キノコ狩りにはうってつけの日

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梗 概

キノコ狩りにはうってつけの日

近未来の長野県。14歳のリコは飛び級で高校を卒業し、大学生の従姉のカオルと一緒に行動していた。リコとカオルは、近所で発見した小さな光るキノコ、ピノをきっかけに、特定の植物や菌類のにおいや音から、簡単な人間の言語に変換するアプリを開発し、無害なベータ版を発表した。

ある日、リコはカオルと山登りをし、カオルだけ行方不明になり、リコは家にこもりがちになる。一方、開発したアプリは話題になり、買い取りたいと申し出る企業も出てきた。リコはアプリを悪用しないというカオルの意思を継ぎ、完全なものにするまでは誰にも売らないと決める。

カオルの学友たちは、リコのことを心配していた。リコはアプリを完全なものにするために、大学進学の奨学金を獲得し、リコは植物や菌類、とりわけキノコとの対話の研究に従事し、キノコの下にある菌糸の集合体である菌糸体を材料とするバイオ素材の開発チームに加わる。

菌糸煉瓦は、廃棄物を母体として菌糸体を繁殖させ、必要な形に成長してから活動を止めることで製品になる。リコは、菌糸体の伝達物質を調べ、菌糸体は一定温度まで冷却すると活動を休止し、常温に戻しても休止したままだが、再び冷却すると温度がトリガーになって目覚めると知る。つまり温度をコントロールすれば煉瓦の形を保つし、氷河期が来て生物が死に絶えても、煉瓦は生き残る可能性がある。

開発チームと企業は手を組み、生命を引き継ぐカプセルというコンセプトで助成金を獲得し、菌糸煉瓦を売り出す。しかし菌糸煉瓦ではじめてつくった大学施設のお披露目で建物が崩れた。銃所活動を試みても、煉瓦が形を変えて人を閉じ込める。

リコが実験室に行くと、起動したデバイスが菌糸煉瓦に触れてアプリが起動する。リコは煉瓦を再冷却して菌糸体を目覚めさせることを思いつくが、反応がない。疑念を抱いたリコは、実験室の菌糸体が自宅のピノに由来することを思い出し、ピノをアプリにかける。

再会を喜ぶピノによれば、該当の菌糸煉瓦は、冷却される前に熱処理され、記憶を失っているという。製造の簡略化を図る企業は、大学側に知らせずに熱処理を行ったのだ。ピノは、菌糸体は有機物素材を分解して食べるが、菌糸煉瓦は分解対象を忘れてしまい、人を食べようとしているのだろうと告げる。
リコはピノを実験室につれていき、友人の協力でピノを増殖させ、菌糸煉瓦を覆って記憶を共有させる。すると菌糸煉瓦は活動をやめ、内部の人間は無事に救出された。

後日、リコと友人とピノは、カオルが行方不明になった山に向かった。ピノの導き通りに進むと、キノコの巣になって輝くカオルと、開発のアイディアを書きつけた手帳が見つかった。

文字数:1096

内容に関するアピール

菌糸体を原料とした製品開発は注目を浴びており、特にファッション業界で話題になっています。菌糸体ベースの服や靴はイメージしやすいですが、建築材料にするというのは意外性があるなと思い、今回の話になりました。

菌糸体の開発と実際の販売には温度差があり、製造に伴うエネルギーコストが大きく、オーガニックな素材は環境に左右される性質があるため、将来的なことは未知数で、運用面においては多くの課題があるようです。そのプラス面とマイナス面を書きたいと思っています。

なお、菌糸体が言葉(に該当するもの)を使って意思疎通し、短期記憶があるという話は2020年以降の研究発表から採用しています。ピノはキノコの子実体ですが、子実体に電極を設置(傘に突き刺)し、電気シグナル伝達が起こっていることは2023年に確認されました。菌糸体が温度変化によって成長をコントロールすることは、2022年辺りに報告されています。

