月の時計

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梗 概

月の時計

内戦中に少女を撃ち殺した男は、戦後、少女のおびえた瞳を繰り返し夢にみていた。後悔に苛まれながら男は生活を続ける。カウンセリングでは「少女は銃を持っていた。撃たれる前に撃つしかなかった」と言い訳を繰り返す。
 老齢を迎え、地球での生活に嫌気がさした男は、カウンセラーに環境を変えてはどうかと提案されたこともあり、月への移住を決める。しかし月の地下シェルターでの生活は男をさらに憂鬱にする。慰めは一日・・に一度、月面から丸い地球を眺めることだけだ。
 月での暮らしも長くなった頃、過去への・・・・時間移動が可能になったというニュースを男は目にする。説明によると、過去から戻って来ることはできず、また過去での行動は現在の世界には影響を与えない……可能性が高い、ということだった。たとえ過去で少女を助けたとしても、少女を殺した事実は変わらない。それでも男は苦しみから逃れるため過去へと旅立つ。

内戦で家族と離ればなれになった少女は、お守り代わりの父の銃を抱えながら再会を約束した街へ向かっていた。その途中、戦地にはそぐわない格好をした老人と知り合い、行動を共にすることになる。
 老人の話では、街は数日後に侵攻を受ける可能性が高いという。それでも家族との再会を望み街へ向かおうとする少女だったが、老人に説得され数日だけ別の村へ避難する。すると街が侵攻を受けたという報がもたらされる。
 老人は安全な国境地帯へ向かうよう少女に伝え、お守りに「月の時計」を渡す。一見、「1」から「12」の文字が並んだ普通の時計だが秒針の進みが異様に遅く、月の一日を二十四時間で示す時計だという。「この時計で一日の間、生き延びるんだ」と告げた老人に、少女は代わりに父の銃を渡す。少女を見送った老人が銃を確かめると、弾は入っていなかった。

老人と別れて一月ひとつき、内戦は終わった。生き延びた少女は保護される。その後、家族とは再会できず、老人を見つけることもできなかった。数十年後、月への移動が当たり前になり、老人を懐かしく思いながら少女は月を旅行する。月では老人のものによく似た「月の時計」が売られていた。老齢を迎えた少女は、最新の時間移動技術を使って老人に会いに行くことを決める。
 村で死を待っていた老人の前に老いた少女が現れる。二人はお守りを交換し、男は少女にすべてを語り許しを請う。
「許すも何も、私はあなたに助けられて、こうしてここにいるのだから」
 目的をとげ、少女は元の時間に帰っていく。彼女の世界では時間旅行は一方通行ではなかったのだ。残された男は内戦が終わるまで月の一日・・・・の満ち欠けを見上げながら、穏やかな心で過ごす。

文字数:1111

内容に関するアピール

宇宙・時間というテーマからはじめに思いついた、「惑星の一日(自転周期)」をモチーフに何か書けないか、というところから考えてみました。
 まずメインとした「時間」について、シンプルなストーリーに時間移動の要素を絡めていくつかの層にすることで、少しひねったオチがつけられないかと考えたものになります。タイムパラドックスよりも過去がパラレルに分岐していくというほうがしっくりくるため、そちらを採用してみました。過去から戻って来られず、過去が分岐していくという、時間移動が正常に機能しているのかどうか検証できない不安定な技術であり、個人的には利用したくありませんが、最後にどうしても過去の心残りを埋めたいといった需要はありそうで、一種の終活SFとして仕上げられればと思います。
 「宇宙」は道具立てとして盛り込む方向で考えた結果、ストーリーの内容との相性やビジュアルとしての利用のしやすさから、月を選びました。
 

文字数:400

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月の時計

ほんの数メートル先、瓦礫の間からこちらを見つめる大きな瞳――いや、瞳が大きいのではなく、痩せて肉の落ちた顔の中で眼窩がんかが窪んでそう見えるのだ。陽に焼けて灰に汚れた肌が、怯えの色を含んで青白く澄んだ眼球をさらに浮き立たせている。顔と同じように汚れて艶を失った黒髪。日に焼けて色褪せたワンピースをまとって佇む少女は小さな手に拳銃を大事そうに握っている。
 ふいに少女の手に力が込められて、拳銃の先が小さく揺れた。その刹那、反射的に小銃のトリガーにかけていた指に力が入る。乾いた音が響き、少女の肩が躍るように跳ねて、その場にくずおれた。

 

 * * *

 

