梗 概
干し猫
「無能に同情するな」と憤る松川大臣。なぜ彼はこうなったのか。
松川は海岸沿いの田舎町で育った。
ある日小学校に干し猫が迷い込んだ。干し猫とはスポンジのような猫だ。洗濯ばさみに吊るして干すと小さくなって動かなくなり、水につけると膨らんで動き出す。
誰かがピピと名付け教室で飼い始めた。
ハンチング事件勃発。ピピが先生の帽子を咥えて脱走。クラス総出で捜索。帽子を取り戻し興奮。
海水事件勃発。海に落ちたピピが海水を吸ってしまい、体調を悪くした。代わりばんこで夜通し看病。
ピピを通して深まるクラスの絆。
松川はお世話係に。朝早く登校しバケツでピピをふやかす。授業が始まる前に干す。
ところが小学生とは飽きっぽいもので、皆の関心が薄れて、誰もピピと遊びに来なくなった。お世話係業務のせいで朝のドッジボールに参加できない。ドッジはさほど好きではないが、皆から置いていかれるのが辛い。彼は干したピピをロッカーにしまい、お世話係を辞めた。
この時彼は『人生は愛着を持ったら負け』と学んでしまった。ところが彼の人生が上手く行き始める。
大人になった松川は『いかに早く弱者を切り捨て勝ち馬に乗るか』を信条に実業家として大成功。政治家に転身。当初思想が批判されたが社会福祉削減などの政策がウケて人気を高めていく。
松川は冬眠計画の担当大臣に。冬眠計画とは。地球は異常気象で住めなくなってきたので、人間をスポンジにし六百年後に再生しようという計画である。
そう、そのための生き物スポンジ化技術だった。ピピは研究所から脱走したのだ。
松川の試算では、将来の日本の復興には知力・健康に優れた三千万人が必要。役に立つ人間だけを選定することに。もちろんペットは不可。ところ選ばれた人たちが家族と別れたくないと冬眠を拒否。日本人の数と質が足りなければ復興に差し支える。無能に同情するなと苛立つ松川。
故郷が豪雨。高潮。小学校が避難所に。TVに写った具合悪そうなピピ。海水を吸っている! 松川は故郷の同級生に電話。どうやら浸水で濡れて二十年ぶりに再生し、溺れていた所を拾われたそうだ。看病しろと抗議すると、今それどころじゃないと言われる。松川はたまらず故郷に帰りピピの世話を再開。ピピは避難所で同級生の息子ユウキ君に気に入られる。松川は大切にされるピピを見て、ピピの看病をユウキ君に任せる。ピピはユウキの姉スズミに懐く。
ユウキ君が冬眠に選ばれた。しかしユウキ君はピピと一緒じゃなければ行かないという。やむを得ず松川は自身の冬眠権をピピに譲る。今度はピピがスズミにしがみついて離れない。猫と人間ではコストが全然違う。スズミを見つめるピピ。迷う松川。松川は考えを改め、役に立つ人以外も冬眠できるように動く。計画は作り直しだ。松川は少しでも多くの人とペットを冬眠させるため、この時代で最期の日まで働いた。
六百年後、ユウキ君がバケツでピピをふやかすところで話が終わる。
文字数:1200
内容に関するアピール
主人公の心の成長を軸にストーリーを作りました。
貧乏くじを引いた経験から良くない信念を抱く→その信念には一定の理がある→信念のせいで上手く行かないことが発生→改心し始める→本当に心を改めたのか何度も試される→試練を乗り越えたことを示す、
というラインになっています。
梗概では省略しましたが、実作では『その信念には一定の理がある』を明示するために、その信念のおかげで人生が上手く運んでいくところを書いて説得力を上げることで、後半のドラマを盛り上げたいです。
この話の自分なりの推しポイントは、ピピが洗濯ばさみに吊るされて窓際に干されてているシーンや、600年後にユウキ君にふやかされるシーンなど、印象的な絵を描ける点です。
16,000字では足りないと思われたかもしれませんが、絶対に間に合わせるので大丈夫です。
文字数:351
干し猫
橋が落ちたんだから仕方ないではないか。TVに映った者たちを見て、私はそう思わずにいられなかった。避難所を訪れた市長を取り囲んで何やら怒鳴りつけているが、それであの死んだ村が生き返るわけでもない。さっさと新しい土地で新しい生活を始めることにエネルギーを使うべきではなかろうか。
少年時代を過ごした愛知県東部の天音島を離れてもう40年経つ。私のように島を出て行った者もいれば、今までずっとあの古びた田舎にしがみついていた人もいる。しがみついていた人が今どうなっているかといえば、ああやって市長にしがみつくしかなくなっている。市長も困ったことだろう。『次に大型台風が来たら橋が落ちます』とさんざん警告していたのに。この度の台風で本当に橋が落ちた。島に取り残された人々は天音小学校の体育館に集まったが、そこも高潮で浸水し、校舎の上階に逃げ延びたところを、自衛隊になんとか助け出された。助け出された先で市長に「私たちは島に戻れるんでしょうね」などと詰め寄っているのだからどうしようもない。
