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孤独の立ち位置

 

言語化できないインパクトや魅力を感得する独自な体験はきっと誰にでもある。周囲の理解や評論家の指摘など気にならないほど熱狂し、自分の内なる声だけに耳を傾けているその瞬間は最高に恍惚である。カルチャーと雖も音楽、服飾、映画、文芸作品、思想など様々であり、どの時代においても誰でもそうした運命的な出会いがある。コンテンツを自分と同期し、まるで第二の表現者のように作品について熱弁を振るいながら、その価値を周囲に普遍化しようと試みる。

そうした自身の行為による成果或いは価値観に共鳴した共同体に迎合されることが連鎖し、堆積することで、自身の信奉するカルチャーコンテンツは大衆化する(乃至は結果的にそうなっている)。私たちは大抵の場合、無意識的に大衆化されたコンテンツにおける熱狂主義の渦中に身を置くことになる。流行が渦まく過程で、元からその渦中(が発生する以前段階)の中心でコンテンツへの愛を叫んでいた者と、その熱量に吸い寄せられて取り巻き、迎合される者とに分別される。これがコンテンツのポップカルチャー化である。元からそのコンテンツの傍に佇んでいた人も、近寄ってきた者も皆等しく集団になる。集団として見做されることでその集団はコンテンツに対する熱狂主義の代表として時代に名乗りを挙げることになる。構成員に人物の個性や背景があれども、外側からその様子を俯瞰すれば彼ら彼女らはそのコンテンツで修飾された者に過ぎない。コンテンツによって平準化され、均質化された個人として、熱狂することが役割に見えている。

しかし流行の熱は必然的に冷え衰える。流行や注目という価値を失い、コンテンツを賛美した集団は離散していき、多くの熱狂者は普通の個人に戻る。それでも尚時代に取り残されながらも魅力を謳い叫ぶ者もいる。その状態はやがてレトロ趣味や懐古主義という言葉で、今に生きているつもりの人々の頭の片隅にある“概念の棚”に陳列され、収納される。

 

私にとってポップカルチャーとは色褪せが早いブックカバーに他ならない。注目の日差しを浴びて、それが痛んでは中身の本ごと捨てるブランド志向の産物がポップカルチャーである。クラシック音楽や文豪による古典のようにそれ自体の価値で歴史を想像できないポップカルチャーの多くは、集団による消費を通してその文化的・歴史的な成熟を阻害された場合が多い。或いは文化的・歴史的な価値を志向していないコンテンツが多く、その本質に対して私はそもそも興味関心が湧かない。ただコンテンツの名の下に人々を一集団化させることは消費社会の歯車の回転に寄与するだけで、自身の内面には「流行に乗る」という目的があるだけだ。コンテンツへの魅力以上に「流行に乗る」ことが自己目的化した人々が熱狂の大部分を占める時、存在が浜辺の砂絵のように時代の潮流に洗い流される。そうして世界から忘れ去られた場所は、世界の始まりへと回帰する。

集団化への拒絶心とコンテンツがポップでなくなった時の虚しさへの恐怖から、私は大衆迎合的な性質を持つコンテンツを好きだと公言したことがなかった。そして私が好きだと公言できる古典やクラシック音楽といった懐古趣味は未だに熱狂を渦巻きはせず、ポップだと形容される日もなかった。しかしポップであることは人を集団化させる(或いは人が集団化している場所からポップな魅力が誕生する)ことと、熱狂主義のディアスポラによって再び人が孤独化することは、単なる消費社会の一現象ではある一方で、同時に人々を羽蟲の如く消費へと誘う光を放つコンテンツの確かな価値が引き起こした事象があったとも言えるのである。このような理解があっても何故かポップカルチャーには馴染めない。

 

現代日本において共感という言葉が(及びその類の言葉が)人々を暴力的に支配している。一時期「忖度」という言葉が政治誌を賑わせたことを思い出すだろう。インターネットの発達やSNSの台頭により多くの人々が声を持ち、主張をするようになった。その電脳空間では匿名性の名の下に躊躇なく意見を交わすことができても、現実世界ではそうはいかない(当然「空気を読む」ことは時として重要なコミュニケーション能力ではある)。現代は共感を重要視すると同時に、共感に過剰に反応し、共感の表明に抗えない社会になってしまった。そして顕現したある考えが例え当初は健全であったとしても、教理主義的に基準として打ち立てられることでイデオロギー化し、危険なものとなり得る。

様々なニュースを見聞きして、私がポップカルチャーを忌避する原因がわかった。それはポップカルチャーというコンテンツ自体にではなく、羽蟲のように取り付く人々の集団にあった。自分の価値を保全するためなら攻撃的になることも厭わない「オタク」と称する人種がいるが、それを一時的に大衆化させるものがポップカルチャーである。私は従来ポップカルチャーの外側で孤独に佇んでいた人物であるが、決して社会への審美眼による判断ではなく、感覚から得られた行動の結果、私は孤独であった。そして孤独であることに対して、時代性を目の当たりにして今特に寂しさも遺存もなくなってきている。

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