生命のパズルのお手入れ時期です。

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梗 概

生命のパズルのお手入れ時期です。

10歳で地元神戸の震災に遭った定雄さだおは小学校に避難した夜、空の彼方で光って浮かぶ大きな一軒家を偶然発見する。家の真下からは光が射し、倒壊家屋の下敷きになっていた人々が浮かび上がっては次々と吸い込まれていった。一瞬のことで目撃者は他におらず、彼は錯覚とみなした。

38歳になった定雄が家業を継いで働く歯科診療所に、一人の老婆が来患し、彼の入れ歯の手入れの仕方が丁寧だと大いに気に入る。世間話で欲しいものはあるかと問われた未婚の定雄は、「後継ぎとなる子を沢山産んでくれる嫁が欲しい」と本音をもらす。そこで老婆は「良い娘を紹介する」と言って若い美人の写真を見せ、心奪われた彼は森の奥深くにある一軒家を車で訪れる。その外観は震災の夜に見た家とよく似ていた。

室内で定雄が見たのは、一対の男女の人体を模したオブジェだった。二体とも透明な彫刻の像で、内部には本物そっくりの臓器がパズルのように隙間なく配置されていた。「これは生命のパズル。臓器ごとに特殊な端末で部屋や備え付けの家具等と結合し、臓器の生命活動で外観を維持している。宇宙に散らばる星のように、この家には数多の魂が宿っている」と言う老婆を、定雄は心の中で笑う。

写真の女・ミヤコを紹介された定雄は一目惚れをする。彼女は生理痛で腹を押さえつつ、笑って受け答えする。老婆に「この家の管理人を私から引き継ぐなら、ミヤコとの交際を許す」と言われ、出された契約書をよく読まずに署名する。トイレに行った定雄は便座に座った際、人肌のような感触と生温かさを太股に感じて驚く。便器の水面には、うっすらと浮かぶ少年の笑顔。家のあちこちで「生命のパズルのお手入れ時期です」との自動音声が鳴り響き、奇妙な現象も相次ぎ定雄は腰を抜かす。問い詰められた老婆は、自分は母星の消滅に伴い地球に避難してきた宇宙人であり、オブジェの中の臓器は震災で瀕死となった人々から摘出したものだったと話す。妊婦の犠牲者の子宮にいた胎児を母星独自の技術で成長させ、生を受けたのがミヤコだったとも。彼女は管理人の後継者として家に守られて育ち、成人後によく分からないまま契約を交わしていた。その伴侶と共に家を維持し、子々孫々と受け継がせるために。

定雄は契約破棄を告げ、一緒に暮らしたいと言うミヤコを連れて去ろうとする。老婆が立ちはだかって言う。契約書の内容により、彼女に背く者は皆家を出た途端に自分の体から無作為に臓器を一つ無痛で抜き取られ、経時劣化で手入れの必要なパズルの新たなピースとして提供されるのだと。だが彼は信じずにミヤコと家を出て、豪雨の中二人で車に乗り込む。運転席で両足を閉じた瞬間、彼は自分の陰嚢が無いことに気づき茫然自失とする。そんな彼に助手席のミヤコは、「雨に打たれるって素敵ね。お腹の中が空っぽみたいに生理痛が消えたの」と言い、子宮のあった位置の上から腹を擦って微笑むのだった。

文字数:1198

内容に関するアピール

・職業柄、「人体とは宇宙」の概念が常に頭にあり、もし臓器が家の機能や外観保持の材料に使われていたらという空想を膨らませました。また、臓器と時間も切り離せない関係であり、臓器の経時(年)劣化を新たな臓器で強制的に補うシステムによって、主人公の望んでいた「家族を築く未来」の時間が奪われるという皮肉なオチにしました。
・初回の自己紹介も兼ねて阪神・淡路大震災の被災体験を描きたいです。主人公と同学年のときに実家が半壊したり友人らを失ったりしたことは大きな出来事でしたが、通夜にも葬式にも立ち会えなかった「死」は、彼らが突然宇宙人に連れ去られたようで呆然としました。自分史という「生命のパズル」を完成させるつもりで、一つ一つの古い記憶を丁寧に磨いて当てはめていこうと思います。
・ミヤコは「宮子」=「子宮」の逆読みという意図があります。ラストの悲哀と対照的になるよう、明るく無邪気な性格に描く予定です。

