沈黙のルートヴィヒ

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梗 概

沈黙のルートヴィヒ

 

世界中で急増する原因不明の突発性難聴、しかも従来の突発性難聴と違い、両耳が聞こえなくなる。

十四歳の奏恵かなえは恐れていた事態が不幸にも自分の身に降りかかってきたのを知る。ある日、強烈な耳鳴りとともに両耳の聴覚を失った。三歳の時からピアノを習い、将来の夢はピアニストだったが、その夢が無情にも閉ざされる。奏恵は絶望に打ちひしがれ、自殺などしないようにと同居する祖母のナミが見張らなければならなかった。

塞ぎ込み、何をするでもなくネットばかり見ていた奏恵は、ある噂を目にする。「ある種のムカデの仔を耳に入れると、耳が聞こえるようになる」というものだった。

「入れたら咬まれて耳の中が腫れ上がった」「聞こえるようにはならず、耳鼻咽喉科で取ってもらわなければならなかった」という口コミもあったが、「聞こえるようになった!」という体験談もあり、迷う奏恵。祖母のナミは反対するが、最終的にはピアノが弾けないまま生きていっても仕方がないからと危険を覚悟でムカデを捕まえて耳の中へ入れる。奏恵の耳は再び聞こえるようになった。

詳しい仕組みはわからないが、ムカデは聴覚神経に取り付き、脳に聴覚情報を送れるらしい。専門家もムカデと聴覚回復のメカニズムは解明できず、医学界としてはムカデは医薬品でも医療機器でもないため規制は出来ないが、危険を伴う行為であるため非推奨とする、という対応しか出来ない状態だ。

ピアノの練習を再開する奏恵だが、次第に雑音が聞こえ始める。最初は耳の中でムカデが動くときに発する音かと思っていたが、奏恵はそれがムカデ自身の送ってくる「言葉」であることに気付く。しかも、奏恵が頭の中で何か考えると、それに反応するように音を出す。

 

時は経ちムカデを入れてから一年、奏恵は自分のムカデに「ルーイ」と名付け、かなり高度な「会話」をもつことが出来るようになっていた。ルーイによれば、ムカデは昔からこのような能力を持っていて、有名なところではベートーヴェンが聴覚を失っても作曲を続けられたのは、彼の耳にムカデが入っていたからだという。

一方、世界では新型難聴の患者は増える一方だった。藁にも縋る思いでムカデを耳に入れる人も増える。高校に進んだ奏恵はその年のジュニアピアノコンクールで最優秀賞に輝く。インタビューで奏恵は自身が新型難聴で聴覚を失い、耳内ムカデのお陰でピアノを続けているとカミングアウトする。

「私とルーイは一心同体です。一生涯のパートナーとなるでしょう。ルーイ、ありがとう!」

祖母のナミは奏恵の優勝を最も喜んでくれた一人であるが、残念ながらナミは認知症を患っており、症状は進行していた。

後日、ムカデ陰謀論を唱える団体「トゥルーサイト」の板東ばんどうという男からコンタクトがある。

板東によれば、ムカデは聴覚を補助すると見せかけて、人間の脳を乗っ取ろうとしているのだという。最早ルーイなしで生きていくことは考えられなかった奏恵は板東の説を一蹴し、以降連絡をとってくるのを拒否するが、その説は奏恵の意識に引っかかって離れない。

そうしているうちに、沢山の有名人や政治家、実業家が耳内ムカデを入れているのをカミングアウトしていく。殺虫剤メーカーの社長がムカデを入れたというニュースは結構話題になったし、アメリカ大統領候補が入れたと聞いたときにはついにそこまで、と思った。世界が耳内ムカデの大ブームに沸く中、奏恵の中で板東の言葉がだんだん気になってくる。曰く、ベートーヴェンが聴覚を失った理由は鉛中毒と言われている。鉛中毒は聴覚神経を冒すのではなく、脳の聴覚野そのものをだめにするので、ムカデが聴覚神経の代わりをしたところで聞こえるようにはならないというのだ。

ある日、新型難聴の原因がムカデの出す毒だという研究結果が発表される。そのニュースを聞きながら奏恵は生理痛薬と間違って、ナミの認知症治療薬を飲んでしまった。NMDA受容体拮抗薬によりガンマ波の増幅した脳を深睡眠状態と誤認したルーイは他の個体とテレパシーを行ってしまう。奏恵は「計画実行を早める」というメッセージを聞き、ルーイを問い質す。ルーイは会話を聞かれてしまったことに焦り、奏恵の脳を支配しようとする。手足がいうことを聞かない奏恵はそれでもなんとかピンセットを使い、耳を血まみれにしながらルーイを取り出し、踏み潰す。

我に返った奏恵は大きな建物が爆発炎上するニュースを目にする。アナウンサーの声は聞こえないが、殺虫剤メーカーの工場が爆破されたという字幕に愕然とし、すべてはムカデが人間に代わり世界を乗っ取るという計画だったと理解する。

続いてアメリカがメキシコに侵攻を開始したというニュースが流れる。奏恵は「トゥルーサイト」の板東と連絡を取る。

板東は言った。

「きみをレジスタンスに歓迎する」

文字数:1969

内容に関するアピール

私自身が小学生の頃、ある朝起きたときに耳の中に小さな甲虫が入っていたことがあって、取り出すまでに難儀した経験があります。普通は耳に虫が入れば不快なものですが、それでも良いと思える状況を想定してこのストーリーを考えました。甲虫ではわりと普通なので「耳に入れたくない虫」を考えた結果ムカデにしました。

