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過熱し過ぎた期待の後でー夢見る少女の暗黒郷(ディストピア)

 これをポップカルチャーと呼んで良いかどうか疑問だが、片方はマンガ雑誌に関連するし、もう片方も自分が幼少の時分に人形劇という形で映画化され、来年はハリウッドデビューもするらしいので、大丈夫だろう。「孤独な群衆」や「大衆の反逆」を微塵も感じさせない、私にとってのポップカルチャー的原体験について語るため、下記に掲載する写真を参照願いたい。

 右は(株)サンリオ(以下「サンリオ」と称する)のキャラクターのタキシード・サムが掲載された絵葉書である。現在と違って無表情なため、やや無愛想な感じがするが、元来はこんな画像だった。今はもっとゆるキャラっぽくなり、あまり原形をとどめていない。左は(株)集英社発行の少女漫画雑誌「りぼん」のふろくのレターセットであり、また写真中央には参考のため(本論でも参照するが)、サンリオショップで販売されていた鉛筆を二本置いた。
 従って、今回の課題文中にある「同じような体験をした、同じような価値観と知識を共有する人たち」に該当する対象年齢は、小学生となってしまうのだが、この事象は私を集団化し、再び孤独化した出来事ではないかと感じたため、本稿の対象とする。

 「批評再生塾という場で取り上げるには勇気がいるような固有名詞」として扱うことのできる十代の頃の原体験は、自分にはもう一つあるけれど、取り上げる勇気がないため(つまり恥ずかしいので)、今回の論稿からは外す。もう一つの原体験とは、実はアニメなのだが、この事象は私を集団化せず、終始孤独だったので、今回の課題対象に該当しないと判断したためである。
 (念のため附記しておくと、来年ハリウッドデビューするのは、日本一有名なネコ、ドラえもんではなく、世界一有名な日本のネコ、ハローキティである。)

 本来ならここで、現代におけるキャラクターのデータベース化云々、と論じるのが通常の「流れ」なのかもしれないが、如何せん小学生達にそうした「読み」を期待するのは難しそうだ。「りぼん」にはマンガという原作がちゃんとあるではないか、という視点は・・・私にはなかった。
 マンガの原作を読むようになったのは、小学生でも高学年くらいになってからである。原作を読まなくとも、可愛いいキャラクターが印刷された商品を猛烈に欲しがった時期、それが小学校低学年の世界だった。
 同じクラスの子が持っている可愛い文房具やサンリオのキャラクターグッズ。ならば「りぼん」のふろくのレターセットは今回の対象外になるのでは?

 ならないのである。なぜって?それは勿論、自分が現役小学生だった、はるか彼方の昔、木製荷車で小学校の校舎前までやってきて、即席「屋台」を午後に数時間開店する「ふろく屋さん」が、小学生達の目の前で繰り広げられていたからだ。
 要するに、原作を読むことのできない小さなお子様対象に、マンガ雑誌のふろくだけを売ってやろうという、テキ屋だったのだ。私たちはこの可愛いレターセットや紙袋が欲しくて欲しくて、この即席屋台の前に群がって半時間程度、ねばり続けた。

 実際にこうしたふろくを購入することのできる消費者は、それに見合ったおこずかいをもらえる、主に小学校高学年の子供だった。
 自分は長じて「りぼん」を購読するようになるのだが、それより先にふろくの方を欲しがったのは、それ自体興味深いが、ここでは論考しない。
 ただ一言だけ言わせてもらえば、あのテキ屋は、商品購買欲を刺激するスイッチを押すために、消費社会に届けられた悪魔の手先ではなかったかと想像する。

 

 本稿は従って、キャラクター商品について論じるが、キャラクターの裏にひそむ物語=コンテクストについては論じない。むしろ、キャラクター商品=記号を消費する受容者にとって、コンテクスト=物語など本当は不要なのではないか、と疑問を投げたい。これは、原作マンガを読むよりも前に、テキ屋のふろくをめぐって、私の周りの小学生たちが熱狂的に欲求していたという上記のエピソードが、その十分な根拠となるだろう。

 さらに、キャラクター商品(ポップカルチャー的事象)を持つ者は、周囲の人々の視線というバイアスを受けて、自動的に「集団化」され、その後「孤独化」されるのだが、それは本人の意志で行われていないのではないか、というところまで、問いを立ててみたい。
 これを言い換えると、人間は特定の文化的触媒に触れることにより、同じ価値観を持つ他者達との「集団化」およびそれに引き続く「孤独化」を経験するのだが、これは個人の意志とは無関係に行われる必然的な過程であり、人間にあらかじめ設計され、プログラミングされている社会現象なのではないか?そして現代において、その社会現象が最も可視化されているのが、ポップカルチャー的事象なのではないか?ということだ。

