裸の王国の物語

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梗 概

裸の王国の物語

大雨が続き河の氾濫も間近い。町民はみな高台の公民館に避難してきた。すでに橋も通行止めで、対岸の町民はボートに乗せられてくる。その中にペット用のキャリーバッグを抱えた、浮浪者ふうの少女がいた。避難させて欲しいと町長に訴える。肩に掛けたバッグの中は町長には空に見えたが、少女は愚か者には見えないのだと語る。町長は愚か者ではないと自負しているので見えているふりをした。少女とペットを受け入れる。

町長は目が弱っていて、息子の手を借りて歩いている。だからペットが具体的に見えない、どんなペットか言葉で説明せよと命じる。少女は獣の姿と振る舞いを語る。周囲に集まってきた町民たちも、町長に合わせて見えるふりをしながら聞き入る。聞きながら町外れの祠に勝手に住み着いてる少女だと噂話をする。
(町民は獣の実在を感じているのか、実際に存在するのか? 読者は少女の言葉の真偽が分からなくなってくる)
 雨は降り続け河は氾濫し、孤立した町民は非常食で食いつなぐ。それにしても臭う、少女から獣の臭いがする。町民の苦情が重なる。町長は、ペット連れは別室だと狭い部屋に隔離される。

部屋を移る際に、町民たちから「自分たちはペットを置いてきたのに」と避難の言葉を浴びる。その言葉を聞いて、少女は置き去りにするなんてひどいと訴え、捜索に出ようとする。町長は危険だと渋るが、彼の息子が同行すると言う。二人は一緒に出て行く。

公民館のそばまで水が来ていて、ボートが打ち上げられていた。二人はそれに乗っていく。水没した町では、ほとんどの家が二階から上だけを見せていた。窓から助けを求める犬や猫やその他様々なペットを見つけ、二人は救い出していく。祠のあったあたりまで来ると、息子は少女の素性を思い出す。「お前は祠で動物と交わっていただろう」と言って襲いかかる息子に、少女とペットは抵抗する。

ボートはぎゅうぎゅうにペットを詰め込んで公民館に戻ってきた。少女が怪我で血を流しているのを見て、どうしたのだと町長が聞く。この犬に噛まれたのです。隣には首輪を付けられた息子。少女の言葉の力によって、町長には人間に歯向かった犬にしか見えない。人間と一緒にするわけにはいかんな、河に流そう。町長は息子を板切れに乗せて流させる。猟師をしている町民が猟銃を手に取った。十分に岸から離れてから犬を撃ち殺した。

ペットたちと再会できて喜んだのもつかの間のこと、多くの町民は面倒が増えて困り、ストレスから町民どうしの諍いが頻繁に起こる。やがて暴力を伴うようになる。怒りの矛先は少女とそのペットに向けられた。少女は言葉でペットを戦わせて身を守る。他のペットたちも味方になる。流血。惨劇の夜。翌日、雨が上がった。公民館には、少女と様々な動物だけがいて、太陽が降り注ぐ屋上で救助を待っている。生き延びた鳥たちが現れ、公民館の上空を旋回して少女たちを祝福する。服を着た生き物はいない。

文字数:1200

内容に関するアピール

幻想ホラー系の作品になると思います。謎の少女の登場に始まった事件はエスカレーションして、最後には人間がいなくなります。少女が飼っていると言い張るペットは、本当は存在しない「空」「無」というべきものですが、「言葉」こそが真の彼女のペットです。彼女の言葉を信じて、町民たちにもペットの姿が見えるようになっていきます。

ところで、ペットは家族だなどと言っても人間は自分本位な生き物で、結局、人間の生存や生活を優先します。被災地のペットの扱いもそうですし、保健所で殺処分される犬猫も後を絶ちません。
タイトルは、町長と少女の最初のやりとりが「裸の王様」を連想させながら、最後には、まったく別の意味で「裸の王国」が立ち上がってくるという展開に合わせてつけました。さまざまな動物、元ペットたちが、洪水の後の世界、かれらの王国に満ちていきます。

 

