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想像力のシャトル・ラン

ポップカルチャーというものにあまり接しない少年時代を送っていたかもしれない。もちろんトレーディングカードを集めたり、ポケモンをしたりハリーポッターをみたりしていたし、その影響は知らないうちに身に染みついているものだと思う。ある程度は熱中もしていた。ただ、その度合いで言うと比較にならないほどハマっていたものがある。

2ちゃんねるというインターネットの掲示板に、SSと呼ばれる小説が投稿されている。SSとはおそらくside story(二次創作)やshort story(短編小説)という語の頭文字なのだろうと思うけれど、詳しくはよく知らない。というのも、SSとはどういう意味だろう?とか疑問を持つよりも前に読むのをやめてしまったからだ。だからこれから述べることはいまのSSを取り巻く状況にはあてはまらないかもしれない。しかし当時のその形式を見てみるとたしかに二次創作が多かったし(わたしが読んでいたころは「魔法少女まどか☆マギカ」ものが多く、それ以外でも二次創作といえば大抵はアニメだった)、それほど長いものも多くなかった。

SSの(当時の)特徴は、先ほどの二次創作や短いものが多いことに加えて、ほとんど地の文なしの会話で構成されているものが多いことだった。場面が転換したとしても、「自室」とか「学校」とか最低限の情報が改行のあとに置かれているだけで、ほとんどこちらの想像力に委ねられていた。いや、想像力という言葉ではあてはまらないかもしれない。つまり、たとえばアニメの二次創作のSSを読んでいるとき、基本的なビジュアルの情報やキャラの認識は持っていることが前提とされていて、想像するというよりはみんなで原作から借りてくる、というような感じだった。もちろんそのように基本情報を原作に委託することは二次創作なら一般的だろう。しかしSSでは、二次創作ではないものにまでそうした形式は使われていた。

かっこよく言うなら、アニメ的なリテラシーに支えられていたのがSSだったのだろう。「神殿」とか「魔王の城」とか書いてあっても、読者はアニメで見たその場面を思い浮かべさえすれば済む。しかし、二次創作ならば思い浮かべる場面や背景は読者も作者もほとんど同じものだろうが、二次創作でないばあい、思い浮かべる情景について様々な食い違いを生むことになる。

この問題は、程度は違えど言語そのものの問題に行き着く。あるものについてどれだけ描写を重ねても、最後の何割かは受け取り手の想像力、いままでの経験からその対象を引き出してくる力に賭けなければならない。描写という観点から言えば、小説とSSの違いは、歴史の長さと「経験」の素材(小説なら主に実人生、SSなら主にアニメ)の違いに過ぎないのではないかと思った。言語での描写とは結局のところ文字あるいは音声でしかない。つまり当時わたしにショックを与えたのは、みんなで同じものを読んでいると思っていたら同じなのは文字だけで、見ている世界はまったく違う可能性があるということだった。これがSSを読まなくなった主な理由だと思う。当時のわたしは他人と同じものを受け取りたいと思っていた。

そこでわたしは言葉から離れることにした。具体的には、映画をみることにした。もちろんSSを読むのをやめる前から映画自体はみていたので、意識的によくみるようにした、という程度の意味だ。映画ならみている画面がひとと異なることはないと思ったからだが、このころには少年時代を抜け出していた。

想像力という意味でもっとも大きな意味を持っていたのは、映画「ハリーポッター」シリーズだと思う。「ハリー」という男の子が、「マグル」と呼ばれる普通の人間の世界から魔法使いの世界へ行き、「ホグワーツ」という魔法学校で魔法を学びながら「ヴォルデモート」という最大の敵に立ち向かっていく、というストーリーなのだが、わたしが注意をむけずにはいられなかったのは、人間世界と魔法使いの世界が互いに影響を及ぼし合うほど近くに隣り合っていて、しかも魔法使いたちはその二つの世界を行き来するということだった。たとえば、映画第二作「ハリーポッターと秘密の部屋」において「ハリー」の友人「ロン」は、「マグル」の家に閉じ込められた「ハリー」のことを、空を飛び透明になる車で助け出し、そのまま「ホグワーツ」にまで文字通り飛んでいく。

こういう風に二つの世界を行き来する人々を映画館でみていて不思議になるのは、観客はどう反応すればいいのかということだ。ファンタジーもののなかでも例えば「ナルニア国物語」であれば、主人公は人間の世界から完全な異世界に行って、そこで冒険が繰り広げられ、いわば想像力の産物である「あちら」の世界にのめりこんで鑑賞することができる。

ところが「ハリーポッター」では、「こちら」と「あちら」が地続きになっていて、さきほど述べたように「ロン」の車は「マグル」の世界から魔法使いの世界まで、なんのゲートを通ることもない。しかし観客は「ハリーポッター」の世界では「マグル」なのであり、いくら「ハリー」の活躍を間近でみていても、「こちら」の世界にしばしば引き戻されてしまう。というのも、「ナルニア国物語」での「ナルニア国」では「こちら」側を表す言葉がないのに対して、「ハリーポッター」では「こちら」を「マグル」と言い、しかも劇中その言葉は魔法使い同士でしばしば言及され、そのたびに観客は「こちら」に引き戻されることになるからだ。

