臓器魚

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梗 概

臓器魚

我が家の水槽では、心臓が泳いでいる。

臓器魚ぞうきうおと呼ばれるペットだ。サチコはそれに「ハトちゃん」と名づけて育てていた。餌は細胞培養エキスを固めたフェノールレッドのキューブ。水槽に入れると、濃い赤色が拡がる。ハトちゃんは、カメラの役割をする眼を動かし、フグのような胸鰭をパタパタさせ泳ぐ。水槽の上部に設置されたCO2分圧調整装置がブーンと音を立て、心拍に合わせて水面が少し揺れる。これが臓器魚を飼育している家の日常だ。

小学校に入学する日、母はサチコに言った。
「今日からサチコがハトちゃんのお世話係ね」
「なんで?どうして?」
「ハトちゃんはいつかあなたの心臓になるからよ」

臓器魚は受精卵から抽出した多能性幹細胞を元に作成し、飼育者とともに成長する。サチコの場合、それは心臓だった。

臓器魚特別区基本法が成立して以来、遺伝病を持つ家系に限り、臓器魚を家庭内で飼育し、将来臓器移植に用いることが許された。出生前診断でサチコに遺伝性の心臓病があることを知った母が、サチコを臓器魚の飼育者にすることを決めた。飼育者は精神的サポートと臓器魚の生命倫理に関する研究のため、臓器魚心療医と定期的に面談をすることになっている。サチコの担当はユミコという女医だった。

サチコは面談ごとに、ユミコ医師にさまざまな質問を投げかけた。
「ペットと実験動物の違い何?」
「ハトちゃんには心があるの?」
ユミコ医師は毎回、「ハトちゃんに聞いてみよう」と返し、水槽の前でサチコと会話した。

サチコが中学三年生の時、母が倒れた。遺伝性の心臓病だった。サチコは直ちにユミコ医師に相談し、ハトちゃんを母の治療に使いたいと訴えた。しかし、それは制度上許されていないと断られた。サチコは母に心臓を届けるため、水槽を金属バットでフルスイングした。しかし、臓器魚は厳重なセキュリティで守られており、ヒビひとつ入れることはできなかった。
数ヶ月後、サチコの母は亡くなった。それ以降、サチコはハトちゃんの餌やりを自動給餌器に任せた。母の命日を除いて。

結婚し、自分の娘が生まれた後も、ハトちゃんは元気に水槽を泳いでいた。母親より少し年上になった頃、サチコも心臓病を発症したが、ハトちゃんの移植を拒否した。サチコはハトちゃんを自分の治療に使うこと、母は死んで自分だけは助かることが許せなかった。しかし、バールを手に水槽の前に立つ娘を見て、考えを変えた。サチコは、母がどんな気持ちで臓器魚を託したのか理解した。

移植後、サチコはハトちゃんが泳いでいた水槽を見て、深い喪失感に襲われた。臓器魚の移植を受けた人々はペットロスのような心的状態になることがあると、ユミコ医師は説明した。そして、何か新しいペットを飼うことをサチコに勧めた。サチコは空の水槽に透明な水を注ぎ、淡水フグのアベニー・パファーを飼い始め、「フクちゃん」と名づけた。隣の水槽では、娘の臓器魚が泳いでいた。

文字数:1200

内容に関するアピール

ペットと聞いて最初に思い浮かんだのは大学院時代飼育していた実験材料のメダカでした。また、ペットと実験動物の違いは何か。ペットやヌイグルミのような愛玩されるモノと、されないモノの違いは何かという事も考えました。そのような疑問の境界線上に立つ存在として、三次元培養した臓器である臓器魚を思いつきました。

この小説のテーマは「ペットと実験動物の違い」です。先日友人の獣医師にこのテーマついて質問してみました。彼は「場所」だと言いました。どこでその動物に会うかによって変わるという見方です。この考えを受け、臓器魚を工場でなく家庭内で育てることにしました。自分は「目」と「動き」もペットの重要な要素だと考え、臓器魚に目(カメラ機能)と胸鰭(移動機能)も付けることにしました。実作では主人公のライフイベントに沿って書いていこうと思います。文量に余裕があれば、他の臓器魚(肝臓や腎臓)についても書いてみます。

文字数:396

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臓器魚

「ただいまー!」
 少女は勢いよく玄関を開け、ランドセルを玄関に放り投げ、廊下をかけぬけた。トイレを済まし、タッチアンドゴーで外に遊びに行こうとしたところで、大きな人間に呼び止められた。
「サチコ。遊びに出かける前に水槽のお世話してくれない?ママいま手が離せないの」
 サチコはぶつくさ言いながらリビングへと向かった。リビングの中央には大人目線の高さに水槽が設置されていた。
 サチコはステップチェアに上がり、水槽を覗き込んだ。
 水槽横の小さな冷蔵庫から赤いキューブを取り出し、水面に落とした。キューブは水中に溶けていった。
 サチコはステップチェアの上で振り返り、台所にいるサチコの母と目合わせた。サチコが水槽を指差すと、サチコの母はヒラヒラと手を振った。
「もう止めても無駄だからねー!」
「はいはい、5時までに帰って来なさいよ。今日はハンバーグなんだから」
 サチコは小さくガッツポーズした。
 水槽のほうに振り向くと少女の笑顔がうっすらと映りこんでいた。
 サチコは水槽に耳をピっとあて、数秒間静止した。
「あったかい」
 水槽のガラスにうっすらとサチコの頬の跡が残った。
「じゃっ、行って来ます。ハトちゃん」
 サチコは水槽に手を振るとステップチェアを降り、玄関へと駆け抜けていった。
 水槽の中の赤い肉塊は決まったリズムで収縮を繰り返し、水面を微かに揺らしていた。
 
