ファンシークロスとこの部屋の僕

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梗 概

ファンシークロスとこの部屋の僕

僕には大量の時計に埋もれて目覚める朝がある。このホコリ程度の存在感しかない時計が何なのかについて、僕はそのまま時間の塊だったりするのではと考えている。僕の斜め上のフロアで暮らしているマキさんも同じようなことを考えているらしく、翌朝のメイク時間を少しでも捻出しようと、化粧台の周りに大量に時計を設置したりする。けれどもこの時計というものは、マキさんのフロアをやすやすと通り抜け、なぜか真下ではなく斜め下の僕のベッドへとやって来る。口論する僕とマキさんに、家主は「ただ重力に従いまっすぐ落ちるだけならば何も生まれなかった」なんて含みある言葉を意味ありげに言うばかりで、いけ好かない。

いつの時点で誰が言い出したものか、この部屋には、晩ごはんは皆で揃って食べましょうというルールがある。皆とは、この広がり続ける部屋に生成される皆だ。この部屋には勝手に伸びる食卓があり増える椅子があるので、それを見て、今日もまた遠くに生成された新人が、晩ごはんを目指してとんでもない速さで向かって来ているのだなと思う。
 そんな折、マキさんから晩ごはんの時間が遅くなってきているという指摘があった。そうだとしても知覚できるはずがないと家主はにべもないが、己の腹時計に絶対の自信を持つマキさんは譲らない。「だって、私にとって今週4回目の晩ごはんが、その人にとってはその週最初の晩ごはんってことが起こり得るわけでしょ。私の1から3回目のご飯はどこにいったのよ」
 これ以上部屋が広がらないようアイデアを出し合ううち、新入りの言葉から、遥か彼方、部屋の果てにあるはずの壁紙には、こことは違い、奇妙な模様が広がっていることを知る。家主に尋ねると、それは落書きなのだと言う。僕とマキさんは、目に見えないイタズラ者が壁を好き勝手に塗りつぶしていて、その力に負けた壁が後退している、なんてことを真面目に話し合った。ものすごい速さで遠ざかっている壁に追いつくことなんて出来るわけないと消極的な僕と相変わらず飄々とした態度を崩さない家主を置いて、マキさんは旅立ってしまった。

このお話は僕が旅立ったマキさんの姿を想像しているところで終わる。マキさんは壁に追いつくことができず、二度と戻っては来ないかもしれない。それでも僕は、マキさんが壁に向かってこんな言葉を浴びせているところを想像している。「素敵ね、みるみる美しくなっていく」この状況を整っていくと記述する生き物がいることを理解した落書きは、もしかして、広がった部屋を縮め始めたりするかもしれない。僕やマキさんは消えるのかもしれない。
 何かを察したのか家主がふと顔を上げて、この部屋の唯一の玄関を示し「この扉は開けることができる」と告げる。
 たとえ壁を停止させたり、乗り越えたり打ち破ったりできず思い通りにいかなくても、いざとなればどうにかして生きていく。僕たちは皆、そういう風にできている。

文字数:1197

内容に関するアピール

自走し増殖する落書きによって容量が増やされ、広がり続けている部屋が舞台です。
 時間が連続したものではなく物質のようなものとして存在する話を書きたい。でも、確かに時間は大まかには未来に向かって流れている。そこで、細かい所では時間に自由にしてもらっても全体的には一方向に進んでいくよう、すべてを乗せたベルトコンベアが存在すればいいと考えた。そのベルトコンベアには時間だけが干渉でき、その動きを阻害する。重力の強いところや動きの速いものには時間が集まってきて、ベルトコンベアの進みを遅くしてしまう。大きく見ると一方向に進んでいるものといえば、宇宙の膨張とエントロピー増大の法則なので、増殖する落書きをエントロピーに、遠ざかる壁を宇宙の果てに見立てることで、時間が物質のように存在している部屋を、私たちの日常とそんなにかけ離れることなく成立させたかった。
 ラストは一歩を踏み出した自分へのエールです。

