窒息

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梗 概

窒息

 私は鏡の前で溜息を吐いてしまい、思わず口を押さえる。リビングのホロテレビではアナウンサーが深刻な空気不足による節気を呼び掛けている。ソファでは夜勤帰りの父が大きな欠伸をしていて、キッチンでは母が父を睨んでいる。私はまた溜息を吐きかけて、今度は寸前で思いとどまった。
 私は制服の上から外出用のスーツを着込み、重たい二重扉を開けて学校に向かう。

「地球ではね、空気が全部無料タダなんだよ」
 女子トイレの個室で、私の膝の上に座る風玲ファーリンが言った。私は相槌を打つ。いつか一緒に行きたいね。風玲の言葉に、私は曖昧に頷く。
 私が生まれ育った宙域都市ラピュータは火星の周りを回っている。宇宙では太陽光も水も空気もシビアに有限で、その全部にお金がかかる。宇宙で生まれ育つということは、生まれた瞬間から生きるための全てにコストをかけ続けているということで、私は空気が無料タダだという地球がピンとこなかった。
 風玲は手鏡で口のなかを覗き込んでいた。喉の奥のほうに淡い緑の蔦が見えた。
 肺華フェイファ。体のなかに根を張って、酸素を作り出してくれる宇宙の植物。もちろん違法だ。
「ねえ、見て。けっこう大きくなった。そっちは?」
「そんなことより早くあれ、出してよ」
 私と風玲は鼻からドラッグを吸引する。どちらからともなく口づけをする。風玲から流れ込んでくる息は温かくて甘くって、全身に心地よい痺れが広がっていく。私たちは夢中になって、お互いのなかにある空気を循環させる。とろける脳で快楽を貪っていく。

 放課後はクラブへ行く。でも踊っている人は全然いなかった。だいたいがセックスをしたり、床で失神したりしていた。私はこの場所があまり好きではなかった。
 風玲は肺華の種をくれた男とドラッグを吸って、セックスを始める。私はいても立ってもいられなくなって逃げ出した。
 家では父が鼾をかいていた。料理中の母は包丁を握り締めて父を睨んでいる。
「殺しちゃいなよ」
 私が言うと、母は困ったように笑った。私は苛立ち、飲めずにいた肺華の種を捨てる。
 その夜、私はシャワー室で自分の首を絞めた。倒れたところで、物音を聞いた母が駆けつけてくる。私は一命を取り留める。母は泣いて私を叱った。きっと母は正しかった。でもその正しさはいつだって、私の首を絞めていた。

 それからしばらくして風玲が死んだ。死因はODだったらしいけど、親戚らしい人たちが、本当の死因は気味の悪い植物が喉に詰まったからだと話していた。
 風玲を乗せた純白の棺は宇宙の黒へと流されていった。私は罪悪感と一緒に取り残された。
 家に帰ると、母は既に寝ている。私は母の顔に枕を押し付けて、ゆっくりと体重をかけていく。抵抗した母に突き飛ばされ、私は尻もちを突く。咽せる母が肺華の種を吐き出す。目は驚きと恐怖に揺れていた。私は声を上げて笑った。ようやく息を吸えた気がした。

文字数:1199

内容に関するアピール

 この物語における物理的な息苦しさは、現実において私が日々感じている生きることへの耐え難い軽さです。

 法内(=家庭、学校、ヘテロセクシャル)と法外(=ドラッグ、肺華、ホモセクシャル的な他者依存)のあいだで葛藤する「私」を描きます。決して「私」を救ってはくれない法内が清く正しいものなのか、読者とともに答えを探すような短編にしたいと思います。