 キャラクターなどの図像は、非言語的な記号であり、背後の物語=コンテクストを考慮に入れないキャラクター商品を欲望したり消費する行動は「非言語コミュニケーション」と言ってよい。
 この(1)非言語コミュニケーションにおける「記号」概念と、(2)それを社会現象にあてはめた「記号論」について、本稿が前提とする定義・理論を以下に挙げていく。

 (1)非言語コミュニケーションにおける記号の定義について
 「記号の役割は、大きく分けて二つある。一つは伝達であり、もう一つは思考である。」(林他 1988  p.210.)。前者の「伝達」とは、発信者の意図を受信者に伝えることだが、「それだけではなく、茶飲み話や井戸端会議に見られるように、話すこと(話し合うこと)それ自身によって、他人との連帯感を深め、安心を得るという機能もある」(上掲書同頁より)。後者の「思考」とは、ここでは、考えることそのものが記号操作であるとされている。たとえ無文字社会であろうと、記号無しでは、モノをモノと認識することが出来ないという立場だ。

 私なりに要約すれば、非言語コミュニケーションにおいて、記号(図像を含める)は、他者との人間関係を構築するばかりか、他者との意思疎通を図るためのツールそのものであるということだ。ここでは視覚が重要な非言語コミュニケーションツールとして用いられている点にも注意してほしい。
 商品にラッピングされているキャラクター(記号)の例で言えば、ある社会集団においては、言語を介さずとも、そのキャラクターを視覚に受容する人間(受信者)に、何らかのメッセージを与える可能性があり、時には発信者の意図を曲解して受信する場合もありうるということだ。
 ボーカロイドが好きで初音ミクの機材を持っている青年に対して、年長者が「彼はアニメおたくだ」と勘違いしてしまうケースのように。

 (2)本稿が依拠とする記号論について
 「レヴィ=ストロースらによって開拓された方法(=象徴実在論)を、社会諸現象に適用したのが記号論である。その出発点は、社会を記号=象徴の総体としてとらえ、人間の社会的行為を記号=象徴の実践としてとらえるところにある」(今田他 1991 p.166. 括弧内引用者)。同著においては、ロラン=バルトによる言語学理論を服飾モードに応用した研究から、定義と事例が引いてあるので以下に示す。

 まず、言語学理論のどこを抽出したか。
 1つの文は、連辞関係(サンタグム)と範列関係(パラディグム)からなっていることである。
連辞関係は、文を組み立てるのに不可欠な線上的なつながりを指している(例えば「私・は・学校・へ・行く」)。範列関係は、文を組み立てる上で、一連の選択肢より選別されたことを指している(例えば「学校」の語が「病院」「遊園地」「会社」といった他の代替可能な語から選択されたことにより、ある特定のメッセージを発すること)。
 これを衣服に応用すると、どのようになるか。
 連辞関係とは例えば、男の社会人の服装は一般に「ワイシャツ・ネクタイ・スーツ・靴・カバン」からなっている。
 これらのうち1つでも欠けたなら(たとえばワイシャツなして出勤した男について)、「私は学校へ」と唐突に切れる言葉のつながりが完結した文章にならないのと同じくらい、奇妙な事態が発生する。
 他方、範列関係とは、同じダークグレーのスーツを着ても、その下が白いワイシャツと臙脂のネクタイであれば「普通の会社員」だが、ピンクのワイシャツに黒いネクタイであれば「芸能人かその筋の人間」であるというメッセージが伝達されるということだ。

 ここも先述した例により、自分なりに要約すると、連辞関係とは、初音ミクという「図像」が「物(機材・グッズ)」にパッケージ化された、商品という形式になっていなければならない。スーパーのレジ袋に初音ミクのイラストが描かれていて、中にビールやおつまみが入っているのを持って歩いている人とすれ違っても、その人がボーカロイド好きと判定するのは早計だろう。むしろスーパーの店長が初音ミクのファンである可能性が高いと類推した方が妥当だ。
 範列関係とは、初音ミクのグッズを小学校1年生の女の子が手にしているか、見るからにオタクっぽい雰囲気を醸し出す男性が手にしているか、の代替可能な選択により発するメッセージは異なる。

 

 え、初音ミクとサンリオのキャラクターグッズは関係ないって?定義と理論よりお前の考えを示せ?
 だがちょっと待ってほしい。今回の課題にあるように、「なるべく自分語りを排したかたちで」「そのとき自分が起こった衝撃が何なのか」を書こうとするならば、必然的に、「社会」における記号論等をひっぱり出してこなければ、その「自分語り」すら出来ないと思うのだ。