わたし達は「こちら」側に留まるしかないにしても、ファンタジー映画では「あちら」が映像化されていることが重要だと思った。想像力の産物がひとつの実体としてスクリーン上に投影されれば、言葉で描写されたものとは違って、思い描いていたものが共有される。

同じように「あちら」と「こちら」という言葉を使えば、ファンタジー映画が「あちら」に行くものであるのに対して、ホラー映画は「あちら」が「こちら」に来るものだろうと思う。すこし乱暴な整理ではあるけれど、おおむね有効なのではないだろうか。たとえば「女優霊」というJホラーがある。

その映画では、新人監督が映画を撮影していると、撮影していたフィルムに女性の霊が映りこんだり、現場に霊が出たりする。そんななか若い女優が撮影スタジオの高所から落ちて亡くなってしまい、新人監督がそこにいくと彼は女性の霊にどこかに引きづられて、そのまま失踪してしまう。

こう書いてしまうとまったく怖くないのだが、しかしこれがだいたいの骨組みだ。ホラーにおいて「こちら」とはもちろんわたし達の世界で、「あちら」とは死後の世界とか霊界ということになると思う。ファンタジーと大きく違うのは、「あちら」が基本的にはまったく映像化されないことや、「こちら」と「あちら」をいったり来たりするのが主人公ではなくいわば敵役の幽霊であることだ。

たしかにホラー映画では、わたしが先ほど重要だと言った「あちら」が映像化されることはなされていない。しかし、「あちら」からやってくる幽霊は視覚化されていて、本来想像力の産物でしかないものが目に見えるようになっているという点では同じような重要さを持っていると思う。

そして、本来目に見えないものが視覚化されること以外にも、ホラーとファンタジーには共通点がある。それは、「あちら」と「こちら」を行き来する存在がいるということだ。ホラーなら幽霊、ファンタジーなら主に主人公ということになる(つけたすなら、「ハリーポッター」ではみているわたし達も往復する存在に数えてもいいかもしれない)。

そのような往復は、おそらくホラーにもファンタジーにも分類されない映画でも描かれることがある。

たとえば「君の名は。」がそうだ。高校生の「瀧」と「三葉」は夢からさめると互いに入れかわっていることがある。じつはそれが時間的な隔たりをもった入れ替わりで、それを利用して彗星による被害を抑えることに成功する。ここでは、二人の主人公が互いの世界を行き来することになる。

このあたりでわたしは、映像的表現で「あちら」と「こちら」を往復することに慣れ始めた。主人公が世界を行き来するにせよ、わたし達が映画世界とこの世界を行き来するにせよ。もっと言うと、想像力が視覚化されることに不信感を抱き始めた。なぜみんなで同じものをみなければならないのだろう?これはわたしがSSから離れて映画をみようと思い始めたことの原因には一見矛盾する。しかし、突き詰めて考えると同じことのように思える。つまりそれはみることの特性によるものだが、同じ映像をみていたとしても、注目するポイントが違っていれば自然と記憶に残るポイントも違っていて、解釈も異なることになる。

すなわち、文章にせよ映像にせよ、素材がひとつあれば鑑賞者によって無数の受け取られ方をすることになる。それは無意識的な取捨選択によるもので、これを統一することは不可能なのだろうと思った。なぜ違う受け取り方をするのに、みんなで同じものをみなければならないのだろう?

あるものを受け取るとき、その受け取り方を他人と百パーセント同じくすることはできない。どうしてもはみだすものがあるのだと感じた。ならば言語を避けている必要はない。なにをしても他人とは受け取るものは違うのだから。

わたしがなぜここにいるのか、というかなぜ批評に憧れを抱いたのかは、先ほど述べた「はみだすもの」が大いに関係しているのは確かだ。批評とは一種の言語芸術であると同時に、対象についての受け取り方で、「はみだして」しまった部分を考えることだろうから。他人と同じものを受け取ることを求めてきたが、じっさいには違うものを受け取ってしまうこと、それについて考えることこそが大切なのだと考えるようになった、という一種の転回は、批評によってもたらされた。

同時にさらに重要なことは、往復するということだと思う。どういうことかというと、「はみだした」受け取り方を引き起こしたのは自分に蓄積された人生経験であったり鑑賞経験であったりするだろう。その経験と対象とを往復することで、なぜ他人と違うものを受け取ってしまったのかを考えること、それは批評の一つのありかたなのではないだろうか。

この文章が批評の体を成しているのかはわからないが、わたしがその往復性に惹かれているのは間違いない。この文章もまた、いまと過去のわたしを往復することで成り立っている。

文字数:4249

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