文字数:394

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キノコ狩りにはうってつけの日

1.
 深い森の中、赤と水色の小さな影が、ゆっくり動いていた。
 雨上がりだった。踏みしめる土が足にまとわりつく。赤いブルゾンを着用したカオルと水色のパーカーを来たリコは、ぬかるんだ大地を長靴で踏みしめながら、静かに足を運んでいた。
 今は六月、全国的には三十度を超えている場所もあるが、ここ長野県は涼しくて、北八ヶ岳にはまだ雪が残っている。森の表面は鮮やかな緑の苔に覆われていた。
「抹茶みたいで、おいしそう」
 艶のあるおかっぱ頭を振りながら、リコがつぶやく。カオルは噴き出した。
「ここは貴重な場所で、四百種以上の苔が生えてるんだよ」
 地表を指さして説明するカオルの言葉を聞きつつ、リコは深呼吸して辺りを眺めわたした。
 見渡す限りのこっくりとした翠緑。抹茶をたっぷり盛ったような贅沢な色味。瑞々しい自然の絨毯の上に、漆黒の柱のように木々が乱立している。
 カオルはしゃがみこみ、小さな黄色のメモパッドに走り書きの字を書きこんで、手元のビニール袋に手早く苔を採取していく。リコの方は、地べたを這うようにして苔を熱心に見つめていたが、やがて高い声をあげてカオルを手招きした。
「見て、キノコだ。苔に適した環境は、キノコにも合ってるってことだよね」
 リコの視線の先には、小さなキノコがちょこんと顔を覗かせている。
 オレンジ色の傘はリコの親指の爪ほどの大きさで、フリルのようなベージュのイボに覆われている。イボは柄の部分まで繋がり、胴体の装飾のようにも見えた。タマゴに似た形の傘が、小人の帽子に似て、なんともかわいらしい。
 カオルはそのキノコも採取した。森の奥に入るにつれ、二人はどんどん無口になっていった。木肌や切り株の模様を見つめ、飛び交う胞子らしきものを追いかける。
 気づけば、カオルが微笑を浮かべながらこちらを見ている。
「夢中になると、何も見えなくなるんだね。特にキノコ」
 カオルがそう告げると、リコは照れくさそうに笑った。
「昔っからキノコが好きで……動物でも植物でもなくて、何にも似てないし、動き出しそうでかっこいいし、やっぱかわいい」
「そんなに好きならうちの研究室に来たら? 好きなだけキノコと一緒にいられるよ」
 その言葉に、リコは一瞬目を輝かせた。しかしすぐに足元を見つめる。
「カオルの大学、私の家から通えない。それにお金かかるし」
 項垂れて言うリコに、カオルは勇気づけるように言う。
「返済しなくていい奨学金を取れば問題ないよ。私の大学なら寮があるし、生活費は奨学金で賄える。リコはせっかく飛び級で高校を出たのに、その頭脳を使わないなんてもったいない」
 カオルの言葉に、リコは告げる。
「やりたいこと、見つかるかな」
 カオルは少しばかり首を傾げていたが、やがて顔を上げて言った。
「ねえ、ちょっとドライブしよう」
 カオルはリコを赤い軽自動車の助手席に押し込み、国道を走った。外は気持ちよく晴れている。やがて車は大きな建物の前に到着した。
 不思議な空間だった。流線型の巨大な建築物がそびえ、周囲にはさまざまな形の建物が散らばっている。カオルたちは巨大な建物へと足を踏み入れながら、リコに説明した。
「この建物は難しい名前がついてたけど、みんな覚えられなくて、大学内では研究塔って呼ばれてる」
 学生と思しき者たちが、本やタブレット、試験管や小型の機械、それになぜかじょうろやスコップなどを手にして駆けまわっている。周囲に気を取られていると、リコはなにかにつまずいた。見れば人間大の黒い塊がごにょごにょと動いている。
「痛いなあ……なんだ、カオルと、あと、カオルの妹?」
 塊からなにかがすっと立ち上がった。寝袋野郎は、髪も髭も伸びてはいるが、見ればカオルと同年代の青年である。
「桂木、そんなとこにいたら邪魔。この子はリコ。妹じゃなくて従妹で、将来有望なの」
 照れくさくてリコが下を向いていると、桂木と呼ばれた青年はくすりと笑った。
「寝袋の中にいると頭が冴える。リコ、カオルが認めてるなら、相当だな」
 切れ長の瞳がリコの顔を見て微笑む。リコは照れくさくなってそっぽを向いた。すると甲高い声が耳に入り、少し耳がきん、となった。
「あれえ、この子誰? ちょっとカオルに似てる」
 色の塊のような女性だった。銀色のバッグを持ち、黄色のシャツに水色のパンツ、ライムグリーンの靴に真っ赤なリップ。高校生にしては小柄なリコよりさらに小さく、マッシュルームカットの髪は、金色をベースに、七色のインナーカラーを入れている。さほど美意識の高くないリコも、この人のキューティクルは大丈夫かなと思った。
 目を丸くしているリコを見て、カオルがくすりと笑う。
「また髪の色変えたんだ、ウララ。リコがびっくりしてるじゃない」
 ウララという名がぴったり合っている金髪マッシュルームは、紫のカラーコンタクトレンズが入っていると思しき瞳をくるりと回した。
「そう、カオルはずっと黒いままだね。よく飽きないな」
 そう告げると、ウララは銀色に光るバッグを振り回し、鼻歌を歌いながら去っていった。
「あの人、学生? 何の研究をしてるの?」
 ウララの背中を見つめながら尋ねるリコ。
「彼女は助手をやりながら、植物のにおい物質の研究をしてる」
「におい? 野菜とか?」
「そう。例えばトマトは昆虫に食べられると、周囲に虫が嫌がるにおいを出して警告を出す。その成分から、人に無害な農薬に転用できないか研究してるみたい」
 リコはさきほどのウララの、くるくると表情の変わる顔と奇抜な服装を思い浮かべた。
「硬派な研究をしてるんだね」
「そう、ここの人は変人が多いけど、研究にはストイックだよ。さっきの桂木は建築系の研究してる」
「じゃあさ、カオルはなんの研究をしてるの?」
 リコが尋ねると、カオルはリコの手を引いて最奥の研究室の扉を開いた。中央に大きな機械が一つ、周囲に水槽などが並んでいる。
 ビニール袋を取り出すと、カオルは採取した苔とキノコを出してシャーレの上に並べた。金属板を苔に差し込むと、モニターの上に波形が現れる。
「植物が出す化学物質を計測してるの。リコ、ちょっと苔に触ってみて」
 言われた通り、ひんやりとした苔をつついてみると、波形に微小な揺らぎが生じた、気がした。
「ほら、変わった。苔も私たちが触ると、リアクションするんだよ」
 小さな金属板を動かしながら目を輝かせるカオルに、リコは言った。
「じゃあ、植物の言語も分かるのかもね。この波形を単語に当てはめれば……」
「そうか。乱暴に触ったときは『ニンゲン、触るな』って言ってるのかも」
 カオルは軽口を叩きながら、キーボードを叩いて波形と単語の紐づけを行っていく。リコが苔を撫でるようにそっと触れると、ふんわりした葉の部分が頭を下げるような形になり、画面の波形もどことなく穏やかな曲線になる気がした。
「これは、『リラックス』のかたちかも」
 そんなことを言いながら、二人は苔の波形を感情と言葉に当てはめていった。苔に霧吹きで水を与えていると、シャーレに置かれたオレンジの塊が目についた。あのかわいらしいキノコだ。
「ねえ、これの分も登録していい?」
 キノコを指さして語るリコに、くすりと笑いながら告げるカオル。
「気に入ってるんだね。名前をつけたら?」
 リコはしばらく考え込み、
「決めた。ピノにする。ちっちゃくてちょこちょこしてる、ピノキオのピノ」
 宣言すると、リコはキノコをそっと撫でた。柄が揺らぎ、フリフリの襟が揺れたように見えた。
 金属板をキノコの傘の端に差し込みながら、リコは波形を熱心に眺めていると、メチルやアルデヒド、アセチレンやヨードホルム、各種酢酸などといった単語が画面表示される。リコがそっと触れると、ピノは帽子のような傘をぷるりと震わせるような気がした。
 部屋の扉が開いた。短い白髪にメガネをかけた痩身の男性。今まで会った人間の中では珍しく、スーツを着こなしている。
「東条教授」
 カオルがこころもち表情を引き締めて向き直る。
「研究は順調そうですね。この子は?」
 東条は、リコの方を見てわずかに微笑む。
「従妹です。まだ十四歳ですが、高校を卒業していまして」
「おや、それはすごい。これからどうするのかな?」
 東条と呼ばれたその男性は、リコに向きなおって尋ねてくる。
「この大学に入りたいです」
 リコは答えた。何も考えず、思わず出てきた言葉だった。東条は目を細める。
「それは頼もしい。編入試験は難しいですよ。勉強することですね」
「大丈夫です。リコは賢いから」
 カオルの言葉に、登場は頷いて部屋から立ち去った。

