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V系的自殺存在論

V系との遭遇

PIERROT、DIR EN GREY、L’Arc〜en〜Ciel、GLAY、Janne Da Arc、ムック、Plastic Tree、黒夢、LUNA SEA、SIAM SHADE、Laputa、SOPHIA、蜉蝣、MERRY、the GazettE、ナイトメア、シド、MALICE MIZER、Dué le quartz、PENICILLIN、SHAZNA、cali≠gari、人格ラヂオ、BUCK-TICK、Psycho le Cemu、La’cryma Christi、SEX MACHINEGUNS、DEAD END、SHAME、X JAPAN、UCHUSENTAI:NOIZ、ギルガメッシュ、D’espairsRay、DELUHI、NOCTURNAL BLOODLUST、摩天楼オペラ、NoGoD、ゴールデンボンバー。

生老病死全てに抗いたい時、人は麻薬を求める。その麻薬は人によっては瞑想なのかもしれないし、『完全自殺マニュアル』なのかもしれないし、サブカルなのかもしれないし、右翼活動なのかもしれないし、戦争なのかもしれない。自分にとってそれは偶然的、もしくは必然的にV系であっただけだ。時にはその麻薬が効きすぎて劇薬になることもあるが、その時はその時だ。V系とは「生」に対する疑念から発生し、「老」に対する抵抗としてのファッション性、化粧文化を持ち、「病」としてのネガティブなメンヘラ精神と、「死」への衝動をエネルギーに変換し続けることで存在している麻薬なのである。

そもそも根源的な問いは「V系とは何なのか?」だ。市川哲史が「ヴィジュアル系なんて差別用語は遣わない。〈V系〉だ。」(市川, 2005, p.15)と述べているように、これらの名称は常に差別と偏見に塗れ、闘争の中でその歴史を刻んできた。V系とは一般的には特定の傾向を持つ音楽ジャンル、バンド、ミュージシャンを括る言葉として使用される言葉である。しかしそれが内容ではなく、「見掛け」で括られているという事実がその差別と偏見の根拠になっている。ビジュアル系、ヴィジュアル系、V系などそれぞれ呼称により微妙な美意識の差が隠されているとはいえ、その歴史に変わりはない。

そう考えるとV系とはある種のスティグマである。それはV系的な世界観を表現するための源氏名的な名称、コスプレやゴスロリなどを含むファッション性、独自の化粧文化や身体に刻み込むタトゥーなどと表裏一体の関係性を持っている。そのスティグマとしての性質は例えば以下のような例に代表される。過去に一度でもV系と名乗ったバンドやミュージシャンは、後にどれだけその内容を変えようが、半永久的にその範疇で括られること。インディーズからメジャーデビューすると、脱V系化、カジュアル化する傾向にあること。V系から影響を受けた人物がその影響関係について隠蔽する傾向にあること。スティグマがブランド化したルイ・ヴィトンのように、V系をむしろ栄誉な称号として自称するバンドやミュージシャンが出現したこと。V系はそのスティグマを旗印とし、逆説的に有効活用することで、類似した世界観、美意識を共有する群れを出現させることに成功した。

集団化と孤独化

しかしその集団化が自分にとって最初の大きな違和感を形成することになる。V系の基本構造としては、演者はヤンキー文化、観客はバンギャ文化であり、その両者はAKB商法的な搾取構造を通して密接に繋がり合っている。そしてこれらのヤンキー文化、バンギャ文化、AKB商法の全てに見事にハマれなかった。ヤンキー文化の縦社会と体育会系のノリは、現実社会で逃避したかったはずの要素の強化装置として機能しており、バンギャ文化は女性を主体としたバンドを含めた人間関係を消費する文化であり、対象にアイドル性を求める姿勢に共感できず、AKB商法は単純にお金の無駄に思えた。またV系を取り囲む人間関係の中で、自分がいかにメンヘラ、もしくは変人であるかを競うメンヘラ競争や変人競争が開催される度に、自分の心が少しずつ冷めていき、孤独化することを感じた。

一方でV系が面白いのは、演者が巫女としてトランス状態に入り、キャラを憑依させることでその仮想的な世界観を体現するところだ。そのトランス状態に入るための道具がファッション、化粧、タトゥーであり、V系にとっては音楽すらもそのための道具の一つと言い切ってしまっても良い。ここでヘヴィメタル(以下、メタルと呼ぶ)とV系を比較してみると、ブラックメタルで見られるようなコープス・ペイントや、退廃的な世界観など両者には数多くの共通点が見られるものの、細分化したサブジャンルの名付け方には明確な差異があることが分かる。例えばメタルではドゥームメタル、シンフォニックメタル、スラッシュメタルなど音楽や演奏の内容に言及したものが多いが、V系ではオサレ系、耽美系、密室系/地下室系など音楽や演奏の内容ではなく、ファッションや提示したい世界観に言及したものが多い。またV系がメタルより凝った映像を演出に使用する傾向にあるのは、世界観を音だけではなく総合的に表現したいという欲望の表れである。さらにV系においてバンドのメンバー交代や脱退がより致命傷になる傾向が高いのは、各メンバーが独立したキャラ、記号として消費されている証拠でもある。つまりV系もメタルもトランス状態を上手く利用してその世界観を提示するが、その根底の考え方や道具の使用方法が異なっているのだ。