文字数:148

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沈黙のルートヴィヒ

カーペットの上を何か小さな虫が這っている。暗くてよく判らない。ハエトリグモの仔か、それともアリだろうか。
 奏恵かなえは身じろぎした。カーテン越しに僅かに差し込む朝日も、ベッドの下までは届かない。中学校に入学した時にニトリで買ってもらった無垢材のシングルベッドの下にもぐり込んでいるのは、ベッドの上で過ごすのに飽きてしまったからだ。
 髪の毛に綿埃がくっ付くのも気にならない。どうせ家族以外に会う人もいない。
 奏恵がベッドの下から這い出すと、机の上に置いていたスマホの画面が光っているのに気付いた。着信音が聞こえないのはもちろん、バイブレーターも身に付けているとき以外には役に立たないことを、耳が聞こえなくなって初めて知った。それまで机に置いた携帯のバイブレーターに気付いていたのは、振動が机を叩く音が聞こえていたからだ。
 机まで這っていって、スマホを見る。クラスメートからの未読メッセージを示すカウントは、合わせて百を超えた。最初の頃は仲の良い友達には毎日返信していたが、一ヶ月を過ぎる頃には週一回くらいになり、三ヶ月経つ今ではチェックすらしなくなっていた。スマホは専ら、奏恵を冒した病魔についての報道や情報を追うためだけに使っている。
「新型難聴、ついに世界で患者百万人へ」
「原因・治療法未だ見つからず、医療への苛立ち増す」
 奏恵はスマホを机の上に戻した。三ヶ月前から、いやもっと前から、ニュースの内容は変わり映えがしない。
 机の端に、学校から届けられる配布物がまとめて置かれている。三ヶ月で配布物の山はずいぶん高くなった。一番最近配られた社会のプリントが、一番上に重ねられている。内容は歴史で、フランス革命やナポレオンについてまとめられていた。もともと勉強なんて何の役に立つのかわからなかったし、今の奏恵にはますますもって意味をなさなかった。
 空腹を感じた。何もやる気が起こらず、トイレと風呂と食事以外に部屋を出ない生活でもしっかりとお腹だけは空く。
 部屋を出てキッチンに入ると、ナミばあちゃんがさやえんどうのスジを取っていた。
「起きたかい。ご飯温めるよ」
 この頃ようやく簡単な読唇ができるようになってきた。
「自分でやるよ」
 冷蔵庫を開けようとするばあちゃんを制して、奏恵は言った。
 ご飯と味噌汁とベーコンエッグを電子レンジで温めて、一人テーブルにつく。関東音大でピアノを教えているお母さんは奏恵が起き出す時間にはもう家にいない。お父さんは奏恵が六歳の時に出ていった。それを機に、奏恵の苗字はお母さんの旧姓である八坂やさかになった。
 食べていると、ばあちゃんに肩を叩かれた。驚いて振り仰ぐと、ばあちゃんがいつの間にかスジ取りを止めて奏恵の隣に立っている。何か言っているが、よく分からない。首を振ると、ばあちゃんは裏紙を四分の一に切ってクリップで束ねた筆談帳に達筆で書き始めた。
「今日、スミコと病院に行ってくるけど、一人で大丈夫?」
 そういえば、お母さんがナミばあちゃんを検査に連れて行くって言ってたっけ。
 大丈夫? と訊いてくるのは、奏恵を一人にしておいたら、自殺でもしかねないと思っているからだ。三ヶ月前、お母さんは「耳が聞こえないと何かと困るだろうから」と、ばあちゃんを実家から呼び寄せて一緒に住み始めたのだが、本当の理由は奏恵が変な気を起こさないよう見張るためだってのはわかってる。
「大丈夫だよ」
 変な気を起こさないために、奏恵は自室に閉じこもっているのだ。
 特にあの部屋には、近づきたくない。廊下の向こうにある二重扉の部屋。奏恵が生まれる前、このマンションに引っ越してきたときにリフォームして作ったという防音室の中には、ベーゼンドルファーのグランドピアノが鎮座している。
 耳が聞こえなくなってから一度だけ、その部屋に入った。物心つく前から慣れ親しんだ鍵盤を叩いてみて、愕然とした。聞こえないのに弾くのは、お腹を満たすために空気を食べるようなものだ。
 防音室の壁にはバッハやモーツァルト、ハイドンなどの肖像画が掲げられている。もちろんベートーヴェンも。誰もが知るその楽聖の顔を、奏恵は恨めしげに見やった。聴力を失った今、奏恵は断言できる。耳が聞こえないのに作曲したなんて、眉唾だ。
 それ以来、ピアノ部屋には二度と足を踏み入れていない。