数か月後、カオルとリコは山登りをしていた。
 二人は、リコの試験勉強と並行して、先日のカオルの研究成果をアプリ化しようと試みていた。金属板を超ミニサイズにして周囲を樹脂で型取りし、指先サイズの葉っぱの形にした。葉型デバイスをスマホ内のアプリに紐づけた上で植物に装着し、化学物質を計測する。アプリは化学物質の数値を、感情に紐づく単語に当てはめ、言葉として提示するのだ。
 その植物計測アプリ「トランスプランツ」のベータ版は学内での評判が良く、もう少し研究を詰めてから広くリリースすることになっていた。リコの大学編入と奨学金獲得が比較的早く決まったのは、その研究成果が認められたこともあるかもしれない。
 登山は、入学にあたってカオルが祝いにと誘ったのだ。鎖場で鎖を握りしめ、手が金気くさくなる。登頂すると、辺り一面は青空だった。深呼吸して辺りを見渡す。
「これから、どんな生活が待ってるんだろう」
 リコが呟くと、カオルがリコの頭を撫でて告げる。
「充実した研究ができるよ。みんながびっくりするような」
 リコは頷いた。カオルの期待に応えたかった。
 次第に天候が怪しくなってきた。小雨が降り始めると、リコは足元が滑るような気がしたが、我慢して歩いた。ある瞬間、リコは足を取られて岩場で滑った。斜面で体が滑っていく。カオルは走って先回りし、木の幹につかまってリコの手を掴もうとする。リコが必死でカオルの手に掴まった後、大岩にしがみつくと、今度はカオルがつかまっていた木の幹がぽきりと折れた。
 リコは、その瞬間を、スローモーションの映像のように感じた。
 何が起きたのかわかっていない、カオルの表情。
 勢いを増して落ちていく木の幹と、石つぶてと、遠ざかるカオルのシルエット。
 リコが伸ばした手が空を泳ぐ。岩の転がり落ちる破壊音。悲鳴のような声。
 それくらい時間が経っただろうか。呆然として座り込み、冷え切った体のリコを、誰かが立ち上がらせて、どこかに運んだ。
 リコは思考が完全に停止していた。カオルが自分の身代わりに落下したという残酷な事実から、懸命に意識を遠ざけていたのだ。

2.
 リコは、カオルの家族や、警察や消防と一緒に山を行き来し、カオルの消息を探った。しかしながら、カオルの痕跡は一切見つからなかった。
 最初は泣き伏していたカオルの母や父が、やがて憔悴した表情で力なく家に戻った時、リコはもう望みは絶たれたのだと知った。
 その後、リコは家に籠った。何もしていないと、カオルのことを思い出してしまう日々が続いた。ある日のこと、一人でとった夕食のトレーに手紙が挟んであった。それはカオルの母からで、リコに渡したいものがあるから、いずれ寄ってほしいという内容だった。
 正直なところ行きたくなかったが、一方でずっとそのままではいられないことは分かっていた。重たい足取りでカオルの家にたどり着くと、カオルの母が出迎えてくれた。
「あの、よく来てくれたね……中に入って」
 手招きされるままにリコがカオルの部屋に入ると、カオルの母は、ちょっと待ってて、と言って立ち去った。カオルのパソコンは一般家庭に不釣り合いなほど大きい。椅子に腰掛けると、ちょっとしたコックピットのようだった。
 キーボードに手が触れると、ブーンと音がしてマシンが立ち上がり、モニターに何かが表示される。
 トランスプランツの波形だった。こんなものをスクリーンセーバーにするなんて、なんとなくカオルらしい。リコは好奇心に駆られ、更にキーボードに触れた。すると驚いたことに画面にアイコンが表示された。どうやらカオルは、家のマシンはロックしていないようだ。一人っ子だし、恐らくこの家では他にマシンに触る人などいないのだろう。
 画面が開き、デフォルトでコミュニケーションツールが立ち上がる。見るつもりはなかったが、次々に到着するメールの中、東条教授の音声つきメッセージが届いた。部屋の中に渋い声が響く。
「トランスプランツは将来性がありそうだ。企業からもさかんに問い合わせが来ている。研究を進めてくれたまえ」
 リコの中で、カオルと一緒に研究した日々がフラッシュバックする。
 山や森へ植物を採取しに行った。すぐに脱線する自分を笑って見守ってくれた。金属板を開発し、ひたすら波形を記録した。どんなに長時間作業をしても、カオルの集中力が途切れることはなかった。記録されたデータを分析した。どんなに小さな変化も逃さない、職人めいた眼差しの鋭さにほのかな憧れを抱いた。
 気持ちが溢れそうになり、リコはメッセージを閉じる。
 急にリアルタイムでチャット依頼が届いた。それはカオル宛てのもので、リコ宛のものではない。出たものか躊躇していると、相手が一方的にテキストでメッセージを送ってきた。