文字数:396

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ファンシークロスとこの部屋の僕

見えたと思った何かは、それを自覚した時にはもう遥か後方へと飛び去っていた。同じような光が、消えたと思ってはまた現れる。遠くに密集して見えた光が、徐々にその間隔を開きながら瞬く。それでも光はまた似たような光景を遠景に控えさせ、それをひたすらに後方へと流し続けていた。
 僕らはどこまで行けるだろうか。
「ごめんね、僕まで乗せてもらって」
「いやいや。マキさんが戻らないと、この部屋の晩ごはんが始まらないですからね」
「そんな理由なの」
「当たり前じゃないですか。この部屋ではどんな理屈より、それこそ時間より、何なら速さの限界の次くらいには、晩ごはんが優先されるんですから」
 いたずらっぽく笑ってみせた彼に、そんなもんかねと呟きながら、僕はあの日ただ見送ったマキさんの背中を思い返している。その後悔は、この光たちのように現れては消えてを繰り返し、僕の胸をそっと撫でていく。

 

寝返りをうった腕に柔らかい何かが触れた。何かがと言ったって、それはまだ覚醒しきっていない頭にとってでさえ決まりきっている。時計だ。触ると大して力を入れずともその指がゆっくりと埋まるほどの固さを持ち、室温と同じ程度にあたたかいそれは、今のこの真夏の朝にベッドへ降ってくるものとしては不快でしかない。人肌に温まった氷枕が体に纏わりついているようなものだ。せめて多少なりとも冷たさを感じさせてくれるものなら、歓迎できたかもしれないのに。
 僕は寝起きの唸り声をエンジンにして体をひねり、腕に触れた時計を払いのけた。もうひとつ、足先に触れているものをベッドからできるだけ離れるように力いっぱい蹴り出す。アナログだかデジタルだかは知らないが、どれもこれも形が違うばかりで感触は似たようなものだ。眉の上を掻いたその手で、うすら開けた視界の隅でゆっくりと枕に沈みかけているそれを引っこ抜き、クローゼットの隣をめがけて投げつける。どうやらまだまだあるらしい。げんなりとしながら、首元にも潜んでいたそれを掴み、眼前に持ってきた。見た目は四角い小ぶりの置時計だ。体に乗っていても特に重さなどはまったく感じないのだが、ただただ不快感だけがある。これらの時計は、人の体を通り抜けたりはしないくせに、それ以外のものに対しては重力にのみ従い、様々なものをゆっくりと通り抜けて、僕のベッドへとやってくるのだ。
 もちろんこの時計は、僕のベッドにだけ落ちて来るというものではない。この部屋の一階部分、つまり家主や僕の暮らしているこのフローリングには、そこここに転がっている。どうやらこの地が時計の終着点らしく、ここより下には行ってくれない。だから僕のベッドの下には、今日もうんざりするほど時計が溜まっているに違いない。

僕にはこんな風に、大量の時計に埋もれて目覚める朝がある。原因ははっきりとしている。僕の斜め上にあるロフトで暮らしているマキさんだ。マキさんは時折、自身の化粧台に大量の時計を配置して寝るという暴挙に出るのだ。人の手を離れた時計は、じわじわと沈んで下へ下へと落ちていくため、翌朝には僕のベッドへとたどり着いているというわけだ。重力に従うならば、斜め下の僕の所へ来ることはないと思うのだけれど、何故だか真下の家主のところへは行かず、必ず僕のところへと落ちて来る。
 この、普段はホコリ程度の存在感しかない時計が何なのかについて、僕らは意見を交わしたことはない。それでも僕は、マキさんは僕と同じようなことを考えているのだと確信している。時間だ。この時計はおそらく、時間の塊なのだ。マキさんもきっと、そう睨んで、時間をかけたい物事に対して時計を利用しようとしているのだろう。けれど時計は、マキさんがいくら言い聞かせようと重力に従順なのだ。半分くらいは本当の親切心から、いくら事前に置いておいても無駄なのだと幾度となく言っているのだけれど、マキさんはまったく聞き耳を持ってくれない。
 僕はベッドに寝っ転がったまま、マキさんのロフトだと見当をつけている辺りを見上げて睨みつけた。マキさんの姿が見えないことはわかっている。目視できるのは、せいぜいマキさんのフロアの手すりか何からしきものの、ほんの一部だ。視線をおろし、僕の隣人がいるはずの場所をすっと目を凝らして見てみた。ぼんやりとした明かり以外、何も見えない。そんなに離れているわけではないはずなのに、どのような理屈か、よほどうまい具合に家具が配置されてあるのか、この部屋は、随分とプライバシーに配慮されている。
 普段は意識することもないのだが、この広大な部屋の大部分はいつでも暗い。住民はたくさんいるはずだと、ところどころに小さく見える明かりをぼんやりと数えてみても、夕食時に食堂に集まる人数より明らかに少ない。まあもちろん、揃いも揃って消灯している可能性はある。目を凝らしているうちに、いくつか小さな赤い光を発見した。赤い照明や赤いカーテンを好んで使っているんだろうか。昨夜の晩ごはんを食べたときの面々を思い浮かべる。誰かはわからないが、きっと変わり者たちに違いない。

