蛍光家族

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梗 概

蛍光家族

蛍光塗料をお互いに塗りたくって、いっせーの!で私たちは暗闇へ向かって駆け出した。
 私が一番遅いから、楓くんだけじゃなくて、5歳の甘夏にも置いていかれる。「追いかけてきて!」と笑いながら遠ざかっていくふたりが放つ光が、天井へと立ち昇っていくのがみえた。私たちがその日の最後の来場者で、蛍の光のチャイムが流れ出すと同時に照明がつけられた。皆くたくたに疲れ果てて、夏の夜を寄り添いながら家まで歩いた。
 TLN-6947GO決して消えない光
 その塗料から放たれる光は減衰も散乱もしない。それらを光線として天へと放つ。いつか宇宙人に観測されることを夢みて。科学博物館がそんな企画を開催した頃、人類はまだ光速を超えられないぐらいに愚鈍で、戦争を回避するぐらいに聡明で、荒唐無稽な夢想をするぐらいに鷹揚だった。
 踏み外してからは、あっという間だった。
 世界大戦は驚異的な速度で科学技術を進歩をさせ、人類はその技術を殺し合うことだけに利用した。
 楓くんが死んだ。甘夏も死んだ。家族を失い、私だけが生き残った。

生き残った人類はワームホールを発見し、暫くしてワームホールを通じて自在に多元宇宙を行き来する夢の乗り物タイムマシンの開発に成功した。タイムマシンは確かに過去に行くことができた。でも私たちの眼前に広がる過去は、思い出とは全く違う景色だった。私たちが夢みたのは、無限の可能性のなかのたった一つの可能性を、もういちどやり直すことだった。だけどその始原から無数に分岐する宇宙には、生物が存在する地球でさえ極稀にしか観測されなかった。

私の死よりも先に、地球の死が迫っていた。
 ふたつの選択肢が提示された。この宇宙で命を終えること。もうひとつは奇跡的に発見された”人類と文明が存在する宇宙”へと繋がるワームホールを移動すること。だけど、私の家族はこの宇宙にしか存在しない。私は前者を選んだ。

蛍の光のメロディーが流れ、私を乗せた星間観測船と、みんなを乗せたタイムマシンが同時に地球を離れた。
 かつて科学博物館があった場所から打ち上げられた私はスピードをあげて、ついには光速を突破した。何も見えなくなっても、私は決してスピードを緩めなかった。

地球からずっと遠く離れ、私は望遠鏡を覗き込んだ。半世紀前に私たちが放った決して消えない光を、私がしっかりとキャッチする。暗いドームの中で蛍みたいに光る楓くんと、甘夏と、私。置き去りにされた笑い声を補うように、私は笑いかける。

「追い抜いちゃった!」

ここよりも遥か遠くに、重力レンズ効果で全部が歪んでいる場所が見える。
 あの中心では、きっとブラックホールがその黒い口をぽっかりと開けているのだろう。決して消えない光も、いつかはそこに吸い込まれて永遠に消えてしまう。
 だけど少なくともまだある。あの光はまだ消えることなく、私の網膜を焼いている。

文字数:1193

内容に関するアピール

今の星の光が過去の光だと教わったのは、いつ頃だろう?人間はやがて死ぬと知ったのと同じ頃かもしれない。死ぬのが怖い。時間を巻き戻したい。速度が時間と距離によって導き出される概念であることに、小学生の僕はまた驚く。すごいスピードが、時間も距離も超えていく。でも僕は足が遅くて、タイムマシンを待つしかないと思う。やがてタイムパラドクスという概念に打ちのめされる。

やはりスピードが必要だ。いでよ、スーパーソニック・ジェットガール!(第1タイトル案)
 そして、強い光も。いでよ、ウルトラライト・ビーム!(第2タイトル案)
 十分に速い彼女も、十分に強い光も、しかしブラックホールからは逃れられない。

第6期で八代さんが「うさぎの人」ととても可愛らしい認知をされていたので、僕も「◯◯の人」がほしくなった。色々と考えて、「ブラックホールの人」で行こうと思った(可愛さは諦めた)。前期の最終実作もブラックホールだったし、オリジナル名刺にも黒い穴を開けた。なるべく講義には現地参加するので、刷りすぎた名刺を皆様交換してくださいませ。一年間よろしくお願いします!

