メディア異聞

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梗 概

メディア異聞

舞台は古代ギリシャのコリントス、主人公は魔女メディアの双子の娘の一人として生まれる。ある日、メディアは夫がコリントスの王女と婚約したこと、厄介者になった自分をコリントスから追放することを知らされる。メディアは夫への復讐を口にし、主人公はそれを聞いてしまう。メディアの追放前日、メディアはコリントス王と王女を毒殺し、二人の娘を殺害しようとする。港まで逃げたところで、双子はメディアに追いつかれる。双子の一人は主人公を船に乗せて海へ逃すが、彼女はメディアに殺されてしまう。船は魔女キルケが住む、アイアイエー島に漂着する。キルケは主人公を養女として育てることとする。

キルケはアイアイエー島の不思議について主人公に話す。アイアイエー島は、島の外に比べてゆっくりとしているので、外の世界の時間に置いていかれている。その結果、常にアイアイエー島は外の世界の過去に向かって時間が進んでいるのだと言う。数年後、アイアイエー島に船乗りのイアソンという青年がやって来る。イアソンはコリントスへ行く途中に遭難してしまったのだと言う。主人公はイアソンをもてなし、結局イアソンは一年間をアイアイエー島で過ごす。イアソンはコリントスへの航海を再開することを決め、彼と愛し合っていた主人公はコリントスについていくことにする。

二人はコリントスに住むことにする。イアソンと主人公の間には、双子の娘が生まれる。しかし、ある日コリントス王がイアソンを気に入り、王女との結婚を彼に持ちかける。イアソンはこの提案を快諾し、主人公にコリントスから出ていくように告げる。ここに来て、主人公は自分がメディアであり、イアソンが自分の父親であること、自分の娘が自分であることに気づく。メディアはイアソンへの復讐としてコリントス王と王女の殺害を計画し、復讐後の亡命をメディアに好意を持つアテナイ王アイゲウスに依頼する。アイゲウスはイアソンへの嫉妬から、メディアの亡命は許すが、子供達はイアソンの元に置いてこなければいけないと言う。子供達をイアソンの元に置いていくことに耐えられず、メディアはコリントス王と王女の殺害後、娘たちを殺害しようとする。双子の片方は船に乗って逃げるが、もう一人をメディアは殺害する。

亡命したアテナイで、メディアはキルケと再会する。キルケはメディアと出会う前の若い姿であったが、魔法でメディアの事情を理解する。キルケは別の人生の可能性についてメディアに話し、魔法で人生をやり直すことを提案する。メディアはキルケの提案を呑み、記憶を持ったまま再度メディアの娘として産まれる。しかし、何年経っても変化は訪れず、遂にメディアが自分と姉妹を殺害する日が訪れる。姉妹と逃げながら、メディアは自分が海へ逃げるか、残って母に殺害されるかを選べることに気づく。この先の人生を知っているメディアは、姉妹を船に乗せ、自分は母に殺害される。

文字数:1193

内容に関するアピール

この物語のテーマは「母親の子供への思い」です。30歳になって女性と子供を持つことについて話す時、お腹を痛めて子供を産む人間の考え方は自分とこんなにも違うのかと驚き、その考え方を想像し、物語にしてみたいと考えました。

ベースにした物語はエウリピデス著の「メディア」です。この物語は主人公メディアが、自分を裏切った夫に復讐するため、夫の新しい妻とその父親、自分の子供を殺害していく悲劇です。子供を殺害しながらも、彼らへの愛情を言葉にするメディアの気持ちはどんなものだろうと考えながら書きました。

SF的な仕掛けとしては、「過去に戻った自分が自分自身を産む」というものを用いました。「母親にとって、子供は自分の身体の一部だったもの」と言われたことがあるのですが、その言葉を表現するのに適した仕掛けだったと思います。 
 
「男性が想像した母親の気持ち」という物語ですが、楽しんでいただければ幸いです。

文字数:393

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メディア異聞

 
古代ギリシャ コリントス
 

双子の少女達が隣室から聞こえてくる両親の会話に耳をそばだてている。この双子の名前はどちらもメディアという。母からもらった名前で、つまり母の名前もメディアである。
「ねえメディア、お父様と喧嘩して、お母様が泣いているわ」
「ねえメディア、既に起こってしまったことを、私たちが心配しても仕方がないわ」
「そうかもしれないけれど。──あら、お母様が部屋に入ってくるわ。目を閉じて、何も知らない娘を演じなくては。上手くできるかしら。ねえメディア、手を握って」
 母メディアが寝室に入ってくる。彼女は娘たちのベッドの脇に跪くと、双子の髪をなでる。
「ああ、私の愛しい娘たち。あなた達を産んだ時、この苦しみに耐えるくらいならば、男の代わりに武器を取り、戦争に赴いた方がましだと思ったものよ。でも、それからの日々を思い出せば、あの日ほど大切な日は無かった。あなた達は、私のすべて。しかし、これほど愛おしいあなた達を、裏切り者の夫が善人面で奪い去ろうとしている。結局は私も、母や多くの妻たちと同じ運命に陥ってしまうのだろうか。ただ夫の誠実さを願うことしかできず、一度夫が浮気をしてしまったならば、最後にはすべての幸福を奪い去られる。そんな恐ろしい運命。──いいえ、母と同じ道を歩くのはここまで。夫の共犯者、あの冷酷なコリントス王クレオーンから、私は1日の猶予を勝ち取った。その間に、私は彼らへの報復を果たし、娘たちを私の元に留めてみせる。今に見ているがいい」
母メディアが寝室から出ていく。
「ねえメディア、お母様は何をおっしゃられていたのかしら」
「ああ、哀れなお母様。私にはあなたのお気持ちが分かります。他人の気まぐれと不実にさらされて、気づけば心は八つ裂き寸前。ねえメディア、私たちは何があっても、お母さまの味方でいてあげましょう」

