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フィクションとの距離


 

1がつ17にち ゴジラがこうべのまちをふみつけていった

 

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ここから問おうとするのは、フィクションと私たちがどのような距離を持ちうるのかという問題である。私たちの想像力が生み出したフィクションは私たちを時に癒し、結び付ける。一方で、フィクションは私たちを襲い、時に突き放す。そんなフィクションに対して私たちはどのような距離で向き合うことができるのか。

 

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1995年1月17日5時46分。震度7の激震が神戸市を中心とする関西地域を襲った。のちに、阪神淡路大震災と名づけられたこの都市直下型地震は、6434名の死者をもたらした。特に、住宅の密集していた神戸の長田地区における火災による被害は甚大であった。また、ポートアイランド・六甲アイランドなどの海岸埋め立て地域においては液状化現象が発生するなど、大きな被害が発生した。

 

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1月16日、僕は母と三宮にゴジラを見に行った。映画からの帰りに、祖父母の家に立ち寄った。祖父母の家に夜遅く立ち寄った際には泊まっていくことが恒例だった。その日は母親が、どうしても譲らず、家に帰った。
翌日、震災が神戸を襲った。祖父母の家は全壊した。祖父母は無事だった。後日、同級生が一人、倒壊した家の下敷きになって亡くなったことを聞いた。

 

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時に、フィクションの想像力が、私たちの住む世界で起きる出来事を予見していたかのように感じられる時がある。ハリウッド映画の中で見るような驚愕すべき事件映像をテレビを通して見つめるとき、これまで現実にそんなことは起こったことはないはずなのに、どこかでその場面を見たことがあるような感覚に襲われる。あるいは、確かに世界のどこかでこの出来事が起こっているにもかかわらず、どこかフィクションの様に感じてしまう。こうしたポジとネガの反転したような感覚は、僕が地震の現場にいあわせた時にも感じられた。
世界が揺れた時、僕は映画の中で描かれた破壊をまさに自分のものとして体験した。ゴジラは確かに私たちの世界を襲ったのだ。唯一違ったのは、映画を見ているときには感じなくてよかった不安が、僕を襲った事だった。今度は、ゴジラが、この僕を襲うかもしれない。ゴジラは、フィクションと現実の間にあるはずの壁を飛び越えてきた。

 

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六甲アイランドは、神戸市の南東部に位置する人工島である。島はいくつかのゾーンに分かれており、港湾機能の増強のために整備された工業地帯・港湾設備が、住宅・商業エリアを取り囲むように配置されている。
六甲アイランドは、ポートアイランドに続く大型埋め立てプロジェクトとしてすすめられ、1988年に開島した。

 

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僕は一生懸命にフィクションと現実の壁を高くしよう高くしようとしてきた。様々な形で与えられるフィクションへと没入することが、壁を高くするための一番の近道に見えた。近所のモールに入ったレンタルビデオ屋、本屋、ゲームショップに行くのは大きな楽しみだった。そこには、様々な形で想像力を湛えた映画が、本が、ゲームがあった。ここではないどこかに憧れていた。僕の想像する場所は、いつもきらきらしていた。未来もきらきらしていた。自分の住む島自体が、未来の希望をたたえているように見えていた。

 

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大震災以降、神戸港でのコンテナ取扱高は大きく減少した。直近は、震災以前と同水準の取扱高にまで回復しているが、かつて世界第2位の規模を誇った貿易港としての位置付けは大きく後退している。

 

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フィクションは時に、現実へと侵入してこようとする。それを防ぐために僕たちがとりうるのは、フィクションに没入することだけではない。自分の住む世界をあえてフィクションと重ね合わせてみせることができるのだと、いつの間にか学んだ。フィクションと現実の間にある壁を高くしようとするよりも、壁の上に立って遊んで見せることこそが、フィクションに襲われないですむ方法のように思えた。

 

