梗 概
星々に捧ぐ絵
宇宙と脳の構造は似ている。
その事実に基づき、脳の神経細胞やメッセージ物質などを総括した値・BV(脳値,Brain Value)を定義・発展させることで、宇宙研究が一定の進歩を遂げた近未来。しかしながら、いくつかの事象、例えば初期宇宙研究はBVの恩恵を受けていない。
アメリカで宇宙の創成・ゆらぎの研究を行うタミラは、動物全般も含むBVのパターンを当てはめてもヒントを得られず、気分転換に娘のリリーと旅行することにした。リリーはタミラの別れた夫に似て自由奔放だった。自分のことを好きになれないタミラは、自分に似ていないリリーを深く愛していた。
タミラたちは中国の山地で遭難しかけ、村人のゾエに助けられる。村には、タミラには理解できない絵を描く人々が住んでおり、ゾエは村一番の描き手である。タミラは、自分が知らないことを知っており、野性味があり直感的なゾエに好意を抱く。
リリーはゾエの絵を気に入って仲良くなり、タミラが持っていたBV用小型機材を持ち出して、自分やゾエに装着したりした。ある日タミラはゾエのBVに、宇宙にインフレーションが起こる直前の、真空のエネルギー法則との共通点を発見する。中でも絵を描いている時の値が最も近かった。
タミラはゾエに渡米してもらい、ゾエは絵を描いてBVを提供する。周囲の人間はタミラの発見に驚嘆し、ブレークスルーになる可能性があると見なす。一方で周囲も、ゾエの絵の意味や価値が理解できない。ゾエは次第にタミラを思慕するようになり、絵の感想を尋ねるが、タミラはわからないと正直に告げる。
ゾエはタミラに頼んで学習し、教材に沿って絵を上達させる。タミラもゾエの絵が分かるようになっていくが、ゾエのBVは求める法則性とはなぜか離れていく。タミラは、自分や帰属社会の持っている創造性の規範が、宇宙の規範からは異なり、むしろゾエの描いていた原初的な絵が、宇宙に内在する創造性に近いのではないかと考えはじめる。
ゾエはタミラとリリーの絵を描き、タミラは素晴らしいと思う。しかし絵が完成した時点で、ゾエのBVからは求める法則との類似性が完全に消え去っていた。
タミラはゾエと同郷の村人で調査しようとするが、ゾエは学習結果を遠隔で共有しており、村人は観光客受けする絵を描くようになって村を繁栄させ、過去の絵は描けなくなっていた。
タミラはゾエの愛情に応えることができず、ゾエは村に戻ることになる。
タミラは、空港でゾエを見送りながら、理解できない相手に情を抱く自分の感情と、類似性から進める研究との相違に当惑して皮肉を感じる。そして、最も大切な存在はリリーだと実感していると、リリーがスケッチブックに描いたゾエの似顔絵が、最初にゾエが描いた絵に似ていることを発見する。
リリーを調べたい。しかしいつか、ゾエ同様にリリーを失うのではないか。タミラは期待と不安を抱きつつ、小型機材に触れて戸惑う。
文字数:1198
内容に関するアピール
脳と宇宙の物理法則が似ているというSF的な要素と、アートは何をもって良いとするかの判断が難しいのが面白い、という思いが結びつき、近未来の人々が持つアートの規範が宇宙膨張の規範とは異なる、という話を書きたいと思いました。
人間ドラマは、タミラは最初ゾエに好意を抱き、共通点ができると心が離れる自分の感情に当惑し、ゾエはタミラに愛情を抱いて絵を上達させるものの、それが別れのきっかけになるという悲恋を描きます。
絵は、人にとって原初的なアートで上達手段が確立しているために選びました。具象の技法は概ね時代を超えて人気があるので、作中の近未来は現実以上に現実らしく描くことに人気がある設定です。
ゾエの絵は、縄文土器は個人の個性ではなく、集団の共有する意匠でつくられていたことをヒントにし、隔絶された地域で共有される、抽象化された絵画を想定しています。