明朝、双子は館の乳母に、昨夜のことを話すことにする。
「昨夜、お母様とお父様が喧嘩されていたわ。どうしてなのか、知っている?」
「王様とお父様が、お母様に酷いことをしたのでしょう?」と双子の片割れ。
「(双子には聞こえない小さな声で)ああ、本当のことは、とても言えない。──いいえ、そんなことはありません。ただ、この私に一つ教えてくださいな。もしも、お母さまがこのコリントスを出ていかなくなったとしても、お二人はお母様と一緒に居たいですか」
少女メディアは答えに詰まるが、彼女の片割れは迷わず答える。
「当然でしょう。私たち、お母様の行くところだったら、どこにでもついていくわ。実はね、つい昨夜、そう誓い合ったばかりなの」
「なんと美しい誓いでしょう。是非とも、その誓いを守って下さいますよう」
 母メディアが館に戻ってくる。しかし、その衣は乱れ、顔面は真っ白で、目は何もない館の天井の方を向いている。
「恐ろしい、恐ろしい。情けない、情けない。なんて細い、私の腕。か弱い私は、この期に及んでも他人に頼るしかないのね」
「奥様、どうかお気を確かに。どんな恐ろしいことがあったというのです」
「あら、恐ろしいことなんて、何も無いわお婆さん。私は望んでいたものを手に入れたのだから。ただ人々が冷酷だっただけ。でも、それはずっと前から変わらないことでしょう。ああ、私の娘たち、こっちに来て、母にお前たちを抱かせておくれ。(乳母、危険を感じて母メディアを羽交い絞めにする)離せ、汚い年寄りめ。夫と子供を戦争で失ったから、この館にやって来た抜け殻のくせに」
「奥様は正気を失っておられます。どうか、私めに何があったのかお話しください。ご覧ください、お嬢様たちが怯えています」
乳母、母メディアを強引に部屋の外に連れ出す。

しばらく後、正午を過ぎた頃、1人の下僕が館に入ってくる。
「王女様が亡くなられた。メディア様から贈られた冠と衣を身に付けた途端、急に倒れられたそうだ。それだけじゃない、娘のことを心配されたクレオーン様が王女様のお身体に触れると、王様も同じように動かなくなってしまった。メディア様の毒薬だ。あの方は夫を寝取った女と、自分を国から追い出そうとする男に復讐したのだ」
母メディア、再び部屋に戻ってくる。
「今、素晴らしい知らせを持ってきてくれたのは誰? (知らせを持ってきた下僕を見つけて)お前なの? ああ、お前はなんて良い友人だろう。でも残念ね、そろそろ気の進まない仕事に取り掛からなければいけないわ。さあ娘たちよ、お出かけの支度をしなさい。お気に入りの着物を着て、身に付けたいものがあれば、この館にあるものは何でも持って行って良いのよ。準備が済んだら言って頂戴、母がお前たちを殺してあげます」
 乳母は、双子を衣裳部屋に連れていく。少女メディアは状況がうまく呑み込めていないが、母親が自分を殺そうとしていることだけは理解している。
「お願い、お母様を止めて」
「お嬢様。私も理不尽によって子供を奪われました。だから、私には奥様の悲しみが痛いほど分かるのです。母親として、あの方の手の内から、あなた達を奪い去るようなことはしたくありません。一方で、長年お仕えする中で、あなた達は本当の娘たちのようでした。やはり母親として、大切な娘を、狂った女の手にかけさせたくはありません。この上は、あなた方を館より逃がし、後のことは神々の御心にお任せします」
「そう、神々の御心にお任せするの。あなた達、そんなに顔を青くする必要も、この館から逃げる必要も無くってよ。神々は私たちが泣かなくて済むように、何もかも取り計らってくれるわ。私には分かるの」と双子の片割れ。
「母親に続いて、娘までも狂ってしまったというの。しっかりした方のメディア様、どうかあなたの片割れを気にしながら、逃げてくださりますように」

双子はなんとかコリントスの港にたどり着く。しかし、少し前から、館から出てきた人影が2人の後を追ってくる。
「見てメディア、あれはきっとお母様よ。早く船に乗って海に出てしまいましょう。あの船は荷をすべて積み終えたようだわ。あそこに忍び込みましょう」
「そうよ、お母様は私を殺すんだわ。ねえメディア、あなたは逃げて。私はここに居るわ。だって、お母様が可哀そうだもの。それが、私の──ああ、母よ。ようやく分かりました──私の望みなの。(船で働く奴隷を見つけて)そこの奴隷さん。この娘をさっさと船に積み込んで頂戴。この娘ときたら、西に行ってフェニキア人に売られるのが嫌なんて言って、船から逃げ出してきたのよ」
「お前さんは、この娘の何だね。同じ顔をしておるが」と奴隷。
「私はこの娘の片割れよ。私はアーリア人用の商品だから東に行くの。だから、その娘とはここでお別れ」
奴隷は少女メディアの抵抗を無視して、船に引っ張っていく。船は出港し、遠目に母メディアが追いついて、双子の片割れの前で短剣を構えるのが見える。
「お母様、どうか私を殺して。私、お母様の気持ちが良く分かるの。生きていたって良いことなんて一つもないもの」
双子の片割れがそう叫ぶと、母メディアは短剣を深々と彼女の胸に突き立てる。
 しばらく後、少女メディアを載せた船は現在のローマ近海で嵐に遭遇し、転覆する。少女メディアは海に投げ出され、波にしばらく流された後、孤島に漂着する。砂浜に寝そべる彼女の顔を、見知らぬ老婆が見下ろしている。
「お婆さんは誰。ここはどこなの」
「あたしはキルケ―。ここアイアイエー島に住む魔女だよ。コリントスから長旅ご苦労だったねえ。メディア」