文字数:470

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蛍光家族

私が足が遅いんじゃなくて、みんなが早すぎる。
 子どもの頃からそう思っていた。
 最初に覚えた言葉は「まって!」だったそうだ。
 お母さんとお父さんは私を置いてどんどん先にいってしまうし、小学校の運動会ではいっつもドベ。「のろま」とか「ぐず」とか酷いことを言われてからかわれたり、体育の前には決まってお腹がきゅーっと痛くなって、終わりのチャイムをトイレで聞いたこともあった。
 それでも足が早くなりたいと思わなかったのは、つまるところ、私は足の遅い私が好きだったんだと思う。お母さんは「のんびり屋だから、きっと長生きするわ」と笑ってくれたし、何事もゆっくりな私は、だから、あの日、通学路の端に落ちていた土繭を見つけることができた。
 蛍の幼虫が土繭を作ることを、そしてそれが滅多に見つからないことを、私は繰り返し見たドラえもんの学習ビデオで知っていた。
 土繭はそら豆ぐらいの大きさで、指先に力を込めたら壁がはらはらと崩れてしまった。
 ごろんと、丸々と太った幼虫がこぼれ落ちた。
 私の声にならない悲鳴をキャッチして、その日偶然に遅刻していたクラスメイトが駆け寄ってくる。
 すこし背の高いパーカーの男の子。埠頭楓ふとう かえでくん。
 楓くんは私のとなりにしゃがみ込むと、「わ、蛍」って幼虫を手のひらに乗せて、もう片方の手を重ねて閉じ込めた。
 「ほら、光ってる」
 親指の裂け目を、楓くんと同じように私も覗き込む。彼の両手のなかで、蛍の幼虫がうすらぼんやりと闇を照らしていた。
 もしおばあちゃんになって、ボケちゃって、なにもかも全部忘れても、楓くんの手のなか、蛍の弱すぎる光を、それを見る私を取り囲んでいたぜんぶを、私は決して忘れることはないだろう。晴れているのに雨の匂いがして、草いきれのなかで緑色の光線が反射し、広い道から少し逸れただけで、世界には人間は私と楓くんしかいないかもって本気で不安になるぐらい人の気配がなかった。楓くんの手は男の子特有のごつごつとした形なのに、ひっつけたらパンみたいにふわふわとしていた。
 私もお気に入りの薄いピンクのパーカーを着ていて、フードがまったく同じ曲がり方をするふたりだったから、運命って案外こういうさりげない感じ?
 こころはトランポリンみたいに軽やかに高く跳ねて、私はこの男の子と結婚するんだって、そう思った。

そしてそれが本当になった。楓くんの隣にいると、私はいつも驚いてしまう。

小学4年生から続いていった、とても緩やかで穏やかな私たちの恋愛は、結婚してからも、まるでおままごとみたいだった。だから、大学を卒業した年の冬に子どもができたとき、私たちは顔を見合わせて驚いた。引越とか、税金とか、助成金とか、おままごとが一気にリアルになった。私たちは初めて喧嘩らしい喧嘩をして、その度に私は蛍のシーンを思い出した。
 つわりが終わっても、膨らんだお腹が胃を圧迫して何も食べられない。栄養失調で絶対安静と言われ、入院する羽目になる。感染対策ってことで、楓くんは面会にこれない。昼には興味のなかった高校野球を見て、夜にはドラえもんの大全集を読むだけの、果てしなく暇で、果てしなく退屈な夏。赤ちゃんは順調に大きくなっているのに、私はどんどんと痩せていく。
 とうとう点滴になった。何もする元気がない。楓くんに会いたいけど、仕事が忙しいみたい。
 蝉の鳴き声に邪魔されながら、ビデオ通話でお母さんに愚痴を言う。
 「早く出てきてくれないと、このままじゃ私が死んじゃうよ」
 「富夏とみかの娘でしょ。遅いに決まってるじゃない」
 そんなお母さんの予想は盛大に外れる。
 予定日から早まること2週間以上。どうやら私の赤ちゃんは、結構足が速いみたいだ。
 男の子だとか、女の子だとか、あんまり関係ないのがいいね。
 その夜、はじめての3人の時間に、名前について楓くんと話したことは、それぐらいだった。
 だったら、って生まれたばかりのあの子を慎重に抱えなおしながら、楓くんがなにか言おうとしている。はにかんでいるように見える。同じ気持ちだった。だけど最初にその名前を呼びたかった。だって私が産んだんだもん!
 「ほたる」
 とても静かな、全人類が絶滅したあとみたいな病室で、楓くんが微笑んでいる。私の声が反響して、私へと返ってくる。喜びに射抜かれて、私たちは涙を流す。
 ほたる、楓くん、私。
 それが、私の家族。

