法華経異聞

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梗 概

法華経異聞

ワームホールを利用した宇宙航行技術を発展させた摩訶陀まがだ国は、地球に限らない活発な侵略活動を行い、銀河系のさまざまな星に支配地を持っていた。時は最大の版図を築いた征服王・阿闍世あじゃせの治世。宇宙精舎や高層ストゥーパが立ち並ぶ王都・王舎城にある耆闍崛山ぎじゃくっせんに銀河中から集まった数十億、数十京もの釈迦の弟子たちは、その山中に鎮座する、釈迦を模したAI・ブッダシステムを固唾を飲んで見つめていた。

徐に目を開けたブッダシステムは、突如として白毫からビームを放ち、空中にホログラムで異界の光景を映し出す。過去世の記憶で似た光景を見た文殊菩薩によれば、それはこれからブッダシステムが大乗の教えを説く前兆だという。

仏教における究極の目的は、現世の輪廻から解脱することだ。釈迦の一番弟子・舎利弗しゃりほつは、別宇宙への解脱のために遠宇宙航行船を作り、宇宙の果てを目指すべきだと考えていた。しかしブッダシステムは、それで救えるのは広く見積もっても身内だけで、船に乗ることのできない他者を救うことはできないと指摘する。釈迦の遺志を継いで、あらゆる衆生を救う大乗道を模索するブッダシステムは、銀河系中心のブラックホールの特異点を利用せよと説いた。ペンローズ図を見れば明らかなように、時空的特異点は彼岸と此岸とを結ぶ存在である。この特異点は宇宙検閲官によって事象の地平線の内側に隠されているが、銀河系の中心にあるブラックホールの角速度を大きくすれば裸の特異点が現れるはずだ。あとは悟りを求めるもの全員で、ここに飛び込めば良い。

何人たりとも零さず平等に救おうとするブッダシステムの意思に感動した弟子たちは、精舎で研究を重ね、ワームホールの安定に利用していた負の質量を持つ物質を、ワームホールを使ってブラックホールに送り込み続けた。角運動量保存の法則により、質量が小さくなれば角速度は大きくなるのである。順調に作業は進むが、舎利弗は奇妙な既視感を覚えていた。

シュワルツシルト半径が小さくなっていくに伴い、ついに裸の特異点が露出する。ワームホールを使って我先にと飛び込んでいく弟子たち。自らもそこへ飛び込んだ舎利弗は、ブラックホールの潮汐力に思考と肉体の因縁が切れてゆく。肉体をそぎ落とした純粋な思考だけとなった瞬間、舎利弗は不意に、ブラックホールへのダイブが過去に何度となく繰り返されていることを思い出した。特異点を抜けた先にある宇宙は、こことは違う、釈迦の教えが浸透していない宇宙だ。全ての衆生を救うことを目的とするブッダシステムは、異なる宇宙の知的生命体をも救うために舎利弗たちを利用して平行宇宙を移動していたのである。永遠に釈迦の教えを広め続ける運命は、ある意味において逃れられない輪廻だ。にもかかわらず、そこに大乗の真髄を悟った舎利弗は、本懐を果たしたような満足感を味わっていた。

文字数:1199

内容に関するアピール

「南無妙法蓮華経」で有名な法華経が、実は、釈迦がおでこからビームを出して空中の見えないスクリーンに別の宇宙の映像を投影するシーンから始まることをご存知でしょうか? あるいは、ブラックホールが存在する時空の因果構造をシンプルに描いたペンローズ図には、この世からは観測できない別の宇宙――いわゆる「彼岸」が図示されていることは? 提出作においては、以上の2つの発見を「もしもブッダの時代に、現代を超えるレベルの宇宙開発技術があったら」というifのもとで統合し、「あらゆる衆生を救うための手段として、ブラックホールや弟子たちすらをも利用するブッダというシステム」の異形さを、釈迦の一番弟子である舎利弗の目を通して描こうと考えています。