*

新型突発性難聴が最初に確認されたのは、一年ほど前だった。
 ひどく暑い夏で、スズメバチやムカデなどの毒虫が大量発生してニュースになるほどだったので、よく覚えている。従来の突発性難聴と違うのは、両耳が同時に聞こえなくなる点だった。奏恵はまさかその不幸が自分に降りかかってくるなど、考えもしなかった。三ヶ月前、学校に行く支度をしていると、突然頭の中身を切り裂くような耳鳴りに襲われた。耳鳴りがおさまると、静寂が訪れた。お母さんがパタパタと走り回る音、換気扇の音、表を走る車の音、冷蔵庫が震える音。普段は気にしたこともない背景音が消え去ると、おそろしく白い、無味乾燥の空気に世界は塗り込められる。
 お母さんに連れられて、すぐに耳鼻咽喉科へ行った。新型突発性難聴の診断を受けると、その当時いや恐らく今でも標準治療である、漢方薬の処方を受けた。もちろんその薬が効いた試しはない。
 将来の夢はピアニスト。その夢が無残にも打ち砕かれた。半年後に卒業を控えた中学校も、そこにいる友達も、難病の蔓延に震える世界も、すべてがどうでもよくなった。
 ナミばあちゃんが出かけると、奏恵はスマホを持ってベッドの下にもぐり込み、動画サイトに上がってくるおすすめ動画を次々に再生した。
 お母さんは腫れ物に触るような態度で奏恵に接する。時々学校の配布物を届けに来る友達もそうだ。ばあちゃんは奏恵の耳が聞こえないのをすぐに忘れて話しかけてくる。テレビは音がないとよく分からない。
 字幕をオンにすれば大抵理解できる動画サイトだけが、奏恵に優しい。だから一人の時はずっと動画を見ている。
「新型難聴に効く薬はこれだ」
「難聴の原因は、アメリカがばら撒いた生物兵器だ」
「知ってる? 漢方薬メーカーとWHOの癒着」
 おすすめに上がってくるのは、センセーショナルなタイトルがつけられた様々なデマやガセネタ、陰謀論の類いばかりだ。投稿者の広告収入を増やす以外の役には立たないそれらの動画も、何も考えずに見続けられるという意味で、今の奏恵にとってはちょうど良かった。だから奏恵はひたすらおすすめ動画を手繰るのだった。
 ふと、一本の動画に指が止まる。
「ついにムカデを耳に入れました」
 なんとなく、似たような動画が増えてきているのは認識していた。脚のたくさんある生き物がどちらかというと苦手な奏恵はそれらを無視していたが、「聞こえるようになった」「新型難聴を克服」というテキストが散見されるに至って、奏恵は恐る恐る動画をタップした。
 幸いムカデ自体は動画には映っていなかった。福岡に住む男性が、カメラの前で喋っているだけの動画だ。だがその内容は驚くべきものだった。
 ムカデの仔を耳に入れたら、新型難聴に冒された耳が再び聞こえるようになったというのである。奏恵は夢中で関連動画を漁った。誰が最初にそんなことを始めたのかは分からない。欧州に住む患者が、寝ている間にたまたまムカデが耳に入ってきて聞こえるようになったとか、南米のある部族では昔から耳にムカデを入れる度胸試しの儀式があり、その部族では新型難聴に罹っても儀式を受けると聴覚が回復するのが判ったとか、様々な説がネット上に広まっていた。
 一方では失敗談も数多く寄せられていた。ムカデを入れたら耳の中を咬まれ、激痛に三日三晩もがき苦しんだとか、入れても聞こえるようにはならず、自分で取り出せなくなり、耳鼻咽喉科で摘出してもらったとか。
 最初は恐いもの見たさで動画やSNSを見ていた奏恵だが、いつの間にか「ムカデ 成功例」でネットを検索している。どんな方法だっていい、再びピアノを弾けるようになるんだったら。奏恵は時間を忘れて調べ続けた。
 お母さんとナミばあちゃんが病院から帰ってきたのはもう日が暮れた後だった。後日、ばあちゃんは正式にアルツハイマー病の診断を受けた。

*

三ヶ月ぶりの屋外は、眩しかった。
 音のない世界でも、燦々と降り注ぐ太陽は大気や地面を暖め、膨張させ、空気を動かす。その動きを肌で感じながら、奏恵は街を歩いた。電車を乗り継いで南砂町に降り立ち、スマホのナビを頼りに「便利屋・ハザマ」を目指す。
 ネットで調べた限りでは、ムカデなら何でも良いというわけではない。日本にいるムカデならトビズムカデ。俗にオオムカデと呼ばれているムカデの、体長二センチ以下の子どもが成功例が多い。素人が仔ムカデを探し、種を判別するのは難しいから害虫駆除をやっている業者やペットショップが小遣い稼ぎみたいにトビズムカデの仔を売っている。もちろん科学的エビデンスも何もない民間療法みたいなもんだから、大っぴらには売らない。ネットで調べて、口コミで扱っている業者を見つけるしかなかった。
 便利屋・ハザマは古びた雑居ビルの二階にあった。鉄扉の脇にあるインターホンを押すと、初老の男が出てきた。奏恵が自分の耳を指さし、ムカデが欲しいと伝えると、中に通された。男の他に人はおらず、狭い部屋は様々な道具で埋め尽くされていた。長机とパイプ椅子があり、そこに座るよう言われる。机の横にあるラックにチラシが置かれていた。
「大掃除・不用品処分・害虫駆除など、低価格で対応。相談無料。便利屋・ハザマ」
 大掃除が必要なのはこの事務所ではないかと思いながら奏恵が待っていると、男がアクリルのケースを持ってきて机の上に置いた。ケースの中には十匹あまりのムカデがのたくっている。小さいながらも姿は成虫と同じだ。うようよと蠢くムカデに、背筋がぞっとする。
「親御さんは了解してるのかい?」
 男がジェスチャーと筆談を交えながら訊いた。奏恵は頷いた。
 本当は、お母さんは絶対に反対するので、話していない。ナミばあちゃんにはムカデを入れてみたいと打ち明けたけれども、「やめといた方がいいんじゃない?」と言われていた。
 男は筆談を続けた。
「三千円ね。どれでも好きなのを選んで」
 奏恵はケースの中を這い回るムカデたちを見る。どれでもと言われたって、みんな同じムカデだ。それでもじっと見ていると、そのうちの一匹が奏恵の方に頭をもたげて少し上下に動いた。まるでお辞儀でもしているような動作だった。
「この子をください」
 奏恵はいま頭を動かしたムカデを指さした。男はケースの蓋を開け、ピンセットで奏恵が選んだムカデをつまみ上げると、別の小さなケースに移した。ナミばあちゃんに負けないくらいの達筆で、男は書いた。
「すぐに耳に入れるなら餌は要らないよ。入れ方は知ってる?」
 奏恵は頷いた。入れ方は動画で調べた。三千円を払い、ケースを鞄にしまう。家に帰る道すがら、奏恵は自分の決心が揺らがないかとずっと不安に苛まれていた。
 家には、ばあちゃんがいた。キッチンで煮干しの頭とはらわたをちぎっている。横を通り抜けながら、「ただいま」と言い、まっすぐ自室に向かう。鍵をかけ、鞄からアクリルケースを出した。
 改めて見ると、大きさが小さいだけで、本当に成虫と同じ姿形をしている。艶のある節が並び、たくさんの黄色い脚があり、赤い頭部からは触角と、鋭い顎が生えている。いざとなると、やはり逡巡した。こんな虫を耳に入れて、大丈夫なのだろうか。ネットに転がっている他の話みたいに、ガセネタなんじゃないだろうか。
 その時、仔ムカデが一瞬頭をもたげて、奏恵の方を見たような気がした。
 奏恵は頭を左右に振り、胸の底から次々に湧き上がってくる想念を振り払った。この先、耳が聞こえないまま生きていったって仕方がない。ピアノのない人生なんて、あり得ない。万が一にでも聞こえるようになる可能性があるなら、やってみる価値はある。
 奏恵は右耳を上にしてベッドの上に横になり、アクリルケースの向きを確認した。蓋の部分を右耳に当て、ゆっくりと蓋をスライドさせて開く。イガイガした物体が耳たぶの上に落ちたときは、びくっとした。ムカデが耳から落ちないよう、ケースを押し当てたまま待つ。やがて、ちくちくした感触が耳の穴の周りを回りだし、ぞわ、と耳の入口を覗く。奏恵は全身が粟立ち、今にもケースを投げ出し、ムカデを振り落としたくなる衝動を必死に抑えた。
 ぞわぞわ、と無数の脚が耳の皮膚を這う。その感覚が耳の奥へと這入っていくと、奏恵はたまらず悲鳴を上げた。
 ムカデの動きが止まるまで、奏恵はベッドの上にうずくまって手が白くなるほど枕を握りしめていた。やがて、部屋をノックする音が聞こえた。
「奏恵、どうしたの? 大丈夫?」
 ナミばあちゃんの声だ。それだけじゃない。換気扇のダクトを通る空気の音、時計の秒針が進む音、表を走る自転車のベルの音。世界はこんなにも音で溢れていたんだ。
 奏恵はドアを開け、心配そうに立っているナミばあちゃんの手を取った。
「ばあちゃん、私、聞こえるようになったよ!」
 ばあちゃんは戸惑っているようだ。突然の朗報と、孫がムカデを入れたらしいというおぞましい知らせに、ばあちゃんは引き裂かれているに違いない。
「そうかい、良かったね、奏恵」
 奏恵の喜びに水を差したくないという気持ちが、結局勝ったのだろう。ナミばあちゃんはそう言って奏恵の手を握り返した。

