印刷

裏切りのポップカルチャーとしてのスポーツ

0.

ポップカルチャーの中で、最も人気のあるコンテンツは「スポーツ」なのだって断定すると、言い過ぎだろうか。先のW杯の熱狂ぶりは記憶に新しいし(4年ごとに乱痴気騒ぎが起きるのだけど、98年から数えてもう6回目なのに全然収まる気配がない)、2020東京に向けては1兆円越えの予算が注ぎ込まれているし、スクールカーストにおいて運動できる奴が上位って相場は小中高と変わらない。さらに、ポップカルチャーのザ・生みの親たるテレビの歴代視聴率(日本)のベスト10の内、7つを占めるのはスポーツで、『君の名は。』の観客動員数だって市川崑の撮った1964年の『東京オリンピック』に負けているのだ(前者が1900万人で後者が1950万人)。

「スポーツ」ってポップカルチャーに入るの?って疑問が聞こえてきそうだけど、先に述べたようにポップ(人気がある)であることに間違いはないし、その身体的努力は人工的なコードに則って行われるものである以上、紛れもなく「文化=カルチャー」なのだ。

それに、wikipediaの「大衆文化(ポップカルチャー)」のページには、その例として映画、テレビ、ポップミュージック、テレビゲームなどが上げられる中、「野球、サッカー、格闘技、アメフト、バスケットボールなど」すなわち“スポーツ”がばっちり載っている。ある言葉の定義を求めるとき、wikipediaだけに頼ってしまったら、それはきっと怠慢だろうし、不正確であったりするんだろうけど、こと「ポップカルチャー(大衆文化)」に関しては、それこそ大衆(専門家ではなく)が書いた百科事典であるところのwikipediaにお任せしてしまっていいんじゃないかって気がする。

もちろんそれだけじゃなくて、宮台真司・松沢呉一によって書かれたその名もずばり『ポップ・カルチャー』(1999)において、格闘技はポップカルチャーの一つとして語られていて、中村伊知哉の『ポップカルチャー政策概論』(2004)においても“スポーツ”がポップカルチャーの一つとして定義されている。

 

1.文化への裏切り

スポーツがポップカルチャーであるとして、大衆が広く愛好する文化であるとして、何がそこまで大衆の気持ちを惹きつけるのだろうか。蓮實重彦は『スポーツ批評宣言 あるいは運動の擁護』(2004)においてスポーツの魅力を「運動」が「文化=カルチャー」を裏切る瞬間に見出している。蓮實は「文化」を人工のシステム、「運動」を自然と定義する。そして、「文化」は獰猛な「運動」を統御するものだという。

運動はどこかで始まり、どこかで終わらねばならない。また、ひたすら無方向に走り回ってはならない。だから、フットボールにはオフサイドという規則が存在するのです。(中略)どんなに素晴らしい軌跡を描いたボールでも、ゴールに突き刺さらなければ得点にはならない。これが、文化という名の規則による運動の統御にほかなりません。(同書p.11-12

まあ、わかりやすく言えば、ここで「文化」は狭義ではルールのことを指している。で、このルールは競技の中だけの話じゃなくて、サッカーで言うなら「得失点差」とか「警告数の差」とかも含んで、より広い勝ち負け(決勝トーナメントへの出場資格など)を統御する規定でもある。切り離された個別の一試合だけを規定する以上のものなので、先のW杯の日本対ポーランド戦終盤のような時間稼ぎみたいなことも起こってしまう。

そして、ルールとは人が作ったコードであり、他ならぬ「文化」である。逆に言えば、その人工性はスポーツをしてカルチャーとしての名目を保たせているところのものである。そして、蓮實はスポーツの魅力はこうした「文化」を突き破る、野生そのものの「運動」の美しさであるという。

スポーツには、嘘としか思えない驚きの瞬間が訪れる。また、人はその驚きを求めて、スポーツを見る。文化として始まったものが野蛮さにあられもなく席巻される瞬間を楽しむのです。(中略)ロナウドの足捌きを見てみるがいい。あれが文化として継承可能な運動とはとても思えません。あれこそ、係累なしの、孤独で一代限りの獰猛さに他なりません。(中略)「美しい」選手がいるのではない。選手が「美しさ」を体現してしまう瞬間がある(同書p.13

確かに、我々がスポーツを見て息を飲むのは、それがルールに則った「運動」であるからではなく、ただ、「運動」が「運動」自体として優れていて、そこに美しさを見出すからだろう。今何対何なのか、得点を決めているかどうか、打球がファウルかヒットか、ルールに則っているかは関係ないのだ。