※今月初め、中国で某ジブリ作品が公開されたらしいことと本作は無関係です。

文字数:206

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窒息

私は鏡の前で溜息を吐いた。思わず口を押さえた。鏡越しに見える背後の廊下に、ママの気配がないことを理解して胸を撫で下ろす。安堵の息は吐かなかった。小さな安心は、心のなかに留めておく。
 顔を洗い、歯を磨き、制服へと着替える。リビングに行くとソファの上では工場の夜勤帰りのパパが大きな欠伸をしながら合成酒を飲んでいて、その様子を料理中のママがオープンキッチンの隙間から睨みつけている。私はもう一度溜息を吐きかけて、今度は正しく、寸前で思いとどまった。
「おはよう」
 耳に届いた声が、私に気づいたママのものだと気づくのに一瞬遅れる。おはよう――そう返そうと思ったけれど、息を殺すくせがつきすぎた私は上手く声を出せなくて、自動調理機がその微妙な沈黙を濁すように間の抜けた音を鳴らした。
「なにぼさっとしてるの。もうすぐテストでしょ? しゃきっとしないと」
 ママが自動調理機から取り出したトレイには、茶色とか緑とか赤っぽい紫とかの四角い合成食が並んでいる。私はママからトレイを受け取って席に座る。トレイからは、香ばしい油の匂いのなかにゴムチューブを燃やしたときのような臭気が漂っていた。
『深刻な空気不足は依然として続いています。この問題に関し、〈常福チャンフゥ〉環境局は積極的な節気を呼び掛けており――』
 ホロテレビではやけに黒い髪を几帳面に撫でつけ、ジャケットを着込んだアナウンサーが深刻な顔で原稿を読み上げている。けれどその言葉はどこかふわふわと宙に浮いているような気がして、しまいにはもうすっかり馴染みになった合言葉を、さも神聖な預言みたいに深刻で真剣な表情で言うもんだから、アナウンサーの挙動はよりいっそう滑稽で下手くそな演技にすら見えた。
 穏やかにチィンヂェンヂィン
 耳にたこができるくらい、街のそこらじゅうから聞こえてくる標語スローガン。チィンヂェンヂィン。チィンヂェンヂィン。それはこの〈常福チャンフゥ〉での魔法の言葉。溜息を吐かないことにも、声を荒げないことにも、ちょっと急いでいるときに駆け足をしないことにも、大して意味なんてないのに、みんながそれを正しいと信じている。きっと私がいつだって息苦しいと感じてしまうのは、ただ空気が足りていないからだけではないのだろう。
 トレイの上の合成食にはほとんど手をつけず、私は席を立った。ママが何かを言いかけたけど、パパがまた大欠伸をしたから、ママの言葉は声にはならなかった。
 私はエプロンの裾を握り締めながらパパをじっと見ているママを横目に玄関へ向かい、吊るしてある外出用のワンピーススーツを制服の上から着込んでいく。制服のスラックスが皺にならないよう慎重に脚を入れ、念入りにブレザーの裾を引っ張る。最後にヘルメットをすっぽりとかぶり、音が鳴るまで襟にしっかりと嵌め込む。それから私は内扉のハンドルを回して扉を押し開ける。扉の先には長方形のポーチがあって、私の向かいにはもう一枚、外扉がある。私は内扉を閉めて、さっきとは反対方向に、動かなくなるまでハンドルをきつく回す。それから壁に埋め込まれた操作パネルのボタンを押すと、天井の四隅にあるダクトが開いて、ポーチのなかの空気を吸い上げていった。ポーチのなかの空気がなくなって、私の痩せた身体には少しだぶついていたスーツが風船みたいにほふっと膨らむ。外扉の上にあるランプが赤から緑に変わるのを待ってから、内扉と同じ要領で外扉のハンドルを緩めていく。
 家を出るまでに踏まなければいけない手順が多すぎる。地球だったらね。きっとあの子なら得意気にそう言うのだろう。
 扉を開けて通路に出れば、目の前には頼りのない柵がある。その向こう側にはまるで鏡映しみたいに、扉と通路が上下左右に果てしなく広がっている。遠近感が狂いそうなくらい規則正しい光景だけど、こっち側と向こう側のあいだには果てのない奈落があって、両岸はやっぱり頼りのない何本かの橋でところどころが繋がれている。
 曰く、というやつが無際限かつ上下左右に連なった成れの果てだそうだけど、私はその団地というのを知らないからよく分からない。私に分かるのは、この労働者層という名の貧民窟が、大量の住民を効率よく押し込めることだけを目的として設けられた殺風景な世界ってことだけだった。
 私は柵に寄りかかる。柵はギシギシと軋んだ。目と鼻の先には虚無がある。
 見下ろしても奈落の底は見えず、上を見ても果ては見えない。ときおり人が落ちたというニュースを聞くけれど、落ちた人がどこまで落ちてどうなったのかは報道されたことがない。
 この単純で冷たい光景だけが、私の世界のすべてだった。どっちにどこまで行ったって同じ景色。這い上がり方も、落ち方さえも分からなくて、私はただ漂い続ける時間のなかで、何かになれるわけでもなく生きていた。
 ふいに左上から右下へ、ふわりと通り過ぎる物体が私の視界を半分に切った。続いて物体がもう一つ。目で追うと、物体二つ――私と同じようにスーツを着込んだ二人が、対岸へと繋がる細い橋へと着地する。左上を覗くと見える、たぶん五階ぶんくらい上にかかっている橋が不安定に揺れていて、あそこから飛び移ったのだと分かる。
 それは娯楽が乏しいこのあたりでの、ちょっとした度胸試しだ。いくら弱重力下でも、多少の危険とかなりのスリルを味わうことができる。
 きっと大人たちは、無鉄砲な度胸試しに白い目を向けるだろう。跳んだり走ったりすれば酸素を無駄に使うことになるから、その無鉄砲さは不道徳だったけど、きっと宙に浮いているあいだだけは、大人たちの論理にも〈请镇静チィンヂェンヂィン〉の合言葉スローガンにも縛られないでいられるんだと、別に柵を乗り越えて跳んだりしない私でも、そうしたくなる気持ちはちょっとだけ分かった。
 もう一度右下の橋を見るともう二人の姿はなくなっていた。
 引き攣って笑う口元みたいに、橋だけが微かに揺れている。

