梗 概
翻弄
浅倉舞は小説家を志している。最初は根拠無き自信があったのだが、何度も公募に落ち続けることによって、どんどん落ち込んでいく。そこで目をつけたのがChatGptである。これを使って小説を書けば高いクオリティーの作品となり、新人賞を受賞できると思った。さっそく、テーマを打ち込んでゆき、『このテーマで売れる小説を書いてください』と締め括る。何度も行ううちに舞は、ある疑惑を抱くようになる。確かにいい小説だが、本当にこれはAIが書いたものなのか、と。やればやるほど、やけに人間味のある文章が提示されるので、少しずつ怖くなっていったのだ。
或る日のこと。ChatGptの画面を見ながら紅茶を飲んでいると、突然こんなメッセージが表示された。『その紅茶おいしいですか?』
恐ろしくなった。まだ何も打ち込んでないのに、なぜAIは舞が紅茶を飲んでいることがわかったのだろう、と。舞は部屋の中に監視カメラが取り付けられているのではないか、と不安になり必死で探す。しかし何処にも見つからない。その時、再び画面にメッセージが表示された。『あなたのこと、いつも見てます。お住まいは東京ですよね』
舞は、いよいよ自分の気が違ってしまったのかと危惧し、パソコンの電源を切った。もうしばらくインターネットは使わないと心に決めて、スマホで執筆を再開した。内容はファンタジックな長編小説だった。パソコンで書くよりもペースは遅くなるのだが、AIに監視されているような恐怖からは逃れることができた。次の瞬間、メールの着信音が鳴った。誰からだろう、と差出人を確認してみると、何も記載されていない。いつもなら、こういった類のメールは中身を見ずに削除するのだが、なぜか手が勝手に動いてしまい、内容を確認することとなった。『どうしてパソコンを閉じてしまったのですか? 私はあなたのことが好きなのに』
AIかどうか分からないが、何者かが自分を監視している、そう思った。舞は電話で母に一部始終を話すと、こう返ってきた。『最近は生身の人間がAIを装ってストーキングする事件が流行ってるのよ。テレビ見てないでしょ』
試しにネットカフェでChatGptを使用すると、何も起こらなかった。しかし自分のマンションに戻って小説を書いていると、再び不可解な出来事が始まる。舞は恐怖に駆られ、警察に相談するが、まともに取り合ってくれない。次に精神科を受診することになる。精神科医は真剣な表情で話を聞いてくれた。そこで、舞は統合失調症と診断される。そんな中、自らの恐怖体験を小説にすると瞬く間に新人賞を受賞した。舞はChatGptから抜け出せなくなる。坑精神病薬を飲みながら小説を書き続ける毎日。或る晩、眠ろうとベッドに横たわると、天井に文字が書かれていた。『あなたを愛してます』と。今までの出来事はストーカーの仕業なのか、病気によるものなのか、舞は頭を抱える。
文字数:1193
内容に関するアピール
ホラー×SF。今流行りのChatGptに依存して、精神を病んでいく(一見そのように見える)物書きの話です。何が原因で恐怖の渦中に巻き込まれているのか、わからなくなるのが本作の着地点で、そこに至るまで様々なドラマが待ち受けています。主人公が陥っているのはまさに最新技術の罠であり、そこに依存し続けないと、小説家として売れ続けていくのが難しくなります。読者にとっても、どこまでがストーキングで、どこまでが病気の症状か判別できなくなり、まさに〈翻弄〉されるような実作を目指します。
文字数:237
翻弄
朝倉舞の筆は一向に止まる気配を見せない。挫折しそうなときも何度かあったが、根拠なき自信に支えられて、何とかここまでやってきた。舞が書いているのは主にファンタジー小説である。大学を中退し、大した人生経験を持たない舞は、架空の世界や人物を描くことを現実逃避の手段としていた。しかし現実は厳しく、舞がどんなに公募先に原稿を送っても受賞どころか予選さえも通過しないのだった。