僕はやっとのことで体を起こした。うまいこと腹の上にでもあったのか、どこかに引っかかっていたらしい時計が転がり床に落下する。僕は重たい足を引きずり、ほうきを手に取った。勢いよくベッドの下に突っ込み、床に積もった時計を掃き出す。いつものように十分にベッドから離れたところまで持っていくと、すばやく掃き溜めに合流させた。僕はその不気味な掃き溜めを、あまり直視しないようにしている。
 軽く身なりを整えて、僕は食堂に向かうことにした。どうせ元凶であるマキさんは呑気に、家主と一緒にコーヒーでも嗜まれているのに違いない。何度目かもわからないが、意味がないとわかっていても、文句を言ってやらないと気が済まない。ありがたいことに、僕は食堂まで歩きで行くことができる。そもそも気軽に食堂に顔を出すのは、家主を覗いては僕とマキさんくらいのもので、あとの人間とは夕食の時くらいでしか会わない。それは心理的な距離のせいもあるだろうけれど、大部分はそもそもの物理的な距離のせいだと思う。

この部屋は、広がり続けている。なぜわかるのかって、理由は今から向かう食堂にある。この食卓は、もとは家主のダイニングテーブルだった。僕とマキさんのどちらが先だったのかはわからない。僕らはふとこの部屋に、すべてが揃った状態で生成され、そしてこの食卓へと向かってくる。ウミガメが卵から孵った途端に海に向かって走っていくようなものだろうか。
 僕らは三人で食事をした。四角のテーブルだったのに、椅子が三つだけであることを不思議に思ったのを覚えている。しばらくすると、ある日突然そのダイニングテーブルには椅子が増え、台は伸びまた椅子も増え、最終的には六人掛けになった。四人や六人で食事をしていた期間はそう長くはなく、そこからは怒涛のスピードで増え続けた。気が付けばテーブルは十人掛けになっており、十六人掛けになり、二十八人掛けになった。
 今思えば、この部屋に僕ら三人だった期間はかなり長く、だから僕にとってはいつまでも家主とマキさん以外は新参者だ。そういうわけで僕は、食卓が伸びれば伸びるほど、またこの部屋の住民が増えたのだなと思うし、ここまでやって来るのはさぞかし大変だろうなと、まだ顔も知らない新人に対して少しだけ心苦しいような気持ちになるのだ。

案の定、長ったらしい食卓の端の定位置に二人は腰かけていた。今ではもう寝起きに感じた苛立ちはおさまっているけれど、別に怒っていると思われたっていい。僕はドシドシと足音を立てながら、家主とマキさんに近づいて行った。
「マキさん、いいかげん夜中のうちに大量の時計を置くの、やめてもらえませんか。どうせ朝には僕のベッドに山盛りになっているんですから。朝のメイク時間を確保したいっていうのはわかるけど、ほとんどが無駄になるの、わかりきってるじゃないですか」
「朝の数分がどれほど貴重だと思ってんの。ほんの少しでも残ってくれる可能性があるなら、設置する意味はあるんだよ」
 何度目かの口論は今まで通りの平行線で、マキさんはこれからも大量の時計を置くだろうし、僕はこれから先も幾度となく文句を言うんだろう。お互いにそれがわかっている僕らは、さほどヒートアップすることもなくコミュニケーションのひとつとしてこのやり取りを行っている。家主は何も言わない。これもいつも通りだ。僕とマキさんは暇さえあればここに来てお喋りをしているのだが、家主は新聞や本を読みながらたまに視線や、ごくたまに言葉を寄越すくらいで、基本的には僕らがいようがいまいが気にした様子はない。
「それにしても、なんでアンタのとこに行くんだろうね。まっすぐ落ちてくれれば、家主のとこに行くはずなのに。そっちは大して気にしないでしょ?こーんなに文句言われなくて済む」
 マキさんは厭味ったらしい口調で、わざとらしく口元を歪めてみせた。家主はちらりと目線だけを寄越し僕を見つめたあと、マキさんを見て少しだけ微笑む。
「ただ重力に従いまっすぐ落ちるばかりならば、何も生まれなかった」
 家主はそれだけを言うと、ゆっくりとコーヒーカップを持ち上げた。
 一体なにが生まれたと言いたいのか。
 僕がいくら睨みつけても、家主は素知らぬ顔でカップを置き、手にした文庫本のページを捲るばかりだった。

