またたきハミングバード

印刷

梗 概

またたきハミングバード

美沙は寮生活を送る大学生。寝室は別でリビングや水回りを三人で共有するユニットタイプの部屋なのだが、美沙は詩織と二人部屋状態で暮らしている。詩織は別の大学に通う女性で、この春、同室になってからの知り合いだ。良好な関係を築いていたが、詩織は夏休み明けから急に寝室のドアを施錠し、ことあるごとに見てないよねと確認するようになった。美沙は詩織の身に何かあったのだろうかと案じ、力になりたいと思っていた。
 ある日ドアが開いていた。隙間から転がり出て来る何か。ビー玉かと思ったがその歪な転がり方は球体ではなさそうで、よく見ると豆電球だった。詩織は誤魔化そうとしていたが、やがて諦めて手のひらいっぱいのそれをリビングに持ってきた。豆電球たちは机上をコロコロと転がるだけでは飽き足らず、ソケット部分を下にして起用に立ち上がったり思い思いに光ってみせたりと、自由気ままに過ごしている。詩織の様子がおかしかったのは、自室で飼っていたこの動く豆電球を美沙が気持ち悪がるのではないかと思い隠していたからだった。最初は捨て方がわからず部屋に置いていた豆電球二つだけだったのが、買ったりもらってきたりするうちにこの量になったらしい。
 豆電球が動くようになった原因に心当たりはないのか探っていくうちに、詩織が実家から持ってきたという、台座の付いた1.5センチほどの熊型のライトに行き当たる。「お母さんが若い頃に流行ってた、携帯電話に着信があるとその電波で光るライトなんだって。今は当時より弱い電波で通信してるから使えないらしいんだけど、兄ちゃんがスマホやwifiの電波でも光るように改良したの」
 このライトが、この部屋の豆電球に何らかの作用を及ぼしたのかも知れない。スマホの機内モードやwifi接続をオンオフしてみると、豆電球のいくつかが同じリズムで点滅した。気に入ったのか、そのうちのひとつはこちらがやめても同じリズムを何度も繰り返していた。鳥に言葉を教えているような感覚だった。詩織の部屋の扉は少しだけ開いたままにされ、二人と豆電球たちとの共同生活が始まった。
 そんなある日、詩織が旅行に行った。友達との写真や動画を送ってくるから、美沙も豆電球たちの様子を撮って返信した。自分の知らない友達との楽しそうな様子に少し寂しくなった美沙は、気を紛らわせるため豆電球たちと遊ぶことにする。根気よく教えればある程度の精度でリズムを再現してくる豆電球たち。音が鳴るならメロディーになるかもしれない。整列させれば電光掲示板のように文字を表示できるかも。いろんな試みで遊んでいくうち、モールス信号で言葉を教えることを思いつく。豆電球たちは各々気に入った言葉をアレンジしたり組み合わせたりしていた。
 帰宅した詩織に「詩織好き」と光った豆電球。そういう遊びを二つしかない時期にすでに試みていて読み取ることができた詩織は、はにかんだ笑みを浮かべた。

文字数:1200

内容に関するアピール

変なペットは豆電球、ストーリーは恋愛にしました。主人公にとっては好きな人の飼っているペットで、可愛いけれど憎たらしいという距離感です。
 昔ガラケーのアクセサリとして売られていた電波で光るアンテナと、wifiの電波を使って発電できる技術が開発されたというニュースを組み合わせて、スマートフォンを使い電波をオンオフすることで点滅させコミュニケーションをとることが出来る、おしゃべりする鳥のように人間とのやりとりを楽しんでいる豆電球を想像しました。
 飼い主である詩織には、見ただけで最初からいた二つがどれなのかや触ると熱いもの(白熱)と熱くないもの(LED)がわかるけれど、大して興味のない主人公にとってはどれも同じで、ときおり熱い思いをしてしまう。豆電球がいるせいで、好きな人と二人きりの時間が減ってしまう。物を食べていると近寄ってくるから何だか食べづらいなど、ペットあるあるを豆電球で書きたいです。

