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刳りだそうと誘う歌

本稿では、ポップミュージックを聴く際の空耳について扱う。批評家吉田雅史は2015年の批評再生塾第五回課題で「聞きちがい/誤読」について論じている。洋楽を日本語話者が聴いた際の「空耳アワー」の観点から、JPOPの言語表現の歴史を論じたものだ。だが、吉田の論考が英語の空耳を軸とした創作者論だとすれば、ここで筆者が行いたいのは、日本語歌詞に対する空耳体験と、オーディエンス論の展開だ。東浩紀の『ゲンロン0 観光客の哲学』が発表された以降の日本では、聞きちがいとメディアオーディエンスが接続されるべきだと考えている。

 

  1. 場面 事象

 

小学校低学年の男児が揺られているのは、家族旅行のワゴン車の車中。行先はスキー場。恋人のサンタクロースがシュプールを描くらしい。男の子の両親は、ニューミュージック世代だ。旅行の車中にはいつもカセットテープから音楽が流れている。彼が生まれる前からそうやってレジャーにいそしんできたのだろう。気が付いたら指先が切れていることもあるから、かまいたちとかつむじ風には興味があるけれど、「をいとして」とは。「いとす」ってどういう動詞なの。スキーに連れてってなんて言った憶えもないんだけど。卒業写真なんて撮ったこともないんだけど。人ごみというのはリフトを待って並んでるときのことで、あれ嫌い。冷蔵庫の中で凍りかけた愛とはなんだろうか。

メジャーセブンスの甘く切ないハーモニーと、パーカッシブに鳴る弦楽器がリズムを引っ張っていく曲がある。言葉を拾う。

「だんだんえぐりだそう だんだんえぐりだそう」

どうしてこんなに美しい音楽に合わせて、刳りださなくてはならないのか。こんな華やかな情景に合わせて。特に混乱しているわけではない。ポップミュージックというものでは、こんな表現が可能なのか、という受容の体験。高気圧ガール、はなんとなくそのまま拾えた。夏蜘蛛になったとか、夏の魔物に会いたかったとか、みんな夏が好きだなあ、確かに車中も暑くてくらくらしてくる。星のかけらはどこですか。

 

  1. 場面 社会化

 

高校卒業頃彼は、D’angeloという歌手に出会う。中学校でギターを始めて洋楽を聴き始め、バンドを組んだりしている。ミクスチャーからヒップホップにも興味が湧く。1999年のウッドストックが沢山映像で見れた。ザ・ルーツがヒップホップを生演奏していて、バンドをやっている彼のアイデンティティに合致し夢中になる。関連するアーティストを聴くようになり、D’angeloの『Voodoo』に出会う。重たく捻じれるリズムと靄がかかったようなウワモノとコーラス。ライナーに書いてあるミュージシャンをチェックしていく。プリンスはわかる。ジミヘンもまあ好きそうな感じ伝わる、特に声の扱い。Feel like makin’ loveは映画スワロウテイルのあの曲に似てて心地いい。Charaも好きだがあまり友達には言わない。マリーナショウのやつがあるね。わらってもっとベイベーの人。スモーキーロビンソンやアイズレーブラザースが分からない。ツタヤに走り出す身体。3+3というアルバムが売れていたらしくレンタルにある。そう、お金はないからツタヤのレンタル5枚1000円キャンペーンが全てだ。個人情報とか全部くれてやる。オープン戦略だ。とりあえず音楽を頼む。途中で流れてきた曲に耳を疑う。そっくり。こうして日本のニューミュージックやその周辺へと再度耳は巻き戻される。音楽友達との会話が弾む。件のニューミュージックの日本の音楽家は、ゴスペル/ドゥーワップへの造詣も深いのだと知る。ブラックミュージックの歴史に触れる。R&Bに現れるメジャーセブンスやリズムが、やりきれなさ、慰霊、その中での人生の喜びへと繋がる。ドラマ『Get Down』や映画『Detroit』もそのような話として観る。

