実体のない執刀

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梗 概

実体のない執刀

“神の手”と称される天才外科医、守崎みことは触覚をフィードバックする手術支援ロボット「Saver」を使った手術を専門としている。どんなに困難な手術でも彼に治せないものはなく、中でも得意としていたのは人体の組織が脆い箇所の手術であった。Saverが感知する力覚を10倍以上の感度に上げ、触覚フィードバックをかけることで極めて繊細な作業を可能にし大動脈弁再建といった難易度の高い手術を次々と成功させた。
 ある時、守崎のもとにひとりの女性が訪ねてきた。彼女は美玲と名乗った。実はどうしても治してほしい患者がいるということで守崎に直接、依頼をしに来たのだった。
 守崎は病院を通して依頼してくれと断るが美玲は引き下がらない。要件を聞くだけと渋々、守崎が承諾すると美玲は切れ長な目で見据えながら依頼内容を告げた。
「姉を――姉の幽霊を手術してほしいのです」

どうやら美玲の姉は心房中隔欠損症手術という大手術を受けた後、数週間もたつのに意識が戻らないという。精密検査の結果、手術は成功していて意識が戻らないのは全くの原因不明だそうだ。
 ある日の夜のことだ。美玲が姉をいつものように病院で看病していると、虚空であるはず頭上に視線を感じた。
「誰?……もしかして、姉さん?」
 直感的にそう呟くと、美玲の飲んでいたカップのスプーンが応えるようにカタカタと二度揺れた。
 美玲が何度か質問をすると姉の幽霊として現世を彷徨い、霊体の方はまだ病気が治っておらず苦しんでいることがわかった。美玲は意識を取り戻すには、姉の幽霊を治せる医者に頼むしかないと考えた。
「そして天才外科医である守崎先生のことを知り、こうして足を運びました」
 にわかには信じられなかったが美玲がいたずらでここまでの芝居をしているとも思えなかった。守崎は幽霊の治療を引き受けることにした。

まず診察するため美玲の姉を守崎の病院へと運ぶことにした。前代未聞、救急車による幽霊の搬送である。美玲は姉をストレッチャーに横になるように促す。美玲は当初より姉の霊をよりはっきりと感じ取れるようになっていた。何もないようにしか見えないがストレッチャーには姉が苦しそうに横たわっているという。
 彼女の診察にはSeverを使用すると説明する。守崎はスプーンの揺れで返事をしたと聞いた時、ローレンツ力によるポルターガイストの可能性を疑った。推測が正しければ幽霊の周辺には磁場が構成されており、その磁場を知覚して触れることができれば彼女の手術は可能だと考えたからだ。
 Saverを起動し、複数並ぶアームのうち触診用の二本に磁気センサを取り付け、力覚の感度を10倍まで増幅し同期させる。手術台上の何も無い空間をSaverで触れると、横たわる彼女を守崎は指先で感じた。手術台には美玲の姉の幽霊が本当に存在していたのだ。
 アームで位置を確かめながら彼女が受けた手術を幽霊にも行う。磁気センサで触れている間しか彼女を感じることができないが守崎の何百、何千とSaverで治療した経験と力覚のわずかな変化も感じ取れる天性の才能が、この手術を可能にしていた。8時間にも及ぶ格闘の末、守崎はついに幽霊への手術を成功させた。
 
 次の日、美玲が姉の意識が戻ったことを電話で教えてくれた。姉は眠っている間、ロボットに治療される夢を見たと不思議そうに語ったそうだ。
 受話器を置いて、机の写真を一瞥して守崎はひとりごちた。
「患者を選り好みしてたら、ぶっ飛ばされちまうもんな。どんな患者でも治す、そうだろ?親父」
 机のカップに入ったスプーンがカタと揺れた気がした。

文字数:1478

内容に関するアピール

 ダ・ヴィンチをはじめとする手術支援ロボットの技術進化は目覚ましく、最新のロボットでは鉗子に加わった力覚を操作者にフィードバックできるものが医療の現場で活躍しています。またその力覚を感度を十倍にして、脆く繊細な組織を手術する技術が確立し始めています。この物語ではそんな手術支援ロボットの最新技術と身体拡張に繋がるセンサフィードバックを題材にし、実態のない幽霊を触り治療出来たら!と考え書きました。
 百年近く前から、それぞれの生物が知覚し作用する世界がその生物にとっての実世界である、という『環世界』という考え方があります。
 物語に出てくる力覚センサや磁場を感じ取れる磁気センサ、それらを用いて私たちの知覚能力を拡張した先には新たな環世界が広がる未来が想像できます。遥か未来の人類は五感だけでなく六感さらに七感といった感覚に基づいて生活を拡張させているかもしれません。

「触覚」を有する手術支援ロボットシステム「Saroaサージカルシステム」を用いた泌尿器科領域での初症例に成功
https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000008.000084908.html