また同じ夢だ――四十年以上前の戦場の記憶。
 額ににじんだ汗を拭い、ウミトは熱い息を吐いた。指にはトリガーを引いた感覚が残っている。
 時刻は午前四時七分。もう一眠りしようと身体を横にして目を閉じると、暗闇の奥から少女の瞳が浮かび上がってくる。視線から逃れられず、緊張で身体が強張っていく。
 ベッドから起き出して、冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出しコップに注ぎ、ウミトは精神安定剤を摂取した。
 洗面所で顔を洗い、鏡に映ったやつれた老人の表情を見つめ、ただ無為に時を過ごしてきたことを自覚する。内戦後、ウミトは少女の瞳の幻覚に囚われ続けていた。
 先月受診した精神科でのやり取りを思い出す。もう嫌気がさすほど何度も繰り返された問答だ。
「なぜ、あなたは少女を撃ったんですか」
「彼女は……銃を持っていた。撃たれる前に撃つしかなかった」
「それが、あなたが撃った理由なんですね」
 ドクターはしばらく返事を待つように黙り、「わかりました」と言って診察を終えた。他に答えようもなく、間違ったことは言っていないとウミトは自分を慰めた。
 しかし診察後しばらくすると不安がよみがえり、頭の中で医師の声が「なぜ撃った」と問いかけてくる。
 本当は撃ちたくなかった。仕方なかった。生き残りは捕虜にするか殺すか――捕まればきっと少女はより凄惨な目に遭っていた。だが、銃を捨てて逃げるように伝えることはできたかもしれない。では、なぜそうしなかったのか。極度の緊張、恐怖、疲労からくる判断力の低下。仲間が敵を撃つのを見て感覚が麻痺していたから。様々な言い訳が頭の中を巡った。
 呼吸が荒くなり、ウミトは再びミネラルウォーターを口にした。時刻は午前五時三十三分。気を紛らわせるためラジオをつけた。
 朝のニュースの一つに、年に一度、定期的に募集される月への移住者の話題があり、もうそんな時期かとウミトは耳を傾けた。
 月の地下第三層で開発がすすんでいた公営の居住区が完成し、入居者の募集が開始される。今回の募集は前回よりも多く、五千人規模とのことだった。
 地球の狭いアパートに引きこもって暮らすなら、いっそ月で生活するのも悪くない。けっきょく、この国に留まり続けていることが、悪夢の原因の一つかもしれない。
 戦後、政府の斡旋で空調設備のメンテナンスの仕事に就いた。亜熱帯に属するこの国の気候では食いっぱぐれのない仕事であり、技師として人並みの腕前はあるとウミトは自負していた。ずいぶん環境は違うだろうが、空調設備が重要なことは月も同じだろう。むしろこの国以上に技師の需要はあるかもしれない。ちょうど月末には雇用契約期間が満了し、面倒な更新手続が必要だった。環境を変えるにはいいタイミングだった。
 公営住宅に入ることができれば、住居費は今よりだいぶ安くなる。空気や水といった生活インフラのコストは高いだろうが、それは地球でも同じことだ。
 政府が月への移住計画を積極的に進める背景には、地球環境の悪化により、安全に居住できるエリアが年々減少し、地価や住宅費用が高騰していることもあった。このまま月の開発が進めば、十数年後には地球で暮らせるのは高所得者だけになるだろう。
 月面から青い地球を眺めている自分の姿を想像して、ウミトは久しぶりに心が満たされるのを感じた。だが、そんな興奮も長くは続かず、しばらく経つと再び気持ちは落ち込んでいた。抽選で五千人、選ばれる可能性は低い。しょせん自分はこの地から離れることなどできないのだ。

 

「そうですね、環境を変えてみるのはいいかもしれません」という精神科医の一言に後押しされて、ウミトは月への移住に応募することを決めた。そして三週間後、当選の通知が届いた。
 月には何を持って行こうか。もともと持ち物は少なかったが、できるだけ身軽に、大きなスーツケース二つほどに最低限の必需品をまとめたかった。
 家族を内戦で失くし、地球を離れることを伝えるべき親類や友人もなく、身一つでこの地を後にすればよかった。恐らく二度と戻って来ることはない。そう思うと、不思議な感慨があって、ウミトは窓から無数の明かりが灯った夜の街を眺めた。
 もともとは反政府組織の拠点として、自分と敵対する勢力が支配していた場所に、人生の半分以上の時間、暮らしてきた。内戦で空爆を受けて破壊され、そこから復興していく様を見続けた街には、すでに戦闘の傷痕は見られなかった。ただ、ウミトの心に刻まれた傷は癒えることなく残り続けていた。
 この場所から離れ、もっと遠くからこの街を、この国を見つめ直すことができれば、別の見方ができるかもしれないという期待。一方で、物理的に離れるだけでは何も変わらないのではないかという不安。両方を抱きながら、ウミトは月への移住の準備を進めていった。

 

 旧式の地月輸送船ムーンラインの格安航宙券で三日間のフライトを終えて、ウミトは月面の国際宇宙港第二ターミナルに到着した。資材輸送の用途がメインの路線で、発着時間も地球時間の深夜帯に設定されていたため乗客は少なく、道中は静かだった。
 到着時、月から見て地球が太陽に重なる形になっており、展望デッキから地球を見ることはできないだろうと考え、ウミトは荷物を受け取るとソーラー・モノレールの搭乗口へ向かった。
 途中、土産物店が並んだ区画を通り、そのうちの一つを覗くと、店頭の棚に安物の腕時計が並んでいた。月面の雰囲気を模したチタンメッキの時計に惹かれて、ウミトはシンプルなデザインのものを腕に巻いてみた。月の重力のためか時計はとても軽く、着け心地も悪くなかった。
 ⅠからⅫの数字が並んだ文字盤の上に、黒い時針と分針が品よく「く」の字を描き、その間を秒針がほとんど静止しているかのような速度でゆっくり進んでいる。
「こちらは月の時計になります」
 声をかけてきた店員の話によると、これは月の一日を地球の二十四時間用時計で表現したもので、地球時間で約二十七日かけて、時針が文字盤を二周するという。
 実用性はないが、文字盤にちりばめられた微小な月の石の欠片や、裏蓋に刻まれている月面のクレーター模様など、訪月ほうげつの記念品として人気の商品らしかった。
 今どき腕時計などレトロ趣味な嗜好品だったが、月にやってきた記念にと考えて、ウミトは月の時計を購入した。腕に巻いてみて、地球で暮らしていたときにはなかった新しい習慣ができたような気がして、月ではこの秒針のようにゆったりとした生活が送れればいいと願った。
 モノレールに乗って十五分ほどで第七昇降ステーションに到着し、さらに大型エレベーターで地下第三層を目指した。一人きりでエレベーターに乗り込んだウミトは、月の地下空洞を降りていく間、どんどん世界から遠ざかっていくような不安を覚えた。
 指定された住所に到着しドアを開くと、何もない真新しい部屋は、地球で暮らしていたアパートよりもほんの少し狭かった。月の地下洞窟の中に月の砂を焼き固めた建材で作られた室内には、独特のにおいが漂っていた。