かっきーーーん!
 高校球児にしてはやせっぽちの選手が、豪快なホームランをかっ飛ばす。ダイヤモンドを爽やかに駆け抜ける姿に、私は思わず拍手をする。ほたるもそれを真似る。あの辛かった入院生活の、最大の収穫。
 野球って面白い。
 サッカーと違って、のんびり見れるのがいい。家事をこなしながら観戦できるし、途中で寝てしまっても試合が続いてる。楓くんはぜんぜん興味ないみたいで、見るのはもっぱら昼にやっている高校野球。だから私にとって夏と野球はイコールで結ばれている。
 そうやってほたると過ごす3度目の夏に、お父さんが倒れた。
 甲子園に行く途中、新幹線の駅で倒れて、意識不明で搬送された。
 「そんなに野球好きだったの⁉」
 報せを受けた娘の第一声があまりに想定外で、電話口の向こうでお母さんが笑ってる。
 「お父さん、あんたと話す口実が欲しかったのよ」
 そのまま、お父さんは目を醒まさなかった。今夜が山だって、家族が病院に呼び出された。いろんな管に繋がれているお父さんをみんなで囲みながら、私はお母さんのとりとめのない思い出話に耳を傾けていた。
 「動物園でデートしたの。今日ほどじゃないけど、暑い日でね〜。なんでこんな日に動物園なの!つって怒っちゃって。そしたら涼しそうだからあそこ行こうって。そしたら広場みたいなところでおっきな氷が並んでて、そこにピタって、ペンギンたちが涼んでるの。パンフレットを丸めて、ペンギンの頭を、ポーンって、こうやって手を伸ばして、こっそりと、お父さんが叩いたの」
 「え?なんでですか?」
 楓くんがキョトンとしている。
 「知らないわよ〜。ムカついたんじゃない?こっちは汗だくなのに、涼しそうで。すっごいいい笑顔で振り向くもんだから、お母さんも釣られてげらげら笑っちゃって。言えるのは、あの瞬間がなければ、次のデートは絶対になかった」
 つまり、私もここにいなかった。ほたるもいなかった。人類の歴史からすれば無に等しいエピソードなのに、私たちの存在の条件になっている。私たちにとっての蛍が、ふたりにとってのペンギンなのかもしれない。ちょっと猟奇的で怖いけれど……。
 お父さんを見る。これが最後かもしれないと、目に焼き付けるつもりで。
 芋づる式にたくさんのことを思い出す。忘れていたことさえ、忘れていた記憶たち。お父さんが死んで、私もそれを忘れてしまったら、それは起きなかったと同じことじゃない。そんなことを思って、切なくなって、しくしくと泣いてしまう私を、ちいさなほたるの手が慰める。
 私はぜんぶ覚えていたいと思った。ほたるのすべてを、楓くんのすべてを。なかったことにしたくはなかった。
 次の日の正午過ぎ、お父さんは死んだ。死亡宣告がかき消されるぐらい蝉の声がうるさくて、やりなおしですねってお医者さんが優しく笑った。亡骸をぼーっと眺めながら、私は高校野球の結果をスマホで確認する。「大阪が勝ったよ」とお父さんの耳元でささやいた。
 「のんびり屋だから、きっと長生きするわ」ってお母さんの予想は、当たったら残酷だなと思う。長く生きるってことは、多くの大切な人たちに置いて行かれることことだから。
 待って。
 火葬場で、思わず私は口にしてしまう。でも誰も待ってくれない。私が遅いんじゃない。みんなが早すぎる。お父さんは燃やされて、骨になってしまった。お父さんの顔を、もう私は思い出せない気がして、骨の欠片をひとつ拾ってポケットに仕舞う。
 クーラーのよく効いた待合室のテレビで、高校野球の決勝戦が流れていた。
 楓くんが「お疲れ様」ってキンキンに冷えた烏龍茶を注いでくれる。
 かっきーーーん!
 はっとするような美しい弧を描いて、ボールがスタンドに吸い込まれていく。私の憂鬱を吹き飛ばす、9回裏ツーアウトからのあまりに劇的な逆転満塁サヨナラホームラン。
 「すっげー!」。楓くんも勢いよく椅子から立ち上がる。
 私たちは手を叩きあって、興奮を分かちあった。
 「来年は家族で甲子園に行こうね。お父さんも連れてこう」と私はくすねた骨を取り出して楓くんに見せる。
 「ほたるがもうちょっと大きくなったら、野球チームに入れたあげたいな。きっと私と違って運動音痴じゃないと思う。いきなりレギュラーになっちゃうかもよ。そしたら試合前は超早起きして、お弁当の準備するんだ」
 私はなんだか楽しくなって、お父さんごめんねって思う。
 ゲームセットを報せるサイレンが、けたたましく響いた。その音に目を覚ましたほたるが「こわいよ〜」って泣く。私もこのサイレンが怖くて、子どもの頃は甲子園中継が見れなかった。
 「大丈夫だよ、今年が最後」
 守るようにほたるを抱きしめる。紛らわしいという理由で、来年からこのサイレンは廃止されるそうだ。

じりりりり。
 耳障りなアラームで目を覚ます。う〜っと、低い唸り声をあげながら私はのそのそと起き上がる。朝の4時。夏真っ盛りだと、この時間でも空はうっすらと白く、ムワッと暑い。
 自分が望んだことなのに、ほたるに野球を習わせたことを後悔するのは決まって試合前の朝だった。何事も時間がかかる私は、早起きしないと満足ゆく準備ができない。幸か不幸か、ほたるはやっぱり私に似なかった。運動が何より大好きで、少年野球チームで男の子に混ざってレギュラー争いをしている。
 小学2年生にもなると、体格差に悩むことも多いみたいで、お弁当は彩りや味より何より量を要求される。巨大なおにぎりをふたつ。おかかとじゃこ。熱中症対策にどちらにも梅干しを追加する。小さなほたるが大きなおにぎりを頬張る姿が可愛くて、それを想像しているうちに気分も晴れてくる。
 楓くんも起きてくる。目をこすりながら野球用具を点検して、バッグに丁寧に詰めてくれる。
 準備を終えて、一息ついたら、ふたりでコーヒーを飲む。ほたるは試合の朝はギリギリまで寝たがる。窓から差し込む日差しに目を細めて、「今日も暑くなりそうだ」と楓くんが苦笑いする。
 静かな朝。ふたりのあいだでキラキラしたほこりが舞っている。
 よしもとばななの文庫本を読み始めた楓くんに、タイミングを見計らって話しかける。
 「「デッドエンドの思い出」もう読んだ?」
 「読まない。ハッピーエンド至上主義者なので、僕」
 「え〜〜、読んでもないのに」
 「どんな話なの?死んじゃう系?」
 「忘れちゃった。覚えてるのは、ドラえもんが出てくることだけ。「幸せっていうと、何を思い浮かべるか」みたいな会話で、主人公がドラえもんとのび太くんがいるイメージ、関係性、って答えるの」
 「わかる気がするな」
 楓くんが文庫本を机に置いて、なにか考えている。コーヒーを一口飲んで、ぜんぜん違う話かもだけど、と前置きして彼が話し始める。
 「僕さ、ドラえもんでいちばん切なくなるのが、最初なんだよね。ほら、セワシが未来から持ってきたアルバムに、ジャイ子ちゃんと結婚したのび太の家族写真が並んでるんだよ。しずかちゃんと結婚しても、結局セワシは産まれるっていうけど、あの写真の子どもたちはどうなるの?って」
 だから、僕は絶対にタイムマシン計画には反対。
 そう言い切る楓くんは少し憤っているようにも見えた。
 「なかったことにされちゃ、たまんないから」
 私はふうと息をはく。
 悪夢みたいな戦争とタイムマシン夢の乗り物で最近のニュースはもちきりだ。戦っている国同士なのにタイムマシンの研究では協力していたりして、人類は本気で実現しようとしている。もちもちで小さいころのほたるにまた会えるのかな〜、って私は楽しみにしていたけれど、なるほど、タイムパラドクス。
 過去にアクセスすることで、現在が危機に晒される。
 楓くんに怒られた気がしてしゅんとしていると、「おはよーーー!」と朝からテンションフルスロットルのほたるがキッチンに駆け込んでくる。「今日こそ、ぜっったい、ホームラン打つからね!」と喋りまくりながら朝ごはんを流し込んで、おもちゃのバッドを素振りをして私たちを笑わせる。
 幸せな食卓。平和な朝のシーン。
 この瞬間、もしも誰かがタイムマシンに乗り込んだとする。のび太くんとジャイ子ちゃんの子どもたちのように、その影響で楓くんやほたるが消えてしまったとしたら、私はふたりが消えたことすら気付けないかもしれない。
 それって、ミサイルが飛んでくる確率よりもよっぽど高いんじゃない?と、急に怖くなった私をほたるがギャグで笑わせる。
 いけない、遅刻しちゃう!
 今日こそ、ほたるのホームランが見れますように。

