禁煙が成功するまでに他の生き方を探す

印刷

梗 概

禁煙が成功するまでに他の生き方を探す

 その日、田村テッタは商談相手との会食を無事に済ませた。上司のスミヤからは絶対成功させるよう圧力を受けていたので会食を無事に終えたときには心底安堵する。会食相手は非喫煙者だった上に店内も全席禁煙だったため、吸うのをずっと我慢していたテッタは路上でもいいから吸ってしまえと懐からたばこっちを出す。

 それはAI搭載の灰皿付シガレットケースで、使用歴や環境や使用年数によって独自の進化を遂げ、一個の自由意志を持つ。持ち主が吸いたいときでもたばこっちが喫煙を是としなければ蓋さえ開けられない。もとは喫煙可能スポットが減少したことで吸える場所を失った一部の喫煙者たちが社会ルールを破って喫煙することに対する防御策として生み出された。喫煙行為を制限できることから、今や喫煙本数を減らしたいと思っている人間や禁煙をしたいと思っている人間もたばこっちを導入している。テッタもまたいずれ禁煙することを考えてたばこっちを導入し、バタコと名付けた。たばこっちには個体差があり、持ち主の意志やTPOを考えずに蓋をぱかぱか勝手に開けたり、喫煙可能地域にも関わらず、わざと蓋を開けない意地悪をしたりする個体もある。

 そのバタコの蓋がどうしても開かない。普段は用がないときでも自分からパカッと蓋を開けたり、蓋を勝手にパクパクとおしゃべりするように開けたり閉めたりしたりといった悪戯をしてみせるが、今はどんなに力を入れてもまるで開く気配がない。「なんでだよ」とつぶやき周りを見渡すとすぐ横の壁に「禁煙地域により喫煙不可。おたばこは所定の喫煙所でお願いします」という掲示がある。誰も見てないしいいだろう頼むよとバタコに頼んでも蓋は開かない。仕方なく喫煙所を探して三〇分ほどさまようと、駅まわりの外れに無料の喫煙ルームが見つかる。テッタはそこでようやくバタコの蓋を開け、二本吸う。バタコは言葉を発しないがテッタが所定の場所を探し、ルールを守ってたばこを吸ったことに満足している。搭載されている携帯灰皿内の吸い殻を捨ててやることも忘れない。捨て忘れて吸い殻が溜まると喫煙可能場所でも蓋をあけてくれないからだ。度を超えたときにはくしゃみのように蓋を勝手に開けると同時に吸い殻と灰をぶちまけることだってある。

 後日、例の商談相手からテッタの提案を聞く準備があるとの連絡があり、上司のスミヤと一緒に客先へ向かう。入念に準備をしていたがスミヤの余計な横やりが発生し、結局その場でクロージングとは成らず、契約は保留となる。客先を出ると要らない横やりで場の空気をかき乱したことを棚にあげたスミヤからこっぴどく叱られる。反論しようとするとテッタの背広のポケットから蓋の開閉の動きを利用したバタコが飛び出し、蓋をあけると同時に入っていたたばこの吸い殻と灰をスミヤに浴びせかける。スミヤは「うわっ、なんだたばこの灰かこれは目に入ったしみる」とわめき立てる。自分のたばこっちが暴れましたすみませんと謝りながらもテッタは溜飲を下げる。契約にこぎつけるための次善策を考えておくように言われスミヤと別れる。無性にたばこを吸いたくなるが、今いる場所も禁煙制限地域の一部のはずだった。それでもダメでもともとのつもりでバタコを取り出す。だが蓋はやはり開かない。こんな気分のときに自分がたばこを吸いたくなることくらいバタコならわかるはずだ。しかし開かない。諦めて最寄りの喫煙スポットに向かって歩き出す。バタコを握る手のひらに温もりが感じられる。こんな面倒くさいシガレットケース使わなければいいと言う人間もいるだろうが捨てる気にはならない。バタコのおかげでテッタの喫煙本数は確実に減っている。まだ吸いたくなることも多いししばらく辞められはしないだろう。たばこのパッケージにも喫煙本数と健康への影響に相関関係はないとの記載があるから本数を減らしたところで意味はないのかもしれない。だがテッタはこれからもバタコとの喫煙ライフを送るつもりだ。そして禁煙が成功するまでにバタコの他の生き方を探しておかなければならない

