ファブリンク・ダンス

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梗 概

ファブリンク・ダンス

ダンス講師の拓也は落ち込んでいた。ダンス仲間の七海が海外に赴任してしまったのだ。七海は拓也の恋人だったが、世界的ダンサーであるアレクからスポーツドクターとしての腕を買われ、アレクの専属トレーナーとなるのだという。任期は一年。恋が終わるには十分な長さだった。アレクの国は政情が不安定なこともあり、心配がつのった。ダンス教室の生徒である新田が拓也をなぐさめる。

拓也は忘れ物を取りに帰った深夜のダンス教室で、白い布をかぶったおばけのようなものが動いているのを見つける。だれかのいたずらかと白い布をめくると、布の中には誰もいなかった。拓也が驚いていると新田が現れ、会社の新製品の実験だと種明かしをする。「2枚の布型デバイスの形状や動きを完全に同期させる技術を開発した。これで遠隔スポーツが実現できる」という。拓也は開発に協力することになる。

ファブリンクと呼ばれる、そのウェアラブルデバイスを使うと、衣装を使って自分の分身を作ることができる。遠隔の二名がそれぞれ相手方に分身を作って、格闘技や舞踏などを行う。透明人間と競技しているような見た目になる。

スポーツの指導にも使うことができる。自分の分身に生徒が入ることで、動きを直接教えることができる。拓也が初心者にダンスを教えると、めざましい成果が出る。

ダンス競技のテスト中、ファブリンクの事故により、拓也はけがをしてしまう。接続が切れ、肩透かしを食って転倒したのだ。リハビリが必要だった。新田の提案で恋人の七海が主治医になる。ファブリンクを使った遠隔でのリハビリ。七海との距離が縮まったことを拓也は新田に感謝する。

七海の任期の一年が過ぎようとしていた頃、アレクと七海のいる都市で内戦が起き、国境が封鎖されて、七海は帰国できなくなる。拓也と七海はファブリンク越しに抱き合う。

七海は亡命者たちとともになんとか国境を越えるが、アレクは国境を越えられずに命を落としてしまう。七海は難民キャンプで人道支援に従事するようになる。難民グループ間では対立や不信感があった。国境を越えたら難民たちにダンスを教えたいと言っていた、アレクの遺志を継ごうとして七海は拓也に協力を依頼する。

ファブリンクをお披露目する記者発表会のエキシビションとして、拓也と七海のダンスが予定されていたが、拓也はその当日スパイ容疑で当局に拘束されていた。ファブリンクの軍事転用への疑いを晴らし、会場にかけつける拓也。会場では新田が代役を務めていたが、ダンスにならず失笑を買っていた。拓也がステージに上がる。踊りながら新田の衣装を脱がせ、踊りながら衣装を着こむ。しらけていた難民キャンプでコミカルな動きに笑いが起こる。それが日本の会場にも映し出される。七海と拓也の本格的なダンス。一緒に踊りはじめた難民たちに笑顔が戻る。すくなくとも、いまだけは難民間の対立が消えていた。記者団も興奮している。喝采を浴びて幕。

文字数:1200

内容に関するアピール

最新技術ということで、
・A-POC ABLE ISSEY MIYAKE & Nature Architectsの Steam Stretch(2023)や、Jamie Paik の robogami(2015)などの self-folding origami
・ピンスクリーン(1932)
・各種アバターロボット
などを参考に、もしも2枚の布の形状や動きを同期するファブリンクという技術があったなら、という未来を空想しました。意外と応用はすくなくなりそうで、描いたのは遠隔スポーツにまつわるストーリーです。どういう訳か『プロトコル・オブ・ヒューマニティ』の長谷敏司さんが課題提示された回に、ダンスの話になってしまいました。

難民キャンプでダンスを教える部分は、コンゴのダンスプロジェクトを参考にしました。この先もなかなか帰国しない七海に拓也はやきもきしそうですが、仕方ありません。まだまだいろいろ知識不足ですが、勉強して書き上げます。

文字数:400

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ファブリンク・ダンス

拓也が乾杯を発声すると、一気に店内がにぎやかになった。ビールをのどに流し込み、炭火焼の鶏皮串にかじりつく。拓也の経営するダンス教室の打ち上げはいつもこの赤ちょうちんに決まっていた。掘りごたつを四卓ほど占領して、ダンス仲間が歓談する。新入会の生徒はお通しのキャベツの風味の段階で感動している。ここの店主は和菓子職人の家に生まれ、フランス料理の修行をした挙句に焼き鳥屋の大将になったという人物で、なにを頼んでもその味には間違いがなかった。
「大将、軟骨と里芋串を頼む」日本舞踊の家に生まれ、バレエの修行をして社交ダンスの講師になった拓也は大将に勝手に親近感を抱いていた。
 しばらくすると店の入り口が開いて、猫背で口髭の新田の姿が見えた。古参の生徒の一人だ。きょろきょろしている新田を手招きで呼び寄せ、拓也の向かいに座らせると「お疲れさまっす」と首だけで挨拶する。いまでは新田の方がひとつ年上だと分かってはいたが、初対面のときの関係性が固定化していて、ため口をきくのは拓也のほうだった。
「さっきは悪かったな。おかげで間に合ったよ」と拓也は新田にわびる。飲み会の開始時刻に遅れそうだったので、教室の音響関係の片づけを新田に頼んだのだった。
「や。問題ないっす」新田は壁の品書きを眺めながら「やっぱり七海先生いないとさみしいっすね。飲み会の幹事が拓也先生とか調子くるうっす」と届いたハイボールで乾杯する。
「言うなよ。まだおれもなれてないんだ」拓也は一杯目のビールを飲み干した。

