教育

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梗 概

教育

誇り高きタンジャヴールの僕らは少年兵として〈養成所〉へ入るとまず、プーチの連中は人間ではないと教えられる。そして初等教育代わりの算数や読み書きと、戦争のための火器や爆薬の扱いを徹底的に学ぶ。
 山奥での生活も訓練もとても厳しいが、脳に埋め込まれた外国製の分子機械チンナ・ヴァンディは、僕らの行動を拡張現実と運動補正によって常に補助し、感覚調整によって痛みや恐怖を取り除いてくれた。それは僕らがタンジャヴールに光をもたらす理想的な兵士になるための導きだった。
 それに厳しいだけでもない。
 僕らには一匹ずつイドゥがいる。それは国の南に生息する生き物だ。茶色い肌で毛はない。黒い斑点で覆われた身体を起こすと僕らより一回り小さいくらいの大きさがある。目は二つ。大抵は眠そうに半開きで、よく大きな口を開けて欠伸をする。基本は前足でからだを支えながら、後ろ足を引き摺って移動する。鳴き声はないけどヴゥとよく喉を鳴らす。
 情操教育の一環らしい。家畜に向かないイドゥを手懐けることは、一人前の兵士として認められるために必要でもあった。
 僕のイドゥはみんなより色が黒かったから、カルップと名付けた。撫でようとすると怯えていたカルップは次第に僕に懐いていった。訓練が上手くいった日はカルップと一緒に歌を歌い、失敗した日は一緒にベッドに潜り反省会をした。カルップは他のイドゥに相撲で負けると落ち込んだ。けれど僕が好物のひよこ豆を上げると、負けたことなんて忘れてしまったみたいに上機嫌に喉を鳴らした。
 たまに発狂してどこかへ消えていく仲間もいたけど、厳しい訓練を乗り越え、イドゥとの絆を深め、僕らは順風満帆な日々を送っている。

ある日の訓練で、僕は仲間のニーランを助けて頭に怪我を負い、医務室で目を覚ます。
 軽傷だったニーランが自分のイドゥとカルップを連れて医務室を訪れる。ベッドの上でカルップを撫でていると耳鳴りがして、その愛らしい姿は崩れていった。
 現れたのはプーチ人だった。膝下と手の指が切断され、喉が潰され、二本の腕が生えた芋虫みたいに太らされていた。
 僕はかつて発狂して連行された仲間を思い出した。ニーランは平気な顔でプーチ人を撫でていた。
 イドゥは人間だ。僕らは分子機械によって感覚を騙されていた。躊躇いなくプーチを殺すため、イドゥを飼うことでプーチが人間ではないことを深層心理に刷り込まれていた。気づいたのは僕だけ。しかし気づいたことに気づかれてはいけなかった。

薬漬けのカルップは一日に数分だけ正気に戻ることがあった。カルップは泣いていた。じゃれていると思っていた仕草は懇願だった。プーチは殺さなければならないのに、僕はカルップを助けたかった。
 僕はカルップを逃がす。捜索隊が組まれ、間もなくカルップは連れ戻される。ニーランが血まみれの逃げたイドゥを引き摺っている。の血は僕と同じ色をしていた。

 

文字数:1199

内容に関するアピール

〈生き物〉ではなく〈ペット〉について書くことになって、私はふとその違いに引っかかりを覚えました。

これはなんぞ…と考えてみると、〈ペット〉という言葉に含まれる「飼う」「飼われる」という関係の不均衡が原因であるような気がしました。

もちろんペットを飼うこと自体が悪だと怒りん坊な態度を示したいわけでも、ペットじゃなくて「パートナー」だよねみたいな寒気のする話をしたいわけでもありません。

けれど、ペットにしろ何にしろ、世の中のあちこちにはこうした不均衡や暴力が忍ばされていて、私たちは知らずにその片棒を担がされているんだと思います。
 不均衡を正そうぜ、みたいな大仰なことは言えないし言うつもりもないけれど、まずはこの関係の不均衡を自覚して、引き受けなくちゃならない。

