この世で一番黒い猫

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梗 概

この世で一番黒い猫

ずっと一緒だった最愛の黒猫・ルルが、老衰で死んでしまった。
 無気力になってしまった私は、亡くなったペットの写真を送るとそっくりのぬいぐるみが送られてきて、ペットのマイクロチップを登録すると同じふるまいをする「リバースペット」の存在を知った。

すぐさま購入し、リバースペット用のIDチップとマイクロチップを父のマシンに同期させ、ぬいぐるみに埋め込もうとした。その時手が滑り、IDチップは床に落ちていた黒い塗料にダイブした。すると塗料は猫のかたちになり、ルルそっくりのしぐさですり寄ってきて、私の手を黒く汚したのだ。

父の部屋に出入りしていたとバレたら怒られる。私は元塗料のルルを隠して飼うことにした。偽ルルは普段ぬいぐるみに潜んでいて、たまにぬいぐるみごと伸びたり重くなったりする。偽ルルは愛らしくも好奇心旺盛で、私と並んでニュースを見たり、先に本や新聞を開いたりした。

ある日、リバースペットはサーバの負荷が高くてコストが悪いらしく、サービス終了の通知が来る。ほぼ同時期、私は父の記事を見た。例の黒い塗料は、カーボンナノチューブの開発時に偶然できたもので、光を99.999999%吸収する超素材で、再現性が確保できずに研究中みたいだった。

一応発表が終わった父は余裕ができたみたいで、小さな保護猫を連れてきたけれど、私は腹を立て、ルルの代わりはいないと告げた。

その晩、偽ルルが突然巨大化し、私を包み込んで語った。
 偽ルルは、チップとの同期がトリガーになり、知性に該当するものを得ていた。父が私と向き合う時間を取れないのは、塗料の自分のせいでもあったと思い、私のことを見守っていた。また、本物の猫でないことを気にしていろいろ勉強し、光を100%吸収するブラックホールになる方法を知った。通常のブラックホールは重いから黒くなるのだけれど、偽ルルは黒過ぎたために珍しくもブラックホールになれたのだという。ブラックホールからは多元世界に行けるから、私はルルが死んでいない宇宙に行くこともできる。

私は、元のルルとの切ない思い出と、偽ルルが私の負の感情を吸い取ってくれていたこと、最初は私が守っていた猫たちが最後には私を守ってくれたことを実感し、首を横に振って告げた。

――ありがとう。あなたは偽物なんかじゃなくて、大切な存在。ずっとそばにいて。

その瞬間、偽ルルは震え、私を元の部屋に送り、猫の姿に戻って言った。

――ありがとう あなた 乗り越えていた わたし 満たされた もうブラックホールにはならない

言い終えると、偽ルルはしゅっと黒い塗料に戻った。

同日私は、リバースペットのサービスが終了したことを知った。それから黒い塗料を集めて猫を描き、ぬいぐるみの隣に貼った。その後、他の家では暴れるが、なぜか父と私になつき、同居することになったやんちゃ坊主の保護猫と一緒に絵を眺めていると、ときどき絵の猫が歪んでいる気がしたのだ。

文字数:1200

内容に関するアピール

「なぜか黒い塗料をペットにしたら、なんとブラックホールになった」という思いつきがこの話になりました。塗料の話は、カーボンナノチューブの開発で黒の塗料を見つけたという話を参考にしました。

この話の楽しさは、ほぼ偽ルルの魅力にかかっていると思うので、偽ルルを思いきりかわいらしく、かつ少し不思議な印象を与えるように書きたいと思っています。

偽ルルは、主人公の喪失に充足をもたらしますが、偽ルルに満たされた主人公は、最後に偽ルルと新しい猫に対して充足を与える、という構造にしたいと思っています。(保護猫は、かわいがられて当たり前という感覚でいるので、何も考えずに暮らしています)。