文字数:398

印刷

だいたい太陽の恋と呼ぶリズム

美沙が寮の自室に戻ってきたのは、夜の八時を過ぎてのことだった。扉を開けると、ソファに胡坐をかいて座っている詩織が目に入る。テレビをつけてはいるものの、目線は手元のスマートフォンに向いているようだった。ちらりとだけ視線を寄越し、詩織が口を開く。
「美沙ちゃんおかえり。バイト?」
「ううん。今日はちょっと、学部の先輩の資料集めを手伝ってた」
 寮全体の共用キッチンで温めてきたおにぎりとスープを、詩織がくつろいでいるリビングのテーブルに置き、その他の荷物を乱雑に床に放る。
「ここで食べていい?」
「全然いいけど。寮食は?」
「いらないって連絡してたから。本当は先輩が奢ってくれるって話だったのにさあ」
 洗面台へ行き手洗いうがいを済ませ、ついでにコンタクトも取りメイクも落として簡単にスキンケア液を頬に叩きつける。詩織が何か話している感じがするから、なに、と声を張り上げた。
「あのね、今日は大浴場に行った方がいいかも」
「なんで?」
「シャワーブース、虫が出たって張り紙してあった」
 美沙は床に置かれたクッションの上に腰かけながら、テレビの上にある丸い掛け時計を見上げた。現在、八時半過ぎ。まあ九時前と言ってもいい。これからご飯を食べて歯磨きしてパジャマを選びお風呂に向かい、入浴を済ませ髪を乾かし終える。これらを夜十時までと決められた大浴場の使用時間内に済ませるとなると、不可能では全くないが少しタイトなスケジュールだ。デザートタイムも、少し高価なトリートメントも、諦める必要がある。シャワーブースなら二十四時間いつでも使うことが出来た。
「いいや、ゆっくりご飯食べたいし。もし出たら叫ぶから助けに来て」
「行く行くまかせて。でも美沙ちゃんは目が悪いから、虫がいても気づかず済むかもね」
「確かに。嫌だなあ、どうしよう気づかずに部屋に連れて帰ってきちゃったら」
 いたずらっぽく笑っていた詩織が途端に顔を引きつらせてこちらを見るものだから、思った以上に効果ある仕返しができて美沙は思わず笑ってしまった。
「ぜっったい連れて帰ってこないで」
「おっけー」
 語気を強めた詩織に生返事をしながら、コンビニで買ってきたスープのフィルムを取り、ふたを開ける。冷えた湯気がプラスチックをつたい、テーブルに水滴を落とした。中身は思っていたよりも温かいままで、熱気が立ち上っている。
 途端に、視界の端にうつりこむものがある。カラカラと小さく音が鳴った。
「うわ、出た」
「なに、どこ!?」
 詩織がおおげさに体をビクつかせた。美沙はテーブルの上を指さす。
「なんだ、マメたちのことか。もう、虫かと思ったじゃん!」
「不気味度合いでいえば、どっこいどっこいじゃない?」
「ぜんぜん違うよ!こんなに可愛いのに」
 詩織が指先でガラス部分に触れる。豆電球は応えるように数回瞬いてから、またコロコロと転がり始めた。
「今日も元気だねぇ」
「詩織のポケットWi-Fiの調子が良いんだね」
 詩織がじとりと睨んでくる。
「なんていうか、情緒的なものがないよね」
「まあ豆電球だしね」
「美沙ちゃんに言ってるんだよ。もっとこう、可愛がってくれてもよくない?」
 可愛がるねえ、と呟きながら、美沙はピカピカ光りながらスープの周りに集まって来る豆電球たちを見た。