恋人の七海がハンザヴィア共和国へ赴任したのは、まだ先週のことだった。世界的ダンサーであるアレクサンドル・ガルニエから専属トレーナーとしての招聘を受けたのだ。
 七海のスポーツドクターとしての腕を知らない訳ではなかったが、話を聞いたときには腰が抜けそうになった。「アレクから誘われたんだ。来日公演のときに診てあげたのがきっかけでさ。一年で帰ってくるから心配しないで」とこともなげに言う。ハンザヴィア共和国といえば、軍事政権がクーデターを鎮圧したばかりじゃなかったか。そんな政情が不安定なところへ行って大丈夫なのかと引きとめたが、自分の指導でアレクを復調させたという自負もあったのだと思う。「スポーツドクターのキャリア的にはさ、チャンスなの。わかるでしょ」と相手にされなかった。どうやって渡航許可を取ったのか「ダンス教室。留守にするけど、よろしくね」と言い残して、うそのように軽々と七海は日本から旅立っていった。

七海のことを思い出すと、店内の活気に反比例するように拓也の気は沈みはじめた。酩酊するにはまだ早かったが、目の前に時の大河の濁流が渦巻いている気分になる。「そんな顔しないでくださいよ」と新田に言われて、拓也は手で顔をなでおろした。「お通夜みたいっすよ。一年のがまんじゃないっすか」
「一年は長いよ」
「大丈夫ですって。七海先生、自分のパートナーは拓也先生しかいないって言ってたっすから」
「なんだよ、そりゃ」と拓也の顔がほてる。後頭部を掻く。
「もちろんダンスのパートナーのことっすけどね」新田はめがね型端末を操作して「あ、いっけね。すんません。仕事っす」とつぶやく。民間でロボット開発の仕事をしているらしいが、いそしい男だ。「お会計いくらっすか。あとで送っときます」と言うと、荷物をつかんで立ち上がった。

割り勘の精算をして、飲み会を締めくくって、拓也が外へ出ると思いのほか冷え込んでいた。明日がコンテンポラリーダンスの公演だから、今日の二軒目はなしだぞといって教室のみんなを見送ると、ハロウィンの派手な仮装をした一団が通り過ぎた。やっぱりあの衣装は自分で作るのかなとぼんやり思ったとき「しまった」という声が口を突いて出た。明日の公演で使う衣装を教室に忘れてきたことを思い出したのだ。電車に乗る前でよかったと思い直して、教室へと引き返した。
 ビルの外から五階の教室を見上げると、なぜか明かりがついたままだった。衣装のある更衣室は四階だったが「新田のやつ消し忘れたな。しょうがないやつだ」と五階のボタンを押した。エレベーターを降りるとたしかに明かりがついている。入り口の引き戸に手を当てると鍵もかかっていなかった。妙だなと戸の隙間から中をうかがう。なにか白い布のようなものが舞っているのが見えた。
 なんだあれは。教室の大鏡越しに観察すると、布の中に人が入っているらしかった。ハロウィンのいたずらだろうか。「すみません、どなたですか」と言いながら拓也は戸をあけるが、返事がない。まるで拓也のことを意に介していないようだった。あのへっぴり腰をみると正体は新田かもしれないなと思う。イヤホンで大音量の音楽でもかけていて気が付かないのだろう。「あの、困るんだけど」と近寄って、肩の辺りに手を掛けた。すると、初めて拓也の存在に気が付いたというように、びくんと飛び退ったが、静止したままで、なんの釈明もない。これでは話にならないと思い「ちょっと失礼しますよ」と足もとの布をつかんで、一気にめくってみた。のだが、布の中には何もない。からっぽの空間があるばかりだった。
「おわあっ」と言葉にならない変な声が出て、拓也は尻もちをついた。するりと布が床に落ちる。やはり何もない。そのままの姿勢で後退しながら、つかんでいた布を放り出す。「なんだよ、これは」手の汗をぬぐう。いまのいままで人の形で動いていたのに、いま布はぴくりとも動く気配がない。それに肩をたたいたときには確かに手ごたえがあった。「白い布のおばけとか、冗談じゃないぞ」と動かない布を凝視する。そこにいるのかもしれない透明人間の気配に耳をすます。心臓の音と時計の音がうるさい。
 変化がないのを見極めて、拓也がふたたび立ち上がろうとしたとき、入り口の引き戸ががらりとひらいた。「拓也先生」と声がする。ふりむくと新田だった。「すんません」と土下座しようとするので、あわてて抱え上げる。
「待て待て。なにがなんだか分からない。いいから、訳をきかせてくれ」
 