帰り道、パーキングエリアでラーメンを食べた。
 今日のほたるの成績。ベンチスタート、6回表から出場。2打席0安打。どちらも豪快な3球3振フルスイング。「もっとボールを見なきゃ」って私も楓くんもアドバイスするけど、「見てから打ったら間に合わないもん」と頑なに譲らない。私だったらもう嫌になって野球を辞めてるだろうけど、ほたるはひとしきり泣いてからはずっと笑ってる。
 伸びきった麺でも楓くんは美味しそうに食べる。私は瓶のコーラを買って、卓上のポッカレモンを数滴入れて飲むのが好き。おやつのたこ焼きを食べ終えて、立ち上がった瞬間に「蛍の光」のメロディーが流れた。「わたしの歌だ!」ってほたるは私たちの手を強く握る、握り返す。
 このパーキングエリアは森の近くにあって、だだっ広い駐車場に車がはなればなれに並んでいる。その中にはキャンピングカーも多い。大きな車体から漏れ出る光がぼうっと闇を照らしている。
 カー族と呼ばれる人たちだった。いつ戦争が始まっても逃げられるように、ああやって車のなかで生活している。世界がぎりぎりのところで踏みとどまっている。
 楓くんの煙草を車で待ちながら、お腹いっぱいで疲れ切った私たちはねむってしまう。
 目を覚ますと、車は高速道路を走っていた。森と煙草と缶コーヒーが混ざった複雑な香りが車内を満たしていた。
 「おはよう」
 きょろきょろしている私のために、楓くんが室内灯をつけてくれる。私たちの王女様は後部座席で大の字になって眠っていた。気の抜けたコーラを一口飲んで、シフトレバーに置かれた楓くんの手にそっと触れる。
 前にも後ろにも他に車は一台も走っていなかった。心細さと安心が譲り合うように私を満たしていく。小さな音で流れるラジオでは海の向こうの戦争についてDJが早口言葉みたいに話して、優しい音楽をかけてくれる。祈りみたいに。急ぐように。
 いい曲だね。楓くんも歌詞を口ずさんでいる。
 世界が駄目になってしまっても、こうやって車で走り続ければ、私たちは逃げ切れる気がしてくる。カー族、悪くないかも。むしろ最高かもしれない。家族と、あとは優しい音楽さえあれば。ゆっくりな私でも、これなら同じスピードで走っていける。夏は海に行こう。冬は身を寄せ合って眠ればいい。ああそっか、カー族だとほたるが野球を続けられなくなっちゃう……。ほたるは、ほたるはタイムマシンに乗りたがるだろうか。
 私は、もういちどこの車内に戻りたいって、おばあちゃんになったらきっと思うだろうな。
 なにも足りないものがない。なにもいらないものがない。
 ふわ〜。また眠たくなってきた。握る手の力をほんの少し強める。「おやすみ」と楓くん、「ありがとう」と私。そうだ、家に帰ったらベッドに入る前に、お鍋に煮干しをひとつまみ入れておこう。そうすれば朝ごはんに美味しいお味噌汁が飲めるから。忘れないようにしなきゃ。
 覚えておいてね。そう言いたくてなんとか目を開けようとするけれど、津波のような眠気が私に押し寄せてくる。
 眠りへと飲み込まれる直前に、DJが嬉しそうに言った。
 「決して消えない光が開発されたそうです。未来は明るい」
 そして車は走る。まっ暗な中。