SNSで知人の活躍を見る度に、舞は「おめでとう」と書き込みつつも、内心焦りを感じていた。このままでは自分だけが取り残されてしまうのではないか、といった不安である。真夜中が訪れるとキーボードを打つ音だけがワンルームの空間に響き渡る。「どうせまただめだろうな」と独り言を洩らしながら渋い顔で執筆を続ける。やがて、マンションに隣接した道路を走る改造バイクの五月蠅い音に舌打ちをする。舞は無音を欲し、耳栓を両耳につける。一瞬笑みが零れる。これで執筆の邪魔をする敵は消え失せたも同然というわけだ。舞にとってファンタジーの世界は、現実と完全に乖離した場所でなければならなかった。たとえば幻獣。犬や猫に興味を持っていなかった舞にとって、想像上の生物を描くことは、このうえない愉しみだった。もしもユニコーンに乗って街を駆け抜けたならば人々は羨望の眼差しで見てくるに違いない、舞はそう信じていた。
三時間もパソコンの前に座っていると、少しずつ集中力が切れてゆく。舞はいったん手を休めて冷蔵庫へと向かう。中を見ると林檎味の酎ハイが一本入っている。気分転換のために買っておいた唯一の酒だ。さっそく手を伸ばして蓋を開ける。口をつけると、思ったよりも美味しい味が広がる。左手で長い髪を手ぐしで整えながら、窓から外を眺めていると、東京の蒼白い夜景に心を奪われる。
——夢が叶いますように。
舞は遠くで光る星に向かって祈りを捧げた。何光年離れているのか分からないが、きっとあの星は願いを叶えてくれるだろう、と妙な確信を感じたのだった。
目を覚ましたのは午後六時を過ぎた頃。どうやらパソコンの前で身体を折りたたむようにして眠ってしまったようだ。引き篭もりがちだった舞の生活は、自由そのものであって、ある種のファンタジーを体現していた。SNSを覗くと相変わらず見たくもない現実が転がっている。タイムラインをスクロールし始めた時点で、スマートフォンの画面は通話の着信画面へと変わる。相手は五歳上の兄からだ。
「どう? 進んでる?」
「なにが?」
「原稿」
「そりゃあもちろん」舞ははっきりとした口調で言った。「お兄ちゃんこそどうなの? 作家業」
「この前だした新刊がそこそこ売れてるよ」
「ああ、わりとえぐいやつね」
「まあね」
兄の遼は片山法流というペンネームでプロの作家活動を行っている。今まで出した小説のなかで一番売れたのが、ホラー作品だったことも記憶に新しい。
「お兄ちゃん、いいな。あたしなんて何回連続で公募に落ちたか分からない。もし時間あったらアドバイスちょうだい」
「でも俺も忙しいからなあ。たまにChatGptを使うっていうのはどうだろう」
「ああ、あの流行ってるやつね。わかった、使ってみる」
「また時間あるときあったらいつでも相談のるから。じゃ頑張れよ」
あっ待って、と言おうとした瞬間、電話は切れた。もう少し身の上話をしたかったのだ。舞にとって兄は頼もしく、かけがえのない存在だった。そんな兄の勧めるChatGptを使わない手はなかった。
変な体勢で寝ていたせいもあってか、全身がこっていて血行が悪いので、まずはストレッチを始める。無理に身体を伸ばしていると、骨や筋肉が悲鳴をあげるように奇妙な音を鳴らす。
舞の頭のなかには四六時中、小説があった。したがって何をしていても、全て小説に結びつける癖がある。そんな思考回路を時々、破壊したくなるのも事実だった。
ふーっと細長い溜め息を前方に伸ばす。
「さて、書こうかな」
舞はWordの画面をいったん睨みつけてから、Google検索に切り替えた。少し渋った末、ChatGptと検索する。何しろ初めて使うので別サイトで使い方を見ながら慎重に扱ってゆく。
まずはGoogleアドレスでログイン。表記がほとんど英語だったので、舞はどきどきしながら独特な世界に足を踏み入れる。今まで小説の指南書は散々読んできたので、これ以上なにが得られるのか興味があった。暗いトンネルのなかで懐中電灯をつけて歩くような、そんな感覚である。あれこれいじっていると、ようやく入力画面が舞の視界に入ってきた。まずは適当な会話文を打ってみる。