「会社の新製品の実験だったんっす」とおおげさに泣き崩れるのを拓也がなだめる。新田の話によれば、布に見えるそれは新田の会社で開発中のウェアラブルデバイスだった。二枚の布型デバイスの形状や動きを完全に同期させる技術を開発したんですよと新田が言う。「それで下の更衣室から操作してて」
「べつに責めている訳じゃない。ひとつひとつ教えてくれ。それはなにに使うんだ」
「あーと。そっか。まあ、そうっすよね」口髭に手を当てて、新田が思案顔をする。「うまく行けば、これで遠隔スポーツが実現できるんすよ」
 さっきのお化けを見ていなければとうてい信じられなかっただろう。ファブリンクと呼ばれる、そのウェアラブルデバイスを使うと、衣装を使って自分の分身を作ることができる。遠隔の二名がそれぞれ相手方に分身を作って、それぞれが分身と格闘技や舞踏などを行えばよいのだという。
「とんでもないことを考えたな」その発想はなかったと拓也は虚を突かれた気がした。
「いい反応うれしいっす。来年度にはリリースする予定っす」
「そいつは楽しみだ。どうしてここを使ったんだ」
「極秘プロジェクトなんで、会社の中でもおおっぴらにできないんすよ。ここなら広いし、鏡はあるし、防音もいいし、ばれないと思って。それに別フロア間の垂直方向の通信テストもできるし、あと床もいい」怒られないと思って安心したのか、新田の口数が増える。「ここのフローリングってサクラ材でしょ。摩擦テストにいいなって目をつけてたんっすよ」
「摩擦?」
「今回はただ布をかぶっただけな感じのプロトタイプっすけどね。思い通りに動けるかどうか、ファブリンクと床とのグリップが勝負なんで。やっぱり本番環境でテストしないと」
「ふうん。いろいろ課題がありそうだな」
「そりゃ、もう。課題てんこ盛りってやつで。あ、そうだ。ここでばれたのも何かの縁。拓也先生、開発に協力してもらえないっすか」
「調子がいいな」さっきまで泣いていたかと思えば、あつかましいというか、ずうずうしいというか。
「いや、そろそろプロの動きでテストしないと。って思ってたところだったんすよ。お礼ははずみますんで、ぜひとも。話だけでも」と合掌する。
 お礼と言われると、拓也も心が動いた。いまも昔もダンサーがダンスだけで食っていくのは難しいのだ。拓也も副業にプログラマーをしていたが、割に合わず、べつの稼ぎ口を探していたところだった。「話だけなら、な。まあ、聞いてやってもいいぞ」
「やった。あざっす。じゃ、明日とかどうっすか」
「知ってるだろ。公演だよ。明後日はどうだ」
「大丈夫っす。じゃあ、十時とかで。これ会社の住所っす」と新田は名刺データをめがね型端末から送信する。

二日後。新田の職場へ向かいながら、拓也の脳裏に昨日のダンス公演のミスがよぎった。あれは寝不足のせいだな。七海が見ていたら、さんざん絞られていたに違いない。新田と別れたあと、頭の中を布が舞って、それが寝床に入っても舞いやめず、よく眠れなかったのだ。
 名刺データの住所をたずねると、よくある感じのオフィスビルが建っていた。研究施設らしくないなと思いながら、受付から新田を呼び出す。しばらくするとワイシャツに作業服を羽織った新田がドアから半分だけ顔を出す。「執務スペースと来客スペースが分かれてるんで、ここならいくらでも密談し放題っすよ」と案内されて、応接のソファに腰を落ち着ける。
「それで、なんだ。ファブリンクか。あれについて、いちから教えてもらおうか」
「そっすね。じゃあ、まずこれから見てもらいましょうか」と新田がおなじみのめがね型端末を操作すると、壁面がスクリーンに変化してスライドを映し出した。「こいつがファブリンクの先祖、二十一世紀のはじめに開発されたロボガミっす」数十枚ほどの直角二等辺三角形の板が格子状に並べてあり、板同士が蝶つがいで繋がっている。「ヒンジの曲がり具合をコントロールすると色んな形に変形できるっす。こんなふうに」映像が動いて、畳まれたり、伸びたり、ラジオ体操のように変形していく。プリミティブだが、面白い動きだ。「どうやって動かしているかっていうと、当時は形状記憶合金の熱変形を利用してたらしいっすね。布みたいになめらかに動かすにはひとつひとつの板をかなり小さくする必要があるっすが、モーターとかだと小さくするのに限界があるし、小さいと力が弱くなりがちなんすよね。エネルギーを運動に変える装置、アクチュエーターをどうするかっていうのがひとつ目のポイントっす」
「なるほど」さすがは専門職といった感じで、説明にそつがない。
「もうひとつ。二枚の布の動きを同期させるには、いまどこの部分がどう曲がっているか把握するためのセンサーが必要っす。これが二番目のポイントっすね。そして、もうひとつ。二枚の布の間で交信、つまりコミュニケーションをする必要があって、これが三番目のポイントっす」スライドにはアクチュエーター、センサー、コミュニケーションの文字が並んでいた。「この三つの機能を布的なぺらぺらの中におさめることが最初の目的だったんすよ」
「それはなんというか。かなり無理難題な気がするな」
「まあ、そうなんすけどね。その無理難題を解決したのが」と新田がめがねを操作してスライドの頁をめくる。「この新素材、メタマテリアルのリンクロンだった訳っす」とモノクロの電子顕微鏡写真が映し出される。
「メタマテリアルってのはなんだ」
「形状設計によって、物理的機能を組み込んだ素材のことっすね。アクチュエーターにはパワフルな量子エンジンを使っているっすが、このエンジンの微細な気筒部分を上手く形状設計すると勝手にセンサーの機能も果たして、さらにはなんと通信の機能まで担ってくれることが分かったっす」
「ちょっとそれは。都合がよすぎないか」
「都合のよくない部分もあったっすけどね。けっこう重くなることと、耐久性が低くなったことっす。ひっぱり強度とかは大抵の繊維よりも強いんすけど、最初に期待してた過酷な環境での使用はできないことが分かったっす。高温にも弱いし、高圧にも弱い。放射線にも弱いっす」
「ふうむ」
「で、考えた結果、スポーツとかに使えばいいんだって気づいた訳っすよ」
「はじめからスポーツを狙ってた訳じゃなかったのか」
「そうっすね。スポーツだと重さって大事じゃないっすか。たとえば、時速百五十キロで殴られたとしても、仮に体重がゼロだったらそんなの痛くもかゆくもないんで。ファブリンクならいい感じに重いから威力がちゃんと伝わるって訳っす」
「なるほどなあ。しかし、操作する側は重くないのか」
「そのへんはあれっすね。いろんなバージョンを作ってて。送信に特化させるとかなり軽量化ができるっす。まあ普通の服よりは重いっすけど、でも、相当ましになってきたかなって感じっすよ。さっき言ったみたいに分身側は重くないとだめっすけどね。操作する側はできるだけ軽くなるようにしようって決めてるっす」
 これはなかなか有望かもしれないと拓也は感じ始めていた。「だいたい分かった。それで、おれは何をすればいいのかな」
「そっすね。まずは、ファブリンクのもうひとつの使い方を試してみたいっす」新田の口角が嬉しそうに上がるのが見えた。