 

メディアがアイアイエー島に漂着してから幾年かの月日が経った。彼女はキルケ―の養女となり、島で暮らしている。この日は、森で薬草を探していたのだが、森の深くに入り込んだせいで帰り道が分からなくなり、途方に暮れている。すると、森の動物たちが彼女の周りに集まってくる。一頭の鹿が、陽気な声でメディアに語り掛ける。
「島の主の娘が、庭で迷子になるとはね。ついておいでメディア」
「まあ、どうもありがとう」
 メディアと動物たちはキルケ―の館へ行進していく。一羽の鳥が列を追い抜き、メディアの頭上まで飛んで来る。
「思うに、この娘が迷い込んだのは森ではなくて、恋だね。この間島にやってきた男に、この娘が向ける目ときたら」
「実はそうなの。彼の、イアソンのことを考えながら歩いていたら、迷ってしまったのよ」
「この娘は年上が好みなんだ。それも、自分の父親と同じくらいの、うんと年上の男」
「イアソンが?」
「随分長い間この島に居て、自分が時間を遡っていることを知らないのか」
「なんのことかしら?」
 鳥は何も答えず、行進する動物たちの頭上に戻っていく。代わりに黒と白の2匹の蛇が列から進み出る。
「軽薄な鳥めが」と黒蛇。
「いいんだよ、メディア。私たちが説明してあげよう」と白蛇。
 2匹の蛇は頭と尻尾の位置を揃えて、全く同じ速さでメディアの前を這ってみせる。
「君の眼から見ると、私たち2匹は絶えず前進しているように見えている。しかし、もしもこの場に私たち2匹しかおらず、同じ速さで這い進んでいたら、私たちには互いが止まっているように見える」と黒蛇。
 次に黒蛇が這う速さをゆっくりとさせていく。それに伴い、先ほどまで揃っていた2匹の頭の位置が離れていく。
「相変わらず、君の眼から見れば私たちは前進しているが、私から見れば黒蛇が後ろに下がっていくように見える。つまり、アイアイエー島とその外との関係がこれだ。アイアイエー島が這う速さは島の外と比べるとゆっくりで、少しずつ置いて行かれているんだ。その結果、我々は、常に時間を遡っているという訳さ」と白蛇。

メディアと動物たちはキルケ―の館に到着する。すると、館の前に立っているイアソンを見つける。
「メディア、こんな遅くまで一体どうしたんだい?」
「あなたの為に薬草を集めていました。航海の疲れが抜けていないように見えましたので」
「メディア。愛しい人。ギリシャから遠く離れた地で、君のような女性に出会えるとは、僕はなんて幸運なのだろう。おかげさまで、明日にも船が出せそうだ」
「ご自分の国に帰られるの?」
「テッサリアに? まさか。国中が僕の命を狙っている」
「どうして、そんな恐ろしいことが」
「自分のものとなるべきものを要求したために。僕の叔父ペリアースはテッサリアの王だったが、それは彼の兄──僕の父から不当に奪った王位だった。僕は王位をあるべき場所に戻すため、ペリアースの娘たちを欺いて父親を殺させたが、テッサリア人たちは僕を憎んだ。僕は国を出ていくしかなかった」
「ああ、イアソン。哀れな人。どうか、あなたの正義を信じる女が、ここに一人いることを忘れないでください」
「君はずっとこの島の人間なのかい」
「いいえ、私は元々コリントスのメディアでした。しかし、気の狂った母親から逃げている間に、この島に流れ着きキルケ―の養女となりました」
「クレオーン王が治める国だ。彼はどのような過去を持つ人間でも、その才覚と出自を評価すると言われている。僕の亡命先として、これほど相応しい国は無い」
「どうか、あの国の話をしないで。母の恐ろしい目を思い出してしまいます」
「ああ、メディア。いつまでも、そんな風に怯えていてはいけないよ。君の意志で、君の人生を切り開かなければ」
 森の方から声が聞こえる。
「意志だってさ。可愛い坊やじゃないか」と鳥の声。
「彼は島の外から来たのだから、あまりからかうんじゃない」と鹿が諫める様に言う。
「鳥と鹿が人間の言葉を話しているぞ」
「この動物たちは、この島を訪れた哲学者達の成れの果てです。母の魔法を盗もうとしたから、動物に姿を変えられてしまったの」
「なんという悲劇だろう。かつての偉大な哲人たちが、今では獣の姿に身をやつしているとは。おまけに獣の姿でいる内に、頭の中まで獣の様になってしまったようだ」
一匹の老犬が進み出て、イアソンに吠え始める。
「聞き捨てならんな、小僧。この島ほど、この世の真理に近く、哲学に相応しい場所は世界のどこにも無い」
「あたしらは既に決められた運命をなぞるだけ。たとえアイアイエー島で過ごして時間を遡ろうと、運命にはそれさえ織り込み済みなんだって、キルケ―は教えてくれたよ」と鳥。
動物たちの中から猫が進み出て、鳥の言葉に異を唱える。
「この若い旦那の言う通り、あんたは本当に動物になっちまったんじゃない? 考えてみれば、私たちはキルケ―の言葉を疑ったことは無かった。でも、哲学者が他人の言葉を鵜呑みにして良いの? 私はこの旦那の側につくわ」
「久方ぶりの議論だな。楽しくなってきた」と2匹の蛇。

