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難民の行方―火星と収容所

 

「結局君たちはそんなことをしてどこへたどり着きたいんだ?」

「火星じゃないかな」

かつて美術を志す友人がそう私に答えたことを覚えている。無教養を衒らかす一般人みたいな質問をして、すこし後ろめたい気分だったが、「火星」という言葉に妙に納得した私がいた。

そういえば火星人が孤独に悩む詩があったなと、その時はぼんやり思い起こして、そうか、芸術家は火星を開発した火星人みたいなものなのかと、いい加減なことを思ったが、その後調べてみると実際はずいぶん印象の違う詩であった。

 

 火星人は小さな球の上で

何をしてるか 僕は知らない

(或いは ネリリし キルルし ハララしているか)

しかしときどき地球に仲間を欲しがったりする

それはまったくたしかなことだ 

 

それどころか、その前の節で地球人も仲間を欲しがっているという件は全く覚えていなかった。火星はフロンティアではないし、地球は郷土ではない。どちらも孤独な現代人が住む単なる小さな球体なのだ。

 

宇宙はどんどん膨らんでゆく

それ故みんなは不安である

 

二十億光年の孤独に

僕は思わずくしゃみをした —谷川俊太郎『二十億光年の孤独』

 

その後、星間を旅できるネットワークを得た私たちは、孤独を恐れて旅に出るようになった。次の星でもまた、孤独が待ち受けているということも知らずに。

 

 

インターネットでは心酔したアニメを失い(放映期間が終了して)、次のアニメを求め彷徨う人々のこと「難民」と呼ぶ。いささかふざけた名称であるが、あながち間違いでもない。特に日常系(あるいは空気系とも呼ばれる)アニメではその傾向が強い。『けいおん!』の登場人物たちは宮台真司氏の「終わらない日常を生きろ」をまさに実践しているかのように、「まったり生きている」。また『侵略!イカ娘』は落ちのない脚本をむしろ長所としてファンに受け入れられ、『キルミーベイベー』はその中毒性から多くの「難民」生み出し、いまだに続編を望む者たちをネットではネタにされている。

しかしこのぼんやりとした物語性のないアニメ見たものが、終了と共に激しい喪失を感じるのはなぜなのか。そのアニメのコンテンツとしての魅力も理由のひとつだろうが、現代的な特異性をあげるなら、東浩紀が指摘するように、コンテンツそのものより、そのコンテンツに集まることでコミュニケーションを消費することが非常に活発であったということである。アニメを見ることで仲間をみつけ、それが終わるとともにせっかくたどり着いて見つけた仲間を失うような喪失感が生まれる。それによって次のアニメを見つけるまで「難民」になるのだ。

『あずまんが大王』を嚆矢として、この日常系アニメは2000年代後半から2010年代の前半にかけて、京都アニメーションの『らき☆すた』『けいおん!』を中心に多くのヒット作を生み出したが、2018年現在、その盛りは過ぎたように思える。ここではその原因は深堀しないが、2010年代におけるSNSの一般化が原因の一つであることは間違いないだろう。常につながっていられるコミュニケーションツールを得たことで、すべての人が常に新しいアニメを探し求めている「難民」になったとも言えるのではないだろうか。

さて、今現在アニメの世界を賑わせているのはこの日常系ではなく、2016年にあいつで公開されたアニメ映画『この世界の片隅に』『君の名は。』『聲の形』である。三つのアニメが次の時代の方向性を示しているという評価があるようだ。

 

 

 

土居伸彰は、この三作品を「私」が「私たち」なる過程として捉える。さらにそれぞれがその過程における過去、現在、未来に当てはまるという。

『この世界の片隅に』では古い「私」対「世界」という形式を保ちながら、現代的な「私」が「私たち」に溶け込んだような世界の意識がある。デジタル時代により「無や空洞」が生まれたが、主人公のすずは常にその「無」を認識して、瀬戸際に立ちながら、「私」を保っている。作品中で言うならば、戦艦大和を象徴とする戦争の「世界」がありながら、すずの「私」は徹底して日常的であり、没個人的であるように見える。

『君の名は。』が描くストーリーはまさに現代的な「私」が「私たち」になる過程になっており、瀧が三葉と入れ替わることで「私」は「空洞化」する。ここでは固有性や単線性、歴史性は捨てられて、人々が「自分自身の見たいものを見るために高度にカスタマイズされた夢」が提供される。