文字数:363

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裸の王国の物語

1.
 大雨が何日も降り続いていた。季節外れの嵐だった。町の中央を蛇行しながら流れる河の、水位は日に日に上昇し氾濫のおそれも現実的だ。気象庁によれば、停滞した前線が動く気配はなく雨はまだまだ降り続けるとのこと、勧告に従って、水害の危険がる土地の住人は公民館へ避難するようにと、その町でも指示が出された。
 高台に建てられた公民館の三階、つまり最上階の職員が詰める大部屋の窓から、町長は双眼鏡を持って外を見ていた。焦点を調整しても像の輪郭はぼやけているものの、眼鏡だけでいる時よりはものが見える。還暦間近い体はまだまだ元気なつもりでいたが、眼の衰えばかりはなんともし難い。三期目、町長に就任してからすでに十年が経過している。このような大雨ははじめてだ。公民館から緩い坂道を下っていくと河岸であり、増水した濁流が、堤防に迫りつつある。避難勧告は対岸の住民にも出されているが、すでに橋は通行止めである。小さな巡視船をピストン輸送させて、住民を運ばせていた。
「避難は順調なのか」
 右に並んで外を見ている息子に訊いた。眼が弱ってからは、出歩くことに支えてもらうことが多くなった。町役場では課長の職に就いているが、実質的に副町長のひとりと言っていい働きをしている。二年後には四期目の立候補をするつもりだが、ライバルはよその政党よりも彼かも知れない。
 息子は手にしたスマートフォンに話しかけ確認した。
「もう一往復すれば、全員避難できると言ってます」
「氾濫には、間に合うのか。もう、決壊は確実だろう」
「そっちも、なんとか」
 住民を下ろした船が対岸へ向かっていくのを見ながら、町長は息子の言葉を聞いた。食料と飲料水の備蓄は何日分あっただろうか。

対岸の船着き場には、狭い巡視船に乗せるには多すぎる町民が集まっていた。船長が荒れた河の流れの中で器用に接岸するやいなや、町の職員二名が、順番に並んで足下に気をつけて乗り込むようにとメガホン越しに声を上げ、乗船を促す。年寄りが先だとか、そんなものはない。腰の曲がった老人たちとその付き添いの家族や介護職ばかりだからだ。我先にと割り込む粗暴な体力は無い、むしろ転んだりしないように注意してやることが大事だ。町の対岸は、河岸からすぐに急峻な崖になっていて、その上は森林だ。河岸と崖の間の狭い集落に住んでいるのは、いまでは昔からの年寄りばかりであった。
 その年よりたちの後ろ、最後に一人、小柄な人影があった。
 襤褸のような上着をまといフードを被った姿は、もちろん、びしょ濡れだ。縮れた髪が胸元まで伸び、辛うじて女の子なのだろうと区別がつく。十二,三歳と言ったところだろうか。服も、そして顔も薄汚れていたが大きな瞳は子供らしく澄んでいて、まっすぐに職員の一人を見つめ、ささやくような声で嘆願してきた。
「わたしたちも、乗せてください」
 わたし、たち?
 少女は右肩に大きなバッグを抱えていた。犬猫を運ぶバッグらしい。重そうに膨らんだその中に――
「わたしと、この子も避難させて」
 職員の男が手を伸ばして船に引き上げた。乗り込むときに、体のバランスを崩し倒れ込んできたので、抱き留めてやる。手の小ささ、体の軽さ、そして、雨風のなかでも密着すれば分かる臭い。臭かった。汚れた姿から風呂に入っていなからかと思ったが、それ以上に――獣臭かった。

公民館の入り口ホールに、船で運ばれてきた人びとがひとかたまりになっていた。受け入れのために、職員が名前と住所を確認している。町長は息子とともにエレベータで降りると、その集まりのほうへ歩く。目聡く彼を見つけた職員から、こっちへ来てくださいいと声を掛けられた。近づいてみれば、職員は顔をしかめて小柄な子供の相手をしている。
「どうした。その子供はどちらの子だ?」
「名前を、名のらんのです。ただ――」
 二人の目の前まで来て、町長は職員のしかめた顔、歪んだ鼻の理由を知った。臭いのだ。この子供の臭いか。顔が自分の方を向いて、澄んだ瞳がまっすぐに見つめてきた。
「わたしと、この子も避難させてください」
「この子?」
 少女が、肩に提げたバッグを重そうに持ち上げてみせた。側面が網になっている。ペット用の、キャリーバッグだ。小型犬や、猫を持ち運ぶときの。ペットも一緒に避難させて欲しいということか。しかし、町長には中にいいるらしいペットが見えない。「よく見えないのだけど、何が入っているんだい」
 床にバッグを置いて、上部のファスナーを引っ張る。少女は両手を伸ばしてバスタオルにくるまった何かを抱きかかえた――ように見えた。しかし、町長には少女が抱いているペットが見えない。タオルだけ。
「この子、かわいいでしょう? 雨で濡れちゃったから、乾かしてあげないと」
 視力のせいだろうか? それにしては、バスタオルも少女の顔もよく見える。
「なんて動物? 名前はあるのかい?」
「ごめんなさい、よく見えないのかしら。この子は、愚かな人には見えないの。賢い人にはちゃんと見えるの。おじさんには見えてる?」
 もちろん町長は賢い。この町を三期、任されているのだ。
「見えているさ。お前も見えるだろう?」
 横にいる息子に尋ねた。
「お父さん――町長、もちろんです。かわいいペットだね、すぐに乾かしてあげないと」
「ありがとう。そうさせてください」
 ぼろを纏って獣臭い少女は、目を輝かせて、礼を言った。
 息子には見えるのだとしても、私に見えないのはなぜだ? 眼はそこまで弱っているのか? それとも私は愚かなのか?
「教えてくれないか? 私は見ての通り眼が弱っている。よく見えない君のペットのことを、詳しく教えて欲しいんだ」
 辛うじて、町長はそう尋ねることで自分を保った。