 

  1. 再びの孤独化からメディアオーディエンス論へ

 

先の2つの場面は、筆者の個人的な体験である。「だんだんえぐりだそう」と聞こえていたのは「Down Town へくりだそう」という歌詞で、『Down Town』というSugar Babe時代の山下達郎の作品を聴いていたのだった(ちなみに「いとして」という動詞は筆者の内面で、愛しいものを引き連れて颯爽と現れるようなイメージとして育っていたが、残念ながら日本語に存在せず、松任谷由実「恋人がサンタクロース」の歌詞は「つむじ風を いとして」ではなく「つむじ風 追い越して」だった)。土居伸彰『個人的なハーモニー』は、ユーリー・ノルシュテインのアニメーション作品『話の話』の受容において「謎」が常に残るという体験をそのスタート地点とした批評だが、始めの筆者の体験(空耳)は、個人的な「アンハーモニー」、齟齬の体験だと言えるだろう。年齢に応じた語彙と音韻のボキャブラリーによって偶然体験された、すんなりとは咀嚼できないもの。筆者自身は、その後ポップカルチャーに対して「分からないもの」を出来るだけ求めたり、ひとことの感情として言語化できないものを求めたりする姿勢に結びつき、日々を豊かにしてくれた体験のひとつだと考えている。とはいえ、車内の暑さや家族の甘美な時間とそれは不可分であり、孤独的なものだ。そこに他者と共有可能な論点はあるだろうか。

例を一つ挙げる。アニメ『巨人の星』のオープニングテーマと「コンダラ」についてである。「思い込んだら」という歌詞が、オープニング映像で星飛雄馬が整地ローラーを重そうに引く映像とオーバーラップして、「重いコンダラ」という言葉とともにローラーを「コンダラ」と呼ぶのだと勘違いしていたというエピソードがある。筆者は漫画で読んだ記憶があるのだが、最初はラジオ番組の読者投稿だったらしい。一方で、市井の人が自らの体験として語ったものを記憶している人もいるようだ。こういったメディアにおける原典の体験の多様性の興味深さから、「コンダラ」は様々な形で二次創作を喚起していると言える。記憶の主体の無さが新しい創作を生み出す姿は、神話のようでもある。

「コンダラ」の勘違いを自らの体験として話した人は、意識的に、相手を楽しませるために嘘をついたのだろうか。その場合もあるかもしれないが、「自分もそう思っていたかもしれない」という仮想世界へ開かれた結果、実際に自らの記憶として定着した可能性もある。メディアから飛び込んできたものが、意思とは関係なく記憶として取り込まれること。これは心理学者スーザン・A・クランシー『人はなぜエイリアンに誘拐されたと思うのか』で実験的に検証されている。エイリアンのアブダクティーは、メディアでUFOや宇宙人に関するコンテンツを受容していた可能性が高いが、本人はそれを記憶しているわけではないのだという。さらに、アブダクションの記憶を作り出すきっかけは、日常に対する違和感や、より大きなものと繋がっているという感覚を持ちたいという市井の人々の欲望と関係しているのではないかと考察されている。

筆者は、オウム真理教による地下鉄サリン事件に対する村上春樹の姿勢にも同様のものを見る。テレビなどで同時代に見えいたコンテンツとそのときの自らの知識量から想像する仮想的な自分や、そのような仮想的な人生を持つことと、彼の文学の創作における課題が、ひとつづきのものだという感覚があるためではないだろうか。

個人史におけるある時点の知識の欠損と想像力の限界の元であっても、分からないものを一旦楽しみ、得られるきっかけによって他者への理解を深めようとする行為は、東浩紀が『ゲンロン0 観光客の哲学』で喚起する現代的な消費者の姿だ。だんだん刳り出されて行く他者のための消費が必要である。「だんだんえぐりだそう」と誘う美しい歌の「アンハーモニー」体験は筆者に、人の認知の癖への配慮と好奇心を持ち続けさせてくれている。

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