文字数:1667

内容に関するアピール

現代の日本は愛煙家には住みづらい国かもしれません。

たばこ税を納め、国家予算に貢献しているにもかかわらず、喫煙スポットは減らされ、周囲からは白い目でみられる。

どこかへ出掛ければ、目的地で一所懸命に喫煙所を探して奔走しなければならない。

値上げは少しずつ、しかし容赦なく実行され、真綿で首を絞められるように徐々に、そして確実に財布へのダメージは大きくなっていく。

現代の日本で愛煙家で居続けるのは苦労の多いことだと思っています。

そんな愛煙家の方たちへの、ある種の応援歌のつもりで書いた物語です。

決して喫煙を奨励するわけではありませんが。

このお話には、持ち主(飼い主)に寄り添……わないけれどちょっと憎めないシガレットケース型電子ペットを登場させています。

こんなやつがいたらたばこを吸うのがちょっと面白くなるかな、という気持ちで書きました。

どうぞよろしくお願い致します。 

文字数:381

印刷

禁煙が成功するまでに他の生き方を探す

 きりの良いところで作業していたワードファイルを保存し、大きく伸びをして長いとは言えない首をぐるりと回して視線を一周させると、どのデスクの主もすでにいなくなっていた。テッタの隣のデスクもその隣も、さらにそのまた隣もいない。社内システムにログインしてリアルタイムの在社情報を確認した。田村哲太、という名前のみ在籍マークが点灯し、それ以外の社員はすべて不在マークが白抜きで点灯していた。誰もいないことを確認したにも関わらず、哲太は自分の周囲を注意深く見回し、後ろを振り返り、誰もいないことを目視で確認してからブラウザを立ち上げた。後から社内システムの追跡にひっかからないよう、専用のソフトを立ち上げてダミーIPアドレス経由で業界大手の転職エージェント会社のウェブページにアクセスした。この半年、時間があれば見ているページだった。自分の家なら煙草を吸いながら見るところだが、会社の入っている建物は敷地内全面禁煙となっている。煙草は諦め、転職サービスの個人設定画面を開く。半年前にアクセスし始めたにも関わらず、哲太は個人設定を完了できずにいた。

 名前、現在の年齢、最終学歴、現職の会社名を順に埋めていく。そこまではいつも順調なのだが、問題はその先だ。質問項目にはこう書かれている。

『希望する業界および職種』

 希望する業界の選択肢として、メーカーや商社、小売、金融、サービス・インフラなどの業界分類とその下に分類された業種がズラズラと並んでいる。メーカーであれば食品、農林、水産、建設、住宅、繊維、化学、薬品、鉄鋼、機械、金属、自動車、精密機器、医療機器、印刷などだ。業界や業種の横にチェックボックスがあり、希望するものにチェックを入れればいいだけだ。あとはその希望に沿った求人情報が届く。

 だが、この項目に到達するとキーボードに置いた哲太の指が止まる。希望する業界。希望する業種。希望する職種。質問の意図は理解できる。だがその答えが哲太にはなかった。

 今の会社で働いているのも偶然だった。もともと教材会社の営業をやりたかったわけではない。就職は偶然の成り行きにすぎない、というのが本当のところだった。大学生のときにアルバイトをして、卒業と同時に正社員になったにすぎない。新卒採用をしていない会社で、テッタ以外の社員もだいたい似たような経緯で入社していた。がむしゃらに働き、覚え、大変ななかに歓びがあることを知ることができたが、仕事そのものが楽しいと思ったことはなかった。いつしか辞めたいと思うようになった。そして初めて転職エージェントのウェブページを訪れてから半年経っても、具体的な行動に移れずにいる。

 誰もいない事務所内に電話着信の音が響く。携帯端末のディスプレイには酒月エリと表示されている。

「今度の日曜、どっか食べにいこうよ」

「いいよ。食べたいものリクエストあるかな。あればそれの美味しいところ探してみる」

「わたしは世界一優しい彼女だからてーぽんの手間を減らしてあげようじゃないか」

「なんだよそれ」

 含み笑いとともに聞こえてきたのはオムライスという単語だった。哲太の大好物。

 まだ哲太が小学五年生だか六年生だかそのくらいだったときに両親に外食に連れて行かれた。連れて行かれたのは、街に行けば探さずとも目にするようなチェーン店ではないことが、子どもでもわかった。街の片隅に店を構えた洋食屋だった。当時はそんな知識を持っていなかったが、アンティーク調の外観で派手さを抑えたセンスの良さが光っていたのを覚えている。もう十何年も昔のことではあるが、そこで食べたオムライスがあまりに美味しかったことは今でも鮮明に覚えている。玉子の艶のある黄色と、その上からかかったケチャップソースの朱色とのコントラストは子ども心に美しいと思ったし、スプーンをいれた瞬間トロトロの玉子がチキンライスと一緒に出てきたときは感動さえ覚えた。両親がどういう反応だったのかは覚えていない。ただ無心で目の前のプレートにのったオムライスをかき込んだことは覚えている。それまでは誰かに「好きな料理は?」と問われたときの決まった答えの用意がなかった。ハンバーグとかカレーライスとかラーメンとか、どれも人並みに好きだという認識はあったが、特別に好きな料理とは言えなかった。その洋食屋のオムライス体験以降、哲太は決まった答えを得た。成長し、自分で食べ歩きをするようになるとオムライスが評判のお店を探しては訪れるようになった。住まいの近くだけでなく、旅先でもそういうお店を探し求めた。付き合い始めの頃、出先で昼食をとる際は自分が開拓したオムライスを出すお店にエリを連れて行った。オムライスの美味しいお店を探す天才じゃん。食事を終えてから彼女はそう言ってニカッと笑ってみせた。哲太もニヤッと笑って返した。オムライスはそういうメニューだった。