館の中で、キルケ―はイアソンに飲ませる薬の準備をしている。扉が開いてメディアが入ってくるが、それと一緒に動物たちの議論の声も入ってきたので、その騒音にキルケ―は顔をしかめる。
「ピーチクパーチク、バウバウニャーニャー、シューシューブルルン。あー、うるさい。永久に続く、賢しら人どもの井戸端会議。彼らは分からぬことを、分かっている振りをするのが止められない。──ああ、メディア、おかえり。後ろの棚から、薬草の箱を取り出しておくれ」
 メディアが言われた通り、薬草の箱を取ろうとしたところ、全く同じ形の2つの箱を見つける。どちらにも同じ薬草が入っている。
「お母様は、すべての物事は決まっていて、人間の意志は存在しない、と動物たちに言っているそうですね」
「そうだね。そして、お前は『右』の箱を、私に手渡すことになっているよ」
メディアは『左』の箱をキルケ―の前に持っていく。
「お母様、私は『左』の箱を持ってきました。お母様が『右』と言われたからです。これでも人間の意志というものは存在しないのでしょうか?」
「そうだね。何故なら、私はお前に噓を言ったんだ」
「まあ、お母様。そんな負け惜しみは聞いたことが無いわ」
「そうだね。しかし、お前はどうやってそれを証明するつもりだ? これは、魔法を使うものには明らかな事実だ。でもね、お前や外の動物たちにとっては、いくら言葉を積み重ねたところで、理解できないことなんだよ。──とはいえ、意志が存在しないと悩む必要はないのだけれどね。何故なら、人間が運命を知ることができない以上、彼らは常に自分の意志に従って行動しているのだから──たとえ、それが既に決められている行動であっても」
「お母様の眼には、時間はどのように見えるのかしら。例えば未来は?」
「『未来』という言葉は人間のもの。魔法が私たちに教えてくれるのは、すべてのことはこれまで起こり続けていたし、今まさに起こっている最中だし、これからも起こり続けるということ」
「先のことがすべて分かっていたら、動物たちの議論に苛立ったりするかしら」
「まさしく、人間的な発想だね。魔女には魔女の生き方がある。常にすべてのことを知りながら、人生のあらゆる幸福な瞬間を喜び、不快な瞬間に怒るのが私らの生き方。例えるなら、森の中で薬草を探しながら、常に森全体へ目を向けているようなものかねえ」

翌日、船出の準備をするイアソンの元に、メディアは見送りにやってくる。
「メディア、僕はコリントスに行く。そして、君にも一緒に来てほしい」
「やめてください。コリントスなんて、名前を聞くのも嫌だと言ったはずです。それに、ここには私の家族が居ます。あなたはそれを捨てろと仰るの?」
「では、僕は? メディア、これは明快な二択だよ。僕を愛しているのなら、船に乗ってくれ。ここに留まるというのであれば、君は僕を愛してなどいない」
「どうか、そんな追い詰めるようなことを言うのは止めて」
船員が出港の準備が整ったことをイアソンに伝える。
「さあ、メディア」
「行くか、留まるか。一見二択だけれど、すべてのことは既に決まっているそうよ」
「君の意志に従って」
「それとも、すべてはお母様の嘘で、結局人間というのは意志に従って、森の中を彷徨っているだけなのかしら」
「望む場所こそ、君に最も相応しい居場所なんだ」
「ああ、お母様の言う通り、人間である私たちが、いくら運命や意志の存在について言葉を尽くしたところで虚しいだけ。この苦しみを決して癒してはくれない。行けば家を失い、留まれば愛を失う。ああ、ああ、ああ、ああ。イアソン、私はあなたについていきます」

 