島に戻りたいですと? 橋を掛け直すのにいくらかかるのか。水道管や電線の維持費も無料ではない。この島のわずかな住人のために走らせていたバスだって無駄だ。無駄と言えばもっと根本的な問題として、何の産業もなく、優秀な人材ほど街へ出て行き、子供も生まれず、ただの出がらしとなった天音島自体が無駄なのだ。だからこれを機に、もっと人口の集積した地区にみんなで引っ越せば良いではないか。それが経済合理というものだろう。
私は一つため息をついた。自分は冷たい人間だ。冷たいからこそ、この松川隆史という男は成功した。例えば経営者として、無能な人材は早々に見切りをつけた。能力の劣る者を辞めさせて、その分、才気ある者にチャンスを与えてきた。だから会社は成長した。思い起こせば新卒で入った会社においてもそうだった。上役の中で力のある人とない人を正確に見極め、肩書は立派でも自分の役に立たない人と距離を置いたことが、若くして出世できた要因だろう。大学時代も、友達とお酒を飲んで過ごすようなことはしなかった。彼らとの時間は無駄だからだ。そして地元を棄てて私立の中学に進んだことも同じだ。
いつからこうなったのだろうか。
TVの中継先が切り替わった。台風が去った天音島上空からの映像。泥に覆われた道路。倒れた木。家々の壁、地面から50cmくらいの所にはくっきりと海水が達した跡が残っていた。こんなところにまだ住みたいのか。これを元に戻す気なのか、その価値があると本気で思っているのか。
猫。黒猫。丁度ヘリコプターに積んだカメラが天音小学校の上を舐めた瞬間、私の脳の奥に仕舞いこんだはずの何かがそこに映った。猫が木の枝の上でぐったりとしていた。猫は苦しそうに顔をゆがめて、力なく胸を上下させている。俺はTVに飛びつかんばかりに身を乗り出したが、撮影者は気づかなかったのだろう、猫はすぐに画角から外れて行った。何をしているんだ。もう一度あの猫を映せ。木の上だ。体育館の外周に沿って植えられた広葉樹。浸水の影響かやや傾いた木の。もっと左だ。もっと左。ああ、その神社じゃない。ヘリに同乗したレポーターに切り替わった。声を張り上げて「島の南部では北部では」とどうでもいいことを言っているが、そんなことより猫を映せ。
無駄だった。椅子に座り直した。もう一度TVに映った猫の特徴を思い出す。トキントキンに尖ったの耳。まん丸な目。白い髭。間違いなくピッピだ。記憶の扉がゆっくりと開いていく。ピッピと初めて会ったのは、小学校6年生の時だった。
◆◆◆◆
天音島の小学生たちにとって神社の裏階段を上り切れるかどうかこそが生きるということだった。生きるとは成長すること。成長するとは階段を上る事。最初の十段ほどは簡単である。だが、自分の背丈ほど上がったところで、段は土砂に潰され、木の根にめくりあげられ、雑草に覆われ、俺たちの進軍を阻む。だが、その自然の要塞もまた、俺たちの自然の力によって克服されるのだ。少しずつ体が大きくなり、今まで届かなかった手掛かりに手が届くようになる。力が付き、難しい姿勢から体を引き上げることができるようになる。そして今日、沢ハジメが最後の大岩を乗り越えることに成功した。
「なんか道がある。奥まで」
ガガーリンのようにポエティックなセリフを残すでもなく、彼は岩の向こう側の光景を伝えた。されどその声は、岩のこちら側で待つ俺たち二人を興奮させるには十分だった。場所が場所でなければ、俺たちは飛び跳ねて感動を分かち合っただろう。残念なことに、突っ張り棒のように両足で木と木の間に踏ん張り、地面から顔を出した小さな岩角を握りしめた態勢でできることは少ない。
「隆史、手を出せ」
沢ハジメが岩の上から手を差し伸べた。俺はそれに摑まり、渾身の力を込めて這い上がった。登り切った階段の頂上は、なるほど、『奥に道がある』以外の感想のない、深い深い森だった。俺はもう一度自分が登ってきた階段を見返した。喜びはひとしおだ。まだ自力で登頂できたとはいいがたいが、なんであれ最初に達成した人が後進のために道を引いてくれるのが文明というものだろう。
「昴」
沢ハジメが短く言い、探索隊最後の一人、長谷川昴に手を貸した。しかし、今度は苦戦しているようだ。長谷川昴は俺たち三人の中では一番運動ができない。彼の脚力では、まだ沢ハジメの助力を加えても体を引き上げるのに十分でないのだろう。この三人で今日ここに来ることになったのも神の思し召しか。自力で岩を乗り越えた沢ハジメはともかく、ハジメの力を借りて岩を乗り越えた俺がいたからこそ、俺とハジメが力を合わせれば長谷川昴を引き上げることができるかもしれない。天は俺に何を伝えんとしているのか。俺も岩から身を乗り出した。
「昴、足を掛けろ」
俺がそういうと、俺の腕に長谷川昴が窮屈そうに右足を絡めた。「せーの」などという必要もない。俺たち三人は言葉もなく呼吸を同期させ、ある一瞬に力を集中させた。大岩の上辺を転がり地面に落ちた長谷川昴は言った。
「道がある」