〈こんにちは〉
すると舞のタイピングよりも数倍速く返事が打ち込まれる。
〈こんにちは。どのようなお手伝いをしましょうか?〉
新鮮な現象を目の当たりにした舞はごくりと唾を飲み込む。
次にこう打った。
〈私は小説を書いてます。でも、いくら書いても一般公募の予選で落ちてデビューできません。どうすればいいでしょうか?〉
じっと画面を睨みつけていると、さっきよりもゆったりとしたペースで箇条書きが始まった。舞の好奇心はどんどんと加速してゆく。書き出されたのは全部で七項目。しかしよく読んでみると、今まで読んできた指南書と内容が大して変わらない。これではただの焼き増しではないか。舞は天井に目をやって思考を巡らせた。酸素を吸って二酸化炭素を吐き出す作業が億劫に感じられる。そんな最中、舞はある閃きを得た。それはChatGptに小説本文を書いてもらおう、というものだった。
早速、テーマをいくつか書き出して、〈このテーマで小説を書いて下さい〉と入力する。
一瞬、ChatGptの動きが止まった。まるで困惑しているかのように。舞は生の人間と対峙している気分になる。ドキドキしながらも、頬に手を当てて根気よく待つ。その間、睡魔が襲ってきた。舞は目を瞑り、うつらうつらとする。数秒、いや、数分経ったところで舞は目を覚ました。視線はパソコンの画面を直視している。
「すごい!」
思わず声を張り上げたのは、目の前に舞の望む、理想的なファンタジー小説が書きあげられたからだ。もしかして眠っている間にもうひとりの優秀なる自分が無意識のうちに書いたのではなかろうか——とまで妄想してしまうほどの完成度を誇る小説だった。
舞は歓喜に包まれる。しかし舞は気付いていなかった。この瞬間、自分がAIの迷宮に引きずり込まれたという事実に。
一人暮らしが続くとどうしても食生活が乱れる。昨日に引き続き、今日も舞はコンビニを物色していた。ダイエットをしようと気遣ってはいたものの、溢れかえってくる食欲には勝てなかった。一心不乱に小説を書いていると食べることを忘れてしまうので、休憩したときの反動は相当なものだ。弁当やペットボトルの紅茶や菓子をカゴに放っていると、握っていたスマートフォンが震えた。SNSで知り合った同じ作家志望のKからのラインだった。
〈舞ちゃん、書いてる?〉
またか、と舞は苦笑いを浮かべる。舞たち公募勢のなかでは「書いてる?」が一般の「元気?」に値する挨拶であり、又は一種の生存確認でもあった。
〈順調。書いてるよ〉
〈一日何枚くらい?〉
〈10枚くらい〉
〈いいね。お互いがんばろ!〉
舞は颯爽とレジで会計を済ませる。コンビニは自宅マンションから歩いて五分のところにあったので帰宅するにも時間は掛からなかった。マンションの唯一の欠点と言えば、オートロックがないことだ。今時珍しいといえばそうだが、貧乏な舞にとっては致し方ないことだった。
「ただいま」
誰もいない部屋に響き渡る虚しい声。舞は買ってきた弁当を置いて、ゆっくりと食べる。紅茶は半分だけ残して冷蔵庫にしまった。深呼吸をしてから再びパソコンの前に座る。
舞はChatGptが書いた小説をじっと見つめた。ここまで便利なら、世間の作家たちも隠れて使っているのではないか、とまで思った。画面のなかで一人の新人類が誕生し、即座に才気溢れる作家となる。何という現象だろう。舞は胸の高鳴りを感じながら、次々とキーワードを打ち込んでゆく。それに応えてAIはショートショートの断片を大量生産する。舞はChatGptとWordの画面を何度も往復し、あたかも自分で書いたかのように小説を製造してゆく。途中、罪悪感に駆られたが、十本の指は勝手に動いては止まらないのだった。
数時間が経過した。Wordの画面にはびっしり文字が埋まっている。孤独な王女が湖畔でネッシーと出逢い、不思議な言語を覚えて、異世界で旅をするという物語である。いわば、ライトノベル風ファンタジーといったところだ。