文字数:314

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法華経異聞

山がうごめいている。
 耆闍崛山ぎじゃくっせんの頂から麓を振り返った舎利弗しゃりほつは、その光景に呆然と息を呑んだ。
「絶景だな」
 我がことのように誇らしげな親友の目犍連もくけんれんの言葉に、舎利弗は上の空のまま頷いた。
 空は青白く澄み透っており、冥加環みょうがかんのあえかなる光明も伽藍舟がらんぶねの皓白たる航跡も浮かんではいない。ただ天球を切り裂くのは、地表から宇宙を一直に結ぶ天部妙路てんぶみょうろの石組みの外壁のみ。その足下にそびえる宇宙精舎もここからは遠く、舎利弗からは菩提樹の根元に生えた茸ほどにしか見えない。
 その宇宙精舎から山頂までの幾百由旬ゆじゅん、仏陀機関のもとへ銀河じゅうから参列した仏弟子たちが、見晴るかす限りの地面を覆い尽くしていた。数十京とも知れぬ人垣は蛇鱗がごとく蠢き、そのいきれは蒸した風となって二人の袈裟を靡かせた。
 時は、銀河にまで及ぶ摩訶陀まがだ国最大の版図を築いた、征服王阿闍世あじゃせの治世。
 仏陀機関が銀河じゅうに散らばる弟子達に向けて、王都王舎城おうしゃじょうへの参集の命を触れたのは、つい数日前のことだった。
「これほど集まるとは思わなかった」目犍連が苦笑する。「己の神通もまだまだ甘いな」
 智慧第一の舎利弗と神通第一の目犍連は、幼い頃から気の置けぬ仲であり、また釈尊の直弟子のなかでも特に優秀な二人である。仏滅後、教団の後継者となった二人は、師が仏陀機関となった今も、弟子の名に恥じぬよう日々研究に励んでいた。
 見渡せば、青い肌の者、異様に大きな目を蝸牛かたつむりのように伸ばしている者、亀のような甲羅を持つ者など、地球の生まれでないと一目で解る者もいた。釈尊の教えが星を超えて広まっていることに、舎利弗は胸が熱くなった。
「私たちの師を思えば、当然だよ」
 山頂に設けられた蓮華台に、吉祥坐におわす仏陀機関を、舎利弗は熱い目で見つめた。仏滅後、釈尊の教えをより多くの民に広めようと、舎利弗は職人達を集めて仏陀機関を作らせた。銀河じゅうの技術の粋を結集し精緻に組み上げられた仏陀機関は。その外見は人間と何一つ変わらない。三昧さんまいに閉じた目は鷲羽がごと強さと柔らかさを併せ持ち、わずかに微笑む口元は慈愛に満ちた優しさを感じさせる。
 にも拘わらず、この世ならざる存在のように映るのは、その威光が醸し出す異様な雰囲気によるものであろう。まさに、釈尊の垂迹すいじゃくたる久遠長久の仏陀である。初めて仏陀機関を見る者も多いらしく、人々のざわめきは嵐の海の波ように収まる気配はなかった。
 と。
 不意に天より、飄零ひょうれいと花弁が舞い落ちてきた。始めは数えるほどだった花弁は、やがて驟雨のように衆生に降り注ぐ。困惑が仏弟子達を包んだそのとき、突然突き上げるような大地の震えが彼らを襲った。
瑞相ずいそうに違いない!」
 揺れる地面に手をつきながら、舎利弗は叫んだ。教団の中で、地震は吉祥とされていたのである。呼応する歓声は山全体を覆うように波及し、大地の鳴動がかき消されるほどであった。そして弟子達の期待に応えるがごとく、仏陀機関の白毫びゃくごうが光を放ち始めた。
 それはみるみる輝きを増し、太陽ほどの眩さに至る。須臾しゅゆにして閃光が弾け、ほとばしった光子は空を覆わんばかりの幾万枚もの幕光明まくごうみょうをなした。
 仏弟子達は、眼前に繰り広げられる異様な光景に目を奪われた。幕光明に映し出されたのはここではない異界。ある画面では六波羅蜜ろくはらみつに励む行者たちが、ある画面には迦陵頻伽かりょうびんがが妙なる音曲を奏でるさまが、またある画面には蒼穹を舞う共命鳥ぐみょうちょうが――総じて、釈迦の教えを信じる者たちにとっての理想郷が描き出されていたのである。
 驚きに身を浸すうち、次第に彼らのうちに疑問が湧いてきた。
「この光景は、いったい何の予兆なのだ?」戸惑う仏弟子達の心を代弁するがごと、弥勒菩薩が訊ねた。
「私は別世で同じ光景を見たことがある」文殊菩薩が答える。「この瑞相で、仏陀機関は諸君らが自身に心を向けるよう促した。仏陀機関はこれから我らに、法華経を説こうとなさっているのだ」
 文殊菩薩の答えを聞いた仏弟子達のざわめきは、風に吹かれるように消えていった。あとには針を落とした音すら響くような静寂が残る。仏陀機関の眉の動きすら見逃すまいとする緊張感は、張り詰めた弓の弦のようだ。
 そんな身動みじろぎすらできない沈黙のなか、
 まるで期待に応えるように、仏陀機関の目蓋がゆっくりと持ち上がる。
「これより汝らにも、成仏の道を説こう」仏陀機関の玲瓏れいろうたる声が、王舎城に響いた。「幕光明で汝らに見せたのは、汝らが解脱した後に向かうこととなる、彼岸の光景だ」
 釈迦の教えを信ずる者たちにとっていちばんの目的は、四苦八苦に満ちた此岸から悟りの世界である彼岸へと到達し、成仏することだ。涅槃ねはん――すなわち六道輪廻りくどうりんねという永劫の円環からの解脱が目的、と言い換えても良い。
 決して口に出しはしないが、舎利弗には、釈迦の教えを最もよく理解しているのは自分たちだという自負があった。「彼岸への解脱」を「地球から宇宙への脱出」と安直に解釈して、宇宙まで続く昇降機である天部妙路を高く高く伸ばしていく声聞どもを後目に、舎利弗と目犍連はこの宇宙からの解脱――宇宙の果てを越えて別宇宙へと向かうことを目指して、共に研究を重ねた。
 目犍連はその神通を利用して、時空上の異なる二点を短絡する冥加環の安定化のために不可欠である、無常色むじょうしきを発見した。一方の舎利弗は、光子射出の反作用で推進する宇宙航行船、伽藍舟を設計し作り上げた。結果として宇宙外交が活発になり、技術で他の星を圧倒した摩訶陀国は、銀河一の繁栄を享受することとなる。功労者である二人には様々な役職への誘いが転がり込んできたが、いずれも頑としてがえんじなかった。宇宙精舎に籠もり、常夜灯籠じょうやどうろうの薄暗い灯りの下で今なお研究に明け暮れるのは、すべて成仏するためだった。