 

けっきょく、月に移住してもウミトが悪夢から解放されることはなかった。
 少女の瞳に見つめられ、うなされて目を覚ますと、月時間六百四十八時で、もう間もなく月の一日が終わろうとしていた。ウミトは額の汗を拭い、冷蔵ケースからパック水を一つ取った。
 空調設備点検で得られる収入と貯金を切り崩しながら細々と暮らし、移住後三年目からは年金の受給資格も得た。定期的に第一層の病院の精神科に通院して、地球で飲んでいたのと同じ薬を処方された。月での生活は大きな波風もなく過ぎていった。
 月の地下は空調が完全に管理されており暑さや寒さを感じることなく快適に過ごすことができたし、重力も地球より軽くて身体への負担が少ないため、悪夢をみる頻度が減ったのはメリットだった。しかし、地下空洞内を照らす人工的な明かりは、少しずつウミトの気を滅入らせていった。
 気晴らしに、月面から満地球を眺めることができるタイミングに合わせて、展望エリアまで上がって地球の姿を眺めた。満地球の明るさは、地球から眺める満月の数十倍にもなる。月の表面近くは放射線量が多く、長居することはできなかったが、ほんの短い時間でも澄み切ったそらに迫ってくるように浮かび輝く地球を見ていると、ウミトはその青さに吸い込まれそうな気分になった。
 そして三十八万キロメートルという物理的な距離を目の当たりにすることで「もう戻ることはできない」という言い訳が強化され、ほんの少しだけ苦しみを紛らわすことができた。

 

やがて地球で暮らしていた頃の一日、二十四時間という感覚も薄れ、いつしか月の時計で時の移ろいを感じることにも慣れていった。歳をとって体力も衰え、こなせる仕事の量も減った。多くのことが少しずつ過去へと遠ざかっていく中で、少女の瞳だけが鮮明にウミトの記憶に残り続けていた。
 退屈な午後、ラジオから地球で研究が進んでいる最新技術のニュースがウミトの耳に流れ込んできた。
 過去への時間移動――生物の転送実験に成功。時間を越えた物体の転送については、今までに幾度も実験が繰り返されてきたが、種々の動物実験を経て、いよいよ人間が過去へ移動することが現実味を帯びてきたということらしかった。
 かつて動物実験が禁止されていた時期もあったが、地球環境の悪化に伴い、新天地の開発や環境適応など一部の分野では解禁され、時間移動は主要な開発分野としてここ数年大きな進展を遂げていた。
 特定の座標に設置された転送装置の中に特殊なゆらぎを人工的に発生させ、その振れ幅を利用して物質を移動させる。ゆらぎの強さで移動距離――つまり戻したい時間の長さ――を調整できる。説明を聞いてもウミトにはよくわからなかったが、将来的に装置の小型化が進めば、理論上、過去のあらゆる地点に移動することが可能になるという。「理論上」という注記があるのは、過去へ移動したものが現在に戻って来ることができない、つまり片道切符であるため、正しく過去へ移動できたのかどうか確証を得ることができないからだという。実験結果は、あくまで被験体に装着した測定器からのフィードバックにより推定されたものということだった。
 もし過去に戻ることができるなら、あのとき少女を撃たずに済ませたいと、これまで何度も考えてきたことをウミトは思った。そうしたら悪夢にうなされることもなく、月に逃れてくることもなかっただろう。
 ニュースの続報を聞いたのは数日後で、地球のいくつかの実験施設で、過去への時間移動の実験参加者募集が開始されたらしかった。二度と過去から戻って来ることができないという条件で果たしてどれだけ人が集まるのかと疑問の声もきかれたが、自分のように孤独な境遇で将来に希望もなければ、あるいは過去へ行ってみるという選択もありなのかもしれないとウミトは考えた。長くてもあと十年は生きていないだろうし、たとえもう十年、今の暮らしを続けたところで何も変わらないだろう。
 月への移住を決めたときのように精神科医に意見を求めることもなく、ウミトは参加者に応募することを決めた。地球を離れるために月へ移住してきたはずが、けっきょく問題解決には根治するしかないのだ。これまでになかった手段でそれが可能になったのであれば、試してみる価値はあった。
 応募フォームから必要な情報を送信すると、数日後には採用通知が届いた。

 