ゾエの絵を通して、宇宙の創造性を記述しようと思います。
文字数:398
最後の一服
春にはまだ遠く、冬の寒さが染みいる明け方のこと。
京の町の上空、まだ賑わいが訪れる前の時間帯、人の目で察知できないほどの短い一瞬に閃光がひらめき、俗にお茶屋敷と呼ばれる敷地に落下した。光を目撃したのは、近くの山のふもとの百姓が飼っていた白梟だけだった。庭先にいた梟はほうと一声鳴いたが、飼い主に叱責されてそれきり黙りこくった。
数刻後、広大なお茶屋敷の敷地内に、石燈籠の傍らを足早に行き過ぎる、影のような姿があった。彼は虚舟と呼ばれる円盤型の宇宙船でやってきた虚人で、千々に散らばる星々に赴き、諸々の情報を集める職務に就いていた。
彼は身体に内蔵している機構を起動し、全宇宙で広く共有している聚合情報に接続した。検索結果によれば、ここは地球のニホンと呼ばれる国で、一帯を支配していると思い込んでいる人間という種が諍いを起こしており、戦乱の世にあるらしい。彼は、この国の基本的な情報と感覚をまとめて頭に落とし込んだ。
比較的きれいに管理されたこの敷地は、身分ある者が所有しているものと推測できたが、敷地の所有者を取得するには時間がかかりそうだった。そのため、先に見た目を選ぶことにした。聚合情報からは、時代と場所から、ゆったりとした首まわりが特徴的な、上下に分かれた衣服を推奨されたので、外見として設定する。闇に紛れるその姿が、露草色した直垂が目に爽やかな青年の形をなす。
薄明かりの下、茶や黄の葉が散り敷かれた庭で、不揃いながらも調和がある庭石を渡りゆく。庭はあまりにも広大だったので、町の繁華街近くに位置しているにも関わらず、雑踏を離れた森の中にいるような気がしてくる。土や木々、うっすらと残る雪の下でわずかに顔を覗かせる草のにおいを嗅ぎながら、虚人はこの庭の静寂に深く魅入られた。
ふと気がつくと、小さな庵が目の前にあった。木材や竹を用いた小家で、装飾が全く見受けられず、極端に質素な茅屋にしか見えない。没趣味な家屋の周囲を歩いてみても、扉らしきものが見当たらなかった。
もしやこの建物は、自分の母星にある住居のように、外観は小さくても中は表裏や境界が全くなく、どこまでも広がっているのだろうか。そう思った虚人は、ふと、庭石がその小屋まで続いており、石が途切れたところに、他とは色が異なる板が嵌っていることに気づいた。
これが入口だろうか。しかし、身体がやっと入れるくらいの大きさしかない。虚人は暫し躊躇したが、好奇心に負けた。板を引くと静かに動いたので、ほとんど体を押し込めるようにしてにじり入った。
室内は薄暗く、調度品らしきものの輪郭しか見えないが、甘やかな花の香りと、わずかに人の気配が漂っている。虚人が口を開こうとすると、相手が静かに語った。
「どなたか存じませぬが、いらしたからには一服差し上げましょう。暫し、床の間の花でもご覧くだされ」
部屋の主が示す視線の先には、竹を横に切ったきりの筒に、薄紅色の花がついた枝が飾られていた。丸い花弁に黄のしべがかわいらしい。虚人は視界に入れ、この国で広く愛される、梅と呼ばれる植物の一種だと認識した。
促されるままに花を見つめていると、部屋の主からは、花への情のような気配が漂ってくる。そのため虚人は、花に向かって平伏した。一般に、この星の住人は、植物に対してさほど敬意を払わないという認識でいたが、この部屋の主は違うらしい。虚人は、どういう思いを抱けばいいのか分からぬままに、可憐な花弁を見つめていた。
部屋の主の呼び声が聞こえた。虚人は、導かれるままに、固い緑の床の上に着席する。布を巻いただけのような服は機能性が低く、動きに制約が出てしまう。床からたちのぼる、草々に似た青いにおいは心地よかった。