 
 我が家の水槽では、心臓が泳いでいる。
 臓器魚ぞうきうおと呼ばれるペットだ。私はそれに「ハトちゃん」という名前をつけて育てていた。
 これは私がハトちゃんに出会い、別れるまでの物語である。
 
 
 臓器魚の餌は細胞培養用のエキスを固めた、フェノールレッド色のキューブ。水槽に入れると、キューブの濃い赤色が拡がっていく。臓器魚には口がないので、液体に含まれる栄養を各細胞が吸収する形で育てていく。自動給餌器も市販されているが、教育の観点から飼育者が幼い場合は手動で行うことが推奨されている。
 臓器魚に付いているパーツは、1対の目と胸鰭むなびれだけ。ぬいぐるみのようなチャチな目は水槽の状態をモニタリングするカメラの機能を備えており、異常を検知すると知らせてくれる。フグのような胸鰭は、水中のより栄養状態の良いエリアに移動する役割を持っていた。どちらも臓器の三次元培養を家庭内で行うために追加されたパーツだが、これらを付けた結果、魚に似たフォルムになった。その結果、飼育者が臓器をペットのように育てるようになり、家庭内培養の事故率が下がったという報告もあり、臓器魚という名前になったと言われている。
 また、水槽の上部にはCO2分圧調整装置が設置されており、それによってpHは常に一定に保たれている。これには細胞シートの培養しかできなかった時代の機器が流用されている。
 これらが一般的な臓器魚の飼育環境である。飼育する臓器によって水槽のサイズなどは変わるが、それ以外は基本的に同じ。また、こんな変な生き物をわざわざ家で飼うのかも、みんな似たような理由だった。
 私が臓器魚を飼う理由を知ったのは小学校に入学した日のことだった。
 
 
「サッちゃん、入学式どうだった?楽しかった?」
 サチコの母は台所から持って来た飲み物をテーブルに置いた。小学校の入学式用のスーツが椅子の背にかけられていた。ソファーで父とテレビゲームをしていたサチコは元気よく起き上がった。
「えっ!楽しかったよ!もう友達いっぱいできたし、マツリちゃんも同じクラスだしね!」
 サチコとマツリちゃんは幼稚園のときからの友達だ。今日の小学校の入学式が終わった後も、ファミリーレストランに一緒に行ってお昼ご飯を食べた。サチコの母やマツリちゃんのお母さんが延々と真面目な話をしている一方、小学1年生たちはお子様ランチに付いて来た人形でおままごとをしていた。
「そうね、知ってる子も多いし、だいじょうぶそうね」
「もんだいなーし!かけっこもサッちゃんより速い子いなさそうだしね」
 サチコはソファーに座る父の膝の上におさまると、母が差し出すホットミルクを受け取り、ふーふーしてから飲みはじめた。コップから顔を上げると、口のまわりにできた白いお髭を父に見せて笑った。サチコの母は寄っていた眉間の皺をほどいた。
「サッちゃん、小学校に上がったサッちゃんに1つお願いしたいことがあるのだけど、いいかしら?」
「なにー?」
 サチコの母はしゃがんでサチコと視線を合わせ、両手を握った。
「今日からサチコがハトちゃんのお世話係をしなさい」
「なんで?どうして?」
「ハトちゃんはいつかあなたの心臓になるからよ」
 サチコは家の中で飼育していた変な生き物が、いつか自分の一部になるかもしれないことを知った。
 臓器魚は飼育者の細胞を元に作成し一緒に成長する。サチコの場合それは心臓だった。
「ママのお母さん、サッちゃんにとってのおばあちゃんが若い時に心臓病で亡くなったって前に話したの覚えている?」
「うん」
「実はその病気はママやサッちゃんにも引き継がれていて、いつか同じ病気にかかる可能性が高いの」
「ママもサチコもいつか死んじゃうの?」
 サチコの母は顔をこわばらせた。話を続けた。
「そうね、でもサッちゃんは大丈夫よ。ハトちゃんが守ってくれるから」
 サチコの母は小さく柔らかい頭をやさしく撫でた。
「ハトちゃんすごーい!」
「そう、だからサッちゃん、お母さんがいなくてもハトちゃんの世話をちゃんとするのよ」
「はーい!」
「サッちゃんはいいこね」
「っていうか、ママいっつも家にいるから、いないときとかないじゃん」
 サチコは無邪気に笑いながら、さっそくハトちゃんの水槽の前に向かっていった。
「そうね」
 サチコの父はサチコの母の背中にそっと手をあてた。
 