十数年ぶりに地球に降り立った感想は、重たい、ということだった。高温多湿な空気の息苦しさ、月の数倍の重力は、長らく管理された環境で生活していたウミトにとっては過酷なものだった。空港の建物を出て研究所の送迎車が待っている駐車エリアまで、ほんの数分歩く間に、照りつける陽射しに汗がにじみ出すのを感じて、ウミトは地球に戻ってきたことを実感した。研究所の無人送迎車に乗り込んでシートに背中をあずけると、ウミトは熱い息を吐いた。
 研究所の入館ゲートで受付の指示に従いパーソナルデータを登録すると、分厚いドアが静かに開いた。ドアの向こうには、案内役の男が待っていた。
 男のあとについて歩きながら、ウミトは転送装置のしくみと実験内容についての説明を受けた。事前に送られてきた資料に目を通してあったのでとくに新しい情報はなかった。小さな部屋に通されて、男と向き合う格好でテーブル席につく。テーブルの上にはタブレット型のコンピュータ端末と実験参加同意書が置かれていた。
「確認になりますが、今回の実験ではたとえ過去に行くことができても、再びこの時代に戻ってくることはできません。もう一点、あなたが過去で起こした行動の結果が現在に影響を及ぼすことはありません……これはまだ確証が得られた事項ではありませんが、限りなくその可能性が高い、とだけお伝えしておきます。つまり、あなたがこれから向かう過去は、現在とは切り離されたパラレルな世界である、ということです。いや、切り離されたという言い方は語弊がありますね。正しくはあなたが移動した過去の時点から世界の流れが別の方向へ分岐していく、ということです」
「それでも、分岐する前は、今とつながった過去であるというわけですよね」とウミトが質問すると「ええ、その通りです」と男はうなずいた。
 同意書への署名を終え、実験への参加が確定した。たとえ過去に戻って少女を殺さずに済ませることができたとしても、自分がかつて少女を殺したという事実は変わらない。だとしても、少女を救うことが、自身に何らかの救済をもたらすのではないかと期待して、ウミトは過去へ向かう決意を固めた。
 ウミトが希望する移動先の日時を告げると、男はコンピュータ端末に情報を登録していった。
「念のため確認させていただきます。当時は内戦中になりますので、身の安全は保証いたしかねますが……」「ええ、わかっています」ウミトはうなずいた。
 契約後、時間移動前の準備室へ案内された。過去に持っていける所持品はそう多くはなく、転送の途中で喪失してしまう可能性もあるということだった。身につけている衣類のほか、数日分の下着、軽食、飲料水、当時の地図、軽量なアウトドアツール等を、指定された小さな荷物袋に詰めていった。最後に使い古した月の時計をハンカチで拭って袋に入れ、地球時間用の腕時計を移動後の時刻に合わせて調整した。
 メディカルチェックも済み、あとはウミトの心の準備が整えば、いつでも出発できるということだった。
「数日であれば、ここに滞在することもできますよ。あなたのように月帰りの人にとっては、地球の環境に身体を慣らす時間も必要でしょうし、タイミングは人それぞれですから」という提案に「なるべく早く出発したい」とウミトは返した。
 出発時間が決定し転送機の運転が開始された。
「転送先は当研究所の所在地と同じ座標になりますので、地図でよく確認しておいてください」
 ウミトが少女と出会った場所は、ここから歩いて数日のところであり、希望した転送日時から向こう数日間は周囲で大きな戦闘はなかったはずなので、問題ないと判断した。
 シャワールームのような転送機の中で微振動に包まれながら身体が四方八方へ引っ張られて軽くなっていくのをウミトは感じた。数十秒後、ウミトは生きてきた世界を永久に離れた。

 

 * * *

 