――これを見ているのは、カオルのお母さんですか? もしできるなら、カオルの従妹のリコに伝えてほしい。リコがこの学校に来て研究することは、カオルも喜ぶと思う。だから絶対登校してほしいって。

ほとんど無意識に、リコは承諾ボタンを押していた。ウララの甲高い声が、カオルの部屋にきんと響き渡る。
「ねえ、あ、リコだよね? さっきのメッセージ聞いてくれた? あの、私たち、待ってるから。絶対学校に来てね」
 画像がやや不鮮明で、ウララが近づくと色の塊にしか見えないが、カメラの向こう側ではカオルの友人が集結しているようだ。落ち着いた低い声が聞こえた。
「そうだよ。リコ、来てくれ」
 それは寝袋男の桂木だった。髪はぼさぼさで無精ひげが伸び放題だが、眼差しは真剣だ。
「私たち、みんな心配してるけど、でもリコを応援してるんだよ」
 その言葉に、リコは目頭がつんと熱くなった。泣き顔を見られたくなくて、カメラはオフにしてテキストだけを打ち込んだ。

――いっぱい、いっぱい、ありがとう。

目をごしごしこすると、ふと、机の奥にあるガラス瓶が目に入った。テラリウムのようで、黒土と苔、それにオレンジ色のキノコが入っている。愛嬌のあるかたち、丸みを帯びた傘と鮮やかな色味。ピノだ。瓶を目の前に持ってくると、気のせいだろうが、小ぶりの傘がぷるりと震えた気がした。リコは目を見張る。
 その時、カオルの母が部屋にやってきた。
「来てくれてありがとう。カオルも喜んでると思う」
 その言葉に、リコも小さく頷きながら告げた。
「あの、ピノ……じゃない、このキノコ、世話してますか?」
 カオルの母は、ピノを見つめながら、目を丸くして言った。
「ぜんぜん気づかなかった……」
「あの、これ、良かったら、持って帰ってもいいでしょうか? カオルと一緒に研究していたキノコなんです」
 そう告げるリコに、カオルの母は、もちろん、と言いながら頷いた。

リコが大学へ赴くと、ウララが目を輝かせて抱きついてきた。東条教授も微笑みながらリコの手を強く握りしめた。
 リコはカオルとは別の研究室をもらったが、トランスプランツの研究に着手する場合、同じ設備を使わざるを得ない。カオルのくせがついたコンピュータや機材などを目にすると、気持ちが凍り付いてしまう。カオルのマシンを前に硬直しているリコを前に、ウララは気遣うように告げた。
「無理しなくていいんだよ」
 リコは頷き、トランスプランツの開発はいったん置いておくことにして、ピノが入った瓶を研究室に持ち込んだ。ピノはのびのびと傘を開いているように見える。
「ねえピノ、私、どうしたらいいのかな」
 独り言を言いながら、リコはピノをそっと本棚に飾った。帽子を被った小人のような姿は存在感があり、誰かと話しているような感覚に陥る。
 リコは気持ちが落ち着いてきて、大学を探索することにした。
 一際目についたのは、ウララの研究室だった。角部屋だからだろう、広めの空間に大小さまざまな水槽がずらりと並ぶのは圧巻だ。水槽の透明な壁の奥に見えるのは、黒々とした土と、その上に伸びる細い筋。明け方の蜘蛛の巣のように天才的な幾何学性に驚嘆させられるものや、水墨画の稲妻のような力強さを孕んだもの、東欧辺りのアンティークレースを連想させる繊細極まりないものなど、一つひとつのかたちに力が宿っている。リコが水槽に額をつけて曇らせていると、後ろから声が響いた。
「きれいでしょう。全部、菌糸体なんだよ」
 ウララが部屋の明かりを消し、パソコンのモニターの光も弱めると、菌糸は緑や黄色などの多様な色味に輝いた。さながらミステリアスな色の饗宴のようで、リコは小さく歓声を挙げる。
「菌糸体って、きのこの下にある菌糸の集合体だよね。これが地上に出てきて塊になって、それからキノコの形になるなんて、すごく面白い」
 リコが呟くと、ウララはにっこり笑って告げる。
「ねえリコ、うちのチームに入らない? 今、菌糸体で服や靴の素材をつくってるんだ」
 リコはウララの服装を見た。その日は落書きのような模様が全面に描かれたトレーナーと、靴紐の一本一本の色が違うスニーカーと、ほつれて破れたケミカルウォッシュのデニムといういでたちである。
「今日着てる服も、菌糸体由来?」
 リコの質問に、ウララは首を横に振る。
「ううん。菌糸由来の服は製造コストが高くて、今の私に買える値段じゃない。そこも課題なんだよね。せっかくサステナブルな素材なのに、みんなが買えないのは問題あるから」
「そうなんだ。他にはどんな用途があるの?」
 そう尋ねた時、扉が開いて入ってきた人物がいた。髪型はポニーテールだが、背が見上げるほど高い。桂木だった。
「おー熱心だな、菌糸とか好きなのか? リコ、ここに馴染んでんな。一緒に研究したらいいんじゃないか」
 軽く手を振る桂木。手にペンのインクがついて汚れている。
「ねえ、桂木は何の研究してるの? 建築系って聞いたけど」
 リコが尋ねると、桂木はごつごつした顎に手をやりながら、白糸ノ滝を思わせる清涼感溢れる菌糸を眺めつつ答える。
「植物由来の建材の研究だな。植物由来の材料でつくれないか試行錯誤してるんだ」
「紙とか木の家は、既にあるからねえ……」
 ウララが首を傾げていると、リコはふと思いついて言った。
「菌糸で服をつくるみたいに、家をつくったりできないの?」
 リコの言葉に、桂木は一瞬目を見開き、ウララの方を見る。
「なあ、菌糸って強度あるのか?」
「菌糸体は一見脆そうだけど、乾燥させると硬くて丈夫なの。服とか開発する時は、菌糸を培養する母体に強い素材を選んでる。菌糸は母体に自分の体を這りめぐらせるから、強度はつくれるはず」
 先ほどまでの雰囲気とは打って変わって、真面目な口調になるウララ。
「そうか。じゃあ、俺もウララんとこのチームと組むわ。菌糸煉瓦を使った建物をつくる」
 桂木はそう告げると、屈みこんでリコの眼を覗き込んだ。
「なあ、一緒にやらないか? トランスプランツを開発したリコなら、力になってくれる気がする」
 桂木の眼差しも、ウララに劣らず真剣な光を帯びている。リコはウララと桂木の手を握った。二人は一瞬目を見開いたが、すぐに大きく頷いてくれた。