豆電球たちは、ちょうどひと月ほど前にこの部屋へやって来た。夏休み明け、帰省していた詩織が実家から持ってきたのだ。詩織が言うには「お母さんがまとめて捨てようと取っといた豆電球が大量に出てきてさ、兄ちゃんがそれをWi-Fiの電波で光るように改良してくれたんだけど、なんでだか私のポケットWi-Fiの範囲でしか光らなかったんだよねえ」とのことで、せっかくだから部屋のインテリアか何かに利用しようと寮に持ち帰って部屋に置いておいたら、気が付けば動き出していたらしい。まさに今も、豆電球たちは机上をコロコロと転がるだけでは飽き足らず、ソケット部分を下にして起用に立ち上がったり、思い思いに光ってみせたりと、自由気ままに過ごしている。
 それにしても、と美沙は思う。いくら何でも自由に動きすぎなんじゃないか。
「ねえ、人が物を食べてるときに見に来るの、やめさせてよ」
「美沙ちゃんがおいしそうに食べてるからじゃない?」
「ねだられてるみたいで食べにくい」
「えー!美沙ちゃん優しい」
 詩織が妙に嬉しそうに笑った。
「いや、やらないけど。でも実際、食べるわけじゃないでしょ」
 スープから大きめの人参をすくった。プラスチックでできた乳白色のスプーンに鮮やかなオレンジが乗っている。テーブルにつけないようにそっと豆電球たちに差し出してみると、わらわらと集まって来た。
「ほら、見に来るだけで食べたりはしない。まあ口とかないし当たり前か」
 そうは言っても、とくべつ勇気ある個体が、今にも触れる決意を固めないとも限らない。美沙はさっと人参を取り上げて自分の口に含んだ。豆電球たちは、またコロコロと転がりながらスープの周りへ集まってくる。
「え、ちょっと興味ありそうじゃなかった?もう一回あげてみてよ」
 詩織がテーブルに身を乗り出して覗き込む。美沙は多少うんざりした気持ちになったが、詩織の楽しげに輝く瞳を前にしては否定的な言葉を紡ぐことが出来ず、包みの上半分を取ったばかりの冷めたおにぎりを、豆電球に向かって投げやりに差し出した。海苔のついていない、ちょっと良い米を使っているのが売りのものだったが、人参の時とはうってかわって豆電球たちの興味をそんなにくすぐりはしなかったようだ。
「濃い色が好きなのかなあ。ほら、赤ちゃんってまだ視力が発達してないから、はっきりした原色が好きとかそういう話あるじゃん」
 詩織は残念そうに言い、美沙の手を持って、もういいから食べろとでも言うように口元におにぎりを持っていくように動かした。美沙は詩織の手を柔らかく払いのけてから、
「いや、温度に反応してる気がする。冷たくも熱くもないやつ、パンとか食べてる時は、そんなに近寄ってこないもん」
「えーよく見てるね!可愛くなってきた?」
「警戒してるの」
 美沙はわざと顔をしかめて見せてから、いつまでもスープのそばを離れない一つを摘まみ上げた。するとその豆電球はピカピカと光り始め、次第にその感覚を短くしていく。その今に爆発でもしてしまいそうな警戒灯に驚き、美沙はすぐにそれを机上に放った。放たれた豆電球は途端に光るのをやめ、コロコロと転がり始める。
「え、なに今の」
 詩織が困ったように笑いながら、ため息をついた。
「なんか最近イタズラ度が増してきててさあ、夜中もピカピカしながら枕元に来るから、たまに目が覚めちゃう」
「え、火傷とか怖くない?」
「それは大丈夫。熱くなる子って、熱を持ってる時には自分からは絶対よって来ないから」
「それでもでしょ。夜の間だけでも、引き出しとかに入れておいたら?」
 詩織はうーんと煮え切らない声を返した。詩織の部屋とリビングを行き来する自由を知ってしまっている豆電球たちを、あんな狭い場所に閉じ込めてしまうのは、かわいそうだと感じる気持ちもわからなくはない。
「じゃあちょうど空いてるし、相田さんの部屋をこの子たちの部屋にするのは?」
 相田さんというのは、入寮してふた月も経たないうちに、一人暮らしを始めるからと寮を出た女の子のことだ。初めからお金が貯まったら出ていくと公言しており、外泊も多く、仲を深める前にさよならとなってしまった。ここは大学に併設された寮ではないため、様々な大学の学生が入寮している。とはいえ乗り換えなしの公共交通機関で通えるのは美沙の大学のみなので、美沙にとって詩織以外の知り合いはほぼ同じ大学の人間だ。相田さんも美沙と同じ大学だったはずだが、一度も校内で会ったことはない。希望者がいないのか新規入寮者を受け付けていないのかはわからないが、現在このユニットは寝室が一つ空いたままで、詩織との二人部屋状態になっている。
「あの部屋、私のWi-Fi弱くてこの子たちがあんまり動けないみたいだからなあ。位置が悪いのか、リビングに置いても絶妙に弱いし」
 寮に備え付けのWi-Fiなら、多少の強弱はあれど全部屋に行き渡っている。
「本当に詩織のポケットWi-Fiだけがエネルギー源なんだねぇ」
 食べ終わったゴミを片付けようとしたが、そこに置いていたおにぎりのフイルムが見当たらない。視線を走らせると、テーブルの端まで行っていた。風もないのにどうして、と疑問が頭をもたげると同時に、豆電球のひとつがそのフイルムに何度もぶつかっているのが見える。どうやら美沙の手元からテーブルの端まで運んだ犯人のようだった。腰を浮かそうとしたその時、フイルムはとうとうテーブルから落ちた。
「わ、見た?この悪戯っこ何ほんと」
 豆電球は机上を転がり出した。豆電球は球体ではないから、転がったとしてもまっすぐには進まない。いつもなら器用に、右に左にと回転を操作して行きたいところへ進んでいくのだが、その時はなぜかその場でぐるぐると円を書くように回っていた。
「なに、もしかして誤魔化そうとしてる?」
 摘まみ上げると、ピカピカと一定の間隔で光っている。
「わ、いたずらしてやったぜって自覚あるんだ絶対」
 美沙が床に転がすと、豆電球は見たこともないほどのスピードで右へ左へ器用に舵を取りながら、少しだけ開いた扉から詩織の部屋へ入っていった。それを呆然と見送った美沙は、同じく呆気に取られた様子の詩織と顔を見合わせ、どちらからともなく笑いあった。
 