照りつける陽射しの下、広がる荒野の中にウミトは佇んでいた。研究所のあった場所は内戦当時、何もない平地だったため周囲に道らしい道はなかった。
 地図とコンパスを頼りに目的地の方角へ歩きだしたが、月の生活に慣れた老体には、地球の環境は想像以上に過酷だった。木陰を見つけては休息をとる。みるみる飲料水は減っていった。五十年以上前に数十キロの軍用リュックを背負って行軍していたときの記憶がよみがえってきた。
 しばらくすると二車線の道路が現れ、道沿いに歩いていくと低いエンジン音が近づいてくるのが聞こえてきた。振り返ると、リヤカーを引いたバイクが一台走っているのが見えた。運転していた男がウミトに気づき、バイクを停めて「じいさん、乗っていきなよ」と声をかけてきた。
 荷台の端に場所を作ってもらい、ウミトは腰を落ち着けた。不安定に揺れる荷台は決して乗り心地の良い場所ではなかったが、炎天下の中を歩くことに比べれば、はるかにマシだった。
 ウミトが目的の町の名を告げると、自分もそこに立ち寄るつもりだと男は言った。
「どっから歩いてきたんだ」と問われ、ウミトは地図を見て現在地から少し離れた場所にある村の名を告げた。「ふーん、ずいぶん遠いな」と言ったきり、男は詮索することはなかった。
 彼は物資を届けるために、さらに先の街へ向かうという。その街は、ウミトが少女と出会った場所であり、数日後、反政府組織の補給線の要衝地として、大規模な空爆を受けることになる。それをきっかけに政府軍は一気に攻勢を強め、一か月後には内戦は終結する――ことになっていた。
 あまりそこに長居しないほうがいいとウミトは男に伝えた。
「なに、まだこの辺りに軍の連中は来ちゃいないよ」
「そうかもしれないが……なるべく国境のほうへ逃れたほうがいいだろう。国境沿いには連合軍のキャンプもあるし」
「ずいぶん弱気だな。たしかに少しずつ戦線は押されてるらしいけど、ここしばらくは膠着してるんだ、そう簡単に状況は変わらないだろう」
 男を説得するつもりもなく、ウミトは「そうだな」と言って話題を終わらせた。
 町に着くとウミトは礼を言って男と別れ、仮設テントの並んだ町外れの避難民居住区へ向かった。
 この先の街へ向かうには一度、この町に立ち寄るのが一般的なルートだった。つまり、少女がこの町に立ち寄る可能性はきわめて高いとウミトは考えていた。
 途中、反政府組織の兵士に呼び止められて、身分証の確認を求められたが、失くしてしまったと答えると、簡単な持ち物検査の後、青い色紙でできた小さなパスカードを渡されて解放された。
 町外れには疲れた表情の女と子ども、老人たちが集まっていた。居住区の入口に立ったウミトに関心を向ける者はいなかった。居住区を一周してみたが、少女の姿を見つけることはできなかった。日が傾き始めて、次第に暑さが和らいでいった。数日の間、この場所に留まって少女を探してみることに決めて、ウミトは居住登録のため、入口近くの本部テントへ向かった。
 薄暗くなった居住区の入口ゲートの脇で小さな影が動くのが目にとまり、ウミトはそちらへ視線を向けた。近づいていくと、そこに夢の中に何度も現れた、決して忘れることのできない少女の姿があった。
 目が合って、身体が緊張でこわばるのをウミトは感じた。額から汗が一筋流れ落ちて頬をくすぐった。夢の中で見たよりも少女の顔は肉付きがよく、汚れてもいなかった。
 鼓動が早まっていくのを感じながら、ウミトは深く呼吸をして「一人なのかい」と少女に声をかけた。「私もさっき着いたばかりなんだ。一緒に本部で受付を済ませよう」ウミトが歩きはじめると、少女は黙って後についてきた。

 

受付で少女はパスカードと数枚の通交証、ラミネート加工された身分証を、背負っていた小さなリュックから取り出して並べた。受付係に名前を聞かれた少女は「マイサ」と答えた。横に立ってやり取りを聞いていたウミトは、初めて自分が殺した少女の名前を知った。配給所の場所を教えられて、数枚のチケットを受け取り、ウミトとマイサは本部テントを後にした。
 外は暗くなっており、居住区のあちこちで人々が火を囲んで食事をとっていた。配給所で硬いパンとタロイモのスープを受け取り、並んで座って食事をとった。マイサは特にウミトに関心を向けるでもなく、かと言って鬱陶うっとうしがる様子もみせなかった。
「どこから来たんだい」とウミトが訊くと、マイサは聞いたことのない村の名前を答え、地図を広げて見せると、覗き込んで村の位置を指さした。この町からは州境を一つ挟んでいるずいぶん遠い場所だった。
「おじいさんは?」と問い返されて、ウミトは先ほどバイクの男に答えたのと同じ村の名前を言って、地図で示した。
「この州の人なんですね」と、マイサはほんの少し声を弾ませ、ウミトの顔を覗き込むように見つめて微笑した。不意に目が合ってしまい、一瞬、身に緊張が走るのをウミトは感じた。しかし、夢に出てくる怯えた表情とは違う少女の笑顔は、次第にその緊張を和らげていった。
「この辺りはまだ軍の攻撃を受けていないって、聞きました。この先の街で母と妹たちと落ち合う約束なんです」まもなく家族と再会できることがよほど嬉しいのか、声を弾ませて「私、マイサといいます」と名乗った。
 こちらも名乗るべきか迷い、しかし自分を殺した相手の名前など知る必要はないだろうと考えて、けっきょくウミトは名乗らずにただうなずいた。
 自分があのとき撃たなければ、彼女は家族と再会できただろうか。
 マイサは明日になったら家族についての情報を人々に聞いて回るつもりだと言った。ウミトは、できるだけ協力しようと約束して立ち上がると「また明日の朝、ここで。おやすみ、マイサ」と言って焚火の傍を離れた。これ以上、マイサの隣にいることが辛くなり始めていた。
 テントの隅の空いたスペースを確保すると、ウミトは荷物袋から飲料水と安定剤を取り出して、一粒摂取した。疲れのせいか薬がよく回って、心地よい眠りをもたらしてくれた。
 目を覚ますと辺りは静まり返っていた。テントの出入口の隙間からもれる薄明かりを頼りにウミトは外へ這い出した。居住区の周辺には霧が立ち込めており、昼間の暑さが嘘のように肌寒かった。
 月で暮らしていた頃の時間の感覚が抜けておらず、ずいぶん早い時間に目が覚めてしまったらしかった。腕に巻いた時計を見ると、午前二時を指していた。この時間、居住区内で起きているのは自分のほかには見張りの兵士くらいのものだろうとウミトは思った。眠気はなく、疲れも残っていなかった。
 霧の中を探るように歩いて、昨晩食事をした焚火の跡を見つけて腰を下ろし、夜が明けるのを待った。樹に背中をあずけたままウトウトしていると「おはようございます」とマイサに声をかけられ「ずいぶん早いんだな」と返してウミトはゆっくり立ち上がった。「朝食の配給、かなり並ぶと思うので早めに行きましょう」とマイサに促されて配給所に向かうと、すでに列ができていた。
 食事を済ませると、マイサはまず家族の名前を照会するため受付に向かい、この居住区を訪れた形跡がないことを確認した。それから家族の写真を手にして、人々に母親と妹の姿を見かけたことがないかと尋ね歩きはじめた。ウミトは少し離れたところからその様子を見守っていた。
 けっきょく何も情報を得ることができなかったと、マイサが肩を落として戻ってきたのは正午過ぎの一日で最も暑い時間だった。日陰に腰を下ろして汗を拭いながら「まだ到着してないのかもしれません。それともここに立ち寄らずに街へ向かったのかも」とマイサは言った。
「見せてもらっていいかい」と断って、ウミトは写真を受け取った。三十台半ばくらいの背は低いが引き締まった身体つきをした父親と、同じくらいの背丈の母親、母親は小さな女の子を抱いていて、両親の間にマイサが妹の肩を抱いて立っている。
「父は解放戦線の兵士として戦っています。母たちとは輸送バスの乗り継ぎのときにはぐれてしまったんです。突然、政府軍の襲撃があって……。もし何かあったら街を目指して、そこで落ち合う約束なんです」
「そうか――」と口を開き「しかし、近いうちに街に大規模な空爆が行われるという噂を聞いたよ。しばらくは近づかないほうがいいかもしれない」とウミトは伝えた。「まだ政府軍はこの辺りまで進攻していないと聞きました」とマイサは不思議そうに言った。
「たしかにしばらく大きな戦闘は行われていないようだが、準備が整えば軍は一気に攻勢に出るはずだ。できれば、この辺りを離れて東の国境を目指すのがいいだろう」ゆっくりと諭すようにウミトはマイサに語りかけた。
「でも、母や妹が街にいるかもしれないんです」
 マイサの強い瞳に気圧されて説得を諦めそうになったが、ウミトは深く息を吐いて気持ちを落ち着かせた。「それじゃあ、あと二日だけここに留まってくれないか。その間に軍の動きがなければ、街へ行っても安全かもしれない」
 マイサは少し考え込んでから「わかりました。あと二日、ここでみんなを待ちます」と約束した。