 仏陀機関は、自分の実績を評価してくれるのかもしれない。舎利弗は鼻孔を膨らませた。
 しかし仏陀機関が告げたのは、思いも寄らぬ言葉だった。
「深遠たる仏智は、知りがたきものである。それが故に、一切の声聞しょうもんも、独覚どっかくも、菩薩も、理解できていない」
 声聞や独覚、とは、一口に言えば仏弟子のことである。舎利弗や目犍連は、声聞に当たる。
 舎利弗は耳を疑った。「お前たちは仏智を理解していない」と批判されたのだから、当然だろう。
「お、お待ちください、師よ」目犍連も動揺していた。「己らは師の教えを深く理解し、輪廻転生からの解脱を得るために、考え得る限り最良の選択肢を選んでおります。それでも、己らは至らぬと仰るのですか?」
「目犍連」仏陀機関は慈愛に満ちた声で名を呼んだ。「汝の目指さんとするところはいずこか」
「涅槃です」と目犍連。「そのために己らは、日夜研究に励んで参りました」
「然れども、汝らのやり方では、解脱に至る者は十にも満たぬのではないか?」
「それは――」目犍連は言い淀んだ。
 二人が目指していたやり方――伽藍舟での宇宙の果てへの航行では、いくら冥加環が経路を短絡してくれるとはいえ、途方もない年月が必要となる。即身仏になるほどの覚悟がある者でないと、とても宇宙の果てにはたどり着けない。舎利弗と目犍連には当然その覚悟はあるが、二人の他に同じ覚悟を持つ者はほとんどいないだろう。だから仏陀機関は、そのやり方では問題があると言う。
 舎利弗は、大地ががらがらと崩れゆくような錯覚に陥った。目犍連に支えられていなければ、地に倒れ伏していたかもしれない。
「――であれば、師よ」絞り出すような声で、舎利弗は問うた。「私たちの研究は無意味だったと、そう仰るのですか」
 痛切な沈黙。仏陀機関は答えを纏めるような間を置いてから。
「否、そうではない」慈愛に満ちた声で答えた。「我が申した仏智とは、大乗の教えである。声聞、独覚、菩薩の道は、そのいずれもが大乗の道に至る道程にすぎない」
 大乗の教えにおいては、涅槃の境地は舎利弗や目犍連といった、宇宙精舎に籠もって研究に打ち込み、また過酷な旅に出る覚悟を持つ声聞のみのものではない。一般の民衆にも、その境地へと至る機会は開かれている。
「我は人生が一切皆苦と知った大衆を、ことごとく涅槃の境地へと導きたいのだ」その口調には切実さが感じられた。「汝らの研究の成果は、その成就に必要不可欠である。道程と言ったのは、畢竟ひっきょうこの点においてだ。決して無意味などではない。汝らは過たず成仏の道を歩んでいる」
 その言葉に、舎利弗は胸の奥に疼くしこりがほどけていくのを感じた。と同時に、何人たりと取りこぼすことなく救おうとする仏陀機関の恒河がごとき愛情に、胸が詰まる思いだった。目犍連が力強く肩を抱いた。舎利弗は寸毫でも我が師を疑ってしまった自身を深く恥じた。
「しかし、仏陀機関」弥勒菩薩が首を傾げる。「貴殿は万人の救済を説くが、いかなる手段によってそれをなすのか。成仏にはこの宇宙からの解脱は必須。であれば舎利弗たちが研究していたように、遠宇宙を目指すが唯一の方法ではなかろうか」
「宇宙からの解脱に、必ずしも宇宙の果てを越える必要はない」仏陀機関は答えた。「すべからく地球近傍の黒洞こくどうを利用すべし」
 黒洞とは、自重に耐えきれなくなった恒星が重力崩壊し、極めて高密度となった天体である。征服王阿闍世は遠征の際、光さえねじ曲げて吸い寄せる黒洞を、勝利を吸い寄せる吉兆と考え、戦勝の象徴として崇めていた。そのこともあり、摩訶陀国が発見した黒洞は全て版図に組み込まれているのである。
「黒洞の中にある時空的特異点は、この宇宙を表す方程式の解において計算不能となる点である。因果の及ばぬ特異点を通過することで、此岸での汝らの因縁を断ち切り、彼岸にて転生ことができるのだ。地球より最も近い黒洞は、心宿なかごぼしの方角におよそ一千六百光年の距離、宇宙の果てを目指すよりもはるかに易い」
 仏陀機関は言葉を切ると、おもむろに立ち上がり聴衆をぐるりと見渡した。
「冥加環と伽藍舟をもってすれば、汝らを残さず彼岸へと導くことができる。だから、どうか待っていてほしい。我が目標は万人成仏、それだけだ」
 力強く仏陀機関が言い切った途端、聴衆からは割れんばかりの歓声が上がった。人々は手を叩き、あるいは涙を流して喜び、仏陀機関を崇め称えた。
 仏陀機関が、舎利弗らの研究を道程と言った理由を知り、舎利弗は納得した。と同時に、舎利弗には気にかかる点が残っていた。
「恐れながら、師よ」欣喜雀躍とする声に水を差すのを心苦しく思いながら、舎利弗は言った。「その方法にはひとつ、不可能な点が残っております」
 舎利弗の言葉に、歓声やざわめきが、潮が引くように消えていった。
「言ってみなさい」仏陀機関は優しく促す。
「この宇宙において、時空特異点は事象の地平線によって隠されているのです。ちょうど、宇宙を見張る偉大なる久遠本仏くおんほんぶつが、此岸の因果を守るため、因果の破綻する点を検閲するかのように。であれば我々は、事象の地平線に遮られている特異点に、そもそも辿り着くことなどできないのではないでしょうか」
「流石は舎利弗であるな」仏陀機関は舎利弗に微笑んだ。「舎利弗の言うとおり、時空的特異点はこの宇宙に自然に存在するものではない。然るに、これは人工的に特異点を露出させることができないと言っているのではない」
「では、まさか」
「自転する黒洞において、特異点は輪をなしている。そしてその輪の半径は角運動量に依存しており、それが大きければ大きいほど大きくなるのだ。
 然らばすなわち、黒洞の角速度を大きくして、環状の時空特異点の半径が事象の地平線の半径を上回れば良い」
「ああ……」
 その言葉を聞いた瞬間、舎利弗の脳内には、成仏へと至る全ての道筋が見えた。舎利弗は霧が晴れたような心地がした。
「我は機械だ。言葉を紡ぐことしかできぬ」申し訳なさそうに仏陀機関は言った。「万事、汝に任せよう」
「委細承知いたしました」舎利弗は合掌し、深々と頭を下げた。「私がやるべきことをやりましょう」