その日は、珍しく詩織の方が起き出してくるのが遅かった。
「美沙ちゃん。えって言わないで」
 開口一番、パジャマ姿のままリビングに姿をあらわした詩織が、見たこともないほど思いつめた顔で言った。
「え、なにが?」
「不安になるから、聞いても絶対えーって言わないって約束して欲しい」
 美沙はいつものように茶化してしまおうかとも思ったが、内容の検討がつかなかったので、とりあえずわかったとうなずいた。
「あのさ、今日起きたら……」
 詩織は泣きそうな顔で左手を差し出してきた。そこには小指がなかった。思わずえ、と言いかけて、美沙はぐっと言葉を飲み込む。
「ああ……」
「なに、ああって」
 詩織が珍しく詰めるような口調で言う。
「いや、妊娠したとか人を殺したとか、そういう類だったらどうしようって一通り考えちゃったから。いや、やっぱそういう話?もしかして、けじめ的なこと?」
「ちがう」
 詩織はほんのすこし頬を動かした。こちらの冗談に乗っかろうとして、やっぱり諦めたのだと思う。
「朝起きたらこうなってたの。痛くもないし、傷口とかもないんだけど」
 詩織が手のひらをくるくると回す。確かにただ見えないだけで、切り落とされたという具合でもない。あるはずだという記憶だけを頼りに違和感を覚えているが、手というのはそもそもこういう形のものだったとして何か不都合があるのかと言わんばかりに自然なつくりにも思えた。
「心当たり、とか」
「ないよ、小指が消える心当たりなんて」
 不安からか、不機嫌さを装ったままの詩織が言う。そうだよね、と美沙は意味もなくへらへらとした笑みを口元へ滲ませて返した。
 ふと、床を転がる豆電球が視界に入って来た。わざわざ美沙と詩織の真ん中にやってきて、くるくると回り出す。それは例の、ソケット部分を内側にして円を書くように丸く回るやり方だった。
「待って、こいつ……豆電球たちのこのくるくる回るのさ、イタズラした後によくするやつじゃん」
 詩織は心ここにあらずといった具合だったが、つられてか美沙の指す豆電球を見た。
「もしかして、豆電球のせいなんじゃない?」
 詩織の視線が回り続ける豆電球と美沙の顔とを往復する。
「せいって、どういうこと?」
「わかんないけど、でもほら。イタズラしたぜってアピールしてるから。もし他にイタズラの跡がなければ、この詩織の小指が消えたことは豆電球たちのイタズラのせいってことになる」
「なるかなあ」
 詩織が少し力が抜けたように笑うので、安心した。
「待ってね、ペット・イタズラ・隠すで調べてみるから」
 美沙は気休めかもしれないとは思いつつ、詩織を落ち着かせるためにすぐに思いついた単語を検索した。
「えー、犬が靴やスマートフォンなど、飼い主の持ち物を隠すのは、構ってほしいというアピールかもしれません。愛情不足でストレスを感じている可能性があります、だって」
 愛情不足、と詩織が知らない国の言葉かのように平坦に繰り返した。
「こんなに詩織が愛情たっぷり構ってやってるのに、図々しいやつだよね」
「電波が弱かったのかなあ」
 詩織が見えもしない電波を撫でるかのように空中で手のひらを振ったので、美沙は思わず笑ってしまった。床を転がる豆電球を摘まみ上げ、
「わかった、今日は動画見ない。好きなだけアンタたちがWi-Fiの電波食べていいから。とりあえず詩織の小指は返して」
 豆電球はピカピカと光るばかりだ。
「言葉はさすがにわかんないよねぇ。私たちもどうにかして光らないと」
 詩織がいつもの調子を取り戻して来たらしく、悪戯っぽく言った。
「いい案だけど、光ったところでこいつらが言ってることわかんないし、こいつらから情報を得るのはむつかしいかも」
 詩織がふむと小さく息を吐いた。
「じゃあさっき調べてくれたやつ、犬だったらどこに隠すって書いてあった?」
「えーっと、カーペットの裏や自分の小屋の中。こいつらの小屋的なものってあるの?」
「ないけど……しいて言うなら私の部屋の引き出しかなあ」
「うわ、引き出し開けたら小指が入ってるのは、さすがに絵面やばすぎ」
 美沙が大袈裟に顔をしかめてみせると、詩織は笑いながら自分の手に視線を落とした。
「でもね、物理的にはここにあるみたいだから……」
 詩織が自分の小指があるはずの場所をぎゅっと握っている。
「わたしも触ってみてもいい?」
「……うん」
 ややあって、詩織がゆっくりをと左手を差し出してくる。何となく、丁重にそれを受け取った。確かにそこには、手に触れている他の指と同じような感触がある。
「確かにあるね。どうしちゃったんだろう。これ、詩織の小指なのにねえ」
 手遊びの延長で、軽くマッサージするかのように撫でていると、突然、小指が現れた。
「出てきた!なんで?美沙ちゃんすごい!」
「わかんない、時間かなあ。私は何もしてないよ。でもよかった出てきて」
 なぜ消えたのかも、なぜ現れたのかもわからないままだったが、事象は解決してしまった。数時間おきに二人して両手を確認していたが、その日、指が再び隠されることはなかった。
 それなのに次の日の朝、詩織の指はまた見えなくなっていた。
 今度は中指だ。
「大丈夫?今日は一限から授業だって言ってなかった?」
「そうだけど、さすがにこれじゃ行けないよ」
「昨日の流れでいけば、時間が経てばあらわれる感じだったけど、それまでがねぇ……でも最悪、包帯とか巻いて行けば大丈夫だと思うよ」
 美沙は寮の事務室にある薬箱から包帯を拝借してきて、昔見たドラマの光景を思い出しながら、見よう見まねでそれを巻いていった。
「ありがとう!これで大丈夫!透明人間も、だから包帯を巻いて過ごしてたんだね」
 不安を誤魔化しているからなのだろうが、詩織が妙にハイテンションで喜んでみせたので、美沙は思わず顔をしかめてしまった。
「ちょっとやめてよ、全身に巻く羽目になっていったらどうすんの。詩織のはちゃんと戻るんだから」
 そう言ったものの、美沙が帰宅したときの詩織の表情は昨日の朝よりも暗かった。学校へ行っても、夕方になって帰宅しても、中指は消えたままだったらしい。
「どうしよう、このまま本当に全身が消えていったら」
 必死にこの状況を冗談にしようとしている詩織が、おどけ方を失敗したのか、泣き笑いのような顔で言った。
「消えた部分が広がったわけじゃないんだから、大丈夫だよ。時間経過で復活する説が消えただけ」
 美沙は自分の動揺を押し殺し、いつも通りの冷静で投げやりな顔を取り繕った。
「うーんなんだろな。他人に握られたら、とか?」
 そう言いながら、美沙は詩織の手をぎゅっと握った。変化はない。
「えー、あの時ほかに何かしたっけ……」
 触ると確かに感触があり、体温らしき温もりも感じられる。
「こう、目をつぶって触っていくと、普通に詩織の指なのにね」
 美沙は詩織の指を一つ一つ握った。途端に、詩織がわっと声を上げた。
「なおった!美沙ちゃん!」
 目を開けると、確かにそこには詩織の指がすべてそろっていた。喜びに飛び回りそうな詩織を抑えて、
「待って、ちゃんと考えよう。次に起こった時、どうやったら見えるようになるのか」