その日の晩、拓也は自宅の食卓から七海を呼び出した。そろそろ落ち着いたころだろうと、通話の約束をしていたのだ。きりっとした七海の顔が映ると嬉しくなった。七海の背景には職場とおぼしきトレーニングルームがあった。ちょうど向こうは昼休みらしかった。
「調子はどうだ。元気か」
「見ての通り。毎日充実してるよ」日本にいたころより気合が入っているように見える。
「それは何より」
「やっぱり来てよかったなあって思ってるところ。本当はこっちが教える立場なんだけどさ、アレクから教わることも多いんだ。あのストイックさは見習った方がいいね」
「そうか」七海の口からアレクの名前が出ると複雑な気持ちになる。「その、治安とかは大丈夫なのか」
「ぜんぜん。日本と変わらないよ。言葉の問題はあるけど、みんな親切で助かってるよ」
「ふうん」
「そっちはどう」
「ちょっと変わったことがあったよ。新田っていただろう」
「ああ、あのラテン系の。顔で踊るタイプの」
「うん」ファブリンクの要点を七海に伝える。新田には七海への情報共有を了解させていた。
「へええ。遠くにいる人の分身と踊れるんだ」
「ほかにもいろいろ使い道があるらしい」
「にわかには信じられないけど、すごそうだね。見てみたい」
「そうだな。新田に聞いておくよ」
「ほかの使い道ってどういうの?」
「ダンスの指導にも使えるんだと。講師の分身に生徒を入れると、動きを直接教えることができるらしい」
「すごいね。なんだか二人羽織みたいになりそうだね」
「はは。二人羽織か」羽織の背中にもぐり込んだ人間が箸をあやつるシーンを思い出した。「食材が口に入らなくて、困っちゃうやつだな」
「ふふ。顔がべたべたになったりしてね。じゃ、そろそろ、午後のトレーニングが始まるから。またね」
「ああ、また」短い通話だったが、拓也はこの充電でしばらく元気が続きそうな気がした。