メディアはイアソンと共にコリントスに移住し、そこで双子を産む。その後、コリントス市民として豊かな生活を数年間送る。
 しかし、ある日クレオーン王が、イアソンと自分の娘との結婚を望んでおり、野心家のイアソンがそれを快諾したことを知らされる。メディアは王の元を訪れる。
「クレオーン様、どうか事の次第を私めに教えてください。噂で聞いたところによれば、あなた様は、私の夫を自分の娘と結婚させるおつもりで、夫はそれを快諾したとか」
「その通りだ。お前の夫は、ワシの娘と結婚する。それだけではない、お前には亡命者として、即刻この地から出て行ってもらう」
「(メディア、混乱しながら)王様、仰られることが良く分かりません。何故、私は夫を奪われるだけでなく、国を追われ、亡命者にならなければいけないのですか」
「夫を奪われた妻は、大抵相手を恨み、報復を考えるもの。ワシの娘に危害を加えるであろう女を、ワシの国に置いておく理由など、どこにある。勿論、中には道理を理解し、誰にも刃を向けずに身を引くことのできる女もいる。もしかしたら、お前はそのような女なのかもしれない。しかし、他人の腹の内が分からず、未来を見通すこともできぬ以上、花が咲くか咲かないかに関わらず、災いの芽はすべて抜き取らねばならない」
「災いが恐ろしいのであれば、芽を抜く前に、種を蒔かなければ良いではありませんか。妻から、夫を奪わなければ良いではありませんか」
「王の仕事とは、民衆に代わって、災いの種をそこいらに蒔き続けることだと分からぬか。民を飢えさせぬよう、隣国に攻め入り作物を、財産を、奴隷を勝ち得る。戦の為に、市民や異国の者から税金も取ろう。これらは、すべてワシに反感を持つ者を産む切掛けになるが、誰かがやらねばならぬことなのだ」
「そんなものは男の道理です」
「男の道理だと。言うではないか、この女。それでは、お前の家で働く乳母が誰だか知っているか」
「いいえ。名前を聞いても、今の自分には相応しくないと言って、教えてはくれませんから」
「そうであろう。あの女はな、かつてのトロイア王プリアモスの妻、女王ヘカベーよ。あの有名なトロイア戦争終結の折、軍師オデュッセウスの戦利品となったものを、ワシが譲り受けたのだ。ワシはあの女を気に入っておったが、イアソンがこの地を訪れた際、様々な贈り物と一緒にやつに与えた。いずれ、ワシにとって有益な男になると分かっていたからだ」
「ああ、なんておぞましい話」
「さて、お前に問おう。奪うことが正しい、というのは男の道理か? お前の館と、娘たちの顔は、トロイアの男たちの血と、女たちの涙で黒ずんでいるぞ」
「(クレオーンに聞こえないほど小さな声で)もう、何を言っても無駄なのね。(再び、声を張り上げて)どうか、クレオーン様。この地に留まることをお許しください」
「ならぬと言ったはずだ」
「たったの1日で良いのです。亡命するにしても、支度をしなければなりませんから」
「よかろう、亡命まで1日の猶予をくれてやる。しかし忘れるな、明日が終わっても、お前がコリントスに居るのを見つけたら、その首を切り落とす」

夜、イアソンが館に帰ってくる。彼の姿を認めると、メディアは昼間のクレオーンとの謁見で聞いたことについて、イアソンと話すことにする。
「こんなことはあんまりです。女から夫を奪い、他に頼るものもいないというのに、その上国の外に放り出すなんて」
「可哀そうに、愛しいメディア。君の為、僕はどんな協力も惜しまないつもりだ」
「愛しいメディア? なんてひどい二枚舌なのかしら」
「それは誤解だよ。いいかいメディア、僕の愛は変わらず君と2人の娘だけのものだ。王女など、愛してはいない。しかし、王位を奪還できず、故国を追われた者にとって、今回の縁談ほど価値あるものは無い」
「あなたへの愛の為に、私は故郷と家族を捨てたというのに、あなたは自分の野心を捨てることさえできないの?」
「君の献身についてならば、僕は十分に報いてきたはずだ。戯言を話す獣達と、世間ずれした老婆だけが暮らす果ての孤島から連れ出し、君をギリシャの奥方にしてあげた」
「ああ、イアソン。今ようやく、お前という人間が私には分かった。結局、お前にとって大事なことは、己の野心を満たすことだけなのだ。王位のために肉親を殺し、逃亡した先で出会った娘に故郷を捨てさせ、今度は出世のために妻を捨てる。身近な者への情を持ち合わせていない、残酷な男が、お前だ」
「出世は僕のためではない、娘たちのためのものだ。王家と縁組すれば、娘たちは生涯豊かに生きられる。ゆくゆくは娘たちの子孫も、王家としてこのコリントスで栄えるだろう」
「何を言っているの。このような不実の土地に、私が娘たちを置いていくはずがない」
「メディア、それは不可能だ。道理に従えば、子供というのは、常に夫に属するのだから。それに、僕は多くのものを娘たちに与えることができる。故郷、財産、将来、母親でさえも」
「母親は私だ」
「黙って聞けよ。一方で、君は何を与えることができる? 明日の我が身も保証できないくせに」
「そんなことを言うのは、やめて」
「怒ったと思ったら、今度は泣き始めやがった。理性ではなく、感情の生き物だな。女を関わらせずに子供を作れたら、どれだけ良いものか。そうすれば人間から不幸は無くなるだろう」