 

ところで、いつの時点で誰が言い出したものか、この部屋には、晩ごはんはみんな揃って食べましょうというルールがある。皆というのは、この広がり続ける部屋に暮らす全員のことだ。これは結構とんでもないことで、なぜなら今この瞬間も、あの食卓には新しい席が準備され続けているのかもしれないからだ。それはつまり、昨日はいなかった誰とも知れない、ここから最も遠い住民が、今日の夕食時には着席している必要があるということなのだ。歩いて来られる人ばかりでは当然なく、住民は自分のところから食堂へとつながるエレベーターやら、レールを走る高速の何かやら、各々そんなものに好き勝手に乗ってやって来る。家主は、それについても何を言うでもない。そんな乗り物があってでさえ、はるか上方や遠方からやってくる人たちの多くは、晩ごはんを食べて部屋に戻るなりすぐにこちらへ向かうという生活をしているらしい。皆そろって若々しい。どれだけ体力があるんだろう。僕なんか、朝起きて時計を掃くという動きをするだけで心底うんざりとしてしまうのに。
 そういうわけで、遠くに生成された住民は、晩ごはんを目指してとんでもない速さで移動する生活を送ることを余儀なくされているのだ。
 食卓の席数を数えることはとっくの昔に諦めてしまったが、今日も昨日より増えていることは間違いないだろう。僕ら三人は夕食の時間が来るまで、いつものようにのんびりと過ごしていた。
 ぼちぼち席が埋まり始めた頃、男が一人、食堂へとやって来た。見覚えがないので、ずいぶん遠くから来た人なのかもしれない。その体を見てぎょっとする。草むらの中をいいだけ遊び回ってきた子供が得体のしれない植物の種をたくさん服にひっつけているような見た目で、その男には、無数の時計が纏わりついていたのだ。男が立ち止まると、時計はポロポロと地面に落ちていき、ちょっとした山になった。
「わあちょっと!どうすんのこれ!」
 マキさんが笑いながら立ち上がった。
「すみません、移動しているうちにどんどん寄ってきて……どれだけ剥がそうとしても取れなかったんですが、止まればよかったんですね」
 男は、やはり今日初めてここへ来たらしい。そうなると、現時点ではもっとも遠いところから来たことになる。かなり速い乗り物でここまで来たらしいが、時計が纏わりついて来る体質なんて、勝手ながらちょっと親近感がわいてしまう。
「お兄ちゃん、一番はやいの?」
 マキさんが何かと可愛がっている子供が、席を立ってこちらに来た。
「なに、興味あるの?」
 マキさんがにんまりと笑って子供のそばにしゃがみ込んだ。
「かけっこで一番になりたいから、足速くなりたい」
「かけっこなら大事なのは靴なんじゃない、やっぱ」
 マキさんを無視して、子供は男に話しかけた。
「お兄ちゃんはとても速いスピードでここへ来るんでしょ?さっきのお兄ちゃんみたいに時計をたくさん付けてれば、足が速くなるかな」
「速いから時計がくっついて来るのであって、時計をたくさん持ったところで速くなるわけじゃないでしょ。時計に埋もれて起きる彼なんて、いつもお寝坊だよ」
 マキさんが僕を指さし、べっと舌を出す。子供が、ひどく残念そうに僕を見上げてきた。

 