その道は、大量の落ち葉に覆われているが一応舗装されている。俺たち三人はしばらく互いに目を見合わせると、その道を歩き出した。頭の高さでは、一斉に引かれたクラッカーのように両側から伸びた木の枝が複雑に絡み合う。その下を、腰をかがめてゆっくりと進む。沢ハジメの腕時計の蛍光塗料がうっすらと浮かび上がる暗さだった。道は凸凹として歩きづらい。木の根がアスファルトの至る所に亀裂を走らせ、さながらミミズ腫れのようになっている。
「雨か」
沢ハジメが言った。確かに、まだ雨粒に当たってはいないが、トントンと葉が叩かれる音が聞こえる。そして、そのテンポは少しずつ速くなっている。
「戻る?」
長谷川昴が不安げに言った。
「そうだな」
沢ハジメはすぐに決断し身をひるがえした。ただ、首は前方を向いたまま、最後の確認をするように道の奥を凝視した。
「どうした?」
「何か建物みたいなものが見える」
俺たち二人は、ハジメに倣って前方の小さな光を凝視した。
「ちょっとそこまで行ってみるか」
俺が提案すると、沢ハジメは先頭に立って進みだした。長谷川昴は不満気だが、ここで置いていかれたくはないようで黙ってついてくる。五分ほど進むと、その姿ははっきり見えた。ト型のテトリスのように立方体を4つ繋げたような灰色の建造物。所々、コンクリートから染み出した鉄筋の赤い錆が、掠り傷の血のように地面の方向に伝っていた。窓枠があるが窓はない。観音開きの大きなドアが、中央にはめ込んである。
建物を中心に、森は丸く開かれ、アスファルトが敷かれていた。俺たち三人はそのアスファルトに躍り出た。そして三歩下がる。雨が降っていたから。天然の屋根の下に戻り、頭に乗った水滴を払いながらも、その建物から目を離さない。
「何これ?」
俺が聞く。もちろん二人に答えられることは何もない。沈黙がやってきた。葉が雨粒たちを弾く音だけ。もう少しの間だけ耳を澄ませる。あと一秒。あと一秒。大丈夫。何が? ここには誰もいない。俺たちの陣地だ。
沢ハジメが駆け出した。大きな扉ではなく、窓枠の方に向かう。俺も釣られて後を追う。転びたくないし、水を撥ねたくない。歩幅を狭め、足を真上に上げて真下に下す。端から見ればタンチョウの真似をしていると思われるだろう。濡れたアスファルトの匂いはあまりしない。むしろ森の匂いの方が強い。
「何もない」
ハジメはそういった。窓枠に辿り着いた俺も同じように中を覗き込む。何もなかった。剥き出しのコンクリートに区切られた10平米ほどの部屋だった。真正面には、本来ドアがあるべきだろう、人ひとりが通れる大きさにコンクリートが四角くくり貫かれていた。そこから廊下に出られるのだろうが、光源はこの窓しかないようで、目を凝らしてもその奥はなかなか見えない。
長谷川昴が追い付いた。窓枠から中を覗き込んだ昴は、おそらく何もないと思ったことだろう。
「中に入るか」
二択。この窓枠から入るか、中央の大きな扉から入るか。ハジメが扉に向かって歩き出したので、意志は統一された。俺もハジメの踵を眺めながらついていった。コンクリートとアスファルトと隙間から生えた雑草の高さは、ハジメの腰の高さほどだった。
三人は大きな扉の前に立った。
「生命研究所?」
500mℓペットボトルくらいの小さな表札を、長谷川昴が読み上げた。
「なんだそれ」
沢ハジメが当然の疑問を呈する。
「研究所なんだろ」
俺が適当に答える。
薄っすらと気味の悪さを覚える。
扉はおそらく鉄製だ。黄色く塗装されているが、それは禿げ落ちて、その裏の錆びが剥き出しになっていた。扉には縦向きの長い棒状の取っ手が付けられている。ハジメは両開きの左側の扉の取っ手を掴み、少しだけ力を加えた。意外にも簡単に開いた。
ハジメは躊躇いなく中へ入って行った。さあ探検だ。
扉を閉めると暗かった。だから開け放して奥に進んだ。釘やガラスを踏んだらと思ったが、危ないものは何も落ちていなかった。けれど、歩くたびに舞う埃は健康に悪そうだ。ずいぶんしっかりとしたコンクリートらしく、大きな足音は立たない。代わりに靴底がギュッと廊下の面を捉える音が、壁に跳ね返り跳ね返り、何度も俺の耳を通過した。この建物の中に誰かがいたらどうしよう。きっとこの音を聞かれている。いや、考えるまでもない。ここにくるまでに道も、玄関の錆の具合も、ここが何年も、もしかしたら何十年も打ち捨てられていたことを証言している。ここには俺たち以外の人間はいない。
廊下を進んでまず左に折れる。さっき窓の外から眺めた部屋だ。何もない。隅々まで目を凝らすが、壁と天井と床以外は本当に何もない。今度は玄関から右側の部屋を検める。箒が一つあっただけ。階段を登ろう。玄関からの明かりはここまで届かない。ハジメが腕時計のバックライトを着けると、周囲が微かな緑に照らされた。つま先で段差を確かめながら一歩足を進める。ライトが消えたので足を止める。再び点灯。ボタンを押すと五秒ほど光る仕様らしい。階段を登りきった先には、これまでと同じような四角い部屋が待っていた。