10分の1のスケールの世界に触れることを可能にする「精密バイラテラル制御システム」

https://www.sony.com/ja/SonyInfo/research/technologies/bilateral_control_system/

文字数:616

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実体のない執刀

「こちらが見学室になります。医師などの関係者しか立入禁止なのですが美玲さんは今回特別ということで」
 白い長髪を結った色黒の中年医師、高町成人たかまちなるひとがひとりの女性を案内する。彼女は君坂美玲きみさかみれい。切れ長な目に手入れの行き届いた艶やかな黒髪で整った顔立ちは誰もが納得するほどの美貌だった。白い扉を引くと白衣を着た数人の医師たちがモニターを眺めている。美しい来客に医師たちは驚き思わず見とれたが、慌ててモニターに目を向けた。
 正面に設けられた大きな窓ガラスからは手術室全体が、側壁のモニターから内視鏡で写した術野など手術の詳細が観察できるようになっていた。手術室には患者が手術台の上で仰向けに寝ている。ごくありふれた手術の光景だが通常と異なるのは患者の真横に6本のアームを携えたロボットが鎮座しているところだ。
「あれが最新型のSaverですね」
 美玲はロボットをまじまじと眺める。手術支援ロボットSaverの純白な腕は滑らかで柔らかい流線型を描き、洗練されたデザインであると共に理に適った形状であることが伺える。左右3本対称に配置された腕の先端には術式に使用するクリップやナイフが取り付き、一見すると攻撃的な印象だが、全体のフォルムからまるで翼を折り畳んだ天使が自らの使命を待ち構えているような高貴さ、崇高さを感じた。このロボットになら自分の手術を任せられる、素人の美玲でもそう思わせるような不思議な存在感があった。
 腹腔鏡手術を支援する内視鏡下手術支援ロボットは患者の腹部に小さい穴を開け、アームと内視鏡を挿入することで手術を行う。本来、開胸が必要となる手術でも手術支援ロボットを用いれば患者の負担が少ない低侵襲で治療でき、早期の退院が可能となる。ここ数年での手術支援ロボット技術は飛躍的に向上し、数々の手術を成功させた実績から一気に普及した。大病院だけでなく中規模の病院でも手術支援ロボットが1台は導入されるほど医療現場では身近になり、多くの患者の命を救う手助けをしている。
 中でもNIMT社(Nippon Medical Technology Co.)が開発した手術支援ロボットSaverは難易度が高く開胸しなければ不可能と言われていた手術を成功させ、その名を世間に轟かせていた。
「今、守崎が入室しました。そろそろ始まります」
 手術室に隣接するSaverの操作室に男性医師が入ってきた。色白で線の細い青年、彼が守崎みことだ。
 Saverによる腹腔鏡手術で治療不可能と言われた高難易度な治療を成功させた天才医師であり、医療業界だけでなく世間では彼の腕前を”神の手”と称賛している。美玲からの要望で高町は丁度予定していた手術の見学に連れてきたのだった。
 守崎がSaverのサージョン・コンソールに座り3Dビュワー内視鏡と接続された接眼レンズを覗き込む。Saverはサージョン・コンソールに設置されたグリップとフットペダルを使って操作される。ペダルを踏むことで6本のアームの制御を切り替え、グリップにより把持や切除を行う。何度かグリップを握る動作を繰り返し、Saverのアームを確認すると守崎はマイクに向かった声をかける。
「これよりロボット支援下での大動脈弁再建術を行う。術式は弁形成術だ」
 それを聞いた手術室の助手やスタッフたちが目配せをして各々頷く。
 助手の医師は患者の右第四肋間にメスで3センチほどのワーキングポートを開ける。次に右第三肋間にロボット左手用の小さい切り口、右第六肋間にロボット右手用の切り口を。内視鏡用のカメラポートは、ロボット右手用と左手用の真ん中に確保した。
「各ポートの確保ができました」
 守崎は助手の合図でSaverを操作し、アームをポートから患者の体内に挿入していく。
 室内のモニターには3D内視鏡により心臓が大きく映し出された。今、見学室のモニターに映っている映像は守崎がサージョン・コンソールで見ている映像とリンクしている。
「アプローチが早い。しかも弁形成術って言ったよな?」
 モニターで見学してた医師たちの会話が美玲の耳に届いた。
 それを察して高町が説明する。
「通常、大動脈弁再建術での弁形成は胸骨正中切開で行いますが守崎はSaverで弁を成形します。豆腐のように脆い大動脈弁を胸の中という狭い空間で縫い合わせることができるのは守崎以外にいないでしょう」
 聞きながら美玲は守崎の正確で一切無駄のない動きに釘付けになっていた。
 既に患者は心臓を停止、人工心肺に乗り大動脈弁形成に移っている。
 アームの先端に取り付けられたジョーと呼ばれる鉗子が、糸のついた針を掴んで弁を縫い合わせていく。あまりにも見事な縫合だ。収縮し役割を果たせなくなっていた弁がみるみるうちに形を取り戻していく。
「これが”神の手”と呼ばれる理由ですね」
「ええ、複雑な立体構造の弁を守崎は素早く正確に縫い合わせてしまいます」
 気が付けば手術は終盤へと差し掛かっていた。弁形成が終わり、今度は人工心肺から患者の心臓に戻すため大動脈遮断を解除する。大動脈の鉗子が外され心臓の鼓動が再開した。
「拍動、再開しました。体外循環、離脱します」
 心臓内に残っている空気の脱気が始まり、患者の心臓が自己脈を出し始める。守崎が形成した弁は従来の役割を果たし、患者の心臓は規則的に脈打っていた。
「術式完了。縫合を頼む」
 Saverのアームが体内から引き抜かれる。内視鏡が映していた術野は消え、手術が無事終了したことを示した。
「まるでタクトを振る指揮者のような、美しい動作でした。無理を言って拝見させて頂きありがとうございました。」
 神の手に驚嘆した美玲は深くお辞儀をした。
 守崎命、Saverによる手術支援ロボット下での大動脈弁再建術を確立させた天才医師。神の手の執刀は美玲が見ても強烈な印象だった。