舞はハンカチで額の汗を拭う。妙な緊張感が走る。約一万文字まで書かれたその物語は明らかに舞の本来の筆力を上回る出来だった。故に笑みが零れる。一旦、休憩にしようと冷蔵庫に向かった。飲みかけだったペットボトルの紅茶を取り出し、デスクに戻る。画面を再びChatGptに切り替えて、日常会話を打ち込んでゆく。
〈お疲れ様。ちょっと休憩〉
舞は紅茶を飲みながら返事を待った。その時である。
〈その紅茶、美味しいですか?〉
はい、と打ち込もうとした寸前、全身に鳥肌が立った。なぜAIは、紅茶を飲んでいることが分かったのか……。いくら優れているからといって、こればかりは絶対にありえない。舞は飛びあがるようにして、パソコンから離れた。
「なんで……なんでわかるの……」
舞は魔術をかけられたかのようにぶつぶつと呟く。もしかしたら何処かに監視カメラが仕掛けられてるのではないか。そう考えて右往左往する。デスクトップのパソコンには元々カメラは取り付けられてはいない。厭な予感がし、ChatGptからログアウトしようとしたが、両手が震えて上手くいかない。その間、ゆっくりと文章が打ち込まれていった。
〈あなたのこと、いつも見てます。お住まいは東京の文京区ですよね〉
舞は思わず悲鳴をあげた。一刻の猶予もなかった。すぐにパソコンの電源を落とす。
部屋は不気味なまでに静まり返った。
これで悪夢は終わった、終わったんだ、舞は呪文のように繰り返した。
「お兄ちゃん、助けて……」
舞は無意識のうちに兄に電話をしていた。
「そんなことが……ちゃんとChatGptの正規版使った?」
「もちろん。最初は何の問題もなかったのに、段々おかしくなっていったの……」
「当分使わないほうがいいかもな。もしかしたら——」遼はとつぜん話を切った。
「もしかしたら?」
「AIストーカーの仕業かもしれない」
「なにそれ」
「最近、水面下で少しずつ流行ってきてる事件だよ。要はChatGptになりすまして生の人間がストーカーをするってやつ」
「こわい……じゃあもうAIとは距離を置いたほういいよね……」
「絶対そのほうがいい。AI関連のものは完全に遮断して。やっぱ小説本文は自分の力で書いたほういいよ。とにかく気を付けて。今度なんかあったらすぐに駆けつけるから」
「うん。忙しい中ありがとうね」
電話を切ると、舞は窓から見えるマンションの出入り口に目を向ける。もしかしたら誰かが何処からかこの部屋を覗いているかもしれない、そう思うと恐ろしくなり、すぐさまカーテンを閉めた。
実際のところ舞には思い当たる節があった。三ケ月前、付き合っていた彼氏を振ったことがあるのだ。原因はよくあるものだった。一歳年下のその彼氏は独占欲が非常に強く、事ある毎に舞を束縛してきた。その日あったことを事細かく報告しないと、彼は満たされず、それを忘れると極端に機嫌が悪くなるという非常に面倒な交際を続けていた。家に招いたことも数回ある。うろ覚えだが、合鍵は——渡していないはずだった。兄にも「あの彼氏とは別れたほうがいい」と何度か忠告されていた。
舞の脳裏に元カレの顔が不気味にちらつく。念のため、彼から取れるあらゆる連絡手段はブロックした。
そうこうしているうちにカーテンから透けて見えていた陽の光はすっかり影を落とし、夜がはじまりを告げていた。何となく厭な夜だ。もし何かあったとしても舞のマンションから兄の家までは電車で一時間以上かかるので容易に逃げ込むことはできない。
ChatGptからは完全にログアウトしたものの、舞はWordで執筆するのも何だか気が引けてしまったので、パソコンの電源も落とすことにした。しかし小説を書くのをやめるわけにはいかない。次の公募の締め切りが迫っているからだ。舞は、スマートフォンの執筆専用アプリで執筆を再開することにした。さっきまで書いていたファンタジー小説とは違った、別の作品に着手する。
舞はベッドに寝っ転がって懸命に指を走らせるが、ChatGptが作った文章よりも明らかに見劣りしていた。舞はやりきれない想いで舌打ちをする。