一か月後。休校日の夜に教室を貸し切って、新田とその助手と拓也の三人が集まった。ダンス指導の試験を行うのだ。「丸谷くん。例のあれを」と新田がおごそかに言うのがおかしい。
 丸谷と呼ばれた背の高い助手がかばんからファブリンクのスーツをワンセット取り出す。まだ同期させる前のようで、一方を広げてももう一方は畳まれたままだった。
「ずいぶん衣装らしくなったな。縫製してもリンクできるのか」と拓也が言う。パンツの裾や、シャツの袖先が袋状に閉じているのは不思議な感じだったが、この間のハロウィンゴーストからは格段の進化だった。
「おほめにあずかり光栄っす。服飾系出身の丸谷くんのおかげっす」
「背丈から考えると生徒役は新田さんかな。七海に見せてもいいんだよな」もともとそのつもりで試験の日程を七海の非番に合わせて設定したのだった。
「そっすね。ドクターの意見も聞きたいところっすから」
 通話すると、七海が教室を見て「懐かしいなあ」と言う。「あ、新田さんこんにちは。ていうか、こんばんはかな」とか言っている。
「ども、こんばんはっす。じゃ、時間もないんで、拓也さん着替えちゃいましょうか」
「ああ、よろしくな」片手を上げて七海にかるく挨拶をする。
 背中のファスナーを開けて、服を着たままもぐりこむようにしてファブリンクを装着する。かなりタイトな感じだ。ファブリンクを着る経験的には新田のほうが上なはずだが、見習おうと新田を見れば足腰の鍛え方が足りていないのか、よろけて丸谷に支えてもらったりしていた。
「暑かったりしないっすか」ようやく着替え終わった新田が拓也にきく。
「いや、それは大丈夫だが、やっぱりちょっと重いな」
「重さはがまんっすね。送信専用なら軽くできるんすけど、この用途だと受信機能を残しておく必要があるっすよ」
「これはこうでいいのか」襟のところからフードを引き出して頭にかぶってみせる。
「それでお願いするっす。じゃあ、リンクさせるっすよ。丸谷くん」と新田が助手に合図を送る。
「はーい。力は抜いててくださいね。じゃあ、リンクします。五秒前、三、二、」と丸谷が言うと、キーンと耳鳴りのような音がして、ファブリンクが変形しはじめた。ファブリンクの動きに押されて、手足の向きが変わる。猫背になりかけて、拓也がすこし胸をそらすと新田が「いて」と言った。
「リンク完了です」と丸谷が宣言する。鏡をみるとたしかに同じ体勢のふたりが並んでいた。
「変な感じだな」
「なれるまでの辛抱っす。ちょっと動いてみるっすね」
「ああ」新田が動くと、つられて同じように拓也の体が動いた。力の抜き具合が難しいが、思った以上にうまく行っている。床とのグリップも問題ない。鏡の中では動きが完全にシンクロしていた。
「これは動きに抵抗するとどうなるんだ」
「腕相撲みたいに力が強い方が勝つっす」と言われて、かるく試してみるとぎくしゃくした変な動きになった。
「ふふ。面白いなあ。拓也そんなにダンス下手だったっけ」と画面の向こうから七海が笑う。
「もう七海さん」と新田が腹を立てる。「じゃあ、次は拓也先生お願いするっす」
「わかった。とりあえず基本のステップからだな。音楽もかけよう」
「了解っす。丸谷くん録画よろしく」
 拓也と新田の体格はそっくりだったが、体の柔軟性や筋力などの違いは無視できない。ファブリンクの重さに加えて、手かせ足かせをつけてダンスをしているような不思議な気持ちにとらわれたが、これは面白い体験だった。拓也の動きを新田が追えない部分、つまり新田の癖が抵抗となってダイレクトに拓也に伝わってくる。反対に通常の指導では言葉と視覚を通じて伝えていたことが、動いてみせるだけで直接新田に伝わっているようだった。こうなると言葉の役割が違ってくる。
「思った以上に大胆な動きなんすね」汗だくの新田が目を回している。
「動き方は分かったと思うから、あとは柔軟と筋トレだな」すくなくとも課題をはっきりさせるにはうってつけの道具だった。
「ちょっとちょっと。すごくない。いつもの拓也に比べればちょっともったりしてたけど。新田さんにあんな動きができるなんて」と七海が言う。これは既に実用レベルなんじゃないかと思えた。
「あざっす。嬉しいっす」新田はファブリンク試験の成功とダンス技術の向上と、二重の意味で喜びをかみしめているようだった。
「せっかくだから、分身を作るやつも見てみたいんだけど。大丈夫かな」
「もちろんオーケーっす。丸谷くん」と助手に声を掛ける。丸谷はかばんからもうワンセットのファブリンクを取り出した。「こっちが送信専用の軽量版っすね」リンクをオフにして軽量版に着替え直す。
「じゃ、リンク先を切り替えますね。せーの」と丸谷が言うと、さっきまで着ていたファブリンク達がむくむくと立ち上がる。重心が狂わないよう、リンク完了までの間は丸谷が二体の分身を手で支えていた。
「わお。うそじゃなかったんだ、透明人間」と七海が声を上げる。
 軽く動いて、鏡の前で一回転してみる。考えてみると、リアルタイムで自分のダンスを背面や側面から見ることができるというのも得難い体験だ。合わせ鏡やドローン撮影という手もない訳ではなかったが、これなら角度的な制約や、時間差という制約を克服することができる。
「位置合わせ、オーケーです」と丸谷が新田に言う。
「せっかく分身と踊れるんだったら、並んでるだけでなくてちょっと接触があったほうがいいよな」
「男女ペアじゃなくて恐縮っすけど」
「やってみるか」
 簡単な確認のあと、相手を受け止めたり、持ち上げたりという動きを試すことにした。新田の分身が走ってきたのを拓也が受け止めると、向こうで拓也の分身が新田を受け止める。
「これは気持ちいいっすね。まだプロトタイプっすけど、けっこうこれはなかなか」と新田が感触を確かめている。
「ああ。フードの中に顔がないのを除けば、ほとんど違和感がないな。じゃ、次は新田がおれをリフトしてくれ」
「了解っす」
 拓也が新田の分身に向けて助走する。そのとき、丸谷が画面に向けて首をかしげているのが気になった。新田が拓也の分身を受け止めて「おりゃ」という掛け声とともに分身を抱え上げる。拓也は新田の分身に持ち上げられる。新田が「うし」というのと丸谷が「あっ」というのが同時だった。拓也を抱えていたファブリンクが力を失ったように、一瞬でただの布に戻ったのである。拓也が床に打ち付けられて悶絶する。受け身を取ろうと曲げた左膝からは、ぱきっといういやな音がした。
「拓也先生」と新田は一瞬前まで拓也の分身だった布を投げ捨てると、拓也本体のところへと駆け付けた。「大丈夫っすか」
 画面の向こうからは「拓也」と七海の声がする。痛みで息ができなかった。「新田さん。救急車呼んで、早く」と言っているのが聞こえた。

左膝前十字靭帯損傷、全治六か月。それが医者の診断だった。靭帯再建の手術後一か月は入院になるらしい。ダンスが踊れない間もダンス教室の家賃は払い続ける必要がある。いちど閉めれば再起はできないだろう。ベッドの上で同僚の講師にシフト変更と求人の指示を出す。他にはどういう手当てをすればいいか。頭が痛かった。
 見舞いに来た新田は、かわいそうなくらいに顔をくしゃくしゃにして泣いていた。「なにが原因だったんだ」と聞けば、「すんませんっした」と頭を床にすりつけるようにして泣いた。説明は頭のいい新田に似合わず要領を得なかったが、どうやら原因は太陽フレアのような外乱ではなくて、通信方式にあったようだった。この事故がもとで、ファブリンクの開発自体も頓挫しそうなのだという。「人を不幸にするような技術なら、ないほうがいいんす」と言って、新田は震えるこぶしを握り締めていた。