「高町先生、美玲さん。それでは戻りましょう」
 後ろから声をかけたのは看護師の織部澄香おりべすみかだった。艶やかな黒髪は肩の所で切り揃えられ、清楚で整った顔立ちをしている。知的だが他の者を寄せ付けない物静かな雰囲気を美玲は感じていた。
 澄香は高町医院で看護スタッフを務めており高町の部下にあたる。実は高町は高町医院の医院長とここ帝都大学附属病院の特別主任、2つの肩書を持っているのだ。
「澄香君はせっかちだな。折角なんだからSaverについて説明して差し上げてくれないかな」
 まさか急に振られると思わなかったのか澄香は高町に怪訝な顔を向けた後、窓ガラスへ一歩進みSaverを指差した。
「先ほど守崎先生が操作していたのがSaver。NIMT社が開発した最新手術支援ロボットです。手術支援ロボットならば、胸骨正中切開といった侵襲性の高い術式の代わりに、身体にアクセス用のポート穴を開けるだけの低侵襲な術式で治療が可能となります。そしてSaverの最大の特徴はあの白いアームにあります。」
 物静かな印象とは裏腹に、澄香は饒舌に説明を続けていく。
「鉗子などが取り付くジョーの根元には6軸の力覚センサが内蔵されていてアームが感じた力、即ち身体の硬さをSaverは感じ取ることができます。そしてそれはサージョン・コンソールで操作している守崎先生の手のひらにフィードバックされるのです」
 澄香がSaver本体と操作室のサージョン・コンソールを交互に指差した。
「ということは、Saverが感じた触感を守崎先生も感じ取っているということ?」
 美玲の質問に澄香は心なしか得意げに答える。
「ご理解が早いですね。その通りです。しかもあのSaverは守崎先生の特別仕様になっていて、通常の10倍の分解能を有する力覚センサが取り付けられています。守崎先生は通常の医師では感じ取れないレベルの細かい感触を感じ分けているので、先ほどのような繊細な弁膜の再建も行えてしまえるというわけです」
 触覚センサの分解能が高すぎても人間の触覚がついてこれなければ意味は無い。人間の触覚センサにあたる、指先のメルケル細胞やパチニ小体の分解能が限られているからだ。しかし守崎は常人より遥かに高い感度の触覚受容器を持っている。異様に発達した触覚受容器とSaverによる力覚フィードバック、これが神の手の正体だった。
 澄香の解説が終わった直後、見学室の扉が開き、先ほどまで執刀していた守崎が姿を現した。
 美玲の傍まで一直線にツカツカと歩み寄る。
「美玲さん。Saverは必ず応えてくれます。だから私とSaverを信じてください」
 真剣な守崎の表情に美玲も正面から見据える。前代未聞の手術が始まろうとしていたのだった。
 ことの始まりは少し前に遡る――。

1週間前。ベッドタウンに位置する高町医院の応接室に、長机を挟んでソファに座った高町と美玲が向かい合っていた。
 美玲の表情は固く、思い詰めた様子で両膝に乗せた両手は強く握られている。先に口を開いたのは高町だった。
「わざわざ当院にお越し頂きありがとうございます。単刀直入にお伺いします。メールで仰っていた守崎の”神の手”が必要、というのはどういった事情でしょうか?」
 美玲はハッと顔を上げて高町を見据える。
「事前に用件お伝えできなかったのは申し訳ありません。きっと書いても信じてもらえないと思ったからです」
 それを聞いて顎に手を当てる。どうやら単なる治療の依頼では様子を高町は感じ取った。
 その時、コンコンと扉がノックされる音が響いた。扉が開くと3人分のお茶をトレーに載せた澄香だった。その後ろには守崎の姿もあった。白衣のポケットに両手を突っ込み、目にかかる重たい前髪のせいか童顔だが陰鬱な雰囲気を感じさせる。
「僕のことは気にしなくていい。それより話を続けてくれ」
 開口一番、高町の隣にどかっと座るとポケットに手を入れたまま長い足を組んだ。
「すみませんね。守崎は常識のないやつでして」
 困った顔をしながら美玲に諭す。美玲は守崎の性格にも面食らっていたが1番驚いていたのは守崎の若さだった。”神の手”と称され数々の手術を成功させた名医と聞いていたので、てっきり中年の医者を想像していた。だが目の前にいる不遜な医者は25歳前後の研修医にしか見えない。
 長机に澄香がお茶を差し出した。トレーを胸の前に抱え、扉の隣で控える。
 美玲は、いただきますとお茶に口をつけ心を落ち着かせる。高町、守崎を交互に見た後ふうと息をついて意を決した。
「実は、姉を――姉の幽霊を手術してほしいのです」
 高町は驚きに目を見開き、守崎は睨みつけるように目を細める。ただならぬ空気が応接室を支配していた。

「馬鹿馬鹿しい。幽霊に手術だと?いたずらなら帰ってくれ」
 勢いよくソファから立ち上がり踵を返す守崎を高町が白衣を引っ張り引き止める。
「まあ待て。ちゃんと美玲さんの話を聞いてからだ。いたずらならわざわざアポ取ってここに来ないだろ」
 高町は美玲の真剣な表情、決意を含んだ瞳を改めて確認する。こちらが物怖じしてしまうほどの強い視線だ。
 高町があまりにも引き留めるので観念したようにため息を吐くと守崎は座り直した。
「姉の幽霊と言ったな。君のお姉さんは既に亡くなっているのか?本当に幽霊を見たのか?百歩譲って幽霊がいたとしてなぜ、手術が必要なんだ?」
 矢継ぎ早に守崎は美玲に質問を投げかける。一方的な応酬に少しばかりたじろいだ様子の美玲だったがはっきりとした口調で説明し始めた。
「姉の幽霊、という言い方は少し語弊があるかもしれません。姉の名前は君坂麗きみさかれいと言います。歌手をやっていて名前は逢坂麗です」
 高町があからさまに驚いた様子を示して身を乗り出した。
「逢坂麗さんの妹さんでしたか。ご姉妹で美しいのですね」
 高町の軽口にも守崎は興味なさげで、両の指先を突き合わせてその指を人差し指から順にクルクルと回していた。
「いや、でも待って下さい。確か逢坂さんは昏睡状態になっているはずでは……」
「そうです。姉は1ヶ月ほど前に王立大学の病院で心房中隔欠損症手術を受けました。手術は無事成功したと聞きましたが術後、未だに意識は戻っておりません」
 眠り続ける姉を思ってか、視線を膝に落とし美玲は揃えた両手の拳を握り込む。
「私は毎晩、姉の傍に付き添っていたのですがある時不思議なことが起こったんです」
 美玲はもう一度顔を上げる。高町は両手を交差させて美玲の話を真剣に聞いている。興味はなさそうであるが守崎も美玲の話には耳を傾けている様子だった。
「その日も姉はいつものように眠っていました」