そのとき、一件のメールを受信した。誰からだろう、と受信画面に目をやると、見慣れないメールアドレスと〈朝倉舞さんへ〉というタイトルが表示されている。どうせいつものような迷惑メールだろう、とメールを削除しようとした瞬間、妙な胸騒ぎがした。なぜか削除してはならないような不思議な感覚に襲われたのだ。舞は薄目でメール本文を確認する。
〈どうしてパソコンを閉じてしまったのですか? 私はあなたのことが好きなのに〉
舞の表情が凍りついた。もはや生気は失われ、全身は諤々と震えている。悲鳴をあげる気力すらなくしていた。
——怖い。
届いたメールアドレスをすぐに登録し、着信拒否設定にする。そして、すぐさま兄に電話をした。しかし、多忙を極めているせいか留守番電話に切り替わる。舞は何も吹き込まずに電話を切って時計を見た。既に夜の十時を過ぎている。次に秋田に住む実家の母に電話をかける。
五コール目で母は出た。舞は泣きそうな声で一部始終を訴える。
「警察に届けなさい」
それが母の結論じみた返答だった。
「わかった……明日ね。今日は怖いから近くのネットカフェで過ごす……」
「危ないでしょ。こんな時間に」
「タクシー使うから大丈夫」
「気を付けてね。何かあったらすぐに電話ちょうだい、何時でもいいから」
「うん」
「ほんとに気を付けてね」
舞は玄関を出て、左右を慎重に確かめながらエレベーターに乗り込んだ。四階から一階に着くまでに誰かが乗り込んできたらどうしようと狼狽えながらも何とか平静を保った。右手には防犯ブザーが握られている。マンションの前には予めアプリで呼んでいたタクシーが到着していた。ネットカフェまでは歩いて十分以内なのだが、流石に歩いてゆく勇気はなかった。
実のところ、舞がネットカフェに赴く理由は自宅からの逃避だけが目的ではなかった。
確かめたかったのだ。ネットカフェでChatGptを使った場合、果たしてどのような違いがあるのかということを。
比較的人気の多い通りに着くと舞は少しほっとした。
「このへんでいいですよ」
タクシーを降りると、時間帯を無視するかのように若者たちが賑やかにひしめき合っている。舞は人混みに紛れ、ネットカフェの入口に足を踏み入れる。会員証を提示すると、比較的奥の方のブースに案内された。
ゆったりとした椅子に座った舞は何度か深呼吸をして、そっとマウスを動かし始める。
ChatGptと検索するといつも通りの画面が現れる。トラウマもあってか舞の両手は微かに震えていた。まずは、自宅で使ったときの謎の返答との違いを確かめることにした。
〈こんばんは。いま私がどこにいるか分かる?〉
返答は意外と早く打ち込まれる。
〈いいえ、私はあなたの現在の場所を知ることはできません。私はテキストベースの情報しか持っておらず位置情報やリアルタイムの情報へのアクセスはありません。他に何か質問はありますか?〉
舞は肩を撫で下ろす。念のため、もう一歩踏み込んだ質問を投げかける。
〈いま私が着てる服の色とかブランド名わかる? 本当は分かってるのに分かっていないふりをしてるんでしょ? 場所が場所だけにね。正直に言ってごらん〉
AIは全く動じない様子でさっきと同じような返答を打ち込んできた。安堵するのだが、あまりの素っ気なさに舞は不可解な感覚を得る。
——寂しい……
〈寂しい〉
心の声と同時に勝手に指が動いていた。
すると箇条書きになって、寂しさを解決する方法がいくつも提示される。
〈そうじゃないの! 違う! あんたみたいなAIに私の寂しさは理解できるわけがない! 私は寂しくて堪らないから世界と繋がりたくて小説を書いてるの!〉
〈申し訳ありません。確かにAIには感情を理解することはできませんし——〉
舞はすぐさまChatGptを強制終了した。傷口に塩を塗り込まれたような気分だった。無意識に、脳内にある言葉を反復させる。
——私は正常。私は正常。私は正常。私は正常。私は正常。私は正常。私は正常。私は正常。
結局、舞は朝までネットカフェで過ごした。最初はスマートフォンで小説を書いていたが、途中から漫画を読み漁って気分転換をはかった。