文字数:285

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この世で一番黒い猫

1.
 それはツクツクボウシの歌の響きに、切なさを感じてしまう8月末のこと。
 宿題は数週間前に終わらせていた。でもそんなことは関係なく、中学校が始まるのはすごく嫌だった。
 当時の私は、特に気落ちしていた。その年の春、最愛のペットだったルルが亡くなってしまい、それを引きずって一学期は休みがちになっていたのだ。
 ルルは、私が小さい頃からずっと一緒だった黒猫だ。
 うちは母が早くに亡くなり、父は不在がちで、私は独りぼっちでいることが多かった。小学校入学前のある日、突然父が小さな黒猫をつれてきて、私を世話係に任命した。ルルと命名したその猫は、しっぽを掴もうとすると顔をしかめ、金色の瞳を光らせてこちらを睨みつけたものだ。
 以来、私の生活はルル中心となり、ルル専用のおもちゃやお気に入りのタオル、クッションなどをせっせと取りそろえた。でも、虫を捕まえては見せにくるくらいにすばしっこかったルルが、いつしかキャットタワーに登らなくなり、髭も耳の中の毛も白くなっていった頃から、ルルが私よりもずっと早く年を取るのだと理解した。その一方で、懸命に考えないようにしていたのだ。
 でも今年の春先、めっきり食が細くなり、ビー玉みたいになった瞳への目薬をもらい、頻繁に粗相をするようになったルルを見て、私はそろそろお別れなのだと覚悟した。そう、覚悟していたはずだったのに、いざその時が来ると、頭が真っ白になった。猫らしく姿をくらますこともなく、ソファの上で動かなくなったルルを見ても、事実を受け入れられなかったのだ。
 あの時、自分がどれだけ泣いたのか分からない。でも、ルルがいなくなってしまうと、自分の体の半分が、どこかに消えてしまったような気がした。部屋にあるルルの痕跡を発見しては、指でなぞって確認し、あらゆる瞬間のルルを思い返す日々を送った。
 でも、ルルがいなくなってもう数か月経つ。夏も終わる。そろそろ何とかしなくては。でも気持ちが重たいままだ。堂々巡りの思考に縛られながらベッドに寝転んでいると、パソコンにお勧め動画が流れはじめた。小さな画面には、かわいらしいマルチーズと男の子が映っている。苦しくなって消そうとすると、CMのキャッチコピーが流れてきた。

リバースペット、リバースペット、大事なペットが甦る!
 そっくりさんのぬいぐるみで、思い出丸ごと補完します!
 
 大事なペット、つまりルルが甦るというのか?
 私は食い入るように動画を見つめた。
 マルチーズはいつしか遺影に変わり、落ち込む少年が写真を眺めている。するとインターホンの音と共に段ボールが到着し、開封すると写真そっくりのマルチーズのぬいぐるみが入っている。少年がぬいぐるみを抱きしめようとすると、ぬいぐるみは少年に飛びつき、ピンク色の舌を出して頬をぺろぺろと舐める。
 もうダメだった。
 リバースペット、リバースペットという唄が、頭の中でリピートされ、忘れることができなくなった。
 動画を数十回鑑賞した後、いつしか私は購入ボタンをクリックして、ルルの画像や情報一式を投入し、私用のプリペイドカードの番号を入れていたのだ。