「別にいいんだよ、エリの食べたいものでさ。俺に合わせることないんだから」

「わたしがおいしいオムライス食べたいの。別にてーぽんに合わせたわけじゃないよ。オムライスが好きなのはてーぽんだけじゃありませーん」

 いつも通り美味しいところ探しておいてねーという軽いお願いとともに通話が終わる。

 彼女との出会いのきっかけは仕事だった。哲太が教材の営業で回った学習塾の責任者で教室長だったのがエリだった。最初は発注側と受注側の関係でしかなかった。二人の関係が変わるきっかけとなったのは煙草だった。同じく喫煙者だったエリから教室の外に設置された喫煙スペースでの一服に誘われた哲太が、当時はまだ世に出始めだった「たばこっち」をポケットから取り出した。初めて目にする電子ペットに興味を持ったエリがあれこれと「たばこっち」について訊いてきた。営業とその顧客だけでしかなかった二人の関係は、ほどなく個人的な関係に変わった。

 エリとの通話後、仕事を切り上げた哲太は会社を出ると駅の近くにある無料喫煙所にいった。懐から「たばこっち」を取り出す。シガレットケース側の蓋をあけて煙草を一本とりだし持っていたジッポーで火をつける。

「たばこっち」とはAI搭載のシガレットケース兼携帯灰皿型の電子ペットだ。社会的に喫煙者への風当たりは厳しくなるばかりで、年を経るごとに屋内外問わず喫煙可能なスペースは失われ続けている。しかし喫煙者が天然記念物に指定されるほど減少しているかというとそうでもない。政府は煙草税を上げつづけながらもその上昇幅はゆるやかで、煙草農家の反発、急激な喫煙離れによる税収減を回避する方針を崩さない。だが、国際的にも喫煙に対する批判が多く、政府も国内外のそうした声に応えざるを得なくなった。その結果、喫煙者の減少促進策が講じられる。政府主導で、将来的に禁煙を考慮している人間向けにAI搭載のシガレットケース兼灰皿を開発・展開したのだ。それが「たばこっち」である。

 これは非言語型相互コミュニケーション系AIを搭載し、使用者の喫煙行為に干渉する。例えば、使用者が禁煙エリアで煙草を吸おうとしても「たばこっち」はシガレットケースの蓋を開けない。使用者の喫煙本数が多いとAIが独自に判断した場合もまた同様の反応を見せる。禁煙しようと考えている人間にとっては煩わしくも、従わざるを得ないと思わせる。それが開発側の狙いだった。非言語型とはいえ相互コミュニケーション系AIが搭載されたのは、「たばこっち」に電子ペットとしての性質を持たせるためでもあった。使用者、つまり飼い主が「たばこっち」に愛着を持つようにさせる、というわけである。

 開発にあたっては当然のことながら批判的な声も多かった。喫煙習慣の有無に関わらず特に多かった声は「好きで吸っている人間はそんなもの使わない」というものだ。

 批判に対し政府は『「たばこっち」は煙草を辞めたい人を主な対象に設定して開発されたものであり、好んで喫煙している人に勧めているものでもなく、批判は当を得ていないと受け止めている』と、もっともらしい声明を出した結果、さらなる炎上を招いた。だが哲太はいずれ禁煙しようと考えていたこともあり、興味本位から一次ロットの販売に応募し、「たばこっち」を手に入れ、バタコと命名した。特に深い意味はなく、語呂がよかったからそう名付けただけだ。

 バタコは哲太の言動から学習し、次第に飼い主の心理的変化に呼応するかのような反応を見せるようになった。たとえば気分がむしゃくしゃしていたときに一本吸ったとき、吸い終わって吸い殻をしまい、さあ行こうと思ったところでシガレットケース側の蓋が開いたこともあった。まるでもう一本吸って気分を落ち着かせてからにしろ、と言われたような気持ちになった。もっともそのあと数時間たってから喫煙スペースに行って吸おうとしてもシガレットケースの蓋がびくともせず、結局吸えずに終わったが。バタコはシガレットケース側に煙草の在庫があろうとなかろうと特に何の反応も見せないが、吸い殻が捨てられることなくあまりに溜まっていると勝手に灰皿側の蓋をバタバタと開けて咳き込むように吸い殻を周囲に巻き散らかしたことがあった。その反省から哲太は灰皿側に吸い殻が溜まっていないかどうか気にするようにした。結果的にバタコが吸い殻を巻き散らかしたのは今のところそのときの一回だけだ。