少なくとも私は、そうしなければペットについてなんて書けない(書いてはならない)なぁなんて思っていたら、出来上がったのが本梗概です。

文字数:394

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それは命の重みだった。からだの上に圧し掛かる体温に息苦しさを感じて、僕は目を開ける。半開きの大きな目に、まだ半分眠ったままの間抜けな僕が映っている。起き抜けの顔に甘くて生臭い息がかかった。
「……おはよう、カルップ」
 僕は僕の上に覆いかぶさっているイドゥの名前を呼んだ。カルップは茶色くて大きなからだを震わせて、喉の奥のほうでヴゥと音を鳴らした。
 イドゥは〈養成所〉で暮らす僕らに一人一匹ずつ与えられている。家畜に向かないイドゥを手懐けることは、僕らがタンジャヴールの戦士として一人前になるために必要なことだと、教官が言っていた。
 僕が起きたことを感知して、脳に埋め込まれた分子機械チンナ・ヴァンディが稼働を始める。読み込みが終わると体温、心拍、そのほか無数の数値が視界の隅に表示され、僕のからだを数字へと置き換えていった。
 飾り付けられた視界の奥で、カルップが僕を見下ろしている。僕はカルップを抱きしめて黒い斑点の浮く背中を撫でた。柔らかくて弛んだ首の付け根に顔を埋めた。くすぐったかったのか、カルップがからだをよじった。大きなからだはシーツや毛布を巻き込んで、スローモーションでベッドからずり落ちていく。カルップを追いかけて、僕も一緒になってベッドから落ちていく。
 弾力のある背中が僕を受け止めた。頬をぴたりとくっつけると少し落ち着く。柔らかい背中は静かに脈打っている。
 やがて部屋の壁に備え付けられたスピーカーから起床のベルが鳴り響いて、僕はカルップの背から飛び起きた。カルップからシーツやら毛布やらを引き剥がし、着替えとベッドの整頓を済ませていく。脱いだ寝間着は縫い目を揃えて畳み、昨晩のうちに準備しておいたリュックを背負った。カルップが重そうなからだを揺らしながら後ろ足を引き摺る独特な歩き方で、僕のすねのあたりに擦り寄ってくる。
「いってくる。夕方には戻るから」
 僕はカルップの頭を撫でる。カルップはヴゥと鳴いた。
 部屋から出て、鍵をかけた扉の前に直立する。廊下にはすでに、僕と同じように身支度を整えた同胞たちが並んでいる。
「点呼! ――1ッ」
「2!」
「3!」
 右側から押し寄せる点呼の流れに乗って、僕も「8!」と声を張る。点呼が終わると今度は右側から教官が歩いてくる。磨かれた軍靴が、リノリウムの床の上で音を鳴らす。
「おい、お前!」
 教官が怒鳴りつけたのは僕の右隣り、七番のニーラン。ニーランは大きな声で返事をしたけど、教官は彼が裏返しのまま羽織っているジャケットの縒れた襟を容赦なく掴んだ。
「これは一体どういうつもりだ!」
「すいません! 寝ぼけていました!」
「よーし、腕立て五〇回! 連帯!」
 僕らは一斉に「はい!」と答えるやリュックを床へ下ろし、その場で腕立て伏せを始める。ニーランも素早くジャケットを着直して、腕立て伏せに合流する。一、二、三、四。連帯というのは連帯責任の意味で、誰かがミスをすると僕らはこうして仲良く回数を数えながら腕立て伏せをしなくてはならない。
「声が小さい! 弛んでるぞ! そんなことでタンジャヴールの戦士が務まるのか! 憎悪を燃やせ! プーチ人を殺せ!」
 頭の上から教官の怒声が降り注ぎ、上下する視界を黒い軍靴が横切っていく。僕らは腹に力を込めて喉を絞り、懸命に数を数える。視界に映されている拡張現実が、心拍の上昇を伝えていた。
「表へ出ろ! ランニングだ!」
 腕立て伏せを終えた僕らに、休む間もなく教官の声が鋭く響いた。僕らはお互いの前後の間隔を保ったまま走り出し、廊下を通って外へ出た。まだわずかに残る青い朝靄を裂くように、上ったばかりの太陽が東の空で力強く燃えている。

誇り高きタンジャヴールの僕らは少年兵として〈養成所〉へ入るとまず、プーチの連中は人間ではないと教えられる。そして初等教育程度の国語や算数から、戦争のための銃火器や爆薬の扱いを徹底的に学ぶ。
 僕らが〈養成所〉へ入る理由はさまざまで、親に売られた同胞もいれば、プーチに親を殺されたという同胞もいる。ちなみに僕が〈養成所〉に入ったのは、〈養成所〉なら村では受けられない教育を受けられると村長が言っていたからで、その目的は概ね満足に果たされている。
 朝六時のベルで起床した僕らはまず兵站などが詰め込まれたリュックとAKを背負い、一〇キロのランニングをこなす。朝食を胃のなかへかき込み、午前中はみっちりと座学を受ける。僕が好きなのは歴史の時間だ。歴史というのはつまり、僕らタンジャヴールの栄華と凋落の物語でもある。
 僕らの国には少数民族のタンジャヴールと多数民族のプーチという二つの民族が暮らしている。元はタンジャヴールによる国家が栄えていたこの地は約一世紀前、列強諸国の侵略で植民地になった。列強に対し徹底抗戦を謳ったタンジャヴールといち早く融和政策を取ったプーチ。そのどちらが侵略者にとって好ましいかは火を見るよりも明らかで、植民地になったこの国には列強諸国を後ろ盾にしたプーチによる新政府が樹立された。プーチは列強諸国に国土を売り、タンジャヴールの玉座を奪い去ったのだ。
 タンジャヴールのほとんどは今、国の北側に追いやられながら細々と暮らしている。だから僕らは、パンディヤ神が築いた豊かな国土を売国奴プーチから取り返さなければいけなかった。

我ら誇り高きタンジャヴールの戦士、勇気と叡智をもってしてプーチを駆逐する
 我ら誉れ高きタンジャヴールの戦士、鋼のごとき意志を貫きプーチの穢れを雪ぐ
 プーチを見たら人と思うな。奴らは虫けら。徹底的に殺せ。完膚なきまでに殺せ

