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孤独な時間の厚みがもたらす、反応する身体の「その先」

 

課題文を読みながら、音楽変遷のくだりで神聖かまってちゃんの『ロックンロールは鳴り止まないっ』が頭のなかで流れるほどには、日本のポップカルチャーが浸透した身ながら、ポップカルチャー的事象と遭遇した後、新たなコミュニティまではいけたとしても、その先の領域までいけたかと問われれば、いけた気はしませんというのが本音である。「その先」は微かに見えそうになった瞬間、再び大衆の雑踏のなかに消え入ってしまう――いまや観光地化してしまった新宿ゴールデン街の4席ほどしかないバーで、ママから「今日も中原昌也さん来て、ついさっきまでいたのよ」といわれたことをふと思い出す。ポップカルチャーとの接し方は、いつもそんな感じだ。

 

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渋谷駅前TSUTAYAの5階、その他のコーナーから、監督別に片っ端からVHSやDVDを借りていた10代の終わり、グリーナウェイやフェリーニ、ベルイマンやエリセ、キム・ギドクや侯孝賢などをはじめとする監督らの作品に惹かれる一方で、シネフィルにはなれないことを悟り、しかしたとえば侯孝賢『百年恋歌』の青の色の使い方にどうしようもなく惹かれて、それからというもの頭のなかのスクリーンにはいつもその色が映し出され、年月とともにその色はますます幻想的になっていき、未だそれに合致する色は東京の街には見つけられずにいる。
 あるいは、帰り道で聴いていたのはビートルズやピストルズではなく、スマパンやピクシーズやダイナソーJr.ではあったが、高校時代の思い出が頭を過るときなど、いまでも遠くで聞こえることもあるし、フォーカスの悪魔の呪文のヨーデル風の歌声などはいまでも呪いのように突然耳元で鳴り響いてくる。

 

こうしたポップカルチャーに受けた初期衝動といった類の話は、ある種の照れ臭さからわざわざ言葉にしないだけで、映画にしろ、音楽にしろ、その固有名詞こそ違えど、多かれ少なかれ誰しも似たような体験を経ているだろうし、恥ずかしくなるようなエピソードのひとつやふたつ胸に秘めていることだろう。ここでは、個人によってそれこそ代用可能ないくつかの固有名詞と実体験を用いながら、ポップカルチャー的事象が自分を集団化した瞬間と、集団化後の世界について、とくにポピュラーミュージックのライブを取り上げることで少し考えてみたい。

 

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個人的なポピュラーミュージックとの出合いは、5歳のとき山下達郎の音楽に反応したことに始まるが、達郎のライブも「集団化」を感じるひとつである。演奏はもちろん歌唱力の完成度の高さから、歌声を出す身体を作ることにかけるストイックさは容易に伺い知れるが、そこでは観客にもまたストイックさが求められる。ひとりでも手拍子をズレたタイミングで鳴らすと、本人から名指しで愛あるダメ出しがくるし、各々が持参したクラッカーを鳴らすタイミングまでもが正確に決まっているのだ。その圧巻のライブを完成させるには、演者と観客とがひとつの集団となって、なおかつ統制が取られていなければならない。
 一方で、ステージを見ることよりもその場を楽しむことを何より優先する集団化の形もある。たとえば、ちょうど去年のフジロックでは、入場規制がかかるほど小沢健二のライブに観客が殺到。身動きが取れないほどの人混みのなか、95年前後のヒット曲を演奏し始めると、周りの人々がそれぞれの最大音量で合唱を始めた。遠くスクリーンには歌詞しか表示されない演出のため、小沢の姿が見えないことはもちろん、合唱に遮られて声さえ聴こえやしない。雨、夜、ホワイトステージ、カラオケ並みに親切に表示される歌詞、ベスト10的ヒット曲、日本語というさまざまな条件が重なり合った結果生まれた、もはやコールというレベルを超えた怒号のような合唱の渦ともいうべき、体感に走った集団の存在がそこにはあった。
 空間が集団化に機能してくるという点でいえば、たとえば京都の磔磔や拾得のような酒蔵という性質を生かしたライブハウスに身を置くと、その空間自体がすっぽりとひとつの大きなものに包まれているような錯覚を覚えるし、キャバレー感溢れる大阪・味園ユニバースで聴く細野晴臣は、舞台と客席すべてがトロピカルダンディーのジャケのなかに入ってしまったかのような、時代感覚の麻痺すら引き起こす。