2.
 リバースペットは、申し込んだ翌々日に到着した。
 段ボールを開封すると、黒いものがちらりと見えて心臓がバクバクする。動悸を抑えながら梱包材をかき分けて、それと対面した。つやつやした黒い毛並みに、藪でひっかけたせいで切れ込みのはいった小さな耳。今は瞳を閉じているが、瞼を開けたら琥珀みたいな瞳がこちらを見つめるのだろう。目の前の小さなものはルルそのもので、思わずぎゅっと抱きしめた。
 ぬいぐるみのルルに見とれた後、私は箱のシールに貼られたコードをデバイスで読み取ってサイトに接続し、説明を読んだ。するとそこには、リバースペット用の黒いIDチップと、ルルのマイクロチップを同期させ、ルルの情報を入れたIDチップをぬいぐるみに埋め込むのだと書いてあった。
 アニマルライツが発展した昨今、ペットの飼育にあたっては、チップの登録は義務化している。私は葬儀会社から送られてきた書類を取り出し、指先くらいの大きさをした円筒形のマイクロチップを取り出した。この中にルルの情報が入っているのだ。
 付属のチップリーダーに白と黒の二つのチップを置いたけれど、リーダーには動力源が必要で、私の脆弱なパソコンはリーダーのコネクタに対応していない。
 少し考えて、他にもマシンがあることを思い出した。研究員だとか終身教授だとかさまざまな身分で複数の大学に在籍し、固定物理だかナノ科学だか電子顕微鏡学だか、私には想像のつかない研究を行っている父のマシンだ。それはこだわりが詰まったカスタマイズがなされているから、このリーダーのコネクタぐらい供えているだろう。父の部屋に入ることは禁じられているけれど、今回は特別だし、使うのは一瞬だと自分に言い聞かせた。
 父はもともと忙しい人だが、最近は研究が佳境を迎えているらしく、冷蔵庫の食糧は減っているものの、全然顔を見せていない。ぬいぐるみのルルとリーダーを持って父の部屋に忍び込むと、もちろん人の気配はなく、散らかり放題の部屋に窮屈そうに置かれた書斎机の上に、巨大なモニターとタワー型のPCがでんとそびえている。
 ダークグレーの床には埃が積もってまだらになり、隅の方が黒っぽくなっている。よく見ると、それは黒い塗料のようだ。黒いラッカーでもこぼしたのだろうか、まともに見ると、黒の世界に吸い込まれてしまいそうな吸引力がある。私はなるべく視界に入れないようにした。
 汚れを踏まないようにしながら、唸りを上げているマシンのコネクタをチェックし、対応しているものを発見してほっと安堵した。さっそくリーダーをパソコンに繋ぐと、インジケータが数秒赤く光った後、青の光に変わった。
 これで同期は完了したはずだ。IDチップを取り出してマウスの近くに置くと、私はわくわくしながらぬいぐるみをひっくり返した。これを裏面のスロットに設置すれば、このぬいぐるみはルルそっくりに動くようになるのだ。心臓が高鳴り、私は小さく深呼吸した。
 次の瞬間、私は決定的な事故を起こした。振り返ると、緊張で指が震えていたとか、ルルに会える喜びで頭がいっぱいになっていたとか、部屋の床がめちゃくちゃ散らかっていたとか、床が滑りやすかったとか、無数の要因がある。とにかくいろいろなことが重なり、私は床の古ぼけたタオルに足を取られ、IDチップをぬいぐるみの裏面ではなく、部屋のどこかに飛ばしてしまったのだ。
 世界が半回転した。起き上がって数秒後、私はIDチップに思い至り、自分の指先を見つめたけれど、何もなかった。その代わり、眼を疑うものを見たのだ。
 部屋の隅に、黒い塗料の水溜りがある。そいつがむくむくと動き、身を起こしてゆらゆら揺れた。長細い円筒形や不安定な波形など、私がはじめて見るような形状をとった後、それはみるみるうちに丸くなり、細かい部分が変化し、しゅっと小さくなっていった。それはいつか見た、職人が轆轤を回転させ、粘土から壺の形をつくりなすさまに似ていた。
 黒い塊はみるみるうちに整い、私がよく知っている姿になった。それは私の傍らに転がるぬいぐるみのかたちをしている、つまりはルルのかたちをしている。とはいえ表面はつるぺたでモフモフ感はゼロ、顔はのっぺらぼうだったから、言うならばルルの影のようだった。
 私は呆然としていたけれど、その黒い塊から離れようと、じりじりと後ずさった。未確認生命体、亡霊、妖怪。そんな単語が私の頭の中で炸裂し、自分の顔が引きつるのが分かった。
 その黒い塊は、のっぺらぼうの顔をこちらに向けると、ちょこんと小さく首を傾げた。そして片方の前足を小さく持ち上げて、招き猫のようなポーズをとったのだった。
 それはルルのお気に入りの仕草で、私が勝手に「ルル招き」と呼んでいるポーズだった。ルルはいろいろなシーンでそのジェスチャーをした。満腹になった時、おもちゃで遊んで満足した時、私と目が合った時。時には熟睡している時もそのポーズを取っていたのだ。
 幾多のルル像が脳裏に蘇り、胸がじんわり温かくなる。
 楽しい思い出に満たされて、気持ちがいっぱいになる。
 近寄ると、その不可思議な黒猫は、少し背を伸ばしてからこちらを見上げた。
 ちょっとしたしぐさの一つひとつが、ルルを思い起こさせる。
 そっと前足に触れた。優しい熱が、じんわりと、伝わってくる。
 その瞬間、わけもわからず、ひどく懐かしい気持ちになった。柔らかくて滑らかで、包み込まれるような感覚だった。
 当惑しながら黒いものを見つめる。すると、私の手が真っ黒になっていることに気づいた。黒過ぎて、まるで指先が消えてしまったかのように見える。
 目の前にいるのは、化け物の類かもしれない。そんな危惧が頭をよぎったけれど、でも私は目の前の、猫のかたちをしたものから目を離せなかった。やがて猫が再び「ルル招き」をしながらすり寄ってきた時、私は思わず呼びかけた。
「これからよろしくね、偽物のルル」
 すると相手は首をすっと伸ばし、尻尾をゆらりと動かしたのだった。