足元で例のごとくくるくると回り続けている豆電球を掴み、リビングのテーブルの上にあげた。美沙と詩織もソファへと腰かける。
「まず、こいつらは詩織の指を物理的に取って隠したりはできないんだよね。昨日も今日も、指は消えてる時も触れたから」
 テーブルに乗せていた豆電球はコロコロと転がり、クッションのある方からテーブルを降りて、仲間たちと合流していった。
「それと、いまのところ消えるのは朝じゃん。まあ夜のうちなのかもしれないけど」
「そうだね、私は部屋を真っ暗にしてアイマスクして寝るから余計に起きるまでわかんないけど、もしかしたら、夜中とかに消える瞬間が見れたりするのかも」
 美沙は詩織の言葉を聞きながら豆電球たちを目で追う。見られているのを知ってか知らずか、豆電球たちは示し合わせたかのように同じようなリズムで点滅を繰り返した。
「さっき思ったんだけど、目をつぶって触ってる時って、消えてる指と見えてる指の違いがなかったんだよね。こいつらは物理的な部分には作用できないから、視覚的に隠したんだと思う。だから、消えているように見えるっていうのは、光の話なのかなって。目に入る光を反射させなくして、私たちには見えないようにしてるとか……。豆電球だし、光るのが仕事だし、もしかして、そういうことも出来なくはないのかも」
 言いながら、結構いい線をついたのでは、と美沙は思った。全ての絶対零度以上の温度を持つものは電磁波を発しているけれど、私たちは可視光線がなければものを視認して区別することはできない。だから、豆電球たちは悪戯で、可視光線を反射させないようにしたのかもしれない。
「で、隠されたものを見えるようにするとき、他人が触るっていうのは条件のひとつだと思うけど、たぶんそれだけじゃダメで、わたしがした何かが必要なんだと思うんだけど」
 詩織の部屋に帰って行った豆電球から目を離し振り返ると、詩織がニコニコとこちらを見ていた。
「美沙ちゃんが名前を呼んでくれたから?」
「うーん、詩織って呼んだからというより、詩織の指って呼んだからかもって思ってる」
「ゆび?」
「虹の話を思い出してたんだけどね、虹って日本では七色だけど、色をあらわす言葉が少ないところでは、虹が六色だったり五色だったりするんだって。私たちは色の名前があるから虹を七つに区別するだけで、名前がなければ、区別されることがない。今回の詩織の指の場合、本当なら、朝になれば太陽の可視光線を反射することで私たちの目にもそれぞれが区別できるようになるけど、それが隠されて曖昧にされちゃったから、別の方法で区別するしかなくて、その別の方法っていうのが、そのものに名前を与えることなのかも」
 夜の闇に溶け合ったものを、朝、太陽が照らし、区別するから、それぞれになる。
「じゃあ、美沙ちゃんが詩織の太陽がわりだね」
 そう言って笑みを浮かべた詩織の顔は、見たこともないほど柔らかくほころんでいた。

それからも、豆電球の気まぐれか詩織の体はたびたび隠され、そのたびに美沙はその部分を撫でさすりながら名前を呼ぶことになった。鼻が見えない今朝の詩織は、美沙にいつものお願いと顔を近づけてきた。美沙が「これは詩織の鼻」と言いながらそっと撫でると、記憶にある通りの鼻が現れる。結構な頻度でやられているけれど、やっかいな悪戯だと笑うばかりで、詩織は大して気にした様子もない。――もし夜じゅう手を繋いでいたりしたら、朝になり太陽がそれぞれを分かつまでは、詩織と自分の境目も交じり合って曖昧になっていたりするんだろうかと、美沙はそんなことを考えている。