特殊塗料TLN-6947GO決して消えない光
 その光は、それ以上減衰も散乱もしない。
 タイムマシンの研究を国際的にリードする星宙観察研究センターが開発したこともあって、そのプレスリリースは瞬く間に全世界に拡散された。あまりピンときていない私に、タイムマシンにはあんなに冷淡だった楓くんが熱っぽく説明してくれる。
 「これで宇宙人が地球人を見つけやすくなる」
 「え〜、そもそも宇宙人なんているの?」
 「100%いるって宇宙飛行士の人が言ってた。200%会わないとも言ってたけど」
 「だめじゃん」
 「でもこれからは会える確率はぐんと高くなる。宇宙の果てまで届く光なんだから、いつかきっと宇宙人が気付いてくれる」
 「もし光が遮られたら?星屑とか、宇宙ゴミとか」
 「宇宙なんてスッカスカだし、きっと大丈夫、銀河系ですら全宇宙に占める割合なんて、ほんのわずかなんだから」
 「そうかあ。でも宇宙人が見つけてくれた頃には、私たちもう死んでるよね」
 「富夏はリアリストだなぁ…そうじゃなくてさぁ…」
 珍しくムキになっている楓くんに、私は思わず吹き出す。それを真似してほたるもぷぷぷって笑う。
 「ごめんね、楓くん。楓くんがそんなに宇宙人と会いたいって思ってたなんて私、知らなかった」
 そして、それは楓くんだけじゃなかった。
 多くの人たちが、いつか宇宙人に自分たちを見つけてもらおうとしていた。
 今ならわかる。あのとき、人類はデッドエンドをうっすらと予感していたんだ。

TLN-6947GOを全身に纏い、人間の姿を光線として宇宙へと放つ。いつか宇宙人にキャッチされることを願って。
 星宙観察研究センターと天文台が共同開催する「未来に照らす」展は、連日大盛況だった。同じ野球クラブのママ友がチケットを譲ってくれて、それを知った楓くんがぴょんぴょん飛び跳ねて喜んでいた。
 「きっとタイムマシン計画が頓挫したんだよ。やっぱり人間は過去じゃなくて、未来を向かなきゃね」
 楓くんはホッとしたようにつぶやく。
 『永久保存のホームムービー』
 「未来に照らす」展のキャッチコピーがそんなだから、ほたるにはとっておきのワンピースを着てもらった。親バカかも知れないけれど、めちゃくちゃ似合って、めちゃくちゃ可愛い。宇宙人もメロメロになるだろう。楓くんはいつものTシャツ姿。あんまり気負った格好をしたくないそうだ。そして私はといえば…。ここ数ヶ月の出不精のせいで今日のためのドレスが入らず、絶望しながらクローゼットを漁っていた。
 「おそーい!はやくー!」
 玄関に射し込む光のなかで、ほたるが口を尖らせている。
 「ごめん、待って〜」
 どれだけ急いでも、相変わらず私はなにもかもが遅い。
 「天文台しまっちゃうってば〜。ねえパパ〜、先に行こうよ〜」
 「ほたる、落ち着いて。はやく行っても並ぶ時間が長くなるだけ。急がなくていい」
 「でも車じゃなくて歩くんでしょ?急がなきゃ。ママ、歩くの遅いんだもん」
 ほたるは諦めたみたいに素振りの練習を始めて、その隣で楓くんが苦笑いしている。
 ガソリンの高騰で車には滅多に乗れなくなった。だからほたるの試合もほとんど中止になって、家族で外出するのもずいぶん久しぶりだった。
 「ごめんね、おまたせ」
 息を切らして玄関へと走ってきた私をひと目みてだけで、楓くんは気がついてくれた。クローゼットの奥で実家から送られてきた衣装ケースが埃を被っていた。私は迷わなかった。あのときの薄いピンクのパーカー。
 「宇宙人には伝わらないんじゃない?」
 「宇宙人どころか、全宇宙の歴史上、私たちにしか伝わらないよ」
 私たちは笑いあう。
 「あ〜もう!なんでもいいから早くいこうってば!」
 バットを放り投げて、ローファーを踏みしめ、ワンピースをはためかせながらほたるが駆けていく。楓くんもその後に続く。私には追いつけそうにないスピードで。 
 遠ざかっていくふたりの背中をめがけて、私も走り出す。ゆっくりと。

「お時間です」
 穏やかな女性のアナウンスが流れる。ドームの中で反響して何重にもエコーがかかり、鼓膜がぐわんぐわんと揺らされる。
 続いて照明がつけられた。強すぎる白い光で、私たちを纏う「決して消えない光」は見えなくなってしまう。外側からロックが外され、重い扉が開かれた。逆光に照らされる人影にずっと前に観た「未知との遭遇」を私は思い出した。
 「もうおしまい?」
 ほたるは明らかに物足りなさそうだった。全身に蛍光塗料をまぶされて、暗いドームの中で追いかけっこをする。はるばる天文台まで歩いて、私たちがしたことといえば、それだけといえばそれだけだった。お母さんは久しぶりにこんなに走って、くたくただけど…。
 息を整えながら、出てきたばかりの黒いドームを振り返る。突然、自分の既視感の正体をつきとめる。
 ──土繭だ
 私たちは蛍で、土繭のなかで弱々しく発光している。あるいは、大きな手が私たちを取り囲んでいる。その大きな目が私たちを覗き込んでいる。
 館内のあちこちにあるスピーカーから、一斉に蛍の光が流れ出す。「またお会いできることを心よりお待ちしております」とさっきの女性の声でアナウンスされる。
 「ほたるの歌だよ」
 「この歌嫌い。寂しい気持ちになるから」
 ほたるはどんどん大きくなる。繋いだ私の手を振り払って、天文台の入り口へと小走りで向かう。
 「ほたる〜待ってよ〜歩こうよ」
 「やーだ」
 ぷいっとそっぽをむいて、いたずらっぽく笑って、楓くんの手をとって、ほたるは夜へと走り出す。
 「ママー!はやくー!おいてっちゃうよ」
 「え〜、待ってよ〜」
 「待たな〜い、行こ!パパ」
 「待って〜楓くん〜」
 「ごめん!ちょっと先に行ってるよ、ほたる、元気があり余ってるみたい」
 「頑張って追いかけてきてね、ママ」
 うすらぼんやりと、ふたりが発光している。蛍みたいに。