その瞬間、我々は選手の背景(これまでの努力や苦労など)や気持ち(プレッシャーや負けん気など)すら忘れて、ひたすら「運動」の美に酔いしれている。そこに「人」は存在しない。だから、蓮實は試合終了後のインタビューでひたすらに選手の気持ちを聞く記者を否定する。スポーツで享受するべきなのは、人工物たる「文化」や「人」そのものからも切り離された純粋な「運動」なのだ。

ここで明らかになったのはポップカルチャーの最大手であるスポーツは、その「文化=カルチャー」を裏切るという矛盾によって、その魅力を担保しているということなのだけど、考えてみれば当然のことではないだろうか。

人工的なコードを与えられる前の我々(赤ん坊)は、当然ながら自然と未分化にある。ただ目的地へ進むことだけを純粋な目的とした「這い這い」はもちろん、歩けるようになってからも、走るという言葉と概念以前の行為としての「ぎこちない独特の足使い」(彼らはただ急ぐという想いのままに手足を動かしている)は、我々全てが予め経験したことのある自然そのものの「運動」だ。

もちろん「ぎこちない独特の足使い」はネイマールの極限の足捌きとは違うだろう。しかし、宮崎駿がこの「ぎこちない独特の足使い」こそを、アニメーションとして表現したいと追い求めた※1ように、ここにある種の美を見出すことは乱暴ではないだろう。走り方を覚えてしまった我々は、「ぎこちない独特の足使い」を正しく再現することはできないし、たとえできたとしても、それはもはや人工物に過ぎない。「ぎこちない独特の足使い」は幼児の身体にのみ適した、自然の「運動」である。成人の身体へとチューンナップされた「運動」を我々は探さなければならず、その一端をスポーツは垣間見せてくれる。

だからここのロジックは極めて単純だ。我々全てが経験したことのあるものをベースに繰り広げられるエンターテイメントが、その他のものに勝つことは当然だろうと言おうとしているだけなのだから。小説を読んだことがない人がいても、「運動」を経験したことがない人はいない。圧倒的母数を武器に、今は忘れてしまった「運動」をノスタルジックに本能的に思い起こさせる場として、スポーツはある。人工物である言語も、民族も越え、文字通り世界中が等しく熱狂できる、裏切り者としての「カルチャー」なのだ。

(余談だけど、音楽を聞いたことがないって人もほとんどいないだろう。だが、その音楽も極めて身体的であることに留意したい。蓮實の言う「運動」の概念は音楽にも等しく当てはまるのではないだろうか。そして、テレビの視聴率歴代ナンバーワンはNHKの「紅白歌合戦」(1963)なのである。)

 

2.大衆への裏切り

タイトルから明らかなように、この論考の目的は「裏切り」という観点からスポーツというポップカルチャーを見ていくことだ。前章ではそもそもカルチャーを裏切っているということを明らかにした。そうするとまあ、さらに大衆を裏切っているとまで言っちゃえると格好いい気がする。で、実際にそうで、スポーツは大衆を裏切っているからこそ、ここまでの人気っぷりなのだ。

では大衆はどのように裏切られているのか。予め、徹底的にだ。ものすごく単純な話なのだけど、スポーツで食べていくためには、その競技で同世代の頂点に立つ才能がなければならない。どれだけ努力を重ねた甲子園球児も、その一部しかプロになることはできない。ボルト以上の努力をしても、日本人がボルトより速く100mを走れないように、スポーツは努力が才能を覆さない世界だ。

スポーツが残酷なまでに才能と、運(競技との出会い)を要求することを端的に示す政策がある。2020東京に向けてスポーツ庁の肝いりで去年始まった、その名も「ジャパン・ライジング・スター・プロジェクト」だ。埋もれた才能を発掘するよってプロジェクトなんだけど、早い話が、ハンドボールとかウエイトリフティングのようなマイナー競技に、それこそプロになれなかった甲子園球児たちの才能を持ってこようぜって計画だ。基本的に野球やサッカーと言ったメジャー競技には多くの才能が集まる。集まり過ぎる。だからその4番手、5番手であっても、他の競技では余裕でオリンピックメダルを狙えちゃうってことが往々にしてある。彼らをスカウトしましょうというのだ。その競技が好き、とかそのために努力してきたとか、そんなのは二の次で、才能こそが唯一至高のものなのだと半ば暴露してしまっている。

我々大衆は、観衆でありプレイヤーでない以上、いわばスポーツの神に愛されなかった、裏切られた人間だ。スポーツ中継とは、言わば天上人の遊びを見せつけられているに過ぎない。では、一体なぜ我々が才能のなさを突きつけられることが、人気につながるのだろうか。