蛍光灯で照らされた病室は白を基調としているせいか妙に無機質で冷たく感じる。
 純白のシーツがかけられたベッドにはひとりの歌姫が眠り続けていた。少しウェーブのかかった明るい茶色の長い髪は丁寧に手入れされて美しさを保っている。麗の髪を梳かすのは美玲にとっての日課だった。
「今日もお姉ちゃんは綺麗だね。でも早く起きないと髪の毛、傷んできちゃうよ?」
 そう言って麗の髪を櫛で梳いていく。櫛からは艶やかな頭髪がサラサラと流れていった。
 麗の眠る病室は個室で、取り付けられた心電計が規則的に音を発しているだけだ。姉と妹だけのこの空間は悲しいほどに静寂で満ちている。
 面会限界時間ギリギリまで傍にいる美玲は麗の髪を梳かし終えると持参した本を読もうと手提げバッグに手を伸ばす。
 ふと、何か得体の知れない違和感を感じた。麗の様子は相変わらず眠ったままだ。その上の空間、ベッドから人ひとり分の高さから視線のようなものを感じる。誰かにじっと見つめられているような感覚。もちろん視線を感じる空間には何もない。
「お姉ちゃん……なの?」
 発した言葉の内容は美玲自身も予期していないものだった。なぜ姉の麗だと思ったのかわからない。ただ感じた視線にはらどこか懐かしく温かさがあった気がした。
 ――カタ。
 音がした。
 麗の下着やパジャマが入っているキャビネットの上に置いた飲みかけのカップにあるスプーンが揺れた音だった。中のコーヒーはスプーンが揺れたことで波紋を作っていた。
 問いかけに呼応するように動いたスプーンを見て、美玲は目を見開く。
「お姉ちゃん。お姉ちゃんは私の声、聞こえてるの?」
 ――カタ、カタ。
 わずかな沈黙の後、2度。スプーンが明らかに揺れた。
 信じ難いことではあるが美玲は確信した。この空間には美玲、麗の人間2人以外に何かがいると。スプーンの揺れは偶然では片付けられない。
 意を決して美玲は虚空に向かって再度問いかける。
「あなたはお姉ちゃんの幽霊で、お姉ちゃんは死んじゃったの?」
 今度はスプーンが揺れることはなかった。
「お姉ちゃんは生きているの?」
 カタ、カタ。スプーンは2度揺れる。どうやらこれは工程のサインのようだった。
 美玲は麗の意識があり、麗はまだ生きていることに胸をときめかせる。昏睡状態の麗と意思疎通が図れるのならばこれほど嬉しいことはない。
 質問したいことは沢山あった。美玲は麗の幽霊と思われるそれに次の質問をしようとした矢先。
 カタ、カタ、カタ――カタカタカタカタカタカタ。
 今までの返答とは違う異様な揺れに美玲は恐怖を覚えて身構える。
 麗の幽霊に向けて気を研ぎ澄まさせていると、麗が息苦しそうにしているのを感じた。直感的な感覚でしかないが麗が苦しそうに胸を押さえている姿が脳裏をよぎる。
「苦しい?苦しいのね、お姉ちゃん!」
 麗が苦しそうにしている様子はまるで、あの時にそっくりだ。麗が病気を患い、手術を行う前のあの様子と。
 美玲は確信した。麗は生きていると、そして麗の幽霊も同様に心房中隔欠損症に苦しんでいることを。
「お姉ちゃん。私が絶対お姉ちゃんを助ける。お姉ちゃんがたとえ幽霊になっていたとしても、ちゃんと手術を受けられるお医者さんを探してくる。だから、もう少しだけ待っていて」
 胸に両手を当てて、美玲はたったひとりの姉に届くように声を絞り出した。意識はなおも病で苦しみ続けている麗を救うため、美玲は決意した。姉の幽霊を治療できる外科医を必ず探し出し、手術させてみせると。
 部屋でひとり、そう告げると、美玲を温かな風が撫ぜた気がした。――カタカタ。スプーンは揺れ、それきり動くことはなかった。規則的な鼓動を知らせる電子音だけが再び病室を支配した。
 面会時間終了までまだ時間はあったが美玲は立ち上がり病室を後にする。
 幽霊をも治療できる天才外科医。美玲は一刻も早くその人物に会いに行かねばならなかった。

