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有意味化のストラテジー

「今、自分がここにいるのは何故か」という問いに対して素直に自分の立ち位置を見つめ直すと、「受験」と「映画」の正面衝突から始まった世界の延長にいるように捉えられる。前者は社会制度であり、今回のテーマにふさわしくないようにも思われるが、そんなことはない。ポップカルチャー的事象の「的事象」という表現は、多分に主観としての対象認識を許容しており、むしろ主観的な認識がその主眼にあると考えられる。そして、学生というマスにとって、受験という制度は、部活、体育祭、文化祭、修学旅行などとならんで、いやそれ以上に人気のある点取りゲームイベントであり、ある社会における規範様式を文化と定義づけるなら、制度への従順さゆえ、それこそ文化と言える。

前置きはこの辺にして、

まぁ、インパクトの瞬間は紛れもなく己の出発点という確信めいたものがあるため、このことを真摯に見つめ、捉え直してみようと思う。まずは衝突が如何なるものか探るため、この時期の心象を漫画を通して一般化したい。

井上雄彦の『スラムダンク』という漫画の一節で、三井という元バスケ部の不良が、バスケ部を襲撃した際にこう言い放つ。「バスケなんて単なるクラブ活動じゃねーか!!つまんなくなったからやめたんだ!!それが悪いか!!」不良のような、制度に対してアウトロー的な冷ややかな視線に晒されれば、それはたかが高校の部活で、それを頑張ったところで人生の態勢が直接的に決まるわけでもなく、冷めた見方をすれば、そんなにこだわる必要もない。こだわる必要もないことに恥ずかしいほどに真剣な彼らは、三井にある種の憧れとともにいじらしいような苛立たしさを感じさせる。それと対比する形で、同漫画において、インターハイの二回戦、名門山王工業との戦いにおいて、主人公の桜木は、終盤で選手生命に関わる背中の怪我を負うが、指導者の説得にも感化されず、「オヤジの栄光時代はいつだよ…全日本の時か?オレは、オレは今なんだよ!!」とその怪我を押して強硬に出場していく。

これらのシーンが示すように、スポーツに限らずこの時期の学生というものは、人生の有意味性をその内部で完結させており、その外縁に意味や価値を求めない。現実にも、プロ注目の高校球児が甲子園で、「この大会で肩がぶっ壊れてもいい!」と連投に連投を重ねるという光景も、そんなに珍しいものではない。後々の後悔はおいといて、その時の思いは本心に近いであろう。自己を中心とした内縁こそが世界のほぼ全てであり、外部から捉えると無意味に見えることでも、それを頑張ること自体に意味を見出すことができるものである。これはある種のオタク的心象と同義に捉えられる。

彼らがオタクと違うのは、この構造を担保するその仕方である。それは学生という社会に正当に担保されたレールに無自覚かつ無批判に乗っかることで得られるなんとなしの安心感、つまり人生の有意味化戦略の、無自覚の制度への外部委託である。当たり前にあるシステムに対する無批判の拘泥によって、行為の正当性を無批判に信じられる。寺山修司が「青春は内にいると分からないが、外から見ると青白く燃えている」と語るのも、もはや外部委託できなくなったものが、この無意味という無限の広がりの中でただ存在しているということ自体の奇跡を謳っていると捉えられないだろうか。

同じように、学生という無敵の鎧を脱いだ後も、受験というゲームに真剣に乗っかることで、人生の有意味性を獲得できる。そのイベントに盲信していた時は、人生は有意味に構造化されており、ゲームに拘泥し、将来という意味を、漠然と信じることが可能になる。そこでの経験は、ゲームの競争における勝ち負けの論理の楽しみに加え、知的好奇心をくすぐる快楽をもたらし、競争の論理に回収され、意味あるものとして、仲間とともに制度に乗っかり、新たな人生のゲームをスタートする予感を感じさせる。

しかし、ここで一ついままでの戦略が瓦解を始める。受験という制度は、多様な選択肢により参加者の無自覚性を否定し、その性質上外部に延長を見せ、制度自体のさらなる外部に、有意味化戦略を委託せざるを得ない。「甲子園でぶっ壊れてもいい!」と叫んだ球児は、センター試験で「ここで終わってもいい!!!」とは叫ばないのである。真剣度を担保していたはずの将来への展望は、次第に荒涼と広がる将来を垣間見ることを強要し、システムの蓋然性は薄れ、そのイベントに乗っかりながら、漠然とした無意味さというか空虚さを感じるようになり、このゲームを頑張ることの意味を考え始める。ゲームの仲間も、感じていたであろうこの感覚。この感覚の共有もこのゲームの不可抗力的な効用だったのかもしれないが、実際に、俺たちはどこへ向かって、その先に何があるのか、そしてそれは意味あることなのかと、漠然たる不安を仲間内で共有していた。

それでも一般的には、なぁんちゃって多文化主義的に、多様な意味の中から、自分にとって有用なものを探し、選択することで、そこを足場に「現実」に踏みとどまる。これらの感覚を将来の重みと天秤にかけ、なんとか有意味に転化してやり過ごす。