ずぶ濡れの少女を、ひとまずシャワー室へ連れて行くように息子が指示した。少女はペットをバッグに入れ直して担ぐと、職員の女性に連れられて一緒に向かった。
「どこの娘だ」と町長は息子に訊いた。
「ちょっと見覚えがないですね。向こう岸なら狭い集落です、家も限られていますが――あの汚い様子、家族がいるならネグレクトですし、いなければ」
「ホームレスか、あんな子供が」
「そんな子がいるという話は聞いてませんけどね。都会じゃない、いれば目立つ」
 シャワーを使った少女はぶかぶかのTシャツとパーカーを借りて、さっぱりしたように見えた。しかし、キャリーバッグは離さない。休憩室のまん中に置かれたクッションに座ってもらい、話を聞く。
「この子は、犬とか猫ではなくて、ちょっととくべつな動物なの。ごはんは食べないし、トイレもいかない。わたしと一緒に散歩はするけど、してもしなくてもいいみたい。
 わたしが公園で見つけた時、ほかの子は見えないって言ってた。わたしには見えるよって教えたらばかにされて、いじめられて、みんな怪我して血を流しておうちに帰っていった。わたしのたいせつなペット、家族です」
 少女の話は、ずっと続いた。
「わたしはきょうかいのお世話になってたから、連れかえって、いっしょに暮らしたいって言ったら、牧師さんに怒られて、仕方ないから、この子と一緒にこの町まで来たの。ずっとずっと雨宿りしていたけど、河があふれそうで怖いから、ここにきました」
 町長の後ろには、部屋いっぱいに人が集まっていた。外の廊下にも人がいるようだ。顔を見れば、一緒に船に乗ってきた対岸の住民だけではなかった。地理的には広いが、狭い町だ。知らぬ顔があれば興味を惹く。
 ひそひそとささやき声が交わされる中、町長は後ろを振り向いて訊いた。
「皆、この子の抱いているペットは見えているか?」
 肯定する声、うなずく首、ここに集まっているものの中には、愚か者はいないようだ。その賢い町民の中から聞こえてくる声があった。
「祠で見た子」
「俺も見かけたことあるぞ」
「知ってるのか」
「や、なんか潜んでるなと。狸かと思っていたけどよ」
「見てみい、人間ぞ」
「しかし臭いな」
 噂の主を直接問い質さず、町長は息子に訊いた。
「どこの祠だ」
「向こう岸の、山道を登っていく途中に建っている祠のことでしょう、崖の中腹にある。最近あの道を通ったことは、とくに無かったですが」
 そこで隠れて遊んでいただけか、それとも、住み着いていたのだろうか。
「すみません、わたしたちはどこで休んだらいいですか?」
 少女がまっすぐに町長を見上げてたずねた。澄んだ瞳には、役場に無理難題を頼みに来る町民のような強引さは無いが、それでも力強さを感じた。純粋さゆえの力、だろうか。キャリーバッグのなかから、もうひと組の瞳も自分を見つめているような気がしてきた。その姿は町長にはまるで見えないのだが。
 答えられずにいると、息子が助け船を出してきた
「もう夜も遅い。まだ寝床のない人は、今晩は二階の廊下に寝てください。布団を用意させます――君も、いや君たちもだよ」