 無料喫煙所で煙草を吸いながら、ぼんやりと自分のこれからを考える。いつまでもこの仕事を続けるのか。その問いにはすでに答えが出ているはずなのに、いつまで経ってもそこから離れられずにいる。だって、たとえ今の会社を辞めるとして、そのあと自分は何をすればいいというのだろうか。

 

 迎えた日曜日、エリと一緒に千葉県の市川に向かった。まだエリを連れていったことのない洋食屋があるからだ。いつもなら楽しそうに次から次に自分の塾の生徒や保護者に関するエピソードをひっきりなしに話してくれるエリが、この日は口数が少ない。

「毎度のことながらよく良いお店を探すよね。忙しそうに見えて本当は暇で暇で仕方ないんじゃないの」

 憎まれ口を利きながらも運ばれてきたオムライスを美味しそうに平らげ、食後のコーヒーにドバドバと砂糖を入れながら、エリは言った。

「塾、辞めようかな」

 彼女がそういうことを言うのは哲太が知る限り初めてのことだった。

「辞めたいの?」

「疲れちゃった」

「疲れちゃったか」

 互いにカップを口に運ぶ。哲太とエリがいる空間だけが周囲から切り離されたのではないかと錯覚するほど、やけに静かだった。哲太は黙ってコーヒーをすすった。

「てーぽん」

「ん」

「中学生のときに通ってた塾の話して」

「かまわないけど」

 哲太が中学生時代に通った塾は、生徒を個別に指導するスタイルの塾だった。教室長は小柄で眼鏡をかけた年配の男性で、怒った姿を見たことがない割には少し話しかけがたい雰囲気だった。講師には大学生もいたが、子育てが終わった主婦が多く、会社を定年退職した男性もいて、年齢層が高かったことを覚えている。哲太は中学二年からそこに通いはじめ、英語は母親と同じくらいの女性、数学は男子大学生から教わった。英語の講師は勢いがある人で、授業中どんどん声が大きくなっていくのが面白かった。なにより印象に残っているのは数学の講師が話してくれた勉強のコツだ。その若い講師は哲太に言った。

「問題集に何冊も手を出してもだいたい中途半端に終わるんだよ。それよりも一冊の問題集を何度も何度も繰り返してみなよ。哲太くんならきっと力つくと思うよ」

 哲太は言われたとおり、勧められた一冊の問題集のみを繰り返し勉強した。後になって考えても、なぜその講師の話が自分にそこまでの影響を与えたのかはわからない。きっと当時の自分には感じるものがあったのだろう。結局、その後の学力テストで哲太は過去最高の結果を記録した。数学の若い講師はその結果をみて「がんばったじゃん。そうとうやっただろう。これからもその調子でいこうな」と言って持っていた飴をくれた。ただの飴をもらってうれしいと思ったのはそのときが初めてだった。

「いつ聴いても、数学の若い講師には感心するなあ。言われてもなかなかできることじゃないよ、その生徒との関わり方は」

「生徒との関わり方で悩みあるの?」

 エリから話を聞く限りにおいて、生徒とはうまくつき合っているという印象を哲太は持っていた。

「生徒との関係は問題ないよ。近くの塾と比べても私の教室が一番いい塾だよ」

 以前にエリが言っていたことを覚えていた。教室長は自分の塾が一番だと思って運営するべきだ、という内容だった。

「だったら」

「講師として雇った女性がいたの」

 エリは焦点の合わない表情をして語り始めた。

「年配の、しっかりしてそうな雰囲気の人だった。てーぽんもわかってると思うけど、塾も常に人手不足の仕事だからさ、アルバイト講師への応募の連絡があったから形式的な手続きのあとすぐにその人を採用して授業に入ってもらったのね」

 彼女が言うには、その女性講師は採用当初は真面目に仕事をしていたものの、すぐにいい加減な仕事をするようになったという。授業のある日にこない。授業にジャージでくる(別に制服があるわけでもないが、上下スウェットのようなカジュアル過ぎるスタイルは禁止だという)。エリの指示に従わない。目に余ると感じたエリが本人を呼び出して指導しようと考えていた矢先にそれは起こったという。

「他の講師が教えてくれたんだけどね」

 その「他の講師」が言うには、件の女性講師から「もっとほかに良い塾あるからさ、そこに一緒にいこうよ」とヘッドハンティングよろしく誘ってきたという。その「他の講師」はエリのことを慕っている講師で(哲太が知る限り、ほとんどの講師がエリのことを慕っていたが)、件の女性講師からそういう誘いをうけたあとすぐに報告にきてくれた、とのことだった。