*

奏恵はピアノの練習を再開し、学校にも戻った。回復した右耳の調子はすこぶる良かった。片耳しか聞こえないのは不便だったが、まったく聞こえないよりは断然良い。
 ネットには両耳にムカデを入れた人の体験談も載っているが、左耳のためにさらなるリスクを冒す勇気は、さすがになかった。奏恵のように耳内ムカデを入れる人はだんだん増えていき、WHOや各国の医師団体は対応に苦慮した。ムカデは医薬品でも医療機器でもないから、法令による規制はできない。せいぜい「リスクの高い行為なので、推奨しない」というなんとも歯切れの悪い声明を出すにとどまった。
 ムカデが聴力を回復させる仕組みは判っていない。世界中の医師や専門家がムカデと聴力回復の関連性を調べたが、ムカデは内耳まで入り込んで聴神経に取り付いているので、侵襲的な検査が難しい。聴力検査や画像に頼るしかないが、今のところ判明しているのはムカデが耳に入ると鼓膜に穴を開けて内耳に入り、蝸牛神経に頭部を接してとぐろを巻くような格好になるという経過だった。何故餓死しないのかも明らかになっていないが、おそらく内耳や中耳の分泌物を摂取したり、組織を少しずつ食べたりしているのではないかと言われている。
 ネット上で囁かれはじめた、「ムカデが喋る」という噂にも奏恵は最初、懐疑的だった。しかし、時々耳の中でムカデが音を出すことには気付いていた。当初はムカデが耳の中で動くときに聞こえる音かと思っていたが、どうやらそうではない。ムカデが鳴らす、ぐぐもるような音は右耳から聞こえるのではなかったからだ。外からの音と違い、それは直接「頭の中に響く」ように聞こえる。

ブン、ブン、ブーン。

不思議な音は、決まって奏恵が考えごとをしているときに聞こえてくる。

ブルブル……

何度も繰り返し聞いているうちに、規則性があるのがわかってくる。それはまるで、奏恵の思考に応じてムカデがなんからの反応を示しているかのようだった。
 決定的だったのは、ある日のピアノ練習中のできごとだった。高校進学を決めた奏恵は、来年のジュニアピアノコンクールに向けて課題曲の練習を始めていた。ベートーヴェンのピアノソナタ第十四番『月光』。ベートーヴェンのソナタの中でもさほど難易度は高くないが、それでも曲の中にはいくつかの難所がある。第三楽章・一六三小節、ベートーヴェンがとっ散らかしたような譜面に戸惑い、思うようにクリアできなかった。何度もミスタッチをしては、また最初から弾き直す。上手く運指できない自分に苛立ち、頭を抱えた。壁に掛かったベートーヴェンの肖像がじっとこちらを見ていた。彼は奏恵の忍耐力を試すかのように沈黙している。
 ふと、ムカデが歌い出した。いつもと同じようなくぐもった雑音に過ぎないが、奏恵には確かに歌っているように聞こえた。一度、そしてオクターブを変えて同じ旋律をもう一度。奏恵は思い出したように譜面に目を走らせた。
 そうか。同じなんだ。
 とっ散らかった楽譜から、大切な音だけを拾い出す。よく見れば同じ音形を、オクターブを変えて分散しているだけの進行だった。
できる。
 奏恵は今一度、引っかかっていた箇所を弾いてみた。今度はスムーズに指が動く。
「あなた、教えてくれた?」楽章を弾き終えると、奏恵は初めて意図的にムカデに話しかけた。