2.
 深夜、堤防が決壊した。公民館のある、こちら側の岸が先だった。河の水はゆっくりと、町へ流れてきた。
 住民の避難は終えていたので人的被害はなかったものの、河岸に限らず、平地一帯の床上浸水は確実だ。家屋を蝕んでいっただろう。いずれ雨も上がるだろうが、その時には家も町もすべて一から再建することになるだろう。最低限の貴重品だけで避難してきた人びとは、元の生活を愉しむための真に貴重な品々は水浸しにされて復元はできない。
 それから、雨は止むこと無く降り続いた。
 少女は、大広間の片隅に段ボールの仕切りで囲われた寝床をあてがわれ、バッグに入ったペットとともに寝起きするようになった。散歩させるのだと言って雨が激しくても中庭に出ては、ずぶ濡れになって帰ってきた。少女に支給されるご飯から、食べさせても大丈夫なものをより分けて与えていた。
 町長と息子は、ときどき廊下ですれ違った。自分はほかの町民や息子よりも愚かなのだろうか。町長は不安を抱えながら、それどころではない忙しさに追われていた。
 問題はいくらでも発生するし、職員の人手は足りない。天気予報の週間予報はすべて雨のマークだ。非常食の備蓄に余裕はあるが、外部からの援助は期待できない。
 そうしてある朝、少女に関するトラブルが持ちこまれてきた。
 ちょっと、どこの家の者かもわからない娘と仕切り一つで同じ大部屋にいるのはイヤだよ。安心できないじゃないか。それにペットの面倒だってあるんだろう? なにより、臭いじゃないか。どこか、他所の町から流れてきたホームレスか何かなんだろ?
 誰も――祠で見たという噂以外は――少女を知らなかった。やはり、よそ者なのだ。
 町長さん、あんたが立派なことに受け入れたんだからさ――責任持ってよ。
 町民に不和をもたらす少女の存在にも困ったものだが、今や外へ追い出すこともできない。それこそ、人命をなんだと思っているのかと、後から非難を浴びてしまうことになる。
 息子や職員たちに対応を指示する。建物中を探したのだろう。ひとりの職員が、三畳ほどの物置があり使われていないので、そこに移らせたらどうかと言ってきた。床は一畳空いているので、少女とペットが寝起きするには十分すぎるということだ。
「分かった、そこへ移ってもらおう」
 息子と女性職員に少女への対応を任せて、町長は会議室に向かった。非常時でも、何かを決めるためには会議が必要だ。

部屋は、長年放置されていたため、ほこり臭かった。古い折りたたみ椅子、脚がさび付いた長机、汚れがこびり付いたまま丸められたブルーシート。たしかに一畳ほどの矩形は残っているが、床にはうっすらとほこりが積もっているように感じられた。女性職員に掃除道具を取りに行かせる。
「ここで寝てもらうよ。それから食事のときは食堂にペットを連れてこないでくれ。衛生上良くないからね」
 食堂では、少女の周囲の席はいつも空いているのを彼も見ていた。食事で同席するには、臭いが耐えられないのだ。答えず、無言で床を見ている。しばらく考え込んでいるようすの少女は、顔を上げると訊いた。
「食事をこの部屋に持ってきて食べてはダメ? そうすれば、心配しないで一緒にいられる」
 好都合だ。配膳のことは食堂と相談しよう。
「それなら、この部屋に君の分を持ってこさせるようにするよ。ペットと離れずにすむだろう?」
 子供らしく満面の笑みを浮かべた。
「ありがとう! わたしたちのこと、ちゃんと考えてくれるのね! 町長さんは、あなたのお父さんでしょう? あの人は、いつも適当で、考えてくれなかったのに」
「忙しいからね、父は」
「ううん、もしかして見えてないのかも知れないって気がすることがある。あなたはこの子が見えてる?」
「もちろんさ」
 もちろん、見えている。

隔離したらしたで、一人部屋を使って贅沢だ我が儘だと文句が出る。どんな部屋かも知らずに。与えられた清潔なTシャツとパーカーを着て、バッグを抱えた少女が楽しそうにしているのが許せないらしい。廊下を歩く少女を、睨みつける町民が増えてくる。着るものを変えても少女は獣臭いままだったが、襤褸を着たままならば、間違いなくもっと臭い。服を与えたからと言って問題にはならないだろうと、町長の息子は思う。
 大部屋は諍いが絶えなくなってきている。何日も、段ボールの衝立ひとつで区切られただけの、プライバシーがあるとは言えない環境で寝起きしているのだ。食堂のメニューもどうしたって単調だし、ストレスは溜まる一方だ。
 ある日、少女とすれ違った中年の夫婦がいて、妻のほうが言い放った。
「あんたはいいわね、一人部屋使って! あたしはこいつと四六時中顔を突き合わせないと行けないんだよ? 自分の場所も時間もありゃしない。猫だって諦めて置いてきたってのに」
「え? 猫を残してきたの……どうして?」
「ばか言ってんじゃないよ? ここにペットを持ちこんでる無遠慮なヤツは、あんただけだよ! 見せびらかすようにいつもバッグ抱えやがって」
 町長の息子は、そこにちょうど通りかかった。彼を見つけた少女が声を上げた。
「たいへんなの! 動物を、みんな置いてきてるなんて知らなかった! 助けに行くべきよ。そうしたら、みんなもペットと一緒に暮らせる」
 中年夫婦と少女の言い分を聞いて、何を揉めていたのか確認した。夫婦は少女だけ個室があるのが問題だというが、少女はペットを置いてきているのは大問題だと言って話が噛み合わない。
「船を出して、わたしがみんなを連れてくる!」
 少女を大人しくさせるのも大事だし、それ以上に、他の町民の機嫌を取って少しずつ顔を売るのも、自分の将来にとって大事なことだ。直接住民と接することが増えた避難生活は、むしろ好機かもしれない。
 スマートフォンを出して、天気予報を確かめる。ずっと雨であることは変わりないし、とくに今日は大雨がひどい。しかし、明日は小降りの小康状態になる予報だ。
「わかったよ。今日は無理だけど、明日は小降りになるらしい。そうしたら、巡視船を出そう」