部屋の主に向き直ると、火にかかっている金属製の大きな器から、湯のたぎる音が響いてきた。この器は茶釜と呼ばれるもののようだ。茶釜が置かれているということは、彼が茶事なる儀式に迷いこみ、目の前にいる部屋の主人より、茶道なる道を披露されることを意味している。
なぜこんな狭苦しい、あばら家の薄暗い空間で、体の痛みに耐えながら、かしこまって茶を飲むのだろうか。虚人の故郷にも、集まって食事をする習慣はあるが、気楽にしゃべりながら食べるのが常である。当惑しつつも彼は、この星で収集した情報は、彼の職務上、一定の価値があると判断した。そのため、この珍妙な茶会の招待にあずかることにした。
室内は褪せた色調で揃えられている。畳と呼ばれる床材、木目もあらわな板の間と天井、黄みがかった土の壁。薄紅の花の色だけが、この空間の彩りである。静寂と安寧が、しつらえすべてに行き渡り、ほのぐらい室内で、ただ薄色の茶筅と真白な麻ふきんが清浄と新しさを示している。それらは古びていても清らかで、虚人が使っている無菌灌水浴装置よりも清潔に思えた。
この部屋の主人、すなわち茶人と呼ぶべき人物は、葺き掃除や掃き掃除などの名人なのだろう。そういえば、茶室に至るまでの庭先も掃き清められていたが、そこかしこにさりげなく葉が落ちていた。あれは計算で、わざと葉を残しているのだろうか。虚人は、無駄としか思えないその行為に混乱しつつ、なにか奥深い感性の片鱗を感じた気がした。
やがて目が慣れてきた。その部屋はたいへん狭く、虚人と茶人とでほとんどいっぱいである。茶人を見ると、苔色の小袖の上から黄褐色の道服を羽織り、体躯も肌つやもきわめて良い。年齢は不詳だが、大きな鼻と引き締められた唇から、強い意志を感じさせる。眼差しはどこまでも深く、大人物の気配を漂わせていた。
茶人は、傍らに置いた赤皿を虚人の目の前に置き、菓子をどうぞ、と告げた。また茶人は、虚人がなにも持参していないことを悟ったようで、透かしで文様が凝らされた薄紙や、抽象化された梅の柄で埋め尽くされた鶯色の布や、砂漠の国の敷物に似た薄水色の小ぶりの布がひとそろいになっている包みを渡してくれた。
赤漆の小皿を見ると、艶やかな椿の葉に挟まった桃色の餅がのっている。虚人は、茶人の所作を真似ながら、緑色の葉を丁寧にはがして頬張った。これは椿餅というもので、この国でつくられた初の高貴な生菓子のようだ。粒状になった餅の中に、梅酒で漬けられた金柑が入っている。餅の甘葛を含んだほのかな甘味と、柑橘類のわずかな酸味が舌に心地よい。
数刻の後、茶人は柄杓を茶釜に入れ、茶碗に湯を入れるといったん捨て、その後に緑色の粉、抹茶を入れて湯を入れ、かつん、と音を立てて茶筅を入れた。
さっ、という、抹茶を崩す微かな音。その後は、湯の沸き上がる、しゅん、という音だけが響く。目を細めて見ると、茶人は何かを練り上げているようだ。どろりとした緑色の物体に新たな湯を入れて溶くと、茶人は畳の上にそっと茶碗を置いた。
小さな青布の上に置かれた黒い茶碗。晴天にぽっかり空いた穴のようなそれを、虚人は手に取ろうとしたが、茶人に茶碗をいったん取り込むように促された。意味が分からず、畳を見つめたところ、そこには境界線らしき紫色した縁がある。虚人は、自分の陣地外にあった茶碗をしずしずと取りこんだ。
最初から直接渡せばいいものを、なぜこんな面倒なことをするのか。かずかずの理解できない手続きに当惑するが、ただ、茶人の所作の一つ一つには、見たことのない美しさが宿っている。虚人はそのしぐさに魅せられながら、茶碗を押し戴いた。
「それは、三たび回してから、飲むのですよ」
茶人の言葉に虚人は、暫し迷ったが、意を決して尋ねることにした。