 歴史の授業中、僕らは何度もこのことばを繰り返す。プーチの現指導者だという男の白黒写真にナイフを突き立てる。顔が平たく、目が茶色く、肌は浅黒い典型的プーチの顔に何度も何度も穴を開ける。繰り返しているうちに僕はタンジャヴールの一員としてプーチを殺さなければならないという気分になってくる。教室は一体となり、僕らはまた一つ理想的な戦士へと近づいていく。
 パンディヤ神に祈りを捧げて昼食を食べたあとは、すぐに午後の訓練が始まる。格闘術やナイフを使った戦闘術。爆弾の設置と解体。射撃。森のなかでのゲリラ戦術訓練。
 どれもハードで危険だ。けれど僕らには外国製の分子機械チンナ・ヴァンディによる補助がある。入所のときに耳の後ろから注射器で流し込まれたナノマシンは僕らのニューロンに作用して、AKを操る手を熟練者のようにスムーズにし、撃たれる恐怖をやわらげた。視界の隅に表示されている様々な数字はいつだって僕らを見守ってくれていて、どれもこれも僕らが立派な戦士になるためのパンディヤ神の導きなのだと教えられたし、実際にそういう効果を発揮していると思えた。
 とはいえ休みなく動き続けるせいで、日没とともに訓練が終わるころには僕らのからだは指の先端まで疲労感に浸かっている。僕らは亡霊みたいにからだを引き摺って、癒しを求めてそれぞれの部屋へと戻っていく。
 部屋の扉を開けると、カルップが僕を出迎えた。お腹を空かせてじゃれてくる様子はほとんど突進で、疲労困憊の僕は呆気なく床に押し倒されてしまう。
「……ただいま、カルップ。重いよ」
 僕はカルップと床の隙間から這い出して、戸棚にしまってある缶詰を皿の上にあける。ひよこ豆のペーストはカルップのお気に入りだ。
 床に皿を置くと、カルップが餌を食べ始める。僕はしゃがんでカルップの背中を撫でる。
「聞いてくれよ。今日は一二回も腕立てさせられたんだ。半分以上はニーランのせい。あいつ、ほんと落ちこぼれだよ。でもさ、少しは筋肉ついてきたかな」
 僕はジャケットを脱いで力こぶを作ってみせた。ヴゥ。カルップが顔を上げて喉を鳴らす。たぶんひよこ豆に舌鼓を打っただけだけど、僕は僕の話にカルップが共感してくれている気がして嬉しくなる。
「おまえ、ひよこ豆大好きだよなぁ。それ、そんなに美味しくないだろ?」
 イドゥ用の餌を食べることは教官から厳しく禁じられている。カルップがあんまり美味しそうに食べるから少し気になってはいたけれど、食べてはいけない理由はきっと僕らが考えるべきことではない。
 時間を確認すると、まだ夕食までは少し時間があった。僕はカルップのからだに寄りかかる。僕よりも少し高い体温が、張り詰めた筋肉をゆっくりとほぐしていった。

カルップと初めて会ったのは、〈養成所〉への入所六日目のことだった。
 一日の訓練を終えた僕らは夕食の前に宿舎の前の広場へと集められた。広場にはたくさんのトラックが停まっていて、荷台にはいくつもの檻が並べてあった。
「あんなおかしな動物、オレ見たことねえぜ」
 隣りのニーランが話しかけてくる。集合時の私語は禁止だから、僕は答えなかった。けれどニーランの言う通り、荷台の檻には初めて見る生き物が閉じ込められていた。
 茶色い肌に黒い斑点。大きく寸胴なからだには少し不釣り合いな前後二本ずつの手足がある。前足は長くて大きく、後ろ足は短くて小さい。二つある目は大きいけど眠そうに半開きで、そもそも種類として活発な動物ではないのか、あくびをしたりしながら檻のなかで寝そべっている。
 たしかに見たことも聞いたこともない生き物だった。けれどそんなことよりも僕の頭のなかは、今日教えてもらった三角形の面積を求める公式を忘れないうちに暗記することでいっぱいだった。
「おい、見たかよ。あいつ今あくびしてた!」
 ニーランは相変わらず能天気に話しかけてきたけど、教官が軍靴を鳴らしながら前に出てくるとさすがに口を噤んだ。敬礼! 休め! 声に合わせて僕らは機敏に手足を動かし、足を肩幅に開いて静止した。
「教養、銃火器や爆発物の扱い、プーチを殺すための戦術。それらは諸君らがタンジャヴールの戦士であるために必要不可欠であることは疑いようがない。しかしいくら体力や技術に優れようと、それだけで一人前のタンジャヴールの戦士として認めるわけにはいかないのも事実だ」
 僕らは話している教官を真っ直ぐに見る。どこかでヴゥと呻くような声がした。
 別の教官が荷台から檻を引き摺り下ろす。大きな音が鳴り、四角い檻の角が地面を抉る。中に入れられた生き物は揺れる檻のなかで、太ったからだを格子にめり込ませている。
「これはイドゥ。我らの国土の南、プラバカラン山岳地帯に生息する動物だ。タンジャヴールの戦士たるもの、このイドゥを手懐け、飼い慣らしてこそ一人前と言える」
 プラバカラン山岳地帯と言えば、タンジャヴールにおける三大聖地のひとつで、現在プーチに奪われている国土の一つだ。
 イドゥの世話の方法について簡単な説明が終わると、僕らは一人ずつ呼ばれた。前に出ると檻がひとつ開けられ、教官からイドゥを与えられた。
 入所から六日で早くも頭角を現して一目置かれていたマドゥライがイドゥに名前をつけていたから、僕もそれに倣って自分のイドゥにカルップと名前をつけた。
 僕は大切に世話をした。けれど最初、カルップはあまり僕には懐かなかった。
 そもそも人間が怖いのか、カルップはずっと部屋の隅で縮こまっていた。近づいたり触ろうとしたりすれば、からだを強張らせて小刻みに震えた。
 僕は辛抱強くカルップに話しかけた。話しかけるだけじゃなく、訓練終わりに草花を摘んで帰ってプレゼントしたり、教官たちの娯楽室からくすねてきたビリヤードの玉を目の前で転がしてみたりした。ビリヤードの玉を転がしながら、その日の訓練や授業であった出来事を語って聞かせ、プーチがどれだけ醜く悪い生き物であるのかを説いた。
「今日はさ、初めて射撃訓練をしたんだ。そしたら僕が一番だった。格闘術じゃマドゥライに敵わないけど、殴り合いが強いことより、銃が上手いことのほうが戦場では役に立つからね。教官にも褒められた。一番効率よくプーチを殺していくならやっぱり格闘でもナイフでもなく銃なんだよ。今は的を狙うだけだから、素早く動くプーチを的確に撃ち殺せるように練習しないと」
 ヴゥ。カルップが喉を鳴らした。僕はイドゥに鳴き声があると知らなかったから、最初何の音かが分からなかった。ヴゥ。もう一度音がして、今度はそれがカルップの喉から出ている音だと分かった。壁に跳ね返って転がってきた玉を僕は掴み損ねた。カルップは僕を見ていたし、僕はカルップを見ていた。出会ってから二か月と十日、僕とカルップが初めて通じ合った瞬間だった。
 僕はゆっくりとカルップに近づいた。半開きの目に、くっきりと僕が映っていた。
「大丈夫」
 静かに言って手を伸ばした。カルップはじっと固まった。僕の指先がカルップの背中に触れた。柔らかかった。熱かった。命の温度だと思った。
 ヴヴゥ。
 カルップは低く甘く唸っていた。