 
 ある日の放課後、サチコと何名かの生徒は視聴覚室に集められていた。
 スクリーンには研究所で臓器魚の研究する映像が流されていた。
「臓器魚は受精卵から抽出した多能性幹細胞を元に作成し、飼育者とともに成長します。臓器魚の飼育と使用は臓器魚特別区基本法に基づき、遺伝病を持つ家系に限り臓器魚の家庭内での飼育し許可され、将来臓器移植に用いることが許されております。また、2050年現在では臓器魚の飼育が許可されている地域は雑木林市ぞうきりんしだけになります」
「というのが臓器魚の説明になりまーす。みんなわかったかなー?」
 保健室の先生は映像を止め、生徒たちに話しかけた。
「わかんなーい!」
 元気よく返事をするのは小学校に入ったばかりの1年生で、何度もこの授業を受けた高学年の生徒はあくびをかいていた。
 4年生になったサチコはなんとか居眠りは回避できた。
「これで臓器魚を飼育している生徒向けの授業は終わります。もしわからないことがあれば保健室に聞きにきてください」
 サチコはランドセルをあけ、帰り支度を始めた。
「いやー、今回も長かったね〜」
 同じクラスのマツリちゃんが声をかけてきた。マツリちゃんとは幼稚園の頃からの仲だ。
 マツリちゃんも「ダイちゃん」という名前の大腸の臓器魚を飼育していた。ダイちゃんの水槽はハトちゃんよりもずっと大きな水槽で、ウミヘビみたく泳ぐダイちゃんを初めて見たときはびっくりした。自分よりも背がちっちゃいマツリちゃんのお腹にあんな長い腸が入っているなんて想像できなかった。
「長かったね〜、臓器魚の授業」
「サッちゃんさ、今度の土曜日うちに遊びにこない?お母さんとクッキー焼くの!サッちゃんも一緒に作ろうよ〜」
「クッキー!食べるー!あっ、じゃなくて作る〜!」
「サッちゃんも作るの。もう〜」
 サチコは母との約束を思い出した。
「あー、マツリちゃんごめん。思い出した。今週の土曜日はアレがあるから予定を空けておくようにお母さんに言われてるんだった……」
「アレって?」
「もしかして、臓器魚のお医者さん?」
「そう……。うぅ……行きたくないよー。知らない大人となに話せばいいのー?」
「サッちゃん、まだだったんだねぇ。マツリは先月10歳のお誕生日だったからもう会ってきたよ」
 臓器魚の飼育者は精神的サポートと臓器魚の生命倫理に関する研究のため、10歳を迎えると臓器魚心療医と定期的に面談をすることになっていた。
「どうだった?ちゃんとお世話してないと怒られたりする?」
「ふつうに楽しくお話しするだけだよ〜。ダイちゃんも元気に成長していますね、ってほめられちゃった」
「あー、色々考えてたら、お腹いたくなってきた。ダイちゃんたすけてー」
 わたしはマツリちゃんのお腹に抱きついた。
「そっちはダイちゃんじゃないよー」
「あなたたち、視聴覚室しめちゃうから早く帰りなさーい」
 保健室の先生が教室の出口から声をかけた。
「「はーい」」
 わたしたちはダッシュで教室を出ていった。
「怖い先生じゃないといいなぁ……」
 
 
「お母さん、ここかなぁ?」
 病院の正門をくぐり、敷地内の奥へと歩いていった先に、窓のない白い正六面体の建物が現れた。病院というよりは少し大きいおしゃれな一軒家のような家構えだった。
「看板もあるし、ここみたいね」
 入り口の自動ドアの横に「雑木林市立大学病院 心療内科」と書かれている。
「なんか病院っぽくないね」
 お母さんに付いてって建物に入ると、中はもっと病院ぽくなかった。
 外から見て2階建てだと思っていたが、中から見ると高天井の広い1階建てだった。
 両サイドの壁には水槽がキレイに並んでいて、間違えてアクアリウムショップに来たのかと思った。水槽の中には臓器魚ではなく、色鮮やかな熱帯魚が泳いでいた。
 正面に進んだ先には大きな平机があり、その奥の椅子に座っている人がいた。
 その人は赤茶色の長髪を後ろでまとめ、細いフレームのメガネをかけ、白衣を着ていた。うちのお母さんより若い女性だった。
「はじめまして、私が臓器魚心療医のユミコです」
「はじめまして、サチコの母です。この子が」
「サチコです」
 私は少し怖くて、お母さんのスカートの裾を握っていた。
「お座りください。今日は臓器魚定期面談の初回だと伺っております。軽い雑談をしにきたと思って、リラックスしてください」
 ローテブルのソファーに促され、ユミコ先生と私たちは対面で座った。
「これは臓器魚飼育者の心を守るための面談です。ですので、少しでもサチコさんの口から、今何を思っているのか教えてもらえると助かります」

 

「じゃあまずはお名前とか、基本的なことから聞いていきますね」
 年齢や名前、ハトちゃんに関する基本的な質問に答えた後、ユミコ先生は立ち上がり部屋の水槽を見ていかないかと誘った。私はユミコ先生の後ろについて、熱帯魚を見て回った。
 部屋にいる熱帯魚は全てユミコ先生が集めたものらしい。結構お金かかるんじゃないですか?って聞いたら、
「臓器魚関連のお仕事は経費が潤沢なの」
 と、こっそり耳打ちして教えてくれた。今まで水槽で買う生き物は臓器魚しか見たことなかったから、新鮮な感覚だった。なんで世の中の人は病気に役立つわけでもない普通の魚を飼うなんだろうって思っていたけど、そう思う私のほうが少数派なのかもしれない。
 