3.
 翌日、予報どおり雨は小降りになっていた。早朝の曇り空の灰色の中を、町長の息子は少女と二人で外へ出て行った。
 水位が上がってくるのに合わせて、巡視船は停泊位置をずらしいつでも使えるようにしていたため、公民館から丘を下った仮設の船着き場に留められていた。
 小高い丘ではなく、ここはもう、陸の孤島だった。
 対岸は崖の中腹まで上昇し、集落はほぼ水没していた。民家の二階だけが、水面から顔を覗かせている。町を沈めてつくった広大なダム湖のようにも水辺船の向こうまで拡がる海のようにも見えたが、水は緩やかにしかし間違いなく下流へと流れていった。
 町長の息子は少女とともに船に乗り、舵輪を握った。
 もともとは道路だったであろう場所の真上を進んでいく。左右の、二階だけ見えている民家の間を縫って。水の都の水路のようだ。一軒家と言っても、古い木造から新築間もない家までまちまちだ。石造りの街とは異なり、辺鄙な町なりにゆっくりとしていても建物は新陳代謝していく。車も何もかも水没した上にできた、静かな水路を船はゆっくりと進んでいく。
「のあのはこぶね、って知ってる?」
 となりに座る少女が、問いかけてきた。
「方舟? もちろん。君こそ、小さいのによく知っているね」
「前に、教会にいたことがあるの。この町に来るまえ、教会の牧師さんが住まわせてくれて」
「僕たちは誰も、神様から罰を受けるようなことはしていないと思うけどね」
「あっ」
 少女が、窓の向こうに見える家を指さす。大きなガラス窓に、レトリーバーが立ち上がって前足をあげて吠えている姿が見えた。船のエンジン音に反応したのだろう。カーテンと窓の間に身体を入れて、船を見ている。
「助けなきゃ」
 ボートの向きをゆっくりと変えて、その家に接岸する。窓の鍵はしっかり掛けられている。用意してきたハンマーで鍵のところを叩き割った。手袋をはめた手でロックを外し、ガラス窓を横に引いた。
 大声で吠えながら、レトリーバーが飛びついてきた。抱きとめてやると尻尾を盛大に振る。少女に身体より大きい犬を預けて、家の中に踏み込んだ。犬がだいぶ汚しているが、きれいに整頓されていた部屋だ。ドッグフードの袋が食い破られていた。他の部屋も見て回るが、誰もいない。一階へ降りる階段の途中まで、水が来ていた。降りることはできない。住所を控えてスマホで写真を撮る。行動記録は全ての残すつもりだ。
 船に戻ると、レトリーバーと少女がじゃれていた。横に置かれたキャリーバッグの中はおとなしい。
 救出作業を一軒終えて、手順に慣れればあとは繰り返しだった。少女が見つけては船を接岸し、窓を破って侵入する。犬や猫を救出する。ガラス窓に姿を現した動物だけではない。少女の直感というのか嗅覚というのか、ときには兎やハムスターを嗅ぎ当てる。大型の爬虫類がガラスケースに横たわっていたこともあった。幸い、人が残っていることはなかった。動物たちと比べて人の生存能力がもっとも低そうに思えた。残っていたら、不幸な姿で対面することになっただろう。
 昼すぎに、対岸の崖のある方へ向かった。本来の河だった中央部は流れが速い。押し流されそうになったが、進行方向をうまく舵取りして渡りきった。
 崖のむこうは山林である。野生動物が棲息している。だから家の中にいるのはペットだけとは限らなかった。ある家の中に入ってみたら、狸だった。放っておくと告げたところ、少女は猛反対した。
 仕方なく船に運んだ。四匹、増えた。他の家にも勝手に住み着いた動物はいた。猪のような大型のものがいなかったのは幸いだった。巡視船の中は、動物で満載だ。これ以上、載せられない感じになったところで、崖に近づいた。
 崖の中腹には祠がある。
「祠に寄ろう」
 子供ならば、ひとり入りこむことは問題のない大きさの祠が、崖を削って埋め込まれるようにして立っていた。背を丸めれば、大人でも入れる。水はそこまでは来ていなかった。巡視船を接岸させて、そこから、少し山道を歩く。
 町長の息子は少女を引っ張って、中へ連れ込んだ。肩にかけたバッグが床に転がる。バッグを蹴飛ばす。鳴き声ひとつない。ジッパーを開けて、ひっくり返す。
「やめてよ!」
「なにもいないだろうが! 俺には見えないけどな、誰にも見えてないぞ、あたりまえだ。何も入ってないんだから」
 つぎは、少女を蹴飛ばす。
「お前がいない方が、町のみんなは安心して避難生活を送れるんだ。親父はお人よしだから受け入れちまったけどな。あいつには黙っていたが、俺はここに誰かが潜んでいたのを見たことがある。暗がりの中だ、お前かどうかはわからんが、どうせお前だろう? なにか獣と戯れている奴がいた」
「そうよ。あなたは愚かだから見ることも触ることもできないけれど、わたしのペットがここにいる。見えなくても、力はあるのよ」
 息子は、ちょっと怯んだ。
「わたしのいうことを聞くの。あなたこそ、犬になりなさい」
 男は、犬になった。