歓声や野次が飛び交い、肉と肉がぶつかる音が響く。広場に石を並べて作られた土俵のなかで、僕のカルップとニーランのブリハディが向かい合っていた。
 教官が言っていたイドゥを飼い慣らすことに明確な指標はない。だからなんとなく僕らのあいだで、一番強いイドゥを育てたやつが偉いはずだという空気が生まれた。もちろん何をもって一番強いのかという明確な指標もなかったから、誰かが言い出したスモウが強さの尺度になった。だから僕らは夕食までのわずかな自由時間を使って広場に集まり、自分のイドゥを戦わせているというわけだった。
 そしてこのイドゥスモウはある種の興行になっている。具体的には、僕らは勝敗に夕食のおかずを賭けていて、〈養成所〉での数少ない娯楽を楽しんでいる。
 スタートの合図が出るや、ブリハディがカルップに突撃。ひっくり返ったカルップはそのまま土俵の外に押し出される。開始四秒。勝負が決する。
「よっしゃぁ! おかずゲットだ!」
「うわぁ、あいつやっぱ弱ぇ……」
 ちなみに言うと、カルップはイドゥスモウがめちゃくちゃに弱い。いや、弱いというか戦意というものがない。その割に負けたカルップはちゃんと落ち込むから、またそこが愛らしい。もちろんたとえスモウが弱くたって、カルップの価値は変わらない。カルップは僕の大切なパートナーだ。
 フヴゥ、とカルップが溜息を吐くみたいに喉を鳴らして僕のもとへと戻ってくる。僕は人垣を離れてカルップと一緒に地面に座り込む。土俵ではちょうど次の試合が始まろうとしていた。
「――よっと」
 許可した覚えはなかったけれど、ニーランは僕の隣りに腰を下ろした。
「なあ、落ち込むなよ」
「疲れてるだけ」
「まあ、相手が悪かったよな。オレのブリハディにかかりゃ、どんなイドゥだってあんなもんよ」
「はいはい」
 僕の溜息も、神経の鈍いニーランは気づかない。
「そういやさ、マドゥライ見てねえ? オレ、今日あいつのアマンガと戦いたかったんだよ。そろそろ最強決定戦しないとだろ?」
 僕はあたりを見回したけれど、マドゥライは見当たらなかった。念のため分子機械チンナ・ヴァンディの拡張現実で検索をかけてみる。マドゥライも彼のイドゥのアマンガもやはり広場には出てきていないみたいだった。
「寝不足みたいだったし部屋で休んでるんじゃない?」
「ちぇ、なんだよ、あいつ。この前の格闘訓練で頭打ってからパッとしねえよな。まあいい、このニーラン様に恐れをなして逃げ――」

ドン、ドン。

ニーランの言葉を遮って、鋭い銃声が二発響いた。スモウに盛り上がっていたみんなも水を打ったように静まり、銃声が聞こえた方向――第一宿舎へ視線を向ける。
 胸騒ぎのした僕はいち早く立ち上がり、カルップのリードをニーランに押し付けて宿舎の方向へと駆け出した
「うああああああああああああああああああああああああああっ!」
 宿舎の廊下に響く叫び声を手繰りながら走って、僕は騒動のもとへ辿り着いた。そこは僕の嫌な予感通りにマドゥライの部屋で、すでに到着していた教官たちが床に組み伏せた彼を抑えつけていた。
「何が……」
「お前は下がっていろ!」
 部屋のなかに入ろうとした僕を教官の鋭い声が制止する。けれど部屋を満たす血の匂いはすでに僕のもとへと達していて、僕は思わず込み上げた吐き気を、口を覆うように重ねた両手で抑えつけていた。
 部屋のなかでマドゥライは腕を縛られ、猿轡をはめられていた。見開かれ落ち窪んだ目は視線が定まっておらず、両目がそれぞれに別々の方向を向いていた。床には硝煙を吐き出す拳銃が転がり、奥には撃たれたアマンガが沈んでいるのが見えた。壁や窓には真っ赤な血と脳漿が巻き散らされていて、それらが少しずつ温度を失いながら重力に引かれて垂れていた。アマンガは動かない。今まさに命がひとつ消えかけていた。
「んんっ、んーっ!」
 教官たちはマドゥライを引き起こし、部屋の外へと連れ出す。マドゥライは必死に抵抗していたけど、教官たちの腕力に敵うはずもなくされるがままに引っ張られていく。マドゥライは左目だけで僕を見ていた。僕は思わず顔を伏せた。
「たまにいるんだよ。根本的に戦士に向かないああいうのがな」
 やがて残っていた教官の一人が僕の肩に手を置いて言った。
 けれど僕はそうは思わなかった。マドゥライはタンジャヴールの戦士になることを誰よりも誇りに思っていたし、すべての授業と訓練で上位の成績を修めていた。もちろんアマンガの世話だって抜かりなくやっていた。そんな彼が戦士に向かない人間だとは、とうてい信じられなかった。
 別の教官たちが麻袋を広げ、動かなくなったアマンガを押し込んでいた。死ねばモノになるんだと、僕は当たり前のことを改めて思った。
「アマンガって言うんです」
「アマンガ?」
 ふいに口を突いて出た言葉に、教官が怪訝そうな反応をした。
「彼の、イドゥの名前です」
「そうか。お前たち、名前つけてるんだったな」
「あの、アマンガのお墓、建ててあげてください」
「ああ、お墓な。うん、そうしよう」
 教官は溜息のような返事をした。それから肩に置いていた手を僕の頭に移動させた。
「ここで見たことはきれいさっぱり忘れたほうがいい。揺り籠チンナ・ヴァンディに身を任せろ。そうすればお前は立派な戦士になれる」
 真っ赤な滲みができた麻袋は二人がかりで運び出されていく。
 見上げた教官の顔は、ちょうど陰になっていてよく見えなかった。