 もっと正直に言えば、自分にはこの課題を読み解くのに、今すごく苦労している。もう10回以上読んでいるが、「中間的なコミュニティのその先の、たとえば人類としての経験であったり、もっと極端にいえば、無生物も含めた地球の経験、もしくは一回性のある宇宙の経験にまで広げていける可能性」が「ここまではよくあることです」とある。
 私は、無生物になった経験も、宇宙になった経験もないので、それが「よくある」こととは思えない。この部分を詩的に解釈しないと、私のようなひねくれ者には、揚げ足取り的な回答しか出来ないのかもしれない。
 おそらく今回の講師は、ポップカルチャーに衝撃を受けた後で、「中間的コミュニティ」との幸福な関係を構築することの出来た、いわゆる「成功例」を体験したのだと思う。

 残念なことに、自分はこの「中間的コミュニティ」を造ることに、ことごとく失敗してきた「失敗例」の側に立っている。現実の世界であれ、ネットの世界であれ。しかし、ここからアニメや音楽の話を始めれば、やはり「自分語り」になってしまうとの誹りは避けられない。
 今回の講師が壮大な課題を提出したため、本稿の立てた問いも壮大にならざるを得なかった。
 だが、「ポップカルチャー的事象との遭遇によって、あなたには何が見えてしまったのか」という今回の課題に誠実に答えようとするならば、最小限の「自分語り」は許されたい。

 本稿の冒頭に掲げた写真内に、サンリオ商品の鉛筆が二本ある。これらは自分のおこずかいで購入したが、まだおこずかいも貰えなかった幼少の頃、あるキャラクター入りの文房具が欲しくて親にねだったところ、「子供相手に、あくどい商売をする店だ」といった理由で、買って貰えなかったのを覚えている。同じく「りぼん」も(原作のマンガではなく)ふろく欲しさにねだったところ、「子供には教育上よくない」といって拒否されてしまった。

 確かに小学校のすぐ脇にある文房具屋の鉛筆は1ダース箱入りで、比較すればキャラクター商品の方が値段は高くつくのだろう。
 キャラクターのパッケージに包まれているだけで、お菓子やティッシュペーパーが比較的高い値段で販売されるのを見れば、「確かに、高い」と思うだろう。今の私ならば。
 しかし、幼少時の自分にはあまり納得のいかない説明だと感じた。その証拠に、成長後の私はこれらのキャラクター商品に囲まれて生活することになったのだから。要は拗ねて、自分の可処分所得の範囲内における、これらキャラクター商品のヘビーユーザーとなってしまったのだ。

 清貧を求められた小学生が、のちに使える限りのおこづかいを消費して、キャラクター商品を買いまくる、という皮肉な「失敗例」には果たして、それに先立つ「集団化」は存在していたのか?そうであると仮定すれば、この「失敗例」とは、課題の「孤独化」と重なる部分もあるのだろうか?
 例えば自分とは反対に「成功例」を体験した者は「中間コミュニテイ」との幸福な関係を構築し(=「集団化」)、しかし「にもかかわらず」その中間コミュニティにはまりきらない、そこからはみ出してしまうような、自分だけの確信をいだく(=「孤独化」)者のことだろう。
 では中間コミュニティを造るのに「失敗」した者はどうなのか?「集団化」のプロセス抜きに一気に「孤独化」にひとっ飛びしてしまうのか?仮に「失敗例」に「孤独化」と重なる部分があるとしよう。その中で私は何を見て、何を感じたのか?

 

 あえて「集団化」というほどではないのだが、同じクラスの子とお互いのキャラクター商品について儀礼的にほめ合う、くらいの接触はあった。この「ほめ合う」「価値を認め合う」という行為を、(広義における)「集団化」と呼んでよいならば、「自分が期待していたほど充分には」ほめ合ったり、それらについて語りあったりできなかった、ということなのだろう。要するに、コミュニケーション不足、もしくは過度なコミュニケーション願望(ある意味において「集団化」)が先に登場し、それが満たされなかったから(成功者よりも中間コミュニティにおける要求が満たされていないため)苦い「孤独化」=自分だけの確信を抱くに至った、ということなのだろうか?そうであれば、以下のように図式化できる。

成功例:中間コミュニテイへの期待・参加(集団化)→集団に収まりきれない自分の発見(孤独化)
 失敗例:中間コミュニティへの過剰な期待(集団化)→期待が満たされなかったことに対する失望(孤独化)

 上の図式に当てはめてみれば、「成功例」の孤独化においては、中間コミュニティへの参加については、願いが叶った。仲間もできた。でも、皆とはノリを合わせることができる部分も、ある限界まででストップしてしまう。自分一人しか確信を持つことのできない部分があるからだ。これだけは、誰もわかってくれない、わかってもらえると思わない・・・。

 「失敗例」では、中間コミュニティへの過剰な期待があるため、膨らみすぎた期待を持つ者は、事態を冷静に、一歩引いた目で全体を見通すようなことができない。クラスの華やかな女の子達のグループの一員になりたい、って言ったら、笑われるだろうか?と思いながら、校庭の縁をぐるぐる回ったり、植物を引っこ抜いたりしていた。話しかけてくれる子はいたけど、自分の期待の方が大きすぎた。従って、ある意味ずっと失望していた、と言うのは酷すぎるだろうか?