   †
   
「地球ではね、空気がぜーんぶ無料ただなんだよ?」
 女子トイレの一番奥から一つ手前の個室のなか。反響する始業のチャイムをぼんやりと聞きながら、蓋を下ろした便器の上に座っている私の上で、風玲ファーリンは目を輝かせていた。
 聞くのはたしかもう四回目だったから、私はへぇとうんのあいだくらいの、曖昧な相槌を返す。
「いつか一緒に行きたいねぇ」
 風玲が言った。私はすぐには意味をちゃんと理解できなくて、どこにと聞き返す。
「決まってるじゃん。地球だよ、地球」
 さも当然のように言うけれど、地球なんてイラストくらいでしか見たことがない私には風玲と一緒に地球に行くという未来を具体的に思い描くことはできなかったし、そもそも私が自分の未来を思え描けたことなんて今までに一度だってなかった。
 私たちが生まれ育った〈常福チャンフゥ〉は、火星開拓のために建造され、その軌道上に浮かんでいる宙域都市のうちの一つだ。大昔、つまり私のおじいちゃんのそのまたおじいちゃんが若かったときくらい、宇宙開拓にロマンと一攫千金を夢見て、たくさんの人が宙域都市にやってきたそうだ。私のおじいちゃんのそのまたおじいちゃんもそのうちの一人だった。
 けれど開拓は難航した。だからパパは来る日も来る日も機械の油にまみれながら、いまだに火星の地面を掘っている。ご先祖様が夢に見た、一獲千金の夢はまだ誰にも掘り当てることができていない。
 おまけにロマンが詰まったぶんだけ宇宙は空っぽで、太陽光とか水とか空気とか、人間が生きるために必要なあれこれがシビアに有限だった。だから私たちは生き続ける代償として、お金を払い続けなければならなかった。何のために生きているのかも分からないのに、惰性の人生を進みながら汗水垂らして得たはずのお金を砕き続けているというわけだ。
 私は風玲の腰に手を回す。風玲のからだは細いのに弾力がある。彼女に触れていると、この白い肌の下には赤い血が流れているんだと妙に実感することができる。枯れ木みたいに痩せた私とは何もかもが違っている。
「どうしたの」
 言いながら、風玲はピンク色の手鏡を覗き込んでいた。私は風玲の肩甲骨のあたりに顔を埋める。
「香水、変えた?」
「よく気づいたね。ママの借りたの」
 風玲のママは酔っぱらった男たちにお酌をするホステスとして働いている。溜息にも深呼吸にも目くじらを立てたりしない代わりに、明日の生活費を派手な洋服や化粧品に変えてしまうのだと風玲は笑っていた。私にはどっちのほうがいいのか分からなかった。
「そっか」
 聞かなきゃよかったとは思ったけれど、私は後悔を深く吸いこんだ息でうやむやにする。香水の甘い香りに少しだけ混ざる風玲の匂いを探すように、鼻を押し付けた。
「ね、見てよ。けっこう育ってるぽくない?」
 肩を叩かれて、私は顔を上げる。掲げられた手鏡を一緒に覗き込んでみたけれど、大きく開かれた風玲の口が見えるだけで、そのなかは家の前に横たわる大きな溝のようにまっ黒だった。
「うーん、よく見えないや」
「もう。ちゃんと見て」
 私の太ももの上からするりと降りてしゃがみ込んだ風玲が、あーっと大きな口を開けてそのなかを私に向ける。私は目を眇めて少しづつ角度を変えたりしてみながら、風玲の口のなかを覗き込む。するとそれは確かにあった。風玲の喉の奥に、肺華フェイファの細い蔦が何本か這っている。
「ほんとだ。育ってるっぽい」
「ね、だよねだよね。めっちゃいい感じっぽいよね」
 肺華フェイファというその植物は人のからだに根を張って育ち、酸素を作り出してくれるらしい。つまり肺華フェイファを植えて育てれば、私たちは呼吸要らずになるわけだけど、もちろんそんな密造空気みたいなものが合法なわけはない。肺華フェイファは立派な違法植物だった。
「いいでしょ。そっちは? ちゃんと育ってる?」
 風玲は嬉しそうに言って、今度はこっちを向いたまま私の上にまたがった。
 適度な水分と溢れる生気できらきらと光る目に、私が映っていた。まるで私の全部が見透かされているみたいだった。
「そんなのいいからさ。早く、あれ、出してよ」
「えー、欲しがりさんだなぁ、もう」
 風玲は私の上に座ったまま、地面に放り出していたバッグを手繰る。なかから取り出した点鼻薬みたいな容器の先端を鼻に差し込む。風玲が息を吸いこむとしゅこっという音がして、みるみるうちに大きくて丸い目の焦点は合わなくなっていく。私も容器を受け取って、同じように鼻から中身を吸い込んだ。
 吸い込んだドラッグが粘液と絡んで、あっという間に脳が痺れていくのが分かった。けれどやがてはその感覚すらも分からなくなって、からだの奥底から熱さと冷たさが同時に湧いてくる。心臓の鼓動だけがやけに鮮明だった。押し出される血液で、指先が破裂するんじゃないかと不安になった。けれど一緒に押し寄せてくる、抗いがたい気持ちよさに全部が有耶無耶になっていった。私は風玲のなだらかに膨らんだ胸にそっと手を置いた。風玲のからだがビクンと震えた。二つの鼓動が重なった。この瞬間だけは、私も風玲と同じでいられるような気がした。
「かわいい」
 風玲は私の頬を両手で押さえたまま、じっと私を見下ろしている。私はその瞳の魔力に吸い込まれるように、風玲を見上げている。
「かわいいのは風玲だよ」
 我慢できなくなった私は吸い込まれるように背筋を伸ばし、風玲の唇を食む。かたちのいい唇が綻んで、ぬらぬらと湿った舌が風玲のからだのなかにあった空気と一緒に、私のなかへと流れ込んでくる。
 私たちは夢中になって、お互いの唇を、唾液を、吐息を貪った。からだのなかの空気を吸い出して、吐き出して、混ぜて一つに近づいていく。時折漏れる、どっちのものかも分からない嬌声が、私たちの興奮をよりいっそう掻き立てた。
 ブレザーを脱がし、リボンを解く。ブラウスははだけ、腰からベルトが抜ける。私は立ち上がって風玲を壁に押し付ける。二人のスラックスが同時に落ちて、剥き出しになった太ももどうしが擦れ合った。吐息が重なった。体温が溶け合った。
 風玲が私の肩を掴み、立ち位置が逆転する。私の舌を吸っている風玲の奥、ペーパーホルダーの上に置かれたピンク色の手鏡が目に入る。そこには私が映っている。
 だらしのない格好だった。制服は乱れ、目尻は赤らみ、口の端からはよだれが流れ、片方の鼻からは赤い血が流れている。
 きっとママが見たら悲鳴を上げるだろう。いいや、私を徹底的に罵るかもしれない。あるいはパパのときと同じように、ただ黙ってじっと私を睨むのだろうか。
 私は風玲と混じり合いながら、ママを想像した。ママの幻が向ける軽蔑の眼差しは、私が私であることを証明するような気がして私の芯を熱く昂らせた。
「風玲、もっとして」
 私はみだりに風玲を求める。風玲は何も知らずにそれに応える。手鏡に映り込む私は下品で最低で、だけどどんなときよりも鮮やかで生々しくからだを火照らせている。