そして『聲の形』においては「無=空洞化=私たち」が「アップデートされた未来」の可能性を示しているを土居氏は指摘する。登場人物が「棒線画」的にフラットに描かれて、複数の人物の内面を描くことで「私」でなく「私たち」であることを実感できる。『君の名は。』では二人の中を行き来できたが、『聲の形』ではより多くの内面を旅できるのだ。

ここで土居氏の言う「無」や「私たち」は単なる観客の視点というよりインターネット的な繋がり、コミュニケーション消費的な共同体も含意しているはずだ。実際、『君の名は。』や『この世界の片隅に』はその後「聖地巡礼」と呼ばれるファンによるモデルとなったロケ地観光が非常に賑わい、短いカットで使われたモチーフの陸橋にさえ、外国人も含め多くのファンが連日押し掛けるようなことがあった。(『君の名は。』のワンシーン。JR信濃町駅前の陸橋がモデル。)

私が注目したいのはこれら作品の評価より、その外部、つまりファンや観客の反応だ。さきほど、日常系では「難民」が生まれやすいと述べたが、ストーリー性を考えればこの三作品から「難民」が発生したとは考えづらい。次回以降も永遠と続くように錯覚させる「終わらない日常」この三作品にはない。聖地巡礼もあくまで作品の中を旅することであり、あらたな「日常」をもとめて他のアニメを探すようなことではない。さらに言うならば、『君の名は。』は典型的なセカイ系(個人の危機と世界の危機がシンクロする作品。しばし日常系と対比される)である。

しかし、この「難民」が生まれないことこそ注目したい点である。では本当にもう「難民」はいないのか。もしいないのであれば、彼らはどこへ行ったのだろうか。

 

 

ジョルジョ・アガンベンは『ホモ・サケル』において「剥き出しの生」が具体的に表れる現象として難民をあげた。アガンベンは現在の国民国家において政治的な生と自然的な生(「剥き出しの生」)が重なりあい判然としないが、政治的な生を失った難民は「剥き出しの生」が現れる最たる例である。

 

一方では、国民国家は、自然的な生の大々的な再備給をおこない、自然的な生の内部で、いわば真正の生と、あらゆる政治的価値を失った生とを分別する。(中略)

 他方では、市民権の前提としてのみ意味をもっていた人権が市民権から徐々に分離され、市民権の文脈の外で用いられるようになる。この人権の使用は、しだいに国民国家の周縁へと排除されるようになった剥き出しの生を表象し保護するという目的のためになされたが、その生は、次いで新たな国民的同一性へと再コード化される。

 

 

難民は保護されるが、結局は「再コード化」された国民国家においては再び誰かは排除されるのだ。しかしアガンベンは、仮に難民が国民国家に入れても、そこは「収容所」であると述べる。

 

 

例外状態は本質上、秩序の一時的な宙づりだったが、いまやこれが、新たな安定した空間態勢になる。ここにあの剥き出しの生がすみつき、この生はしだいに秩序のなかにはかきこまれなくなっていく。生まれ(剥き出しの生)と国民国家のあいだの隔たりがますます拡がっているということこそ現代政治の新事実であって、我々が収容所と呼ぶのはこの隔たりのことである。       

(ジョルジョ・アガンベン『ホモ・サケル』より)

 

 

アガンベンは現代の生政治(つまり、政治的な生と自然的な生の合致)の宿命として、この「収容所」をあげた。われわれは生物的に管理されざるを得ない現状があるのだ。私たちの世界は「収容所」であるべきなのか。それとも他に選択肢はあるのだろうか。アガンベンはそれ以上答えを出さなかった。

 

 

 

 

2016年の3つのアニメは「私」から「私たち」になる過程を描いた。これは同時に「難民」が「収容所」に入った過程でもある。「私」は「収容所」で仲間を見つけて、「私たち」になり、安定した生活を送れるかもしれない。しかしそれはあくまで管理された世界であることを忘れてはいけない。これは決して3つの作品にたいする批判ではない。これらに「収容所」的な要素は皆無だ。問題はその外部である。「私たち」ではなく私たちの話である。

私たちが行きたい場所は、管理された「収容所」ではなく、自由な「火星」ではなかったか。まだ見ぬ世界、それでいて火星人が孤独に過ごすあの土地へ。2016年、思えばジブリが2014年に制作を休止した以降、ポスト宮崎駿が盛んに叫ばれた時期であった。そして藁にも縋る思いで、様々な作品が担ぎ出されたが、それらは本当に「火星」をめざしたのだろうか。答えはノーであろう。「難民」は「収容所」を求めるのであって「火星」には用はないのだから。

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