが重要だ。優れたマスコンテンツの批評的な地位を向上させ、大衆に開かれた孤独な表現を、より理解が可能な範囲まで引きつけたい。持論では、ポップカルチャーとは、大衆に芸術を届ける可能性を持ったものであり、本文はそのような理解の元に書かれている。

しかしながら、はじめに極めてシンプルな懸念に触れなければならない。

大衆は芸術を求めていないのではないか。

残念だが、それが昨今の個人的な問題意識でもあるのだ。

 

 

現状を考えるために、まずは抽象化やメタファー化など、「原形質性」[i]の働きの中に芸術を見出すところから議論を始めたい。

ユーリー・ノルシュテインの作品などから、現代にも接続される先鋭的な表現を紹介しているのがアニメーション研究者、評論家の土居伸彰である。彼は著作の中で、表象にあるメタファーから、受動的ではなく能動的な心的効果をもって、不可視の領域におけるメタモルフォーゼを起こすことの効果を語っている。「凝縮されたメタファー」が、作家の個人的な世界から作られる。それが観客に突き刺さり、観客の意識の中で流動するとき、個人的な世界は、宇宙的な奥行きに接触する。時空間を超えた認識と観客は結びつけられるのである。

ノルシュテインにとっては、そのようなきっかけを原形質性を通して与えるものこそが「芸術」であり、土居も類似する「芸術」を現代作品の中から発掘し、価値づけ、配給することまでを手がけている。

本文において土居の議論を丁寧に紹介し尽くすことはできない。しかしながら、意識の中に生まれる、具体的なかたちをもたない抽象的な「メタファー」を流転させる能力にこそ芸術を見出すような姿勢に、ぼくは強く共感する。

そのため、芸術を以上のような見方から捉える本文では、二部構成を採用したい。芸術を愛する人にとってはもちろん多大なる意味があるにしても、いま芸術への興味を失ったように見える大衆に向けて、なぜ芸術を語り続けるのか。まず初めの章では、その個人的な問題意識に対し、土居の議論に類似する問題系を取り上げながら考察を進めていく。

次の章では、土居やノルシュテインの議論を、相反するエイゼンシュテインの運動理論をふまえて再考する。個人的な世界が時空間を超えた領域へとつながる芸術実践を取り上げてみたい。

それぞれの章において、ポップカルチャーが人々を一度それにまつわる集団(コミュニティ)の中へ巻き込み、先の孤独化を導く事例を紹介している。

ふたつの半ば独立した章をもって、ここからぼくなりの「ポップカルチャー批評」を試みる[ii]。

 

 

 

メメントの再発見

 

ぼくが注目するのは、現代の写真をめぐる状況である。

カメラが消失した。消失したというより、箱のような形態ではなく、機能としてデバイスに内蔵されるようになった。スマホ内蔵のカメラによって、ぼくたちはいつでもどこでも写真を撮れるし、その写真をSNSにアップすることもできる。SNS上に現れる写真は、はっきりとした境界を持たずにスクリーン上で他の映像とともに並び、データの流れ(フロー)の一要素として存在する。触覚的操作を可能にするスクリーンは、写真を最終的な帰結としてではなく、常に変化する前の一時的状態においてしまうのだ。

かつては写真という記号を、その背後にあるイデオロギーを批判するために「読み解く」という、イメージと主体の緊張関係こそが写真論の起点になっていた。イメージに注意を差し向け、一見自明で透明な表象を構成する記号の力学を分析し、そうすることで写真の用法が背景とする社会的文脈(深層)といかにして絡み合っているのかを明らかにすることができた。しかし現在では、データ空間を流れ漂う写真のフロー性により、これまでの前提そのものが無効化してきている。[iii]

インスタグラムなどSNSにあげられる写真の多くは、撮影直後に公開され、写真へのタグ付けやコメントを経て、友人や知人たちと共有される。この「共同的」な経験こそ、写真がSNSにアップされる理由になっているのではないだろうか。繰り返して強調するが、写真は、リアリズムや客観性、指標記号などと深く結びついていた。それは紛れもなく「かつてあったもの」を意味したのである。SNS上の写真実践はそれらと距離を置く。むしろ「いま進行中のもの」や現前の価値が重視されるのだ。現在の瞬間をその都度経験したり、それを共有しているという感情こそが、写真の核に置かれている。

