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stretta

取り下げられた序文

物象化の最中にあって、大衆は、自らを交換可能なものに切り詰めて、生活している。集団化とは、個人がマーケティングにおける統計上の数値となること、誰へも向けてないものに個人が消費でもって応えることだ。他方孤独化とは、ある意味では集団化と同じことである。消費によって実感される集団化など虚偽だからだ。しかし、それとは質的に異なる孤独化というものがある。透徹するという行為による孤独化――そうはいっても、一体何に対する透徹だというのか。――ともかく、ポップカルチャーについて語るとき、このようないささか古びた構造を前提としたいものだ。

ポップカルチャーの産物は、合理的なものである。何か内容として非合理的なものを売りにしていても、売り物である以上、大量生産されるものである以上、合理性の範疇に留まる。しかしこの合理的である他ないという性質こそ、逆説的にポップカルチャーの産物が非合理性へ至る利点なのである。

この場合の非合理性とは、時間がたてば自ずと生じる、合目的性の壊れである(玩具、廃墟など)。あるいは、消費されることの悲哀である(成人向け雑誌など)。時間的なもの、生成しゆくものという契機が、使い捨てられるものにおいてこそ、際立つものとなる。

あまねくポップカルチャー的事象は、市場原理という「ゆく河の流れ」の最中にあって、はじめから死に行く存在だ。それゆえ最初から、儚さという性質を、ある意味ではかつての高尚な芸術が必死に追い求めていたようなこの性質を、気苦労なく身にまとっている。こうした儚さに対する透徹が、ポップカルチャー的事象に施す延命治療となる。すなわち、各人の記憶にしっかりと留めることによって。

 

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nishimura-b[1]:「ねぇ、これってリード文?」

nishimura-a[2]:「うん、まぁね」

b:「だめだよ、これじゃ」

a:「なんで、いいじゃん」

b:「だって、これじゃヘーゲル=マルクス感出過ぎじゃん。物象化とかいいかげんやめなよ。オサレじゃないじゃん。てか集団化とか個人化とか、こんなお題じゃなかったじゃん」

a:「……。しょうがないよ。ポップカルチャーで人と熱く語り合ったことなんて、ないもん」

b:「そんなことないでしょ、ポケモンとか、みんなでやったじゃん。バグ技で増やしたミュウ、みんなにあげてたじゃん。それとか……AKBとハロプロ、どっちがいいかとか、殴り合いになりそうなくらい真剣に、語り合ったじゃん」

a:「ポケモンとかアイドルじゃ、書けないよ。それに、みんなDDだったから殴り合いになんてならな」

b:「無能」

a:「えぇ……」

b:「オサレにしなよ。アガンベンとか引用してはじめなよ」

a:「なんでアガンベンがオサレなんだよ」

b:「いいから、やりなおし。もっと読みたくなるやつ、書いて」

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序文、ふたたび

西武線に乗ると、いつも目眩がする。これが現実の乗り物だからだ。新幹線がかつて、夢の超特急と呼ばれていたのと真反対の意味で。西武線は現実のなかをひた走る。しかしどこか遠いところに行けるわけではない。どこの駅もそれほど違いがわからない。駅と駅の間には、古びた住宅が軒を連ねる。それはあたかも、連綿と続く重苦しい日常の写し絵である。

西武鉄道がしばしば行う、ファンシーなキャラクターとのコラボレーション企画は、そんなかでも、一片の清涼剤として機能している。しかしまた、コミック、ライトノベル等におけるファンシーな形象というのもまた、何に対する清涼剤として機能しているのか自覚しているのである。それらが、現実の生の代替物であったり、欠陥を補うものであるとすれば。

何の話をしているのか――私は今、「日常」という表象について、再考しようとしているのである。

 

「日常」の表象群

最初に念頭に浮かぶのは、いわゆる「日常系」というカテゴリーについてである。2000年代にセカイ系の対立項として発展を遂げ、今なお確固たる地位を占めるジャンルとなった日常系は、それ特有の日常を扱うことに特化している。とあるアニメでは、女子高生同士がチョココルネの食べ方について話し合ったり、また別のアニメでは、軽音部が練習もそこそこに、部室でお茶をしているのであった。

それはいわば、閉じた日常であり、どこかにきっとあるかもしれないという、幻想的乃至希望観測的日常である。その意味で、全くもって現実の日常ではない。それどころか、現実の日常をその世界の中に写し込ませて、現実の日常を肯定するに至らしめる、そうした試みにすら感ぜられる。オタクの女子高生がコミックマーケットに行く様子が描かれたシーンに、ある種の集団化を、つまりマイノリティーが市民権を得る悦びを感じる者は多かったのではないか。