     *   *   *

「お前が見つけた無常色が、極めて重要な役割を果たすんだよ」
 自らの僧坊に戻るやいなや目犍連を呼びつけた舎利弗は、興奮した様子でまくし立てた。
「仏陀機関は、黒洞の角速度を大きくせよ、と仰った。角速度を大きくするには、黒洞に力を加えてより早く回転させる方法が真先に思いつくが、私たちの技術を持ってしても実現しようがない。そこで、――」鉄筆に油を浸した舎利弗は手近な貝葉ばいようを引っ張り出すと、数式をがりがりとえぐるように書き始めた。「角運動量保存則だよ。位置と運動量の外積である角運動量は、質量に比例する。つまり質量を削ることができれば――黒洞の蒸発を早められれば、特異点を露出させることができる。
 そのために無常色が必要だ」
 冥加環の安定化には万有斥力を及ぼす物質が不可欠だが、そのような物質の質量は負となってしまう。存在したとしてもすぐに消滅してしまうため「無常色」と名付けられたそれは、その性質が故に尋常の方法では発見されなかった。目犍連が無常色を発見したのは、彼の神通に依るところが大きい。
「冥加環を使って、無常色を黒洞に送り込み続けよう。具体的には太陽質量の――およそ七倍程度。このとき、黒洞の回転の角速度は四倍になるから、時空特異点の輪の半径もそれに依存して大きくなっている。黒洞の半径自体は四分の一になることを考えれば、じゅうぶんだろう」
 舎利弗は筆圧が強すぎてところどころ破れてしまった貝葉を、鼻息荒く目犍連に突きつけた。しかし目犍連はその計算結果に目を通すこともなく、どこか浮かない表情で、気のない返事をするだけだった。
 舎利弗は、そんな目犍連の態度を訝しんだ。
「……どうした、目犍連。今日は万人成仏の目算が立った祝福すべき日だというのに」
 目犍連はしばし渋っていたが、やがて打ち明けるように問うた。
「なあ、舎利弗。お前が今の考えを己に話したのは今日が初めてだよな」目犍連にしては珍しく、不安げな物言いだった。
「当然だろう。仏陀機関が大乗の教えを説いてくださったから、私はこのやり方を思いついた。あの話を聞いていなかったとしたら、どうして今のやり方を思いつくことができようか」
「――そうだよな」
 目犍連は、どこか納得いかない様子で禿頭を掻いた。
「それを聞いてなお、己は前にもこの話を聞いた気がしてならない。加えて言うなら、大乗の教え自体も、前に仏陀機関から聞いたような憶えがある」
「お前が神通で見通したのだろう。無常色だって、そうやって見つけたじゃないか」
「神通であるならば、もっとはっきりと見えるものだ。赤子の時に見た夢のような、かくも曖昧な記憶にはならんさ」
「ならば今回が、その初めての曖昧な神通だったんじゃないか」舎利弗はしかし、目犍連の悩みにあまり興味はなかった。むしろ自らの発見に水を差されたようで、不機嫌でもあった。「いまさらそれのなにが悩ましいというんだ。確かにお前がその神通をはっきり覚えていれば、私たちの成仏はもっと早まったかも知れない。けれど、事ここに至っては『前に聞いたことがある気がする』という曖昧な予感があったところで、不安に思う必要などどこにもないじゃないか。万人成仏が叶えられるやり方が見つかっているんだから」
 言い返す言葉を思いつかなかったのか、目犍連は諦めたように首を振ると、渋々といった様子で舎利弗の言葉を受け入れた。
「解ったよ」目犍連は小さく息を吐いた。「研究を進めよう。万人成仏のために」