以上のような状況を指し、メディア研究者のジョセ・ファン・ダイクも、現代のデジタル写真は「瞬間 モメント」としての価値を増し、他方で「形見 メメント」としての価値を失うのだと述べている。[iv]

〈メメント〉から〈モメント〉へ。この流れは、過去による「表象」から現在による「接続」への価値評価にも同期する。ここまでの議論をふまえると、記号が指し示すメタファーの世界は、大衆にとってその価値を失ってしまったように思えるだろう。

 

 

しかしながら、そんなことはない。写真表現を支えていた原形質な働きは、現代のスマホ文化の中にも通底している。思索のヒントは、SNS上で活発に見られるある行為に付随する。

「自撮り」である。

ここで、ロラン・バルトの議論を『明るい部屋』から引用しよう。重要なのは、バルトが肖像写真をめぐる経験に「4人の私」への分裂状態を捉えていたことである[v]。それらは「私が自分はそうであると思っている人間」(心的な自己イメージ)、「私が人からそうであると思われたい人間」(理想化された自己イメージ)、「写真家が私はそうであると思っている人間」(写真に投影された自己イメージ)、「写真家がその技量を示すために利用する人間」(公的な自己イメージ)というように分類することができる。

なぜ現代人はこれほどまでに「自撮り」を繰り返すのか。そこには、写真を前にした時の何らかの戸惑いや違和感があるはずだ。理由を簡潔に述べれば、それは以上のようにして4つに引き裂かれた自己が、写真の中で完全に一致しないためではないだろうか。ぼくたち現代人は、「心的なイメージ化の作用」を今でも写真に対して行なっている。かつてバルトが述べたように、感情的意識のうちに細部が浮かび上がるプロセスの中で、ぼくたちは写真を「よく見る」のである。

「自撮り」という行為は、デジタル写真が固有性を失いつつある中で、社会的、技術的な実践として登場した。これは、現代の流通に依拠しながらも、なんとかして表象に留まろうとする人々の身振りなのだ。

メメントは失われていない。

たとえばSNSの写真をめぐる動向から、大衆の中にある芸術への近接を発見することができる。人々は自分の日常における写真を撮り、集団化したコミュニティの中でその写真をシェアし、結局は「自撮り」という孤独な行為を通して、表象を心的に読み取ることとのバランスを取っている。

ぼくは、大衆が原形質的な体験、心の内的な動きと結びついた表現を〈潜在的に〉求めていると考えることができる。(だから今でも芸術に携わり続けたいと思うのだ。)

 

 

 

受動と能動が導く〈動的原形質〉な風景

 

ここからは、ぼくたちがメタファーや原形質性を通して何を受容するのかについて、別の角度から思考の補助線をひきつつ、考えを深めていきたい。土居によれば、アニメーションの原形質性を通して、ノルシュテインは宇宙や死、幽霊との接続までを目指していた。彼のプロセスの外側にも、類似する効果を導くことのできるバリエーションが存在するのではないか。

まず簡潔に紹介したいのは、「運動」にまつわるエイゼンシュテインの理論である。彼は内的なモノローグから述語の働きに注目し、そこから人々に効果を与える「運動」について考察した映像作家だ。

映像研究者の畠山宗明によれば、エイゼンシュテインの「内的モノローグ」は、「述語の主語に対する先行」と結び付けられる[vi]。たとえば、「彼は肩をすくめ…」という文章と、「肩をすくめた彼は…」という文章では、後者の方が芸術としての表現性が高いとエイゼンシュテインは述べている(「述語主義は内言の基本的な唯一の形式である」)そしてこの述語の先行が、表現運動の延長に位置付けられることになる。

我々の注意は、運動、変化それ自体に向けられ、何が運動するか、何が移行するか、何が関連するかにはさほど注意しない。[vii]

エイゼンシュテインはここで、運動している事物を知覚するとき、ぼくらはそれが「何」なのかを把握する前に、その「運動」を先に知覚すると言っているのである。

さらに、エイゼンシュテインはこれを演劇の議論へも接続する。彼にとっての最終的な表現目標とは「模倣運動」であり、それは観客が舞台上で行われた運動を「弱められた形で繰り返す」ことを意味する。不随意の反射運動が伝染し、観客席全体に共有されることと言い換えても良い。