しかしそこにはさらなる外縁というか、深淵があり、そこを見つめてしまうともう逃げることから逃げられなくなる。意味への問いのサイクルは、その遠心力をどんどん増し続け、無限に広がりを見せ、有意味化戦略を持たないただの無意味な世界を感じ取らせてしまう。確かに自分に課せられたタスクを成し遂げることが何か大きな力になるであろうと漠然と理解していながら、だがしかし、その力が何になるのかと自らの外縁に問い続け、包括的に捉え続けていくと、ある飽和点で一気に無力化してしまう。それまではその臨界点を超えない装置があったはずなのに、それが何だったのか、どこへいってしまったのか、よくわからなくなってしまうのである。無限の無意味世界に確かに存在していたあれこれは、居場所を失い、これまで自分の有意味性を担保していた当たり前は全て欺瞞であったことを感覚し、生きる足元が覚束なくなる。

ここでの有意味化戦略なら、まだ様々な方策が講じられる。個人としての生きる意味であるならば、様々な論が可能であるからだ。わたしは楽しいから生きている、と生きることの意味をその快楽に求めることも可能であろうし、わたしは、世界を変えるために生きていると、その使命に生きる意味や価値を求めることも可能であろう。また、生きる意味とは、自分の価値を社会に投射することで見えてくるとも言える。

が、この深淵ではそれは当てはまらない。なぜなら、意味の問いのドライブは個人に留まらず、ここで考えてしまう意味性とは、自分を起点とした、人間一般に当てはめられているからである。この意味性を人間一般に求めると、それらの論は一気に無効化されてしまう。どうせ全ては終わるのだと。こうして世代の速度から置いていかれ、むき出しの現実にただ一人晒される。

しかし人間はむき出しの現実を生きることはできない。人間はそもそも本来的に意味のないものたちを反現実に照射することで構造化、有意味化して生きている。現実の不条理、現実のランダム性を意味のある物に変換していくことで意味のあると思える「現実」を受け入れる。

ここで取り得る、このむき出しの現実に対する人間存在一般への有意味化戦略で、一般的に登場するのは、神を中心とした、宗教である。宗教を盲信すると、意味化の無限後退をたやすく解消できる。しかし、この時点にあって、神は登場しない。オウムを初めとして、新新宗教の虚構は瓦解していた。輪廻とカルマを中心とした空観思想は、ポアと呼ばれる暴力に転化され、決して救いなどもたらさない欺瞞であった。

決して拠り所なく、終わりの見えないこの問いを終わらせてくれたのは、一切の否定である。人間存在を終わらせるという、ただその一点において人間存在の意味は見いだせたのである。想像力がもはや個人としての人間存在の意味性にとどまらず、人間存在の意味や価値すら疑うに至る。人間にとどまらす、世界全体の幸福の総体に対して、欲が欲を生み、世界を思うがままにする人間存在は、その役割を担いきれていないように思われた。命の尺度を人間の価値において一元的に決めてしまう身勝手さ。自身の死をもって解決し得ないそれは、人間存在そのものの破滅を望む欲望へと進んでいく。

つまり第一のポップカルチャー的事象がもたらしたものは、「破滅への欲望」であった。

この時点において、終点なき故の破滅を志向したこと自体もある種の必然だったのかもしれない。これらの嗜好性はこの時代、様々な文化や哲学の領域に回収されていることを大澤真幸の『不可能性の時代』が示している。

そんな欲望が澱のように腹の底に溜まっていたとき、

『男はつらいよ』という映画に出会った。

最強のマンネリ映画と呼ばれるように、その構成は毎回ほぼ同じである。その魅力は一般に落語を映画に見事に落とし込んだ最初で最後の名作と言われるように、名だたる俳優やコメディアンの世俗的な身体性が醸し出す生活感や人間の愚かしさや可笑しみ、生きることの軽やかさがあった。

そんな中にあって、この時の自分には全くの別の顔を覗かせた。クライマックスを終えた結部のシーンの、とある田舎の電車を映した一見なんて事ない情景描写を見て、横っ面を思いっきり引っ叩かれた。次の瞬間、なぜ生きるのか、生きるとは何か、生への疑問は涙とともに身体から流れ出ていった。決して解消されたのではないが、巨大なシステムとの闘争、行き着く先も、終わりもない疑問たちに縛り付けられていた身体は解放され、この世を自由に動くことを許されたかのような感覚を持った。
この時この瞬間に見たのは、画面それ自体ではなく、映画の奥の作成者の心象だったように思う。生存戦略が取れず、身動きができなくなってしまっていた身体に、人間存在そのものの素晴らしさを叩き込んでくれた。「ごちゃごちゃうるせー!人間ってのはなぁ、無意味な存在なんだ。でもこんなにも素晴らしいじゃねぇーか。」と。

人間存在への懐疑、否定性、意味の問いの無限後退と人間存在への讃美という意味性の圧倒的独断。宇宙への問いの広がりと人間という一点への回帰。この強烈な2つのベクトルの動的平衡こそ、新たな有意味化戦略として、イマココという定点に自分という存在を位置づけている。

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