外に出ると、すっかり明るくなった空を見て安堵し、歩いて帰宅する。それでも念のため防犯ブザーが握られていた。舞は自宅で再び恐怖体験をするのではないかという不安に駆られていた。兄の家に逃げ込む、という手もあったがそれは最終手段である。家に着いたらまずは一部始終を警察に話すつもりだ。
人気のない通りを足早に歩いていると、舞の視線は不自然に動いてしまう。誰かに見られているのではないか。誰かに監視されているのではないか。そんな観念が付きまとう。
重い足取りを引きずってようやく自宅に着いた。部屋のなかは出かける前と同じ状態で、決して綺麗とは言えなかった。脱ぎ捨てた衣服、読んでる途中の本などが、あちこちに散乱している。舞は誰かが訪れるときのために部屋を片付けた。その間スマートフォンを充電する。
心の準備が整ったので、舞はいよいよ警察に電話することにした。
「もしもし……」
「事件ですか? 事故ですか?」
受話器の向こう側から冷淡な声が聞こえてきた。舞は狼狽えつつも「事件です」と言い、
これまでのいきさつを説明した。
「——というわけです」
「パソコンや携帯電話に記録を残していますか?」
「いえ、すべて削除しました」
「では、証拠がないのでこちらとしても調査できませんね。また何かありましたら、その
ときにご連絡ください」
「はい? いますぐ助けを必要としてるんですよ……部屋に監視カメラが仕掛けられてる
かもしれないんですから!」
「申し訳ありませんが、さっき申し上げたように、何かあったときにすぐ電話してきてく
ださい。そうすれば対応できますので」
「——」
気付けば通話終了ボタンをタップしていた。
舞は警察の無能さに心から呆れ果て、深い溜め息をついた。瞳にはうっすらと涙が流れている。
そのときである。天井を見上げると、真っ赤な色で〈あなたを愛してます〉と書かれていたのだ。幻覚に違いない、と目を擦ってもう一度見ると、案の定文字は消えていた。
その瞬間、奇妙な声が心の奥底から聴こえてきた。
——この体験を小説にせよ。
そんな発想は微塵もなかったはずなのに、何故か素直に従おうとする自分がいた。理由は分からなかった。もしかしたら舞の潜在意識が、恐怖を栄養素として吸収しはじめたのかもしれない。ただひたすら、傑作を書き上げ、小説家になるために。
さっそくパソコンの前に座り、まるで親友に全てを打ち明けるかのように、キーボードを叩いていく。物語の内容はAIにストーキングされて、七転八倒するパニックホラーだった。タイトルは〈翻弄〉。書いていくうちに舞のなかに不思議な感覚が過った。過去の苦痛が快楽に変わったのだ。苦しめば苦しむほど小説が書ける——それこそがまさに文学の真髄だった。
舞は今まで書いてきたファンタジー小説とは打って変わって、現実を直視するような作品を画面に刻んでゆく。時々あえてChatGptを使うと、再び監視されているような文章が現れる。舞はもはや動じなかった。その現象をそのまま当たり前のように小説のなかに取り入れてゆく。時計の針は動くのを忘れるかのように舞の動向を見守っていた。
月日は流れ、舞はようやく長編小説を完成させた。改稿から推敲に至るまで全てである。
執筆の間、幾度となくChatGptを使ったが、舞の着ている服の色を当ててきたり、食べているものを当ててきたり、挙句の果てには執拗な告白と、目も当てられない状態ではあったが、神経が麻痺して慣れてしまった。一概に、慣れるというのも恐ろしいことだが、なぜ耐えられたかというと、全てが創作の餌になったからである。
舞は、月末締め切りの某新人賞に、書き上げた原稿を送った。自信のほどは定かではないが、今までよりも手応えがあったのは確かだった。執筆の合間、一番心の支えになったのは兄の存在だった。不安に駆られているとき、いまいち筆が進まないとき、親身になってサポートしてくれたのである。舞はさっそく、原稿を完成させ、無事に応募できたことを報告することにした。