手術の一週間後、新田がなにか決意したような顔で見舞いに来た。
「提案があるっす」といちご大福を渡してくる。
「なんだ」
「そろそろ本格的にリハビリ開始だって聞いたっす。リハビリ、七海先生に頼んでみたらどうっすか」
「ばか。だめだ」七海が日本にいてくれたら教室だってうまく回してくれるだろう。そんな思いが頭をかすめたこともあったが、いま泣き言をいう訳にはいかなかった。いえば、きっと七海は夢をあきらめて、あっさり日本に帰ってきてしまうに違いない。あいつはそういうやつだった。
「違うっす」新田がファブリンクを拓也の目の前に突きつける。「ハンザヴィアから遠隔でリハビリしてもらおうっていう提案っす」
 事故の原因を作ったファブリンクでリハビリとは悪い冗談かと思ったが、新田は本気だった。これまでのファブリンクの通信方式の欠点はデータ量が膨大となることだった。データ量が膨大なので、通信の途中で渋滞して落ちてしまったというのがあの事故の真相だった。データすべてを送信するのではなく特徴量だけに制限することで、情報を千分の一に圧縮したのだという。それでも形状誤差は二ミリメートル以内に収まるのだと保証してみせた。
「まだ事故から十日だぞ。たった十日でそんな改良ができたのか」
「もともと試すつもりだったっすけど、前倒ししたっす。もう二度とあんな失敗はないっす。あとは拓也先生がうんと言ってくれれば大丈夫っす」
 新田ってこんなに押しの強いやつだったのか。迫力に負けて、つい拓也は「うん」と言ってしまった。
 
「やっほー。拓也、元気?」と七海の声がする。
「ば。元気な訳ないだろう。まだ術後七日だぞ」と言いながら拓也は辺りを見回す。どうやら声は新田のめがねから聞こえてくるらしかった。
「元気そうじゃん。それだけ元気ならすぐリハビリにかかれそうだね。新田さん、リンクしてもらえるかな」
「了解っす」と明るく言う。新田の準備たるや恐るべきもので、すでにハンザヴィアの七海の手にはファブリンクの片割れがとどいていて、どこからどう手を回したのか分からないが、拓也の入院している病院とも話がついているということらしかった。「じゃ、つなぐっすね。いちにのさん」ファブリンクが七海の形にふくらんでいく。足の痛みで手間取ったが、新田の手伝いで、拓也もファブリンクを着こみ、ハンザヴィアに分身を作ることに成功した。
「きたきた。ほんとに分身ができた。すごい」喜ぶしぐさで七海だなと分かる。新田がふたりの位置関係をチューニングする。「ふふー。じかに見ると面白いね。膝の状況についてはだいたい聞いてるよ。もう抜糸は済んだのかな。ちょっと見せてもらうね」と七海の分身が拓也の足をさわる。「ふふふ。さわると分かるもんなんだね。これが膝のおさらだね」
「っつー」七海がファブリンク越しに膝蓋骨を上下左右に容赦なく動かす。
「ここがかたくなると、膝の屈伸が難しくなるんだ。うん、大丈夫そう」七海の分身が片足をベッドにのせて、自分の膝の上に拓也の左足を持ち上げる。ということは、向こうにもベッド的なものがあって、そこに自分の分身が横たわっているのだろう。「じゃあ、ちょっとだけ曲げてみようか。いくよ」力を加減しながら直角まで曲げて、それから元にもどす。本当にそこに七海がいるような気がした。「知ってると思うけど、完全に真っすぐにのばしちゃだめだからね。もう一回やってみようか。ゆっくり。いくよ」と、何度かその動きを繰り返す。「今日のところはここまでかな。これで術後七日なら順調順調。ていうか、ファブリンクはじめて使ったけど、すごいね。いやー、新田さん、天才」
「あざっす。じゃ、これ置いていくっす。データはとらせてもらうんで、自由に使って貰っていいっすよ」
「じゃあね、拓也。またね」まさかこんな形で七海との接点が回復するとは思わなかった。嵐のような見舞いとリハビリ医が去って、拓也はお茶を飲んだ。それから土産のいちご大福をひと口かじるのだった。

術後一か月で松葉杖が取れて退院した。術後二か月、三か月。炎症が残っているようで、通院のたび、裏側に貫通するんじゃないかと思うほど長くて太い注射針が膝に刺されて、たまった水が抜かれた。「左足をかばいすぎちゃだめだからね。癖になっちゃうよ」と七海から叱られる。時期によってリハビリの内容は変わっていく。もちろんまだダンスなんて踊れなかったが、七海の献身的なサポートのおかげで、教室にも顔を出せるようになった。拓也はすこしずつ復帰への自信を取り戻しつつあった。

術後六か月が経ち「だいぶ筋力が回復してきたね。軽いスポーツなら大丈夫。明日からのトレーニングメニュー、一緒に考えようか」と七海からダンス再開の許可がおりた。練習再開の初日。教室の鏡を見ながら動いてみるが、どこもかしこもなまっていて使い物にならない。自分の身体じゃないような気がした。ゼロからやり直しだなと拓也は覚悟を決めた。