 

二日後の正午過ぎ、街が大規模な空爆を受けたというしらせがもたらされ、居住区はパニック状態に陥った。
 報せが入るなり、マイサは驚いた表情を浮かべてウミトの顔を見つめ、「私、やはり街に向かいます。もしみんなの身に何かあったら……」と言いかけた。それを遮って「落ち着いて、いま向かっても殺されに行くようなものだ」とウミトはマイサの肩に手を添えてなだめた。
 その後もマイサは落ち着かない様子でいたが、ウミトの言いつけ通り一人で街に向かうような無謀なことはせず、新しい情報がもたらされるのを待っていた。その日はそれ以上確かな情報はなく、二人は一緒に食事をとり、今後のことについては明日の朝また話し合おうと約束してそれぞれのテントに戻った。
 その晩、ウミトは少女の瞳に見つめられる夢を見て目を覚ました。隣で寝ていた男が、うなされていたウミトを見かねて起こしてくれたおかげで、深刻な状態に陥る前に目覚めることができた。男に礼を言って、少し外の風にあたってくると告げてテントを出た。
 入口ゲートの近くを通りかかったとき、ゲートの少し先のあたりで何かが動く影が月明りに映り、ウミトはそちらへ向かって足をすすめた。すると、木の根元の土を掘り起こしているマイサの姿があった。
「どうしたんだ。こんな遅くに」皆が寝静まっている時間帯にマイサが一人でこんな所にいるのは十分に不審なことだった。見つかってしまったと決まりが悪そうにうなだれるマイサの手には旧いリボルバー式拳銃が握られていた。その土で汚れた黒い塊を目にして、ウミトは一瞬、眩暈めまいを覚えたが、一呼吸ついて何とか持ち直した。
 ウミトの視線が銃に向けられているの感じて「父から預かった御守りなんです」とマイサは胸元に銃を抱きしめた。「でも、武器を持って居住区に入ったら没収されてしまうかもしれないので、隠しておいたんです」
「出ていくつもりだったのかい」
「すみません……でも、やっぱり母たちのことが心配で」
 謝罪の言葉を述べ、マイサは銃を抱えて座り込んだ。視界から銃が消えたことで、ウミトは少しだけ気持ちが楽になった。空を見上げると、きれいな満月が見えた。
 ウミトはマイサの横に座り、荷物袋から月の時計を取り出して見せてやった。
「きれいな時計……何となくお月様に似てますね」
「そう、これは月の時計なんだ」
 ウミトは時計が月の一日を計るものだと教えて、秒針がゆっくりすすむ理由を説明した。月の一日のことなど考えたことがなかったと、マイサは興味深げにウミトの話を聞いていた。それからウミトは月での暮らしがどんなものなのか話して聞かせた。作り話だと思われても構わないので、誰かに話しておきたかった。
 マイサがその話をどう受け止めたのかはわからなかったが、うなずき、時々質問を挟みながら、真剣に聞いてくれるのがウミトは嬉しかった。最後に、少し迷った挙句に「私は未来から来たんだ」とウミトは告げた。
 マイサはその言葉をゆっくり咀嚼するようにしばらく黙っていた。それから「だから空爆のことも知っていたんですか」と質問した。ウミトはうなずいて「そう。そしてもうしばらくすれば、この内戦は終わるんだよ」と言った。
 それなら皆にそのことを伝えて避難させればいいとマイサは主張したが、誰も身元不明の老人の戯言など信じないだろうとウミトは述べて「君なら信じてくれるかもしれないと思って話したんだ」と微笑した。
「東の国境地帯にあるキャンプに向かうといい。そこが一番安全だ。おそらくこの居住区からもバスが出てるだろうし、子どもの君一人なら乗せてもらうこともできるだろう」
「おじいさんは?」と心配そうに尋ねるマイサに「なに、私一人なら心配いらない。何せ未来を知っているんだから、どうにだって生き延びられるさ」と請け負って、ウミトは月の時計をマイサの腕に巻いてやり「大きすぎるな」と笑った。
「この時計で一日の間、生き延びるんだ。そうすれば内戦は終わるよ」それに、もしお金に困ったらこの時計を売ってしまえば少しは足しになるだろうと言って、ウミトは時計をマイサに託した。はじめ遠慮して返そうとしていたマイサだったが、けっきょく最後には礼を言って受け取り、銃を元の場所に埋め戻して二人はテントに帰った。