ブン、ブン。

「私の言ってることが、分かるの?」

ブン、ブン。

「それはイエスっていう返事?」

ブン、ブン。

「ノーは?」

ブルブル……

奏恵は驚きに手が震え、全身に鳥肌が立っているのを感じた。ムカデが喋る。ネットの噂は本当だった。いや、本当どころの騒ぎじゃない。双方向の会話までできるのだ。

*

再び夏がやって来た。
 昨年と同様、暑い夏だった。
 新型難聴が猛威を振るい始めてから二年、患者は今や世界で五億人を超えた。難聴の原因は未だ特定できておらず、耳内ムカデについても、ムカデが何らかの方法で失われた聴神経の機能を補助し、聴覚を脳に伝えているのであろうということしか判っていない。
 しかし患者にとってそれらは重要ではない。奏恵のような罹患者には、聞こえるか聞こえないか、それだけだった。ムカデによって聞こえるようになるなら、藁にも縋る思いでムカデを耳に入れる。そう考えて実行に移した人は全世界で三千万人に達する勢いである。
 その中には芸能人や著名人、実業家や政治家も相当数いた。ちょっと前には殺虫剤メーカー「トロイ製薬」の社長がムカデを入れていると公表して話題になった。トロイ製薬の殺虫剤スプレー缶にはゴキブリやハエなどとともにムカデのシルエットがおぞましく描かれており、害虫の代表格として嫌悪感をかき立てているにも拘わらず、である。社長は「それはそれ、これはこれ」というコメントを出し、早くも今年の流行語大賞にノミネートとの呼び声が高い。アメリカでも次期大統領候補がムカデを入れて大きなニュースになった。
「ルーイ?」
 ムカデが何か言った。奏恵は一張羅のドレスに身を包み、ホールを歩いていた。そろそろお母さんとナミばあちゃんも客席に着く頃だ。
「アノヒト、ムカデイル」
 そう言われて、たった今すれ違った会場スタッフを振り返る。
「どうしてわかるの?」
「ムカデトムカデ、ハナセル」
「離れててもムカデ同士話せるの? すごい!」
「ブン、ブン」
 ルーイと出会ってからは、驚きの連続だった。奏恵は自分のムカデにルーイと名前を付け、かなり高度な意思疎通ができるようになっていた。ムカデの言語を一から習得するのは骨が折れたが、ネット上には耳内ムカデを飼っている人のコミュニティも形成され、ムカデ言語についてもかなりの情報が共有されていた。ムカデの種類や生息地域によって言語のバリエーションは様々だったが、人間の言語ほど地域差はない。
 ベートーヴェンが聴力を失っても作曲できたのは、実は彼も耳にムカデを飼っていたからだと、ルーイは言った。そんなまさか、と以前の奏恵だったら懐疑的に考えただろう。だが一度聴力を失ってみて今では解る。あの暗闇を生きているような絶望の中で、音楽家が音楽を続けるなど不可能だ。
「じゃあさ、オスかメスかもわかるの?」
「ワカル。サッキノハ、メス」
 ルーイはオスだった。それで、ルーイと名付けた。ベートーヴェンのファーストネーム、ルートヴィヒの愛称だ。
「カナエ、キンチョウシテル」
 そりゃ緊張するよ、と言いながら、奏恵は出場者控室へと急いだ。ジュニアピアノコンクールの本選には全国からトップクラスのピアニストが集まっている。関東予選を勝ち上がるだけでも実力は認められたと同然だったが、奏恵の目標はただひとつ、全国高校生ピアニストの頂点だった。
 ルーイは緊張やリラックス、眠気や覚醒、疲れや風邪などの不調、生理周期に至るまで、奏恵の身体状態をかなり正確に感知できるようだった。ルーイとの拙い会話では詳しいことは分からないけれど、どうやらホルモンとか脳内の分泌物、あるいは脳波を感じ取っているらしい。
「ルーイ、私の緊張をなくしたりはできないの?」
「……デキナイ」
 一瞬の間を置いて、ルーイは答えた。仕方ないから手のひらに指で人人人と書いて呑み込む仕草をする。控室には幼児から高校生まで、様々な出場者がいた。共通しているのは、みんな着飾っていること、一様に緊張した面持ちであることだ。
 こうなったら猛練習の成果を信じるしかない。この何ヶ月か、ずっと今日のために練習してきたじゃないか。それに、奏恵にはルーイがいる。
控室の椅子に座って、目を閉じる。本番を待つ間、雑念を追い出してただピアノの演奏に集中できるよう、精神を統一する。ルーイはその手助けをしてくれる。集中力を高めるその時だけ、聴覚を伝達するのを止めてくれるのだ。
 他の奏者が喋っている声、咳払い、衣擦れの音、ホールの空調、練習用ピアノの演奏。そういった雑音をシャットアウトして、意識を澄明にしてくれる。
奏恵の順番がきた。スタッフに誘導され、舞台の袖に立つ。ステージの真ん中に、スポットライトを浴びたコンサートピアノが漆黒の筐体を据えている。
ルーイは絶妙のタイミングで、奏恵の聴力を回復させた。
「ダイジョウブ?」
「うん、大丈夫。いける」
 奏恵は頷くと、大きく息を吸い、ドレスの裾を蹴り上げながらステージへと足を踏み出した。

