ぬかどこでもいっしょ

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梗 概

ぬかどこでもいっしょ

「遅くなってごめんねー。ただいま」
 慌ただしくアパートのドアを開けて帰宅した独身OL愛梨。いそいそと台所に向かいホーローの円筒容器を開ける。
「会いたかったよー。糠床ぬかどこちゃん!」
 愛梨の唯一の癒しはペットの糠床だった。世界は今、空前の糠床ペットブームと化していた。

和食文化を代表する料理のひとつ、糠漬けぬかづけ。米糠や大豆糠に含まれる乳酸菌により、糠に漬けた野菜を発酵させ風味を豊かにする伝統的な発酵食品であり、人々に愛されてきた。その糠漬けに必要不可欠な糠床。この糠床に、ある食品メーカーが乳酸菌核という細菌核を発見したのがことの始まりだった。糠床から発見された乳酸菌核は糠床で発生している乳酸菌と菌体外多糖(ExoPolySaccharide; EPS)を介して情報伝達を行い乳酸菌核を中心としたコロニーを形成する。そしてこのコロニーはひとつの個体として、まるで生物のように振る舞うのだ。
ペットブームになったきっかけは1人のYouTuberが投稿した動画だ。『動く糠床が超かわいい!ペットとして飼っちゃいました!!』というタイトルで、動画内では手のひらに乗せた糠床はピョコピョコと動いて愛くるしい仕草をしていた。これがSNSを通じてたちまちバズり、世界的な糠床ペットブームが到来することとなった。今では自分の用意した糠床に専門店で乳酸菌核を入れてもらえばすぐペットにできるほどお手軽になり、2人に1人が糠床をペットとして育てているほどに浸透した。

愛梨がある日、糠床ちゃんを散歩させるため公園に来るとベンチの下に不審な紙袋を発見する。それはテロを目的とした細菌兵器だった。糠床ちゃんは偶然にも細菌兵器を飲み込んでしまう。糠床ちゃんの中で封じ込められているものの細菌兵器を飲み込んだ糠床の飼い主として愛梨は研究機関に糠床ちゃんと一緒に追われることとなる。逃亡するも追い詰められ、愛梨は1発の銃弾に倒れる。糠床ちゃんは愛梨と融合することで愛梨は一命を取り留める。細菌兵器により乳酸菌核が変性したことにより可能となった偶然の産物だった。

逃亡を続ける愛梨だったが異様な空腹が収まらず、糠床ちゃんを通じてあらゆるものを捕食し始める。最初は糠床や食べ物だったが遂には人や車までも取り込み、愛梨たちはどんどん巨大な糠床の塊になっていった。ただひたすらに周囲の物を取り込み続ける糠床の怪物となった愛梨たちはついにはロケットを体内に入れ、大気圏を脱して地球の外へと逃亡してしまう。

宇宙空間を漂いながらデブリを取り込み増殖していく糠床の塊はもはやひとつの惑星と化していた。こうなってしまっては政府も研究機関も手も足も出ない。捕獲、駆除することは諦め、地球外に出てしまったため危険性なしと判断された。
糠床の惑星は暗闇の宇宙をフワフワと漂う。糠床の中の愛梨は糠床ちゃんと遊び、会話する夢をただただ見続けていた。
「どこでもいっしょだよ。糠床ちゃん」

文字数:1219

内容に関するアピール

実家に帰った時、母が糠床をかき混ぜていて、そういえば糠床って「育てる」って言うなとか、糠床に野菜入れるのって何だか糠床に餌をあげてるみたいだな、とか考えてこの話を思いつきました。独身生活で疲れた身体と心にはペットが一番の癒しだと思いますが、それが糠床なのはなんだかシュールです。でもひんやりしてて気持ちよさそう。