翌日の早朝、メディアは館を出て、コリントスを訪れているアテーナイ王アイゲウスの逗留先に向かう。道すがら、自分の計画を独白する。
「今日という日が終わる前に、私は不実の輩に勝利してみせる。愚かなクレオーンめ、普通の女であれば1日の猶予が与えられようとも、亡命の準備に手一杯で、他の事は何もできないだろう。しかし、魔女の娘には、それに加えて、お前に一矢報いることができるのだと教えてやる。悲劇の始点は、お前の娘。小娘はきれいな装飾品が大好きだ。だから、この世のものとは思えぬほど美しい衣裳と黄金の冠を見たら、たとえ自分を恨む人間からの贈り物でも、身に付けずにはいられないだろう。しかし、それを身に付けようものなら、たちまち毒が娘を殺し、娘の身体に触れた連中も同じ目に合う。復讐を終えた暁には、私は愛しい娘たちとコリントスを出る。しかし、娘たちの暮らしを保証するためには、亡命先で私たちを保護してくれる人物が必要だ。そこで、私はアイゲウスを頼ることにする。あの男が、私に密かな好意を持っていることは分かっている。あ、噂をすれば」
道の向こうからアイゲウスが歩いてきて、メディアに声をかける。
「お早うございます、メディアさん」
「アイゲウス殿、お願いしたいことがあって、あなたの元に向かう途中でした。どうか、この身を、あなたの国で受け入れていただけませんか」
「それでは、あの噂は本当なのですね。(メディア、うなずく)なんという裏切り。なんという悲劇。勿論、アテーナイはあなたを歓迎します。しかし、神々のご意志というものは本当に分からないものです。ある日突然、それまで仲睦まじかった夫婦を破局させてしまうとは」
「あなたにも、そのようなご経験が?」
「遠き土地のトロイゼーンで。夫婦の不仲から、妻と子供をあの土地に残し、私は出ていきました」
「不幸なお話ですわ。しかし、あなたは奥様に慈悲を与えられたのですね。たとえ、男女の仲が終わる時でも、母親と子供を引き離してはいけない」
メディアの言葉を聞いて、アイゲウスは怪訝な顔をする。
「お待ちください。もしや、あなたと娘の両方を受け入れるのですか? それはできません。正直に申します。既婚者と知りながら、私は長い間あなたを愛していました。そして、それ故にあなたを自国に受け入れるのです。それなのに、あなたが前夫のものを持ち込み、あまつさえ愛で続けるなど、私には我慢できない」
「イアソンのものではありません! 私の娘たちです! どうして、男の人にはそれが分からないの」
「お気の毒ですが、あなた一人でアテーナイの私の家をお訪ねくださいますよう」
「あんまりです。結局、誰も本当の意味で、私に情を寄せてはくれないのですね」
泣き崩れるメディアを残し、アイゲウスはその場を去る。

アイゲウスとの会話を終えて、メディアは館に戻る。絶望から、取り乱していたメディアを、ヘカベーは部屋で休ませ、事情を聞く。
「誰も彼も酷すぎる。ああ、お可哀そうな奥様」
「あなたの言葉が嬉しい。もう、私のお友達はあなただけ。でも、ごめんなさい。今の私に必要なのは、同じ悲劇に見舞われたことのある相談相手なのです。このコリントスに、メディアという名前の女が他に居るはず。彼女を連れてきてくれないかしら」
「メディアという名前の女性は、他に聞いたことがありませんよ」
「いいえ、居るはずです。彼女も、かつてすべてを奪われたことがある。私は知っているのです。いいから、連れてきなさい」
「居もしない他人に助言を求める、まさに狂った人間の所業だ。しかし、私は奥様の味方です。あなた様が探せと言うのならば、名簿に名前の無い人間だって連れてきますよ」
ヘカベーは部屋を出ていく。メディアは椅子に座って、独り言をつぶやき始める。
「居もしない他人ですって、何を言っているのかしら、あの婆さんは。このコリントスには、もう1人、子供を失ったメディアが居るのよ。ねえ、お母様? お母様、子供の時は分かってあげられなくて、ごめんなさい。長い間、あなたを恨んでおりました。でも、今なら分かる。お母様、あの時、あなたは苦しんでいた。今の私は、まるであなたそのもの。あなたの時代で生き、あなたの時代の男と交わり、そして、──自分を産んだ。そう、私はあなた。今分かりました。時を遡り、母親は娘を産み、娘は父親と交わって母親を産んだのですね」
メディア、弾かれたように椅子から立ち上がり、激しく熱っぽい口調で話し始める。
「ああ、どんな毒薬を使って、あいつらを殺してやろう! できるだけ長く苦しむものが良い。身を引き裂かれるような痛みを、長く味合わせる。そんな毒薬。クレオーン! そして、その娘! 心の無いお前たちに、この胸の苦しみを教えるには、それしかないものね。イアソン、お前は殺さない。お前は自分の野心を満たすものを失って、せいぜい絶望するが良い。──まったく、報復について考えることが、何よりの良薬ね。痛みが身の内から引いていく」
メディア、その場にくずおれて嘆き始める。
「しかし、すべてが終わった後、私は娘を殺してしまう。狂った母親だと、世の人は言うでしょう。しかし、どうか聞いてほしい。娘たちが生まれる前から、私は一緒に居ました。お腹を痛めてあの子たちを産み、人生をかけて育ててきました。娘たちが私のすべて。その彼女たちが裏切りものの父親に笑いかけ、別の女を母と呼ぶ。そして月日が経つごとに私のことは忘れていく。自分はいなくても良かったのだと思わされる。あるいは、父親を喜ばせるため、新しい母親に気に入られるため、娘たちは、彼らの前で私を憎んで見せさえするかもしれない。母親にとって、これ以上の屈辱はない。──だから、私は娘を殺す。既にそう決まっているからではなく、私が殺したいから。できれば2人とも」

正午を過ぎた頃、館から逃げ出した双子を追って、メディアは港にたどり着く。片方は船に乗って逃げたが、もう片方は港に残って、母を持っていたように見える。
「お母様、どうか私を殺して。私、お母様の気持ちが良く分かるの。生きていたって良いことなんて一つもないもの」
メディアは娘の胸に短剣を深々と突き刺す。娘は軽く母の頬に触れ、そのまま息絶える。

 