   †
   
 授業が終わって、下校する列に並んで待って、順番に昇降口ハッチを通り、学校を後にする。授業にはろくに出ていなくとも、私は優等な生徒だった。そもそも勉強なんて誰もしていなかった。貴重な一〇代の時間を勉強に使うのは、それがこの先の長い人生――未来に役立つと保証されているからの話であって、先の見えない私たちには勉強をすることに意味なんて見いだせない。せいぜい現実逃避の暇つぶしにしかならなかった。
 当番の先生が貼り付けた笑顔を左右に振って、私たちを見送っていく。同じようなスーツを着込んでぞろぞろと歩く私たちは、まるでベルトコンベアに乗って流れる部品みたいだった。そしてもし何かの部品だとすれば、私たちは私も含め、大半がジャンクだ。
 学校を出た私は生徒たちの流れから外れ、脇道の階段を下っていく。入り組んだ通路を歩いていけば、だんだんと人気がなくなって、通路や柵には錆が目立つようになる。どこかで香でも焚いているのか、甘ったるい焦げた匂いが立ち込める。天井の照明が明滅していた。私の足元を合成酒の瓶が転がった。
「おまたせ」
 私は瓶の軌跡を辿るように顔を上げる。ヘルメット越しに、風玲ファーリンが立っているのが見えた。スーツ越しではお互いに声なんて聞こえなかったけど、風玲の唇もまってたよ、と動いた気がした。
 私たちは身を寄せ合うように並びながら、細くて頼りのない路地を進んだ。錆びだらけでがたがたと揺れる階段を、手を取り合いながら下った。スーツを着ていては、風玲を感じることはできなかった。空気の薄さが私と風玲を隔てていた。学校のなかと大して見た目は変わらない私たちのあいだに、一体何がなくて、何があるのか、私にはちっとも想像できなかった。
 やがて少しずつ人通りが戻ってくると、私たちは目的地に着いた。真っ直ぐに伸びる通路の果てに、黒く塗られた扉が鎮座している。その扉はいつ見ても、まるでこうやって無限のを下ってきた人々を、待ち構え、呑み込もうとするブラックホールのようだった。
 私たちは吸い込まれるがまま中へ入る。ハッチのなかにはドアマンがいて、内扉の上には〈クラブ・ラガード〉と彫られた金属板が打ちつけられていた。
 顔パスの風玲とその連れである私は申し訳程度のボディチェックを受けて中へと入る。内扉が開くや、聞こえてきた重低音が私の脳を直接掴んで揺さぶった。クロークでスーツを脱いで荷物と一緒に預ける。螺旋階段の下に見えるフロアでは重低音とともにサイケな音楽が流れていて、DJブースらしいステージで焚かれているピンクや紫、緑や赤のビームライトが忙しなく駆け巡っては闇を切り裂いているけれど、その闇が晴れる気配はなかった。それは誰かが暗い水のなかでもがいてるようにも見えて、きっといつか光のほうが力尽きて沈んでいってしまうだろうと思うと、なんだかこのクラブ自体が虚しく感じられて、それはつまりこんなところにやってくる私と風玲の時間の空虚さを証明しているようでもあったから、私はこの場所があまり好きにはなれなかった。
 風玲の後に続いて私は螺旋階段を下りた。ソファやテーブル、ダンスフロア――とにかくいたるところで、男も女もセックスをしている。裸を擦り合わせながら上下に揺れたり、前後に揺れたりしていた。何人かは裸のまま床で失神していて、フロアはアルコールと汗と甘いドラッグの匂いで埋め尽くされていた。
 私たちは途中で何人かに声を掛けられたりしたけれど、風玲はそれらすべてを上手く躱しながら奥へと進んだ。紫色のレースのカーテンを開けると、仕切られたソファ席があって、三日月みたいにカーブしたソファの真ん中に顔の右半分が焼け爛れている男が座り、その両脇には面積が小さすぎる下着をつけた女がもたれかかっていた。男はこのあたりのドラッグ流通を取り仕切っていて、風玲と私に肺華フェイファの種子をくれた男だった。
「風玲と、お友達ちゃんか。座りなよ、今日は上物が入ってる」
 男は手を払って両脇の女たちを下がらせ、自分の左側に風玲を招き寄せた。私は男の右側に座らなくちゃいけないのかと思って暗い気持ちになったけれど、よほど不安そうだったらしい私の表情に気づいた風玲が自分の隣りに座るようあちこちが剥がれている合皮の生地をぽんぽんと叩いてくれたので、私はさも定位置であるような顔でそこに座った。
 男は風玲の肩に手を回しながら、右手では白い粉ドラッグの入った半透明のケースを宙に投げたり、指のあいだでこねくり回したりして、右半分がただれて歪んだ口からはビジネスがどうとか、この社会がどうとか、そんなつまらない話を垂れ流していた。風玲はさも素晴らしい説法のようにその話に聞き入っていたけれど、私は退屈だったのでドリンクを注文しようとレース越しに見えたボーイを掴まえた。
「えっと、マリネリストニックを一つ。あ、ちょっと待ってください。風玲は――」
 何か飲む、と言いかけて振り返った私の喉の先のあたりで言葉はつまづいて、転んだ拍子に霞みになって溶けていった。
 男の手は機械的な滑らかさで風玲のブラウスのボタンを外し、下着をずらし、露出した白いおっぱいを鷲掴みにしていた。私はその動作を何かに似ていると思ったけどそれが何なのかは分からなかった。それからすぐに、そんな乱暴にしたら風玲のからだが壊れてしまうんじゃないかと臓腑の隙間から急に染み出してきた不安に襲われた。風玲のおっぱいには薄っすらと青い血管が浮いていて、やわい肌に食い込む男の指が皮膚を引き裂き、なかに詰まっている血や脂肪やそれ以外のいろいろを、ぜんぶこの場にぶちまけてしまうような気がした。
 けれど杞憂だった。
 風玲は甘い吐息を漏らしながら、おっぱいの先端の淡い桃色を小指の先くらいには勃起させ、脱がされかけのスラックスのあいだから見える水色のショーツの奥の茂みをじんわりと湿らせていた。
 風玲と目が合った。お前もこっちへ来いと言われている気がした。私は動けなかった。たしかに私を捉えていたはずの風玲の視線は、覆いかぶさった男の背中によってすぐに隠れてしまった。男の指が風玲の腿の内側を這い、ショーツの隙間から風玲の秘部へと入り込んでいく。
 注文は以上ですか、と後ろから声が聞こえたけれど、私は何も答えなかった。正確に言えば答えられなかったし、正直言うと答えたくもなかった。
 私は磁石が反発し合うような唐突さで振り返り、ボーイもろともレースカーテンを蹴散らして走り出した。きっと驚いた風玲は私を追いかけてくるに違いないと、全く思っていなかったと言えばうそになる。けれど私が螺旋階段を駆け上っても、クロークで返してもらったスーツを着込んでも、レースのカーテンはひらひらと私を嘲笑うように揺れていているだけで、そのなかから風玲が現れる様子はなかった。