ここでもう一度、自然と人工の「スポーツ」を思い出そう。我々が自然の「運動」としてのスポーツの体験を既に経験済みであることは先に述べた。だが、同時に我々は人工のカルチャーとしての「スポーツ」もほぼ100パーセント例外なく体験しているのだ。それは主に義務教育という形で、我々に刻印されている。ルールのもとで適切に動ける身体かどうかを、学業の成績以上に残酷な才能の大小の体現を、それこそ衆人環視のもとで、披露しなければならない。ものを知らず、純粋な子どもたちが、その分かりやすい才能を元にヒエラルキーを構成しない理由があるだろうか。始め学区単位だった才能の大小は、学年が進むに連れ、全国へと拡大し、己の位置が見定められる。もちろん大抵の場合、敗者として。だが、そうやって見つけたグラデーションは、突然、プロという壁において、乱暴に観衆とプレイヤーの二色で塗り分けられる。

この塗り分けが、予め敗者であった我々を観衆の座へと引き上げてくれる。敗者同士の間であった摩擦も、観衆という平等な地位を得て、縮減される。どれだけ下手くそと蔑まれていたレフトの9番でも、観衆としては、かつての学校の4番のエースと一緒にビール飲みながらプロ野球の監督にダメ出しすることができる。

象徴的な例示として、フジテレビの番組『久保みねヒャダ こじらせナイト』をあげよう。メインの出演者は漫画家の久保ミツロウとエッセイストの能町みね子、音楽プロデューサーのヒャダインの3人で、彼らがひたすらトークを繰り広げる。その射程はポップミュージックからコミケ、ドラマまでと幅広く、出演者の肩書から想像できる通り、まあ、ザ・ポップカルチャーって感じの番組なのである。で、その番組のコーナーの一つに「体育への恨みつらみ川柳」がある。文字通り、「体育」への恨みつらみを詠った川柳を紹介するコーナーなのだけど、言うまでもなくこれはメインの出演者3人全員がスポーツが苦手で、「体育」が嫌いだったことがきっかけで始まっている。彼らの恨みつらみを聞けば、彼らがどれだけスポーツを憎んできたか直ちに理解できるだろう。だが、そんな「体育」敗者を自負する彼らであっても、番組内で、ポップカルチャーの文脈の中で、観衆としてスポーツを見た感想を喜々として語るのである。オリンピックの体操にほの見える「運動」の美しさについて語り、フィギュアスケートの美について語る(当然、「運動」だけでなく、腐女子的な切り口や、物語や背景も語るのだけど)。もちろん番組を見るまでもなく、能町みね子がコアな相撲ファンであることは有名だし、久保ミツロウはフィギュアスケート好きが高じて、アニメの「ユーリ!!! on ICE」の原案まで手がけている。

我々はここに、敗者が観衆として救われている瞬間をみることができる。飛び抜けた才能によって、等しくみな裏切られた敗者=観衆となることで、それまでの恨みつらみは忘却の彼方へと押しやられるのだ。だからこそ、スポーツは、スポーツ少年・少女だけでなく、非スポーツ少年・少女をも巻き込む一大スペクタクルとして成立しているのである。

 

3.敗者への裏切り あるいは勝者への漸進

だけど、それでは我々は永遠の敗者なのだろうか。 半ば慰めのように平等な敗者という仮面を配られることで、その低い地位に心地よく安住しているだけなのだろうか。そうではなく、「スポーツ」は、あるいは「スポーツを見ること」は勝者への漸進なのだ。

我々は身体と不可分に生きている。そして時折、「運動」の神が我々敗者に微笑んでくれるときがある。例えば、すごく調子のいい朝とかに、石に蹴躓いてバランスを崩すんだけど見事に立て直して転ばないで済むというような瞬間。完全に自分の身体をここしかないというやり方で、統御できる瞬間。歯車が一ミリのずれなく噛み合ってるじゃん、すごいじゃん俺の身体、と思える瞬間。スポーツを見ている我々は、その一瞬だけだけど、自分がメッシみたいになった感覚に陥ることが許されている。神の似姿としてのメッシ、にちょっと同一化する自分。

人ってやっぱり一足飛びに「神」には触れられないものなのだ。だから、教会に行ってお祈りをするというステップを踏むことが重要なのだし、自分の身体の歯車が噛み合った時、それが神に近づいていたのだということの証として、メッシを見ていることが重要なのだ。身近な目標なしには、人は正しい道を歩んでいるかの判断をつけることができない。「運動」というイデアに近づくために、「メッシ」という影が必要なのだ。あるいは、近づいている瞬間が度々訪れているんだよ、と気づくために。

幼年期の「運動」に「這い這い」があり、青年期の「運動」には「華麗なフリーキック」や「ドリブル」がある。とするならば、老年期の「運動」には何があるだろうか。我々には、まだ見ぬ「運動」の可能性への道も閉ざされてはいない。良き「運動」の例としてスポーツを見ることで、我々は勝者へと近づくことができるのだ。

 

※1 『ポニョはこうして生まれた。 ~宮崎駿の思考過程~』(2009)

文字数:5935

課題提出者一覧