「そして、私は”神の手”と呼ばれている守崎先生のことを知り、こうして先生が普段診察を行っている高町医院に足を運んだのです。お願いです。守崎先生!先生の技術がどうしても必要なんです。お金ならいくらだろうと構いません。どうにかご用意致します。どうか、姉を。お姉ちゃんを助けてください!」
 切れ長の目にはいっぱいの涙が溜まって今にも零れ落ちそうだった。美玲は大きく頭を下げて懇願する。黒艶の綺麗な髪がリノリウムの床に擦れるのもお構いなしに、深くお辞儀した。
 経緯を聞き終えた守崎は両腕を組んだ状態で目を閉じ、じっとソファに座っている。対する高町はどうしたものかと額に手を添えて、頭を悩ませていた。
 美玲の話した麗の幽霊とのやり取りは妄想にしてあまりにも具体的であり、国民的な人気を有している逢坂麗の妹が面白半分でこのような依頼をしてくることは、あまりにもリスクだった。間違いなく美玲は本気なのだろう。
「ま、まずは顔を上げて下さい。正直、美玲さんがお話しについて半信半疑です。幽霊が実在するなんて信じ難い。仮に幽霊がいたとして、それを治療するとなると……」
 高町が当惑した様子で眉をひそめる。
「カップに入っていたスプーンが揺れたと言ったな。それは間違いないな?」
 高町の話を遮って守崎は美玲を見据えながら尋ねた。
「間違いありません。姉はスプーンを揺らして私の質問に答えてました。きっとそれが幽霊としてできる唯一の返答だったと思います」
 それを聞いて守崎は勢いよくソファを立ち上がる。
「……わかった。この依頼、受けよう」
 扉の前で話を聞いていた澄香は守崎のセリフを聞いて目を見開いた。
「おい!ちょっと待て!本気か!?幽霊を手術してくれって言ってんだぞ」
 独断で即決した守崎を高町が慌てて制止するが守崎の中では既に決定された事項となっていた。高町の声はもはや届いていない。
 守崎の言葉に美玲は目頭が熱くなるのを指を添えて堪えようとしたが、とめどなく溢れる涙が落ちて頬を伝う。
「守崎先生……ありがとうございます!」
 もうこうなっては断ることはできない。高町は頭をガリガリとかいて守崎の方を見た。
「でもどうするんだ?麗さんは王立大病院にいるんだろ?幽霊もそこにいるんだろうし。どうやって治療する?まさか王立大で手術するわけじゃないだろ?」
 守崎は白衣のポケットに手を突っ込んだまま答えた。
「手術はもちろん帝都大病院で行う。麗さんの幽霊を搬送する」

「それではいきますよ。いち、に、さん!」
 2人1組の救急隊員が横たわる女性、君坂麗の身体を搬送用ストレッチャーにベッドから移し替えた。
 そして、救急隊員たちはお互いの顔を見合わせる。自分たちが次に何をするべきか戸惑っている様子だ。
 それもそのはず。もう1台のストレッチャーには何も載っていない。青色のマットは無人だった。
「美玲さん。麗さんの幽霊に、ストレッチャーに寝るよう伝えてくれ。麗さんの身体と一緒に帝都大病院まで運ぶ」
「お姉ちゃん。守崎先生が来てくれたよ。守崎先生がお姉ちゃんを治してくれるから。一緒に行こう」
 そう伝えると美玲は麗の身体が載っていない、空のストレッチャーを凝視する。美玲にしか感じ取れていない僅かな気配から麗の幽霊がストレッチャーに横たわったことを確認した。今、麗の幽霊はこのストレッチャーに寝ている。
「大丈夫です。お姉ちゃんはストレッチャーに移ってくれました」
 救急隊員は行われた一連のやり取りに目をぱちくりさせている。目の前にある空のストレッチャーには幽霊が寝ていることなどにわかには信じられなかった。
「君たち、今日見たことは他言無用に頼む。俺は麗さんの身体の方を運ぶから、君たちは幽霊の方を運び出してくれ。人間だろうが幽霊だろうが患者の扱い方は変わらない。慎重にな」
 守崎はそう言い放つと麗を載せたストレッチャーを運ぶ。救急隊員はお互い頷き、気を引き締めて無人のストレッチャーを押して後に続いた。
 リノリウムの無機質な病院の床をストレッチャーの車輪が音を立てて転がっていく。麗を運び出す守崎、横には美玲が付き添う。そして、後ろには無人のストレッチャーを真剣に搬送する救急隊員2人の姿だった。
 その光景に通り過ぎる医者や看護師たちは、何事かといぶかしげな顔を浮かべる。周囲の反応を無視して守崎たちは麗たちを病院の外へ運び出した。
 救急外来用の扉を開け放つと1台の救急車と高町が待機していた。
「待ってたぞ、守崎。早く麗さんを載せろ。王立大の連中に詮索されたら面倒だ」
 守崎は頷くと麗の身体と幽霊のストレッチャーをそれぞれ救急車の後ろに並ぶように載せて、救急車が発信する。
 前代未聞の、実体を伴わない搬送は静かにひっそりと、平穏に過ぎてゆく街で行われた。走る救急車を誰も止めはしない。まさか中に幽霊が眠っているなど誰も想像できるはずもなかった。