菌糸煉瓦で建物をつくるというコンセプトを話すと、東条は良い研究テーマだと言ってくれた。三人は最低限の単位は取りつつ、研究室に入り浸った。申請を出すと、大学の敷地内にある温室を借りられることになった。案内図に沿ってひたすら歩き続けると、敷地の隅に古びた温室があった。ウララが学生部から受け取った鍵を鍵穴に差し込むと、南京錠は鎖ごと外れた。そのまま扉を開けて中に入ると、内部は湿気と埃っぽいにおいに満ちている。
 ハウスの中を探索しながら、桂木は満足げに言った。
「ここなら原木栽培と菌床栽培、どっちもできるけど、菌床栽培の方がコントロールしやすいかな」
 桂木の言葉に、リコも頷いた。おが粉や水を固めて培地にする菌床栽培は、失敗が少ない。
 ウララはそれまでつかっていた菌糸に加え、新しい種類の菌糸も試したので、菌床に生える菌糸たちは芸術家の手による細密画ミニアチュールのような色とかたちをつくりなした。
 菌床も試行錯誤した。通常は基材となるおがくずに米ぬかやフスマ、粕などを入れて固めるのだが、粘土を多く入れて強度を増し、水分調節を少しずつ変えたり、乾燥させる時間を増やしたりして固くなるようにした。やがてウララは、おがくずを凝縮して松脂などの樹脂を加えて粘土に混ぜるという方法を考案し、強度のある菌床ができあがった。
 あとは菌を育成し、ちょうどよいところで活動を止めるタイミングを見計らう必要があった。しかしリコには疑問があった。
「ねえ、活動を止めるには、いったん冷却しなきゃいけないんだよね? 菌は死んじゃうの?」
 リコの言葉に桂木は、作業の手を止めて微笑んだ。
「お前、苦労しそうだけどいいやつだな」
 ウララが頷きながら言う。
「昔、まさにリコと同じことで悩んでた」
 今日の彼女の服はオレンジ色だ。リコはその色を見て、自分の研究室に置いているピノを思い出した。昔という言葉を聞いて、カオルと過ごした日々が蘇りそうになる。リコはウララの言葉に集中した。
 ウララは首をゆっくりと横に振った。
「私たちが研究している菌糸は、冷却すると活動をやめる。その後、常温に戻すとそのままのかたちを保つけど、一定の温度を越えると、前の活動の続きをはじめる。記憶という言葉が適切かは分からないけど、記憶を保持したままで復活できるんだよ」
 その言葉にリコが安心していると、ウララがどこか遠い目をして告げた。
「ねえリコ、植物の生態は人間とは異なるのは知ってるよね。彼らは動かないという生存戦略を選択し、いくらでも複製できるし、根っこがあれば再生できるようになった。それは菌糸も同じで、自分の欠片があればいくらでも増殖できる。地球の根っこでつながっていて、大きな一つの生命体だって説もある」
「じゃあ、もしも、ここにある菌糸が活動しなくなっても……」
 リコが告げると、ウララは顔を引き締めて言った。
「そう、例えれば、私たちの爪や髪の一部がなくなったくらいのものじゃないかな。多分、生の概念そのものが違うんだと思う。人間の価値観で測れない」
 生の概念が違う。
 その言葉を、リコはぎゅっと心の中で噛みしめた。
 カオルが残したもの。トランスプランツ。たくさんの思い出。そして、ピノ。
 何かが残っていれば、どこかで繋がっていれば、死に絶えたわけじゃない。
 ああ、カオルのことも、いつかそう思えるなら、どんなにいいだろう――
 ウララの言葉を自分の中に取り込もうとしても、まだしっくりこない。力を失った意味が上滑りしていく。