どんどんスケールが大きくなっていく様子を実作ではもっと盛り上がるように書き上げていきたいです。

文字数:203

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ぬかどこでもいっしょ

 冷たくザラザラとした不快な感触が全身を包む。口の中で血と土の味がして、そこで初めて自分が地面に倒れていることに気が付いた。
 (あれ?私、なんで倒れているんだっけ……?)
 朦朧とした意識の中、どこか他人事のように考える。
 地面が胸を圧迫し、息苦しさを覚えて思わず仰向けに転がる。視界に写る灰色の空は、世界の終わりを示すかのように重く暗い。
 何やら騒がしい音が聞こえる。何を言っているか理解する気力もなかったが、少女が駆け寄り私に懸命に声をかけてくれていることはわかった。
 先ほどまで視界を埋め尽くしていた灰色の空の代わりに少女の顔が私の視界いっぱいに広がる。
 肩まで切り揃えられた栗色の髪が垂れ下がり私の顔をくすぐる。目を伏せた時の長いまつ毛が印象的で、彼女の整った顔立ちを一層美しく引き立たせていた。
 ぴちょん、と頬に冷たさを感じる。――雨?と思ったが、そうではないようだ。少女の目からこぼれた大粒の雫が私の頬を濡らしていたのだった。
 (このまま死んじゃうのは嫌だなぁ……)
 出せない声の代わりに心の中でひとりごちる。
 ふと、横を見ると黄金色の土塊が眼前にあった。よく見るとそれは土塊ではなく、糠床の塊だった。糠床は私の頬に触れようと、もぞもぞと地面を這っている。その愛らしい姿に思わず笑みがこぼれた。そして、今までの経緯が一瞬にしてフラッシュバックする。
 (……そうだ。私、”ぬぬぬ”を連れて逃げてたんだ)
 彼女は思い出す。なぜ、自分が血を流して倒れているのか。なぜ、目の前の少女は泣いているのか。なぜ、追われているのか。
 話は少し前に遡る――

「遅くなってごめんねー。ただいま〜」
 時刻は午後9時。残業で疲れた身体を引きずるようにしてアパート階段を登り、ドアを開ける。
 玄関と廊下、そこに続くリビングは暗闇に包まれていて不気味なほど静かだ。
 朝から夜遅くまで仕事をして、帰ってきても自分を出迎えてくれる人はいない。
 浅倉愛梨31歳は、はぁとため息を吐いて電気をつける。
 長時間履いているには不向きな、全く履き心地の良くない革靴を乱暴に脱ぎ捨てて廊下を歩く。
 蒸れた足にひんやりとした冷たい廊下が心地いい。その冷たさを直に味わいたくてパンストに手をかけたが脱衣所まで脱ぐのを堪えた。
 自分ひとりの空間といえど、ある程度の節度は守ろうと自分を律した。
 ドアを開け、リビングとキッチンが一緒になった8畳の1LKに足を踏み入れる。アパートは駅から程近く、夜9時過ぎに社会人の女性がひとりで帰宅できるくらいには周辺の治安も悪くない。ひとり暮らしをするには申し分ない広さだったが、北側に窓があるせいか冬場を迎えると部屋の温度が一気に低くなるのが玉に瑕だった。
 リビングの電気をつけて、すっかり気温の下がった部屋に暖房を入れる。
 そして一直線にキッチンへの向かった。
「いい子にしてましたか〜。私の糠床ちゃん!」
 帰宅時の疲れた顔から打って変わって愛梨は満面の笑みを浮かべていた。
 ドスンと通勤用のカバンを放り、冷蔵庫横の空間に身を屈ませる。
 と、その前に手を洗うのを忘れない。洗面所でハンドソープを両手に馴染ませて、念入りに洗う。はやる気持ちを抑えながら急いでタオルで水気を拭き取る。
 気を取り直して再びキッチンへ。愛梨の視線の先には、純白な円筒形のホーロー容器が置かれていた。何の変哲もない、ホームセンターやキッチン雑貨を扱う量販店なら手に入れることのできる普通のホーロー容器である。
 愛梨はニコニコしたまま大事そうにホーローを引き出して、ゆっくりと蓋を開けた。
 「いたいたー。ぬぬぬ〜」
 覗き込んだホーローの底には黄金色の塊が丸く転がっている。愛梨は愛おしそうにその塊を両手で包み込んで容器から取り出す。目線の高さまで持ち上げると、ふわりと米糠の独特な香ばしさが鼻腔をくすぐった。
 愛梨が手にしているもの、それは紛れもない糠床の塊だった。両手にすっぽりと収まる程のおにぎり大の大きさの「ぬぬぬ」と呼ばれた糠床はなんと、愛梨の両手でもぞもぞと身を捩るように動き始めた。
 しっとりとした糠床が手に這う感触を味わいながら、愛梨はぬぬぬを撫でる。
 撫でられて気持ちいいという感覚が糠床にあるのかわからないが、ぬぬぬは嫌がる素振りを見せず、愛梨の愛撫を大人しく受けていた。
「へへへ。今日もぬぬぬは可愛いなー」
 親バカならぬ糠床バカを発揮する愛梨の顔はさっきからずっと破顔しっぱなしだ。
「あ!ごめんね。お腹空いてるよね。ご飯にしなくちゃだね」
 愛梨はホーローにぬぬぬを戻し、すくと立ち上がって隣の冷蔵庫の扉を開ける。取り出されたのは鮮やかな深緑のきゅうりだ。ごつごつと棘のある表面と新鮮さを表すハリは自然の逞しさを感じさせる。
 愛梨はきゅうりの両端を持ち、ぐいと力を込める。新鮮さゆえ、しなってなかなか折れない。更に力を込めたところでポキンと心地の良い音を立ててきゅうりは2つに分かれた。
 しゃがんで、分かれた片方のきゅうりをホーローの中にゆっくり入れる。ぬぬぬは触れたきゅうりを認識すると勢いよく、するするときゅうりを飲み込んでいった。
 ズブズブと沈んでいくきゅうり。
 あっという間にぬぬぬはきゅうりをすっぽりと包み込んでしまった。
 その様子に愛梨は今日までの疲れが一瞬にして吹き飛ぶ程の多幸感を覚えていた。仕事終わりにこのぬぬぬのご飯姿を見るのが何よりの癒しだ。
「ぬぬぬはきゅうりホントに好きだよね。美味しそうに食べるなあ。」
 糠床にはきゅうりを漬けるはずなのに、食べさせてるなんて何だか不思議。と愛梨は内心苦笑するがスルスルと飲み込んでいく姿は何度眺めていても飽きない。
 本来、糠床にはきゅうりなどの野菜を漬けて乳酸菌により、野菜を発酵させ風味を豊かにするためのものだが、ぬぬぬはエネルギー原としてきゅうりを取り込み乳酸菌がそれを分解、吸収する。即ち餌として食すのである。
 糠漬けを作る糠床。この糠床は今、空前のペットブームとして人々の間に浸透していた。