「晩ごはんの時間、遅くなってきてると思わない?」
 ある日、いつものように三人でコーヒーを傾けていたとき、マキさんが言った。
「何なんですか急に」
「急じゃない。少しずつ遅くなってきたのよ」
 まあこれ以上、遠くから人がやって来るとなると、移動の速さに限界がある以上、晩ごはんが遅くなっていくのはしょうがない気がしますけど。今だって、夕食を食べ終えて帰った途端、一息つく間もなくまたこちらに向かって来ないといけない人だって大勢いるんだから。こうやってゆっくりお茶できる僕らみたいな状況のほうが特殊ですよ」
「そういうことじゃない」
 マキさんは、長々とした僕の真っ当な返答に対し不機嫌そうに頬杖を解くと、今度は腕を組んだ。
「お腹が空いているの」
 真剣な顔をして何を言うのやら。僕は肩をすくめて見せた。
「おやつを食べればいいじゃないですか」
「だから、そういうことじゃないって」
 一瞬即発の空気が流れたが、気を取り直したらしいマキさんは軽くため息をついた。
「こないだからずっと考えてたんだけど、たくさん時計を引っ付けて来た人いたじゃない。あの人には移動中ずっと、大量の時計がびっしり張り付いてたわけでしょ。おまけに一日のほとんどを移動に費やす生活を送っているということは、それだけ時計に囲まれている時間が長いということで」
 マキさんは、ちらりと家主の方を見た。
「私がいくら手に持てるだけ時計を持ってロフトに上がったって、そんなものとは比べ物にならないくらい、彼には時間が集まってくるわけよ。私が一つの時計を持っている間、彼は二十、三十もの時計に纏わりつかれて、ゆっくりとした時間を過ごすんだから。つまり、あの人が移動すればするだけ、私との時間は、ずれていくの」
「そう?」
「それって、大袈裟に言えば、私にとって今週4回目の晩ごはんが、その人にとってはその週最初の晩ごはんってことが起こり得るってわけでしょ。私の1から3回目のご飯はどこにいったのよ。というかその人が着席していない時点で、1から3回目の晩ごはんは始まっていないはずなんだから、食いっぱぐれてるわけじゃない。そう考えたら、最近のこの妙な空腹に説明がつく」
 僕が発言を真剣に取り合っていないことにもまったく構わず、マキさんは家主を正面から見据えた。

「ねえ。時計は時間の塊で、集まれば集まるだけ状況が進まなくなるというのは、前提でいい?」

 そんなマキさんの態度に根負けしたのか、嫌そうに眼を細めてみせた家主は、不満を十分に感じさせるほどの間をおいてから、口を開いた。

「そうだったとしても、わかるはずがない」

「わかるよ。私の腹時計がそういってる。特に上のフロアの人たちって、どうしたってここより時計も少ないんだし、より早くお腹が空くんだから。私より上に住んでる子も、めちゃくちゃお腹すくって言ってたから、間違いない」

 家主は顔を上げもしない。マキさんはそんな家主をしばらくじっと見ていたが、一つため息を漏らすと、諦めたように背もたれに体をあずけた。

「マキさん、他の住民に詳しいですよね」

 マキさんがきょとんと気の抜けた表情で僕の方を向いた。

「いや、アンタが興味なさすぎ」

「そもそも、全員で食べなくても良いんじゃないですか」

「それは絶対ダメ」

 だんだんと人が集まり始めた。とはいえ、全員が揃うはまだまだ先だろう。今日も夕食の時間が無事に訪れるといいのだけれど。僕は珍しく意気消沈しているらしいマキさんに、もしもの話を繰り出した。

「それじゃあ、晩ごはんをもっと、皆の中間地点になるようなところで食べることにするのはどうです?」

「根本的な解決にはならないね。それに食堂を上の方にすると、食べ物の足が速くなりそう」

近くでせっせと時計をポケットに詰め込んでいた子供が、足が速くなるの一言に反応して上に住みたいと駄々をこね始めたのを聞き流しながら、僕は体を捻り座ったまま椅子の背に触れた。

「そもそもこの食卓って移動できるんですかね?」

住民が増えたとたんにそのスペースを広げ、過不足なく人数分の夕食を用意するこの食卓を、こちらの意のままに動かすことができるとは考えにくい。

「どうせなら、顔も覚えられなくなってきたし、部屋がこれ以上、広がらない方法を考えましょう」

 先ほどまでとは打って変わってウキウキとしだしたマキさんにつられ、僕は思わず笑ってしまったらしい。笑みを深めたマキさんの顔を見て、ふとそんなことを自覚した。

「広がりをとめると言うなら、やっぱり部屋の端っこが鍵よね。時計が進みを遅くするのなら、部屋の壁に、時計を大量に打ちつけちゃえば良くない?」

「いや、おそらく壁も釘もすり抜けてしまいますね。手を離した瞬間から、各々自由に落ちていく時計がもう目に浮かびます」

時計というものは、重力以外にそうそう大人しく従うものではないのだ。ならばと、壁に付けるのが無理でも、壁のあるところに大量の時計を持っていくだけでも効果があるのではという話にもなった。だが、せっせとリュックサックに詰めたとして、目的地にたどり着く前に、いつの間にか底を抜け落ちてそこらに転がっているのがこれまた容易に想像できてしまう。手に持てるだけの時計の数では、おそらくさほど効果はないだろう。