教官曰く、マドゥライが発狂したのは戦場あるいは軍事訓練に対する過剰なストレス反応らしい。彼の行先は教えられなかった。それはやっぱり僕らが想像を巡らせていいものでもないのだろう。
 脱落者が出たとして、僕らのすべきことも日常も変わらない。
 起床のベルとともに飛び起き、勉強と訓練に勤しむ。歴史を学び、計算問題を解き、AKを担ぎ、引き金を引く。プーチを見たら人と思うな。徹底的に殺せ。完膚なきまでに殺せ。
「ねえカルップ。歴史のテスト、満点だった!」
 僕は部屋に戻るやその日の成果をカルップに報告する。いい報告のとき、カルップは上体を仰け反らせて喉を鳴らし、悪い報告のときは悲しげに息を吐く。その微妙なニュアンスの違いを僕は正確に理解している。
 僕は赤い鉛筆で丸だけがついた答案用紙をカルップに見せる。カルップは地面を擦って近寄ってくる。頭を撫でられたカルップはもう一度長く細く喉を鳴らす。僕はカルップに合わせて歌を口ずさむ。

ああ、母なる大地
 ああ、母なる大地

僕はメロディに合わせてからだを揺らす。カルップはメロディに合わせて喉を鳴らす。ヴゥ、ヴヴゥ。カルップは頭を横に振っている。

神より賜りし稲穂と果実
 輝き満ちた山々に祈る
 我らタンジャヴール 誇り高き神の子よ

僕は歌い終える。僕もカルップもご機嫌だった。答案用紙を丁寧にしまい、ひよこ豆の缶詰を皿に開ける。カルップはまだ頭を振っていたから、僕はもう一度歌を歌った。

ああ、母なる大地
 ああ、母なる大地
 神より賜りし叡智と炎
 鋼鉄を身にまとい大海を渡る
 我らタンジャヴール 誇り高き神の子よ

ヴヴゥ、ヴヴゥ。カルップが喉を鳴らす。カルップはずっと僕が歴史を熱心に勉強しているのを見ていたから、まるで自分のことのように喜んでくれていた。
「お前が喜んでくれて嬉しいよ」
 僕はカルップを撫でながら皿を差し出す。カルップはまだ頭を振っていたけれど、やがて疲れたようにぐったりと伏せながら餌を食べ始める。
「カルップ、僕は必ず一人前の戦士になるよ。プーチを殺しまくって、タンジャヴールの国を取り戻すんだ」
 カルップが首を捻って僕を見た。半開きの目に、口元だけで笑う僕が映っている。

片膝を立てて照準し、AKの引き金を引く。肩に伝わる反動の余韻もそこそこに、僕は木の陰に身を隠す。紙一重でラバー製の銃弾が飛んできて、昨晩の雨で柔らかくなっている地面を次々と抉っていく。
 僕らは実戦演習に臨んでいた。敵味方に分かれ、追撃側が撤退側を追いかける。撤退側は自陣に合流すれば勝ちで、僕ら追撃側は撤退側を全滅させれば勝ちになる。撤退側がAKやトラップで反撃してくることとお互いの装備が本格的なことを除けば、村でよく遊んでいた鬼ごっこギニハンギーマに似ていた。
「無理だよ。進めねえって!」
 分子機械チンナ・ヴァンディを経由して、耳のなかに直接ニーランの声が流れ込んでくる。視界の表示で確認できるニーランの心拍は一三〇。分子機械チンナ・ヴァンディが僕らを理想的な戦士に導くことは間違いないが、その効果には多少個人差があるらしい。
「落ち着け。ラバー弾だから当たっても死なないよ」
「あれめちゃくちゃ痛えんだよ!」
「パンディヤ神の教えによれば、一生で当たる弾丸の数は決まってる。つまり訓練でたくさん当たっておけば、実際の戦場では弾が当たらなくなる」
「教義をでっち上げるんじゃねえよ」
「でも少し落ち着いただろ」
 少々不敬でも、僕らが立派な戦士になるためならパンディヤ神もきっと大目に見てくれるに違いない。
 僕は素早く前を向き、銃声の方角に向けて引き金を引く。低い体勢で駆け出して、数メートル先にあった地面のくぼみに飛び込む。僕の頭上を銃弾が通り過ぎていった。
 そのまま待っているとくぼみにニーランが飛び込んでくる。どうやら左肩を打たれたらしく涙目になっている。ちなみに実戦演習では、命中判定が入ると分子機械チンナ・ヴァンディが反応して撃たれた部位が動かなくなる。だからニーランは左腕をだらりとぶら下げていた。
「泣くなよ。死ぬまでは頑張れ」
「不吉なこと言うな! 死亡判定されるとな、独りぼっちで辛いんだぞ」
「じゃあ死ぬな。行くぞ」
 僕らは相手の銃撃の合間を縫ってくぼみから飛び出す。さすがに片手ではAKを撃てないので、ニーランは副装備の拳銃に武器を持ち替えている。
 走り出して間もなく、ニーランが撃たれた。悲鳴を聞いて振り返ると、ニーランはほとんど崖みたいな急斜面に向かって転がっていた。ラバー弾では死なないが、それ以外の事故はさすがの分子機械チンナ・ヴァンディでも僕らを守り切れない。
 僕は腰を落として方向転換――腕を伸ばし、ニーランの襟を紙一重で掴む。
 重心を後ろに倒して踏ん張る。かかとが柔らかい地面を抉る。僕は空いている手で垂れ下がっていた蔓を掴む。急斜面寸前で僕らはぴたりと静止した。
「あっぶねえ……助かった」
「ニーラン、お前ほんとに足手ま――」
 側頭に衝撃。僕は一瞬、首が折れたのではと錯覚した。全身から力が抜ける。命中判定――しかも頭だから即死だ。前のめりになった僕のからだは動かない。目を見開いたニーランと地面が近づいてきて、僕の意識はふつりと途切れた。