文字数:396

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生命のパズルのお手入れ時期です。

それは日付が変わってから、2度目の余震だった。1995年1月17日に神戸の大震災が起きた、その翌日の夜中にあたる。前夜の余震で眠りの浅かった僕は、ハッとして寒気を覚えた。ああ、まただ。体に来る小刻みな横揺れ。隣で座って寝ていた父が、指揮者のように両手を広げた。僕と母と姉の3人を大きな腕ががっちりと囲む。その腕が震えてガタガタと教室の窓も揺れる。バスが発車するときの座席にいる気分だった。父の腕の中の母が、さらに僕と姉を力強く抱き込んだ。二重にくるまれて小さくえずく。教室にいた誰かが悲鳴をあげて、息苦しさに不安が交じる。昨日の明け方の大揺れと比べれば大したことないのに。既に数回体験していても、余震が来るたび決まって鳥肌が立った。
 胃の奥からあんパンの匂いが酸っぱさを伴って食道にこみ上げる。水の配給の行列にいた女の人がくれたのだった。「まだ10歳なの? かわいそうに」と、自分のお菓子やおにぎりまで余分に持たせてくれた。
 昨日は外壁の崩れた家から避難所の小学校まで、一家で数時間歩き通した。午後に着いた頃、僕の空腹感は限界で、もらった食糧を水で流し込むように平らげたのだった。
「吐きそう、外でたい」
 腹の底に響いていた余震が収まるやいなや、両親の腕を乱暴に振りほどいた。
「だから言うたのに」母が呆れるそばで、3歳年上の姉が声をあげた。
「お母さん、あたしトイレ行きたい」
「ほな早く行こう。混むで」
 父を荷物の見張り役に残し、僕たち3人は固まって教室を出た。まだ携帯電話のなかった時代、母の持つ懐中電灯の光が廊下の闇を真っ直ぐに照らした。電気や水道が止まった夜の教室で、被災者たちの囁き合う声はみんな沈んでいた。
定雄さだお、大丈夫?」と、先だって歩く母が僕に声をかけた。
「ちょっとマシになった」
 一階廊下の突き当たりのドアから、僕たちはすぐに校舎の裏側に出た。北側のはるか遠くに六甲山とおぼしき稜線が、よくよく目をこらせば僅かに見えた。街の明かりは皆無だ。今まで見たことのない神戸の夜景は、星が見えるほどでもない、中途半端な濃さの闇だった。
 社会科の授業で習った灯火管制の夜も、同じ暗さだったのだろうか。来年に私立中学を受験する僕は、地震で塾がどうなるのかと少し心配になった。
「もう行列できてる」姉がめざとく仮設トイレを見つけて指さした。
「僕ここで休んどく」
「絶対ここから動いたアカンよ」と言って、母は姉とトイレに向かった。
 僕は校舎を見上げながら、冬の冷えた空気を深く吸い込んで吐いた。白い息が揺らぐ向こうに、級友たちの顔が次から次へと思い浮かぶ。他のみんなは普段通っている小学校に逃げたのかもしれない。父が選んだ避難所は神戸のかなり東部にあり、家族の誰も異論は無かった。台所のテーブルの下にもぐって聞いたラジオでは、神戸の西部にて火災発生との緊急速報が何度も流れていたから。
「遅いなあ」
 女子は何であんなトイレに時間がかかるんだろう。うんざりしてズボンのポケットに手を突っ込むと、プラスチックの固い窪みに爪が引っかかった。あ、双眼鏡かと思って取り出す。折りたたみ式を広げると目に入る、緑色の養生テープ。G.I.ジョーのフィギュアが首からぶら下げていたのに憧れて、迷彩模様に貼ったものだ。本当はフィギュアも持って行きたかったけど、勉強机が倒れて飾り棚ごと人形たちはバラバラに吹っ飛んでしまった。
 散らかった部屋の惨状を思うと、早く家に帰りたいはずなのに、戻るのが億劫になる。いろんなことから逃げたくなった僕は、双眼鏡をのぞきこんで周囲を見渡した。ポツポツと光る誰かの手持ちの明かりが、レンズの中を流星のように流れる。その勢いで視線は校舎を飛び越えて上空へ――さっきの六甲山を通過して、西の方角を見遣ったときだった。
「あっ」
 一瞬、白い物体が視界をよこぎった。星? ヘリコプター? 興味が湧いて行方を追った。顕微鏡内の微生物が飛び回るみたいに、レンズの中を対象物があっちへこっちへと逃げ回る。でも双眼鏡から目を離したら、見失ってしまう気がした。まばたきも忘れて目をこらす。
「え、人?」
 次にレンズが捉えたそれは、確かに人間の形をしていた。円錐状の光に照らされて浮遊している。双眼鏡のズームは元から最高倍率だったけど、男女の区別はつかなかった。だらりと力の抜けた姿勢で、上へ上へと昇っていく。レンズから消えたと思ったら、また別の浮遊物が映った。マネキンとは違う、しなやかにねじれた四肢のまま、光源へと吸いこまれていく。
「なんなん、あれ」
 その光は角張った筐体の下部から出ていた。立方体でもなく、UFOの円盤にも似ていない。ロープやヘリの羽があるか凝視しようとしても、シャボン玉の表面みたいな虹色が輪郭を縁取り、細かく揺れて視覚を惑わせた。
「定雄! お待たせ」
 母の声がして思わず視線が泳いだ、その一瞬の隙をつくように、謎の筐体は光ごとレンズの中から姿を消してしまった。いくら探しても二度と見つけられなかった。
「星でも見とったん?」「双眼鏡なんか、持ってこんでええのに」母と姉が口々に言うのをよそに、僕はがっくりして双眼鏡から目を離した。見つけた方角を裸眼でも確認しておけば良かった。
「星じゃないけど……もう、ええわ」
 目当てゴムの接触していた肌に、冷たい風が吹きつける。遠くで救急車のサイレンがかすかに鳴っている。仮設トイレの照明灯が人々の立ち並ぶ影を地面に映し出して、誰も空を見て騒いだりしていない。ふいに夢から覚めた心地がした。
「長田で火事が広がってるんやって。下野の叔父さん、大丈夫かなあ。公衆電話もつながらへんし」
 3人で教室に戻る途中、母が心配そうにつぶやき、姉がため息をついた。
「灘でも家がようけ潰れたんでしょ。クラスのみんな、無事やとええんやけど」
 クラスのみんな。姉の言葉に僕の意識は「友だち」へと向けられた。さっき見た錯覚か幻かしれないものよりも、ずっと気にかけるべき大切な存在。この双眼鏡でみんなを発見して、元気でいる姿を確認できればいいのに。
 幼稚な空想を描く僕の頭には、この時点ですでに学校関係者から多数の犠牲者が出ていることなど、微塵も思い浮かばなかった。僕はただ、家族に守られて無事だった。