 

 糠床のペットブームが到来した理由を語る前にまず、なぜ愛梨の手の上にいる糠床はひとりでにモゾモゾと動き出すのか。そのことについて説明しなければならない。
 きっかけはある大手食品メーカー「川島食品工業」の偶発的な発見だった。
 そもそもビタミン豊富、風味豊かな糠漬けになるには糠床の中で繁殖した乳酸菌が野菜や果物に浸透するためである。
 この乳酸菌が偶然異常変性を起こし、乳酸菌核という細菌核を持つ種類のものが発見された。
 乳酸菌核を液体培養地、寒天などの固体培養地様々な場所での培養が行われた。中でも穀物が原料である糠床に入れたところ顕著な変化を示した。
 糠床が生物のように動き始めたのだ。
 川島食品工業の研究者たちは大いに驚いた。
 朝、研究所の扉を開けるとホーロー製の容器に保管されていたはずの糠床が容器の外を出て、机を這っていたのである。
 調査の結果、乳酸菌核は糠床で発生している乳酸菌と菌体外多糖(ExoPolySaccharide; EPS)を介して情報伝達を行い、乳酸菌核を中心としたコロニーを形成していることがわかった。そしてこのコロニーはひとつの個体のように生物として振る舞い、まるで糠床が生きているように見えたのだった。
 川島食品工業はこの発見を何かに活かすことはできないかと模索するが、生物のように振る舞うだけの糠床に利益的な価値は見出せず、暗礁に乗り上げていた。
 肝心の糠床に入れた野菜は乳酸菌核のエネルギー源として分解、摂取され、糠漬けが作れないという難点もあった。
 そんな時、転機が訪れる。
 ある有名YouTuberジュウカキンがこの川島食品工業の発見に目をつける。
「驚愕!?あの超大手食品メーカー!川島食品工業さんについに潜入しちゃいました!!」「動く糠床が超かわいい!ペットとして飼っちゃいました!!」というタイトルで動く糠床についてを取り上げた。
 結果としてこの動画により動く糠床が世間的な大注目を集める。
 川島食品工業が熱心に乳酸菌核、動く糠床について説明している1つめの潜入動画はほとんど再生数が伸びなかったが、ジュウカキンが連続して投稿した2つめのペットとして糠床を可愛がる動画は熱狂的な反響を呼んだ。
 ジュウカキンの手のひらでピョコピョコと動く愛くるしい糠床の姿はSNSでもたちまち拡散され、私も飼いたいという人々が続出。
 川島食品工業に問い合わせが殺到する事態となり、川島食品工業は「糠床ペットビジネス」を大急ぎで立ち上げた。糠床ペットブームの到来だ。
 幸い、乳酸菌核の培養についてはコストや時間がかかるものでなく、人々の手元に糠床ペットが届くのにそう時間はかからなかった。
 今では川島食品工業グループ会社の専門店で自分の用意した糠床に乳酸菌核を入れてもらえばすぐペットにできるほどお手軽になり、大多数の人が糠床をペットとして育てるほどに浸透した。
 糠床ペット用ホーロー容器や糠床の食事用野菜、果ては糠床ペットアイドルなどというジャンルまで誕生している。
 公園を歩けば3人に1人はホーローを持って糠床を散歩させている人に出会う。
 そしてホーローを持ち歩く浅倉愛梨もまた、その1人だった。