詩織は昨夜、寝ずに課題をやるのだと意気込んでいた。邪魔されないようにと豆電球たちを自室に閉じ込め、気合十分でリビングの机に噛り付いている様子に美沙は早く寝なよという言葉を飲み込みエールを送った。翌朝、自室で目が覚めた美沙は、詩織は昨夜見たやる気に満ち溢れた姿のままだろうか、いやおそらく机に突っ伏して寝ているだろうなと予想しながらリビングへ向かったけれど、
「え、詩織!」
「んん……ほんと、いつの間にか寝てた」
「それどころじゃないよ、手!」
 詩織の左手首から先が見事に消えていた。詩織は大して気にした様子もなく、寝ぼけ眼のまま左腕を寄せて来る。
「わ、ほんとだ。美沙ちゃんおねがい」
「それは良いけどこれ、今日は豆電球たち、詩織の部屋に閉じ込めてるじゃん。なのに勝手になったってこと?」
「そう。最近、豆電球たちが近くにいなかったときでも消えてることあって。なんか何回も消されているうちに消えやすくなっちゃったのかなあ、わたしの体」
 美沙としては、豆電球のせいだとすることで何とか受け入れることが出来ていた事象のはずだった。豆電球のいないところでも体が消えるようになってしまったというのはかなりの大ごとだと思うのだけれど、詩織はそれほど深刻にはとらえていないらしい。
 本当に、自分とは違い詩織はまったく大ごとだと思っていないのだということが知れたのは、詩織が大学の友達と旅行へ行くという話を聞いた時だった。
 