それでは、「日常系」の他に、より日常に則した表象はあるだろうか。いわゆる「マイルドヤンキー」については、どうだろうか。これもまた人工に膾炙して久しいが、もともとはマーケティングの用語として、提唱されたものだったという。若年層のなかでも消費に意欲的であるというレッテルを貼られた彼らの存在は、人口に膾炙しただけあり、リアリティをもって迎えられた。そしてまた、90年代までは確かにあった、マスコミによってつくられるタイプの流行、時代精神を、細々と支える存在であり続けている。

マイルドヤンキーとは、現状追認型ヤンキーである。破壊衝動は服装などの形式的な部分に留まり、地方で暮らしながら、家族や親戚を大事にし、早々に就職と結婚を済ませ、生活をする人々である。それゆえ、マイルドヤンキーという類型自体、そして彼らが嗜好する諸々の事象も、自己完結的な生という日常の表象を喚起させるものである。

日常系の幻想的乃至希望観測的日常と、マイルドヤンキーの自己完結的な生とは、マーケティングのターゲット層という観点からしたら、重なるものではないかもしれない(オタク趣味の人はavex的なアーティストを好まず、逆にマイルドヤンキーに該当する人は日常系アニメを見ない、という仮定)。しかしながら、日常を無害化し、日常的ならざるものを受けいれる収容能を持たない限り、大差ないのである。

もちろん私は、ただ日常の表象について思考を巡らせているだけであるから、日常の無害化という思考に対して、糾弾する権限などない。ただそうした表象群は、例えば私が西武線に乗ったときに感じる不安のようなものを、言語化するのに役立てることはできそうもない。

 

レトルト食品と国道沿いのハローマック

それにしても不思議だ。なぜ西武線に乗るとこうも不安になるのか。現実のなかをひた走るのであれば、それは安堵感につながってもよさそうなものである。大量生産物の風景でも、安堵感につながるものと、不安感につながるものとがあるというのか。

安堵感をもたらす日常の表象を言い当てるのは容易い。それは、過去からの日常の帰来である。幸福な幼少期を思い起こすこと、プルーストの例を借用すれば、マドレーヌ体験である。地方で物質的な生活を送った人間にとり、マドレーヌ体験は往々にして、レトルト食品で引き起こされるものかもしれない。地方に特有の郷土料理など、しばしば創られた伝統であり(自身の地元のB級グルメとして売り出されているものに、身に覚えがないと思った人はどれくらいいるのだろう)、おふくろの味と思えるものを、どれだけレトルト食品が支えていたかしれない。味覚以外にしても同様である。「ハローマック」というおもちゃ屋が、いつのまにか事業撤退で町から消え、それでもあの独特の形態の店舗が、まったく別の小売店に塗り替えられているのを見て、幸福な幼少期への退路を断たれたような気がする人は、そう少なくないだろう。

しかしそうした類の安堵感は、大量消費社会においては、均質化、すなわち私が他人と同じようなものであると認めることでもあり、幸福には変わりないのだけど、問題含みであり続ける。私が他人と同じマドレーヌで過去へ戻れるとしたら、その過去は他人のものかもしれない。私の記憶は本当に私のものなのだろうか。

ここに不安がある。おそらく今のところ言えそうなのは、西武線に乗ることの不安は、実のところ安堵感でもあるのだ。あるいは安堵の契機が本当に欠けているとすれば、マドレーヌ体験の欠落ということであり――西武沿線の風景は、遠く離れた私の故郷と、少しくらいは似ているのであるけれど――、そうすれば西武線に乗るということは、未来に待ち構えた均質化の予感が、まざまざと感ぜられること、そうしたものかもしれない、ということである。

あるいは、マドレーヌ体験から漏れ出たものが、マドレーヌ体験が圧殺したものが、今の私に何か言おうとしているのだろうか。――いや、この点はあまりに曖昧模糊としていて、続けることができない。

 