「その女性講師に何か悪いことしたっけなあって、めっちゃ考えたんだよ。でもね、思い当たること全然ないの。もう意味がわからなくて」

 件の女性講師は、自分が不穏な行動をとっていることがエリの耳にも入ったことを知ったのか、そのあとすぐに連絡を寄越し、「今日で辞めさせてもらいます。この教室は私には合わなかったみたいで」と申し出てきた。問題を起こしそうな講師をいつまでも在籍させておくわけにもいかないと思ったエリは引き継ぎもなくその講師の申し出を受け入れたという。

「私が何したっていうの。もう意味わかんないよマジでさ。担当講師が変わっちゃう生徒にも申し訳ないし、親御さんにも申し訳ないし。私はもやもやするし。もう最悪な気分で」

 哲太は初めてエリの教室を訪れたときの話をした。夕方で中学生の生徒がやってくる時間に訪れると、室長室が生徒たちでごった返していた。見ていると、生徒の誰もがエリと話をしたがっているように見えた。

「教材の営業でいろいろな教室にお邪魔したけど、後にも先にも、あそこまで生徒との距離が近い教室長はエリだけだよ。そのエリがいなくなったら、俺が生徒だったらきっと悲しくなると思う」

 嘘でもお世辞でもなく、哲太が会ってきた教室長で最も生徒からの信頼を勝ち得ていると感じたのがエリだった。それは友達のような親しさとは違う、敬意を孕んだ親愛に近かった。

「そう? ほんとにそう思う?」

「本当に本当。絶対に悲しくなる」

「そっか」

少しだけエリの表情が明るくなったように感じられた。

「生徒を悲しませるわけにはいかないよね」

 哲太にはわかっている。塾の教室長という仕事は、エリにぴったりだということを。そんなエリでも、自分の仕事に対して時に疑問を持つのだ。では、自分は。

 

 梅雨の時期を迎え、全国的に暑さが本格化する兆しが見える頃、哲太の会社では夏に向けての営業目標が掲げられる。各塾が夏休みに実施する夏期講習。その講習用教材の受注額だ。既存の顧客はもちろん、取引実績が薄かったり皆無だったりする塾からいかに発注をもらうか。営業の社員は誰もがその悩みに直面する。もちろん哲太もその一人だ。だが哲太には取引実績がないなかでも、大きな可能性のある顧客を持っていた。複数の教室を運営する塾オーナーのフシムラという顧客だ。

 これまでも哲太はたびたび教材採用を申し願っていた。だが、未だに取引実績はない。フシムラは業界大手の塾、陽光学院のフランチャイズ教室を何教室か運営しており、もともと直営の教室が使っている他社製の教材を使用している。教室が複数あるため、継続した取引ができればその分、売り上げも期待できる。その後の取引量増につなげるため、哲太はまずは目先の取引実績をつくることを目標にフシムラにたびたび営業をかけていた。会社としてもフシムラは重要顧客のひとりに数えており、営業課長のスミヤは哲太にたびたびフシムラへの営業成果を問いただしてくる。

「とにかく仲を深めてこいよ。食事にでも何でも誘ってよ。そのくらいできるだろうが」

 スミヤに言われるまでもなかった。発注をもらうために哲太は少しずつフシムラとの距離を近づけていった。最初は仕事の話はほどほどにして、まずはフシムラの人となりを知ることを目的としてヒアリングトークを行った。当たり障りのない話からフシムラの性格、考え方の傾向、好み、教育観などを掴みつつ、様子をみて趣味や嗜好といった個人的な内容にまで話題を広げていった。焦らず、定期的にフシムラのもとを訪れ、少しずつ仕事の話を聞いてもらえる環境を整えてきた。すでに会食の予定も立っている。そのことを告げるとスミヤは頷いて言った。

「会食では詳細な話は不要だ。うちと取引する、という言質だけなんとしてももらってこい」

 

「田村さん、よく我慢されていますね。大したもんです」

 教育改革が話題にのぼるたびに過去の教育内容や制度のもとに育ってきた人間たちを卑下するような風潮は好きではない、というような話をしている最中、フシムラはそんな風に言った。

「どういうことですか我慢とは」

「いえね、ふと思ったんですよ。田村さん煙草を吸われますよね普段」

 フシムラと視線がぶつかった。

「わかりますか。ひょっとして匂いましたか」

 彼は微笑むような表情をして小さく頷いた。

「毎回というわけではないですが、田村さんがお越しになったときに煙草の匂いがするなと感じたことがありました。でも今日ご用意してくださったこのお店、全席禁煙どころか分煙用の喫煙スペースもないところなので、大丈夫かいな、と」