*

「すごいねえ、スミコは、本当にピアノが上手だねえ」
 ナミばあちゃんは、奏恵の写真が表紙に使われているピアノ会報誌をしみじみと眺めていた。

〈八坂奏恵、会心の演奏で最優秀賞と審査員特別賞を独占〉

会報誌の特集記事だ。奏恵はもう、ばあちゃんの間違いを訂正しようともしない。自分の娘と孫の区別もつかないほど、ナミばあちゃんの病状は進行していた。

〈八坂は関東音大で講師を務める八坂スミコの長女。新型突発性難聴で全聴力を失うも、耳内ムカデの助けを借りて見事に復活〉

特集記事は続く。奏恵は受賞インタビューで新型難聴を患ったことと、ムカデを入れたことをカミングアウトした。ルーイについてはべつに隠し通してもよかったのだが、奏恵はこの快挙を自分一人の力でなし得たとは思えなかった。
「私とこの子は一心同体なんです。ルーイがいなければ、私はピアノの道を諦めていたでしょう。本当に感謝しているんです。ルーイは、一生涯のパートナーとなるでしょう!」
 インタビューに応じながら、気分が昂ぶっていた。受賞に舞い上がっていたのかも知れない。でも、それだけじゃなかったと思う。胸の底から湧き上がってくるような、不思議な高揚感があった。
 キッチンの置き時計に設定されている、アラームが鳴る。
「おばあちゃん、薬の時間だよ」
 奏恵は錠剤のシートが入ったカレンダー型のポケットを差し出した。
 ナミばあちゃんは一日一回、アルツハイマーの薬を飲んでいる。飲み忘れやオーバードーズを防ぐため、一週間分の錠剤をポケットに入れて管理している。残りはまとめて薬箱に保管し、週の初めに補充する。パッケージから取り出すと、錠剤の形やシートが生理痛薬と似ているので間違えそうだ。以前、間違えて飲んだらどうなるのか心配になって、お医者さんに訊いてみたことがある。
「正確にはNMDA受容体拮抗薬というんだけどね」
 お医者さんは丁寧に説明してくれた。健康な人が飲んでもすぐに害はないとのことだった。ただ、ガンマ波という脳波が一時的に増幅することがあるという。ガンマ波はノンレム睡眠すなわち深い眠りの時に出る脳波だそうだ。つまり起きていても脳が寝ているときと同じ状態になるってことだ。どんな感じがするのか試してみたい気もしたが、やめておいた。
 ナミばあちゃんは薬のポケットをぼんやり眺めていたが、突然すごい勢いで押し返してきた。
「今日はもう飲んだよ」
「うそ、まだだよ、ほら」
 次の瞬間ばあちゃんは鬼のような形相で、金切り声をあげた。
「もう飲んだよ! スミコあんたバカにしてるのかい!」
 ショックのあまり、頭の中が真っ白になった。次いで、ばあちゃんの見たこともない剣幕に、涙が滲んできた。たまらず逃げ出すようにその場を離れ、自室に駆け込む。
 しばらくの間、ベッドに突っ伏して肩を震わせていた。あの優しかったナミばあちゃんが変わってしまった。これが認知症ってやつの、現実なんだ。覚悟はしていたつもりだけど、実際に目の前に突きつけられると、きつい。
「カナエ、ドウヨウシテイル」
 ルーイが奏恵のバイタル変化を目敏く察知して、話しかけてくる。
「うん、ちょっとびっくりしただけ。大丈夫」
 奏恵は起き上がり、人差し指の背で目尻に滲んだ涙を拭った。その時、机の上のスマホが鳴り出す。
「もしもし?」
 知らない番号からの着信に、訝りながら応答する。聞こえてきたのは低い男の声だった。
「八坂奏恵さんですか?」
「はい」
「突然すみません、私『トゥルーサイト』という団体をやっている、坂東ばんどうといいます」
 聞けば、ピアノコンクールの受賞インタビューで奏恵を知り、番号を調べて連絡してきたのだという。
「私に何の用ですか?」
 坂東はさらに声を低めて、言った。
「続きはテキストでいいですか。電話では、ちょっと」
 電話を切ると、坂東はすぐにSMSを送ってきた。それはあまりに荒唐無稽な内容だった。彼が言うには、ムカデは人間に有用と見せかけて神経に取りつき、その脳を操って支配しようとしているのだという。
「はあ? 何言ってるんですか」
 ネットでよく見るあれに違いない。陰謀論。
「そんな妄想に付き合ってる暇はありません。では」
 と、板東をブロックする寸前で、指が止まった。
「ベートーヴェンにもムカデが入っていたと言われましたか」
 新規メッセージにはそうあった。奏恵が返事できないでいると、板東は続けた。
「ベートーヴェンが聴力を失った原因は鉛中毒だと言われています。鉛中毒は脳の聴覚野そのものを冒すので、ムカデが聴神経の代わりをしたとしても、聴力は回復しないはずなんです」
 そんなの、ムカデが人間を支配しようとしているなんて突拍子もない説の証明にはならない。奏恵はもう一度、板東をブロックしようとした。
「ムカデの寿命は?」
 奏恵はまた、返事ができない。
「六年から十年ほどと言われています。虫としては長い方ですが、人間の生涯のパートナーにはなれません。考えたことありませんか?」
 奏恵はスマホを握ったまま、微動だにできなかった。思考は停止したまま、ただ板東のメッセージだけが流れ込んでくる。
「『トゥルーサイト』では数多くの事例を調べています。ムカデは取り付いた人間の思考を操り、ムカデに都合の悪い事は考えないように操作しているんです」
 わけがわからない。奏恵は頭の芯の方に鈍い痛みを感じた。靄がかかったように、目の前が白くかすむ。
「わかります。いきなりこんな話をされても混乱するでしょう。ゆっくり考えて、もし助けが必要になったら、いつでも連絡ください」
 板東のメッセージはそれきりだった。奏恵は結局、何の返答もブロックもできないままスマホを机の上に置いた。

*

頭の中が煮えたぎるようだった。
 奏恵は体調不良を理由に学校を休み、ピアノの練習も手につかなかった。ルーイと一緒に生きてゆくと決めた。坂東のわけの分からない話などに、奏恵とルーイの絆は揺るがない。
 しかし、ベートーヴェンの話は? ムカデの寿命の話は?
 確かに奏恵はこの先ずっとルーイと生きていけると、深い考えもなしに思っていたかも知れない。だけどムカデも人と融合することによって寿命が延びるかも知れないじゃないか。
 ベートーヴェンが聴力を失った原因だって本当は鉛中毒じゃなかったかも知れない。
 そうだ、そうに違いない。
「チガイナイ」
 ルーイも、そう思うよね?