鼻の奥をつつく薬品の臭いが、僕の目を覚まさせた。薄呆けた視界には灰色の天井が見えて、中心では剥き出しの電球が揺れていた。分子機械チンナ・ヴァンディが動き出し、拡張現実を読み込んでいく。
 右のすね骨と上腕骨が折れ、肩鎖関節が脱臼していた。僕はからだを数字に置き換えていく拡張現実を眺めながら、自分に何が起きたのかをすぐに整理した。
「おはよう。目が覚めたかね」
 ベッド周りに掛かっていたカーテンが開いて、白衣を着た男が姿を見せた。男の頭の上に名前と〈医務主任〉という肩書きが浮かんでいた。僕はからだを起こそうとしたけど右足と右手は太い金属で固定されていて、半身が動かないというのは想像以上に不自由なんだと理解させられただけだった。
「痛みはないだろうが安静に。分子機械チンナ・ヴァンディが脳に作用して鎮静作用のある神経物質を出させているだけだからね」
 ベッド脇の丸椅子に腰かけると、医務主任は僕にいくつかの質問をしていった。僕は自分の名前や所属などを訊かれるがままに答えた。話している最中、ずっと小さく耳鳴りがしているような気がした。けれど僕は耳鳴りのことは黙っていた。少しでも元気な自分をアピールしなくてはいけないと思ったからだ。
「同胞を助けるというのは、尊い行いだ。君が無事でよかった」
「僕はどれくらいで復帰できるのでしょうか」
「もう復帰の心配かね。いい心がけだが、何度も言うように無理はしなくていい。今はゆっくり休み、怪我を直すことが最優先だよ」
 医務主任はそう言ったけれど、焦らないほうがどうかしていた。けれど医務主任が言った通り、焦ったところで休む以外にできることは何もなかった。
 太陽が西の山に沈み始めて訓練が終わったころ、医務室にニーランが訊ねてきた。様子からして、訓練終わりに僕が目を覚ましたと知って急いで来たらしい。両手には二本のリードが握ってあって、それぞれにカルップとブリハディが繋がれていた。僕らの様子を察した医務主任は煙草を咥えて席を外した。
「すまなかった」
 目が合うや、ニーランは包帯を巻いている頭を深々と下げた。いつものように軽石みたいな浮ついた調子ではなく、震える声は低く鈍重だった。
「勝手に助けて勝手に怪我したんだ。気にするな」
 ニーランが軽いはずの頭を重たそうに下げ続けているから、逆に僕が軽はずみな調子で喋らなければいけないような気がした。既に起きてしまったことはどうしようもない。もし僕がニーランを怒鳴り、詰り、罵ることで怪我が治るなら喜んでそうしたけれど、そうならないことはよく知っていた。
「カルップ」
 僕はカルップを呼んだ。ニーランの手からリードが離れ、カルップがベッドの左側から僕に近寄ってくる。からだを起こし、なんとかよじ登ろうとしているのをニーランが押し上げて助けてやっていた。
 カルップは僕の怪我を気遣ってか、からだの左側に寄り添ってきた。僕は左手でカルップを撫でた。温くて甘くて生臭い息が顔にかかった。僕はいつも通り顔をしかめたけれど、たった一日離れていただけで懐かしくさえ感じられる臭いに安心したのか、思わず口元が綻ぶのを感じていた。
「お前は本当に甘えんぼだな」
 僕はカルップの頬のあたりに顔をぐりぐりと押し付ける。カルップが喉を鳴らして身をよじる。元気が有り余っているのか、それとも僕にじゃれるのがよほど嬉しいのか、カルップはベッドから飛び降りるとすぐに上体を仰け反らせて後ろ足で立ち上がる。カルップの姿が僅かに歪む。耳鳴りはいつの間にか大きく、そして鋭くなっていた。
 僕は目をこすり、こめかみを揉んだ。けれど歪みはひどくなった。カルップの茶色いからだには砂嵐のようなノイズが走っていた。
 視界は遠近感を失っていった。――正確には、目の前にいるカルップだけがのっぺりとした出来損ないの絵のように、立体感を失っていった。間もなくノイズはカルップの全身を覆い、歪みはその平坦な絵を捩じ切っていった。
 そうやって、ひずんだカルップがノイズによって暴かれた。
「――おぇえええっ」
 気がついたら吐いていた。それは理屈ではない。生理的嫌悪だった。僕の本能が不快感に逆立っていた。
 は人だった。少なくとも辛うじて人だろうと判断できるくらいには人だった。
 人のからだに本来あるはずのあらゆるおうとつを失くすように、これでもかと太らされたからだはまるで手足の生えた芋虫のようだった。辛うじて人らしさが残る四肢も膝から下と五本の手指は断ち切られていて、焼くことで強引に塞いだ傷口はひどく膿んでいた。喉には切り裂かれたあとで乱雑に縫合されたような縫い目があった。ヴゥ。が吐き出すよく聞き知った音は、縫い目から時折漏れる息の音だった。
 吐き気が収まらなかった。耳鳴りはひどくなり、脳が縮んだり伸ばされたりしているような酩酊感があった。
 おい、大丈夫か⁉
 歪んで遠退いて捻じれて聞こえるニーランの声はたぶんそう言っていた。ニーランは僕の背中を擦った。その手はついさっきまで人間芋虫を撫でていた手だった。二匹の人間芋虫は僕をじっと見つめていた。
 平たい顔、茶色い目、浅黒い肌。人間芋虫は生き物としてあまりに歪すぎるけれど、それと分かる特徴だけははっきりと残されていて、混乱のなかで思い至ってしまった事実に僕はまた吐いていた。けれど胃の中身はもう残っていなかった。
 イドゥはプラバカラン山岳地帯の生き物なんかじゃない。
 