 

 吹き抜ける風は肌寒いが、澄み切った空気と雲ひとつない晴天が照らす公園はのどかな雰囲気に包まれていた。
 白のホーローに糠床散歩用ストラップをつけ、肩にかけて愛梨はぬぬぬとの公園散歩を楽しんでいた。ぬぬぬはホーローに設けられた開口部から顔?を覗かせている。
「わー。結構、人がいるね。冬だけどまだそこまで寒くないからかな?」
 ぬぬぬにそう語りかけながら、公園の散歩コースを一周する。アスファルトを一定のリズムで踏み締め、ホーローをあまり揺らさないように気を付ける。
 ぬぬぬとの散歩をしてなかった頃に比べらたら少し痩せたなあ、とか夕飯は何にしようかなあ、などと他愛もないことを考えていたら気が付くと公園を一周していた。
「あれ?もう一周しちゃった。ぬぬぬはお散歩足りない?もう一周する?」
 ぬぬぬは肯定するように頷いた。ように見えたのは愛梨だけかもしれない。だが愛梨にとってはそれでよかった。少なくともぬぬぬが嫌がっている素振りはない。
「あら!愛梨ちゃんだー!こんにちは♡」
 さてもう一周、というところでふと甘い声をかけられる。
 声の主は公園を後にしようとしていたモモカさんだった。全身フリフリの水色を基調としたコーデは多分100メートル離れていてもすぐに気がつくだろう。30を過ぎた愛梨には到底着こなせない格好だと会う度に思う。
 公園でこれでもかと目立つモモカさんの私服だが、肩から下げている物も強烈なインパクトがあった。
 ハートやら天使の羽根やらお星様やらでファンシーにデコレーションされた薄ピンクのホーローで、上側の開口部からはなんとショッキングピンクの糠床が恐る恐る顔を出している。
「いつ見ても綺麗な色だね。のぶ代ちゃん」
 愛梨はホーローを持ち上げてぬぬぬをのぶ代に近づけた。
 ちなみに「のぶ代」とはモモカさんの糠床の名前である。ファンシーにデコられたホーローの中にいるショッキングピンクの糠床「のぶ代」。
 これもモモカさんのセンスなのだから愛梨がケチをつける筋合いはない。
 黄金色の糠床に対してのぶ代はショッキングピンクというおおよそ自然界では見かけない体色をしている。糠床用に調整された食用着色料を混ぜ合わせることで色をつけることができる。糠床を着色する人は珍しくない。犬に服を着せる感覚と似ている。中には蛍光色で着色し、夜にぼんやりと光る糠床を飼っている人もいるとか。
 愛梨のぬぬぬにぴと、と顔を覗かせたのぶ代が先端で触れてくる。これは糠床同士の挨拶。仲良しの証拠だ。
「のぶ代ちゃん、挨拶できてえらいね」
「もー、ぬぬぬちゃんも可愛いんだから」
 お互いの糠床を見つめてメロメロになる。目や鼻とあったパーツもなく、粘土のようにうねうねと形を変える糠床が愛梨たちにとっては世界一可愛い動物だった。
「私、これこらのぶ代とご飯食べるからじゃあね。また今度一緒に散歩しよ」
 モモカさんはそう言うと手を振って踵を返す。フリルの付いた服がふわふわと揺れる。
「じゃあまた今度ね、モモカさん」
 愛梨はぬぬぬを抱えながら手を振り返した。
「さてと、ぬぬぬ。もう一周の前にちょっと休憩しよっか」
 公園のベンチを探そうと周囲を見渡すと、ベンチに子どもたちが4、5人群がっていた。
 おおー!とかうわー!とか言って盛り上がっている。
「何だか楽しそうだね。何だろ?」
 気になってベンチへ近付くとそこには、ぽつんと1つの茶色いホーローが置かれていた。側面につけられたストラップと上の開口部があることから糠床ペット用のものだと分かる。しかしなぜ、ベンチにホーローが置いてあるのだろうか?周囲を見渡しても飼い主らしき人がいる様子はない。
 愛梨は近くの肌寒さをものともしない半袖の丸刈りの男の子に聞いてみる。
「ボク、このホーローっていつからここに置いてあったの?」
「わかんない。僕が公園に来た時は最初から置いてあったよ」
「そっか、ありがとう」
 元気よく答える男の子に愛梨は微笑む。
 このホーローはどうやら今しがた置かれたものではないようだ。まさか捨て糠床?だとしたら市に連絡しないと?いや、まずは保護するのが先かな?
 などと思案しているとひとりの男の子がホーローの開口部に手をかけていた。
 それを見た愛梨が慌てて制する。
「待って!危ないから開けちゃ……」
 時すでに遅く、開口部はパカっと開いてしまった。
 すると中から出てきたのは禍々しい色をした深緑の糠床だった。
「うわー何だこれ!?」
 見たこともないグロテスクな糠床に堪らず子どもたちは声をあげる。
 着色料で色付けした糠床の中でもこんな色は愛梨も見たことがなかった。感覚的なものだがこの糠床からは外見以外の気味悪さを感じる。
 不気味な糠床がホーローから全身を出そうとした時、愛梨が肩に下げていたホーローからぬぬぬが飛び出した。ぬぬぬは身体を大きく薄く引き延ばすと、深緑の糠床をそのまま包み込んでしまった。
「えええっ!?ぬぬぬ!?」
 深緑の糠床は抵抗しているのかぬぬぬと共にゴロゴロとベンチの上で転がる。何度か転がると静まり、動かなくなってしまった。ぬぬぬが包み込んだため見た目はぬぬぬが2回りほど大きくなったようにしか見えない。
「あー!おばちゃんの糠床、緑の糠床のこと食べちゃった!!」
 ぬぬぬを指差して丸刈りの男の子が糾弾する。糠床の共食いという前代未聞なショッキング映像に女の子は今にも泣き出しそうだ。
「ちょっとぬぬぬ、大丈夫!?」
 愛梨はぬぬぬの安否を確認するため触れる。するとボール状に丸まり動かなくなっていたぬぬぬはゆっくりと柔らかくほぐれていき、元通りの姿になった。
 ぬぬぬは愛梨の手にペチペチと触れる。
「よかったあ。ぬぬぬ、大丈夫……なのかな?びっくりしたよ」
 ぬぬぬの具合に変わった様子はない。変わったところと言えば2回りほど大きくなったことぐらいだ。手の平に乗るサイズからボーリング球ほどの大きさになってしまった。
 とにかく、ぬぬぬを糠床用病院に連れて行こう。そう思った愛梨はまだ興奮している子どもたちを尻目に、そそくさと帰路に着いた。