ブン、ブン。

ルーイが同意すると、不思議と落ち着いた、幸せな気分になった。
 こんなことで悩んでいる場合じゃない。奏恵には、音大への進学を目指してやらなきゃならないことが、たくさんある。
「ごめんね、ルーイ。変な人の言うことに惑わされちゃって」
「ルーイ、カナエ、ユルス」
 それから坂東という男のことも、「トゥルーサイト」という団体についても、思い出さないよう努めた。耳さえ聞こえていれば、何とかなる。そう考えて、勉強とピアノの練習に邁進した。
 新型難聴の患者は増え、耳内ムカデを入れる人の数も増えていった。この厄介な病気の原因も、治療法も見いだせない医療に対して、人々の苛立ちは募った。奏恵ならずとも、ムカデと共に生きるという選択を自ら肯定せざるを得ない空気が、醸成されていった。
 トロイ製薬の殺虫剤スプレー缶からムカデの絵が消え、耳内ムカデを飼っているアメリカ大統領が誕生した。
 暑い夏はムカデを増やし、人口密集地の水源である利根川水系や多摩川水系の周辺で大量に繁殖しているのも確認された。
 ムカデの大量発生と新型突発性難聴が同時期に観測されるようになったという相関関係に、科学者たちがいずれ目をつけるようになるのは必然だったかも知れない。
 奏恵がそのニュースを目にしたのは、SNSのムカデ言語コミュニティにおいてであった。奏恵は「ベートーヴェンと同じ名を持つムカデを飼う学生ピアニスト」としてその道ではちょっとした有名人だったので、フォロワーたちがすぐに教えてくれた。
 教えてもらったリンク先を見て、奏恵は思わず手で口を覆った。
「新型突発性難聴の原因はムカデ由来の未知のウイルスか? ムカデに咬まれるほか、ムカデ毒に汚染された飲料水から感染の可能性。ヒト同士の感染は認められず」
「ルーイ、これって」
 ルーイにニュースの内容が本当かどうか、確認しようとした。すると、急に自分が何を言いたかったのか忘れてしまう。目の前のニュースを読み直すが、頭に入ってこない。懸命に理解しようとするが、内容を呑み込むのを頭が拒否している。そうだ、これはネット上のデマだ。ネットニュースの体裁をとっているが、ただ陰謀論を垂れ流すだけのサイトに違いない。
 そう考えると奏恵は妙に安心した。安心すると、下腹部がぎゅっと痛くなってきた。
「いたた……」
 奏恵はスマホを持ったまま自分の部屋を出てリビングに向かった。昨日から生理が始まった。時々、薬を飲まないと辛いくらいに痛むことがある。
リビングは無人だった。今日は月一回の診察のため、ナミばあちゃんはお母さんと一緒に病院へ行っている。
 スマホをキッチンのカウンターテーブルに置き、薬箱を開け、白い錠剤を取り出して水をコップに注ぎ、飲み込む。効き目が出るまで休もうと、ソファに寝そべった。眉間に皺を寄せ、周期的に押し寄せる痛みをやり過ごす。そのうち、断続的に意識が途切れる。うたた寝をしてしまったのかと思って置き時計を見るが、意識が飛んだのはほんの数秒程度だった。このままじゃソファで寝てしまう。そう思った奏恵は締めつけるように痛むお腹を抱えて立ち上がった。もう一度水を飲もうとふらつく足取りでキッチンにたどり着いたとき、頭の中で聞き慣れたルーイの声が響いた。

ブン、ブブン……

「ニンゲンニ、バレタ。ケイカク、イソグ」
 何それ。奏恵が問いかけると、ルーイは突然聴覚を伝えるのを止めた。奏恵が演奏前に精神統一するとき以外に、ルーイが聴覚伝達を止めるのは初めてだった。ばれたって何? 計画って何? 矢継ぎ早に尋ねるが、ルーイは沈黙を保ったままだ。
「ルーイ、どうしたの? 聞こえないよ。さっきのは、何?」
 言いながら、奏恵はさきほど自分が飲んだ薬のシートを見た。生理痛薬を飲んだつもりだった。しかしよく見ると、ナミばあちゃんの薬だ。

――正確にはNMDA受容体拮抗薬というんだけどね。

医者の言葉が甦る。奏恵の脳が深睡眠状態になったから、ルーイはあんなことを喋ったのか。他のムカデとの交信のように聞こえた。もしそうだとすれば……
 奏恵は忘れようと努めていた男の声を思い出す。「トゥルーサイト」の板東と名乗る男。奏恵は目の前のカウンターテーブルに置かれたスマホに目を遣る。そしてそれに右手を伸ばした瞬間。
「痛っ」
 耳の奥に刺すような痛みを感じた。音は聞こえない。そして右手が動かない。
 右手だけじゃなかった。左手も足も、首も動かせない。動け、動けと必死に念じて、やっと少し動かせる。
「何をしたの? ルーイ」
 ルーイは答える代わりに耳の中でめちゃくちゃに暴れ回った。あまりの痛みに気が遠くなりそうになる。身体が痙攣したようになり、目も霞んできた。
 ルーイ、お願い、やめて。頭の中で必死に訴えるが、四肢はますます言うことをきかなくなる。
 気が遠くなりそうなほどの痛みと痙攣のなか、視界の隅に薬箱を捉え、意を決してそこへ手を伸ばす。ルーイはおそらく、奏恵の神経系を乗っ取ろうとしている。身体が動くうちになんとかしなければ。奏恵は薬箱の中のピンセットを掴むと、深く息を吸ってそいつを右耳に突っ込んだ。痛みなどもう構っていられない。麻痺した手をかろうじて動かし、カウンターテーブルに自分の頭を押しつけたりしながら、ピンセットを耳の奥へと差し込んでいく。ルーイはますます抵抗し、奏恵の手足をめちゃくちゃに振り回そうとする。必死にこらえ、力を振り絞ってピンセットを握り、一気に耳から引き抜いた。
 キッチンの床もカウンターテーブルも血まみれだった。同じく血まみれの右手に握ったピンセットの先では、耳に入れたときの三倍くらいの大きさに成長したムカデがくねくねともがいていた。
 奏恵はルーイを床に落とすと、近くにあったスリッパを履いて、力いっぱい踏み潰した。