 

翌朝、キャンプ行きのバスが数台手配されて、マイサも乗せてもらえることになった。政府軍の大規模な進攻が開始されたとの情報が舞い込み、この場所も安全ではないという認識が広がって、移動の準備は慌ただしく進められた。
 途中、数か所で検問を通過する可能性があるため、武器や危険物の持ち込みは禁止された。マイサは父親の銃を掘り起こして、他の者に気づかれないようにそれを居住区に残るウミトに託した。「月の時計の代わりに、私の御守りを持っていてください。内戦が終わったら、きっとまた交換しましょう」「ああ、必ず」約束して、ウミトとマイサは握手を交わした。握った小さな手の温かさはもう何十年もウミトが感じたことのないものだった。
 バスに駆けていくマイサの背中、そして遠ざかっていくバスを見送って、ウミトは木陰のベンチに腰を下ろした。恐るおそる荷物袋から銃を取り出して、重みを確かめるようにグリップを握りしめてトリガーに指をかけてみた。
 この銃を目にしたせいで、自分はマイサを撃ってしまった。そう考えると、すべての根源がここにあり、この古びた旧式の拳銃によって何もかもが狂わされてしまったかのような気持ちが湧き起こってきた。それが今、御守りとして自分の手元にあることが非情な運命の皮肉のように思えて、トリガーにかかった指が小刻みに震えるのを、ウミトは止められなかった。
 慎重に指を離して、別の角度から銃を眺めてみた。隙間から空のシリンダーが四つ確認できた。嫌な予感がして、このまま何も見なかったことにして銃を捨ててしまいたい衝動が湧いてきた。ウミトはしばらくの間、息をするのも忘れたかのように銃を見つめていた。
 意を決してシリンダーラッチを操作した。シリンダーの中には銃弾は装填されていなかった。自分は無抵抗な少女を撃ち殺したのだ。
 けっきょく、月にも、過去にも自分の居場所などないのだと理解して、ウミトは俯いて深いため息をもらした。

 

 * * *

 