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a:「……なんで寝付けないの」

b:「さっき、こわかったの」

a:「寝る前に動画サイト見るの、やめたほうがいいよ」

b:「ちがうってば、聴いたの」

a:「いや、しらないけど」

b:「空気公団」

a:「空気公団? あれって、寝る前に聴くようなもんじゃないの」

b:「……こわい」

a:「そんじゃ、ああいうダウナーなシティ・ポップとか、クラムボンとか、だめなんだね」

b:「ちがうよ、空気公団とクラムボンじゃなんにも似てないよ」

a:「……なんにも、ってのは言い過ぎだと思うけど。キャラ被ってんじゃないの。カテゴリーが一緒、っていうか。曲調だって似てる」

b:「そういうのはだめだよ、音楽を聴くってことから、一番遠い」

a:「うーん……」

b:「なんていうか……シューマンの〈子供の情景〉みたいに、こわいの」

a:「あれって別に、なんてことのないキャラクターピースじゃないか。それこそ子供がピアノの発表会で弾くようなもんでしょ」

b:「ちがう……あれは、二度と子供に戻れない大人が見る、情景なの」

a:「え、ロリコン、ってこと?」

b:「ねぇ、バカなの?……そんなこと言ってないじゃん」

a:「ごめん……よくわからなくって。じゃあ、ノスタルジー?」

b:「……なんでこわいかわかる?」

a:「……」

b:「言葉を尽くせないから、だと思う」

a:「そんなこと言ったら、音楽を聴くのは、なんだってこわいことになるじゃないか。そもそも、こわい思いをするために音楽を聴くなんて、一体どういうことなの?」

b:「うーん……そういうことじゃなくって……なんか、アノニムな感じがするんだよね」

a:「アノニムな感じ?なにその変な日本語……空気公団と、〈子供の情景〉とが?」

b:「うん……正直、『ここだよ』以外の空気公団の作品は、別にこわくないの……なんていうか、やっぱり、様式とかキャラとか、なんかかたちができちゃうと、こわくなくなっちゃうんだよね」

a:「いや、でも、空気公団はわからないけど、〈子供の情景〉は、作品分析の恰好の例じゃあないの。実は同じ音型が、曲全体を貫いてる、って話」

b:「かたちがあるかないかってのは、そういうもんじゃないの。一度も出会ったことのない、たぶんこれからも一生交わることのない他人同士を偶然繋ぎとめるような、そういうなにかが、目で見たり、耳で聴いたりしても、直接はわからないけど、どこかにあるような……あるのはわかるけど、それがなんなのかわからなかったりすると、こわいんだよ」

a:「うーん……よくわからん……もう寝よう……」

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「第二の自然」

 実のところ、いくら日常系やマイルドヤンキー的なものについて、これらが虚偽の表象群だと高を括ってみたところで、日常についてその表象も含めて総体的に語ることなど、容易ではないのである。日常など魚にとっての水のようなもので、有意味なものとして立ち現われることなど、それこそ日常なのだから、ありえない。それでも日常を捉えようとしたら――その無理な動機は、それこそ日常の漠たる不安の根源を探るなかで生じるのかもしれないが――人は何に対して、意識を研ぎ澄ますのだろうか。

可能性があるとすれば例えば、慣習、因習について意識を研ぎ澄ますことならできる。慣習はいつだって日常のなかに素知らぬ顔をして溶け込んでいるが、違和感や不安といった否定的な感覚で、捉えることが可能なものである。社会の側から、私ではない他人の方から端を発するようなものだが、いつのまにか個人の内面の方まで波及する。

あるいは、研ぎ澄ます際の意識の構造を、「第二の自然」という、自然に思えるものが実は自然ではないという暴露型の論理構造を前提とする概念に、求めることができるかもしれない。

人間の作り出した諸形態という第二の自然は、いかなる抒情的な実質性をももたない。それの諸形式はあまりに硬直しているので、象徴を作り出す瞬間をうまくとらえてそれにからみつくことができないのである。〔……〕第二の自然は、第一の自然のように、沈澱してはいず、明白でもなく、意味から疎遠でもない。それは硬直した、疎遠となった、内面性をもはや呼び覚すことのない意味の複合体である。[3]

  他人、あるいは社会がつくったかたちで、個人の側にある抒情的な実質を捉えることができないなんてことは、今更言うまでもない。問題は、第二の自然のなかで、内面性をふたたび呼び覚すには、どうすればいいかということにある。

 

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a:「ねぇ、……アノニムな感じ、ってなに?」

b:「何の話?」

a:「いや、このあいだの、空気公団と〈子供の情景〉の話」

b:「あぁ……誰がつくった音楽か、わかんない感じがするでしょ」

a:「うーん……わからない……一旦様式を感知したら、その感覚に至るのって、難しいと思うんだけど」

b:「そんなことないよ。ちゃんと経験として咀嚼すれば、大丈夫」

a:「本当に?……それって作品の外面的な類似に振り回されたりしないの?」

b:「うーん……だから、こわいっていう感情が大事なんじゃないの」

a:「……」

b:「意味とか様式とか、そういうのを把握するより速く、こわいっていうのは、感じられるからね」

a:「……アノニムな感じって、こわいの?」

b:「そりゃあだって、自分と赤の他人の境界線が、なくなるような感じなんだもの」

a:「……本当の内面性って、あると思う?」

b:「なあに、急に。なにそれ」

a:「いや……なんでもない……」

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[1] 音楽の精神。以下bと略記。

[2] 合理的知性。以下aと略記。

[3] G・ルカーチ 著 原田義人/佐々木基一 訳『小説の理論』、70頁。

文字数:5933

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