そろそろ、日の沈む時間になってきた。
 雨こそ小降りだったが、空は一日じゅう雲に覆われて日がさすことはなく、ただ空が暗くなってゆく。
 町長は、三階の窓からひとりで外を眺めていた。息子が少女に請われて出した巡視船の動きは、日中、断続的に眺めていた。水没した手前の住宅地を巡り、午後には対岸に渡ったところも。その船がライトを点けて、この丘に戻ってくる船のデッキには、たくさんの影。どうやらペットを連れて来れたようだ。
 町長は出迎えのために下へ降りた。
 船を操縦しているのは、少女だった。足元に踏み台でも置いているのか、それでも背伸びして大きすぎる舵輪を握っている。強引な接岸で仮設の船着場にぶつかった。船を操れる職員が飛び乗って舵輪を奪い、なんとか、巡視船を落ち着ける。
 少女と、何匹もの大小の動物が船を降りてきた。デッキからはみ出るほどに乗っていたが、並んで広がると、巡視船のサイズにとても収まっていたとは思えない数だ。レトリーバーやバーニーズのような大きいサイズの犬から、チワワ、シーズーなどの小型犬、さまざまな毛並みの猫たち、狸、ハムスター、イタチ、アライグマ。よく大人しく船に押し込められていたものだ。犬猫は首輪がつけられていて、レトリーバーと並んでひときわ大きいのが一匹いた。首輪だけでなく、口も塞がれている。
 息子はどこにいるのか、見当たらない。動物たちの先頭に立つ少女の前に立って、目の高さを合わせようと屈んだ。尋ねる前に、Tシャツが破れ、腕に傷を負っているのが見えた。
「その傷はどうした? いや、どこの動物に襲われたんだ?」
「にんげんの姿をしていたの。本当は犬なのに。それで、牙をむいて襲ってきたの。怖かった、噛まれそうになったの。でも、今はおとなしくなったから大丈夫」
 あんな大型犬を、大人しくなったからと連れてくるのは危険だ。
「いや、そんな動物を中に入れるわけにはいかないよ」
「油断していると、にんげんの姿で近づいてくるの。わたしも危なかった。でも、気をつけていれば大丈夫よ」
「いや、そんな動物を中に入れるわけにはいかないよ」
「町長さんには、にんげんに見える? それとも犬に見える? 愚かな人は騙されてしまうの。にんげんに見えるの。騙される人は注意がひつようよ」
「犬だ、犬にしか見えないよ」
「よかった、気をつけていれば大丈夫よ」
「いや、そんな動物を中に入れるわけにはいかないよ。その犬をボートで流してしまおう」
「そんな、かわいそう! 気をつけていれば大丈夫よ」
「いや、そんな動物を中に入れるわけにはいかないよ。そいつを流してしまえ!」
 職員の一人が黙って巡視船に乗り込み、救命用のゴムボートを一つ取り外した。大きく危険な犬を押さえつけ、引っ張り、ボートに縛り付けられる。ボートは河に放り込まれ、雄大な流れに抵抗できず下流へと流されていった。
「どこかで生き延びると危険だ」
 町長が命じる。
 田舎の町だ。猟の資格をもつ職員がいる。猟銃を構えた。流され、遠ざかっていくボートに乗った犬に、狙いを定める。
「ところで、息子はどうした。別行動なのか」
「いいえ――」
 少女は町長から目を逸らし、くるりと後ろを向いて河に流される犬のほうを見た。
「流されてしまったの」
 流されてしまったのなら、仕方がない。
 銃声が響いた。

4.
 ペットは飼い主の家族に引き取られていった。それ以外の、少女が勝手に連れてきた動物は、勝手に建物の中に住み着いた。
 翌日から、再び雨は強くなった。いつまでも降り続けた。公民館の中は、町民とペットで混み合い、勝手に住み着いた動物が人の見えないところで駆け回るようになった。ペットは家族とはよく言ったもので、和気あいあいと、人々は暮らすようになった。
 ただ、獣臭かった。