 
 アベニー・パファーと言う名前の小さな淡水フグの水槽の前で、サチコとユミコは立ち止まった。
「サチコさんは臓器魚のことをどう思う?」
「先生、サッちゃんでいいよ。みんなそう呼ぶし」
「ありがとう。じゃあ、サッちゃん。サッちゃんはハトちゃんのことをどう思う?」
「うーん、わかんない」
「ちょっと質問変えるね」
 ユミコ先生は部屋の水槽をぐるりと見渡した。
「臓器魚のことはペットだと思う?その例えば、この部屋にもいっぱいる熱帯魚みたいな感じだと思う?」
「うん、そんな感じ。熱帯魚は飼ったことないけど、ここにいるお魚とハトちゃんは仲間な気がする」
 ユミコはうんうんと頷き、手帳にメモを取った。
 
 
 また二人は歩きだし、今度はノソブランキウスと書かれた水槽の前で立ち止まった。
「もし、ハトちゃんに目がついてなかったら、それでもお魚の仲間だと思う?」
「うーん」
 サチコは眉間に皺を寄せながら水槽を覗いた。メダカほどの大きさのノソブランキウスが鰭を動かし、水中を泳いでいた。ノソブランキウスは人間に気付き、水面近くで口をパクパクしていた。
「いちよう動くから、ペットなんじゃないかなぁって思う。でも……」
「でも?」
「ちょっと可愛くない」
「だよね〜」
 サチコとユミコは顔を見合わせて笑った。
 ユミコはスポイトで餌のブラインシュリンプを吸いだし、水槽に落とした。優雅に泳いでいたノソブランキウスは機敏に動き始め、水面から降りてくる餌を拾うように食べた。
「いろいろ質問しちゃってごめんね。逆にサッちゃんから聞きたいことある?」
 サチコは餌を食べるノソブランキウスをじっと観察していた。
「このお魚、赤くて青くて黄色くて、いっぱい色があってキレイ」
「いいよね〜このこ」
「どこで捕まえられるの?」
 ユミコはニヤッと笑った。
「この魚はね、アフリカに生息する熱帯魚なんだ」
「え!アフリカから来たの?」
「そう、アフリカ。ちょっと特殊でお世話大変だけど、マニアが多いのよ」
「何が特殊なの?」
「この子たちはアフリカのサバンナに生息するから、乾季になると水がなくて死んじゃうの」
「ぜつめつじゃん」
「そう思うでしょ。でもね、死ぬのは親だけで、子供は乾燥に強い卵の殻に入ったまま乾季を乗り越えられるの」
「で、雨季になると子供は孵化して……あっ、孵化っていうのは卵の外に出ることね。水のなかに泳ぎだすの」
「親、かわいそう。子供だけ殻あってずるい」
 サチコはノソブランキウスの産卵床の卵を観察していた。
「ははっ、ずるいって発想はなかったな〜。サッちゃん面白いね」
「だってそうじゃん」
「確かにそうだね。親は乾燥しない地域まで移動できたら、死なずに済んだのかもね」
「できないの?」
「サバンナは広いからね」
「そっか」
「まぁ、自然界ではよくあることだよ。寿命の長い短いに差はあるけども」
 ユミコは部屋の時計を見て、そろそろ終えないといけない旨を伝えた。
「では、次回の面談は来月になります。ですが、何かありましたらいつでも連絡ください。ここにお魚を見に遊びにきてもいいですよ」
「ほんと!?」
 サチコはサチコの母に引っ張られながら、元気に手を振ってユミコの診察室を後にした。
 
 
 サチコはユミコの病院に面談のない日も熱帯魚を見に通うようになった。ユミコに熱帯魚の水槽の掃除や餌やりの仕方を教えてもらい、魚の世話もできるようになった。
 サチコとユミコは仲良くなり、サチコはユミコを自宅へとたびたび招くようになった。ユミコも臓器魚と飼育者のコミュニケーションについて興味があったので、定期面談も病院でなくサチコの家で、ハトちゃんを間に挟んで行うことが増えていった。
「あんなに小さかったサッちゃんがもう中学1年生なんて、時が経つのは早いねぇ」
 ユミコは手を膝のあたりまで下げた。
「いや、そこまでちっちゃくなかったからね」
「もう、サッちゃんなんて呼べないねぇ」
 サチコは台所仕事を終えるとエプロンを外し、ダイニングテーブルについた。
「じゃあ先生、面談お願いします」
「ちなみに、今日の晩御飯は?」
「ハンバーグです」
「よしっ、倍速で終わらそう」
「もう〜、どっちが子供なのやら」
 