追いつくのを諦めて、私は歩きだした。
 一度でいいから、ほたるのホームラン、見たかったな。
 甲子園の音が鳴り響いたとき、私はそんなことを想っていた。次の瞬間には地面に吹き飛ばされて、雷みたいな轟音が地球を揺らしていた。見上げれば、夜が真っ赤に照らされていた。

明け方の第4グラウンド。
 二弧にこちゃんが投げたボールをなんとか打ち返す。低すぎる弾道は、ホームランとは程遠い。
 「やっぱり無理」
 私はパワードスーツを脱ぎ捨て、支給された水を一気に飲み干す。
 「ホンマに運動神経悪いんやなぁ……」
 二弧ちゃんが呆れ顔で近づいてくる。たとえ人工的な筋肉を纏ってみても、センスまでは増強されないみたいだ。
 「ほたるちゃんは、お父さん似やったんやね。顔は富ちゃんそっくりやったけど」
 そうだっけ?と言おうとしたら、防災無線からジェイミーの声。こないだ埋め込まれたばかりの新しい翻訳機は、言い方のニュアンスまで拾い上げてしまう。避難指示の原稿を読み上げているだけなのに、彼女が怒っているのが伝わってくる。
 「この機能、ぜったい喧嘩が増えると思うねん。私って関西弁やん?めっちゃガラ悪い感じで伝わってるわ」
 二弧ちゃんのぼやきに、私は笑う。この子が誰より親切なことを、シェルターの誰もが知っている。
 『雨に降られなかったでしょうね?』
 腕組みしたジェイミーが、私たちを出迎える。シェルターにはほとんど全員が既に集合していた。
 『今日は大事な日なんだから』
 ジェイミーの瞳に、ブルーバックのスクリーンが映り込んで、その青を一層深いものにしている。
 「夢が叶う日やからな。昨日から緊張して、じっとしてられへんかった」
 二弧ちゃんがごめんごめんってジェスチャーで、ジェイミーに軽くハグをする。みんながその景色を見守っている。出自も肌の色もセクシャリティーも異なる女たちが、東京の地下で共に生きている。
 思想とか、そんなんじゃなくて、気がついたらここは女だけになっていた。パワードスーツのおかげで、肉体労働も大して苦にならない。泥だらけになって配管工事をしているなんて、10年前の私がきいたらどんな顔するだろう。
 男の人たちは、少し離れたシェルターで暮らしている。晴れた日は遊びに行ったり、遊びに来たりすることもある。でもそうすると争いごとも格段にふえて、仲違いを何よりも嫌うジェイミーが不機嫌になって泣いてしまう。
 ”Be Sweet to Each Other人にやさしく.”
 それが彼女の口癖だった。

世界大戦を経て、人類は確実にやさしくなった。
 単に、そうしないと種として生き延びられなかっただけだとしても。ほたるを失って、楓くんを失って、それでも私がこうやって生きているのは、その巨大なやさしさの集合体に触れただろうからと思う。
 人類は理想に燃えていた。その炎は私たちの魂を、芯から温めた。
 人類は聡明で、狡猾だった。表では殺し合いをしながら、裏では助かるために協働していた。戦争は科学技術を驚異的なスピードで進歩させ、私たちはその恩恵に授かって、思いの外快適な生活を満喫している。
 黒い雨さえ避ければ、張麗花チャン レイファ、私たち日本人は親しみを込めて「花さん」と呼んでいた、のように天寿を全うする人もいた。翼のアタッチメントを装着すれば音速を超えて移動できるし、蕩けそうに柔らかい人工肉を好きなだけ食べることができた。

未来をより善くする、という私たちの理想は、だけど、懐かしさには勝てそうになかった。
 「後ろを振り返るとつらくなるから、みんな前しか見いへんのよ。でも、つらくてもしてまうのが人間やろ」
 出会った頃の二弧ちゃんが、自嘲気味に言っていた。
 二弧ちゃんも戦争で家族を失った。彼女の旦那さんは海兵さんで、船に乗っているところを攻撃されたそうだ。だから晴れた休みの日には、必ず彼女は翼を使って海へと翔ぶ。自力で超高性能のソナーを開発して、沈没した雲龍湖丸を、旦那さんのお骨を、探しまわっている。
 一度だけ、二弧ちゃんを手伝わせてもらったことがある。
 その日も特に収穫はなくて、ふたりで空のうえで抱き合って泣いた。とても不思議な気分だった。野球クラブに通わせるママ同士だった頃は、軽く挨拶を交わす程度だったのに、今はお互いに魂を慰め合っている。私たちはとても深いところで繋がり、共鳴しあっていた。家族とだって、こんなにも分かりあったことは果たしてあっただろうか?青空と海に囲まれて、私たちの影だけが水面に黒い染みをつくっていた。
「どうしても、もうひと目だけ、会いたいねん」
 そんな二弧ちゃんの、みんなの、夢が、遂に今日叶うかも知れない。私たちは息を殺して、映像が届くのを待っていた。
 スクリーンにラヴィ・シャルマ博士の姿が映し出されると、自然と拍手が沸き起こった。博士の表情は「良いニュース」のときの表情だった。
 『世界中の友達たちへ』
 いつもの決まり文句はいいから、早く続きを聞かせて。全員のはやる気持ちがシェルターの中に充満して、破裂しそうになっていた。
 『良いニュースです。おそらく、人類の歴史上、最も良い。人類はタイムマシンの開発に成功しました』
 炸裂する喜びの中で、私だけが不安を募らせていた。