術後八か月で、制限なしのスポーツ再開。七海の帰還まで、あと三か月に迫っていたとき、新田に誘われて、赤ちょうちんで飲むことになった。七海から飲酒の許可もおりていた。
「おつかれさまっす」と冷酒で乾杯する。「データ、みさせてもらってるっす。だいぶ復活してきたみたいっすね」
「おかげさまでな」
「あのときは本当に申し訳なかったっす」と新田が頭を下げる。
「よせよ」
「でも、教室が縮小することになったのは」
「いいんだ。いまじゃ、七海とつながる口実があってよかったと感謝してる」
「そんな」
「本当だよ。何事もなければ、もっと七海に遠慮して、疎遠になってたかもしれない」ミニトマトの肉巻きとズッキーニの串を大将に頼む。新田が鼻をすする。「走ってる時だけが人生じゃないしな。自分の身体との付き合い方も見直すいいきっかけになったよ。なにもトラブルがなかったら、こんな反省できなかったと思っている」ガラスの徳利を傾けて、新田の猪口に冷酒を注ぐ。新田はそれを一息で飲み干す。
「今日はお願いがあってお呼びしたっす。ファブリンクのリリースなんすけど」
「おう。取り込み中わるい。あんちゃんの彼女、ハンザヴィアだったよな」
「そうだけど、どうしたんだ大将」
「内戦が始まったらしいぞ」と大将が壁のモニターを指差した。
 酔いがさめた。携帯端末から七海を呼び出す。つながらない。冷や汗が背中を伝う。意識が遠くなりそうになる。飲んでいる場合じゃなかった。「すまん。仕切り直させてくれ」おろおろする新田を置いて、拓也は店を飛び出した。

家までの道中、端末から情報を集める。クーデターの成功で政権がひっくり返ったらしい。武力衝突が起きたのは、アレクのアカデミーからそう遠くない場所だった。うそだろ、と瞑目して七海の無事を祈る。SNSやメール、いろんな手段で七海に連絡を取ろうとするが返事はない。家に到着してからも情報を集める。ハンザヴィアの街頭カメラにアクセスして様子を探る。そのうち朝になってしまった。疲れ果て、眠りかけたとき七海から応答があった。「ごめん。電池切れてた。無事です。いまシェルター」の文字を見て、安堵で泣きそうになる。
「話せるか」
「ちょっと無理かも。半日待って」
 メッセージを書いては消し、迷った挙句「分かった」と送信した。また眠れなくなってニュースをザッピングする。どこの報道機関もハンザヴィアの不穏な空気を伝えていた。

寝過ごしたかと跳ね起きると、ちょうど七海からのメッセージが五分前にとどいていた。「ファブリンクでつなぎたいんだけど、大丈夫かな」
「大丈夫」とあわてて返信する。時計を見ると、ちょうど七海の言った半日がすぎたところだった。ファブリンクを着こんで接続する。もう一着が七海の形をとる。端末の通話を音声に切り替える。
「ふう。あわてたあわてた」とのん気な調子で七海が言う。
 拓也はなにも言わずに七海の分身を抱きしめた。ファブリンク越しにやわらかな七海の存在が伝わってくる。七海もだまって拓也のことをぎゅっと抱き返した。「もう平気なのか」と言いながら、拓也は腕を緩める。
「うん。ひとまずは。でもこれからが大変かなあ。旧政府軍の残党も反撃の機会をうかがっているみたいだし」
「帰ってこれそうか」
「どうだろう。人口の流出を警戒して、国境封鎖するっていう噂もあるみたい」
 そこからは何を話したか覚えていない。ただ七海がそこにいるということに慰められた。さいごにもういちどだけ七海を抱きしめた。しかし、ファブリンクの隙間から手を滑りこませようと試してみると、中には何もないのだった。
「残念でした。じゃあ、またね」
「ああ、またな」その日から七海には連絡がつかなくなった。

一か月後、あらためて新田から記者発表会への協力を求められた。ダンスのデモンストレーションをしたいのだという。「ファブリンクの可能性を示す、エキシビションっす」
「自信がない。だれか他のダンサーに頼んでくれ」とひげの伸びた拓也は答える。
「残念っすが、無理は言えないっす。やっぱり七海先生には連絡がつかないっすか」
「ああ」七海と音信不通になってからはダンスのトレーニングにも打ち込めなくなり、副業のプログラミングに逃げ込む毎日を過ごしていた。

ハンザヴィアのニュースを見るたびに胸がつぶれそうになったので、報道自体からも遠ざかるようにしていたころ、海外の知らない端末から不在着信があった。悪いニュースかもしれないと一瞬躊躇したが、折り返すと七海だった。
「七海か。無事なのか」
「ええとね。いまテュルスなんだ。ハンザヴィアの国境を越えたところの難民キャンプ。端末が壊れて連絡が取れなくなってたんだよ。ごめん」連絡を取る方法なら、いくらでもと思い掛けて打ち消す。拓也は七海の事情を何も知らなかった。
「心配した。生きててくれてよかった」
「うん。わたしは無事だったけど、一緒に国境を越えようとしてたアレクは」
「アレクがどうかしたのか」
「国境警備隊の威嚇射撃の弾が当たって、病院への搬送中に死んじゃったんだよ」聞けば、アレクは旧政府側のアーティストとして、新政府から目を付けられていたらしい。このままでは活動できなくなると亡命を企てた。その矢先のことだった。「『国境を越えたら難民たちにダンスを教えたい』って言ってたけど、叶わなかったんだ」
「そんなことが」
「うん。でも、いちおうわたし医者じゃない? で、ここ難民キャンプなんだけど、やっぱり衛生状態とかひどくてさ。人道支援に協力しようと思って、いま許可を取ってるところ」七海らしいというかなんというか。どうしてそんなやっかいごとに首を突っ込むのか。
「帰ってくればいいのに」と本音が漏れる。
「ううん。難民って言われてるけど、内戦のせいでこんなことになってるだけで、みんなふつうの人なんだよ」
「約束は一年だった」
「状況が違う」
「ごめん。けんかしたい訳じゃない。理由が知りたいんだ」
「難民キャンプの中にもさ、旧政府側の人と新政府側の人がいて対立してたりするんだよね。もともとの階級の違いを引きずって不信感を持っていたりだとか。生活物資も医療品も足りないけど、他にも足りないものがある気がしていて。あのさ、拓也」
「なんだよ」
「悪いんだけど、ちょっと協力してくれないかな」