家に帰ると、電気を消したリビングで、油と煤にまみれた作業着姿のパパがソファで眠りこけている。パパは黄ばんだTシャツを捲り上げ、眠ったまま浅黒い肌を引っ掻いていた。時折、ポーチのダクトが詰まったときのような物騒な音が、ぬらっと光る鼻と半開きになった口のあいだのあたりから鳴った。
 こうして見ていると、パパはまるで別の生き物みたいだった。汚くて猥雑で粗暴で無思考なまったく別の生き物みたいだった。
「帰ってたの」
 急に照明がついたのと、後ろから声がしたのはほぼ同時で、私は素早く振り返った。そこには寝間着姿のママがいて、緩く結んだ髪が濡れていたからシャワーを浴びていたのだと分かった。
「ごはん? それとも先にお風呂?」
 私は特に何も答えなかったけれど、いつもご飯が先だったから、ママはキッチンで食事の準備を始めた。手際のよい動きで合成食のパックを開け、包丁でてきとうなサイズに切り分けていく手際は滑らかで、私はさっきクラブで風玲ファーリンの服を脱がしていく男の手の動きで覚えた既視感の正体をはっきりと自覚した。
 パパのいびきが響く。ママの規則正しい動きが止まる。
 ママはじっとパパのことを見ていた。その表情にはどんな些細な感情も伺えなくて、まるで吸い取られてすべての情念が包丁を握りながら小さく震える右手に集中しているみたいだった。
 私はママがとうとう眠っているパパの腹か、あるいは首に、包丁を突き立てるところを想像した。周到でいつも正しいママのことだから、パパが抵抗したりする間もなく一撃で仕留めてしまうのだろう。きっとその手際は、合成食を切り分けるときと寸分も変わらないはずだ。
 けれど想像とは裏腹に、ママはいつまでもキッチンに立っていた。それもそのはずで、いつも正しいママはその正しさゆえにパパに包丁を向けるようなことをするはずがなかった。ママは握り締めた右手の感情をゆっくりゆっくりとからだのなかへと散らしていき、やがて包丁を置いて息を吐いた。
「殺しちゃえばいいのに」
 私は思わず呟いていた。その声はママにもちゃんと聞こえていたはずなのに、ママは顔を上げて少し困ったように微笑んだあと、何事もなかったみたいに「急いで用意するからね」と私に言っただけだった。その穏やかな態度は私の醜さを晒しものにしているようで、向けられた視線は私の愚かさを静かに謗っているようだった。
 だけど私がママに向ける視線も同じだった。
「私、シャワー浴びてくる」
 そう言ってその場から逃れることが、食事を後回しにすることが、私にできる惨めな反抗だった。
 脱衣所で乱暴に制服を脱いで放り投げ、私は制服を踏み躙る。足の裏に突き上げるようなかたい感触があって、私はブレザーのポケットに仕舞いこんで半ば忘れていたそれをつまみだす。それは風玲といっしょにあの男から貰った肺華フェイファの種子で、二人で飲もうと約束したのに私だけが飲めなかった嘘でもあった。
 毒々しい紫色をした、異様にかたいその種が、私の人差し指と親指のあいだで存在感を放っていた。その確かさはあの場所で目の当たりにした風玲の甘い声とかはかなげなおっぱいとか、吐息とか、そしてそれから男の手つきとか、あの場で起きたことのすべてを私に思い出させるには十分だった。
 私は恐る恐る肺華フェイファの種を舌の上に転がしてみる。呑み込まないように注意して、舌の先でそのおうとつをくまなく調べるみたいに弄ぶ。味はしなかった。
 肺華フェイファは、呼吸という必須の楔から私たちを解放しうる逸脱の華だ。けれど、同時に人のからだに根を張らなければ育つことのない花でもあった。結局は何かに依存しなければ生きられない肺華フェイファは、私に似ているような気がした。
 ねえ、見てよ。けっこう育ってるっぽくない?
 肌を打つシャワーの音に紛れて、風玲の声が聞こえた。湯気でぼやけた白濁の向こうに、真っ直ぐ私へと向けられた大きな口が見えた。風玲の喉の奥で、肺華フェイファの蔦の代わりに男の節くれだった太い指が蠢いていた。
 風玲の虚像はすぐに掻き消えた。粗雑な男によって乱暴に犯され、風玲はそれを嬉々として受け入れていった。
 けっきょくのところ、風玲もあちら側だったというわけだ。ほんの少しの気まぐれで、こちら側に寄り道しただけだった。分かっていた。だから怒りや失望は湧かなかったし、まして失恋などでは断じてなかった。ただ落胆していた。
 私はシャワーに打たれたまま、両手で自分の首を絞めた。呼吸が止まる感覚があった。肌に食い込んだ指先に抗って喉が上下に蠢動しようとしたけれど、ただ空気が絞り出されただけだった。空気を絞るように吐き出すと、まるでそこから糸にでも吊られているように、今度は吐き気が込み上げた。私はバスルームの床に膝を打った。込み上げた吐しゃ物が抑えつけられた喉の隙間を縫って噴き出した。口のなかに留まっていた肺華フェイファは吐しゃ物と一緒に床に巻き散らされた。絞め上げ続けている喉に吐しゃ物が詰まった。当然息はできなかった。けれどどうやって食い込んだ指を肌から引き抜き、力を緩めればいいのかが分からなかった。落ちてくるシャワーの水が、ひどく重く感じられた。
 私は近づいてくる死の気配を感じた。少し息ができなくなっただけで人は死ぬ。その呆気なさを、命の軽さを、どうしようもなく思い知らされた。
 けれど私は死ななかった。死よりも足早に、バスルームの物音を聞きつけたママが扉を開けて私を抱き上げたから。
 ママは私の名前を呼び、喉を圧し潰している手を強引に引き剥がしていった。もう皮膚同士がくっついてしまって二度と離れることがないだろうとすら思えた指は、驚くほど簡単にほどけていって、私は急に流れ込んできた空気をシャワーの水と一緒に吸い込んで、激しく咽た。霞んだ視界の真ん中で、ママは涙を浮かべていた。
「馬鹿なことして、何考えてるの。辛いことがあるなら、相談くらいしなさいよ」
 ママはそう言いながら腕を伸ばし、流れ続けるシャワーの水を止めた。たぶん無意識の行動で、正しさに最適化されたママらしかった。ママはそれから私を抱きしめ、ひんやりと冷たい手のひらで私の背中をさすった。私のからだは熱を持っていて、だけど背骨のさらに内側のからだの芯のような部分だけは冷ややかだった。
「いいの、特別なことなんて何もいらないから。普通で、普通に幸せでいてくれたら、ママはそれでいいんだから」
 この人はいつだって正しいな、と半ば上の空の意識で思った。娘が自殺を図っても、その正しさは決して揺らぐことがない。けれどその正しさに善はない。少なくとも私のことは救わない。いつだって私の首を絞めるのは、この人が突き付け続ける正しさだった。
 床の吐しゃ物はすっかりシャワーに洗い流されていて、肺華フェイファの種子だけが取り残されていた。私はいびつな紫をぼんやりと眺めていた。けれど眺めているだけで、もうそれを拾い上げる気にはなれなかった。