アテーナイに続く道を、メディアはお伴のヘカベーと馬車で進んでいる。もうすぐ到着というところで、メディアは、急に顔を手で覆って嘆き始める。
「娘が死んだ。私が殺した」
「メディア様、どうか、ご自分をお責めになりませぬよう」
「無理なのよ。日々、私の心を押しつぶす力が強まっていく。私は自分の欲望から娘を殺した。それでも、いくばくかの正義が、私にはあると信じていた。母のいない子供の不幸を思えば、いっそ命を終わらせることが私の仕事だと。しかし、一日ごとに、実はイアソンの言っていたことが正しいと分かってくる。母親など、居なくなったら、父親が新しく用意すれば良い。多くの家の歴史は教えてくれている。義母に育てられた立派な人間もいるし、実母に育てられた悪党もいる──ねえ、ヘカベー。お前はトロイアのヘカベーなのでしょう?」
「どうして、私の名をご存じなのですか?」
「クレオーンが話したのよ。ヘカベー、結局、実母でなければ子供を幸せにできないなんて、無垢な子供に押し付けられた、母親の身勝手にすぎないわ」
「無垢な子供! 押し付けられた母親の身勝手! まあ、哲学者が用いそうなご立派なお言葉ですこと。生涯のすべてを無垢に過ごす人間など、どこにいますか。お嬢様たちだって、いずれ、母親として子供に身勝手を押し付けたことでしょう。男だって変わりません。息子のパリスをご存じでしょう。あれもかつては無垢でした。しかし大人の男になってみれば、他所から女を盗み出してきたことで、結局自分の国を滅ぼしました」
「お前は人の世の正しいあり方について話しているのね。人は無垢である内に死ぬべき」
「いいえ、私はただ世のあり方ついて話しているのです。メディア様は一体、ご自分を何だと考えているのですか? 人間よりも強く、賢いオリュンポスの神々ですら、常に子供の幸福に対して、公明正大という訳ではありません。自分が子供にとっての幸福ではないと感じたら、いつでも子供たちへの愛や執着を捨てられるのであれば、母親の人生とは一体何なのですか? 誰の人生なのですか?」

メディアが、アイゲウスの元を訪れてから数年が経ち、メディアとアイゲウスは夫婦となった。しかし、アテーナイに来てから、メディアは憂鬱な毎日を過ごしている。良い薬は無いかと、この日、メディアは夫を伴って、アテーナイに住む魔女の家を訪ねる。
「子供の頃暮らしたアイアイエー島の館によく似ている。扉を開ければ、今にも母が出てきそう──ああ、そんな。本当にお母様が出てきた」
キルケ―が家の中より現れる。しかし、その姿はメディアが知っているよりも若い。
「ようこそメディア」
「君の母? しかし、それにしては随分と若い方の様だが」とアイゲウス。
「私にも訳が分かりません」
「メディア、島の蛇が教えたでしょう。アイアイエー島は常に時間を遡っているのですよ。幼いあなたと出会うのは──人間の言い方であれば──私の人生のもっと先のことです」
「なんてことなの。また、母に会うことができるなんて。お母様。あの時、何も言わずに島を飛び出してしまって、申し訳ありませんでした」
「良いのです、娘よ。すべて分かっています。コリントスは辛いところでしたね」
「お母様、日々が辛いのです。娘を殺したことが、いつまでも忘れられず、近頃、私は命を絶ちたいとさえ思います」
「馬鹿なことを言わないでくれ」とアイゲウス。
「ああ、可哀そうに。ねえメディア、聞いて。もしも、別の人生を選べるなら、あなたはどうしますか?」
「別の人生?」
「大抵の人間の人生とは1本の紐を手繰っていくだけのものです。しかし、稀に──1000人の人間がいれば、その中の数人は、別の人生の可能性を持って生まれてくるのです。あなたもそうなのですよ、メディア」
「あのコリントスを逃げ出した日以来、初めて私の心に光が差しました。私は過ちを正すことができるのですね」
「別の可能性とは、必ずしもあなたの望む人生を意味しません。結局のところ、紐の先にあるものは既に決まっているのだから」
「実の子を殺した血塗れの人生よりも、悪いものなどありましょうか。さあ、お母様。私に別の人生の見つけ方を教えてください」
「娘の望みを叶えるのは、母の務め。すぐにあなたに魔法をかけましょう。一度魔法にかかれば、あなたはもはや森で薬草を探して迷っている少女ではありません。魔女と同じように、この世の森羅万象にあなたの眼は開かれる。その中から、あなたはもう1つの人生を見つけることができます。しかし、あなたの望むものを見つけたら、いつまでも周りを見渡してはいけませんよ。それは、魔女の生き方です。人間としての人生を望むなら、これまでと同じように、目を伏せ、手元の紐だけ見て生きなければいけません」
アイゲウス、動揺しながら割り込む。
「待ってくれ、キルケ―殿。あなたの提案は、妻の今後を劇的に変えてしまうように聞こえるのだが」
「あなたにとって何かが変わるということはありません。メディアはずっとここに居ますし、あなたが望むなら夫婦を続けることもできます。ただ、これから先、彼女があなたを見ることは無くなるというだけ」
「大きな変化だ。私は彼女を愛している」
「(アイゲウスを憐れむように)不幸な話ですけれど、私があなたを見ていたことはありませんし、これからも無いでしょう」とメディア。
「しかし、あの日、君が私の家に来ると言ったのだぞ」
「ええ、娘たちの為に。もっとも、あなたは私に与えた同情を、彼女らに与えることはありませんでしたけれど」
「(啞然として)そうか、良く分かった。君にとって大事なのは娘だけなのだな。夫は子供の世話をしないと騒ぐ母親がよくいるが、あれは大いに間違っている。女は母親になった途端、子供と自分だけの家庭を作り、夫を遠ざけるのだ。そうなってしまえば、女が頼るのは、もはや夫ではなく、自分の母親だけ。結局、夫を愛することができるのは、家庭に子供を置かない、スパルタ人の女だけなのだ。さあ、行け。どこでも好きな場所に行って、これまで男に酷い目にあわされてきたと言って回ればいい!」
 キルケ―がメディアに魔法をかけると、その瞳は虚ろなものになる。自分の足で歩き、問いかけに返事もするが、彼女はもはや周囲にあるものを何一つとして見ていない。アイゲウスは少し迷ったが、メディアの手を引いて歩き始める。
「娘をどこに連れて行かれるのですか?」
「家に。たとえ彼女が私を愛していなくても、私は彼女を愛している。(不思議そうに)何故、質問をするのですか? あなたには、すべてが分かっているのでしょう」
「ええ、勿論。同じ質問をこれまで何度となくされました。そして、私は常にこう答えます。何故なら、私は『そう』することになっているから」