俺は窓辺に寄って外を見た。神社や学校が見えることを期待したが、俺の視線は背の高い木々に遮られた。
「靴下かな?」
背後から長谷川昴の声が聞こえた。彼は部屋の隅の物干し竿の前に立っていた。よくあるY字型の支柱2本の間に棒を渡した物干し台だ。それに近づくと、確かに棒の中央あたりに何かが洗濯バサミで吊るされていた。平たい。長さは30cmくらいか。触ってみると少し硬いスポンジの感触があった。靴下にしては大きいし、形も複雑だ。
「むしろ鍋つかみじゃないか?」
俺はそれを洗濯バサミから取り外し、窓からの光にかざした。
「いや、猫だ。これは猫だ」
大の字に潰れた猫に違いない。きっとぬいぐるみの綿を抜いて干していたのだろう。そして、尻尾を洗濯バサミにつままれた残念な姿勢のまま忘れ去られたのだ。頭と尻尾と手足がある。ご丁寧に目口も書かれていた。
部屋の反対側にいたハジメが「他に何かあったか?」と聞いてきた。「いや、何もない」と答える。
窓を見るとちょうど雨が上がっていた。俺たちはこの隙に退散することにした。
玄関を出て、一応戸を閉め、森に入る。腰を屈めて急ぎ足で天然のアーケードを抜ける。もう一度大岩を越え、神社裏階段を降りた。破れたフェンスの間を抜ければ天音小学校の裏手に戻れる。
と、その時再び雨が降り出した。
「急いで戻ろう」
昴が言った。俺は何気なく、本当に何気なく手に持っていた猫のぬいぐるみと思しきスポンジを頭の上に乗せた。俺だけ雨を避けるのは申し訳ないなと思った。
「ん?」
俺は頭上のスポンジを下ろし、顔の高さにかざした。なんとなく、動いた感触があったからだ。ハジメと昴もこちらを向いた。
「どうした?」
「なんか今動いたような気がした」
「ぬいぐるみが?」
もう一度よく見る。どこからどう見てもスポンジでできたぬいぐるみだ。潰れた猫のぬいぐるみ。その表面に落ちた水滴ががゆっくりと吸い込まれていく。
ピクっと左前足が動いた。
「おい、動いたぞ」
だからそう言っただろ。続いて右前足、後ろ足と、うねうね動きながらワカメのように膨らんでいく。そして、40cm程に達したところで、首がゆっくり動き、その細長い瞳が、俺を覗き込んだ。視線は重い鏃のように俺の目から脳を射抜く。この世のものではないことを直観した。俺はそれを放り投げ、二人を押し退けて走り出した。二人もすぐに着いてくる。追いかけてきたらどうしようという怖さで、5歩ごとに後ろを振り返った。石碑の角を曲がり、ようやくそれの見える範囲から逃れる。だが、相手が見えないと余計に不安になる。息を整える間も取らずフェンスの裂け目から敷地の外に躍り出る。藪を掻き分け掻き分け、小道に出るや丸太階段を駆け降りる。崖の上からヒョッとあいつが顔を出した。今度こそ肝がつぶれた。「早く行けよ」と、押し合いながら転がるように階段を下る。そいつはそれ以上追ってこなかった。
その日、自分がどうやって帰ったかをいまいち覚えていない。
—-
日差しの強い朝になった。待ち合わせたわけでもないのに、校門の前で沢ハジメと長谷川昴に会った。二人は向かい合って地面を覗き込んでいる。二人の間、双方の視線の先にあったものは、おぞましい、昨日のぬいぐるみだった。
「おい、大丈夫か?」
俺はそいつがまた動き出すのではないかと怖かった。二人は無言。俺はしばらく距離をとって睨みつける。ぴくりとも動くことがなかった。ゆっくり間合いを詰め、鼎談を形成する。
「こんな大きさだったか?」
昨日見た時は40cmくらいだったように思う。今は俺たちの靴より一回り大きいくらいか。それに厚さも無い。
「乾いたら縮むんだろう」
ハジメが答えた。
「濡らしたらまた動き出すんじゃないかって、今話してたんだけど」
昴が言った。試してみるか。
「昴、水汲んで来てくれ」
ハジメが言った。昴はすぐにバケツに水を汲んできた。それを受け取ったハジメが、「いくぞ」と短く言い、焚火を消すようにぬいぐるみに水を注ごうとしたその時、背後から俺の名前を、まるで口に入れた汚いものを吐き出すような声で名前を呼ばれた。
「ねえ松川」
振り向くと、瀬戸トモエがこちらにズカズカと歩いてきた。俺はめんどくさくなったので彼女から顔をそむけ、視線を男三人の輪の内側に戻した。ハジメ、昴と顔を見合わせる。そしてお互いの口元が嫌味に歪んでいることを確認し合う。瀬戸トモエを、あるいは瀬戸トモエが怒っているというこの状況を馬鹿にするのは正しいことなんだと。
突然右肩を引っ張られた。俺は大きくバランスを崩す。
「ぁにすんだよ!」