   †
   
 いつもカラフルなジャージを着ている風玲ファーリンのクラスの担任が、その日は黒いシャツを着ていたから、何かあったのだろうかと勘繰った私の予想は見事に的中した。
 風玲が死んだ。
 その話はホームルームが終わると一瞬にして広まって、すぐに私の耳にも届いた。
 どうやら死因は過剰摂取オーバードーズらしいよ、とどこかから聞きつけた話を吹聴しているクラスメイトが、私のところへひょこひょことやってきて、大丈夫かと訊いた。ブレザーの袖についているボタンが一つ取れかけていて、私はそれを指で小突いてぶらぶらと揺らしていた。
「大丈夫」
 私はあっさりと答えた。実際、私は自分でも驚くほど、風玲の死をなんとも思っていなかった。それは、人はいずれ死ぬみたいな一般論とか、風玲に裏切られて憎んでいたからとか、そういうこととは少し違って、たぶんあのまま関係が続いたとしてもきっと私はなんとも思わなかったのだろうという気がしていた。
 実際〈ラガード〉での一件から、私はほとんど風玲と関わることがないままだった。もともとクラスが違ったから示し合わせて会ったりしなければ自然と疎遠になっていったし、あれから風玲はあまり学校に来ていないことも風の噂で聞いていた。そもそも今思えば何であんなに一緒にいたのかさえも分からないけど、きっとそれはお互いがお互いにとって都合のいい存在だったからなのだろう。
「でも、仲良かったでしょ?」
 クラスメイトが私に憐れむ眼差しを向けていた。それは同級生の死に対する正しい反応で、その友人らしい人間に向ける真っ当な感情で、同時にそれらを受け入れないことは過ちで卑しく、不誠実で薄情なことだと暗に告げるものだった。けれど私はそのことに気がついただけで、そのままならない自分を今更どうにかできると夢を見られるほど無邪気でもなければ、咄嗟に取り繕えるほどに聡いわけでもなかった。
「どうなんだろう。私にはよく分からない」
 私が言うと、そうだよね、まだ驚いてるよね、とクラスメイトはずいぶんと好意的な解釈をして、また風玲の死の吹聴へと戻っていった。ひょっとすると下世話な話を広めることへの免罪符として、私を気遣うようなポーズをとっただけなのかもしれない。もちろんそれがひどく穿った見方なことは分かっていたけれど、できればそうであってほしいなと願う私がいて、何でそんなことを願ってしまうのかと自分のどうしようもなさに少しだけうんざりしていたのに、一限目の始まりを告げるチャイムが鳴るとすぐにそれすらもどうでもよくなってしまった。