「さすがの洞察力ですね」

 彼には自分が喫煙者であることを話したことはなかったが、確かに一本吸った直後にフシムラを訪問したことが何回かあった。

「別に吸えるお店でも私は構わないんですよ」

「いえいえお気になさらないでください」

 気遣われてしまったことに恐縮しつつ哲太は手を振って言った。

「そのうち辞めるつもりなんです。そのためにこいつまで飼いはじめました」

 背広のポケットからバタコを取り出してフシムラに見せた。

「たばこっちですか。確かに禁煙したい人はけっこう飼っているようですね。私の会社の教室長のなかにも飼っているのがいたなあ確か」

「そういうわけなんで、煙草のことは気になさらず」

 フシムラはしかし眉間にしわを寄せて言った。

「辞めて、そのあとはどうされるつもりですか」

 彼が言わんとすることがすぐには分からなかった。

「田村さんが煙草をやめたとします。そうしたらそのたばこっちはどうされるんですか」

 フシムラのその言葉が、哲太の耳には別の響きに聞こえた。

 田村さんが今の仕事をやめたとします。そうしたら、その後はどうされるんですか。

 

 会食を終え、二人で店の外に出る。夜の湿った生ぬるい空気がまとわりついてくる。周囲には居酒屋やダイニングバーが建ち並んでいて路上にはこれから店に繰り出そうという雰囲気の通行人や、店の前で見込みのありそうな通行人を勧誘しようと店員が声を張り上げている。フシムラは頭をさげて食事の礼を述べてから哲太に言った。

「近いうちに事務所にお越しください。そのときは資料も忘れずに」

 欲しかった答えだった。哲太は相手の顔が見えなくなるほど腰を折って何度も礼を述べた。フシムラは手を振ってそれでは、といって去っていった。

 翌日、スミヤに会食の結果を伝えると「そのときは俺も同席する」と哲太が想定していなかったことを口にした。面食らって返事ができないでいる哲太にスミヤは重ねるようにして言った。

「重要顧客のひとりだぞ。上司が同席するのは当然だろう」

 結局、何を言っても無駄だと思った哲太はスミヤの同席を拒むことはできなかった。何も考えずに一本だけでいいから煙草を吸いたかった。

 その日、フシムラは哲太以外の人間が同行していることに意外そうな様子だった。哲太はフシムラの雰囲気をそのように感じ取り、そしてその雰囲気はお世辞にもポジティブなものではないとも感じていた。フシムラとスミヤに互いを紹介し、勧められるままに席についた。基本的には哲太がフシムラと契約の話を進め、それをスミヤが必要に応じて補足説明を加える、という取り決めを事前にしていたこともあり、哲太は上司を連れてきたことを軽く詫びた上で、会社側のイニシアチブを握っているのは自分であることをフシムラに示した。資料をみせ、教材のタイプ、使用開始時期、予定数量などをヒアリングしていく。フシムラの希望は春夏冬の長期休みに各塾が使用する講習用の教材だった。生徒ひとりひとりに合ったものを渡せるよう、同一学年の教材でも難易度やページ数の異なるもの。それがフシムラの希望だった。それに応えられる商品展開があり、哲太は心中で微かだが確実な手応えを得ていた。それらの教材に関する説明をし終え、発注に関するいくつかの確認を済ませば、それで契約は成立するところまでこぎつけた。

「オーナーのご希望、確かに承りました。いま田村が説明した教材ももちろん我々が自信を持って提供しているものです。ですが、こちらの教材もまたオーナーのご希望に沿った商品であり、内容も充実しています」

 クロージングの終わりにさしかかったところで、スミヤが横から割り込む形で嘴をはさんできた。スミヤが提案した教材は網羅型教材の一種で、一冊で基本から応用、ひいては発展レベルまでの問題すべてが網羅された講習用教材だ。各難易度の問題数に大きな差はないため、確かにスミヤが言うようにフシムラの希望に応えられなくもない。ただどうしても埋めがたい差が一点あった。単価だ。網羅型のその教材は通常の講習用教材に比べて価格が高いのだ。前者が一冊あたり二、三百円程度という低価格に対して、一冊あたり千円。通常の倍以上の額なのだ。講習時に使用するテキストの代金は徴収しない塾がほとんどであり、だからこそ経費を抑えるためにどの塾でも講習用のテキストはページ数も多くない、低価格の教材が選ばれる。哲太はこれまでの営業で得た情報やフシムラからヒアリングした内容を考慮した上で今回の提案内容を決めた。他方スミヤの提案はどうだ。今日はじめて耳にしたフシムラの希望に一見すると合致し、なおかつ会社の事情としてより利益の見込める単価の高い教材。スミヤ本人の目にはそれが最適解に映ったのだろう。哲太にしてみれば悪手以外の何ものでもなかった。フシムラは契約の話が終わるまでもうすぐ、というところで突如別の提案をされたことに戸惑いを隠せずにいた。