そのとき共有されるのは、当然主語的なものではなく述語的なもの、純粋に感覚的なものである(述語的全体性)[viii]。もちろんそれは、結局は主語的なものの回帰になる。意思の働きを止め不随意の運動に身をゆだねることで、個々の主体は主語としての身分を失ってしまう。しかしそれは、「自然という唯一の主語に取って変わられる契機に過ぎない」。「自然ないしは運動を唯一の主語とする述語的なものの世界」こそが、エイゼンシュテインの考える「全体」なのである。

エイゼンシュテインの議論を、ノルシュテインや土居のそれと区別するポイントは「受動性」だ。画面の向こう側を能動的に読み込むことのできるいくつかのアニメーションとは異なり、エイゼンシュテインの「運動」イメージは、それを止めることのできない観客に受け身の姿勢を強いることとなる。ならば、ここで、つまり述語的全体性において「運動」から繋がる一連のイメージは、ノルシュテインの示唆する個人的な世界−宇宙的な可能性にまでは開かれないことになってしまうだろう。

しかしだ。もし受動的なイメージ伝染を受け、その全体性を獲得したことこそが、次にある能動的で原形質的な世界観察を導くような試みが存在するとしたらどうだろう。先鋭的な表現を通して、ぼくたちは個人的な世界から宇宙的な深みへと接続されるのだろうか。ここまでの議論は、最後の「言及」に向けて繋がっている。

 

 

劇作家、批評家の渋革まろんが実践する「トマソンのマツリ」という演劇に、受動的であり能動的な、そして運動と原形質性が合わさったハイブリッドな可能性を見出したい。

そもそも、「トマソン」とは何なのか。これは美術家の赤瀬川原平が発案した造語で、渋革いわく、路上で発見される「謎」そのもののことである。例えば、登ったところにドアがなく、そこから降りるしかない無用な階段(「純粋階段」)や、通過することができないのに立派な門構えのみを残した門(「無用門」)などが代表的なトマソン物件として過去には言及された。

渋革は、この「トマソン」を路上の上の人間観察へと適用する。街角でティッシュを配る男は、ティッシュを歩行者に受け取ってもらえない。そうこうするうちに、彼の手は歩行者に関係なくティッシュを配り始める。ここでは彼の手が手として無用化し、自立していることが重要である。他にも無用化された都市の「謎」は存在する。複数の事象を路上の身体運動の中に見出し、劇の中でまとめあげていくのが「トマソンのマツリ」なのだ。

舞台中、役者の身体は「トマソン」の集合となり、観客はその運動を目撃する。トマソン的な身体運動は、まさに「身振り」のスケールにおいて場に伝染していく。エイゼンシュテインが述べているように、観客は述語的全体性によって役者の身体を反射的に模倣し、その結果として主語においても連鎖するのである。

この状態であれば、観客は「受動的に」運動を目撃したのであり、原形質性の中に見出すような表象のリアリティを「能動的に」獲得するわけではない。しかしここからが重要だ。「トマソンのマツリ」は舞台を持って終わらないのである。観劇のプロセスにおいて大きな変化が起きるのは、劇場を出て、観客が日常生活へ戻ろうとした時である。日常の全てが劇場になるとまで言い切ることはできないが、少なくとも日常の中に「劇」の要素が部分的に同期して存在するような実感を得る。

渋革は、上演を前に観客へ送られる「トマソンメルマガ」の中で以下のように述べてみる。

「トマソンのマツリ」はトマソンをシェアする・想い出すことを目的としています。(・・・)まちへとでかけ、そこで出逢った「トマソン」の謎を受け止めていく場を「上演」としています。

なぜこういう上演の形態をとっているのか?