結局、私の不安も、みんなの期待も、どちらも実現しなかった。
 シャルマ博士の発見した人工的なワームホールは、たしかにタイムマシンだったけれど、人類が夢みた乗り物ではなかった。
 ワームホールを通れば、たしかに私たちは過去に行くことができた。しかも、その時間旅行はタイムパラドクスを引き起こさなかった。だけど、その「過去」の景色は、私たちが想定していた「過去」とあまりにも違っていた。
 『過去をどう定義するかです』
 「悪いニュース」の顔をして、憔悴しきった博士が質問に答えている。博士を責めても仕方がないと分かりながら、みんなやり場のない失望の受け皿を探してしまう。
 『例え話をさせてください。この宇宙の始原から、神様が、もしそんな存在がいればですが、サイコロを振り続けたとする。その出目によって、世界は刻々と変化していく。私たちが共有する「現在」を(n)回目の施行結果としましょう。ワームホールの行き先は過去、神がサイコロを(n-k)回振った時点であり、変数kはかなりの精度でコントロール可能です。ただし(n-k)回のサイコロの出目は、まさにランダムなんです。それが最大の誤算でした』
 無限の分岐の中の、たったひとつの可能性。それが私たちの切望する過去。夢の乗り物タイムマシンに乗っても、。ワームホールによる時間移動は、だからタイムパラドクスとは無縁だった。
 『しかし、可能性はゼロじゃない』
 それから、夥しい数のワームホールが、博士によって穿たれた。極稀に、博士が亡くなるまでにたった3回だけ、地球が観測されるワームホールがみつかった。
 だけど、そこに人間の姿はなかった。
 私たちはといえば、無理にでも前を見るしかなかった。
 黒い雨をたっぷり含んだ津波が、私たちの生存を脅かし始めた。

「富ちゃんはどうするん?」
 眠るジェイミーの傍で、私たちは身を寄せ合っていた。80年近く使い古した鼓膜では感度をマックスにしても聞き取れない。
 「もっと大きな声で」
 「富ちゃんはに行くのって、言ってるんよ」
 やっと聞こえた。あまりに大声でジェイミーが起きちゃったけど。
 『一緒に行こう』
 咳き込みながら、満身創痍のジェイミーが私たちに手を伸ばす。
 「あかん、寝とき」
 「本当に死んじゃうよ」
 『あんたらの声がデカいんだよ!』
 私たちはケラケラ笑う。戦争のおかげで、最高の友達ができた。
 耳だけじゃなくて、目もすっかり霞んでいる。だけどゴーグル越しじゃなくて、この目で私はジェイミーを見つめたい。
 「ごめんね、ジェイミー。私はこっちに残るよ」
 『そう言うと思った。ニコは?』
 「ごめん。ここに残るつもり」
 『この裏切り者』
 「人数で言えば、裏切りもんはあんたやけどな」
 私とジェイミーだけじゃない、二弧ちゃんもきっと泣き笑っている。

私の寿命より、地球の寿命が迫っていた。
 人類は力を合わせて、本当によく頑張った。神様も褒めてくれるに違いない。
 私たちは、たとえば、量子のエンタングルメント通信を確立して、異星人に助けを求めた。だけど返事はなかった。光速を超える星間観測船を開発した。だけど人間が住めそうな星は見つからなかった。
 そして空も海も真っ黒に染まってしまった。人間以外の生物は死に絶えてしまった。
 この宇宙を諦めてからは、人類の叡智はすべてワームホール研究に注ぎ込まれた。
 シャルマ・プロトコル。
 完全ではないにせよ「サイコロの出目」を操作する技術はそう名付けられ、とうとう実用化された。
 この地球最後の「良いニュース」が届けられた。地球があり、文明があり、人間がいる宇宙へと繋がるワームホールがとうとう発見された。
 だけど、その宇宙には、ほたるも楓くんもいない。

ジェイミーに最後のハグをする。力いっぱい。
 『骨が折れるよ』
 「折るつもりでハグしてるから」
 「あっちでは何歳になる予定なん?」
 『ぴちぴちの17歳』
 きゃ〜!って私たちは黄色い声を出す。いいなぁ、青春じゃん。
 『本当に、ふたりはこっちに残るの?』
 声を振り絞って、ジェイミーが問いかける。だけど、私たちの出した答えは変わらない。もうしばらくすれば、地球が地球の形を保てなくなるだろう。そうすればこっちのワームホールは失われ、私たちは永遠にはなればなれだ。
 切ない。
 揺らぐはずないと思っていた決意は、思いの外脆かった。ジェイミーのように家族がいなかったら、私は迷わずあっちへとダイブしただろう。ジェイミーや二弧ちゃんと女子高生をもう一回するのも悪くない。
 ていうか、絶対最高じゃん。
 ──だけど、もうひと目だけ
 ジェイミーがスーツを脱ぎ捨て、身体中に埋め込まれたデバイスを外していく。あっちには持ち込んでいいのは身体だけって、みんなでそう決めたそうだ。
 私たちも耳のデバイスを外す。
 ジェイミーの本当の声が聞きたかった。覚えておきたかった。
 ”Be Sweet”
 ジェイミーの姿が消えていく。声を振り絞って、私は返事をする。
 ”Be Healthy”
 どうか、元気でいてね。