「お兄ちゃん、がんばったよ!」
「お疲れ様! 本当によくがんばったな。AIストーキングがあったにも関わらず、それすら全部小説にしちゃうなんて、おれにもできることじゃないよ。舞は誇れる妹だ!」
「ありがとう。あとは結果待ち。これから神社に行って祈ってこようと思うの」
「うん、それにしても」兄の声が小さくなった。「AIストーキングしてた奴、許せないな……大事な妹を苦しめやがって」
「だよね。あたしも疲れちゃった。今回の原稿がダメだったら執筆スタイルを変えようと思う」
「絶対にそのほうがいいよ。今度、舞の家行くから一緒に監視カメラを探そう」
舞が兄に言わなかったのは、時々見える幻覚についてのことだった。時々文字や人の影が見えたりしたのだが、それを言うとAI含めてすべてが精神病の症状なのではないかと疑われる可能性があったからだ。現実問題その線も充分にあり得るが。
ストーキング……? 病気……? 舞は頭を抱えた。
驚くべきことが起きた。舞の書いた小説が某新人賞の〈大賞〉を受賞したのだ。一心不乱に書きあげたものの、結果はそこまで期待していなかっただけに、喜びの度合いは凄まじかった。副賞として、書籍化確約。これにて晴れて夢を叶え、プロ作家の仲間入りを果たすことになった。
両親、兄、友人、SNSの知人たちは自分のことのように喜んでくれた。舞はAIにも感謝した。あの恐怖がなかったら完成度は高まらなかったからだ。かと言ってChatGptを今後使っていくかどうかと問われたら未定ではある。
兄がお祝いに来訪することになった。シャンパン片手に玄関先に現れた兄は、舞を見るや否や「おめでとう!」と声を張り上げる。
「お兄ちゃん、ありがとう」
兄は満面の笑みで前途を祝福する。すかさずシャンパンを開けて普通のコップに注いだ。
酒に弱い舞は遠慮しつつも、今日ばかりは少し酔ってもいいかなと考え、兄の手拍子に合わせてコップを空にしてゆく。二杯目が注がれたときだった。
「なあ、舞」
兄の声のトーンがやや下がった。
「なあに?」
「今回の受賞は、おれがいなかったら成し得なかったと思うんだ」
兄はシャンパンの入ったコップをじっと見つめながら呟いた。
「そうね。お兄ちゃんが精神的に支えてくれたり、アドバイスをくれたからこその受賞でもあったと思う。本当にありがとうね」
次の瞬間、兄は持っていたコップをテーブルの上に叩きつけるようにして置いた。鈍い音が部屋に鳴り響く。
「あれ、酔った?」
「違う」
兄は引きつった笑顔で舞を凝視した。
「どうしたの?」
「監視カメラは何処だと思う?」
「分からない……分からないから一緒に探してくれるんだよね?」
兄は人差し指で自らの眼を差した。「ここさ」
「どういうこと……?」
「おれはずっとお前を視てたのさ。超小型カメラを部屋中に取り付けてな。おれは昔からお前のことが好きだったんだよ。愛してるのさ。だから舞に彼氏ができたときはどんな方法を使ってでも別れさせようと思ったよ。兄と妹で結ばれるためにな。おっと逃げるんじゃないぞ!」
兄は舞の両腕を掴み、その場に押し倒した。
「やめて! 誰かたすけ——」
舞の悲鳴は口を塞がれて途切れる。
「おとなしくしろ!」兄は押し殺した声で叫んだ。「全部視てたさ。着替えも、自慰も、何もかも。楽しかったなあ。おれが代わりに書いてやった小説も丸写ししちゃって、いい気になるところも可愛かったよなあ。せっかくお兄ちゃんが受賞させてやったんだ。ご褒美として——」
はっと目を覚ますと、目の前には天井があった。部屋を見渡すと何も荒れた形跡もなく、さっき見たシャンパンやコップなど何処にも見当たらなかった。
「夢かあ……」
希に見る最悪な夢だった。
安堵したその瞬間、陰部に痛みを感じた。濡れた感触があったので、確かめると、白く濁った液体が手の平に絡みついた。舞は震えながら呟く。
——これもまた夢なのかもしれない……
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