 つまり僕らはずっと、人間プーチを飼育させられていた。
 半開きになったままの口から流れ出るよだれを拭う。浅くなる息を整えようと深呼吸を繰り返す。イドゥを撃ち殺してしまったマドゥライが脳裏を過ぎった。彼はきっと気づいていたのだろう。そして気づいたことに気づかれた。だから僕は、たぶん自分が気づいたことを誰にも気づかれてはいけなかった。
 プーチがヴフゥと空気を漏らした。医務室には耐え難い生臭さが漂っている。

鎮静剤で再び眠らされていた僕は慎重に薄目を開けた。閉め切られたカーテンの向こうで、医務主任と教官が話している声が聞こえたからだ。
 まだ耳鳴りは続いていたけれど、さっきよりはいくらかましになっていて、僕は神経を尖らせながら聞き耳を立てた。
「――ええ。またかとは思いましたが、撃たれたのが頭でしたから混乱もあったのかと」
「しっかり頼む。ラバー弾程度で不具合が起きるなら、製造元にクレームを入れなきゃいけなくなる。それに、他の訓練生に吹聴でもされたら面倒だ」
「ひとまず経過観察でいいでしょう。それにもしそんなことになっても、誰も信じませんよ。が見せるイドゥは気味悪いくらい精巧です。私たちだって、真実を知らなきゃついうっかりイドゥなんて生き物がいるような気持ちになる」
 僕は息を殺しながら、ついさっき目の当たりにしたことが夢ではなかったことを理解した。いや、本当は最初から分かっていたけど、できれば夢であってほしいと思っていた。僕らは分子機械チンナ・ヴァンディによって、プーチをイドゥだと誤認識させられていた。
「それにしても、よくこんな面倒なことをしますよね」
「いくら口でプーチが人ではないと教えたところで、目の前で命乞いをされ、家族の写真でも見せられれば気持ちは揺らぐ。だが、奴らをペットとして飼い慣らし、深層心理にまで擦り込んでおけばそうはならない」
「サブリミナル効果ってやつですか」
「難しいことは知らん。今のは上官の受け売りだ。だが農場の豚や羊がどれだけ命乞いをしたって、俺たちは殺せる。つまりはそういうことなんだろう」
「教官は農家の出でしたね」
「土地を政府に買い叩かれて追い出されたから、大昔の話だ」
 そこまで聞いて、僕は目を閉じた。眠ってしまえばこの目で見たこと、今聞いたことのすべてを忘れられるかもしれないと思った。けれど目を固くつむればつむるほど頭は冴えていくばかりで、まぶたの裏には醜悪な人間芋虫が蠢き続けていた。

二週間が経って松葉杖があれば歩けるくらいに回復した僕は、みんなが訓練に出払っている昼間の時間を見計らって医務室を脱け出した。
 久しぶりの自室にはカルップだったものが当たり前のように居座っている。それは膝から下のない脚を引き摺りながら近づいてきて、僕のすねのあたりにからだを擦りつけてくる。
 僕は動くたびに揺れる肉を眺めている。一瞬動かした手を止める。指のない手がぺたぺたと僕の膝のあたりに触れている。僕を見上げる茶色い目から涙が流れて頬を伝っていた。
 じゃれて甘えているのだと、いつも僕は思っていた。
 けどそれは違った。僕は今向けられているその目をよく知っていた。それは連行されるマドゥライが僕に向けた視線で、助けてくれという懇願だった。
 心なんて通っていなかった。分かった気になっていただけだ。僕は助けてくれと縋り続けるそれに、タンジャヴールの歌を聞かせ、プーチを殺す決意を語った。
 どうしようもなく身が竦む。僕はいつの間にか残虐に加担していた。
「僕はどうしたらいい」
 別に求めていたわけではないけれど、答えが返ってくることはない。行先のない無為なことばは部屋の渇いた空気にたゆたって消えた。
 沈黙を埋めたくて、僕はわざと音を立てながらひよこ豆の缶詰を皿に出した。するとカルップの意識が向かう先はあっという間に僕から餌へとすり替わる。その単純さは損なわれた人間性の証のように見えた。床に皿を置くと、カルップは飛びつくように餌を食べ始めた。
「なあ、お前はプーチなんだよな」
 僕は訊いた。プーチという言葉に反応して向けられた茶色い目は焦点が合っていなかった。さっきまでの懇願は表情から消え失せていて、代わりに恍惚の陰が差していた。半開きの口から、よだれと混ざったひよこ豆がこぼれて床を汚した。
 僕は餌を取り上げた。鼻を近づけて匂いを嗅いだ。小指で掬って舐めてみた。ひよこ豆の味だ。けれどもうひと掬い、今度は少し多く舐めてみると、からだがにわかに熱を持ち、同時に冷えていき、また痺れていくのを感じた。一方でいつもの部屋の彩度が鮮やかになり、窓の外の葉擦れの音すらはっきりと聞こえた。それはただのひよこ豆ではなかった。
 僕は口に手を突っ込み、たった今口にしたひよこ豆を床に吐きだす。それに機敏に反応したそれは肉を弾ませて、僕の吐いた餌をあっという間に貪っていく。
 その様子が異常なのは明らかだった。たぶんイドゥの餌には薬物が入っていて、それがイドゥの、つまりはプーチたちの正常な判断力を損なわせていた。
 哀れだ。
 そう思ったら、けっきょく僕は今朝決めた通りにベルトのあいだに挟んでいた拳銃を抜くほかになかった。
 プーチは殺さなければいけない。そして、僕はカルップを解放してやりたかった。
 もう正しさはどこにもなかい。タンジャヴールの戦士の理想はただの幻想だ。
 プーチは貶められた人間で、カルップは僕の大切なペットだった。終わらせるなら、それは僕の引き金であるべきだった。
「……おかしいな」
 手が震えていた。視界は滲んでいるのにカルップの呆けた顔ははっきりと見えていた。
 ヴフゥ。定まっていなかった視線にほんの一瞬だけ正気が戻り、カルップが頷いたような気がした。
 僕は落ちるようにその場に座り込んだ。
「おかしいな……おかしいよ……」
 カルップは僕を見ている。咎めるわけでもなく、寄り添うわけでもなく茶色い瞳に僕を映している。
――我ら誉れ高きタンジャヴールの戦士、鋼のごとき意志を貫きプーチの穢れを雪ぐ
――プーチを見たら人と思うな。奴らは虫けら。徹底的に殺せ。完膚なきまでに殺せ
 何百回と繰り返してきた言葉は僕の耳にこびりついている。毎朝僕を起こしてくれたカルップの少し高すぎる体温を手のひらが覚えている。