そんな調子だったから、私が風玲の追悼会に顔を出したのは、決して彼女の死を悼みたかったわけではなくて、そんな自分の薄情さを確認するためだったのだと思う。
 各クラスで担任からの呼びかけがあったこともあり、殯儀館ビンイーグァンにはけっこうな人数の生徒の姿があった。生前の風玲に友達が多かったのか、私はよく知らない。おっぱいのかたちとか、お尻の割れ目の頂点にほくろがあることとか、そういうことはいくらでも知っているのに、風玲の好きなものとか、嫌いなものとか、休みのときはどうやって過ごしてるとか、そういうことの一切を私は知らなかった。
 知らないことを自覚して、私は少しさみしさのような気分を感じた気がした。けれど気がしただけだったのかもしれない。私はあちこちで鳴っている爆竹や前のほうから響き渡る銅鑼の音、大声で泣き崩れる参列者たちを右から左へ、あるいは左から右へと流しながら感傷に浸って観たかっただけだった。
 盛大な哀歌の演奏が終わると、献花が始まって、私の順番は割とすぐに回ってきた。もちろん花なんて〈常福チャンフゥ〉では手軽に手に入るはずもないから、殯儀館から渡されるのは白い菊の花を模したナイロンとプラスチックの造花だ。それはまるで何一つとして本当に価値のあるものなんてない私の生活やこの世界の象徴のようだった。
 まがいものの花を供えて棺を覗き込む。棺のなかで眠る風玲は相変わらず可愛らしくて、心なしか微笑んでいるようにさえ見えた。
 音楽が鳴っていた。銅鑼が薄い空気を震わせた。風玲は死んでいる。後ろでまた誰かが泣き崩れた。音楽に合わせて踊り子がくるりと回った。拍手みたいに爆竹が爆ぜた。私は生きている。どうしようもない。
 献花を終えて、弔事の読み上げが始まる。私は会場を見回して火傷痕の男の姿を探したけれど、男の姿はどこにも見当たらなかった。既に帰ったのかもしれないし、そもそもこういう人目に触れるような場所に顔を出せるような人ではないのかもしれない。たぶんどちらかと言えば後者の可能性が高い。
 風玲にとって、あの男はどういう存在だったのだろう。あの男は風玲のことをどう思っていたのだろう。そんなことを考えていると、まるで私があの男を妬んでいるみたいだったから、考えるのをやめて席を外した。
 私は女子トイレに向かった。個室に入って鍵を閉め、蓋を下ろした便座の上で膝を抱えた。少し寒かった。学校の古びたトイレと違って、掃除の行き届いた綺麗なトイレはやけに広く感じられたから、あまり落ち着かなかった。
 乱れた息遣いの代わりに、規則正しく回り続ける換気扇のファンの音が聞こえていた。ドラッグの甘く濁った匂いの代わりに、芳香剤の滑らかで澄んだ香りが漂っていた。
 風玲が死んだ。その事実が持つ意味を、私はようやく少しだけ理解できたような気がした。
 トイレに誰かが入ってきたようだった。声が聞こえたからそう思った。ここにはドラッグもないし、みだらな行為もなかったけれど、私はなぜか後ろめたく感じて息を殺した。ここにいることは私たちふたりの、今は私ひとりの秘め事だった。
「植物?」
「そうそう。さっき、葬儀屋さんたちが話してたの偶然聞いちゃったのよ」
 入ってきた人は二人組で、楽しそうにおしゃべりをしている。追悼式の賑やかさにあてられて少し興奮気味なのか、声は上ずっていたけど、ひょっとすると元からそういう声なのかもしれない。
「気味の悪い植物が喉に詰まってたんだって」
「それじゃあ、オーバードーズじゃなくって窒息死ってこと?」
「そういうこと」
「なにそれ。というか、植物が喉に詰まってたって何があったの」
「さあ、食い意地でも張ったんじゃない」
 二人の笑い声がトイレじゅうに響いた。彼女たちは肺華フェイファを知らないようだった。私は今すぐ扉を勢いよく開け放ち、二人組に唾を吐きかけてやろうと思った。けれど私は膝を抱えたまま動くことはできなかった。肺華フェイファが風玲を殺したというのなら、私にはそれを笑った彼女たちを糾弾する資格なんてあるはずがなかった。
 じっと気持ちを落ち着かせてから会場へ戻ると、哀歌が賑やかに演奏されていて追悼会はとうとうクライマックスを迎えようとしていた。一層高らかに響く音楽と鮮やかな装飾に囲まれながら、風玲の眠る棺がゆっくりと運ばれ始めていた。
 棺はこれから宇宙に流される。これを流葬、という。
 参列者は告別場へと集められ、泣き叫んだり、手を振ったりしながら、宇宙の深い黒の只中をゆっくりと流れていく白い棺を見送った。銅鑼の音色が響き、告別場は賑やかな音楽に満ちていく。棺は少しずつ、けれど確実に離れていってだんだん小さくなっていった。
「地球ではさ、火葬っていう死んだ人を炎で燃やす風習があるんだって」
 まだ出会ったばかりのころ、風玲は私にそう教えてくれた。話半分で聞きながら、そんな贅沢なことができる地球はさぞ素敵な場所なのだろうと思ったけど、生まれてから一度だって炎というやつを見たことがない私にはその光景が上手く想像できなかった。そのときの私はたぶんぼけっとした顔でもしていたのだろう。風玲は私に向かって微笑んで、それからそっと抱きしめてくれた。すごく心地よかったはずなのに、その体温はもう思い出すことができなかった。
 私は参列者のなかに混ざって告別場の大きな窓から、手の届かないところへと進んでいく風玲を見送った。
 白い棺はどこへ向かうのだろうか。きっとどこへ向かっているにしても、風玲が最後に辿り着く場所は決まっているような気がした。
 肺華フェイファの種子を飲めなかった私の罪だけが、私と一緒に取り残されていた。