 菌糸で煉瓦をつくり、マイセブリックMycelia brick、菌糸煉瓦という名称で発表するにあたり、桂木がプレゼンをすることになった。聴衆には、東条をはじめ教授陣と、大学のOBOGらしき姿も混じっている。渋い臙脂色したマイセブリックを壇上に置いた桂木が、一通りの説明をした後、質疑応答にて、会社員らしき人が手を上げた。
「マイセブリックは、軽くて柔軟性が高く、比較的強いということはわかりました。でも、建築材料として十分なのでしょうか?」
 質問者の、きちんと整えた黒髪が目に眩しい。今日は桂木もまともな格好をしているが、現役の会社員にはかなわない。
「足りてるといえば足りてるし、足りてないと言えば足りていない。かもしれません」
 桂木が言葉を選びながら告げる。
「どういう意味ですか?」
 会社員が尋ねると、桂木は言葉を選びながら語る。
「マイセブリックはもちろん、鉄やコンクリートにくらべたら弱いです。でも弱い材料は、弱いなりに使えばいいんだと思っています。それに鉄やコンクリートも、設計が悪いと簡単に地震で壊れます」
「まあ、コンクリートでも震災で崩れますし、木でできたお堂は崩れてないですね」
「おっしゃる通りで、五重塔などは地震で揺れるように設計されています。材料の強度と建物の強度は比例しないんです。マイセブリックは、軽くて固くて木のような柔軟性もある。それを活かす設計をすればいいんです」
 質問者は納得して席に座った。教授陣の中の一人が手を挙げる。
「マイセブリックは、建築法上、指定建築材料に適合しているのでしょうか」
「その問題は最初から念頭にありました。ブロックの母体には一定の割合で粘土が使われており、耐久性のテストの結果、耐火断熱煉瓦としての特性を備えているので問題ありません」
 桂木が淀みなく答えるにつれ、場の空気は活気づいた。発表が終わってからも、桂木の下には話をするためにたくさんの人々が集まっていた。そんな中でウララとリコは、隅のほうで軽食のサンドイッチに喰いついていた。
「ねえ、桂木ってすごい人だったのかな」
 リコが呟くと、ウララは頭を横に振る。
「そんなことない。今日は髭を剃ってるだけ」
 そういう問題じゃないんじゃ、とリコは思ったが、にこやかにしているが、瞬時に魂の抜けた表情を見せる桂木を見て、いつも通りだな、とも思った。実際、彼はレセプションが終わるとすぐさま研究塔に戻ってきて、寝袋を引っ張り出して中に籠った。
 果たしてその日の桂木のプレゼンのおかげで、マイセブリックの研究には、新興の会社であるSPHスズキ・アジア・パシフィック・ホールディンクスが参入することになった。SPHから来たのは、説明会で最初に熱心な質問をしてきた男性だった。彼は田中と名乗った。
「一緒に仕事ができて光栄です、よろしくお願いします」
 田中の白い歯は感じが良かったが、リコは彼が温室を訪問した際にスーツについた土を忌々しげに払ったのと、研究室に溢れかえる菌糸体に対して熱を持った目で見ていないことが印象に残った。
 共同開発の役割分担は、リコたち研究者チームがマイセブリックの製造過程や建物の設計図を提供し、SPHがそれを使って煉瓦を製造し、最終的に大学のホールを立て替える、というものだった。法令や予算などはどうなってるのか、と桂木が尋ねると、田中はにっこり笑って答えた。
「他の校舎に比べて高さがないですし、建築基準法はクリアしています。桂木さんのご説明通り、マイセブリックは建築材料としては問題ありませんし、建築材料にサステナブルな素材を使うということで、国から助成金が出ることになりました」
 ウララは首を傾げながら語る。
「マイセブリックは、植物由来で土壌に還元されるという点でサステナブルだと思います。でも、木や紙の素材の家も同じことが言えるのでは?」
 そう告げると、田中は頷いて言った。
「このマイセブリックは、冷却した後で熱を加えると、活動を再開するそうですね。それだと何も喪失していないことになりますし、それに、仮に地球温暖化が進んで生き物の活動が止まっても、この煉瓦はかつての活動を始めることになる。そこをユニークな点として強調したら、申請はスムーズに通りました」
 田中の言葉通り、ウララとリコが開発したマイセブリックを、桂木が設計した大学ホールの建築に使うという計画は、規模は大きいにもかかわらず、滞りなく進んでいった。円筒を平たくしたようなホールは、マイセブリックの臙脂色をそのまま使っており、ゴーフルの缶のようでかわいらしい。
 落成式には三人とも招かれた。ホールに入ろうとした時、ウララが研究室への施錠を忘れ、桂木が消灯を忘れ、リコがスマホを忘れたことを思い出して研究室に戻ると、鈍い轟音が耳に入ってきた。
 音は大学ホールの方から聞こえてきたようだ。三人が慌てて外に出ると、果たして真っ黒な煙が上がり、マイセブリックの建物は崩れ、円筒形の建物のシルエットはかき消えていた。
 三人は呆然と立ち尽くす東条を発見した。近づくと、彼は我に返ったように言った。
「裏手の喫煙所から、火が回ったらしい。ホールの中には人がいる。助けなければ」
 大学内の警備員や警察や消防がぞくぞくと集まり、懸命に瓦礫をどけようとする。しかしマイセブリックは軽く扱いやすいはずなのに、互いに連結して固まり合い、動く気配がない。
「おかしいな。設計上は頑丈だけど、こんなに複雑に固まるようにしていないのに」
 桂木が呟いた時、リコは信じられないものを見た。マイセブリックが溶けあい、自立して動いていたのだ。
 傍らではウララの悲鳴が聞こえる。見れば両手を上げて金切り声を上げている。
「リコ、桂木、助けて。引きずりこまれる」
 二人はウララの手を片方ずつつかんで引き上げた。ウララを取り巻いていたマイセブリックは、そのまま分散して散らばったが、切片もしばらく震えていた。