「授業を兼ねたものでね、後でレポート課題を出さないといけないんだよ」
 荷造りをしながら、詩織が大袈裟に顔をしかめてみせる。
「朝、体が消えちゃうかもしれないのに、大丈夫なの?手とかならまた包帯を巻けばいいけど、顔の一部とかだったら……」
「ホテルは一人部屋だし、なんとかなるよ」
「手とかなら何とかなるだろうけど、顔とかだったら、隠せなくない?」
「うーん、でもまあ大丈夫!ありがとうね!」
 どう対処するつもりなのかを聞きそびれたまま、翌朝、詩織は旅立ってしまった。出かけ間際に「この子とこの子は熱くなるから気を付けて!」と詩織はバタバタ言い捨てて行ったのだが、詩織を玄関まで見送ってから戻って来ると、もうどれがどれだか全く見分けがつかない。世話を任されたといったって、いったい何をすればいいのか。戯れに、詩織が豆電球たちのためにと置いて行った詩織のポケットWi-Fiの電源をオンオフしてみると、いくつかが呼応するかのように点滅した。もたついて見えるのは、白熱電球だろうか。はからずも、触ると熱いものとやらを判別する方法を編み出してしまった。
 豆電球たちはこの詩織のポケットWi-Fiをエネルギーとして動き回っており、このWi-Fiの届く範囲でしか活動できない。そんなに性能のいいものではないのか、部屋の立地や構造のせいか、そんなに広くはない寮の三人ユニットのこの部屋の中でさえ、この詩織のポケットWi-Fiは電波を行き渡らせてはいなかった。どのくらいの時間、電源を切っていると豆電球たちが動けなくなるのかが気になったが、さすがに世話を頼まれた身で彼らを動けなくしてしまうようなことをするのは憚られる。そんなことを思いながらWi-Fiの電源ボタンを触っていた美沙だったが、そのうち豆電球のひとつが、同じようなリズムで光っていることに気が付いた。こちらがやめても、先ほどと同じリズムを何度も繰り返している。幼い頃に味わった、友達の家で飼われていたインコが友達の言った言葉を繰り返しているのを見たときのような小さな感動が胸の内に広がった。もしかしてこの豆電球たちも、鳥のように人間とのやりとりを楽しんでいるのかもしれない。
 そうこうしている間にも、詩織からは連絡アプリで一時間と置かずに旅行の様子が送られて来ていた。詩織が友達との写真や動画なんかを送って来たときには、美沙も豆電球たちの様子を撮って返信した。あまり考えすぎないようにしていたが、その写真にうつった会ったこともない詩織の友人たちをまじまじと見てしまう。詩織が研究室の話をするとき、たまに出て来るあの子はどれだろう。どの程度の仲で、どんな話をするんだろうか。詩織は旅行の間、もし体が消えてしまった時には、ここにうつっている誰か自分の知らない仲の良い友達にお願いして、見えない部分を撫でてもらうのだろうか。自分の知らないこの中の誰かが、詩織の体に名前を取り戻してあげているのだろうか。そう考え始めると、何だか落ち着かずもやもやとしてしまう。
 詩織が自分の知らない友達と楽しそうに過ごしている様子をこれ以上想像していたくない美沙は、気を紛らわせるため、本腰を入れて豆電球たちと遊ぶことにした。先ほど編み出したWi-Fiオンオフ遊びは、根気よく教えれば、豆電球たちのうち数個は、何拍もあるような長めのリズムもある程度の精度を持って再現してくるようになった。もしも音を鳴らすことができるのなら、簡単なメロディーくらいは演奏できるようになるかもしれない。一つ一つの覚えたリズムを組み合わせて整列させれば、電光掲示板のように文字を表示したりもできてしまうかも。さらに詩織の体を隠してしまうイタズラを応用させれば、ものすごいことができるようになる気がする。ものすごいことが何なのかは、わからないけれども。
 そもそも、豆電球はどうやって詩織の体を隠しているのだろうか。美沙は、豆電球が詩織の体を隠してしまう方法として、豆電球たちが詩織の一部について可視光線を反射させなくしているのだと仮定している。ならば、可視光線以外の電磁波を見ることができるようにするのはどうだろうか。全ての絶対零度以上の温度を持つものは、電磁波を発している。だから詩織の体の隠されてしまった部分も、赤外線とかそういうものを必ず発しているはずなのだ。
 人間の目と脳だけでは認識できなくても、例えば天気のニュースなどで見かけるサーモグラフィーカメラなんかにうつせば、詩織の消えた部分も見ることができるのではないか。そうしてうつった部分を視認すれば、詩織の体もそこに確かにあることを納得して現れてくれるかもしれない。そうすれば、こういう旅行なんかで美沙がいないときでも、詩織は誰かに触ってもらったりせずに自分で消えてしまった体を顕在させることができる。
 試してみたいと思ったが、そんなカメラがそうそう都合よく手に入るものでもない。夜景を撮るような暗視カメラはどうだろう。検索してみると、スマートフォンのアプリでそういった役割のものがあることを知ったのだが、その赤外線カメラアプリを紹介する記事には、服の中身を透けさせるような悪用ができなくしてあると書かれていた。そんなことをわざわざ書いてあるということは、そういう目的でインストールする人間がいるということだろう。そんなカメラを詩織に向けようとしたこと自体に何となく後ろめたさを感じてしまい、美沙は「あーそういうのなんだ」とひとり白々しく声に出した。
 ――豆電球が詩織の体を消すことができるのなら、彼らは反対に、消えた体をあらわすことだってできるのではないか。
 ふと、そんな考えが頭をよぎった。美沙がしていることは、詩織の体に名前を与えて、曖昧になってしまった周囲と区別することだ。豆電球たちは言葉を話し名前を与えることはできないだろうが、彼らには光がある。
 それこそ、先ほど思いついた案が使えそうだった。豆電球たちを整列させて、電光掲示板のようにする。そこに詩織の消えた体の名称を表示させれば、それは名前を呼んだことと変わりないだろう。まず必要なことは豆電球たちを整列させることだが、これはかなり難しい。一つとしてじっとしていない豆電球たちのすべてを秩序よく並べるなんて、不可能に近い。でももし格子状の小物入れか何かに入れておくことが出来たとしたら。――それでもやっぱり不可能だろう。たとえ並びを常に同じ配置につかせることができて、手に足に顔にとかなり豊富にある体の名称をあらわす光のバリエーションをすべて覚えさせたとして、そして彼らがそれを完璧なタイミングで行うことができたとしても。いくら数える気がおきないほどたくさんいるとはいえ(正直なところ美沙はこんな奇妙なものは二つあるだけでも多すぎるくらいだと思っている)、綺麗な文字列を作れるほどの量は、さすがにいない。一文字ごとに表示する方法もなくはないが、豆電球がとりうる発光パターンや必要な条件付けの多さを思うと、美沙は気が遠くなる思いがした。
 音楽という案はどうだろう。音と文字とを対応させればいいと考えると、たくさんの豆電球たちで一つの言葉を作るという案よりは現実的だろうか。しかし、美沙には豆電球たちに音を鳴らさせる術がない。身近で音階を作れるものというならば、水嵩の違うグラスを鳴らすというものを思いつく。常温ではさほど豆電球たちの興味をひけないので、お湯の入ったコップを数個並べてみた。集まってくる個体はいくつもあるけれど、別にぶつかって音を鳴らしてみようとする気配もない。割れてしまうかもしれないから、これ以上何かを促すことはできなかった。
 どうにかして共通する言語が必要だった。光ることができる豆電球と、それを見ることができる私たち。やはり使えそうなものは光である気がする。その時、先ほどまで無意識でいじっていた詩織のWi-Fiが目に入った。そういえば私と豆電球の間には、拙いながらもやり取りが生まれている。
 美沙は大慌てでスマートフォンの検索画面を開いた。美沙には、昔見た戦争映画の記憶により音で行うものという印象が結びついていたのだが、言葉とリズムを対応させているものといえば、
「あった!モールス信号の対応表!」
 これなら、先ほどのリズム遊びの延長線上で行うことができる。豆電球同士を連携させる必要もないため、教えるのも格段に簡単になるだろう。問題は、消えた部分に応じて適切な光り方を選択させることだ。これは、言葉を理解して光っているわけではない豆電球たちには不可能だろう。詩織の指、や詩織の鼻、という光り方を覚えさせることができたとして、それの使い分けを教える方法は、美沙には思いつかない。とりあえず、共通している「詩織の」というリズムを覚え、Wi-Fiのオンオフで繰り返し行った。思っていたよりも長い。気に入ったのだろう部分だけを繰り返したりアレンジしたりする個体もあったものの、完璧に真似してみせたものもいくつかあった。
 豆電球たちが言える言葉は「詩織の」だけ。美沙が読み取れるモールス信号も「詩織の」だけだ。詩織の名前だけが、豆電球たちと美沙との共有言語なのだった。「詩織の」と言いながら跳ね回る豆電球たちを見ていると、不思議とこれまでよりも可愛く思えてくる。
 いっそ部位を言葉で特定させず、「詩織の」と光りながらその個所に集まってくるように仕向けるのはどうだろうか。豆電球たちは温度で誘導することができるから、例えば使い捨てカイロなどで見えなくなった指を温めれば、そう難しいことではないだろう。
 はやく詩織にも披露したい。美沙は、詩織の帰宅がこれまで以上に待ち遠しくなった。
 