高町の指示で無人の診察室にストレッチャーを運び、救急隊員は部屋を後にする。
 息の荒い高町が守崎に問いかけた。
「んで、守崎、一体どうやって麗さんの診察をするつもりなんだ?お前さんのことだ。何か勝算があるんだろ?」
「ああ。麗さんは心房中隔欠損症手術を受けて以降、意識が戻らないならば幽霊の方にも同じ症状が出ていると予想している。実体がない以上、X線やCTで胸部の画像を撮ることは期待できない。だからこれを使って診察する」
 事前に用意していた先端に磁気センサが取り付いたケーブルの束をカバンから取り出す。だが、これには高町も澄香も疑問を感じた。
 心電図(ECG:Electro Cardiogram)とは心臓の筋肉が収縮と拡張の際に生じる微弱な電気信号を測定し、心臓の一周期を記録したものである。発せられる活動電位は心臓の各部位で異なるため心電図で示されるP波(心房の収縮)、QRSコンプレックス(心室の収縮)、T波(心室の弛緩)の特徴からどの部位に異常があるかを診断できる。
 心電図は筋収縮による電位、即ち微弱な電気を測定する手法であり、必要なのは磁気センサではない。
「美玲さん、改めて確認しますが麗さんの幽霊はスプーンを揺らして返事をしたと言っていたな」
「は、はい。そうです。スプーンの揺れで意思疎通をしているとしか思えませんでした」
「俺は、あれがローレンツ力による揺れだと確信した。実体のない幽霊が物に干渉する方法は、それしか説明がつかない。つまり幽霊は磁場に干渉できる可能性がある。もしそうだとしたら、幽霊の磁気はセンサで認識できるはずだ。だからこの磁気センサを使って麗さんの心拍を測る」
 守崎の説明に美玲たちは希望を抱き、早速、心電の計測に取り掛かった。
 ――しかし、守崎の目論見は外れることとなる。
 幽霊が発する心音は波形で捉えようとするには、ノイズが多過ぎた。ジグザグの乱れた波形を見て高町は呆然とする。
「おいおい、これじゃ心電なんかみれねーぞ」
 ノイズまみれの信号を前に守崎は次の方法を考えあぐねいていた。診断ができない状態で、思い込みだけで執刀を行うわけにはいかない。どんな方法でも構わないが麗の幽霊が本人同様、心房中隔欠損症を患っている確証が必要だった。
「幽霊が磁場を発生させていること間違いないんだ。一体どうすれば……」
 実体のない患者に守崎命は当惑を隠せなかった。王立大病院から運び出している手前、あまり時間の猶予もない。刻一刻と迫るリミットに焦るばかりだった。
「諦めないでください。守崎先生、きっと何か方法があるはずです。私は”神の手”を持つ守崎先生を頼りにここまできました。先生なら必ずお姉ちゃんを助けられるはずです!」
 切実な、祈りにも似た美玲の声が計測室に反響した。守崎はその声に呼び起こされたようにハッとする。
「神の手……そうだ。Saverだ。Saverの力覚デバイスを診察に使う!触診なら心拍が測れる!」
 暗闇に一筋の光明が差し込むかのように守崎はわずかな可能性を見出した。Saverに磁気センサをつけ、その信号を守崎の指にフィードバックする作戦だった。いわばSaverで触診するということだ。
 Saverには磁気センサは備わっていない。しかし拡張機能によるAI補正でそれは原理上可能だった。
 セッティングが完了し、試しにSaverの前に磁石を置いてみる。
 守崎がSaverで触れると、一定の空間を残してアームが止まった。
 「これなら……Saverなら麗さんに触れられる。成功だ」
 執刀の準備が整った合図だった。

手術室には麗たちが運び込まれ、サージョン・コンソールに守崎が座る。手術室には高町がフォローとして麗の幽霊の前でスタンバイしていた。
「準備はいいな。それでは、麗さんの心拍異常を診断。もし心房中隔欠損症の症状が確認された場合、Saverによる心房中隔欠損症手術を行う」
 守崎はグリップとフットペダルを操作しアームを麗の幽霊への接触を試みる。徐々に虚空の手術台とアームの距離が縮まる。ふと、アームがピタリと止まった。
「本当に……実在したんだな」
 守崎の顔が驚愕の表情に覆われる。
 守崎はSaverを通じて、麗の幽霊を感じていた。こうして接触してみるまで確証が持てなかったが幽霊は間違いなく実在している。
 守崎の指先には麗の身体と全く同じ輪郭を捉えていた。
 磁気センサを備えたSaverが麗に触れられるとわかった今、次のステップは心房中隔欠損症特有の心拍変動を確認することだった。
 Saverのアームが麗の胸上に触れて静止する。サージョン・コンソールで守崎は目を閉じ、指先に神経を集中させる。
 そもそも心房中隔欠損症は超音波による心エコーもしくは心音によって診断する。心房中隔の穴により酸素-richな血液と酸素-poorな血液が異なる心房間で混ざり、その時に特有の音を発するためだ。
 しかし、磁気センサでしか認識することができない麗の診察は指先への触覚でしか判断できない。わずかな脈動の違い、血液の流れを守崎は感じ取ろうとしていた。
 Saverのアームが数センチ移動しては静止する。最も拍動を感じる位置でアームの探索が落ち着く。
 ――トク、トク、トク。一定のリズムで流れる鼓動の中に微かだが、ザザッと血流が乱れる感覚がフィードバックされたのを守崎は見逃さなかった。
「やはり。幽霊も心房中隔欠損症なんだ」
 目を閉じていた守崎はハッと顔を上げ、マイクに向かって言い放つ。
「麗さんの幽霊は本人同様、心房中隔欠損症だ。心拍異常、血流にも規則的なノイズを感じた。これから心房中隔欠損症手術に移行する」
 手術室で待機していた高町と澄香はガラス越しの守崎にもわかるように大きく頷く。
「執刀を開始する」
 手術支援ロボットによる幽霊への心房中隔欠損症手術。”神の手”と称される天才にふさわしい、人類史上初の執刀が始まろうとしていた。