 臓器魚の定期面談が始まった。
「もし臓器魚がお家じゃないところで飼育することになってたとしても、サッちゃんはハトちゃんのことをペットだと思える?」
 サチコは水槽で泳ぐハトちゃんを一瞥し、目をつむって首を傾げた。
「それって、工場とか病院で育てるってこと?」
「そう。他の人の臓器魚もずらっと横並びに飼育されている感じね」
 サチコとユミコは立ち上がり、水槽の前に向かった。
「ここにいないんですよねぇ」
「そう。水槽もない状態。でも工場ではここで泳いでいるハトちゃんがいるの」
 サチコは生温かい水槽に触れた。臓器魚は目をキョロキョロと動かした。
「それでも自分の体と同じ細胞でできているんだよなぁ」
「そうだね」
 サチコは生物の授業で、生き物が細胞からなることは理解していた。
「たぶん、たぶんなんだけど、私はそれをハトちゃんと名づけることがないんじゃないかな?」
「ほう」
「家や学校で生活を共にしていない生き物に固有名詞をつけられない」
「臓器魚としか呼ぶことができないってことだね」
「うん。だから、どっちかというとペットじゃなくて、実験動物みたいな感じになるんのかな?どうかな、先生?」
「なるほど。あれかな?献血で誰かに使われる血液みたいな感じかな?成分としてはサッちゃんの一部ではあるけど、外にでたらサッちゃんでなくなるみたいな」
「そうかも。けど変ですね。ハトちゃん自体は生き物として変わらないのに、どこにいるかで、自分の一部とは思えなくなるなんて」
「そういうもんだよ。同じ環境で暮らさないと愛着なんて湧かないよ。同じ家で暮らすというのは唯一性を持つってことだからね」
「先生むずかしい」
「ごめんごめん。まぁでも貴重な話が聞けたよ。やっぱり臓器魚は家で飼ったほうがよさそうだね」
「私もそう思う。ハトちゃんが家にいるおかげで、将来かかるかもしれない病気のことをモヤモヤ悩まずに済んでる気もするし」
「具体的なモノを間に挟んで話すと、いろいろイメージしやすいのかもね」
「うん、ハトちゃんがいるってことはそう言う意味でも大事なんだと思う……」
 サチコは水槽で泳ぐハトちゃんを目で追っていた。
「サッちゃん、今日、お母さんは……」
「うん、病院。お父さんが付き添ってる。診察長くなるから先に先生と晩御飯食べてて、って言ってた」
 サチコの成長に比例して、サチコの母が病院に行く回数が増えていっていた。
「じゃあ、もう今日の面談はおーしまーい。晩御飯にしよっか」
「うん!」
 サチコはてきぱきと食卓に2人分のご飯を用意した。
「「いただきます」」
 
 
 私が中学三年生の秋、母が倒れた。
 以前から患っていた心臓病が急激に悪化したのだ。意識は回復したものの、検査の結果、余命半年であることが判明した。母はそのまま入院することになった。
「ごめんね、サッちゃん」
 母は私に謝り、病室で淡々と”引き継ぎ”について話した。家事一般はできるようになっていたので、お金や親戚関係の話だけで終わった。
 母はスッキリした表情をしていた。私はそれが許せなかった。
「こうなるって、わかってたんでしょ」
「そうね」
 母は即答した。
「私は受け入れられない。なんでひと仕事終えたみたいな顔しちゃってんの?」
「それで私にはハトちゃんまで用意して?私長生きしちゃうよ?お母さんの倍生きちゃうよ?」
「うん」
「なんで、なんで……そんな、私だけもらって私はお母さんに何も返せないなんて、おかしいよ!」
 黙って見つめる目に耐えきれず、私は病室を出た。
 
 
 病院を出たサチコはユミコの診察室を訪れた。
「聞いたよ、お母さんのこと。私にできることは少ないけど、なんでも頼ってほしい」
「先生……」
「私ね、大きくなったの」
「もう料理も洗濯もハトちゃんの世話もできるよ。勉強は先生にも見てもらってるからクラスで1番だよ。なんでもできるよ」
「うん」
「心臓だって、ハトちゃんいるから。私は心配ないの。お母さんみたく病気になったらハトちゃん移植すればいいだけだから。私はなんだってできるの」
「なのに……、なのになんでお母さんを助けることはできないの?」
 ユミコは黙ってサチコの話を聞いていた。水槽のエアーポンプの振動音が部屋に響いていた。
 
「先生、私のハトちゃんをお母さんに使ってよ」
 サチコは先生の両手を握り、ひざまずいた。
 
「……それは、できない。臓器魚特別区基本法は飼育者本人以外の使用を認めていないから」
「臓器魚は科学と法律の積み重ねであって、魔法ではない。すぐに全ての人間を救うことはできない」
 サチコは両手を伸ばし、ユミコを突き放した。
「……もういい」
 サチコは何も言わず、診察室の出口に向かった。
「サッちゃん。もう外暗いから、家まで送っ……」
「来ないで!」
 ユミコは足を止めた。
「頼りにならない大人なんて……、いらない」
 サチコは真っ暗な外へと駆けていった。
 
 
 私はユミコ先生の病院を出たその足でスポーツショップに行き、店員さんに一番破壊力のあるバットが欲しいと注文した。
 
「え?破壊力?……あー、飛距離が出るやつってことですね!それでしたらこの大谷選手モデルの金属バットがお勧めです」
 勧められたバットを購入し、帰宅した。
 家は電気がついてなく真っ暗だった。リビングに向かうとハトちゃんの水槽だけ、赤く光っていた。
 買ってきたバットを袋から出し、一度素振りした。フローリングの上だと滑ることがわかったので、ハイソックスを脱いで踏ん張りが効くようにした。
 水槽の前に立ち、バットを構えた。
 