自分のペットを抱きしめて匂いを嗅ぐのは至福のときだ。町長も、以前は犬を飼っていたことがあった。子供のころは、近所の野良猫に餌をあげていたこともあった。しかし、糞尿の始末が適切にされなければ、悪臭が充満するし、衛生的にまずい。職員が相談に来たのは、三日目のことだった。
「雨の中でも、レインコート着て外でトイレさせる、出したものは回収させる、そのくらいは飼い主の務めだろう?」
「他のことでもそうですが」彼は声をひそめて言った「常識の通じない人は一定数いるんですよ」
 犬が何十匹もいて、つまりは飼い主が何十人もいる。町民が全てが品行方正でルールを守る人であるとは、とても言えないことは町長も良く認識していた。十年、町長をやっているのだ。
 そこに、中年の男性が顔を出してきた。猫の入ったケージをかかえている。
「町長さん、ちょうどいい。棲み分けしないと無理ですよ。犬と猫も分けてほしいんですけど、それ以上に、マナーなってない人とはやってられないです」
 話をしていた職員と共に、男に連れられて下りてゆく。視力の衰えは歩く速さにも影響して、二歩も三歩も遅れて下りる。研修室が一つ、全員の休憩所になっていたのだが、知らぬ間にドッグランになっていた。それも、犬のサイズ関係なし、トイレも自由、壁際の床はびしょびしょだ。自由に入り込んでケンカしている猫もいたし、ケンカっぱやいコーギーやジャック・ラッセル・テリアに絡まれて本気になっているレトリーバーもいた。狸が何匹連れ込まれたのか役場の誰も管理できていないが、少なくともこの部屋にいま三匹いることが確認できた。通風口にチラリと見えたのは、蛇のウロコではあるまいか。
 チワワを抱きかかえて被害に遭わないようにしている、壁際に立つ若い女性のほうへ近づいた。冷静に話ができそうな人だ。近づく町長たちに気づいて、先手を取ってきた。
「責任とって、何とかしなさいよ! わたしの子、さっき噛まれそうになったんですけど!」
「急に責任と言われても……」
「ペット連れてきたのはあの子だし、あの子に好きにやらせてるのは町長でしょう!」
 他にも四人、五人と近づいて来られて取り囲まれた。順番に話を聞こうとか、そういう冷静な対応ができる状態ではないようだ。話しやすそうな人だと思ったのに。
 囲んできた人たちの後ろでは、大型の犬同士が本気でケンカを始めた。犬たちもたいして散歩もできずにストレスが溜まっているだろうし、飼い主たちのこんなありさまは、なおさら犬たちを凶暴にする。
 もともと躾がまったくできていない犬と身勝手な飼い主がいて、大雨の以前からトラブルになったことがあった。あの暴れている犬は、あの時の奴だ。飼い主のクソ親父はどこだと首を伸ばすと、他の飼い主に首根っこを掴まれていた。人間の喧嘩も起きるのか。肘が出た。親父がよろめいた。
「あのガキンチョがいけないのよ! こんなところで、ペットと暮らせるわけないじゃない。だから家に置いてきたのに!」
 若い女性は町長に詰め寄るのをやめて、チワワを大切に抱いて部屋を出ていった。そうだそうだと、意気投合した人々が後に続く。町長も後を追いかける。
 廊下の奥の奥の突き当たりにある、小さな物置の前に、大勢の人間とペットと、それ以外の動物が詰めかけた。怒号が響く。吠え声も負けじと響く。
 ドアがゆっくりと開いて少女が顔を覗かせた。
「どうかしたの?」
 明らかに殺気だって見えるだろう人々の群れに、少女はドアを閉ざした。詰め寄る人々はドアを打ち鳴らし、小娘出てこい、ふざけるなと罵声をあげる。町長も町役場の職員も手のつけようがない。
 こちら側の世界が騒ぎ疲れたころ、ドアの向こうから少女の声が聞こえた。
「落ち着いた? 落ち着いたなら、いまから出る」
 くしゃくしゃの長い髪の上にパーカーのフードを被り、サイズが大きすぎるパーカーの下にはTシャツを着ていた。半ズボンから細い脚を伸ばし、素足だった。服はすべて貸し与えたものだ。髪の毛になかば隠れた瞳は、騒いでいた大人たちの前に出る子供らしくない、落ち着きを感じさせる。右肩に下げたキャリーバッグを、床にそっと下ろした。
 町民たちは、さっきまでの大声が嘘のように何も言わない。少女はゆっくりと顔を動かして、ひとりづつ皆を見上げていく。
「なに……?」
 この町の責任者は自分だ、町長は一歩前に出て、少女に語りかけた。
「皆、ペットたちを扱いかねて、困っているのだ」
「じぶんたちの、家族じゃないの」
「避難所の狭いところに、一緒にいるのは難しいんだよ」
「でも、連れて来なかったら、ご飯も水も無くなって、みんな死んでしまってた」
 後ろから、チワワを抱いた若い女が進み出てきた。
「こんな非常時だ、それも仕方ないだろう? わたしはともかく、普段から責任持って飼ってないようなばかも多いんだよ。一緒にやってられないさ」
「だったら、ばかな人が出ていけばいいと思う。ちがう?」
「何だと、ガキ!」
 馬鹿な人の代表格、大型犬をまともに躾けない男がイキリ立って近づいてきた。犬は低く唸っている。なんなら、この場でリードを離すくらいのことはやりかねない男だ。少女は何も感じないのか平然としている。
「君――」
 躾のなってない、危険な大型犬に話しかける。
「好きにしていいよ」
 犬は吠えた。吠えて、飼い主に飛びかかり、噛みついた。倒された男に犬がのしかかる。チワワも若い女の手に噛みついた。小型犬でも凶暴化したら人の手には追えない。後ろにいた人たちのペットも騒ぎ出し、狸やイタチなどの野生動物も集まってきた。
 町長は尻餅をついて、腰を打った。痛みに声をあげる。そこに少女が近づいてきた。バッグを持って。
「ペットのことなんか、家族だってかわいがってけっきょっく見捨てるし、いざとなればどうでいいと思ってる。人間のほうが、いなくなればいいと思う」
「そうはいかない。わたしは町民を、人間たちを守る責任が――」
「そんなこと言って、人間どうしだって、りんじんでも、おやこでも、殺し合うじゃない。あなただってそうでしょ? わたしの言葉を理由にして、危険な動物だからって」
 息子のことを言っているのか?
「安全だから大丈夫だと言われて、安心できないだろう。わたしには町民を守る責任がある」
 町長を見下ろす少女は、唇を横にひろげて、笑った。しゃがんで、顔を寄せる。笑いながら囁いた。
「あなたは愚かだから、わたしのペットは一度も見えてないし、あのときも犬に見えてなかった。あのね、わたしの言葉は愚かな人には通じないの、わたしの言葉のとおりに見えるのは、もっと賢い人だけ。この町に何人そんな人がいたのか知らないけど。みんな愚かではないと言いたくて、わたしの言葉を信じるふりをしていただけかもしれないし」
「わたしは、そんなに――」
「そんなにもおろかよ
 おろかなにんげんよ、おまえにみえているかいなかにかかわらず、わが牙はほんものぞ。我らが血と肉を求めるのは真実ぞ」
 周りにいた動物たちが襲いかかった。