 

 ボーリングの球サイズになったぬぬぬはお出かけ用のホーローには入り切らず、愛梨は仕方なくぬぬぬを腕に抱いて糠床専門病院に向かっていた。
「ずいぶんと……重たくなったねえ」
 返事が返ってくるわけでもないが言わずにはいられない。ぬぬぬは調子良さげに愛梨の腕に巻き付いて道中を楽しんでいる様子だ。
 ちょっとした小型犬ぐらいの重さになったぬぬぬを抱えベッドタウンを歩いていると、ようやく目的の建物が見えてきた。
 深町ぬかどこ病院。愛梨の近所に建っているのは知っていたが実際に利用するのは初めてだ。糠床ペットブームにより動物病院とは異なる専用のクリニックは一気に増加した。
 予約はしていなかったが何とかなると楽観的に考え、院内に足を踏み入れる。
 白く清潔感のある無機質な外観だったが中は暖色を基調とした落ち着く作りになっていた。扉やフローリングがウッド調で統一され、木のぬくもりから優しさを感じる。
 「こんにちは。深町ぬかどこ病院へようこそ」
 受付のお姉さんが営業スマイル全開で快く出迎えてくれる。だが、愛梨が抱えるぬぬぬを見た途端、笑顔は消え去り真顔になる。
(まあ、さすがにこのサイズの糠床は驚くよね……)
 気まずい雰囲気を誤魔化せないまま愛梨は要件を告げる。
 「すみません。初診なんです。ちょっと大きくなりすぎちゃって。あははは……」
 頭をかきながらおどけて見せるがお姉さんはぬぬぬを見つめながら固まってしまっている。はっと、我に返ったお姉さんは慌てて初診用の書類を愛梨に差し出した。
 「あ、こちらが初診用の記入用紙になります。お名前、ご住所、電話番号と糠床ちゃんの名前を書いてお席でお待ちください」
 愛梨は頷いてサラサラと空欄を埋める。
 書き終えると壁際の木製ベンチにぬぬぬを抱えたまま腰かけた。
 病院の中を見渡してみると明らかに自分とぬぬぬが好奇の目で見られていることがわかる。普通、手のひらサイズの糠床のはずが愛梨の両腕で抱えられているぬぬぬは明らかに規格外だ。なるべく目立たぬようにベンチの隅で気配を殺しながら、いつ呼ばれるのだろうと受付に視線を泳がせると、受付のお姉さんが動物病院の医院長と思われる初老の医者に何やら耳打ちをしていた。耳打ちの直後、お姉さんと医者の2人と目が合う。2人はサッと目線を外すと、受付裏の部屋へと入って行ってしまった。先ほどの耳打ちは何か愛梨に関することだろうか。
 居心地の悪さを感じつつ、待合室に設置されたテレビから流れているニュースを無意識に追ってしまった。
 七三で綺麗に黒髪を撫でつけた生真面目そうな男性レポーターが原稿を読み上げていた。
 「たった今、入ってきたニュースです。帝都科学研究所に勤務する研究員が先ほど開発中の生物兵器を持ち出し、失踪したとの情報が入りました。えー、駅の構内や公園、公共施設などで不審物を見かけたら速やかに市や区役所へ連絡してください。くれぐれも不用心に触れたり、中身を取り出したりは決していないで下さい。繰り返します。本日、帝都科学……」
 報道しているニュースはは随分と物騒な内容だった。
 「ええ?なんだか怖いわね。子どもとかすぐ置いてあるもの触ったりしちゃうから、心配だわ」
 「ホントよねー。うちの子、真っ直ぐ帰ってるかしら?」
 報道を見ていたマダム2人はあからさまに不安を示す。生物兵器の持ち出しなど、これが本当なら大事件だ。愛梨も一抹の不安を感じずにはいられなかった。