美沙が食堂で夕食を済ませたあと、程なくして詩織が帰宅した。
「もう、美沙ちゃん途中から全然返事くれなくなるんだもん」
 詩織がお土産だというクッキーを渡してくれながら、ぷりぷりと怒ってみせている。
「ごめん、夢中になってた」
 何に、と唇を尖らせる詩織に対して、今日の成果を披露した。リズムよく光る豆電球たちには、詩織も機嫌を直したようで、ニコニコと笑みを浮かべている。
「鳥が人の言葉を喋るのと同じかもね。美沙ちゃんが喜ぶから光ってくれてるのかも」
「おんなじ!わたしも、インコみたいだなって思ってた」
「なんか美沙ちゃんとマメたち、この二日間でめちゃくちゃ仲良くなったんだねぇ」
 詩織が笑って言う。覚えたてのモールス信号を教えて、豆電球たちが「詩織の」と光っているのだということを伝えた時には、照れたような笑みを浮かべていた。しかし、これで詩織の体を顕在させることができるだろうという美沙の予測に対しては、思っていたよりもずいぶん淡泊なリアクションしか返ってこなかった。
「明日の朝、もし消えた部分があったら試してみようよ」
 美沙が言うも、うーんそうだねと煮え切らない返事をし、詩織は洗面台のほうへ向かった。見るともなしに顔を向けていると、詩織がメイクを落とすためか髪を大雑把にまとめている。そこには、あらわれるはずの左耳がなかった。どうやら詩織は気が付いてないらしい。気温の低い日でよかった。みんなの前で髪をアップにしていたら、大ごとになっていたかもしれない。あとで出してあげなきゃと思っていると、鏡の前に到着して耳が見えていないことに気が付いたらしい詩織が、何でもないような仕草でさっと自分の顔の側面を撫でた。すると、さっきまでは確かに見えなかった左耳がそこにあらわれた。言葉を失う美沙を尻目に、詩織は手際よくメイクを落としていく。そのうち水音が止んで、髪を上げたままの詩織が振り返って言った。
「疲れたから今日はもう寝るね。明日あさいちでシャワー浴びることにする」
 あくび混じりだが平然としている。試してみたら顕在できちゃったとかいう雰囲気でもない。
「詩織、自分でできるようになったの?」
 美沙は自分の左耳を触りながら問う。小首をかしげた詩織は、少し逡巡したあと、先ほどの行動に思い至ったのかあからさまに気まずそうな顔をした。
「あー……」
「できるようになったなら、教えてくれてもいいのに」
 詩織の秘密を知っているのは自分だけだと思っていた。だからこそ、詩織のこの問題は自分だけが解決できるのだと思っていた。初めて体が見えなくなったときのパニックを考えると、初めから自分だけで解決できていたわけではないだろう。自分で顕在できるようになったなんていう大発見を共有してもらえなかったことのショックが大きくて、出来るという事実自体は望ましいことのはずなのに、文句のような口調がでてきてしまう。
 詩織はあの、その、と何ごとかを言い籠っていたが、そのうちひとつ息を吸い込むと、顔を上げて美沙と目を合わせた。
「あのさ、えーって言わないでね」
 またそれかと思いながらも、美沙はうんとうなずいた。
「あのね、実は4,5回目くらいのとき、自分で触りながら私の体って念じれば自分でもできることに気づいたの」
「うん……」
 感嘆詞を封じられ、再びうなずくしかない美沙とは対照的に、詩織はほんの少し唇をかみしめて小さく笑みをつくり、気まずさの中に照れを混ぜたようないろんな感情のこもった上目遣いで詩織を見つめてきた。
「でも、明日の朝はまた、美沙ちゃんが太陽の代わりに詩織に名前をくれないとダメだからね」
 えっ、と声が漏れ出た美沙にかまわず、詩織はおやすみと言い捨てて自室に飛び込んだ。後に続いてコロコロと入室してくる豆電球に気づいたらしく、扉は少しだけ開けたままにされている。豆電球たちは「詩織の」とリズムよく光りながら、次々と詩織の部屋へと消えていく。
 そんな豆電球たちを見送っていた美沙の胸は、最後のひとつが見えなくなってからもずっと、きっともうじき、これまでとは違う新たな名前が付けられることになるだろうリズムでもって舞い踊っていた。

文字数:14513

課題提出者一覧