俺は瀬戸トモエの右腕を乱暴に振り払った。直後、彼女の水色の手提げ袋が、興奮した犬のように中空に飛び出した。視界を覆う水色。右側頭部に凄まじい衝撃が走る。世界が傾き、せりあがったアスファルトに左肩を打たれた。手提げ袋は、しばらく不規則な軌道を描いてから、持ち主の左手の下で緩やかな振り子となる。殴ったな。この理不尽に俺の怒りが燃えた。あのような乱暴者に手提げ袋を持たせてはいけない。俺は立ちあがり、咄嗟にそれを掴んだ。力任せに引っ張る。瀬戸トモエも抵抗し、布地にテンションが凝集する。離せよ。手提げ袋を掴む彼女の左腕を、俺は右足で蹴り上げる。彼女も、右足の裏を俺の鳩尾に添えると、重い段ボールをどかすように垂直に蹴り込んだ。後方に跳ね飛ばされる俺。二人の手を同時に離れた手提げ袋が舞った。内容物が校門前の道路に散乱する。俺は数歩タタラを踏んだが、体勢を立て直し、地面蹴って照準は彼女の鼻に。瀬戸トモエの右拳も既に彼女のこめかみの上で引き絞られていた。左足を踏み込み、アスファルトを捲りあげんばかりに踏み込み、体重を乗せる。先に当てれば当てられない。
しかし、それ以上互いがぶつかることはなかった。彼女は、まるでゾンビの群れに飲み込まれたかのように、居合わせた者たちに羽交い締めにされ、遠ざかっていく。俺も着衣のいたる所をいたる手に掴まれ引っ張られ、後退を余儀なくされる。
「どうしたんだ」と誰かが聞いた。
「松川が図書当番サボった」
途端、周囲の女子たちから非難の視線が集まる。言い返そうとした。でも何も出てこなかった。
「はぁあ」
それに対しわざとらしく沢ハジメがため息をついた。俺の右頬に手を添えた。
「かわいそうに。晴れている」
今度は男子たちの非難が瀬戸トモエに向かう。しかし彼女はそれを豪然と受け止め、俺を睨み返す。仲裁に入っていた者たちの一部が瀬戸トモエへの支持を決め、彼女の後ろに周り、視線の矢を加えていく。対して、俺の後ろにも人が集まり、二列の人垣が形成される。双方の間には今、パンパンになった風船のような緊張が両側から圧力を受けていた。全面戦争は避けられないか。瀬戸トモエが俺の襟首を掴んだ。その手首を、俺は両手で掴んだ。
「なんだこれは?」
授業中のお手紙を見つけた教師のように、行儀の悪いその手を彼女の眼前に押し付け、下等な行いを戒める。だが、彼女の手が俺のTシャツを掴んでいるので俺自身も窮屈な体制になる。瀬戸トモエの左にいた女が、俺の太ももを蹴り付けてきた。瀬戸トモエと掴み合っている俺には回避ができない。そこで、俺の隣にいた男が進み出てその女を突き飛ばした。戦いの火蓋が落とされたかに見えた。誰かがバケツを蹴飛ばした。金属がアスファルトに撥ねる音。バケツを満たしていた水が、殺人シーンの血糊のように道路に染みを広げていく。その水が、黒いぬいぐるみにかかった。マズい。
俺は沢ハジメとそして長谷川昴と目を合わせた。群衆の気が逸れた隙をついて、俺たち三人は逃げ出した。校門に残してきたざわめきが一瞬静まった。人々が異変に気付いたのだ。遠くの和太鼓のようなどよめきが始まり、徐々に大きくなる。雨の日のリノリウムのような小さな悲鳴が、続いて大きな悲鳴が、さらに狂乱の絶叫が。俺たちは、少しでも遠くに逃げようと走った。
「全員呪われちまえばいいのに」
しかし、その次に聞こえた叫び声に俺たち三人は転倒した。
「「「「かわいい!」」」」
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教室で俺が授業の支度をしていると、瀬戸トモエも教室に入ってきた。手には黒い猫のぬいぐるみがあった。それはすっかり萎びて動かなくなっていた。
「また濡らしたら動き出すんじゃない?」という女子同士の会話が聞こえてきた。
昼休み。瀬戸とその一行はバケツに水を汲み、その中でぬいぐるみをふやかした。想像通り黒猫が動き出した。歓声が上がりそうになったところを、瀬戸トモエが口に人差し指を当てて抑える。全員で息を殺してその動作を見守る。黒猫は大きく伸びをすると、窓枠に飛び乗り、そこに座って尻尾をダラダラと振りながら外を眺め始めた。何かが起こるんじゃないかと思ったが、そこから十分間何も起こらなかった。
昼休みも終わりの時間だ。さすがに教室に猫がいてはまずい。どうするつもりかと思ったら、瀬戸トモエは両手でそっと黒猫を掴み上げた。そして、どういう発想だか、慎重に両手に力をこめた。猫の体から水が滴った。全員がぎょっとしたが、瀬戸は自分の上履きが濡れたことに顔をしかめただけだった。そして、バケツの上に移動すると、猫をひと捻りに搾り上げた。彼女の指の隙間から逃げ出した水流が、バケツに、あるいはその外側に落ちて撥ねる。突然の蛮行に、さすがにクラス全員が椅子を蹴倒して立ち上がった。だが、瀬戸トモエは平然と両手を上に開き、絞られたスポンジがゆっくり元の形を取り戻していく様子を見ながら言った。
「やっぱり。動かなくなった」
それから彼女はどこかから持ってきた洗濯ばさみを取り出すと、カーテンレールに猫をつるした。ぺちゃんこに潰れ、大の字になり、尻尾を洗濯バサミで吊るされている猫のぬいぐるみというのは、随分と滑稽だった。
先生がやってきた。干されたぬいぐるみを見ても、何も言わなかった。