3.
「あの煉瓦、私を取り込もうとした。なんで……」
 ショックから冷めやらぬように呟くウララ。
「菌糸は活動を止めてるはずだよな。動くはずがないんだが」
 吉田がそう呟くと、リンが手を打った。
「マイセブリックは冷却すると活動を止めてる。でも熱を与えると、活動を取り戻すよね」
「そうか、火にあたることで活動を再開したのか」
 三人は顔を見合わせる。
「じゃあ、冷却しようぜ」
「氷をぶつけるとか? 化研に相談しよう」
 三人は三階上の化学研究室、通称化研まで行き、爆発音などものともせず実験している白衣姿の学生や助手に相談した。リコとウララはなるべく申し訳なさを装って行ったが、化研の研究者たちはホールを冷却するという一大イベントに魅了されたらしく、大学で主催する自由研究の余りのドライアイスを大量に提供してくれることになった。
 白衣の研究者たちは、巨大な袋に入ったドライアイスを、ホールに隣接する校舎に運び込んでいく。そしてウララたちがホール周辺にいた教授に退避するよう連絡し終えると、ホールよりも高い位置にある校舎の窓からドライアイスをばらまいた。
 熱気に満ちていたホールからもうもうと煙があがり、白い霧に包まれていく。リコたちはマイセブリックに近づいて触れたが、煉瓦は相変わらず言うことを聞かずに勝手に動く。三人は仕方なしに研究室に戻った。
 室内では、ウララが髪を引っ張りながら歩き回り、桂木は寝袋を引っ張り出して潜り込んでいる。リコは自分の研究室に向かい、データを引き出そうとした。焦っていたのだろう、本棚にひどくぶつかり、奥にしまいこんでいた機材を机の上にぶちまけてしまった。見ればそれはトランスプランツの小さなチップだった。
 リコは慌ててチップを拾おうとして、机の上にあった瓶に触れて倒してしまった。チップは落ちた植物の柔らかい茎にうずもれた。すると胸ポケットに入れていたスマホが震えた。取り出してみると、トランスプランツのアプリに言葉が表示されている。
 
――リコ ひさしぶり

目を疑った。それは懐かしいピノの言葉だった。カオルがいなくなって以来、ずっと触っていなかったトランスプランツを媒介に、ピノは言葉を紡いでくる。

――会えてうれしい けど リコ、ひどくぶつかった 焦ってるみたい なにかあった?

リコは床に落ちていたピノをシャーレに入れた。霧吹きで水を吹きかけると、オレンジの色味は瑞々しく輝いた。リコはアプリに、開発している菌糸煉瓦が、熱にあたって動くようになった旨を打ち込んだ。詳細な経緯を書き終えると、ピノは少々の沈黙ののちに告げた。

――煉瓦 このアプリにかけられる?

リコが靴底を見てみると、果たしてマイセブリックの欠片がついている。リコの言う通り、デバイスをその欠片に沈め、情報を取得した後に再びピノと接触した。ピノは語る。

――マイセブリック 混乱してる 自分が誰か忘れた 捕食する相手のことも忘れた 不安のために生存本能で人を食べようとしてるかも

体の芯が、一瞬で凍らされた気がした。
 人が煉瓦に捕食される?
 それだけ聞くとB級のホラー映画のようだが、そもそもマイセブリックはいつか活動することを前提にする菌糸体だ。もしも普段捕食しているものの記憶がなければ、目の前の生命体を捕食しようとしても、さほど不思議はない。
 でも、とリコは考えた。
 そもそも過去の検証では、マイセブリックは、冷却した後に熱したら、記憶を取り戻していた。リコがそう伝えると、ピノは暫く沈黙したのちに告げた。

――記憶が戻ってないんだと思う 冷却する前に、何かしてない?

そう言われてリコは、ふと、記憶の奥底に凝り固まっていた違和感を掘り起こした。桂木がSPHの冷却処理後のマイセブリックを確認すると、煉瓦の水分の減りが大きく、活動が鈍いと言っていたのだ。
 もしもSPH側で冷却前に何らかの処理を行い、煉瓦の活動記憶が失われていたら?
 リコはその想定を話したくなり、座り込むウララと寝袋に潜り込む桂木を呼び出して伝えた。ウララが目を丸くして告げる。
「それ、正しい気がしてきた。でも、どうしたらいいんだろう」
 その時アプリが反応し、ピノの言葉が並んだ。

――わたし マイセブリックに話してみる 仲間を集めて 煉瓦のところにつれていって

リコたちはウララの研究室で、一番巨大な水槽の菌糸体を眺めわたした。巨大な黒土の中で糸状の菌糸を広げているその菌糸体は、コンピュータのネットワーク図や宇宙空間の写真にも似て、謎めいて複雑で、胸が痛くなるほど壮大だった。ウララは一瞬ためらったものの、その菌糸をかき集めて粉末上にし、袋や瓶に詰め込んだ。そしてさきほどドライアイスを落とした場所に赴いてばらまいた。
 一見すると、なんの反応もないような気がしたが、瓶に入れたピノと一緒にホールの場所へ行くと、ピノは小さく呟いた。