「よかった。まだ居てくれて」ほんの少しかすれた、しかし穏やかな声にウミトが顔を上げると、ウミトと同年代かあるいは少し年嵩としかさにも見える白髪の女性の姿があった。
 淡いブルーのサマードレスに小さな銀のペンダント、きれいに結われた髪。品のある彼女のたたずまいは居住区には似つかわしくなく、どこか別の世界から突然現れたような違和感をウミトは覚えた。
 老女はウミトの隣のベンチに腰を下ろし、しばらく黙っていた。視線を感じてウミトが顔を向けると目が合った。慌てて目を逸らそうとしたウミトに「お久しぶり……ですかね」と彼女はすこし躊躇ためらうように言ってから「いえ、別れたばかりなので、何と言ったらいいのか、難しいですね」と笑った。
 言葉の意味がわからずウミトは女性の顔に視線を戻した。そして、彼女の顔に先ほど別れたばかりの少女の面影を見つけ、思わず「君は……」と呟いた。すると老女は「マイサです。おじいさんのお話、ぜんぶ本当でした」と、腕に巻いていた月の時計を見せた。
「ずっとお返ししたくて大切にしていたんです」マイサは時計を外し、動けずにいるウミトの腕をとって巻いた。そして、ウミトが握りしめていた銃を指を優しくほぐすようにとって、そっと胸元に抱き寄せた。
「これが父の形見になってしまったんです」
 返す言葉もなく黙り込んでいるウミトに、マイサは終戦後けっきょく家族と再会できなかったこと、ウミトを探し回ったこと、大人になって月まで旅行したこと、そしてタイムトラベル技術によってこうしてウミトに会いに来たことを話した。
 どうしてももう一度会って約束を果たしたかったのだとマイサは言った。今こうして御守りを再び交換することで彼女の願いはようやく叶えらえた。満足げな表情で愛おしそうに銃を抱きしめるマイサの姿は、ウミトが初めて彼女と出会ったときの怯えて銃を握る姿とはまったく違って見えた。そして、今なら本人に真実を伝えることができると、いや、今しかそのタイミングはないのだとウミトは直感し、口を開いた。
は、君を殺したんだ」
「え」
「かつて、僕は政府軍の兵士で、戦場で君と出会い、撃ち殺した。そしてずっと、それを後悔して生きてきた。何度も、何度も君のことを夢にみて、なぜ撃ったのか問い続けた。君は銃を持っていて、僕は殺されるのが怖かった。撃たれる前に撃たなければならないと、そう思い続けてきた。長い内戦の中で、いくつも死体を見た。仲間たちがすぐ横で敵を撃ち殺すのを無数に見てきたし、爆撃で焼け落ちていく町や村をいくつも眺めていた。だけど僕は誰も殺したことはなかったんだ。だから僕は皆とは違うんだと思っていた。君を殺すまでは。だけど、君を殺したときに僕は――これで仲間になれた、と思ったんだ。でも、ずっと苦しくて、後悔していた……」
 言葉が途切れ、沈黙が訪れた。
「それで、私を助けるために過去にやってきたんですね」
「君を助けるためじゃない、自分の罪悪感を和らげるためさ」しかし、結果としてより深い絶望を知ることになったのだとウミトは自嘲して、引きつったように口元を歪めた。
 不意にマイサの手が背中に触れたことに驚いて、ウミトは身体を震わせた。マイサの手は怯えた子供をなだめるように優しくウミトを撫でた。撫でながら、どうしても聞いておきたいことがあるとマイサは言った。真実を吐き出した今、何を聞かれても答えられるとウミトは思い、質問を待った。
「あなたの名前、教えてください。聞けなかったことをずっと後悔していたんです」
 拍子抜けするような、それでいて一度目には伝えることを躊躇った大切なことのようにも思えた。
「ウミト」
 マイサは撫でていた手を止めて、ウミト、ウミト、ウミトと唱えるように呟き、そして背中から手を離して、膝の上で硬く握りしめられていたウミトの拳をそっと手のひらで覆った。
「ありがとう、ウミトさん。あなたに助けられたおかげで、私は素晴らしい人生を歩むことができました」
「僕を恨まないのかい」見つめて問うウミトに「正直、実感が湧きません。あなたが殺した私は、私じゃない私だから」とマイサは返した。
「でも、そのことであなたがとても苦しんだことは伝わりました。だから、私が言えることではないかもしれないけれど、ウミトさん、もう私のことで苦しまないでください」
 その言葉で、何かが変わったわけでもなく、ウミトが許されたわけでも、罪が消されたわけでもなかった。それでも「ありがとう」という言葉が自然とウミトの口からこぼれ出ていた。
「そろそろ行かなと」胸元のペンダントに手を添えてマイサは立ち上がった。「ウミトさんとはここでお別れになってしまうけれど、今日のことは決して忘れません。本当に過去にやって来てよかったです。」
 マイサは元の時代に戻ることができるのだと知って、ウミトは一瞬驚きを顔に出してしまい、瞬時にそれを打ち消して笑顔を取り繕おうとした。しかし、マイサはその変化を見逃さず「あなたはここに残るんですね」と寂しげに言った。
「ああ、残念だけど、僕の未来の技術では元の時代に戻ることができないんだ」とウミトは正直に告げた。
 マイサは驚き、しばらく思案げに俯いてから「もしウミトさんが私に対して罪悪感を抱いているのなら、一つお願いをきいてくれませんか」と提案した。
「お願い?」
 自分が、マイサにしてやれることなど何があるだろうかとウミトは考えてみたが、持っている財産は荷物袋の中身だけで彼女の助けになりそうなことなど何も思いつかなかった。
「この世界の小さな私にもあなたの名前を教えてあげてください。内戦が終わってもしばらくはきっと国境のキャンプであなたのことを待っていますから」
 その願いならば、行き先がはっきりしている分、叶えてやることはできそうだとウミトは考えた。しかし、衰えた身体で国境に向かってどこまで進んで行けるのか正直自信はなかった。
「どうだろう、歳のせいか身体がずいぶん重たいし、この暑さで呼吸をするのも精一杯だ。果たして終戦まで生きていられるかどうか……」腕に巻かれた月の時計を見つめ、あと一日、自分は生きていられるだろうかとウミトは考えた。
「大丈夫、たった一日、小さな私でも生きることができたのだから。それと、この銃を彼女に返してあげてください。私は持って帰ることができないので」
 そう言ってマイサはもう一度、父親との別れを惜しむように銃を抱きしめてから、それをウミトに託した。
 マイサは居住区のゲート近くの木を指さして「本当は元の場所に埋めて帰るつもりだったんです。でも、あなたの手で小さな私に届けられるなら、きっとそのほうがいいと思います」と言った。
「そうしたら、僕の手元には月の時計が二つになるな」それも悪くないと思い、ウミトは笑い、マイサも笑い返した。
「さようなら、ウミトさん」
 小さく手を振りマイサは歩きだした。その姿が消えるまで、ウミトはベンチに腰掛けたまま見送っていた。

 

重たい身体に力を込めてゆっくりと立ち上がり、それから地図を広げて国境近くにあるキャンプの位置を確認した。ずいぶん遠い場所のように思えたが、時間はたっぷりあった。キャンプに向かって進みながら、毎晩、もう長いこと見ることのなかった月の満ち欠けを見とどけようと決めて、ウミトは重たい一歩を踏み出した。

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