授業後、ぬいぐるみの生体実験は再開された。だいたい、猫は水に浸けてから1時間くらいで体内の水が枯れて動かなくなることが分かった。
それ以来、黒猫は瀬戸トモエとその周囲の女子たちにより教室で飼われ始めた。毎日授業が終わると汲んできた水で猫をふやかす。
持ち物を引っ掻き回されたら嫌であると、そのタイミングで荷物をまとめて出て行く人もいる。その度に瀬戸トモエは『ドアを開けるときは猫が脱走しないように気をつけろ』というような事を偉そうなワードチョイスで言いつけていた。『教室に置いてある先生の私物は厳重に保護するように』とも、その辺の人に言い渡した。
とはいえ、猫はあまり活発ではなく、ただ涼しい所を見つけてぼーっとするだけだった。
誰かがキャットフードを家から持ってきたが食べなかった。
先生に知らせるかどうかが議論になったが、結局『取り上げられたら嫌だ』ということで内緒との判断が下る。こうなったら俺は丁度いいタイミングで先生に密告して、あいつの鼻を明かしてやろうやろう。
そんなことを考えていたら突然、黒猫が俺の肩に乗ってきた。邪魔だな。
「触らないでくれる?」
近づいてきた瀬戸トモエが黒猫を掴んで持ち上げた。猫は抵抗して俺のシャツに爪を立てる。構わず瀬戸は引きはがしにかかった。
「ぃたいだろ!?」
俺は彼女の肩を突き飛ばす。彼女は体術のように体をひねってその力を受け流した。だが、黒猫は驚いたのか、彼女の腕をすり抜けて一目散に走り去っていった。ひっかき傷が痛んだ。
「おい」
俺は立ち上がったが、瀬戸トモエは関することなく、猫を追いかけて行った。俺は机を、なるべく大きな音が立つように叩いた。
黒猫はその後、やや興奮したようにあちらこちらと走り回る。誰か先生のハンチングをブーメランのように投げた。猫は追いかけて行ってそれを咥えた。ちょっと盛り上がった。もう一度やろうと、また別の誰かが猫の口からハンチングを取ろうとする。だが強情にも黒猫はそれを離さなかった。その時、誰かが教室に入ってきた。その隙に、黒猫はわずかなドアの隙間から飛び出した。
「ハンチング!」
投げ主が叫んだ。瀬戸はドアを開けた女子をりつけた。女子は何も悪くないのにシュンとなった。その女子に対して更に言った。
「いいから捕まえてきなさい」
その数分後、瀬戸一派の地味な女子がやってきた。まだ教室に残っている一人一人に、猫の捜索を要請する。俺の所にもやってきておずおずと言った。
「あの、松川君もピッピを探すの手伝ってくれない?」
猫はピッピと名付けられていた。
「なんで俺が」
「だって、このままだとトモエちゃんが先生に怒られちゃう」
「大変遺憾だな」
その先、俺は惨めな伝書鳩を無視し、ハジメと昴と共に帰宅の途に就いた。
何の因果だろうか。ピッピ氏とハンチングはすぐに見つかった。校門を出て10mも行かない街路樹の枝の上で、ピッピは干からびていた。ハンチングはその傍らにあった。
「いい気味だ」
俺はそういって歩き去ろうとした。だが、長谷川昴が心配そうに言った。
「ここにいたら、瀬戸さんたち気づいちゃうじゃん」
普段あまり攻撃的な感情を見せない昴だが、彼も思うところはあったらしい。ハジメものっかった。
「確かに、俺たちで確保しておいた方が交渉材料になるな」
長谷川昴は「だら?」と応じた。
「じゃあ登るか」
大きくジャンプして最も低い枝にでぶら下がる。乗馬の要領で二人に足を上げてもらう。おへその高さまで来れば枝に足を掛けることができる。その先は簡単。順番に上の枝に手足を掛けて上昇していく。葉と葉がこすれ合ってさざめく。上に行くほど枝は細くなるが、まだだ丈夫そうだ。届いた。動かないぬいぐるみを摘んで下に落とす。それを昴が受け止めた。次に先生のハンチング。ちょっと遠くにある。俺は慎重に右足に体重をかけて手を伸ばす。掴んだ。だがその瞬間、嫌な音が聞こえた。咄嗟に手近な枝に抱き着く。それもすぐに折れた。風景が急激に上昇する。一段下にあった枝が背中に刺さる。受け止められた。だがその枝すらも折れて、再び宙に投げ出される。ピタゴラスイッチのように枝と枝を転がり、最後は真っ逆さまに。地面に激突する寸前で二人に受け止められたが、俺の運動量が勝り、二人を押し潰すように俺は背中から地面に叩きつけられた。肺の空気が全部抜けた。叫び声を上げることもできない。痛いのはどこだ。スリガラスの向こうのように痛覚の解像度が低い。だいたい全部痛い。体中が痛いとしかわからない。1秒、3秒、5秒、10秒。少しずつ神経との交信回線が回復。肘だ。肘を打ちつけた。肘が痛い。骨が疼く。動くか、折れたか。
「松川!?」
遠くから女の声が聞こえた。誰だ。首を動かす力が出ない。
「松川、大丈夫?」
瀬戸トモエだった。あざけりに来たのか。
「松川、ハンチングをとってくれたの?」