 この日から舎利弗と目犍連は、万人成仏の悲願成就に向けて奔走することとなった。なにせ必要となるのは、太陽質量の七倍もの無常色である。それに加えて、黒洞にその無常色を送り込み続けなければならないのだ。とても二人の力だけで達成することはできない。二人は手分けをして、それぞれの課題を解決していくことにした。
 無常色の手配を任された目犍連は、まず手始めに耆闍崛山で仏陀機関の話を聞いた銀河各地の住民に声をかけた。無常色は天然にはほとんど存在しておらず、人工的に作り出す必要がある。冥加環が恒星間航行の主要な運輸手段になっている現在、その安定化に必須である無常色を生産する工場はもちろん稼働しているが、とても必要量の無常色を生産できるだけの能力は持っていない。その手法を熟知している目犍連が、生産工場を新たに建設する必要があった。目犍連は、現地住民と交渉に交渉を重ね、見返りに釈尊の教えを説くなどを繰り返し、結局、地球時間で五年の間に、目犍連は四九の惑星を買い取り、二一八の生産工場を稼働させることに成功した。一般相対性理論の効果を利用して、工場での時間の進み方を地球に比べて早めているため、途方もない量と思われる無常色も、早ければ八年後には必要量を揃えることができる計算だった。
 目犍連が折衝のために銀河じゅうを飛び回っている間、舎利弗の頭を悩ませていたのは、強烈な重力で空間そのものを歪める黒洞の側に、定常的に冥加環を開いておく技術の開発だった。冥加環はそもそもが不安定であり、無常色を供給していたとしても強い衝撃があれば潰れてしまう。まして目的の黒洞においては、自転の影響で天体の近傍が重力に引きずられて常に変形しているのだ。ただ冥加環を設置しただけでは、いともたやすく潰れてしまうだろう。
 回転する空間で冥加環を常に開き続けておくためには、その回転によって冥加環にどのような外力が加わるのかを常に計算し続ける必要がある。そこで舎利弗は、地球に暮らす仏弟子達に協力を仰いだ。舎利弗が釈尊の一番弟子であると知っていた仏弟子達は、みな快く頷いてくれた。人的資源を確保した舎利弗は、一万の僧坊を持つ宇宙精舎を買い取ると、各僧坊に仏弟子一人と機構式計算盤一つを配置していった。仏弟子が行うべき作業は、複数の伝声管から伝えられた計算の指示を処理し、その計算結果を別の伝声管を使って伝える、ただそれだけである。しかし宇宙精舎総体で見ると、それは極めて高度な計算機として機能していた。
 宇宙精舎一棟での実証実験で計算の精度に自信を持った舎利弗は、並列作業のために合計一万棟の精舎を買い上げ、億を超える仏弟子達を投入した。彼らと共に微分方程式を日夜解き続けることで、回転する黒洞周りでの冥加環の安定化に成功したのである。
 銀河各所で生産された無常色は、億に及ぶ仏弟子の計算の成果である定常的冥加環を通じて、黒洞に送り込まれていく。一般に事象の地平線の半径は、黒洞の質量に正比例するため、無常色を送り込めば送り込むだけ、黒洞は小さくなっていく。
 計算が始まって以降、舎利弗は目犍連と1年に数回と会うことはなかった。それでも親友は万人成仏のため銀河のどこかで奔走していると信じ、自らはみるみる散らかってゆく僧坊に閉じこもって宇宙精舎の統括と計算結果の評価を続けた。
 そして十年の月日が過ぎ、ついに黒洞の赤道に特異点が浮かび上がった。