心房中隔欠損症は、左心房と右心房を仕切る心房中隔に欠損孔と呼ばれる穴にパッチを当てるか壁面を縫い合わせることで治療する。幽霊に当てるパッチが存在しない以上、守崎は壁を縫い合わせることにした。
 心房中隔欠損症手術の難易度は手術支援ロボットによる術式が確立された昨今、決して高いものではない。しかし、今回は患者の姿が見えないという問題がこの手術の難易度を最大限に高くしていた。
 守崎は幽霊も本人同様の病に侵されている以上、同じ術式を幽霊本体に行う必要があると考えた。そのため従来の術式通りSaverが体内へアクセスするためのポートを確保することから始めた。Saverを操作し、麗の右第四肋骨間の場所を探す。触覚センサが守崎へ幽霊の形状を伝えていく。
 見えない以上、守崎は触覚情報を基に脳内で麗の身体を構築していく。右第四肋骨間に該当する場所でアームを止め、メスのついたアームでワーキングポートを開けた。そして、第三肋間および右第六肋間に開けていく。姿が見えないので内視鏡用ポートは省略する。
 「内視鏡用ポートを除く、各ポートの確保完了。心拍の乱れはなく、良好。このまま続行する」
 
 アームの先端が麗の胸中への侵入していく。外から見た光景はSaverが空中に向かってアームを伸ばしてるだけだが、守崎の頭の中には麗の内部がはっきりと見えていた。
 心臓部に到達し、いよいよアプローチを開始する。磁気センサでなぞりながら心房の形状、位置を把握。血脈に鉗子を添えた。
 「よし。クランプによる心停止を行う。心停確認後、合図をするから人工心肺に繋げてくれ」
 手術室の高町が理解し、手を軽く挙げた。高町も緊張した面持ちで待機している。
 探り当てた血管を鉗子で挟み込み、血流の流れを制御する。次第に拍動の間隔が長くなり、やがて心停止したのが確認された。
 守崎が手術室に向かって大きく頷く。高町はSaverに人工心肺のカテーテルを取り付け、麗にアクセスさせる。スイッチを入れ、人工心肺を作動させた。
 誘導電流を絶えず発生させる人工心肺は期待通り、心臓が停止しても血液の流れを維持できた。これで心房を開くことができる。
 現在は安定しているように見えるが、いつ容態が変容するかわからない。1秒でも早く術式を完了させなければならない。
 カルテで事前に把握していた通り、右心房から欠損した心房中隔に到達する。
 (術野が見えないというのは慣れた手術でもこれほどまでに難しいのだな……)
 磁気センサによる触覚フィードバックが守崎に手術を可能とさせているが、言わばそれは目を瞑っての執刀であった。一瞬でも処置をミスすれば大惨事になりかねない。覚悟はしていたが想像を絶する難易度に、守崎の背中は汗でぐっしょりと濡れている。
 なぞっていくと問題の欠損箇所を見つけた。心房中隔の形状を瞬時に把握し、縫合していく。脳内で構築している形状を少しでも誤れば正しい縫合ができない。全神経を集中させ、少しづつ傷を塞いでいく。
 ふと、Saverのアームが停止した。守崎は苦悶の表情を浮かべている。
 フィードバックされる力触覚があまりにも弱いのだ。原因は心房中隔の脆さにあった。磁気センサではフィードバックできないレベルの微弱な磁場しか計測できない状態に守崎は歯を食いしばる。
(頼むぞ、Saver。お前と俺なら、絶対に治せるはずだ!)
 守崎はサージョン・コンソールに配置されている1つのダイヤルを目一杯回した。Saverの感度を更に10倍上げたのだった。
 途端に守崎の指先へかかる力覚フィードバックが増大し、微弱な磁気でも指先で感じ取ることができるようになる。しかし、感度が上がるということは、その分ノイズも拾いやすくなるということだった。ノイズによるフィードバックが絶えず降り注ぐ。
 守崎はゆっくりと息を吐き、ノイズに埋もれた信号から心房中隔の感触のみを探し出そうとする。何百もの手術経験と天才的な感覚から自身の力だけでノイズフィルターを構築したのだった。
(……あった!)
 脆くなっている部分の心房中隔を探り当てた。Saverを操作し、慎重に縫合していく。するとどうだ。次第に感覚が明朗になり、心房中隔の触覚ははっきりと守崎に伝わっていた。Saverが持つAIが守崎の動きから必要な信号が何かを学習し、麗の磁場を選択的に抽出していたのだ。
 縫合が完了し、人工心肺から心臓を再起動させる。徐々にクランプの力を緩めて、血液の循環を戻していく。
 そして、拍動が正常な一定のリズムを取り戻したことを確認すると、最後にポートの縫合をして、守崎が呟いた。
 「縫合完了。心拍安定。……心房中隔欠損手術を終了する」
 最も待ち望んでいた言葉に高町と澄香はハイタッチして喜ぶ。守崎の後ろで見守っていた美玲も涙を流しながら安堵の表情を浮かべていた。
(Saver、お前は最高の相棒だよ)
 仕事を終えたSaverをねぎらう様に守崎はガラス越しに操作室からSaverを眺める。翼を折り畳んだ天使は、いつも変わらない美しさで佇んでいた。