私は偽物のルルと生活することにした。とはいえ、父の部屋へ入ってパソコンを動かしたことがばれたらまずいし、「隅にあった黒い塗料が猫になった」などと言っても通院を勧められるのが関の山だ。私は謎の猫の存在をひた隠しにして生活を試みた。いつも「偽物のルル」と言うのは長たらしいし、何よりかわいくない。私が「偽ルル」という名前をつけて呼びかけると、相手はすぐさま反応するようになった。
 偽ルルは手のかからない子だった。顔に口がないためごはんは必要ないし、トイレもいらない。お菓子の箱に黒い布を敷いて置いておいたら、自分の場所だと思ったらしく、そこを根城にするようになった。私が見ていると猫の姿のままだけれど、眼を離すと水たまりの形状になっていたりする。見ないふりをして目の端で観察していると、伸びをして細長いお化けみたいになったり、楕円の形に丸まったりする。私が噴き出すと、偽ルルはちょっと下を向き、拗ねたような雰囲気を醸す。
 私は猫のぬいぐるみをベッドに飾り、動かないそれもかわいがることにした。ある日、偽ルルが見つからない日があった。諦めて布団に入ると、頬に黒いものがべっとりついた。偽ルルはぬいぐるみに潜んでいたのだ。顔を洗い直さなければならなくなったけれど、以来、ぬいぐるみが偽ルルのお気に入りの場所になったみたいだった。時折偽ルルは、ぬいぐるみごと伸び縮みしているみたいで、ぬいぐるみの顔が細長く見える時もあった。
 二学期を迎え、憂鬱な日々が始まったけれど、一学期よりもちゃんと学校に通えるようになった。近所に住んでいるキキちゃんが、席替えで私の隣になり、何くれと話しかけてくれたのもあるけれど、何より偽ルルが私の生活に潤いを与えてくれたのだ。
 ある日の帰り道、キキちゃんと一緒に歩いていると、彼女はソーダアイスをかじりながら、私の顔を覗き込んで聞いてきた。
「ねえ、最近、なんかいいことあった?」
 私はパイン飴をごくりと呑み下してしまった。
 喉に走るごつごつした違和感に耐えながら首を横に振り、別になんにも、と言ったけれど、キキちゃんは納得していない表情で言いつのる。
「でも、一学期より元気になったよねえ」
 小柄で黒髪ボブのぱっつん前髪、吊り目気味の大きな瞳と高い声の持ち主であるキキちゃんは、私と違って活動的で人気者だけれど、近所に住むよしみで私にも親切にしてくれる、いい子である。
「ありがとう。でも、本当になんでもないんだよ」
 私が手を横に振って告げると、キキちゃんは首を傾げつつ、そんならいいけど、と呟いた。そのまま私の家で宿題をやることになったので、キキちゃんには玄関先で待ってもらい、ぬいぐるみと一体化するように偽ルルに命じてから、私の部屋に上がってもらった。
 家にあったお菓子をばりばり食べながら、私たちは宿題に着手した。
 その日の課題は、「組合せと確率」だった。キキちゃんは順序をつけて一列に並べる「順列」と、異なるものの中からいくつか取り出したときの「組合せ」の違いが分からないみたいだったので、私は目の前のお菓子を駆使して説明した。
「リンゴ飴とパイン飴とサイダー飴と黒飴から、三つ選ぶとする。順列だと、リンゴ、パイン、サイダーも、サイダー、リンゴ、パインも別の数え方にカウントするけど、組合せだと同じだと考えるの」
 まんまるや楕円、ドーナツ型など、カラフルでかわいい飴たちを並べ替える。
「順列は食べた順番が違うと数に数えるけど、組合せは食べちゃえば同じってことだよね」
 独自解釈をするキキちゃん。当惑しつつも、まあいいか、と思って曖昧に頷くと、
「ああなんか、こんな勉強とかバカバカしい。十五歳の青春は一度しかないのに」
 キキちゃんはテーブルに突っ伏して叫んだ。
 真っ白なテーブルにばらばら散らばる飴を見つめながら、私は告げる。
「一度しかない人生だから、このタイミングで勉強するんじゃないかな」
 キキちゃんは、伏したまま呟く。
「そうかもしれないけど、勉強以外にやりたいことあるじゃん」
「どうだろう。時間があったらあったで、無限にだらだらするだけだよ」
「でも、勉強は大体つまんない」
「言いたいことは分かるけど、こういうことばっかり考える時期も必要なんだよ」
 私の言葉に、キキちゃんは身を起こしてしみじみと言う。
「やっぱアマガツは頭いいよね。さすがは天下の天児あまがつ博士の娘」
「父は関係ないって。私、そんなに頭良くないし」
 苦笑しながら言うと、キキちゃんは観念したように教科書に向き合い、そうかと思えばぼんやりしてから転げまわり、最終的に私のノートを丸写しして帰っていった。
 キキちゃんが去ってから偽ルルに呼びかけると、ぬいぐるみごと私のもとへと駆け寄ってきて、広げっぱなしになっている教科書をじっと見つめた。その頃は、塗料の性質が変わったのか、軽く触れたくらいでは色はつかないようになっていた。私は軽く偽ルルの頭を撫で、お菓子を台所に持っていってから戻ると、教科書のページが変わっているような気がした。気のせいか、隙間風のせいだろうと思ってそのまま教科書をしまい込んだ。
 偽ルルは好奇心旺盛だった。ニュースを見ていると一緒に並んで鑑賞するし、新聞を読んでいると覗き込んでくる。集中力の落ちた私がぼんやりしていると、偽ルルはいつのまにか移動して、次のページに近い箇所に移動していたりした。
 私はふと、生前のルルはどうだったろうか、と思った。でも、猫のルルはごはんとおもちゃには積極的だったけれど、活字なんかに関心を抱いていなかったし、テレビなんかに向かっては、シャーシャー言って警戒していただけのような気がする。
 ではこの違いは何なのだろうか? ふと思って偽ルルを見つめてみたけれど、ちょうど新聞を見飽きたらしき偽ルルは、ぬいぐるみに入ったままごろりと寝転がったところで、自堕落な猫の人形にしか見えないのだった。