「それなら移動している間に引き付けた時計を、部屋の端でばらまけばいいのよ」

一番の新入りに、時計を持てるだけ持たせて帰らせる。あの、大量の時計を体に引っ付けてきた男の姿を想像するに、時計を大量に運ぶのには確かに一番いい方法である気がする。でもその方法を取るには、いささか手遅れかもしれない。

「だってこうしている間にも、席は増え続けているわけだし。その人が自分のスペースに帰る頃には、そこはもう部屋の端ではなくなっているんじゃないですかね」

皆でご飯を食べるというルールを撤廃してもよいのではとの発言は、ノーリアクションにて却下され続けている。

「とめられないなら、逆に縮めていくことを考えたらどうですか」

僕らが部屋が広がっていると認識するのは、食卓が長くなるからだ。

「だから逆に席を無くせば、人が減って、部屋が縮まるんじゃないですか」

「それでもし誰かの夕食がなくなっただけだったらどうするの。かわいそうじゃない。しかも、さっきこの食卓を動かせなかったの、忘れた?」

 僕とマキさんとのあいだに剣呑な雰囲気がただよい始めた頃、ようやく全員が揃い夕食が始まった。早々に食べ終えたマキさんは、僕に目配せし、今日いちばんの新入りのところへ近寄っていく。僕もマキさんに続いた。

「ねえ、この部屋の端のことを知りたいんだけど」

 新入りは目をぱちくりとさせ、はじ、と呟いた。

「そう。貴方が来た時、部屋の壁ってあった?」

遥か彼方、部屋の果てにあるはずの壁。僕らにとっては今や実在しているのかどうかも疑わしいものだったが、彼女は小さくうなずいてみせた。

「オシャレでした。見たことのない複雑な模様が全面にあって」

「え、そんな特徴的なもんだったっけ。アンタ覚えてる?」

 マキさんが僕を覗き込む。遥か昔の記憶にあるものは、ごくごく普通の、模様なんてない壁紙だったように思う。僕は黙って首を横に振った。

「どんなの?描ける?」

 マキさんがどこから出したのか、紙とボールペンを差し出す。

「かけないです。本当にぐちゃぐちゃで…」

 こんな感じ、と彼女が描いた模様を見たが、本当になんの規則性もないようだった。未就学児のお絵描きだって、もう少し意図とか傾向が見えるだろう。もっとも、彼女が壁紙をはっきりと覚えているとも思えないから、これを確かなものとして読み解いていくのはいささか馬鹿げているだろうけれど。

「家主はさすがに、自分の部屋の壁紙だから覚えてるんじゃない」

 ねえ、とマキさんが大声をあげて家主を呼んだ。家主は、しばらくは知らんぷりをしていたのだが、渋々といった様子で立ち上がり、僕らの輪の中に入って来た。

「壁紙じゃない。それは落書きですね」

 家主がひょいと紙を取り上げた。

「え、誰の?」

「僕の」

「アンタの手はそんなに長いのか」

 マキさんは家主に、威嚇するように眉間にしわを寄せた顔を向けた。家主は嫌そうに顔を背けている。

「そんなわけないでしょう。初めにかいたものが、自己増殖しているんです」

書かれれば書かれるほど部屋の内容量が増えているはずだと、家主はさらりと言った。

「なにそれ。じゃあその落書きを消しちゃえばいいのね?」

家主は黙ったまま、ほんのわずかに首を傾げた。

そうは言ったって、今さら壁に追いつけるとは思えない。僕が先ほどの議論に戻ることを口にしそうになったとき、マキさんが続けた。

「あれ、もしかして特に何もしなくても、いつか壁紙が落書きでいっぱいになれば、それ以上、部屋は広がらなくなる?」

 はっとした。確かにそうだ。どんな落書きだって、見えなければ書いていないのと同じだ。

「そうとは限らない。壁一面が真っ黒になれば、次はきっと白いペンで書かれ始めるだろう」

 家主はやけにきっぱりと言った。そうかもしれないものに対しては曖昧な態度をつらぬくのに、間違ったことに対しては随分とはっきりとものを言う。

「それは消されているのとは違うの?その白い落書きは、己はかつて白い壁に黒いペンで書かれたことのある落書きと地続きの存在であると名乗っているってわけ?」

 マキさんが不満そうに口を尖らせた。家主が何も言わないところを見ると、当たらずとも遠からずといったところなのだろう。

 