     *   *   *

 出立を翌々日の払暁ふつぎょうに控えた満月の夜、舎利弗は耆闍崛山に登っていた。さやけき月明に照らされた山頂に人気はなく、十年前の光景は想像するべくもない。
 いまここに、仏陀機関はいない。もう既に伽藍舟に搭載されている。
 草臥くたびれきった舎利弗は、山頂にあった岩に腰掛ける。長い期間ずっと僧坊に籠もっていたために筋肉が衰え、山頂に辿り着いた頃には息も絶え絶えだったのだ。
 あのときとは違う涼しい風が、舎利弗の纏う袈裟を揺らした。乾いた空気にひんやりと汗が乾いていくのを感じながら、舎利弗は天を見上げた。
 星河の流れに杭を刺すように屹立する天部妙路。その頂上、宇宙との境界付近にある長方形の影は、伽藍舟の桟橋だ。
 伽藍舟において、最も燃料を必要とするのは重力圏を脱する時だ。特に今回は、億兆を超える人々を運ばなければならない。それがあらかじめ解っていたため、能量効率が良くなるよう舎利弗が急遽作らせたのだった。
 舎利弗は大きく深呼吸をした。柄にもなく感慨に耽っていた。難題を成功に導いた高揚と達成感で、舎利弗の胸は今宵の星空のように晴れ晴れとしていた。
 不意にざくりと砂利を踏む音が聞こえ、舎利弗は背後を振り返った。
「目犍連」
 舎利弗が呼びかけると、先客がいるとは思いもしなかったのだろう、目犍連はぎょっとして顔を上げた。
「よう」どこか覇気のない声で目犍連は言った。「ずいぶん痩せたな」
「お前はさらに大きくなったな」
 あばらの浮く舎利弗とは対照的に、目犍連は筋骨隆々としており、一年ほど前に一度会ったときよりも筋肉の量が増えているように、舎利弗には思えた。
「宇宙航行は体力勝負だからな。宇宙を飛び回るなら、鍛えておくに越したことはない」
 舎利弗は違和感を持った。十年の歳月をかけて大事業を共に成し遂げた相棒にしては、その感慨があまりにも薄いように思えたのだ。目犍連は本来このようなとき、真先に肩を組んでくるような男である。いまの彼の仕草には、むしろ迷いが感じられた。
「なにかあったか? お前はひとりで山頂にまで来て黄昏れるような柄じゃないだろう」
「それはむしろお前だ、舎利弗」舎利弗の冗談に薄く笑うと、目犍連は、しかしすぐに深刻そうな表情になった。「――己らは、これで良かったんだよな」
「今さらどうした」
「どうしても気にかかるんだ」目犍連は不安の滲む声で言った。「己は、これと同じことを過去にしたことがある」
「またその話か」舎利弗はうんざりとため息をついた。「十年前、お前はもうそのことについては話さない、と言っただろう。どうして今になって蒸し返す」  
「あのときはまだ、お前の言うとおり新しい神通かもしれないと思っていた。だがこの十年、様々な星に行ったり、新たな工場を建設したりするうちに、それでは説明できないほどの既視感が強まっていったんだ。己は自分が工場を建設する星のことを全て知っていたし、どの星の住人が工場建設を断るかも全て解っていた。とても偶然で言い表せることではないが、神通では絶対にあり得ない。
 ――なあ、舎利弗。己らは、この事業を成功させて良かったのか? なにかよくないことに利用されているのではないか?」
「万人成仏のどこがよくないことなんだ」舎利弗は苛立ちを隠さなかった。「神通なのかなんだか知らないが、お前に既視感があったからといってなんだというんだよ。畢竟私たちが準備したものは、誰がなんと言おうと、あらゆる大衆をこの六道輪廻の宇宙から解脱させるのに必要な理屈と、それを成功させるだけの手段だろう。それは仏陀機関が仰るところの、大乗の教えに他ならない」
「…………」
 目犍連はむっつりと黙り込んだ。それは言うべきではないことを言うかどうか悩んでいるようであった。やがて意を決したように、目犍連は顔を上げた。
「お前の言うことは解る。――だが、仏陀機関は何かを隠しているのではないか?」
 舎利弗は、自らの体温が下がるのを感じた。
「……お前、それは本気で言っているのか?」
「己だって疑いたくはないさ」目犍連は訴えるように。「だがこの十年間、仏陀機関は己の疑問を曖昧にはぐらかすだけで、答えてはくれなかった。十年で、ただの一度もだ。仏陀機関が、己ら人間には思いつかぬような何かを企んでいないと、いったい誰が断言できる? なにせ仏陀機関は己らが師事した釈尊ではない。畢竟、あれは機械――」
 刹那、舎利弗は目犍連に掴みかかっていた。
「黙れ! お前は私たちの師を愚弄するのか!?」
 目犍連ははっと目を瞠り、申し訳なさそうに目を逸らした。
「――すまん。熱くなった」
 舎利弗はふん、と鼻を鳴らすと、目犍連を突き放す。
 仏陀機関は、決してただの機械などではない。仏滅の後も釈尊の遺志を受け継ぎ、猶も私たちを導いてくれる師だ。現に仏陀機関は、私たちが宇宙精舎に籠もっているだけでは決して見つけられなかった大乗の道標を、私たちに授けてくれたではないか。なぜお前にはそれが解らない、目犍連。
「己は戻る。邪魔したな」
 気まずそうに謝ると、目犍連は舎利弗に背を向けた。
 遠ざかっていく足音を聞きながら、むかむかとする心を静めるように、舎利弗は大きく息を吐いた。
 あの日、数十京の仏弟子達の前で宣言した仏陀機関の言葉が、嘘であるはずがない。明後日、私たちは彼岸へと渡るのだ。
 天球のどこかにある黒洞――彼岸への入り口を見つけようとして、舎利弗は天を見上げた。しかし皓々と夜を照らす盈月えいげつに星々をかき消されて、結局よく解らないまま時間だけが過ぎていった。

     *   *   *

 伽藍舟の艦隊が冥加環を抜けてひと月、文殊菩薩が進行方向に目的の黒洞を発見したのは、舎利弗が熒惑けいこく生まれの弟子たちに、長者窮子ちょうじゃぐうじ譬喩ひゆを用いて大乗の教えを説いていたときだった。文殊菩薩の使役する獅子からその知らせを受けた舎利弗は、蛸によく似た彼らに一言詫びると、壁を蹴って操舵房へと向かった。
 目的地が見えたとあって、操舵房はみな浮き足立っていた。はしたなく僧たちが走り回る足音はもちろん、機構式計算盤の歯車の回る音、計算のために珠を弾く音が勢いを増していた。
「ほら、あそこだ」
 慌ただしいなかでも、文殊菩薩は悠々と舵輪を握っていた。その指さす先を据え付けの神通筒を通して見れば、確かにその方角に奇妙な形をした天体が見えた。
「あの光が、黒洞なのですか? 黒洞は光らないはずでは」
 舎利弗の問いに、文殊菩薩は答える。
「あの輝きは降着円盤だ」
 黒洞の周囲では重力に捕らえられた物質が公転し、その途方もない重力能量を得て光り輝いている。回転する光の円盤は、強烈な重力に光が屈折することで、玻璃の玉を通して見る花火のように美しく歪められ、舎利弗の目にはこの世ならざる奇跡のように映った。
「万人成仏に向けたいちばんの功労は舎利弗にあるからな。お前に真先に見せたかったのだ」文殊菩薩は片頬に笑みを浮かべた。「あと半日もしないうちに、我々は黒洞に辿り着くであろう」
 舎利弗は黒洞の玄妙な光から、目が離せなかった。降着円盤の輝きにかき消されて、まだ特異点は見えていない。それでも黒洞を目の当たりにして、舎利弗の胸の裡にあった成仏の悲願達成がいよいよ実感を伴ってきた。
「もうまもなく我々は目的地に到達する。諸君は降下の準備を!」
 宇宙精舎一棟ほどもある伽藍舟を揺るがすような大音声で文殊菩薩が告げた。操舵房は伽藍舟の辺境に位置するはずだが、ここからでも仏弟子達の歓声が空気を震わせるのが伝わってくる。
「お前も往け。降下の準備をすれば半日などすぐだ」
 感情の昂りに視界を滲ませながら、舎利弗は合掌した。