 
「おーい、みんなー。救援物資届いたでー」
 担任の辰巳先生が、両腕に段ボール箱を抱えて6年1組の教室に入ってきた。夏休みを前にすでに日焼けした肌は、白いTシャツで浅黒さが際立つ。地震が発生してからの半年間、生徒たちのために絶えず奔走してきたからだと他の先生は誉めていた。神戸の復興を象徴するような溌剌さは、僕も含めて生徒たちにも人気があった。もちろん、震災で亡くなった生徒たちにとっても素晴らしい先生だったに違いない。
 今年3月の小学校の終業式に行われた彼らの「お別れ会」で、辰巳先生は遺影の生徒ひとりひとりの名前を、震える声で読み上げていた。葬式にも参列して、その保護者の相談にも乗ってあげていたらしい。先生はちゃんと彼らの「死」に向き合えた。だから泣くことができた。でも、僕は違う。インフラの復旧まで県外の祖母の家に数週間ほど居候していた僕は、その「死」に何一つ触れられなかった。いきなり消えて、二度と会えなくなっておしまい。また地震が来て花瓶が倒れるといけないから、彼らの席には花も供えられないまま、残りの生徒たちは6年生に進級した。震災の影響で春までに学年の半数近くが転校したから、結局クラス替えもなかった。誰が死んで誰が引っ越したのかは把握しているけど、両者の線引きが未だにあいまいになる。全員、まだどこかで生きているような気もする。
「使いさしの消しゴムとかいらんし」
「可愛いノート全然あらへん」
 生徒たちが段ボール箱の置かれた教卓を囲み、慣れた手つきで中を物色している。全国各地のボランティア団体から神戸の市立学校に送られてくる、学用品の数々。「がんばって神戸!」と書かれた手書きの色紙。最初こそ僕たちも感動していたけど、梅雨の頃には「もういいよ」と言いたくなった。頑張ってと言われすぎても、かえって疲れてしまう。
 僕は席に座ったまま、手元の教科書の下に塾の参考書を隠して見ていた。震災で後れを取った分、心の中は焦りでいっぱいだった。この校区は大学の就学率が低くて、中学受験をする生徒は同学年で自分を含めて数人しかいない。
「うーわ、歯形ついてるで」
 リーダー格の男子が一本の鉛筆を取り上げて見せびらかす。みんな忽ち騒ぎ始めた。
「キッショ」「くっせえ」男子たちが矯めつ眇めつした後、その鉛筆は教室のゴミ箱に放り投げられた。
「よしだー、救援物資なげるなー」
「先生、あれ救援ちゃう。ゴミやん」
 弁解した生徒の台詞に、他の生徒たちもうなずいた。
「被災地のこと、何だと思ってるんかな」
 誰かの言った一言で空気がシンとした。取りなすように先生が言う。
「送った人には先生から伝えておく。みんなはもう気にするな」
 そのあと辰巳先生は職員室の放送に呼ばれて教室を出て行った。教師不足の現況では日常茶飯事だった。
「箱ごと送り返したいねー」「どこでもドアがあればなあ」僕以外の男子と女子数人で盛り上がり始めた。
「穴にゴミほかしたら、それが元の場所に戻るって道具、なかったっけ?」
 一人の女子の言葉に思わず僕は身を乗り出した。口が考えるより先に開く。
「それ、ドラえもんじゃなくて、『おーいでてこい』だよ! 星新一の!」
「おーいでてこい? 漫画?」
「いや、漫画じゃなくて小説なんだけど」
 会話のメンバーから一斉に注目を浴びて、先生にでもなった気分がした。
「自分たちの見つけた穴にいろんなゴミ入れてたら、実はその穴は未来の空とつながってて今までの分が落ちてくるって話。環境汚染を皮肉ったもので、結構有名なんだよね。確か、去年の教科書には別の作品が載ってたでしょ。女の子が宇宙人に連れ去られたけど、良い子だったから無事に帰ってくるって」
 自分への視線の異変に、話している途中から気づいた。蝋で固まっていくみたいに、全員の顔から感情が抜けていく。僕の口調は徐々に尻すぼみになった。
「……教科書なんて家ごと燃えたから、覚えてへんわ」
 男子が苦々しく言い、きっかけとなる話をした女子は、僕の塾の参考書をあごでしゃくった。
「定雄くんって私学受けるんやろ? ええよね、余裕あって。あたしなんか高校出たら働けってさ」
 お~いでてこ~い、と誰かがわざと間の抜けた音調で言い、クスクスと含み笑いが起きた。
「ぼ、僕んちだって、壁にひび入ったし。そんな、お金あるわけじゃ」
 回らない頭の隅に、「お別れ会」のときの友だちの遺影が浮かんだ。俊彦と柊。前者は天体観測が好きで、僕が志望校に合格したら摩耶山の展望広場へ星を見に行く約束をしていた。後者は、震災の1週間前にネズミが集団で三宮のセンター街から出て行くのを見た、これは電磁波が地上から出ているからだと熱心に語っていた。二人がここにいてくれたら、きっと僕の話を。