 ふと、病院の外が騒がしいことに気が付く。
 窓ガラス越しに見てみると黒塗りのセダンが複数台、深町ぬかどこ病院の前に停車していた。バタバタとドアからスーツを着た男たちが出てくる。見るからに糠床病院に用のある客ではないだろう。
 スーツの男たちはずかずかと病院に入り込んできた。本来の客である飼い主たちは何事かと恐怖に怯えている。ぐるりと周囲を見渡し、愛梨の姿を見つけると一目散に歩みを進める。
 「あなたが浅倉愛梨さんですね。少し、ご同行願えますか?そちらの糠床もご一緒に」
 屈強な身体でサングラスをかけた男が告げる。
 「な、な、なんですか!?あなたたち一体」
 急な出来事に愛梨はぬぬぬを強く抱いて身構える。
 「質問に答えている暇はありません。兎に角、一緒に来て頂きます」
 愛梨に質問に答えるつもりはないようだ。男は愛梨の腕に手をかけ、グイと引っ張る。
 「ちょっと、いや!」
 周囲の人たちは止めに入りたくても入れない様子だった。このまま連れていかれるのかと愛梨が恐怖を感じた瞬間、ドン!という音と共に屈強な男が尻もちをついて倒れる。
 ぬぬぬが男を突き飛ばしていたのだった。身体が大きくなった分、力も強くなったのだろうか。
 不意に突き飛ばされ、男は目を白黒させている。
 この瞬間を逃すわけにはいかない。愛梨は頭で考えるより先に身体が動いていた。脱兎のごとく駆け、男たちの間を縫いながら病院の出入り口へと身を躍らせる。なりふり構わず病院から離れるために走る。
 「待て!」
 男たちがすぐ後ろから追いかけてくるのが分かった。
 女性の脚力とぬぬぬを抱えているハンデがあるため、捕まるのは目に見えていた。このままではぬぬぬ諸共連れ去られてしまう。どうすれば、と思案した矢先、愛梨の横をものすごい速度で追い抜く青のスポーツカーが現れた。
 交差点でドリフトし、愛梨の進路を塞ぐと運転席の窓から栗色の髪をした可愛らしい顔立ちの女性の姿が見える。
 「早く!いいから乗って!!」
 突然のことだったが、直感で自分を助けてくれるのだと理解し、愛梨は助手席のドアを開けて身体を滑り込ませる。
 ドアが閉まるのも確認しないまま女性はシフトレバーを素早く操作し、車を走らせる。
 あっという間に深町ぬかどこ病院は小さくなり、スーツの男たちも見えなくなってしまった。どうやら自分は間一髪、助かったようだ。
 「た、助けてくれて、ありがとう」
 息も整わぬ状態で礼を言う。命の恩人はよく見ると自分より明らかに年下の少女だった。巧みにレバーを操り、車はグングンとスピードを上げる。
 「まどか
 「え?」
 少女が呟いた言葉の意味が分からず思わず聞き返してしまう。
 「私の名前よ。円っていうの」
 「あ、ああ。私は愛梨だよ。こっちはぬぬぬ」
 「知ってるわ。愛梨……って呼ばせてもらうわね。詳しい話はあとよ」
 見た目とは裏腹に大人っぽい話し方が意外だった。円は、はあとため息を吐くと愛梨を見据えてこう言った。
 「愛梨。あなた、大変なことになったわよ」
 円の言葉が車内にこだまする。聞こえてくる車のエンジン音はどこか他人事のように耳を上滑りしていった。
 今、この瞬間から愛梨の運命は大きく回りだす。そのことを愛梨自身が理解できるはずもなかった。