――わかる わたしの記憶に反応してくれている 彼ら 戸惑っている

ほどなくして、マイセブリックは小さく揺れはじめた。瓶の中を見ると、ピノも小さく傘を震わせていて、連動しているように見えた。
 やがて煉瓦の動きは少しずつおさまり、ピノの震えもやんでいった。アプリを見てみると、

――動かしてみて 何もしないはず

と書いてある。
 リコはウララと桂木に目配せをし、マイセブリックに駆け寄って動かそうとした。周囲にいた人々はリコたちを止めようとしたが、煉瓦たちはさきほどとは打って変わり、まるで普通の煉瓦のように動かない。リコたちが煉瓦を動かしていくのを見て、人々は自然に作業に加わった。
 次第に崩れたホールに通行できる穴ができ、内部の人々の救助が始まった。
 ここまでくれば大丈夫だ。
 力が抜けたリコたちが、地べたに座り込んで溜息をついていると、アプリが反応する。

――マイセブリック 人、食べようとした直前だったみたい

リコは改めて戦慄したが、目の前のピノが視界に入ると、感謝で胸が温かくなるのを実感した。
 リコたちと、何よりピノは、危ういところで人間を救ったのだ。

その後、リコたちの訴えで、東条たち教授陣がSPHに赴いた。教授たちが今回の事件の顛末を話す中、三人は田中を呼び出した。
「マイセブリックの製造プロセスを確認したいんですが」
 ウララの言葉に、田中は一瞬言葉に詰まったが、すぐに表情を立て直した。
「企業秘密なので、お見せできません」
 桂木は契約資料をつきつけながら続ける。
「そんなことはないでしょう。こちらも技術提供する代わりに、そちらの取得した数値や結果もフィードバックしてもらう契約内容です。確認していたつもりだけど、改めて過程も含めて提供してください」
 迫られた田中は別の社員と共に残っていた資料を提供していたが、桂木はマイセブリック製造プロセスのフローチャートの中に、研究室側で提示していない要素を発見した。
「この処理は何をしているのですか?」
 そう問う桂木とウララの瞳は、静かな怒りに燃えている。リコはその様子から、ピノの言う通り、SPHが何かしらの処理をしていたのだろうと思った。
 後日の調査で判明したのは、SPHは、冷却処理の課程で菌糸が活動する可能性があると判断し、微調整ではなく事前の熱処理を行う旨を選択したとのことだった。
 高温で熱処理してしまえば、マイセブリックは自分の中で活動記録を保持できない。それではマイセブリックの、地球温暖化後も活動を再開するという売りの部分が無効になってしまう。
 大学側はSPHとの提携を解消し、リコたちはピノとの相談の末、煉瓦の菌糸を取り出して、再び研究室で飼うことにした。

4.
 リコは、ウララと桂木と共に、山登りをしていた。
 そこはカオルがいなくなった山だった。リコの手の中には蓋を開けた瓶があり、中にはオレンジ色の小さな塊が入っている。ピノだ。針ほどの細さになった新デバイスを頭部に挿しているので、かわいらしい針山のような姿である。

――胞子に聞いた 近い 下の方 
 
ピノの導きのままに足を運ぶ。橋を渡り、鎖場を越え、崖を降りる。手に汗をかいているが、前には寝袋が入っていると思しき桂木の巨大なザックが見え、後ろには終始ウララのあっけらかんとした声が響いており、リコをずっと見ていてくれるのが心強い。
 歩みを進めていくと、道に黄色いものが落ちている。拾い上げて見てみるとメモパッドで、表面は汚れて判別不能だが、めくるとへたくそな字が書きつけてある。
 それはカオルの字だった。リコは心臓がずくんと鳴り、知らず知らず、胸に手をやる。
 三人は辺りを見渡した。すると、茂みの部分にひときわ土が盛り上がり、こんもりとした苔に覆われている箇所があった。苔の間には、だいぶ退色しているものの、赤いブルゾンらしきものが見える。リコの視線に気づいた桂木がそちらに向かい、覗き込んで小さく頷いた。
 静止した時間の中で、三人は目を閉じて合掌する。
 夕暮れの空の下、何かが散った。
 光の中できらり煌めく、金色の粒子。
 埃か、土くれか、それともピノの仲間の胞子なのか。
 それは鎮魂の舞を踊るように震え、落下し、霧消する。
 リコはメモパッドを開いた。やや乱暴に描きつけられたカオルのアイディアは、懐かしくも新鮮で、リコの心に浸透していく。
 肩に重みを感じた。ウララの白い手と、桂木の骨ばった手。リコはふと、いつかのウララの言葉を思い出した。

――キノコなんかは地球の根っこでつながっていて、大きな一つの生命体だって説もある。

ああ、カオルはキノコとともに地球の根っこに取り込まれて、大きな生命体の一部になったのかもしれない。
 できれば生きているうちに、もっと一緒にいたかった。でも未来のどこかで出会えるならば、私はもっと勉強しよう。みんなとたくさん話しておこう。そして、このメモに書きつけられたカオルの思いや世に出ていないアイディアを、私なりのかたちにして実現させよう。それは、カオルが過去に存在し、未来に偏在する証にもなるのだから。

 メモパッドをパーカーのポケットにしまい、ピノがいる瓶の感触を確かめる。
 自由になった手で、ウララと桂木の手を強く、つよく握る。
 三人は時を忘れ、闇が訪れる直前の胞子の舞に見入っていた。 了

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