流血と、食いちぎられた肉片で、公民館の中はいっぱいになった。

5.
 翌日、幾日ぶりかの朝の日差しが地上に届いた。
 河はもはや海のように一面を覆い尽くしていたが、ゆっくりと下流へと流れていった。上流から流れてくる泥流の勢いも強く、水が引く気配はまったく見られなかったが、それでも、たしかにこれは河であった。
 日差しは公民館の窓をつらぬいて、屋内を照らした。生き残ったものたちは眩しそうに目をこすり、伸びをして、起き上がる。少女も、その中にいた。
 濡れ汚れてボロボロの服を脱いで、裸足で廊下を歩き、階段を下り、シャワールームへ入る。冷たい水をつま先にかけていると、やがてお湯に変わった。頭から浴びて、返り血や泥や生臭いいろいろなものを洗い流す。濡れたまま歩きまわり、脱衣場でバスタオルを見つけると、その場で頭から被り、くしゃくしゃの髪と、全身を拭いた。身体に巻き付け、もう一枚を脇に抱えて廊下に出た。
 階段を上りながら、ペットを呼ぶ。いつものように遠くから気配がする。少女には、彼女のペットが見えているし、聞こえているし、匂っている。最上階に戻ったところで飛びついてきたそれを、持ってきたバスタオルを広げて受け止める。
 この子も洗ってあげなきゃ。

 最上階――三階にある事務室の窓は広い。かつて町長が息子とともに河を見下ろしていた窓から、少女は地上の河の流れと、青空を見た。うしろに他の生き物たちが集まってきた。みんなで屋上に出てみよう。
 階段を上ると、屋上へ出られる扉がある。鍵を開けて、外へ出た。
 平らなコンクリートの床は水たまりも残っているがきちんと排水されてもいて、浅い水たまりを太陽が乾かしつつあった。
 屋上に、生き延びたもの全てが上がった。広い屋上も、埋まってしまうくらいの群れになる。水が引いたあとの土地に還っていくさまざまな動物たち。どこかに隠れて生き延びていた鳥たちが現れ、空の高いところを旋回する。屋上に群れる少女たちを祝福してるように。
 少女はバスタオルをはずし、全身で日の光を浴びる。隣にいるはずの彼女のペットも。

ここにはもう、服を着た生き物はいない。わたしたちの王国だ。

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