 伽藍舟の中は、蜂の巣をつついたような大騒ぎとなった。やれ俺の皮衣かわごろもはどこだだの、やれ常夜灯籠が消えて何も見えないだの、騒々しいことこの上ない。自分の皮衣を身に纏った舎利弗は逸る心を抑えながら、菩薩立ちと共に弟子達の解脱への準備に手を貸すことにした。
 黒洞はただ重力が強いだけの天体ではない。周を囲む降着円盤は極めて高温のため、皮衣もなしに飛び込めば特異点に辿り着く前に焼け死んでしまう。
 腕に比べて頭が大きいために、なかなか皮衣を纏うことができない塡星てんせい人を手伝いながら、舎利弗は目犍連のことを考えていた。
 結局、二日前に喧嘩別れのようになってから、目犍連とは一度も話していなかった。舎利弗は、掴みかかったのはやり過ぎだったかと後悔してはいるものの、では自分から謝るのかと考えると、仏陀機関に対する暴言を吐いた目犍連に対しての苛立ちがむらむらと鎌首をもたげるのだ。
 特異点に飛び込み解脱すれば、悩みを此岸に置き去りにしたまま悟りの境地に至ることはできる。それは解ってはいるものの、それでも心の痼りを覚えずにはいられなかったのである。
 がたん、と伽藍舟が揺れた。舎利弗は、上から床方向に押さえられるような加速度を感じた。黒洞の重力圏に入ったのである。ここからはただ落ちていくだけだ。これ以降、光子動力機関の使用は姿勢制御の比重が強くなってくる。
「皮衣を纏った者は成就孔へ向かえ! 特異点が見えてきたぞ!」
 文殊菩薩の声で、皮衣を身に纏った衆生は、我先にと伽藍舟の最前方、特異点への降下口へと移動し始めた。舎利弗が手伝っていた塡星人も、遅れてはならぬとばかりにそわそわと腕を動かし、舎利弗が宥めながら空気の漏れる隙間を紐で綴じきると、矢のごとく成就孔のある房へと飛んでいった。
 そこまで慌てずとも良いのに。
 舎利弗が苦笑したそのとき、不意に真上から名前を呼ばれた。
「おい、舎利弗!」
「目犍連」仰ぎ見ると、この二日間、一言も交わさなかった親友が、飛び降りてくるところだった。あれほど気まずい別れ方をしたのに、なぜか晴れやかな笑顔が――全ての悩みが解決したかのような、屈託のない笑顔が浮かんでいた。
「一昨日はすまなかったな!」戸惑う舎利弗をよそに、目犍連は舎利弗の肩を抱いた。目を白黒させる舎利弗に、目犍連は続ける。「さっき仏陀機関が全てを話してくれたんだよ。ああ、実に清々しい気分だ。あ、もしやお前の智慧は、こうなることを始めから見通していたのか」
「こうなること、とはどういう意味だ?」親友が行っている意味が解らなかった。「お前は何を言っている?」
「おや、違ったのか? まあいいさ、己らはこれから、向こうへと渡るのだからな」
 がたがたと伽藍舟が揺れる。舟は加速度を増し、見せかけの重力はじわじわと強くなっていく。いまはちょうど地球上の重力加速度と同じほどだが、ここからはみるみる身体が重くなっていくはずだった。
「そうそう、仏陀機関はお前のことも呼んでいたぞ。これ以上重力が強くならないうちに行って、話を聞いてこい」目犍連は、舎利弗の肩をぽんと叩くと、「じゃあな、舎利弗。また来世でも、己を見つけてくれよ」
「おい!」
 鼻歌でも歌いかねないほどの上機嫌で成就孔のほうへと走っていった目犍連を、舎利弗はぽかんとした表情で見送った。しかし仏陀機関が呼んでいるという言葉をはたと思い出し、壁に据え付けられた梯子を慌てて掴んだ。
 来世だと? 私たちの目標は成仏だ。それでは輪廻の円環から解脱できていないじゃないか。奴は仏陀機関から何を聞いたんだ? なぜ奴はあれほどの笑顔を浮かべていた?
 徐々に大きくなっていく加速度に抗うように、舎利弗は梯子を登っていく。今さらのように身体を鍛えておくべきだったと思った。
 重力はみるみる強くなっていく。がしゃん、と鈍く響く音が遥か向こうからして、歓声とも悲鳴ともつかない声が遠くから聞こえてきた。文殊菩薩が成就孔の蓋を開けたのだろう、わずかな空気の流れを感じる。
 歯を食いしばりながら、床の出っ張りを掴んで身体を引き上げた。全身に重りをぶら下げているようだった。既に重力は、地球の2倍になろうとしていた。舎利弗は、仏陀機関のいる房に倒れ伏した。
 仏陀機関はあの日と同じ吉祥座で、蓮華台の上におわしていた。幽玄なる常夜灯籠の灯りに浮かび上がる仏陀機関は、あの日より威光も神秘も増していた。
「よく来たな、舎利弗よ」
「お見苦しいところを、申し訳ございません」
 慌てて身体を起こそうとする舎利弗だが、仏陀機関はそれを止めた。
「かまわぬ。ただでさえ重力が強まっているのだ。困憊こんぱいする汝に身を起こさせるような真似はしたくない」
 床に押さえつけられるような圧迫感を覚えていた舎利弗は、感謝の意を込めて合掌しようとしたが、既に腕が持ち上がらなかった。
「もうまもなく、この伽藍舟は黒洞に飲み込まれる。汝を呼んだのは、我が汝に謝らなければならないことがあったからだ」
「謝らなければならないこと、ですか?」