「ここでお別れだ」
 息を潜めて宿舎の裏手に出た僕は、後ろについてきているカルップを振り返った。カルップは不思議そうに、あるいは不安そうに僕を見上げている。僕はしゃがんで目線を合わせる。カルップの首に青いひもを括りつけ、折りたたんだメモ用紙を挟んだ。生臭い息が頬を撫でた。
「さあ、行けよ。お前はもう自由だ。この山を下れば町があるはずなんだ。運がよければ同じプーチに助けてもらえるかもしれない。……それにタンジャヴールだって、みんなが僕らみたいなわけじゃないんだ。だからきっとお前のことを助けてくれると思う」
 僕はカルップを殺せなかった。プーチは殺さなくちゃいけないのに、僕はカルップを助けたいと思ってしまった。
 だから僕はカルップを逃がす。直接助けてやれなくても、助けられるための自由を与えることは僕にもできた。
「もうお前はひよこ豆以外だって食べられるし、スモウを取らされることもない。親兄弟や親戚にだって会いに行ける。自由なんだよ」
 僕は踵を返し、宿舎に向かって歩き出す。
 ヴゥー…………。
 カルップが鳴いた。細く長く鳴いた。僕は裏口の前で立ち止まった。けれど振り返らなかった。やがて枝が折れ、落ち葉が引き摺られていく音がした。カルップは歩き方が独特だから、足場の悪い山道は歩きづらいかもしれない。それでも、このまま虐げられ続けるカルップを手元に置いておくことはできなかった。
 日が暮れていく。僕は医務室に戻らなくてはいけない。
 宿舎に入る直前、ほんの一瞬だけ後ろを振り返る。もうカルップの姿は見えない。いや、僕はカルップのことなんて一度だって見てはいなかったのかもしれない。風の音に紛れて、名前も知らないプーチのなき声が聞こえた気がした。

翌日の朝、医務室にいる僕の代わりにカルップに餌をあげようとしたニーランが部屋を開けたことで、脱走が発覚した。
 予定されていた訓練はすべて中止。総員でのカルップ捜索が始められた。僕は当然、教官に詰め寄られた。
「お前だけが残っていた宿舎で、お前のイドゥが脱走した。お前以外の誰が脱走させられる?」
「知りません。自分は医務室にお」
 教官の拳が僕の胸にめり込んでいた。肺から空気が絞り出され、喉がヴゥと鳴る。僕はからだをくの字に折って突っ伏して、床を舐めながら空気を貪る。
「口ごたえを許した覚えはない!」
 降り注ぐ怒声が僕の背中を踏みつけている。そう思ったらすぐに髪を掴まれた。教官の値踏みするような視線が、僕の目を覗き込んでいた。
 教官は僕のを疑っていた。それはつまり分子機械チンナ・ヴァンディが正常に作動しているかを確かめていた。もちろん目を覗き込むことで脳が見せる拡張現実が正常かどうかを確認することなんてできるわけがなかった。
 医務室の扉がノックされた。別の教官が部屋に入ってくる。
「七番たちのチームが見つけたようです」

 僕は髪を掴まれたまま広場へと連れていかれた。カルップの捜索に出ていた同胞たちの半分くらいは既に戻ってきていて、広場に現れた僕を怪訝そうに見ていた。
「戻ってきました! あちらです」
 左側に広がる森のなかに人影が見えた。うち後ろにいる一人はニーランで、他二人の同胞が太い木の枝に縛り付けた肉塊を重たそうに運んでいた。
 肉塊には僕が括りつけたひもだけがぶら下がって揺れている。開けられた無数の穴から、黄色と赤の汁が混ざり合いながら染み出している。
 教官が僕を地面に投げ出し、僕は転がった。顔を上げると、肩に担いでいた肉塊を下ろしてしゃがんだニーランが僕を見下ろしていた。
「これで貸し借りなしだぜ」
 ニーランが白い歯を見せて笑う。ニーランの手に叩かれた肉塊はぴくりとも動かず、茶色い目には正気も狂気も宿ってはいなかった。
 滲み出した血が地面を伝い、僕の手を濡らした。それは僕に流れる血と同じ色をしていた。

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