「私、知ってるよ。おーいでてこい」
 耳に飛び込んできたのは、あっけらかんとした声だった。不穏な雰囲気を跳ね返すように明るく響く。その場にいた全員が声の主を見遣った。
 クラスメイトの椎名みらいが、会話の輪から離れた窓近くでこちらを見つめていた。須磨の家が倒壊して、親戚を頼って3月から転入してきた女子。救援物資には興味を示さず、その段ボール箱の厚紙で大陸プレートと海洋プレートの模型を作っていた姿を、工作の時間に見かけたことがある。両親が関東出身らしく、関西弁を話さないぶん物静かな印象が強かった。
「し、椎名さん、し、知ってるの?」
「落ち着いて、たいらくん」
 僕を名字で呼んだ椎名さんは、目を閉じて笑った。集まった視線を透過するような、桃の薄皮に似たまぶたが柔らかそうで、なんだかドキドキした。
「うん、教科書以外の作品も一通りね。『きまぐれロボット』の『災難』には地震を予知するネズミが出てくるの、今回の震災みたいで面白いと思った」
 綺麗な標準語で話す内容が、柊の声と重なって脳内を巡った。
「だ、だよね! タイトル忘れたけど、自動調理装置のデータが盗まれた話? ガスが止まって料理出来なかったときと似てるって思ったんだ」
「作者は未来人か、宇宙人だったりして」
 フフッと笑う椎名さんを見て、女子たちが遠巻きに囁き合った。呆気にとられた男子たちは会話から抜けて、教室の隅でプロレスごっこを始めた。椎名さんが僕に小さく手招きをする。窓際に行くと、天井に取り付けられた空調から冷風が降りてきて、心がスッとした。
 星新一の話がきっかけで、僕は椎名さんに双眼鏡で見た謎の飛行体の話をした。彼女は真面目に耳を傾けてくれたし、それがどの方角だったのか、窓の外の空を眺めながら一緒に考えてもくれた。3階の教室の窓からは校庭もあらかた見えて、運動場の白い楕円形の太線が、午前の太陽に照らされて眩しかった。体育の時間の生徒たちが一輪車に乗り、その場で自転したり、太線に沿って周回したりしている。枝しかない藤棚の柱に大縄跳びのロープが結ばれて、中で細かい粒子のように跳ねるグループもいる。真夏の校庭は小宇宙だった。隣にいる椎名さんが僕についと体を寄せてくる。何も香りがしないのに、甘い気配がした。
「みんなには内緒ね」
 椎名さんの小声に続いて、チャリンと音がした。僕のズボンのポケットに何かが滑り落ちた音だった。
「え、なに」
 慌てて指を入れたポケットの中で、冷たい金属の感触がした。震災の夜に双眼鏡を取り出したことが、うっすらと脳裏をよぎった。つまんだ物を取り出してみる。白いペンギンが両翼を広げたような形のキーホルダーだった。胴体の真ん中に無愛想な猫みたいな顔が貼りついている。
「太陽の塔じゃん」
 大阪の吹田にある万博記念公園の建造物は、神戸のローカル番組でもよく紹介されていた。
「それがある街に引っ越すの。平くんにだけ、餞別にあげる」
「うそ、いつ?」声がうわずった。
「夏休みに入ったら、すぐ」1学期は残すところ、あと十日余りだった。急すぎて言葉が出ない。
「それ無くさないで持っててね。受験終わったら、実物見に行こう」
「ありがとう! お守りにして頑張るよ」
 キーホルダーを強く握ったら、太陽の塔の尖端がてのひらをチクチクと刺した。
「頑張ってね、亡くなったお友だちの分も」
 椎名さんが口を一文字に結んだ。見下ろした瞳が僕の目に真っ直ぐぶつかる。女子にしては背が高い方だと、そのとき気づいた。
「なんで急に?」
「お別れ会で辛そうだったから。友だちを思って泣けなくてもいいけど、忘れないであげてほしい」
「……よく分かったね」
 すぐ顔に出るから、平くんは。長い前髪を耳にかけて、椎名さんがおかしそうに言った。半目になったまぶたに二重の溝が深く刻まれて、仕事前の母に似て大人っぽかった。
「そういえば、なんでさっきから関西弁で喋らないの? 私に合わせてる?」
「や、これは」頬が自分でも赤いと思うと、余計に話しづらくなった。
「おーい、みんな席に着けー」
 辰巳先生が段ボール箱を抱えてきたときと同じ調子で入ってきた。わらわらと生徒たちが自席に戻っていく。後ろ髪を引かれる思いで僕も窓から離れた。それでも、ちらりと振り返って椎名さんを見た。口元が薄く開く。
「迎えに来るね」彼女の口の動きは、確かにそう言っていた。