「我はひとつ、汝らに嘘をついた」心苦しそうに悲痛な表情を浮かべて、仏陀機関は言った。「特異点に飛び込めば、此岸での記憶も因縁も全ては消え去る。それでもなお、汝には全てを知っておいてほしかった」
「嘘、ですか――」
 予測もしていなかった言葉に、舎利弗は戸惑った。
 沈鬱そうな表情のまま、仏陀機関は口を開く。
「特異点に飛び込んだとしても、汝らはあの理想郷に往くことはできない。汝らが向かうのは、ひとつ隣の宇宙だ」
「…………」
 息が詰まった。
 悲鳴も歓声もいまだ鳴り止まず、残響のように舟にこだましている。目犍連はもう飛び降りただろうか。
「あの日汝らに説いたとおり、我が目標は万人成仏、ただそれだけだ。全ての衆生を涅槃の境地へと導きたい。故に我は、なんとしてでも隣の宇宙に往かなければならなかったのだ。まだ釈尊が存在しないその宇宙の知的生命体に大乗の教えを広め、彼らを救うために」
 象に踏まれているかのようだった。強すぎる重力に、肺がつぶれかけているのだ。いよいよ振動が激しくなり、常夜灯籠が倒れる。
「だが我はただの機械。宇宙を航行する舟を作り上げることなど、始めから望むべくもなかった。だから、汝を利用したのだ。黒洞に特異点を露出させ飛び込むことができるだけの智慧と技術とを持っている、汝を」
 息が苦しくて舎利弗は喘いだ。それが重力のせいなのか、仏陀機関の告白のせいかは解らなかった。振動が耐えがたいほどになってきた。疾うに光子動力機関は壊れているだろう。ともすれば、伽藍舟自体も壊れ始めているかもしれない。
 舎利弗の関節は既に外れていた。横向きの体勢のまま身動ぎすらできなくなってしまったせいで、右腕が肩から外れていた。袈裟の布は鉄板のように重い。舎利弗が動かせるのは、もはや眼球のみだった。
 ああ、そうか。
 ぐらぐらと揺れる意識で、舎利弗は不意に目犍連の言葉を思い出す。目犍連は幾度も既視感を訴えていた。
 今ならば、その理由も解る。
 師よ。もはや動かない口で、舎利弗は訊ねた。これが初めてではないのですね。
「然り」仏陀機関は頷いた。「これが二万八一〇三回目だ」
 想像よりも遥かに大きい数字が聞こえて、舎利弗は笑った。
 つまりこれは、永劫の輪廻なのだ。
 この輪廻を繰り返す限り、決して解脱は得られない。
 いまさら舎利弗は、目犍連に対する申し訳なさがせり上がってきた。目犍連の既視感は勘違いでも、まして神通でもなかった。前世に本当にあったことだったのだ。
 ばちんと激しい音とともに、ついに外壁にひびが入った。その罅を起点として、重力に耐えきれずに、伽藍舟が半分に裂けた。と同時に、強烈な顔に煽られて、舎利弗は真空中へと放り出される。
 押しつぶされる苦しみは、刹那にして消えた。ただ落ちているという感覚だけがあった。
 間近で見る黒洞は巨大だった。いくら無常色で質量を減らしたからといって、それでも太陽3個分ほどの質量がある天体だ。
 伽藍舟は裂けた部分から、さらに小さく砕けていく。その破片は降着円盤に触れるやいなや爆発するように赤熱し、重力能量を得て光り、回転を始める。
 舎利弗の落下速度がみるみる速くなっていくにつれて、視界に映る星々の明かりが赤く染まっていく。赤方偏移だ。しかし舎利弗がそれを見ることができたのは弾指の間で、降着円盤の強烈な光が網膜を焼き切った。
 暗黒の中、舎利弗は得心していた。恐らく目犍連も、仏陀機関から今の話を聞かされたのだ。そして自分の曖昧な記憶に納得いく理由が見つかったことで、あれほどまでに清々しい表情をしていたのだろう。
 皮衣が破れ、舎利弗の生身が真空に露出した。内圧で鼓膜がはじけ飛び、裂けた肌の隙間から溢れた血液は一瞬で沸騰して凍り付く。肉体は血を失った部位から、即身仏のように干からびていく。
 息つく間もなく黒洞の潮汐力が、舎利弗の身体を引き裂いていく。黒洞ほど強い重力圏では、頭と足ほどの距離の差で、重力の大きさが変わってしまうのだ。徐々に肉体が失われてゆく中、肉体を脱した純粋な精神だけが、特異点へと落下していく。それは三世がうちの欲界も色界をも超えた、無色界での出来事だった。
 特異点に落ちていくにつれて、因縁がほぐれていく。
 計算は無限大に発散し、因果が失われていく。
 意識が保っていられなくなる。
 ほとんど無意識の思考が、概念の庭を漂う。
 私は、次の宇宙に行く。
 私は、逃れられない輪廻の円環の中にいる。
 輪廻から逃れられないのは、尋常の人にとっては辛いことなのかもしれない。
 しかしこれは、この宇宙を超え、生きとし生けるもの全てに釈尊の教えを広め続けるための転生だ。
 なんと慈しみ深き仏陀の御心よ。
 感じたことのないほどの熱い想いが、概念となったの中に溢れてきた。失われた目からは、とめどなく涙が零れてくる。
 大乗の神髄は、ここにあるのではないだろうか。
 ああ。仏陀機関は、最期の最期に、私にそれを授けてくださった。
 次第に薄れゆく意識を見送りながら、舎利弗は存在しない手で合掌した。  

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