「ハトちゃん、ごめん」
 私は母に心臓を届けるため、水槽を金属バットでフルスイングした。
 
 バットは芯をくった。私の。
「いっっっっっつぅぅぅぅぅ!」
 臓器魚はその性質上、厳重なセキュリティが敷かれいた。水槽も頑丈に作られており、金属バットでフルスイングしても、ガラスにヒビひとつ入らなかった。
 私は全身に力が入らなくなり、フローリングに仰向けになったまま動けなくなった。
「無力だ」
 もう私にはお母さんを救う手立てが思いつかなかった。
 その後、臓器魚警備システムが作動して警備会社の人たちが駆けつけた。なぜかユミコ先生も来た。あの後、心配になってやってきたらしい。
 ユミコ先生が事情を説明し、警備会社の人には帰ってもらった。
 水槽を破壊して、ハトちゃんをお母さんのもとに持っていく計画はあっけなく失敗した。
 
 
 母は私が高校受験を終えた後、桜が咲く前に亡くなった。
「あんたの受験に迷惑かかんなくてよかったわ」
 亡くなる前の日に交わした言葉もこんなんだった。最後まで自己犠牲の塊のような人間だった。
 母が亡くなった後、勉強と家事で忙しく、あまり落ち込む暇はなかった。
 ハトちゃんは変わらず水槽でぷかぷか泳いでいた。
 
 
 母が亡くなってから、私は図書館に通いつめた。私が勝てなかったは臓器魚制度のことを知りたくなったからだ。
 色々調べた結果、私たち臓器魚飼育者は「臓器魚に賛成するための」教育しか受けていないことがわかった。
 私が聞かされていたのは「臓器魚は将来臓器移植の可能性が非常に高い人を救うことができる」「臓器魚は自家由来の細胞を用いて作成するので、拒絶反応のリスクがない」「家庭内で培養することで個人情報保護の観点でセーフティーである。工場で培養する場合、ゲノムなどの高度な医療情報を企業や医療機関が握ることになり危険である」といった主張だった。
 だけど、世の中には「神を冒涜する行為。人間を作る行為を許されるのは神だけである」「いつか脳も培養する。それは生命倫理的に問題ではないか」「完全な1個体ではないものの、臓器を育てて使うのは人間牧場で育て、人間を屠殺することと同じではないか」といった理由で「臓器魚に反対する人」も多く存在することがわかった。
 なんで今まで考えなかったんだろう?と思うのと同時に、母はどういう気持ちでこの発展途上の科学に頼ったのか気になった。
 
 
 高校に進学すると、まわりの人に臓器魚のことについて聞かれることが増えた。
 市外の高校に進学したこともあって、臓器魚飼育者は周りに私しかいなかった。どうやら世間一般ではとても珍しい存在のようだ。
「サチコさんは臓器魚のことがあって、雑木林市に住むようになったの?」
「うーん、どうなんだろ。あんま考えたこともなかったけど……」
 家で父に聞いてみた。
「そうだ。お母さんの強い希望で、臓器魚特別区に指定されていたこの街に引越した」
 元々医療機器メーカーで勤めていた父は雑木林市の別の医療機器メーカーににわざわざ転職したそうだ。
「転職は大変だったが、住宅関係は政府からの補助金があったら引越しはそんなお金がかからなかった」
 どうやらそのようなケースで雑木林市に住むようになった人は他にもいるらしく、臓器林市は重大な遺伝子疾患を持つ家庭が多いことも、市の統計資料を見てわかった。
 
 
「サチコさん、こちらの資料も見ていかれますか?」
 市役所で臓器魚の統計資料を眺めていると、市の職員に分厚いバインダーを手渡された。背表紙には「臓器魚特別区計画の歴史」と書かれていた。
 中には、毎年発行される臓器魚計画指針書が挟まっていた。計画書は私が生まれる前のものもあった。
 内容はお役所の資料らしく、びっちり文字が書かれていて読みにくい仕様になっていた。色々難しいことが書いてあるが、色んな人がこの臓器魚制度を支えていることはわかった。臓器魚を支えるために、病院、医療機器メーカー、医療消耗品の販売店、臓器魚のセキュリティシステムなど、あらゆるものが揃ったのが私が生まれるタイミングだったらしい。
 今年の計画書の結びにはこんなことが書かれていた。
「臓器魚はいま現在、限られた人しかその恩恵に与ることができない。しかし、いつか全ての人を救う技術になるだろう」
 私はそっとバインダーを閉じた。
「お母さんは、その全てに含まれなかった」
 私はそう理解した。帰り際、市役所に臓器魚心療医の変更届を提出した。
 
 
 サチコは高校に入学し少し経ってから、ユミコとの定期面談をやめた。
「私は魚の世話があるから、たぶんずっとここにいるよ。困ったらいつでも来な」
「先生、ごめんなさい」
 サチコはその後の定期面談は別の担当者に変え、形式もメールのみの簡易的なものにした。ハトちゃんの世話も自動給餌器に変え、最低限な労力で済むように変えた。
 ただ、母の命日だけはハトちゃんの世話をするようにした。それがサチコなりの母への弔いだった。
 サチコは日常からハトちゃんの存在を極力見えないようにした。
 