3.
 日々は平和に過ぎていった。
 級友たちの日焼けもおさまり、運動会や遠足といった行事もやり過ごし、長い夏が終わって一瞬の秋が始まると、制服の色合いが深くなり、空気の冷たさと共に、気持ちがすっと引き締まるようだった。
 学校では目立たないように振舞い、家に帰る頃には疲弊していても、家に帰れば偽ルルが出迎えてくれる。それに、キキちゃんと一緒に宿題をやっていると、せっかくやったから明日は学校に行こうか、という気持ちになれるのだった。
 そんなある日、私のマシンに一通のメールが来た。送信元はリバースペットだった。アップデートの知らせか何かだろう。深く考えずにクリックして表示すると、私は唾をごくりと飲みこんだ。

日頃、弊社の「リバースペット」をご利用いただきまして、誠にありがとうございます。
 さて、該当サービスはサーバ負荷が非常に高く、売り上げが運用に見合っておりません。大変残念なことではありますが、この度、サービスを終了させていただきます。
 こうしたリスクがある旨は、購入時にチェックいただきました同意事項の第十七条に記載しておりますので、そちらをご確認お願いいたします……

目の前が真っ暗になり、気づけば私は偽ルルを呼んでいた。
 偽ルルは何か感じるところがあったのか、ぬいぐるみから抜け出して、稲妻のようにしゅっと走り寄ってくる。私は相手の黒い顔に、頬をすりつけた。
「ねえ、あなたは動かなくなってしまうみたい。サービスが終了してしまうんだって。そんなのないよ……」
 なんで、どうして、という気持ちでいっぱいだったけれど、一方で頭のどこかに、想定内のことだ、と考える冷静な自分もいた。そう、採算が合わなくて途中でサービスが止まるなんて、習い事でもサブスクでも買い切りのゲームでも無限にあることだ。そんなのは分かっている。頭では分かっているけれど、目の前の黒い生き物が動かなくなることが、どうしても受け入れられない。
 ふと床を見ると、黒い筋がついている。私の頬を伝う涙に、偽ルルの黒色が混じったのだ。今自分の顔を見たら、さぞかし黒くなっていることだろう。目の前の偽ルルを見ると、私の様子を窺っているようだ。私は相手を眺めながら、この小さな動くものの不可思議さを、ひときわ強く噛みしめた。