「あーこれは腫れてますね。うがい薬出しておくんで、あとで受け取ってください」
 大きく口を開けた年配の男性の赤く腫れた口蓋垂をライトで当て覗きながら、守崎が言う。
 その場で印刷した処方箋を渡すと男性は礼を言って診察室を後にした。
 マグカップに入ったコーヒーをすすり、先ほどの診察結果をカルテに書き込んでいく。
 この高町医院では、のどかな時間が流れていく。午前中の診察は終わり、昼休憩の時間になろうとしていた。
 「ちょっと、ちょっと、ちょっと!どういうことですかこれ!!」
 静けさをぶち壊すような悲鳴が院内に響き渡る。
 診察室のドアを勢いよく開けて入ってきたのは受付をしていたはずの澄香だった。その手にはお昼ご飯を買う時にコンビニで見つけたのだろう1冊の週刊誌が握られていた。
 週刊誌を見開き守崎へと突きつける。
 顔面に週刊誌を突きつけられても特に動じず、冷静に反応する。
 「どうしんたんだ、澄香くん。キャラが変わってるぞ」
 普段あまり感情を表に出さない澄香のキャラクターは崩壊していた。
 「なに冷静にツッコミ入れてるんですか!この記事、見てくださいよ!」
 守崎が週刊誌に目を落とすと、そこにはこう書かれていた。
 『幽霊は実在した!?実体のない執刀が救ったのは、あの歌姫!”神の手”守崎命と王立大病院の偉業!!』
 「ふむ、ずいぶんな書かれ方だな。何故、ゴシップ誌というやつはこうも書き方が下品なのだ」
 顎に手を添えてしげしげと興味なさげに読んでいる。記事を読んでも驚いている様子はなく、澄香は唖然とした。
 「驚かないんですか!?だってこの前の麗さんの、幽霊の手術のことが記事になってるんですよ?」
 「ああ。……だってその情報を渡したのは俺だからね」
 まさかの発言に澄香が持っていた週刊誌を落としそうになる。お茶を飲んでいる最中なら噴き出していたところだ。
 「守崎先生自身が!?」
 事態が呑み込めない澄香が目を白黒させていると、高町が入ってきた。
 「なんだなんだ騒々しい。守崎、お客様がご到着だぞ」
 守崎は満足そうに頷き、澄香に声をかける。
 「丁度いい。澄香くん、答え合わせだ。応接室にお茶を4人分頼む」
 そう言い残すと守崎は一足先に応接室へと向かった。

澄香がお茶の載ったトレーを持って、応接室に入るとそこには守崎と高町そして、すれ違えば誰もが振り向くであろう美しい女性が2人、ソファに腰かけていた。
 美人の正体に澄香は思わず目を見開く。君坂美玲と君坂麗の姉妹だった。
 美玲も麗もニコニコと笑顔を浮かべて、澄香を見るなり勢いよく立ち上がった。
 「美玲さん、それに麗さん!もう外出できるようになったんですね」
 澄香が嬉しそうに声を弾ませる。
 「そうなんです。澄香さん、あの時は本当にありがとうございました」
 麗は澄香に深々と一礼した。澄香は慌てて手を振る。国民的歌姫に感謝を述べられるとなんだか気恥ずかしさより申し訳なさを感じる。
 「澄香君も座ってくれ。俺たちがどうして今回の手術を世間に公表したのか、そしてこれから何が起こるかについて話す」
 守崎は真剣な表情だった。高町もこれから先の苦労を想像してか、一文字に口を閉ざしていた。
 「俺たちはここにある週刊誌に書いてある通り、2人の了解を得て今回の手術の内容を公表した。幽霊は実在し、その幽霊を手術したことで麗さんが昏睡状態から脱したことを含めてすべて」
 守崎の説明によると公表した理由のまず1つが王立大の手柄にし、その功績を世間に広める必要があったそうだ。王立大病院の患者を運び出し帝都大病院で手術をするという正規の手順を踏まないグレーな執刀を行ったことは王立大にとって見過ごせない事態であり、ましてや帝都大病院が治したとなると王立大への世間の信用が落ちることは明らかだった。そこで高町の口利きにより王立大の手柄と公表し、守崎たちはお咎めを逃れたのだ。
 そして麗の幽霊を手術したことに対してだが、これは幽霊が実在する事実を守崎たちだけに留めるわけにはいかなかった。
 「幽霊は特定の磁気センサでしかその存在を捉えることはできないが、確かに存在した。信じ難いがこれは大発見だ。世界の物理法則が変わるんだ」
 あまりのスケールの大きさに澄香には実感が湧かないがこれをきっかけに医療業界含め今までの常識が覆る予感に一抹の不安を覚える。
 守崎がTVをつけるとワイドショーで何人かの専門家が幽霊の実在性について議論していたところだった。
 「それで、守崎先生はどうするんですか?」
 澄香が問いかける。
 「俺か?俺は何も変わらない。ただ目の前の患者を救うだけだ。それが人間だろうと幽霊だろうと同じだ」
 守崎は真剣な表情を崩さず宣言した。本当にこの医師は人を助けることしか考えていない。
 「おそらく治療が必要な幽霊が世界中にまだまだいるはずだ。これからもっと忙しくなるぞ」
 どこか興奮した様子の守崎はそう言って自室に向かってしまった。
 「……ったく。取りまとめるこっちの気もしらないで」
 高町が呆れたようにため息をつくが、1人でも多くの人を救いたい。その気持ちは同じだった。
 「高町先生。今度、ぜひライブにいらしてください。先生たちのおかげでまた歌えるようになったんですから」
 ソファの間のテーブルに麗がライブのチケットを差し出す。関係者専用のVIP席だった。
 「こういうご褒美があるなら、幽霊の手術も悪くないか」
 チケットを持ち上げて高町は嬉しそうにひとりごつ。その様子を見て君坂姉妹はクスクスと顔を見合わせて笑っていた。

自室で守崎はデスクの上に置いてあった写真を手に取った。はにかむ様に笑う幼い少年の後ろには柔和な顔を浮かべた精悍な顔立ちの男性が立っている。
 「親父。あんたの言った通りだ。俺には患者のより好みなんてできない。人間だろうと幽霊だろうと俺は助けるよ」
 幽霊を手術した第一人者として守崎のもとに依頼が殺到するだろう。だが今まで救うことができなかった幽霊たちを救うことができるようになる。それだけで守崎の胸は高鳴った。
 マグカップの中に置いたスプーンが1度カタ、と揺れた。窓は開いておらず風ではない。
 それを見て守崎は気を引き締めるように真剣な表情を浮かべる。
 ”神の手”の執刀はまだ始まったばかりだ。

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