 
 サチコは高校卒業後、自宅から通える大学に進学した。大学卒業後も自宅から通える範囲の会社に就職した。その頃には臓器魚特別区基本法の緩和が進み、臓器魚の飼育は雑木林市だけでなく日本全国で可能になっていた。何年か働いた後、大学時代から付き合っていた彼氏と結婚した。新居は実家の隣の県に購入したので、ハトちゃんも一緒に引越しすることになった。
 ハトちゃんの引越しは臓器魚のセキュリティ会社がわざわざ来て、一通りやってもらった。前科があるせいか、派遣された職員は屈強な男ばかりだった。金属バットは実家に置いていった。
 夫も最初は臓器魚が家の中にいる光景に驚いていたが、私が臓器魚を無視して生活するので、夫も次第に気にしないようになった。ペットというよりは良くて観葉植物、悪くて常備薬だった。
 結婚して数年後、私は娘を出産した。
 
 
「軽い不整脈でしょう」
 近所のクリニックでそう言われた後、大きな病院にて精密検査した結果、私も母と同じ心臓病を発症したことがわかった。母の年齢を少し上回った頃だった。
「何もしなければ余命半年から1年といったところでしょう。しかし、サチコさんは幸いにも心臓の臓器魚があるようですので、そちらを移植すれば完治するでしょう」
 医者は母にはなかった選択肢を私に示した。
「臓器魚の移植はここ10年で件数も増えていて、その安全性は検証されています。ほんと素晴らしい技術だと思います」
「どうされますか?」
 大事な話ということで、夫と中学1年生の娘にも同席してもらっていた。2人は医者の話を聞いて安堵していた。そうか、世間はもう臓器魚で救われるが当たり前になっているのか。
 私は臓器魚で救えなかった人のこと、何十年も連れ添ったハトちゃんのことを思い、決心した。
「先生、私は臓器魚を移植しません」
「これが私の家系の寿命なんだとおもいます」
 医者も家族も黙った。そうだろう。一般的な感覚では理解できないと思う。普通じゃないと思う。
 医者はまだ時間がありますのでゆっくり考えてくださいと言って、私の決断を保留した。
 
 
 その後、夫や友人、親族などいろんな人が私を説得しにきた。
「臓器魚はペットだから大事にしているのかもしれないが、飼育者が亡くなった後は法律に従って処分されるんだぞ」
「移植さえすれば、臓器魚は体の中で生き続けるんですよ」
 違う、違う。ハトちゃんはあの水槽の中でしか生きることはできない。そんなこと言っても理解してもらえないので、わたしは誰にも何も言い返さなかった。私と私以外の人との溝は拡がっていった。
 
「ハトちゃん、君を使え使えって、みんなうるさいね」
 私は温かい水槽を抱きしめて、ハトちゃんと自分が埋葬される姿に思いを馳せた。
 母を、そしてハトちゃんを踏み台にしてまで生き続ける人生に何の意味があるのだろうか?私は臓器魚の制度に振り回されるのにうんざりしていた。
 
 
 ある日、いつもと異なる検査が必要になり、子供の時何度も訪れた雑木林市立大学病院に訪れた。検査後、昔よく通ったあそこに顔を出した。
「よく来たね。元気?」
「先生、病院は元気じゃない人が来るところですよ」
 ユミコ先生は変わらず、病院で働きながら熱帯魚の世話をしていた。
「あのサッちゃんもお母さんかぁ、時が過ぎるのは早いねぇ」
「先生は全然見た目が変わらないですね」
「そう?引きこもって仕事しているからかな?魔女みたいでしょ」
 私はユミコ先生に自分も母親と同じ病気になったこと、そして臓器魚の移植を拒否したことを話した。意外にも、ユミコ先生は反対しなかった。
「臓器魚をどうするかは飼育者に全て委ねられているからね。周りがどうこうできる話じゃない」
 ユミコ先生はあっさりそう言った。
「すみません」
「謝ることじゃないよ。臓器魚はそういうケースも含めた社会実験なんだ」
「生きる権利も死ぬ権利も政府ではなく、君にあるんだ」
 ユミコ先生がスポイトで水槽に餌を落とすと、熱帯魚は元気よく餌に飛びついた。
「私の病気との戦いは、お母さんが亡くなった時点で既に終わってたんです」
「……ふむ」
 ユミコ先生は帰り際、引き出しを漁って奥から何かを取り出した。
「君たちは思っていることをもっと言葉にしたほうがいい」
 ユミコ先生は亡くなる少し前に母からもらった手紙を私に渡した。
 