――生き返れるなら、どんなことも乗り越えるって、俊彦と柊なら絶対思うだろうな。

手の中の太陽の塔は体温で熱かった。僕の中でやっと、半年遅れの「復興」が始まった瞬間だった。


 
「はーい、ゆうくん。治療終わりでーす」
 診察椅子に座る6歳児の患者に、歯科助手のミヤコが声をかけた。背もたれが機械音とともに持ち上がり、小さな大根に似た両足が揺れる。
「ありがとうございました、さだお先生」
「よく出来ました! 診療所では『パパ』じゃなくて、『先生』って呼ぶ約束だもんね」
 義理の息子にマスクの上から笑いかける妻を見て、僕は自分の半生を振り返らずにはいられなかった。
 神戸の震災から28年以上が経過した。私立の中高一貫校卒業後、僕は紆余曲折を経て26歳で歯科診療所の勤務医となった。院長は父方の親戚で、本院の分院という名目で資金援助を受けて自分も神戸で独立した。ちょうど三十路の春に行った開業記念会は、同郷の友人も招いてのちょっとした同窓会にもなった。だが、祝ってくれた知己の中に椎名みらいの姿は無かった。あの夏休みに引っ越して以降、一通の手紙を最初で最後に音信不通となったのだ。「迎えに行くから、『太陽の塔』は無くさないで」と締めくくられた手紙の送り主欄には吹田市の番地が記載され、出した返事は宛先不明で返戻された。90年代後半から普及し始めたネットでも住居は特定できず、年月が流れた。
 もらったキーホルダーは、今も診療所の鍵に取り付けてある。頂点の丸顔から黄金のメッキは剥がれたが、人生の山場でいつも照らしてくれた。「みんなには内緒ね」の声が耳にちらつく。長年謎めいたタイプが好みだったのは、彼女のせいかもしれなかった。
「次はミヤコの番」
「じゃ、遊は待合室で待ってて。ママが終わったら、お昼食べにいこう」
「受付のスタッフと受け答えする幼い声を、ミヤコは自分の首に紙エプロンを巻きながら聞いていた。横顔の頬が盛り上がっている、幸せそうに。
 ミヤコが未婚のシングルマザーだというのは、3年前に出会った当初から知っていた。コロナ禍の影響で診療所の本院に分院が合併吸収されることになり、大阪の箕面市の本院で雇われていたのが当時25歳の彼女だった。遊はまだ3歳で、保育所で預かってもらえないときに相手をするとすぐに懐かれた。彼女の勤務態度の良さも重なり、僕はこの母子との交流を楽しむようになっていった。
 周囲にも後押しされる形で僕たちの交際は始まり、遊が弟を欲しがっているとミヤコに言われてプロポーズしたら、すんなりとOKしてもらえた。去年のクリスマスのことだ。明けて正月に神戸の実家へ二人を連れて帰ったら、僕の母も片親で苦労して育ったこともあり、両親は遊を実の孫のように可愛がってくれた。その一方で、児童養護施設で育った彼女には息子以外の親族はいない。僕が下戸なのを知って安堵していたから、遊の父親の素性はある程度想像がついた。
 入籍は遊が小学校に上がる前にと3月中に済ませた。この7月は、母子が「平」の名字になってから初めての夏休みだ。
「遊の歯並び、ミヤコに似てきたな」
「ほんふぉ?」
 診察椅子の上で口を開けたまま、ミヤコが返事した。発音は不明瞭だが嬉しさは鮮明に表れていた。
「上顎右の第1大臼歯から中切歯までの配置やカーブの具合がさ、直前に見たせいもあって、既視感強いんだ」
 通称「六歳臼歯」と呼ばれる第1大臼歯は、永久歯の中で最も早く生えてくる歯だ。乳歯は永久歯より一回り小さいため断言は出来ないが、この歯と他の歯の大きさのバランスといい、側切歯が犬歯をやや押さえ気味にふんぞり出ている歯列といい、親子と裏付けられそうなほど特徴が似通っていた。
「やっぱり母と息子って似るんだよなあ」
 ミヤコに説明して検診を終えたあと、そう付け加えた。
「学術的な根拠は?」
「ない、現場の所感だよ。本院長や歯学部の同期らも言ってた。母と娘、父と娘、父と息子、このどの組み合わせよりも、圧倒的に多く見られる相似が母と息子なんだって」
「なんでかな」
「優性遺伝説が濃厚だね。母親は息子を愛するように、組み込まれているんだろ」
 震災で母に強く抱きしめられて苦しかった。愛と言っておきながら、重たい記憶が脳裏をよぎる。ミヤコと自分の間に将来子どもが生まれたら、その子も同じ気持ちになる日が来るのだろうか。
「歯磨き指導、がんばろっと」
 鼻歌まじりにミヤコが片付け始めると、受付の玄関のベルが鳴った。ドアの向こうがざわついている。急患か、来客か。
「どうしたの?」
 待合室に顔を出すと、受付にいた女性がくるりと振り返った。半目でこちらを向いた表情に、視線が釘付けになる。閉じれば桃の薄皮のような、冷たい柔和なまぶたが開いて、
「遅くなってゴメンね、平くん」
 黒い瞳に吸い込まれたように、あ、とだけ言って喉が詰まった。太陽の塔の鋭利な尖端が、時間の果てに置きざりにした感情をじくじくと刺した。キーホルダーは無くさないでおいたのに。後ろからミヤコが近づいてくる。待合室のソファで遊が気配を察して立ち上がる。新しい家族で板挟みになった僕は、28年ぶりに「復興」の源と再会した。
「……し、な、さん」
 自分の狼狽ぶりは小学生のときよりも悪化していた。うふっふっ。椎名さんが長躯を折り曲げて肩を震わす。記憶の中のイメージを崩さない透明さに、笑いかけた息が弾んだ。
「ねえ、急患の方?」
 ミヤコに気取られないよう咳払いをした。
「僕の小学校のときの同級生、会うのはなんと28年ぶり」
「定雄さんの! 妻のミヤコです。初めまして」
「ここで働いていると風の便りで。すみません、予約を取って出直します」
 お辞儀をして長い髪を後ろに払い、踵を返そうとした椎名さんをミヤコが呼び止めた。
「お昼休憩入るし、よければ主人と話でもされたら……なんか、こういうご縁って素敵だし」
 夕方のシフトには戻ると言ってミヤコが遊と出て行くと、二人の距離は少し縮まった。
「元気そうで良かった。時間いいの?」
「昼食べないから。予約取らなくても診るよ、どうぞ」
 診察椅子で問診票記入の間に、今までどうしていたのかをお互いに報告した。親の仕事の都合で神戸から吹田、大阪府内を転々とするうちに僕の連絡先を紛失してしまったと、椎名さんは申し訳なさそうに言った。
「仕事は?」
「今は資産運用とオンラインの家庭教師。医学部出て外科勤務だったけど、多忙すぎてセミリタイヤしたの」
 長身の頭が下を向いた。大きくて節の太い指が、箕面の森を彩る紅葉のように広げられる。救援物資の段ボールを切っていた手つきから、進路は何となく納得できた。
「平くんは幸せそうね、連れ子とはいえ、お子さんもいて」
 彼女の僕を見る目がまぶしそうで、真夏の校庭を見ていた小6の自分を連想した。
「僕と違って、君は変わらないね」
「独り身だし。あ、標準語なのは変わらないよね」
「仕事モードになるんだ。ここのスタッフはみんなそう」
 口腔内は特に問題なかったが、咬合紙こうごうしでかみ合わせも確認しておいた。赤のカーボン紙を上下左右と噛んでもらう。ついた歯形を見て、椎名さんがぼそっと言った。
「辰巳先生が亡くなられて、25年目か」
 1998年9月に神戸の新湊川の洗心橋付近で大規模な水害が起き、市民救助を率先していた元担任の辰巳先生が犠牲となった。最期まで人思いの教師だったと、元同級生らが僕の開業記念会で目を潤ませていた。捨てられた歯形のえんぴつのように急流に巻き込まれて、遺体の損傷は激しかったらしい。
「良い先生だったのにな」
「今もね」
「え?」首をかしげると、打って変わって明るい口調で言われた。
「私の家に奥さんと遊びに来ない? 再会の記念と結婚祝いに、面白いもの見せてあげる」
 耳を傾けながら、咬合紙ホルダーから赤のカーボン紙を抜き取っていた。椎名さんの唾で濡れた歯形の跡が、熨斗の蝶々結びのように交差している。めでたい紅白の紅。太陽の塔の朱色。約束通り迎えに来てくれたから、今度は僕が行く番だと思った。