メディアが過去の自分として暮らし始めてから、10年の月日が流れた。この日は、母メディアがクレオーンより国外追放を命じられた日である。少女メディアは明日のことを考えながら、通りを歩いている。
「ああ、恐ろしい日が来てしまう。この悲劇を避けようと、幼い身ながら色々と策を講じてみたけれど、結局どれも成功しなかった。うん? なに、あの女たちは」
女達が母メディアの国外追放の噂を聞き、そのことについて話し合っている。
「哀れなメディア様。夫の浮気が原因で、国を追い出されるなんて」
「他人事じゃないよ。この中に自分の夫の誠実さを確信している女はいる?」
「いっそ、私は娼婦になりたいよ。そうすれば、偉そうな男を袖にできるし、お金も自分で稼げる。それに、上手く男を骨抜きにすれば、そいつらを通じて、都市の政治にも意見ができる」
「まるで男みたいに?」
「まるで男みたいに!」
「夫、お金、参政権。他に女の不幸はある?」
「それに子供! あれも不幸の一つ。あれやこれや、自分のことなんて忘れて手を尽くしても、結局良いものになるのか、悪いものになるのか分からない」
「あんたなんて、まだ良い方。お金があるんだもの。貧乏人は、まず明日生きることを考えなきゃいけないから、子供は二の次になってしまう。そんな家でも女は子供を産むことを望まれる」
「育児にかけるお金があったとして、子供が良い人間に育ったとして、それでも女は気を休められない。一度、運命の女神の気まぐれがあれば、容易に子供は、母親の指の間をすり抜けていってしまう」
「子供など産むべきではないのかしら」
「それは穢れの極まった言葉よ。絶対に口にしないで」
「どうして言ってはいけないの?」
メディア、話の内容に耐えきれずに女の集まりから遠ざかる。
「まったく聞くに堪えない。しかし、彼女らの言うことも尤もだ。明日、神意があり、私たちに救いの手が差し伸べられたとして、その後は? 魔女の眼など無くとも、人間の眼には十分、先に起こるであろう不幸が見えているじゃない。いかなる運命にあれば、母親は幸福になれるというの?」 

翌日の正午、少女メディアとその片割れは、これまでと変わらず母メディアから追われて港に向かう。その道中。少女メディアは独白する。
「たった一つの救いの手さえも差し伸べられない。ここまで話の筋は何も変わらない。まるで、同じ芝居を見ているよう。ああ、私が自分を殺しにやってくるのが見える」
 双子は港に辿り着くが、そこにも少女メディアの見知った光景しかない。停泊する船の中には、かつて彼女が忍び込んで逃げた奴隷船もある。
「また、あの船に乗って逃げるの? それで何が変わるというの? いっそ、ここで自分に胸を突き刺してもらいたい。だって、不幸に満ちたこの人生と決別できないのなら、私はもう生きていたくはないから。唯一の未練は、私の片割れのこと。愛しい、もう1人の娘」
少女メディアの眼の前に、再びこの世の森羅万象が姿を現す。あらゆるところに目をやり、彼女はこれから自分が成すことを知る。
「ああ、そういうことなのね。──そうよ、お母様は私を殺すんだわ。ねえメディア、あなたは逃げて。私はここに居るわ。だって、お母様が可哀そうだもの。それが、私の──ああ、母よ。ようやく分かりました──私の望みなの」
そこに、以前も見た、フェニキア行きの船で働く奴隷が通りかかる。
「そこの奴隷さん。この娘をさっさと船に積み込んで頂戴。この娘ときたら、西に行ってフェニキア人に売られるのが嫌なんて言って、船から逃げ出してきたのよ」
「お前さんは、この娘の何だね。同じ顔をしておるが」
「私はこの娘の片割れよ。私はアーリア人用の商品だから東に行くの。だから、その娘とはここでお別れ」
奴隷は何も疑うことなく、双子の片割れを船に引っ張っていく。少女メディアは、一人港からかつての自分を乗せた船が出ていくのを見ている。
「私はあなたに生きていてほしい。あなたの人生が不幸と残酷さに満ちていて、いずれ自分の命を投げ出したくなることは分かっている。そして、その時、私が何もしてあげられないことも分かっている。それでも、その日までは、この世に居てほしい。これは私の身勝手。そして、私の愛」
母メディアが港に辿り着く。少女メディアは母親に殺されるため、彼女の元に歩いていく。
「お母様、どうか私を殺して。私、お母様の気持ちが良く分かるの。生きていたって良いことなんて一つもないもの」
母メディアは娘の胸に短剣を深々と突き刺す。少女メディアは、母親の頬にやさしく触れる。
哀れで、優しいお母様。
愛おしい娘。
かけがえのない片割れ。
何より、私自身。
そして、メディアは息絶える。

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