やっかいな課題が出た日、いつものようにキキちゃんと一緒に勉強することにした。彼女はしょっぱなから顔をしかめていて、何も進んでいないようだった。
「ねえ、どんなテーマだった?」
 キキちゃんの問いに、私は紙をぴらっと見せながら告げる。
「私のは、『言葉を用いてコミュニケーションをとるには、どのようなことを心がけるとよいか』だよ。これはすなわち、コミュ障だから気をつけろってことかもしれない」
 私の答えに、キキちゃんは首を大きく横に振って言ってくれた。
「アマガツの課題は自己推薦型入試の小論だから、テーマがはっきりしてるんだよ。私のなんて『社会の一員としてどのように社会の役に立ちたいか』だよ。アマガツの言い分に従えば、私は社会に馴染めてないってことじゃん」
 鋭い言葉に私が思わずうなずくと、キキちゃんは私の手の甲に軽くパンチしてきた。私がやり返すと二人で噴きだしてしまい、あとはやる気が続かない。気分転換にキッチンで紅茶を入れることにし、準備を整えて自室に入ると、キキちゃんはネットニュースの画面に見入っている。
「ねえ、見てよ、これ。『天児教授の大発見』だってさ。アマガツのパパじゃん?」
 画面を見ると、ホワイトボードを背にした父が映っている。スタッフが事前に整えたのだろうか、癖毛が爆発している頭はきちんと整い、いつものチノパンにダンガリーシャツという探検隊のような服装ではなく、落ち着いたグレーのスーツを着用している。ただ、貧乏ゆすりをしながら話すのは、いつもの癖そのままだった。
 画面の中の父は語る。
「……カーボンナノチューブを開発している時に、発見しました」
「研究中に、たまたま生まれたのですか?」
 爽やかなレポーターの言葉に、父は頷いて告げる。
「素材を研究していたら、偶然できたのです。炭素棒の上に堆積させたススの微粒子の中に針のような物質を発見したので集積を試みたところ針状結晶になりまして」
 急に早口になる父。思わず苦笑してしまう。
「発見に至ったのですね。光の吸収率が世界一だと伺いましたが」
 リポーターが変なところで話を切るのは、内容を理解していないからだろう。無理もないことだ。
 そんな対応には慣れているように、父は話を続ける。
「ええ。原理としては、光を跳ね返さずに貯め込んで内部で屈折させて最終的に吸収します。今まで最も黒いとされてきたのは軍用に開発されたベンタブラックでして、99.96%の吸収率で絵画などで使われてきました。私の発見したエクセブラックは99.999999%の吸収率ですので、今のところはこの世で一番光を吸収する物質ですね」 
 父はそう告げると、ポケットから小さな瓶を取り出して振った。私は小さく声をあげてしまった。瓶の中の、見るほどに吸い込まれそうな黒さ。それはあの日、偽ルルが誕生するきっかけになった塗料そのものだったのだ。
「え? なにごと?」
 不審そうにこちらを見つめるキキちゃん。私はひきつった笑いでごまかしながら、なおも画面に見入った。
「すごい発見ですね。いろいろな使い道を考えることができそうです」
 凄さを理解していない様子で語るリポーター。
「ええ。今のところ、製造にあたり再現性が確保できていないので、確実な製造方法を模索中です」
 父の映像はそこで終わり、続きはカーボンナノチューブの製造ラインの取材になった。キキちゃんはすっかり感心した様子で呟く。
「黒って色だと思うんだけど。すんごく濃いってことなのかな」
「光を吸収するって意味だと思う。例えばブラックホールは光も吸い込むんだけど、すごく重くて光を外に出さないから黒く見えるんだって」
「へえ、アマガツもだけど、アマガツのパパは超頭いいんだな。見た感じぱっとしないけど、メディアに出てると偉い人なんだなって思っちゃう。家とかだと実際どうなの?」
 その言葉は、妙に私の心に響いた。
 実際のところ、父は、ひどく遠くに感じることがある。
 なかなか会えないというのもあるが、話をしていてもどこかうわの空で、全然別のことを考えているように思える時があるのだ。そんな時は、私の知らない母のことを思い出しているのかな、と考えたりする。
「そうだねえ……遠い人に思える時はあるかな」
 私はそう呟いた。
 乾いた自分の声が、なんだかひどく遠かった。
 するとキキちゃんは、鋭いけれども、まっすぐな眼差しでこちらを見つめた。
 そして今度は、私の手を、パンチするのではなく、上からぎゅっと握ってきたのだ。
 その温かさに、私はひどく驚いた。
 キキちゃんの顔ごしに、ベッドの上のぬいぐるみが見える。きっとあそこには、偽ルルが潜んでいるのだろう。私はふと、この秘密を彼女に話したくなった。恐らく父の発明にまつわる、この家の最大級の秘密を。
「どうした?」
 まじろぎもせずにこちらを見つめる、キキちゃんの瞳。
 その時、後ろのルルのぬいぐるみが目に入った。懸命に首を横に振っているように見えた。
 ああ、と私は思った。
 偽ルルは、キキちゃんに知られたくないのだ。
 父から隠し通してきた秘密に、キキちゃんを巻き込んではいけないのだろう。
 私は黙って微笑んで、ゆっくりと首を横に振った。

その日の晩、残りものと冷蔵庫の余り野菜でごった煮シチューをつくっていると、玄関を開ける音がした。珍しいことに父である。そして驚いたことに、ミイ、ニイイ、という小さな小さな声がしたのだ。見れば父の足元には、タオルを敷いた小さな段ボールがあり、真っ黒な塊が動いている。
 おもむろに口を開く父。
「あの、子猫が」
 固まって動かない私に、父は口の端をわずかに上げて告げた。
「通り道にいたんだ。あの、ルルのこともあったし、どうかなと思って」
 ルル。
 その単語を聞いて、私はなにかを感じた。
 大事な時に、そばにいなかった。
 なのに今、なぜ。
「あの、一応、研究の山が過ぎたから、これからは家にいられる時間が増えるんだ。だから」
 だから何だというのだ。
 ルルは、もういない。
 父は、いてほしかった時にいなかった。だからきっと、偽ルルが来てくれたのだ。
 肩を震わせる私に、父は何を言えば分からないようだった。当惑の表情を浮かべている相手を見て、私の気持ちはぱちんと弾けそうになった。
 きっとこの人は、何を言っても分からない。そんな思いが、父の言葉を跳ね返す。
「……ルルの代わりはいないんだよ」
 私は淡々とそう告げると、何もかも放りっぱなしにして、一人で自室に閉じこもった。傍らに偽ルルが来てくれた気がするけれど、その優しさを受け入れる余裕もなくて、ひたすら俯いているだけだった。