 
「うわあ! 本物みたい!」
 ミヤコが手を叩いて驚く横で、僕も凝視して細部を観察した。無意識に自分の呼吸も、「肺」の動きに合わせてしまいそうだ。ゴムホースのような気管から枝分かれした気管支、そこから左右に広がる二つの肺は、羽毛でふくらんだ鳥の翼のように、双方がはばたきかけては縮み、また羽を広げては折りたたみ、酸素を心臓に送り込み、下部に密着した横隔膜まで連動して上下する。寄せは返す波のように、いつまでも魅入ってしまう連鎖が、透けて見える二体の「人体」の中で繰り広げられていた。
 僕たちの目前には、スケルトンの人体模型――透明なガラスのような容器で全身の輪郭が形成され、中にはぎっしりと作り物の臓器が詰まっている――が、一対の男女として並んでいた。体の内部をむき出しにした彼らは片膝をついて体を寄せ合っている。運動会の騎馬戦のようにお互いの腕を前方で交差させて、腰掛けられるようなスペースが中央に空いている。
 ここは箕面市と豊能町の境目の山奥にある、椎名さん所有の一軒家だ。50坪はある2階建てで、最初に案内された部屋数の多さにミヤコが羨ましがっていた。車で片道2、3時間の距離。遊を連れて行かなくて正解だった。今ごろ神戸の実家でもてなされて夏休みを満喫しているだろう。
 件の人体模型は一階リビングの壁際に設置され、バルコニーと面する掃き出し窓からは見えない。玄関から長い廊下を伝って入室した僕とミヤコは、足を踏み入れた瞬間、ギョッとせずにはいられなかった。新婚旅行がまだだったので良い機会とは思っていたが、この調子だと随分常軌を逸したハネムーンになりそうだ。
「これが『生命の樹』を参考に作った、私の『生命のパズル』」と紹介された。
 生命の樹とは、太陽の塔の内側に作られた巨大展示施設のこと。赤い壁に囲まれて建つ鉄鋼製のオブジェには大小さまざまな生物模型群が取り付けられている。大阪万博後から約48年ぶりに修復を終えて常設となったそれを、椎名さんは当時の映像を見て感銘を受けたのだと言う。
「どう感銘すれば臓器になるんだ?」
「百花繚乱にほとばしる生命の進化は、内臓の進化でもある。耳の奥の液体は、人の祖先がかつて海で泳いでいた名残り。かつて顔の表面にあった味覚の受容体は、陸に上がって乾燥を防ぐために味蕾となって口腔内へ。解剖実習で見た臓器はホルマリン漬けで泥粘土に等しかったから、多少脚色はしているけど」
「だろうね、僕のときの甲状腺はこんな派手じゃなかったよ」
 喉仏の真下に位置し、羽を広げた蝶に似た形の甲状腺は、この人体模型においてはツマグロヒョウモンのような豹柄のオレンジ色に塗られている。阪神タイガース好きが着そうな柄だ。
「臓器それぞれの好みも反映させたからね」
 平然と言う椎名さんを、面白い人だとミヤコは笑いつつ、辛そうに腹に手を当てた。予定よりだいぶ早く生理になったと、行きの車で嘆いていた。助手席で何度も腰をもぞもぞさせていたのは、タンポンの位置が気になるかららしかった。
「大丈夫?」「ほら、私くすり効かないから」二人でこそこそ話していると、
「もっと面白い物、見せてあげましょうか」
 ミヤコに椎名さんが手招きした。その所作一つ一つが、いちいち28年前を思い起こさせた。
 誘導されてミヤコが座ったのは、人体模型の腕が組まれた空洞スペースだった。二体の曲げられた片膝に足を乗せて、腕の中に腰掛けた彼女は、抱っこ紐にくるまれた赤子のようにすっぽり収まっていた。
「ちょ、ちょっと」
 ミヤコが少し腰を浮かせて顔をしかめた。
「目を閉じて楽にしてて。大丈夫、痛みはすぐ忘れるから」
「何が始まるんですか」
「生命のパズルを『内側』から感じてほしいの」
 椎名さんは室内の電気を消した。視界が暗くなる。
「ふ、ふ、ふー」
 それはミヤコの吐息だった。闇から生じたかと思うと、そのリズムに同調して人体模型が二体とも光り始めた。虹色の炎が頭から肩、胸から腰へ。CTスキャンの光線のように包まれて、その内側の内臓たちも輝き始める。赤身の塊だった脳の表面はゼリーらしくブルブルと揺れ、無数のシワの間で光が蠢いた。大脳を4つに分ける脳溝に光彩が溜まり、脳幹の延髄から脊髄へ伝い落ちていく。付近にプロジェクターはない。「体内」からの発光は、LEDライトにしては繊細な発色だった。二つの脳の光がお互いに干渉しあっては、ミヤコのボブヘアーにいびつな輪を投げた。目を閉じた彼女の顔は穏やかそのものだ。
「すごいね、これ。よく出来てるよ」
「すごいのは、この子たちよ」椎名さんが誇らしげに言い、光を受けて口角が上がった。
「機械に愛情もつタイプ?」
「延髄の子が喜んでる、呼吸中枢を使って」
「はは、偉い偉い」
 僕が誉めると延髄の管が著しく明滅した。やがて息づかいは細く長く変化する。ふー、ふー。すー、はー、すー、はー。きらめく波紋も全体へ。中央に座るミヤコの肩越しに、模型の肺の端が伸縮を繰り返している。表面を埋める六角形に近い結合組織の区切りは紺色で染められ、ワシミミズクのまだらな羽模様にも見えた。
 虹色の翼を持つ天使――恍惚とするミヤコを遠くに感じた瞬間、二体のガラスのような容器を透かして過去の記憶の映像が脳に流れてきた。
「……吸い込まれる」28年前の震災の夜に。
 七色に光る筐体、フィギュアの手足よりも柔らかな人の四肢。双眼鏡で見た謎の遠景。あのときの光が目を貫いて僕自身の内臓に振動が走った。胸が圧迫される。苦しい。
「落ち着いて、平くん」となりで微笑む椎名さんの半眼は、慈愛というべき光に溢れていた。