 

こうした集団化を経るなかで、「集団化のその先の領域」の予感とでもいえるのだろうか、たとえば不意に立ち現れてくる風景に出合うことがある。ライブ中盤過ぎから徐々に温まり始めた空気が、ある一点に達したとき、目の前に突然風景が立ち上がるのだ。たとえばカマシ・ワシントンのときは隆々と山が聳え立ち始め、マリア・シュナイダー・オーケストラのときには広大な草原が目の前に広がっていくように。そしてカマシの呼吸が強くなるにつれ緑茂る山はむくむくと大きくなっていき、マリアが指揮をする手、とくに指先から伝わる身体の動きに呼応するかのようにその草原は風になびく。
 同じアーティストであっても、常に風景が立ち上がるとは限らないし、その風景もさまざまである。観客として、その空間の集団の一員としていながら、そのとき目にしていた風景は、いくら実際の東京の街を探し歩いても見つからない、あの青の風景に近いものがあるのかもしれない。あるいはもしかすると、これこそが集団化の先の領域へと続く何かなのかもしれないが、実体を掴む前に次第にその風景は薄らいでいき、ライブが終わる頃には「ついさっきまであったのよ」と、ただ呟き、また再び彷徨い歩き続けることしかできない。

いずれにしても、そこに身体の存在を強く感じたとき――ストイックに鍛えられた声やサックスを吹く息や指揮をする身体の動きなど――私たちの身体は確かにそれに反応する。

 

 

このように私たちはライブという場に身を置くことで、積極的に、あるいは必然的に集団化される。そして同時に、CDに顕著な複製商品の需要が減少する一方で、フェスやライブが増加していることを思い出してみると、体感すること、集団のなかで楽しむ経験を求める傾向の強まりもまた感じざるを得ない。もちろんこれは音楽だけに限らず、カルチャー全般に渡って高まっている傾向ではあるが、それにより作品と孤独に向き合う時間の経験なくして、いきなり集団化した状態で作品と出合うことになる可能性もまた高くなるのではないだろうか。身体に身体が反応する、それ自体決して悪いことではない。だが、反応する身体を作り上げるための「孤独な時間の厚み」もまた、蔑ろにされるべきではないだろう。

今一度、思い出してみて欲しい。ポップカルチャーから受けた初期衝動は、作品と自分との孤独な間柄で起こるものではなかっただろうか。その関係性に変化が生じたとき、集団化ののち「再び」孤独になる瞬間は訪れ得るのだろうか。少なくとも、集団化後に生まれ得るそれぞれの「その先」の世界を同じ土俵では判断するべきではないのかもしれない。

 

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ここに『中原昌也の人生相談』という、読者からの55の人生相談に中原昌也が答え、さらに相談者に最適な映画を一作品オススメするという趣旨の本がある。そのうちのひとつ「18歳下の嫁から離婚を切り出されました」という、47歳自営業の男性からの相談に対する答えのなかに、次のような一節がある。

「そもそも音楽だって、ひとりで聴くのが普通のことなんだし。映画を観て、誰かと感想を言い合うのもいいけど、結局はひとりで考えることがすべてですよ。ひとりの営みのなかにしか真実は見出せない」[1]

ちなみに悩める彼へのオススメの映画は、キューブリックの『ロリータ』であった。

 

[1]中原昌也『中原昌也の人生相談』リトルモア、2015年7月、122−124頁参照。

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