 
 私は病院からの帰りのバスでその手紙を読み始めた。母からユミコ先生へ宛てた手紙には、ユミコ先生への感謝の気持ち、自分の母も若くして亡くなり辛い思いをしたこと、自分の家系はそういう運命なんだと諦めていたこと、諦めなくてよくなったことが書かれていた。
「私はもうすぐあの世に行くことになるでしょう。そしてそのことを受け、うちのサッちゃんも悲しい思いをすることでしょう」
 横に小さい字で、うちのサッちゃんは泣き虫だからその時は先生なぐさめてあげてください、と書かれていた。
「ですが、それもこれで最後です」
「私の願いはサッちゃんが臓器魚で長生きして、私が経験し、そしてこれからサッちゃんが経験する悲しみを、私たちでおしまいにすることです」
「それが私にとっての唯一の救いであり、勝利なんです」
 手紙の最後は臓器魚に関わる全ての人への感謝でしめくくられていた。
「おかあさんっ」
 私はバスの停車ブザーを押し、ハンカチで顔を覆いながら急いで降りた。最寄りの1個前のバス停から上を向いて歩いた。
 勝手にゲームセットした自分が恥ずかしかった。私は、私のお母さんもそのまたお母さんも託した祈りの上に立っていることにはじめて気がついた。
 子供が悲しい思いをしない。たったそれだけの祈り。
 空は夕方5時だというのに真っ暗だった。普段は通らない川沿いのランニングコースには私の前も後ろも歩く人はいなかったので、ひとりぼっちでおもいっきり泣いて帰った。
 
 
「ただいま」
 夫も娘もまだ帰ってないのか家の電気はついてなかった。
「ガンっ!」
 リビングから大きな音がした。
 泥棒かと思い急いで駆けつけると、ハトちゃんの水槽の前でバールを手に持つ娘が立っていた。
「おかあさんにぃ……、手術して欲しくて……」
 娘は号泣しながら、バールを力強く握っていた。どうやらハトちゃんを無理矢理水槽から取り出し、手術に使ってもらおうとしたらしい。
 むかしどっかで見た光景だった。
「ごめんね」
 私は娘を抱きしめた。
「お母さん、ちゃんと手術受けるから」
 言葉よりも実力行使に出るあたり、血は争えないなと思った。
 
 
「ではこれから、臓器魚を用いた心臓移植のための前処理を行います」
 サチコは明日、心臓移植手術を控えていた。臓器魚を用いる場合は通常の心臓移植と異なり、そのままでは移植できない。目と胸鰭が付いているからだ。そのため、病院にハトちゃんを移送し、臓器魚から臓器にするための前処理を行う必要がった。前処理には患者が希望すれば立ち会うことができるため、サチコは立ち会うことにした。
 
 
 水槽から手術台の上に移された臓器魚は、拍動し目をキョロキョロと動かしていた。外科医は心臓と胸鰭の間に手を入れると、皮を剥がすようにバリっと胸鰭を取り外した。反対側も同様の手際で外した。
「えっ」
 思わず声が出た。そんな簡単に外せるとは想像していなかった。
「みなさん驚かれるんですけど、臓器魚の付属パーツは生体ではないので、簡単に取り外せるんですよ」
 外科医は話しながら両目も同じ要領で取り外し、残った部分を保存液に入れた。静かに沈んでいった。
 ハトちゃんはあっという間に心臓になった。自分がこの肉塊にペットめいたものを見出していたのは目と動きだったのかもしれない。
 
 
 翌日、私は無事心臓移植手術を終えた。術後、何も異常が見られなかったので、1週間で退院し自宅に帰った。
 リビングには、ハトちゃんもフェノールレッド色の培養液も入っていない空っぽの水槽が残されていた。
 そっと水槽に触れた。冷たかった。
「ありがとうハトちゃん」
 私の中のハトちゃんの魂が消えた。
 手術後、体調面は問題なかったのだが、不眠や食欲減退が続くようになった。血液検査などしても何も問題が出なかったので、医師は臓器魚心療科の受診を勧めた。
 私は手術の報告も兼ねて、ユミコ先生に会いに行くことにした。
 
 
「ああ、サッちゃん。それはペットロスだよ。あの犬猫でよくあるやつ」
 ユミコは即答した。
「臓器魚の移植を受けた人々が高い確率でペットロスのような心的状態になることがあるって、最近わかってきたんだよ」
「そんなことがあるんですね」
「びっくりだよね」
 サチコとユミコは診察室を歩き、昔の頃のように熱帯魚の世話をしながら話した。
「それで、その臓器魚のペットロスはどうやって治すのですか?」
「まぁ、いろいろやり方はあるんだけど、オーソドックスなのは……」
「新しいペットを飼うことだね」
 ユミコは水槽を指さした。
「サッちゃんは顔馴染みだから、この中から好きな熱帯魚を持ってっていいよ。心臓移植祝いの出血大サービスだ!」
「出血って」
 サチコは診察室の熱帯魚を見てまわった。懐かしい魚が目に入り足を止めた。
「先生、私これがいい」
「いいよ、持っていきな」
 
 
 サチコは移動用の水槽を抱えて、ユミコの診察室を後にした。
 自宅に帰り、サチコはハトちゃんがいた水槽に透明な水を注ぎ、エアーポンプや水草を入れた。その中に、ユミコからもらった淡水フグのアベニー・パファーを入れた。
「お母さん、この子の名前は何て言うの?」
 娘も水槽の様子を覗いていた。
「この子はね、フクちゃん」
「フグだからフクちゃん?安直じゃない?」
「ちがうよ。幸福になってほしいからフクちゃん」
 フクちゃんは新しい水槽で最初は戸惑っていたものの、しばらくすると元気に泳ぎだした。水槽の真ん中付近からすーっと壁面に移動していった。隣魚が気になるらしい。
 
 隣の水槽では、娘の臓器魚が泳いでいた。

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