2階客室のベッドに横たわったミヤコは、うっとりと自分で自分を抱きしめている。その横に座る僕は、彼女の頭に顔を寄せた。普段とは違う無機質なトリートメントの香りがする。椎名さんの家の浴室にあったものだ。最初から泊まるつもりで来たのだが、夜の窓の外はゲリラ豪雨が降り注ぎ、僕らの足を強制的に引き留めていた。
「管理人、安請け合いしたね」
「大丈夫だって。家には椎名さんがいるし、私たちは『パズルのお手入れ』を手伝うだけなんだから」
 すぐに夢見心地なため息が出る。僕の首筋をかすめて、たまらず彼女を抱きしめた。
「さっきの、そんなに気持ちよかったんだ?」
「妬いてるの? 人体模型に」
 ぎゅうっと力を入れると、んんっと吐息がこぼれた。下腹部にこみ上げるものが、ますます切ない気持ちにさせた。察したミヤコが僕の背中をポンポンと叩く。
「快楽とかじゃなくて。すっごくあったかくて、何かこう、脳ごと満たされた感じ」
 遊が抱っこされるときの、あの安心しきった顔になれたのだとミヤコは続けた。幼少期の記憶が無く、親に捨てられたことに寂しさを抱えてきた。そんな影を包むような光だったのかもしれない。
「いたた……生理痛戻ってきたみたい」抱いていた腕を離した。
「電気でぬくめられたんだろ、妊娠中は考えものだな」

――平くんたちに、『生命のパズル』の管理人になってほしい。何かあったとき、お手入れを頼める人。

椎名さんの依頼にミヤコがいち早く同意した。僕が契約者本人、ミヤコは連帯責任者として署名した契約書には、「契約破棄の場合、協議の上で相応の対価を所有者に支払うこと」とあった。冷静な椎名さんであれば話し合いの解決はむしろ心安かろう。磨き上げられた客室のシンプルな家具の配置は、パズルのピースよろしく整然としている。僕もその一部になっていたら、どうなっていたのだろう。
 物思いに耽る間にミヤコはさっさと寝てしまい、僕は2階の個室トイレに行った。窓を打ちつける雨音は、相変わらず容赦がない。下を脱いで便座に腰を下ろす。
「おああああ!」
 太股の裏に接触した便座の感触に、その場で飛び上がった。驚きで便意が引っ込む。感じたのは人肌の柔らかな感触ーー人間の指の腹、の群れだった。
「虫?」
 振り返って便座を見下ろした僕は、声も出ず股を押さえた。逆に危うく漏らしそうになったのだ。

――定雄くん、久しぶり。

便座の水面に少年の顔が映っている。ぼんやりとだが、確かに声まで聞こえた。
「と、俊彦」
 震災で亡くなった友人が、懐かしい笑顔をトイレの底に漂わせていた。ホログラムのように透けて見える。人体模型による幻覚だろうか。それとも――。

【生命のパズルのお手入れ時期です。生命のパズルのお手入れ時期です】

いかにも自動アナウンスという音声が、壁からけたたましく流れ始めた。無感情な女性の声でリピートされて、こめかみにズキズキ響いた。脈拍の上昇、湧いてくる怒り。悪ふざけにしては度を超している。
 夜は人体模型のそばで眠ると聞いていたので、2階の階段を勢いよく駆け下りた。どうせこの騒ぎでミヤコも目を覚ましているに違いない。長い廊下まであと2、3歩というとき、壁からまた声が聞こえてきた。
「おーい、階段は走るなー」
 うわっと足を滑らせそうになった。声も台詞も聞き覚えがあった。辰巳先生。救援物資の段ボール箱を抱えていた姿が目に浮かぶ。川の氾濫で流されて亡くなった、生徒思いの元教師。
 四方に視線を巡らすが、声の主は姿を現さない。さっきから何なんだ。椎名さんの意図が分からない。この家には僕たちのクラスにいた人物の幻影ばかり出てくるじゃないか。
「夜中に騒ぐんじゃないぞー」
 階段から廊下に出ると、また先生の声がした。壁の両側で至る所が虹色に明滅する。合間で赤い文様が毛細血管状に広がった。就寝前には一面真っ白だったはずだ。