追悼式が終わっても私はすぐには家に帰らず、あたりを当てもなく彷徨ってみた。
 もしこのままスーツの空気残量がなくなれば、いずれ私は窒息して死ぬだろう。そうなったら、風玲ファーリンが最期に感じた苦しみの一端をほんの少しでも分かち合うことが私にもできるかもしれない。もう風玲がいない以上、それは単なる私の自己満足だと分かっていたけれど、私はそういうくだらないことを考えずにはいられなかった。
 けれど肺華フェイファの種子を飲めなかった私は、相変わらず中途半端に臆病で、空気残量が四分の一を切ろうかというころには、ちゃんと家の前の扉の前に立っていた。
 自嘲気味に笑っていたら、空気残量が四分の一を切ってアラートが鳴った。私は笑うのを止めて家に入った。
 電気は消えていた。玄関に靴がなかったからパパは夜勤だ。寝室を覗くと、ベッドの上ではママが胸のあたりを小さく上下させながら静かに眠りに就いていた。
 私はベッドに歩み寄った。眠っているママの表情のなさは、ついさっき見た棺のなかの風玲を思い出させる。けれど確かに聞こえる呼吸の音が、両者が明確に異なることを主張していた。
 私はママの隣りにある空白からパパの枕を取り上げる。深く息を吸ってから、私はそれをママの顔へと押し付ける。腕に力を込めて、体重をかけた。やがてママの腕がベッドを叩きつけるように跳ね上がり、私が抑える枕を引き剥がそうとカバーの隅をぎゅうっと握り締めた。
 私は夢中になって枕を抑えた。ママは脚をばたつかせ、腰を浮かせてからだを捻り、何とか枕から逃れようとした。私はそのたびに力の向きを繊細に調整し、ママの抵抗を阻止した。なんでこんなことをしているのか自分でも不思議だった。やがてママの手が私の手首を探り当てた。捩じり上げられ、振り上げられた脚が私の脇腹を蹴りつけた。
 一切の容赦がない抵抗だった。ママは見えていないながらに最初の蹴りで私の位置を把握するや、私のお腹を的確に踏み抜く。私は枕を掴んだまま後ろに倒れ、床に腰を強く打ちつけた。
 ママは身体を起こし、ベッドの上で激しく咽ていた。肩を上下させながら貪るような荒い呼吸を繰り返し、嗚咽と一緒に何かを吐き出す。吐き出された小さな粒は、ベッドの上で跳ねて床に落ち、私たちのあいだを転がった。
 それはバスルームで吐しゃ物にまみれていた、私の臆病さの証だった。
「なんで」
 私は枕を抱きしめたまま、端的な言葉をベッドの上でいまだ喘いでいるママへと向けた。ママは空気を貪りながら、乱れた髪の隙間から覗く目で私のことを睨みつけていた。私たちのあいだでは肺華フェイファの種子が唾液に濡れて、ぬらぬらと光っていた。
「拾ったの?」
 私はもう一度訊いた。ママは何も答えなかった。私の問いを有耶無耶にしようとして私のことを睨み続けていることは明らかだった。
 やがて私は声を上げて笑った。声も感情も、一体自分のどこにこんなにも大きなものが隠されていたのか分からなかったけど、私は次から次へと湧き出てくるそれらを躊躇うことなくすべて吐き出すつもりで笑い続けた。笑うたびに蹴られたお腹は鈍い痛みを発していたのに、けっきょくはそれすらも笑い声に変わっていった。それは何かが崩れていくときの音に似ていた。
 ママは私を見ていた。けれどもうその視線には強さも鋭さもなかった。ママは青ざめた顔で怯えていて、それは迷子とか、赤点のテストを隠す子供みたいだった。
 私は笑いながら涙を流した。あるいは泣きながら笑い続けた。
 ようやく息を吸えた気がした。

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