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数あるライトノベル、およびライトノベルが原作となって作成されたアニメーションの中でも『涼宮ハルヒの憂鬱』シリーズは2000年代末から2010年初頭を代表するコンテンツといっていいだろう。ライトノベルは1巻あたりの発行部数の記録を塗り替えるなど大きなヒットとなった。このシリーズの主人公である涼宮ハルヒは日常に退屈し、宇宙人・未来人・超能力者が現れるような非日常を待ち焦がれている。しかし、彼女の待ち望んだ非日常はついぞ訪れず、彼女は彼女がSOS団(世界を大いに盛り上げるための涼宮ハルヒの団)を結成し、彼女の友人たちと平凡な高校生活を送ることになる。しかし、彼女を見守るキョンと名付けられる男性の語り手には全く違った日常が見えている。ハルヒは、自分の気が付かないうちに、彼女の住む世界を改変する能力を身につけており、宇宙人・未来人・超能力者がそれぞれ全く異なった理由から彼女に興味を持って彼女を監視している。彼女の監視役こそ、ハルヒには単なる友人に見えているSOS団のメンバー、長門有希(宇宙人)、朝比奈みくる(未来人)、小泉一樹(超能力者)なのだ。

 

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「涼宮ハルヒの憂鬱」シリーズは、「現実」と「フィクション」の世界を架橋する絶好のコンテンツであったといっていいだろう。小説やアニメを通して、ハルヒやキョンが過ごす高校生活へと感情移入して見せることだけがこのコンテンツの消費のされ方ではなかった。アニメが放送されていた頃には、それぞれの教室で、あるいは、ネットを介して皆が涼宮ハルヒの示した想像力を共有していた。ネット掲示板にはアニメが放送されるたびに実況で盛り上がり、オフ会ではアニメのオープニングで流れるダンスを踊ることがはやった。「ごっこあそび」がみんなに共有されていた。

 

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アニメ版の取材源が私の住み慣れた阪神地域であったことは、自分の生きている世界と、「涼宮ハルヒの住む世界」を重ね合わせることを容易にした。私が、聖地巡礼を初めて経験したのは、映画版『涼宮ハルヒの消失』がきっかけだった。

『涼宮ハルヒの消失』のラストで、改変された世界をもとに戻すために、キョンと長門有希は甲南病院の屋上で対峙する。彼と彼女の背には、神戸の街が見える。

甲南病院への坂道をバイクに乗って登る。そこからは、キョンと長門が見たであろう神戸の街が見える。私が育った、六甲アイランドもまた、そこから見晴らすことができる。キョンと長門には何が見えていたのか。

 

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六甲アイランド島内にあった外資系企業が移転を発表するなど、島内の経済は厳しい状況に見舞われている。かつて、映画館・専門店などでにぎわった複合商業施設は、顧客の減少から全館閉鎖され、現在、ほとんど機能していない。

 

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ネットフリックスで、『涼宮ハルヒの消失』を見返してみた。あの頃感じていたはずの「きらきら」を、今の僕は感じることができなかった。映画の中に登場する、様々な場所/事物が与えてくれていた親近感は、僕とこの作品との間にある距離へと姿を変えていた。キョン達の使う折り畳み式の携帯電話を私はもはや使っていない。

私が使っているのは、ネットフリックスの映像が配信されてくる、大きな画面を伴ったiPhoneだ。教室で、ネット上で、あるいは映画館で感じていた同時代的な熱気も、私が画面を片手に寝転がる部屋にはもはや残っていないように感じられた。

「涼宮ハルヒ」の消失よりも、私には全く別のなにかの消失の方が気にかかった。もはや、私の生きている世界とハルヒたちの生きている世界を重ね合わせることはできなかった。あんなにも身近に感じていたはずの世界は、どこか遠くに行ってしまった。過去にときめきを感じていたはずの自分はもはやそこにはいなかった。

おそらく、私が『涼宮ハルヒの消失』から疎外されてしまったように感じるのは、もはや物語の中に自分を位置づけることができないからだろう。そして、それは、私が「物語のその先」を生きてしまっているからこそ起きてしまっているのだろう。

 

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『涼宮ハルヒの消失』の中でキョンは、日常を取り戻すためにある重大な選択を迫られる。

しかし、実のところ、選択肢が「選択肢」として提示されることなどほとんどない。

選択は突然に、気が付くことなしに、行われている。

 

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フィクションと戯れることなしに、私たちは生きることができない。けれども、私たちはフィクションのその先を生きなければならない。選択肢が「選択肢」として提示されることなどない。おそらく、ゴジラはそれを伝えるために壁を飛び越えてきたのだ。

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