ファブリンクをお披露目する記者発表会の日。新田はテュルスの難民キャンプにいる七海と通話をはじめる。「送っておいた新作のファブリンクどうっすか」
「ずいぶんこれまでと感じが違うよね。着物がモチーフなのかな」
「そっす。丸谷くんがタイトな衣装じゃファブリンクの魅力が伝わらないって、がんばったっす」
「はい。これまでは人間のボディラインに沿わせるように展開図を考えていましたが、今回は展開図を先に考えました」
「そうなんだ。でも、拓也の姿が見えないみたいだけど」
「遅刻っす。このままだとぶっつけ本番になるっすね。ひとまずこっちだけ接続するっす」七海の分身が会場にできあがる。

アレクの遺志を継ぐんだと、テュルスと日本をつないでのエキシビションを七海が提案したとき、はじめ新田は断ろうとした。「リハビリとかなら問題ないっすが、ダンスだとタイムラグが問題になるっす」
「どういうこと」
「ファブリンクの同期は光の速さで伝わるっすが、光ってけっこう遅いんすよ。一秒間に地球を七周半しかできないっすから、地球半周するのに十五分の一秒、往復だとその倍の0.13秒くらいかかるっす」
「一瞬じゃない」
「プロ野球のピッチャーだと時速百五十キロとかで腕を動かせるっすが、時速百五十キロといえば秒速四十二メートル。往復の0.13秒間に五メートルくらいずれる計算になるっす。テュルスは地球の真裏じゃないから、もう少しラグは小さいっすが」
「五メートルずれてたらダンスにならないな」と拓也が言う。「ファブリンクのアクチュエーターは量子エンジンだったよな。量子もつれとか、量子テレポーテーションは使えないのか」
「仮に使えたとしても超光速通信は不可能っす」
「理屈はいいから踊ってみようよ」試してみると、たしかにずれが気持ち悪かった。
「これは人間側のなれで対応するしかないな」一か月かけて七海と拓也は調整していった。
 
「もう少々お待ちください」と新田が記者団を説得していたころ、拓也はスパイ容疑で当局に拘束されていた。当局の傍受した七海との通話が根拠だった。
「こういった技術の紛争地域への提供は禁止されている」
「だから何度も言っているようにファブリンクに軍事転用なんてできませんって。目もついてないのに、どうやって遠隔スナイパーを実現するんですか」と憤慨する。
「事前の許可取得が必要なんだ」
「それに七海は日本人だし」
 これだから素人は困ったものだというように担当官があきれ顔をする。「そういう問題じゃない。どこへ送るかが問題なんだ。だれからいくらもらった」
「ちょっと待ってください」新田に手抜かりがあるとは思えなかった。新田の会社の名を告げると、はるか以前に許可を取得していることが判明し、拓也は放免される。社名と技術名とが一致せず、当局内に混乱が起きていただけだったのだ。ファブリンクは通称であって、正式名称はなんだか長い漢字の名前だった。

会場の体育館に到着すると、かわいそうな新田がファブリンクを着て七海の分身と踊り、記者に笑われているところだった。新田のやつ、ラテンダンスしか踊れないのに、無理をさせたな。ハンザヴィアの民謡が流れる中、拓也はステージに上がり、踊りながら新田の衣装を脱がせて、踊りながら衣装をまとった。テュルス側の分身を倒してしまわないよう、重心移動に注意を払って、帯を締めた。リズムに合わせた、コミカルな動きになる。しらけていた難民キャンプのテントで喜びの笑いが起こるのが、日本の会場のスクリーンに映し出された。

新しいファブリンクは、身体になじんだ。身体と布の間の空間がいちいち適切で心地いい。体がどこへどう動いて、そのとき布のどこが引っ張られて、どこがたわむのか。すべてが計算されていると感じた。七海のシルエットも輝くばかりに美しかった。
 ダンサーが入れ替わってしばらくすると、空気が変わった。テュルスのテント会場で自然に手拍子が始まる。もの珍しさの冷やかしでなく、グルーブが生まれ始めていた。いまのところ、ラグの克服対策は功を奏しているようだった。
 
「いっそ一拍分おくらせたらどうだ」
「技術的には可能っすけど、日本とテュルスで別のダンスになるっすよ」
「いい。そこはダンスの組み立てでどうにかする」

テュルスの側で七海と拓也の動きがシンクロする。まるで、お互いがリンクされたように息が合っている。ということは、日本では七海と拓也の動きが二泊ずれる。そこを計算に入れて、どちらの側でもダンスが成立するように組み立てたのだ。膝も今のところ問題ない。音楽が盛り上がる。テント会場では歌い始める者、見よう見まねで踊り始める者が現れた。笑顔が感染していく。人と人とをへだてる境界が、とけて見えなくなっていく。すくなくともいまだけは難民間の対立が消えていた。記者団も興奮している。七海がフィニッシュを決めて、二拍おくれで音楽が止まり、拓也がフィニッシュする。喝采、割れんばかりの拍手が両会場を包んだ。新田が泣きながら、もう一曲いくっすと次の曲を掛けた。

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