いつの間にか寝入ってしまったようで、気づけば辺りは真っ暗だった。
 いや、いつ電気を消したのだろう? ここはもしかして布団の中なのか? しかし就寝準備をした記憶はない。
 周囲を見渡しても、何も見えない。
 自分がどこにいるのか分からなくて、パニックになりそうだ。
 ぐるぐる回る思考の中、頭の中に声が響いてきた。

――やっと、話せた。

心地よい声だった。もっと取り乱していいはずだったけれど、気持ちを優しく撫でられたような気がして、少しだけ落ち着きを取り戻した。
 真っ暗な空間が、じんわりと優しい熱を帯びた気がした。
 その瞬間、わけもわからず、ひどく懐かしい気持ちに陥った。
 柔らかくて滑らかで、包み込まれるような感覚。
 私の中で、記憶のかけらが甦る。この感覚は身に覚えがある。知っている気がする。もしかして。
「……偽ルルなの?」

――そう。あなたのそばにいました。

頭に中に声が響く。周囲の暗闇が温かみを帯びてきた気がする。私は偽ルルに向かって呼びかける。
「どこにいるの? かくれんぼしないで、出てきてほしい」
 相手は暫く黙っていたけれど、再び声が響いてきた。

――ここにいます。私はあなたを包んでいる、暗闇そのもの。

私はやや混乱してしまった。途方に暮れていると、声は続けて告げる。

――エクセブラック、と呼ばれています。多分。IDチップとの同期がトリガーになって、あなたの世界で自我と呼ばれるものを、もらいました。

「じゃあ、あなたは、エクセブラックに自我ができたものなの? エクセブラックは生きているの?」
 私の問いかけが空間に反響する。

――多分ですが、いろんな偶然のおかげだと思います。
 
 少しだけ、分かったことがある。
 偽ルルは、全くの偶然の結果として、私の目の前に現れたのだ。
 それは、あらゆる組合せの中で、ほんの一つだけ成立した奇跡。
 唐突に、キキちゃんと取り組んだ宿題を思い出した。
 白いテーブルにぱっと散らばる、鮮やかな飴たち。赤・黄・青の中で、一つだけ使わなかった黒い飴。それはきっと、私と偽ルルだけの秘密だったのだ。
 
「出会えて、本当に、よかった」
 私が告げると、偽ルルは少し黙ってから語る。

――私はずっと、本物の猫でないことが気がかりで。それで、いっぱい勉強して、いろいろな情報を仕入れて、光を全部吸収するブラックホールになる方法、知りました。

「ええと、それって、どういうこと?」
 当惑交じりの私の質問に、偽ルルはゆっくりと答えた。

――ブラックホールは、重力が大きすぎて、光が逃げられないために黒いのですが、吸い込まれようとしているガスが熱くなって光るから、黒くても見えるのです、簡単にいうと。でも私は、この世界の物質としてはもともと黒過ぎたので、光を全部吸収できるようになりました。だから逆にブラックホールになれたのです。

偽ルルの説明は、全然分からなかった。理解したかった。でも理解できない自分が悔しかった。
 私が父と変わらないくらい知識があったら、偽ルルはもっと説明してくれたのだろうか。
 私が父と同じくらい賢かったら、もっと偽ルルのことを知り得たのだろうか。
 ぐるぐる回る思いに包まれながら、私は疑問を口にする。
「今のあなたはブラックホールなの? じゃあ、ここはブラックホールの中?」

その問いに、偽ルルはなんとなく誇らしげに聞こえなくもない口調で語った。

――そうです。そしてブラックホールからは、他の宇宙にも行けます。
「他の宇宙?」
 私が繰り返すと、偽ルルは続ける。

――はい。簡単に言うと、この宇宙ではないどこかに移動することもできる、ということ。その中には、医療が発達して、ルルが長寿を保っている宇宙もある。だからあなたは、偽物の私じゃなく、本物のルルに会えます。