「確かにそちらの教材もよさそうですが、いまお願いしようとしている教材より一冊が高いし、それに講習で使うには分厚いな」

 全レベルの問題が一定分量ある教材だ。通常の講習用教材が二〇ページ前後に対して網羅型のその教材は約一〇〇ページはあった。だが、スミヤは食い下がった。哲太の胸のなかで、心臓の鼓動がはやくなっていく。

「ですが、生徒さんのみんなが基本しかできないとか、応用しかやる必要がないとか、そういうわけではないでしょう。一人の生徒さんが基本もできるし標準レベルもできる、という生徒さんも多いはずです。この網羅型教材なら一冊でそういうニーズすべてに対応できます」

 哲太の心臓は数えられないほどの早さでドクドクと拍動している。だんだんと息がし辛くもなってきた。フシムラの表情は戸惑いから嫌悪に変わっていた。眉間にはしわが寄り、口元は真一文字に閉ざされている。哲太は、この陽光学院のフランチャイズ教室を複数持つ、会社の重要顧客との契約が立ち消えになったことを感じていた。

 結局、フシムラからは「御社の提案についてもう一度考えさせてもらいます」と体のいい言葉で終わりを告げられた。フシムラの事務所を出るとスミヤが声を荒げていった。

「お前はいったいどういう営業してきたんだ」

「クロージングの終わり間際で横やりを入れてきたのは課長でしょう。あとは向こうの発注数量と納品時期を確認して終わり、というところまできていたのに、なぜあんな提案をしたんですか。しかもあのタイミングで」

「上手くいかなかったのは俺のせいだって言いたいのか」

 哲太は自分の声が大きくなっていくのを感じながらも止めることはできなかった。

「答えてくださいよ。なぜあんな提案したのか」

「だまれっ。お前がなんと言おうが契約できなかったのはお前の責任だからな。口だけは一丁前なこと言いやがって。フシムラが何教室持っていると思っているんだ。五つだぞ五つ。そんな重要な客の契約を落としやがって」

 怒鳴り声をあげるスミヤの言葉をきいて、心が冷え込んだように落ち着いた哲太は静かに言った。

「五つ、ではなく六つです」

 言われたスミヤはとっさに言うべき言葉を見つけられずにいるようだった。スミヤに反論の機会も与えずに哲太は背中を向けて目的地も決めないまま歩き始めた。スミヤが何か言っているのを背中に感じたが、そのまま振り返ることなく歩き続けた。

 しばらく歩き続けていると煙草を吸いたくなっている自分の気持ちに気がついてポケットからバタコをだした。シガレットケース側の蓋を開けようとするが開かない。指にどんなに力を入れても蓋はいっこう開かなかった。なんでだ、と途方にくれて周りを見渡すとすぐそばの、道路と歩道を隔てているガードレールに掲示された横長の看板が目に留まった。

『路上喫煙禁止エリアにつき、路上での喫煙、歩き煙草は絶対にしないでください。喫煙は所定の喫煙所でお願いします』

 うそだろ、とつぶやきバタコを見下ろす。灰皿側の蓋がパカパカと小刻みに開いたり閉まったりを繰り返す。嘲笑っているのか怒っているのかはわからないが、いま哲太がこの場で煙草を吸うことは許してくれないようだ。

「ばかみたいだな」

 ひとりそうこぼす。ここ最近で最も煙草を吸いたい気分にも関わらず吸うことが許されない状況が理不尽と思いつつも滑稽に感じられ、さきほどのスミヤとの口論以後のひどい気分がいくらかましになっていた。

 そのまま歩いていると、やがて煙草と煙のマークが入った看板がみえた。無料の喫煙ハウスだ。ハウス内には自動販売機も設置されていて誰でも利用できる。全国各所に設置されているがその数は決して多くはない。かつては駅のすぐそばに喫煙所があったそうだが、それもかなり古い話だ。煙草を吸える場所を探すだけでも苦労する今の世の中にあって、無料喫煙ハウスは愛煙家にとってのオアシスだ。哲太はそこに入り、さっそく一本火をつけると先ほどのスミヤとの会話を思い出した。