 

 本稿における問いは、人間は特定の文化的事象(ここではポップカルチャー的事象)に触れると、同じ価値観を持つ者と、そうでない者との境界線が自動的に引かれ、「集団化」とそれに続く「孤独化」は必然的に起こるのではないか、と言い換えることができる。この「集団化」という言葉に戸惑って、今回の課題の「うがった読み」を披露する事態になってしまった。もし「ポップカルチャー的事象」という縛りがなければ、小説を読んだり、映画を見たり、音楽を聞いたり、思想に触れていく中で、世代や地域を「超えた」接続と、そこからの離脱=孤独化を体験した記憶が、無いわけではない。

 だが今回の縛りであるポップカルチャーに限定するならば、強い記憶として蘇ってくるのは、私に「見えて」きたのは、コミュニティへの過度な期待(=「集団化」の失敗例)だった。そしてその後、そうしたコミュニティは幻像だったと判明して、失望(=「孤独化」の失敗例)してしまう。なぜ過剰にコミュニティに期待をかけてしまったのだろう。どうしてもっと冷静さを保つことができなかったのか?

 一方で、小学校のクラスという集団、つまり小さな社会関係を生きていく間に、キャラクター商品という「記号」によって、非言語的コミュニケーションをおこなっていたからだ、という観点から説明できるかもしれない。
 クラスの中でも、性格が明るく華やかな女の子達がそうしたモノを持っていたら(その子達もやはり、彼女に親しい、近所のお姉さんから影響を受けたのかもしれない)、彼女達に影響を日々受けまくっている、残りの女子達は、そうしたキャラクター商品という記号(図像)に、日ごろ求めてやまない「明るさ」や「華やかさ」というメッセージを読み込んでしまったのかもしれない。
 マスメディアからは、当時の小学生達はそんなに影響を受けていなかったように思う。もちろん個体差、時代の変遷もあるだろう。

 ただもう一方で、こういう風にして、後追いで理論を適用することに、内心抵抗を感じている自分もいる。
 なぜ過度な期待をかけたのか、そして失望したのか、の理由が「記号(図像)の中に潜んでいる非言語コミュニケーション、その由来するところの日常の小さな権力関係が存在したから」と説明されても、何か腑に落ちない部分があるのだ。
 なぜかと言われれば、もちろん、当時私はそれらのキャラクター商品の背後に、身の回りの人間関係が影響されているなんて思っていなかったからだ。
 同じクラスに一日何時間拘束されていようとも、日常の人間関係によって、他人の審美力まで影響を及ぼせるはずなどないだろうという、少し傲慢めいた気持ちが(これは今でも)あるからだ。
 日常的に身の周りにいる人々のことを忘れてはいけない。それは当然だ。だが個人の最小限の孤独なスペースにまで侵入しようとする行為は、究極的には、『自分(達)が幸せだと思う価値観にお前も従え』と命令しているに過ぎない。
 これは、先ほどのコミュニティへの過度な期待とは、明らかに矛盾しているというのは、承知の上である。

 上段において明らかになった矛盾から、「過度なコミュニティへの期待」及び「それに続く失望」からは、通常程度のコミュニティ概念の範疇からは逸脱するほどの、並外れた、異常な欲求とでも呼ぶべきものがあったのではないかと推察できる。
 つまり、日常のコミュニケーションに物足りないものを感じているからこそ、現状を打ち砕く過度な期待が、コミュニティに寄せられるためだ。
 そんな過度な期待に応えられるコミュニティなど、そうそう存在しないことが判明するのは、年月が経過してからだったのだ。ゆえに、コミュニテイの関係構築に失敗し、失望したのだ。

 本稿の問いに対しては、先に挙げた記号論を援用するならば、言語的記号・非言語的記号いずれにおいても、それが置かれた社会的状況により、様々なメッセージを発信・受信し合う。その過程において、同じ価値観を共有する者との「集団化」とそれに続く「孤独化」が起こるが、それは必ずしも本人の意志によるものではなく、個人が置かれる社会的状況に応じて変化すると見做してよいのではないか。
 自分の経験が失敗の連続だった故に、結論も悲観的にならざるを得なくなってしまった。

【引用文献】
林進編『コミュニケーション論』(1988)有斐閣Sシリーズ pp.210f.
今田高俊・友枝敏雄編『社会学の基礎』(1991)有斐閣Sシリーズ pp.166f.

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