何を馬鹿なことを言っているんだ。彼女は俺の手からハンチングをひったくった。返せよ。声を出せない。ハジメ、なんか言え。昴も。二人は呻くだけ。俺が上に乗っているから。待ってろ、今どくぞ。俺がどんなに辛くても、お前たちだけは。
「待ってなさい。今人を呼んでくる」
瀬戸は、靴音によるとおそらく校門に引き返していった。
まもなく、クラスの面々が集まってきた。俺は肩を貸され目立たない場所に移された。先生にバレる訳にはいかないという理由で保健室に搬送されることはなかった。俺も木に登って落ちたと知られたら面倒ごとになりそうなので、それで承服した。幸い腕は折れていない。供出し合った絆創膏や消毒液で応急処置がなされる。その間ずっと瀬戸トモエは、何かを勘違いして「ありがとう私のために」「ごめんね私のために」と呟いていた。
この日を境に、俺たちのクラスは変わり始めたように思う。
それまで、いくつかのグループに分かれ、互いに警戒し合い、近づく時は衝突する時だった。
だが、間にピッピがいる時だけは、違うグループの構成員ともコミュニケートできるようになった。
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海に行こう。と誰かが言い出した。狭い教室ではピッピ氏も息が詰まるだろうと。海は、学校から潮騒が聞こえるほど近い。大人たちからは、崖の方には絶対に近寄るなと言われていた。砂浜の方だって危険と言えば危険なのだが黙認されていた。
俺たちはビーチサンダルに履き替えて砂浜に出た。干し猫を携えてきた一人の女の子が、波打ち際に出て海水に浸けた。ピッピはすぐに膨らみ、大自然を駆け巡るだろうと思った。誰もがそう思っていた。だが、黒猫の様子がおかしい。膨らみはしたがなかなか動き出さない。いや、胸が小さく上下している。そのまま両手の隙間からこぼれ落ちてしまうんじゃないかと思うほど、体のどこにも力が入っていないように見える。目の焦点もあっていない。えずくように小さく苦しそうな咳をした。
「ひょっとして、海水だとダメだったのか?」
ハジメが言った。確かに、これまで雨水や水道水をかけたことはあったけど、塩水は初めてだ。海水に浸けてはいけなかった可能性はある。女の子は泣きそうになりながら「だって、知らなかったから」と誰かに言い訳した。咄嗟に瀬戸トモエがピッピを掴んで絞る。ピッピから海水が流れ出た。
「これで大丈夫なのか?」
しばらく全員で瀬戸の両手の上の猫を見守った。しかし、徐々に小さくひび割れ、肌がほろほろと剥がれていく。
「まだ、体に塩が残っているんだ。もう一回真水をかけよう」
ハジメが言った。しかし、誰も水を持っていなかった。
「運動場に戻ろう」
と言った瀬戸トモエに対して、昴が反対した。
「神社の方が近いよ」
確かに神社には手水舎がある。俺たちは走り出した。
手水舎の石に寝かせた。柄杓でそっと水を掛ける。ゆっくり膨らんだ。息はある。二度空咳をして、口から水を吐き出した。磯の匂い。俺たちはピッピの回復を信じて待った。不安にしゃくりあげる者たち。その肩を抱き、支えた。ピッピは時折水を吐き出す。
「こうして塩を吐いているんだろう」
ハジメは小さな声でそういうと、柄杓でそっと水をかけた。
「繰り返せば、体から全部塩が抜ける」
ピッピがゆっくりと目を閉じた。全員が息をのむ。胸の上下は止まらない。休んでいるのか。まだ大丈夫だ。
それから俺たちは何時間も、塩水を吐くピッピにそっと水を掛ける。もう暗くなっていた。
「ごめん、俺晩御飯の当番なんだ」
そういって一人の男が抜けた。また別の者も、次々に離脱していく。俺もそろそろ帰らないと怒られるなと心配になってきた。
「隆史、俺が見てるから帰っていいぞ」
ハジメの言葉に甘えて、俺はその場を離れた。
ご飯を食べ、お風呂に入り、寝る支度をしても、神社で待つ彼らのことが頭を離れなかった。
そっと玄関に降り、靴を取る。普段使う靴ではなく、下駄箱の中の二軍の靴を。そして、二階に戻り、窓からベランダに出る。ベランダの支柱を伝ってゆっくりと下に降りた。こんなことは初めてだった。
神社に戻ると、まだ拝殿に数人残っていた。時刻は10時を過ぎている。
俺はまずピッピの様子を見た。まだぐったりとしているが、呼吸は続いている。むしろ、ヒビは小さくなってきている。
「快方には?」
「向いている」
ハジメが答えた。
「みんな残ってたのか?」
答えたのは瀬戸トモエ。
「いえ、一度解散したけど、心配になって戻ってきた。そうしたらみんながいた」
「持って帰ろうと思ったんだけど、体がボロボロだったから動かせなくて」
俺たちは、闘うピッピをただ見つめた。
うとうとし始めた昴に、ハジメが「帰ってもいいぞ。俺が見てるから」と言った。昴は拒否した。
「じゃあ、交代で寝ましょう」
組み分けを作り、かわりばんこで仮眠をとった。
太陽が昇るころには、ピッピは自力で少し歩けるまでに回復していた。ピッピをそっと撫でると、俺の膝に乗って丸くなった。その肌を、荒んで脆くなった肌を、瀬戸トモエはそっとそっと撫で続けた。