かっきーーーん!
 ボールは美しい弧を描いて飛んでいく。
 「え、嘘やん」
 マウンドに立つ二弧ちゃんが、鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしてる。私は自分の足でダイアモンドを駆け抜ける。
 みたか、ほたる。ママ、とうとう打ったよ。文句なしのホームランだ。
 めちゃくちゃ時間がかかったけど、打ったんだ。
 私が遅いんじゃない、みんなが早すぎるんだ。
 「おめでとう〜!すごいな〜、泣いてもうたわ。富ちゃん、スーツも着てない、ただのおばあちゃんやのに」
 駆け寄ってくる二弧ちゃんと、高校球児みたいに熱い抱擁を交わす。黒い雨にうたれながら「最後に、ええのん見せてもろたわ。ありがとう」と耳元で二弧ちゃんがささやく。私は泣かずに笑顔を作るだけで精一杯だった。
 二弧ちゃんは地球が壊れるその日まで、雲龍湖丸を探し続けるそうだ。翼を装着しながら「少なくともまだ、大丈夫」と呑気に笑ってる。
 「会えたらいいね」
 「富ちゃんこそ。ていうか、時間、大丈夫なん?」
 「そうだね。歩きだから、そろそろ行かなきゃ」
 「見送ったろか?」
 「嫌だよ、ここでバイバイしよ」
 とても豊かで、複雑な沈黙が私たちに訪れる。
 「もしさ、もし、気が変わったら……」
 二弧ちゃんは、その続きを言わない。言ったら、決意が揺らいでしまいそうだから。だけど、私は知っている。私たちの決意は、たとえ逆方向に振れても、最後は同じ向きへと戻っていく。磁石の針が、最後には必ず北を指すみたいに。
 だから、さよならのかわりに、私が続きを言う。
 「三人で、渋谷でクレープでも食べようぜ」

私が知る限り、それは地球上で最も繊細な計算だった。
 あの夜、光線が放たれた瞬間の地球の座標、放射の角度と力、さらには地球の公転軌道の微小な変動や自転速度の変化まで、すべての情報が必要だった。そして、それらの情報を基に、量子コンピューターは光線が到達するであろう宇宙の座標を計算し、それに合わせて最適な出発時刻を特定した。
 その時刻まで、あとほんの少し。
 それでもまだ絶対じゃない。もしも光が遮られていたら、見つけられないかもしれない。
 ──宇宙なんてスッカスカだし、きっと大丈夫
 楓くんの言葉を信じて、星間観測船のコックピットで、私はじっと発射の時を待っている。発射されれば、あとはひたすら加速するって、心に決めていた。ただまっすぐに、最短距離で。
 あと30秒に迫った、その時。突然、蛍の光のメロディーが聞こえてくる。
 幻聴だろうか?それとも本当に音楽が鳴っている?
 窓から周囲を見渡すけれど、区別がつかない。
 「またお会いできることを心よりお待ちしております」
 どこからか聞こえてくる懐かしいアナウンスに見送られて、私は地球を離れた。スピードはあっという間に音速を超えて、なにも聞こえなくなった。やがて光速を超えて、何も見えなくなった。

ほたる、楓くん、私。
 それが、私の家族。
 ほたるが走ってワンピースが揺れるたびに、鱗粉みたいに光が振りまかれる。楓くんはTシャツ姿で、ときどきほたるを捕まえて、また放している。、ふたりに追いつこうとみっともなく走り回っている。私のパーカーのフードが揺れるたびに、私の心が震える。
 私の家族が、深い闇のなかで発光している。
 楓くんの予言通り、光線は何にも遮られれることなく、こんな遠くまでまっすぐと延びていた。
 私のくちびるが動いているのがみえる。
 私は、私が何を言ってるか、思い出す必要はない。なぜならそれは、過去ではないからだ。目の前の、そのくちびるの動きを追えばいい。
 「絶対に追いつくからね!」
 私は今、そう言っている。
 「ほたる!はしれ!にげろ!」
 楓くんは今、そう言っている。
 「頑張って追いついてね、ママ」
 ほたるは今、そう言っている。
 「追いつくどころか、追い抜いちゃったよ!!!!!」
 
 置き去りにされた笑い声を補うように、私は私たちに笑いかける。
 私は、ふとジェイミーのことを想う。
 ジェイミーがあっちで家族を作っていればいいなと、無責任に願う。
 私は、ふと二弧ちゃんのことを想う。
 深い深い海の底で、どうか彼女が家族と再会できますようにと、強く願う。
 私は、私の家族のことを想う。
 また会えたね。わーい!

この世界の神様の手のなか、私たち家族の弱すぎる光を、それを見る私を取り囲んでいたぜんぶを、私は決して忘れることはないだろう。
 それに、もし忘れてしまったとしても、こうやってまた追い抜けばいいんだ。
 何度でも。
 だってその光は、それ以上減衰も散乱もしない。
 だってその光は、決して消えない光。
 その光が、今、私の網膜を焼いている。

〈了〉 
 

 

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