端的に言います。「演劇」を「集まり」をつくるために使えないだろうか? と考えたからです。従来であれば〈演劇を作ること〉(観客からすると「観ること」)に置かれていた重点を〈演劇で集まること〉にズラしていきたい、そうすると結果的に−いいわるいは別にして−観客と上演の関係や、戯曲や演出家の役割、演劇を観劇することの意味、も変わってくる。

渋革は「もちろん、シアター演劇の全部が全部その特徴を持っていると極論を言いたいわけではないです」と述べた上で、「集まること」に価値の中心をずらした時、「作りー見ること」で演劇が受け渡されるシアター演劇の諸要素は解体していかざるを得ないと強調する。

これは旧来の演劇実践を脱臼する試みである。それと同時に、ここには土居やノルシュテインが言及するエイゼンシュテイン的な限界を超えていく可能性までもが宿っているのではないか。

「トマソンのマツリ」にとって、本当の上演は、観客の日常の中にある。舞台の後、個人の世界においてぼくたちは街の建築や路上の人間を異なる見方から再発見することになる。

たとえば、深夜に閉店しているそば屋の暖簾のはためきに、無意味なティッシュ配りの運動が重なって見えたりする。類似する運動を契機にして、日常を異なる眼差しで見つめなおす時、それは能動的なプロセスであり、原形質性から「画面の向こう側」に個人的な宇宙を見出す試みに近づいていく。

かつて赤瀬川は、トマソンを「幽霊」にも例えた(「都市に幽霊が出る。トマソンという幽霊である」)。渋革もまた、トマソンの向こう側にその存在を見出そうとする。

トマソンの無用性は常に幽霊たちの囁き声をわたしたちに届けます。そのシグナルは偶然に発せられたものでありながら、どこにもなくてどこにでもある、そんな不思議なネットワークで、もうひとつの見えない世界を張り巡らせている。

そこにあるのは、孤独な視野の中にしか現れないようでいて、さらにその奥の時空間へと突き抜けるような風景だ。当時の無用な鉄塔や廃墟に宿る幽霊は、無用性を経由して路上の動作に影響する。そして演劇が掬い出したその動作から、観客は再び都市の姿見を変化させる。渋革の試みを通して、ぼくたちは過去の廃墟や記憶を〈動的原形質性〉の伝染−共有の元に見出すことになるのだ。孤独に体験されるのは、まさに「メメント」の世界である。

一連のプロセスをまとめよう。渋革は「観察会」において観客を集合させ、述語的全体性を軸にした身振りの効果によって「トマソン」の原形質運動を伝染させる。そして、「観察会」の後に始まる「上映」の中で、観客は動的原形質性を能動的に読み込み、都市の記憶を再発見していく。原形質を通して繋がれた過去からは、幽霊的な存在までもが想起される。こうして、個人的な世界は宇宙的な広がりの中へと導かれるのだ。ノルシュテインの議論の外側にあった受動性と運動の、メタファーへの再配合が生まれる。

街ブラして〈動く〉風景を見るだけで、僕には過去から未来までを突き通した都市の記憶が見えてしまう。「トマソンのマツリ」以降、ぼくはたびたび孤独で宇宙的な〈メメント〉に触れている。

 

 


 

[i] 『個人的なハーモニー』の中で土居は、原形質性について、「アニメーションのみならず現実に対しても新たな理解のかたちをもたらすものである。原形質性とは、ドローイング自体が自由に動き回る能力ではない。それは、観客の意識の中に生まれる、具体的なかたちをもたない抽象的な『メタファー』を流転させる能力である」と述べている(p327より)。

[ii] これは独立しているようで相互補完的でもある「2本立て」の批評文である。

[iii] 前川修「デジタル写真の現在」(『インスタグラムと現代視覚文化論』所収)p56より

[iv] 同 p59より

[v] 増田展大「接続する写真」(『インスタグラムと現代視覚文化論』所収)p72より

[vi] 畠山宗明「エイゼンシュテイン−運動とイメージ、そしてアニメーション」(『ゲンロン7』所収)

[vii] 同 p142より

[viii] 同 p143より

 

 

主要参考文献

 

土居伸彰『個人的なハーモニー ノルシュテインと現代アニメーション論』、フィルムアート社、2016年

久保田晃弘、きりとりめでる共訳・編著『インスタグラムと現代視覚文化論』、BNN、2018年

東浩紀編『ゲンロン7』、ゲンロン、2018年

文字数:7950

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