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あれから数ヶ月が経った。
「暇だな」
俺は窓辺でピッピと一緒に外眺める。
ピッピはあの日から二、三日は怠そうにしていたが、その後すっかり元気になった。
あの日のことは、各位が各方面から怒られたことも含めて、クラスの中ではいい思い出として記憶されている。俺は校庭のドッジボールコートを見た。
とんがった耳から背骨にかけて乱暴に撫でる。無反応。俺はあの日から妙にピッピに懐かれた。懐かれたので世話係のようなものになった。世話係と言っても、餌をあげるわけでも散歩をさせるわけでも無い。ただ時間になったらバケツでふやかして、時間になったら干して帰る。触りに来た人を並ばせる。先生が来たら隠す。それは間違いなく愛情の日々だった。
俺はこの役割を気に入っていた。ピッピに触れる時間が好きだった。ピッピに話しかける。ピッピは返事などしない。それでも話しかけ続ける。その時間が好きだった。ピッピと同じものを見つめる時間が好きだった。もちろんそうだ。だがそれだけじゃない。
俺の中に邪な気持ちが芽生えた。なんとなく、ピッピのついでに自分まで人気者になった気がしていたのだ。みんながピッピに触っていいかと自分を詣でること。みんながピッピの体調を自分に聞いてくること。そんな優越感が、最初は俺のくるぶしを浸し、水面はどんどん上がり、ついに俺の頭頂部まですっぽり覆てしまったのではないか。そして、自分は何か別の生き物になってしまったのではないか。
予感はその前からあった。あの夜、家を抜け出して神社に駆け付けた時だ。俺は本当にピッピの体調を心配していたのか。正直に言えば違う。夜通しピッピの看病をしたという武功が欲しかったのではないか。もっと言えば、このお祭りに乗り遅れてはいけないという焦りを感じたのではないか。
この光景を前に、俺は回答を迫られる。
そう。みんなピッピに飽きたのだ。最早誰もピッピと遊びに来ない。
ピッピをきっかけに仲良くなったクラスは、今やドッジボールとバスケットボールに夢中だ。再び焦りだす。俺は乗り遅れている。ドッジボールなど好きではないが、雑用を押し付けられ、遊びの輪に参加できないだなんて負け組コースではないか。あのドッジボールに混ざらなければ俺の未来はないと直感していた。
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俺はいつからか、ピッピをふやかすのをやめた。後ろめたくて教室内に吊るすのもやめた。ロッカーに隠した。少し後になって、体育館倉庫の奥にそっと押し込んだ。
◆◆◆◆
私は学んだはずだった。人生はいかに勝ち馬に乗るかのゲームだ。愛情を持ったら負け。執着を持ったら負け。同情したら負け。
小学校を卒業して私立中学に進んだ。自分は天音島の皆こそ最高の仲間だと思っていた。それでも後ろ髪をバッサリと切った。意外なことに、私立中学にも楽しいやつらはたくさんいた。
新卒の会社でも、たくさんの人にお世話になった。それを全部捨てて外資系に転職した。給料は倍増した。
同僚が子供の世話だ親の世話だと無駄な時間を取られている間に、私は一人で成果を上げた。
会社を興して、人を切り捨てながら成功した。
ピッピからもらった教訓は間違いなく正しかった。それなのに。
災害中継に映り込んだピッピ。きっと体育館が浸水して海水に浸かったのだろう。あの時と同じだ。すぐに海水を吐かせなければ。
私は電話を取った。地元出身の財界人としての立場を使い、地元市の幹部職員に猫の救助を頼み込むも断られた。
秘書に電話し、すぐにヘリコプターを手配させた。大量の水を抱えて乗り込む。東京から愛知県の踵まで二時間弱。両手を握り、頑張れ頑張れと願い続けた。
ヘリを校庭に下し、体育館の方に向かう。傾いた木の上に黒猫を見つけた。
「ピッピ!」
猫はゆっくりとこちらを向いた。
「今助けてやるからな」
私は木に登り、ピッピを抱き上げた。慎重に絞り、ミネラルウォーターを注ぐ。ピッピが小さく海水を吐いた。
私の看病は丸一日続いた。少し元気なったピッピを抱き上げ、私はかつてすごした教室に向かう。ピッピを頭に乗せ、土砂と瓦礫に埋まった階段を掻き分ける。神社の裏階段を思い出してしまう。
ペットへの愛は捨てられない。思い出も捨てられない。
避難所で市長を取り囲んでいた人たちのこと。あの中には私のクラスメイトがいたかもしれないな。私はあの人たちを笑った。馬鹿にした。見下した。でもそれは違った。人それぞれ大事なものがある。私がピッピに会いに来たように。
校庭の向こうの海を眺める。
私は橋を直すのにいくらかかるのか考えていた。私のお金で足りるだろうか。
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