*

奏恵の耳は再び聞こえなくなった。
 病院から帰ってきたナミばあちゃんとお母さんは血まみれでキッチンの床に呆然と座りこんでいる奏恵を発見して驚き、すぐに奏恵を連れて病院へ舞い戻った。処置を受けて病院の待合室に出てくると、待合室に居る患者や周囲の看護師、病院スタッフまでもが待合室のテレビに釘付けになっていた。奏恵はテレビを見た。ニュースの画面で、爆発炎上する大きな建物が映し出されている。
「速報・トロイ製薬の殺虫剤製造工場で爆発」
 とテロップが表示されていた。
「トロイ製薬社長が自ら工場に放火か。現行犯で逮捕される」
 テロップは続く。と、画面は突然ニューススタジオに切り替わった。慌ててネクタイを直しているアナウンサーの横から番組スタッフが原稿を渡すのが写り込む。アナウンサーは姿勢を正すと、深刻な表情で原稿を読み始めた。テロップも何もないので内容がまったく分からない。奏恵はスマホを取り出してニュースサイトを開いた。
「速報・アメリカがメキシコに侵攻開始」
 畳みかけるように速報が続く。
「フランクフルト証券取引所のシステムがダウン、原因不明の障害」
「ドバイ国際空港にアプローチ中のエミレーツ機、レーダーから消える」
 奏恵はチャットの履歴を呼び出し、「トゥルーサイト」の板東にメッセージを打った。
「八坂奏恵です。ムカデを取り出して殺しました」
 続けて詳しい経緯を書くと、しばらくして返事がきた。
「よかった、大丈夫ですか?」
「あまり大丈夫じゃありません。とても痛いです」
 痛み止めを打ってもらっているが、しばらくは辛そうだった。
「あの、世界はどうなってしまうんでしょうか」
 板東は少し間を置いて、返信してきた。
「ムカデ保持者は世界で五千万人を超えている。社会のどこに潜んでいるか分からないんです。私たちはムカデの真実を知っている。この事実をまずは世界に知らしめないといけません」
「信用してくれなかったら?」
「あなたも最初は信用してくれなかったじゃないですか」
 奏恵はそうですね、すみませんと俯いた。耳の傷がズキッと痛んだ。
「だから、あなたのような名の知れた人に協力して欲しいのです。『トゥルーサイト』はムカデが支配しようとしている世界のレジスタンスです。協力してくれますか?」
「……はい」奏恵に選択肢はないように思われた。
「ところで」奏恵は気になっていたことを訊いた。「板東さんもムカデを入れていたことがあるんですか?」
 板東の返信は束の間途絶えた。
「はい」やがて彼は答えた。「あなたと同様に。私の場合は睡眠障害があったので、脳波で私が眠っていると判断したんでしょう、ムカデ同士で交信するのを聞いてしまったんです。ムカデ同士、接触すればコミュニケーションはとれます。しかし距離があるとテレパシーを使わなければならない。でもテレパシーを使うには、ムカデの脳は小さすぎる。それで、人に取り付いてその脳の機能を借りることでムカデ同士交信しているんだと思われます。ところが人が意識のある状態では交信を聞かれてしまうので、寝ているときや意識のないときを狙っているのでしょう」
「そうですか……」奏恵はもう一つ気になったのだけど、と前置きして訊いた。「どうしてこのタイミングでムカデは人間に取って代わろうとしたんでしょう? もっと昔にできたのでは?」
「それは私にもわかりません」
 板東の返信の早さは、それが率直な事実であると物語っていた。
「これは私の想像ですが……できるだけ文明が進んで便利になった状態で乗っ取りたかった。だけどそれが行き過ぎて、地球環境を破壊してしまってからでは遅すぎる。ムカデはその転換点を待っていたんじゃないかと思います」
 奏恵は何も答えられなかった。もし板東の想像が正しいとすれば、人間はかくも愚かなのだろうか。
「通信や交通に障害が発生するかも知れないので、『トゥルーサイト』のメンバーは直接会えるように各支部で連携をとっているところです。奏恵さんは東京にお住まいですね。あとで緊急時の集合場所などをお送りします」
 そこで板東からのメッセージは一旦途切れた。

*

奏恵は待合室の椅子に腰を下ろした。
 お母さんとナミばあちゃんは窓口の方へ行ったきり戻ってこない。ピンセットでかき回した右耳は包帯ですっかり覆われており、ひどく痛む。もう、二度とピアノは弾けないのだろうか。一年前に襲ってきた絶望が、再び奏恵に覆いかぶさってくる。我知らず、涙が頬を伝う。
世界がめちゃくちゃになる。もう、ピアノどころではなくなるのだろう。
 いや、案外そうでもないかも知れない。
 ムカデが言っていたことが出鱈目だとしたら、ベートーヴェンは耳が聞こえないのに作曲していた。ピアノが弾けなくても、何らかの形で音楽に携わり続けるのは可能なのではないか。
 それにベートーヴェンが生きていた時代だって、ヨーロッパはフランス革命とナポレオン戦争でめちゃくちゃだったじゃないか。

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