それは、なんと魅力的な世界なのだろう。
 生前のルルが、目の前に浮かぶ。
 ごはんを欲しがるルル。琥珀色した瞳を丸くするルル。甘えて私の膝に前足をかけるルル。
 それはとてもとても、大切な記憶。
 でも、私は知っている。そのルルと同じくらいに鮮やかに、別のイメージが私の心に閃いていく。黒い塊が猫のかたちになり、うっかり目を離すと伸び縮みする。ぬいぐるみにひっそり潜み、私の涙が伝うのを構わずにそのまま顔を擦り付けてくれる。
 私と関わってくれた猫たち。みんな最初は小さくて、か弱い存在だと思っていた。でも私が弱っていた時、なんとか気持ちを保つ頃ができたのは彼らのおかげだ。
 私が猫たちを守っているのだと思っていた。でも、猫たちが私を守ってくれていたのだ。
 ゆっくりと顔を上げて、私は告げた。
「ありがとう。あなたは偽物なんかじゃなくて、大切な存在だよ。ずっとずっと、そばにいてよ」
 言い終えたその瞬間、黒い空間はゆっくりと震えはじめた。
 波動は少しずつ大きくなり、うあがて私の方に押し寄せてきた。私は自分の手が、足が、体が闇に侵食され、見えなくなるのを感じた。
 呑まれる。そう思って目を閉じた。
 ああ、偽ルルの一部になって、ずっと一緒にいられるのなら、それでもいい。
 頭のどこかでそう思っていたら、闇はいつしか終わり、閉じた瞼の裏が明るくなっていく。
 恐る恐る目を開けると、目の前には自分の部屋の家具と、黒い猫がいた。
 それは今までと同じ、のっぺらぼうのシルエットのままで、どこにも口のない顔をこちらに向けて、私の心に囁いた。

――ありがとう。あなたは、とっくに乗り越えていた、よかった、本当に

そう言い終えると、偽ルルの輪郭はしゅっとくずれた。駆け寄ると、床にはいつか見た、黒い黒い水溜りのような塗料が、黙りこくって広がっていた。

4.
 翌朝、私は一通のメールを受け取った。
 それはリバースペットからで、昨日を持ってサービスは終了した、という内容だった。メールを削除しようとしたけれど、思い直してアーカイブに保存した。
 居間に向かった私は、聞こえるか聞こえないかくらいの声で、ごめん、と呟いた。新聞を読んでいた父は、細い目をしぱしぱさせながら、ああ、とも、いや、とも、聞き取り得ない言葉で何かを呟きながらキッチンに退散した。
 ほどなくして父は私に、朝ごはんだよ、と呼びかけてきた。食卓には、だし巻き卵と大根おろし、わかめの味噌汁に笹かまぼこと、私の好きなものばかりが並んでいた。少し焦げ目のついた鯵を口にして、私は、何も見ていなかったのは自分だったのかもしれない、と思った。
 学校に行こうと外に出た。庭には霜が降り、吐き出す息は半分白い。待ち合わせしていたキキちゃんのふわふわな白い手袋と白い耳当てを見て、もう冬なのだと実感した。。
 偽ルルのいない日々は、あっという間に過ぎ去っていった。キキちゃんは相変わらず私に絡んできたし、そんな私たちを見て話しかけてくれる級友たちも増えていった。いろいろな人と喋りつつも、夕方に細長くのびる影や手の先についたマジックインキなどを見て、瞬間的に偽ルルのことを思い出すこともあった。そんな時、みんなの声が遠くなり、あの暗闇が頭をよぎった。私はその感覚を忘れずにいようとした。忘れたくなかったのだ。
 部屋に零れ落ちた元偽ルルの黒い塗料は、暫くそのままにしていた。それは乾いて干からびることもなく、一定の存在感を持って私の部屋にあり続けた。目ざとくそれを発見し、つつこうとするキキちゃんを見て、私は一つの提案をした。
「ねえ、これで猫の絵を描かない?」
 それを聞いたキキちゃんは、少し小首をかしげて告げた。
「もしかして、前に飼ってた猫を描くの? それだったら、私はやめとくかな。それとも、新しく来た猫?」
 新しい猫、それはあの日父が連れてきた小さな黒猫だった。父が他の人に預けたところ、ひどく暴れてしまい、再び私の家に来ると、すっかり居ついてしまったのだ。
 私が迷いなく、新しい子を描きたいと告げると、キキちゃんは大きく頷いた。二人で描いた黒猫は、少し歪だったけれど、キキちゃんに似た吊り目と、真っ黒な毛並みを持っていて、いたずらっぽい表情がかわいかった。そして新しい子は、成長するにつれて絵そっくりのやんちゃ坊主になっていったのだ。
 絵の中の猫は、ときどき歪んで伸び縮みしている、気がする。私はそれを眺めながら、もっともっと父を追い越すくらいに勉強して、あの偽ルルの正体をつきとめよう、と目論んでいるのだ。 完

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