「やっぱり向かうしかないね、壁に」

 追いつけないと散々話したはずなのに、マキさんはそう言い放った。もの言いたげな顔をしているであろう僕の顔を見るなり、マキさんは顎を引き一度口をかたく結んで、

「壁の遠ざかるスピードは今が一番遅いのよ!つまり今やるのが一番なの!今!いま!!!」

 と叫んだ。

「よし、アンタの移動手段はなに?どこにあるの?とりあえず一番の端っこだろうから、アンタのところに行くわ。案内してくれる?」

 マキさんは彼女の描いた壁紙の絵を家主から取り返して、彼女を急かし、食堂から姿を消した。あっという間の出来事だった。僕がぽかんと見送る間に、マキさんは颯爽と旅立ってしまったのだ。

 それ以降、この部屋に晩ごはんの時間は訪れていない。僕と家主は相変わらず二人でコーヒーを飲んでいて、この食卓の席がすべて埋まることはなくて、僕に時計に埋もれて起きる朝は二度と来ない。

「マキさん、追いつけましたかね」

 家主はちらりと僕を見るだけで、再び新聞に視線をおとしてしまう。

「マキさんのことだから、勝ってるんじゃないかって思ってるんですよね。何にかはわからないんですけど」

 何かに追われるように一人で喋り続けている僕に、家主はもの言いたげな視線を寄越すものの、口を開きはしない。僕はむしろ家主が何かを言うことが怖くて、家主が口を挟めないように喋り続けているのかも知れなかった。

「壁に追いついたら、蹴り壊すくらいのことはしそうじゃないですか?マキさん、わりと激しい人だから。でも、」

 そんな僕の心情を知ってか知らずか、家主は手をかざして僕の言葉を遮り、食堂の先を指さした。

「その扉は、開けることができます」

 扉なんてないのに。僕は長い食卓の先で、小さく揺れる光を見ながらそんな生意気なことを思っていた。

僕は追いかけることにした。この部屋の果てにある、ものすごいスピードで遠ざかっているだろう壁をなんかじゃない。僕はマキさんを、時計を僕のベッドに落とし続けていたマキさんを、あの時の食堂を去る背中を、僕は追いかけていくのだ。

 何でもいい、もっとも端へなんて贅沢は言わない。とりあえず、どこか遠くへ、少しでもマキさんの近くへ連れて行ってほしい。そんな切羽詰まった僕の願いを聞いてくれたのは、最初に時計をたくさん連れてきた彼だった。

 

こうして、すさまじいスピードで後方に飛び退っていく光を見ながらも、僕は家主を相手にコーヒーを傾けていた頃と変わらず、マキさんの姿ばかりを想像している。マキさんは壁に追いつくことができず、ゆえに壁を追いかけ続けるマキさんに僕は追いつくことができず、僕らは二度と会うことはできないかも知れない。それでも僕には、いつか訪れると信じたい光景がある。僕はいつか彼女がそこへたどり着き、壁に描かれた落書きに向かって、こんな言葉を浴びせているところを思い浮かべている。

「素敵ね、みるみる美しくなっていく」

乱雑さが増すことで部屋を押し広げていた落書きたちは戸惑うだろう。雑然とした筆跡が作ったこの状況なのに、それを整っていくと記述する生き物がいることを理解した落書きは、そうか自分たちは美しく整っていくのかと納得するかもしれない。もしかして、部屋の内容量を増やすのをやめ、それどころか減らし始めさえするかもしれない。

そのとき、行きつくところまで行きついたとき、僕やマキさんは消えるのだろう。家主だけになった部屋は、きっと僕らがいたことなど忘れてしまうだろうが、そうなってしまって、何が悪いのだったか。

 それとも、そんなことは起こらない。マキさんは壁に出会えず進み続け、僕はマキさんを探し続けている。僕はそれでもきっと、前に進み続けるマキさんを想像して、想像し続けて僕もまた進んでいくんだろう。

 それでもいい。

 たとえ壁を停止させたり、乗り越えたり打ち破ったりできなくて思い通りにいかなくても、いざとなればどうにかして生きていく。

僕たちは皆、そういう風にできている。

文字数:10639

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