 

 愛梨とぬぬぬを乗せた車は郊外の廃工場へと入っていく。錆びたフェンスを抜け、建屋の中の解放された空間に車を止めた。
 「ここまで来れば、もう大丈夫。流石にあいつらでも見つけられないわ」
 車から降りると屋内には簡素なテーブルや椅子、パソコンといった電子機器までもが数台置いてある。外付けの発電機から電気を供給しているようで裸電球の光が灯っている。
 円がドスンと近くの椅子に腰を下ろしたので、それに倣って愛梨も椅子に座った。
 「あの、いったい何がどうなってるですか?さっきから何だかさっぱり……」
 逃走劇が終わり、ようやく愛梨は自分の置かれた状況を問いただすことができた。全てはぬぬぬがあの深緑色の糠床を取り込んで、巨大化してしまったことから全てが狂い始めてしまった。
 「愛梨を連れ去ろうとしたあの連中は帝都科学研究所が秘密裏に雇った回収業者よ。あいつらに捕まってたら今頃どうなってたか分からないわね。命令次第では平気で手荒なこともする。深町ぬかどこ病院の連絡を傍受できなかったら危なかった」
 「なんで私がそんな目に合わなきゃいけないんですか!でも、帝都科学って……まさかニュースの!?」
 円はこくりと頷く。
 「その通りよ。帝都科学研究所からある研究者が生物兵器を持ち出した。もちろん、テロに使うために。その生物兵器というのがペットブームとなっている糠床を利用した平気よ。ナノサイズの細菌カプセルを糠床に取り込ませて人通りの多いところでカプセルを誘拐させる。糠床だから周囲の警戒心も薄いし、自立的に拡散することもできる。ただ開発中の物だったからか見た目は随分グロテスクだったけど」
 「糠床の生物兵器なんて。そんな……」
 糠床を愛する愛梨にとってあまりにも倫理から外れた研究に絶句する。愛らしい糠床を殺人に利用するなど許せることではなかった。
 「もしかしてあの公園に放置されてた糠床が細菌兵器だったの?」
 「ええ、そうよ。それを愛梨の糠床が取り込んだのよ。でも……ほんと不幸中の幸いだったわね。あの細菌兵器がそのまま発動していたら愛梨もあの公園一帯の人たちも、今頃はみんな命を落としていたわ。その子、どうやって危険を感じ取ったのか分からないけど飼い主思いの優秀な子ね」
 慈しむ様に優しい目をぬぬぬに向ける円。愛梨もぬぬぬに視線を落とす。
 「ぬぬぬ。私たちを守ってくれたんだね。ありがとう」
 愛梨の腕の中で大人しくしているぬぬぬを改めてギュッと抱きしめる。愛梨はこの勇敢な糠床が誇らしくて愛おしくて堪らなかった。
 「感傷に浸るのはいいけど、のんびりはしてられないわよ。細菌兵器を取り込んだぬぬぬをさっきの連中は必ず奪いに来る。その前にぬぬぬを川島食品工業に連れて行く。そこの研究所でぬぬぬに取り込まれた生物兵器を分離させる。川島は世界で一番、糠床に詳しいから」
 矢継ぎ早に次のアクションを説明され、愛梨はついていくのがやっとだったがずっと不思議だった問いを投げかけた。
 「あの!どうして円さんは私とぬぬぬをこんなに助けてくれるんですか?」
 円は苦しそうな表情をして視線を地面に落とす。
 「そういえば名前以外の自己紹介をしてなかったわね。実は、私も帝都科学研究所の人間なの。しかも細菌兵器のナノカプセルを作ったのが私。だから、これは私の責任でもあるの。私が開発した研究で人が不幸になるのは耐えられない。だから私は絶対にあなたとぬぬぬを助ける。……信じてはもらえないかもだけど」
 自らを責める円の姿に愛梨は彼女を信じてみようと思った。愛梨は円の手を強く握る。
 「円ちゃん。ありがとう。私は円ちゃんを信じるよ」
 そう言った刹那、耳をつんざくような1発の銃声が廃屋に鳴り響いた。

 