またV系における極めて重要な二つの特徴を挙げると、超越性と極端性になる。前者の超越性に関しては、先程言及したスティグマの議論と深く関係しており、後者の極端性に関しては、先程言及したジャンル分けの議論と深く関係している。まずV系における差別と偏見のスティグマにより、その場を逸脱する動機とエネルギーが強く生成される。次にそもそもV系は音楽性によるジャンル分けではないため、その場ではあらゆる多様性が混沌となり、通常ではあり得ない越境と融合を果たすことになる。この極端性はYOSHIKIの「<破滅への美学><永遠への欲望>という対照的なものが、同時に存在してる」(市川, 2005, p.68)という発言に代表されるように、相反する要素を同時に併せ持っていたいという欲望でもある。ここでこのV系という土壌における超越性と極端性の生成を別の観点から捉えると、伊藤穰一が提唱するアンチ・ディシプリナリーな探求が発生する土壌が自然に生まれることが分かる。さらにこれらの超越性と極端性の躁鬱病的な揺らぎは、北野武の言う「振り子の理論」的、もしくは釈迦における「四門出遊」的に機能することで、V系をさらなる深淵へと誘うことになる。このようなV系が辿ってきた歴史を具体的なバンド名を通してまとめると、X JAPAN、LUNA SEA、DIR EN GREYに至る過程で「緊張」が形成され、PIERROTの「宗教性」、MALICE MIZERの「演劇性」、Plastic Treeの「文学性」など様々な方向に独自進化を遂げた挙げ句、河村隆一、GACKT、ゴールデンボンバーという「緩和」の流れによって「緊張の緩和」が完成し、悲劇が喜劇へと転倒することでV系はその歴史的な役割を終えたということになるだろう。

V系の拡張とV系的自殺存在論

Visual kei is dead.

V系の死は現在となっては周知の事実であるが、果たして本当だろうか?確かにV系が証明したものは、様式を破壊し尽くす様式は、逆に同一性の高い様式美に回帰するというものだった。その意味ではポップカルチャー(大衆文化)としてのV系は既に死んでいる。しかし海外まで視野に入れた場合、もしくは他分野を含めその隠蔽された影響関係において、V系は匿名的かつ漂白された限界芸術のように生活の周辺を空気のように漂っており、その存在は完全なる無と化したわけではない。

よってここでは改めて、以下のようなV系の新時代における宣言が必要とされるだろう。

「V系は必ずしも音楽に実装されなくても良い。その美学、思想、構造はマテリアルとして、あらゆる分野に実装可能である。」

この宣言により、V系は一度解体された後に拡張される。例えば村上隆がマンガやアニメをスーパーフラットとして実装し、大衆芸術と純粋芸術の壁を打ち破ったように。例えばパープルームがV系の構造を解体し、コレクティブとして再度未遂の花粉を解き放つように。しかし本格的なV系のアップデートを考えるならば、その原点に立ち戻り、XR的なテクノロジーの実装も不可欠になってくるだろう。また搾取の反復に陥らずに共犯関係を形成するためには、システムごとハッキングする以外に方法はない。

思い返せば自殺禁止という人生における唯一のルールに雁字搦めに縛られることで、逆説的にその負のエネルギーを暴発させ、生きるという唯一の継続を続けてきた。文理融合とV系は構造的に相似形であるが、そこにモラトリアム以上の意味を求めた意味は確かにあった。それは専門性も領域横断性も限界を迎え、分類という概念の耐用年数が過ぎた現在、そのドロドロに溶けた境界線上で飛び交い、再び世界と接続するための準備期間である。その準備期間を終えた者は、脳内モルヒネを分泌しながら、犀の角のようにただ独り歩む。

主要参考文献

著者不明(1984)『ブッダのことば:スッタニパータ』(中村元訳)岩波書店.

鶴見俊輔(1991)『鶴見俊輔集:限界芸術論』(6)筑摩書房.

鶴見済(1993)『完全自殺マニュアル』太田出版.

鶴見済編(1994)『ぼくたちの「完全自殺マニュアル」』太田出版.

宮台真司・松沢呉一(1999)『ポップ・カルチャー』毎日新聞社.

市川哲史(2005)『私が「ヴィジュアル系」だった頃。』竹書房.

赤木智弘(2007)『若者を見殺しにする国:私を戦争に向かわせるものは何か』双風舎.

雨宮処凛(2007)『生き地獄天国』筑摩書房.

速水健朗・円堂都司昭・栗原裕一郎・大山くまお・成松哲(2010)『バンド臨終図巻』河出書房新社.

大槻ケンヂ(2012)『サブカルで食う:就職せず好きなことだけやって生きていく方法』白夜書房.

文字数:4154

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