【生命のパズルのお手入れ時期です。生命のパズルのお手入れ時期です】

再び鳴る自動音声に腹立ち、リビングの扉を無遠慮に開けた。部屋は薄暗い。二体の人体模型に光が灯る様は、そびえ立つ灯台の灯のようでもあった。その前にいた椎名さんが、こちらを振り返って見る。再会の日がフラッシュバックして、一瞬、足が止まった。
「眠れないの?」
「ふざけるな」カッと来て詰め寄った。
「悪趣味にも程があるだろ、同じ被災者なのに」
 膝をつき身を寄せ合う男女の模型の前で、僕たちは対峙する。同じ視線で立ったまま。
「彼らは会いたくて出てきたのよ」「全部きみの仕業だろ」
「臓器自身の意志よ。辰巳先生の大腸は廊下とリンクし、俊彦くんの腎臓は2階のトイレとリンクしている。各々の役割に基づいて、『生命のパズル』の臓器たちは皆この家の部屋や固定家具とつながってるの」
 悲しくて笑った。僕に復興の源をくれた人は、変な妄想で頭がおかしくなっている。
「信じてくれなくてもいいけど、パズルの管理人をしないなら契約破棄の対価を払って」
「なるほど、それが狙いか」
 金額を問うと、僕とミヤコから内臓を一つずつ提供してほしいと言われた。
「臓器売買だろ、君が手術するのか」
「違う。管理人にはなれないと宣言して、ここを出るだけでいい。扉が閉まったら瞬時に無痛で体から剥離されて、パズルの分と差し替えられる。経時劣化が来た分の新しいピースとしてね」
「臓器取られて死んでもいいっていうのか。それにそんなことできたら、医者もいらないだろ」
「救われるべきは約束を守る方でしょ」澄ました顔は能面のようだった。
「仕組みは管理人になるなら教えてあげる。メンテには細かい技術もいるから、平くんみたいに手先の器用な人が欲しかった。星新一の話をしたときからずっと今まで、腕が磨かれて育つのを待ってたの」
「もう、いいよ。これ以上、僕の中のイメージを壊すなよ」
「本当の私は双眼鏡の中のイメージよ。これを見て」
 人体模型の男女の目から光線が出て、空中にホログラム映像が表示された。宇宙の闇を漂う、一機の太陽観測衛星。
「1991年に打ち上げられた、名称SOLARーA、ようこう。太陽系惑星間を飛行していた私が見つけたのは、神戸の震災が起きるより数ヶ月前。消滅した母星から脱出して次の住み家を探していた私には、まさに太陽の光だった」
 そこで震災の映像に切り替わった。虹色に光る筐体が人を吸い上げていく。
「舞い降りた地球でやがて地震波を観測して、神戸で瀕死の犠牲者を見たときに思いついたの。飛行体の機能と臓器の絶え間ない生命活動を、住み家の維持に結びつけれないかと。膜貫通型タンパク質や電位依存性のイオンチャネルによる神経伝達の技術を用いて、回収した『彼ら』から生命のパズルは生まれた。でも余分なピースを混ぜると上手くいかない。母国語どころか方言が違うと臓器の『人間関係』もぎくしゃくして機能障害が出たりするの、不思議だった。辰巳先生が溺死されたおかげで、流動の統率はとれるようになったけど」
 帰りたいのに足が動かない。胃が痛い。彼女を驚異だと、僕の脳が自覚している。
「パズルの外観がすっきりするように、取り除いたピースも多かった、心臓を覆う心膜、肺を覆う胸膜、大腸と小腸に癒着する薄皮のような大網だいもう……あとはミヤコも。犠牲者の妊婦の中にいたの。子宮ごとはめてみたら、無事に生を受けたけど」
「施設で育ったんだ、親の愛情も知らずに」
「私の手には余りすぎて野に放ったの。当時は体力も幼かったのに、子育てで勉強や研究を中断されたくなかったから」
 こんな形で戻ってくるなんて托卵か鮭の川上りみたいね、とひっそり笑う。鳥肌が立った。
「火災の一酸化中毒で窒息寸前だった人体と個人情報を用いて、私も地球で生きていくために姿を変えた……人類の祖先が陸に上がって味蕾の臓器が顔を移動したように。偶然だけど、みらいという名前も陽光にぴったりだと思った」
「あの、お取り込み中ごめんなさい」
 ミヤコがリビングに現れた。生理痛がひどいらしく、顔面蒼白で腹に手を当てている。
「ちょうど良かった、話があるんだ」
 椎名さんを残し、ミヤコを客室に連れて行った僕は事情を説明した。外の雨の勢いはかなり弱まっている様子で、帰れなくはなさそうだ。
 すべてを聞いた彼女は、夏だというのに寒々しく身震いした。
「その話が本当とは思えないけど、血がつながってなくても子どもを捨てるような人を、遊に近づけたくはないね」
 きっぱりと言う顔には痛みと同情が滲んでいた。僕は帰ったら、太陽の塔のキーホルダーを診療所の鍵から取り外そうと思った。

僕とミヤコで契約破棄を宣言した。手早く荷物をまとめて玄関から外に出る。扉が閉まる前に、見送る椎名さんが口を開く。薄いまぶたを開けて僕を見る瞳には、失望した感情が透けて見えた。
「平くんのピースの代わりは、自分で作るから」
「勝手にしろ」
 バアンと背後で大きく閉まる音がしたとき、横殴りに襲いかかってきた雨でずぶ濡れになった。傘は意味が無いので二人で車の停車場所に走る。風が存外強かったが、もう中に戻る気はしなかった。
 車に乗り込むと肩から力が抜けた。濡れた腰が軽い。
「……ない」
 運転席で足を閉じた瞬間、今度こそ内臓まで総毛立った。
 呟いた声は雨音に消された。男だから分かる、あの位置のズレが気になる感覚。それがごっそりと股の間から消えている――自分の陰嚢が、股間から消滅した。思わずあったはずの場所に手をやる。やっぱりない。そんな、まさか。
 助手席のミヤコはそうとも知らず、鼻歌で上機嫌だった。
「雨に打たれるって意外と素敵ね。お腹の中が空っぽみたいに生理痛が消えたの」
「……え」
 子宮のあったはずの位置に手を当ててミヤコがにこやかに笑う。僕に続いて彼女まで。いや、これは夢だ。子宝に必須のピースが、夫婦揃って。
「遊の夢見たの、早く会いたいなあ」
 僕は助手席に引きつった笑顔しか返せなかった。
「ねえ、お土産なににしよう? 一日も経ってないのに、会えると思うと愛おしくてたまらない。これで次の子が出来たら、もう最高だよね」
 どしゃぶりの雨の中、ミヤコは晴れ晴れとした表情で目を閉じた。背後の窓の上を次から次へと、水滴が流星のように伝い落ちていく。

文字数:16000

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