「……え?」
 お腹にジワリと熱い感覚が広がったかと思い、手を当ててみると手のひらは真っ赤に染まった。内臓を傷つけたせいか口の中に血液がこみ上げてきて、口から血が漏れる。撃ち出された1発の銃弾は愛梨の腹部を無常に貫いた。
 理解が追い付かないまま愛梨は全身に力が入らなくなり椅子から転げ落ちた。
 「愛梨!!……そんな。どうして」
 円が駆け寄るが、愛梨は息も絶え絶えに苦しそうにしている。驚きと恐怖で円の瞳から涙がこぼれる。
 「誰!?」
 気配を感じて振り返った。銃声の発信源にはうつろな目をした白衣を着た瘦せぎすな、長髪の男が廃屋の入り口に立っていた。手元には愛梨を撃ち抜いた拳銃が握られている。
 「いひひひひ。探したぜ。こんなところに隠れてやがったのか」
 愛梨と円を憎たらしそうに睨みながら銃を構えて近付いてくる。
 「あんたが生物兵器を持ち出した犯人ね」
 愛梨とぬぬぬを庇う様に前に出るが、愛梨の容態が深刻だった。確実に重傷を負っている。出血量からしてもこのままでは命を落としかねない。
 「そいつが俺の生物兵器を取り込んでたのか。返してもらうぜ」
 男は乱雑にぬぬぬを掴んで連れ去ろうとする。ぬぬぬはジタバタと抵抗するが男はぬぬぬの伸ばした身体が届かない位置でつかみ上げている。
 このままではぬぬぬが連れ去られてしまう、そう円が思った時、男の歩みが止まった。
 「……待って。ぬぬぬを連れて行かないで。お願い」
 ぐぐもった声で愛梨は男の足を掴み懇願する。致命傷を負っている愛梨は最後の力を振り絞っていた。
 「なんだこの女。大人しく死んでろよ!」
 愛梨の後頭部を踏みつけ、足から手を剝がそうとする。このままでは本当に愛梨の命が危なかった。
 「愛梨!あなたが死んじゃう。やめて」
 円が止めに入ろうとしたが、その時、男の手からぬぬぬが離れ、大きく広がったかと思うとまるで布団のように愛梨を包み込んだ。
 ぬぬぬは愛梨を包むと丸まり1.5メートルほどの球体になった。
 「ちょ……なによこれ」
 あまりの突然の出来事に理解が追い付かない円。
 戸惑っていると今度は巨大化したぬぬぬが男目掛けて転がりだした。
 「うわああああ。なんだ化け物!」
 男はぬぬぬに銃弾を浴びせるが止まる気配がない。転がりながらぬぬぬは男も取り込んでしまった。
 取り込まれ、男の悲鳴が聞こえなくなる。
 ぬぬぬはさらに大きさを増し、3メートルほどに成長していた。円が見上げるほどの大きさである。このままでは自分も取り込まれかねない。ぬぬぬと距離を取りながら円は叫んだ。
 「愛梨!聞こえる!あなたは無事なの!?」
 円の問いかけに答えるようにぬぬぬはモゾモゾと身体をくねらせる。そして急にギューっと萎んだかと思うと愛梨がひとり倒れた姿で現れた。
 「愛梨!」
 円が愛梨を抱き起す。うーんと眉間にシワを寄せて愛梨はゆっくりと目を覚ました。
 「よかった。無事だったのね」
 理由は分からないが愛梨は無事だったようだ。腹部の出血も止まっている。というより傷そのものが無くなっている様子だった。
 「あれ?私……。そうだ!ぬぬぬが!!」
 どうやら愛梨とぬぬぬは融合したことで一命を取り留めたようだ。愛梨は本能的にそれを理解したのだろう。生物兵器の作用によるものだろうか。円の常識の範囲外の出来事が起きていることは間違いなかった。
 「ぬぬぬが愛梨を助けてくれたのね。ということは生物兵器は愛梨の身体の中にいるのかしら?一体これからどうすれば……」
 川島食品工業に連れていくはずだったぬぬぬが愛梨と一体化してしまった今、円は頭を悩ませていた。
 愛梨は一人で歩けるほどにすっかり回復している。
 円に背を向けている愛梨がふと呟いた。
 「ねえ。円ちゃん。私、なんだかすごくお腹が空いちゃった」
 呑気なことを言う愛梨に呆れてしまう。
 「もう、愛梨何言ってんのよ。ちょっとは今の状況を……」
 愛梨の体表が糠床と同じ色をしていることに気が付き、円は凍り付く。
 「円ちゃん。円ちゃんって可愛くって綺麗で。なんだか……美味しそうだよね」
 振り返った愛梨はもはや人ではなかった。糠床が愛梨の形をしているだけの何かだった。
 愛梨の影が徐々に大きくなり、円を飲み込むほどに膨れ上がる。円はその場から恐怖で動けなかった。
 ――廃屋は静まり返り、中央には愛梨ただ一人がぽつんと立っている。
 満足気にお腹を摩り、ひとりごちた。
 「ずーっと、どこでも一緒だよ」

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