 そろそろ本当に辞めどきかもしれない。

 そんなことを思いながら、ぼんやり周りを見渡すと数人の会社帰りと思しき背広姿の男性と、大学生くらいの年代に見える私服の女性がひとり、それとパンツスーツを着た三十代くらいの茶髪の女性が思い思いに煙草を吸っている。なかには煙草を持つ手とは反対側の手に「たばこっち」を持っている人もいた。そういう人を目にすると、哲太は少し仲間意識を感じる。だが、そこで初めてあることに思いが至った。「たばこっち」を持っている人が煙草をやめたら、その「たばこっち」はどうなるのだろうと考えた。「たばこっち」はシガレットケース兼携帯灰皿という役割に特化した電子ペットだ。煙草を吸わなくなれば使い途がなくなる。そのとき、搭載されたAIはどう感じるだろう。「たばこっち」に搭載されているのは非言語型AIではあるが、しかし同時に相互コミュニケーション系AIでもあり、独自の意志を有している。電子とはいえペットであることにかわりはない。哲太は自分の「たばこっち」であるバタコには特別な愛着を抱いているし、バタコの機能に不具合が生じたからといって別の個体を手に入れようとはしない。仮にそうなったら、機能の修回復をしてバタコを使い続けるだろう。世の中には禁煙して不要になった「たばこっち」を他人に販売したり譲ったりする人間やそれを推奨されるケースは少なくない。「たばこっち」は電子ペットとして定義されてはいるものの、生体と同じように扱われるケースはむしろ稀だ。多くの場合、単なるガジェットとして扱われる。

 哲太は違う。

 バタコは自分が飼っているペットだという認識であり、替えのきかない存在だった。だから悩んだ。もし自分が禁煙したら、バタコをどうすることがもっとも望ましいのだろうか。

 まだ哲太が大学生だったとき、当時つき合っていた女の子から「テツくんは冷たい」と言われたことがある。彼女が実家で飼っていた犬が病気で死んでしまい、ひどく落ち込んだことがあった。そのとき哲太は慰めるつもりで「別の子を飼ったらいい」と彼女に言った。すると彼女は首を振った。この悲しみやつらさは別の子を飼えば解消されるものじゃない、というようなことを言われた。そのときは彼女の言うことを言葉としてしか理解できなかった。哲太は自分が禁煙した後のバタコのことをリアルに想像し、そこでようやく当時の彼女が言ったことを肌で実感できた。当時の彼女の感情と、今の自分がバタコに抱いている感情は同じ範疇に属するものに違いなかった。

 そろそろ喫煙ハウスを出ようかというところでエリから着信が入った。この前は美味しいオムライスのお店に連れて行ってくれてありがとう、というような話をしたあと、エリが言った。

「私のこと、どう思う」

「世界で一番可愛い俺の彼女で、他のどの塾よりも良い塾を運営している教室長」

「さすがてーぽん。よくわかってくれてるね」

 迷いなく答えた哲太の言葉に彼女は笑って答えたエリは「あれから考えたんだけどね」と話を切り出した。

「私の生き方は私が決める。塾をやりたいと思って、私はいま塾の教室長をしてる。辞めちゃった講師のことでいつまでもくよくよしてられないよね」

 週末はそっちいくね、と言って着信が切れた。

 私の生き方は私が決める。

 エリの、力強い響きを伴ったその言葉が、いつまでも哲太の耳に残っていた。

 

 換気扇の下でエリと二人して煙草を吸う。哲太は手の中でくるくるとバタコを弄ぶ。手のひらがほんのり暖かい。それを見ていたエリが言う。

「ねえ。煙草、いつ辞めるつもりなの」

「すぐには辞めないよ。いずれ辞めるけれど、今はまだ辞められない」

 哲太は決心した。近いうちに会社を辞める、そしてやりたかったことをする、と。たとえ失敗しても後悔はない、それよりも、やりたかったことをやらないことのほうが、将来きっと後悔すると思った。

 哲太はラップトップPCを立ち上げると、この半年で見慣れた業界大手の転職エージェントのウェブページにアクセスした。個人設定画面を開く。今まで何度もやってきたように名前からはじめて、現在の年齢、最終学歴、現職の会社名を順に埋めていく。

 そしてその先の項目も。

 希望する業界分類、業種、職種。表示されているチェックボックスのすべてにチェックマークをいれていく。

「なにそれ、全部じゃん。やば」

 横からディスプレイをのぞき込んできたエリが笑って言う。

「いいね。チャレンジ最高じゃん」

 そうやって哲太は自分の生き方を決めた。

 そしてそれはバタコについても同じだと哲太は思った。

 こいつは自分で自分の生き方を決められない。俺が煙草をやめたら、こいつはその先も今と同じ生き方はできない。まだ煙草を吸っている他人に譲ればいい、という人間もいるかもしれない。でもそれは、俺にはできない。俺はこいつと人生をともにすると決めた。こいつの次の生き方を探す責任がある。だから、煙草を辞めるまでにこいつの次の生き方を探す。そうしなければならないのだ。

 

 

文字数:13222

課題提出者一覧