「なぜ、そんなことをするのですか」
その問いに、茶人は少し考え込む。
「この茶碗には、正面がございます。お分かりでしょうか?」
虚人は茶碗を覗き込んだが、模様がないため、正面など分からない。
「いえ、分かりかねますが」
その答えに、茶人は満足げに頷いた。
「そうです。この茶碗には、決まった正面などございませぬ。従いまして、亭主であるわたくしが決めるのです。今、この茶碗はあなたの正面を向いております。この状態で飲まれると、どうなりますか?」
「正面に口をつけることになりますね」
虚人の答えに、茶人はほんのりと微笑みを浮かべる。
「ええ。三たび回すと、わたくしが決めた正面を避けるという気遣いをなされたことになるのです」
相手の心遣いを受け止めながら、自分も目に見えるかたちで気遣うということか。虚人は、完全には理解できないながらも、繊細この上ないやり取りに心打たれた。
手にした茶碗の表面には凹凸があり、どことなく温かみがある。ゆっくりと三度回し、個体に近い液体を口にし、こくりと飲み下す。どろりとした緑色の液体は、濃茶と呼ばれるものらしい。強烈な苦みが押し寄せる。それは飲むというよりは味わうもので、わずかながら意識がはっきりしてくるようだ。体内の微細機構の分析によれば、覚醒するための成分や、解毒の作用も期待できる成分など、さまざまな薬効があるようである。
「お服加減は」
茶人から唐突に切り出されて焦ったが、聚合情報が提示した最適解を述べてみる。
「たいへん結構でございます」
茶人は安心したように、小さく頷いた。
茶を飲み終えた虚人は、茶碗に見入った。全体にまるみがあり、下部はやや膨らみがちである。彼が乗ってきた虚舟にも似ているが、ところどころ曲がっている点が異なる。しかし、茶人の傍らにある浅葱色の茶碗や細かい彫りが施された茶入れなどは、ほぼ完全な円筒形をしている。この茶碗は、わざと不完全につくられたのだろうか。
「何か、気になられることでも?」
茶人の言葉に、虚人は考えながら告げる。
「いえ、この茶碗が歪なように思ったもので。もっと整えることもできたかと」
そう告げると、茶人の眼差しは鋭さを帯びた
「それはまさに、整っていないゆえに愛されておるものです」
「……理解が難しいです」
「理想を求めると、全て同じかたち、同じ結末に至ります。その器は、一つの型に押し込まずにつくられたのです。室内の調度品も同じこと。茶室は重複の恐れが絶えずございます。それゆえ、重複を避けるよう懸命に心がけるのです」
「重複、ですか?」
話に追いついていない虚人に、茶人は噛んで含めるように語る。
「丸い釜を用いる場合、水差しは角ばっていなければなりませぬ。床の間に生花を飾る場合、草花の絵を示すことは許されませぬ。香炉や花器を置く場合も、空間を等分する位置には置かぬものなのです」
虚人の感性でいえば、対称、均一、といった事柄のほうが重宝されるが、茶事において、同じもの、重複は忌避すべきもの、ということか。まこと怪異な美意識である。
茶人の言葉を反芻しながら、虚人は、なおも茶碗を見つめた。艶のない黒と、わずかに残った抹茶の緑との対比が鮮やかだ。よく見ると、茶碗の色は塗りつぶしたように黒一色だと思っていたが、赤や黄、金や銀といった微妙な色味が小さく見え隠れしている。
「色が、気に入られましたか」
茶人の言葉に、虚人は考えながら言った。
「一口に黒といっても、いろいろな黒が入っているなと」
「闇の漆黒のほか、烏の濡羽の黒、薄墨の黒、明け方の夜の黒など、さまざまな黒がございます。そもそも、黒がすべての色を内含する色であれば、多様な色を内在するものが、不変の黒とも言えましょう。もっとも、黒という色自体を気に召さない方もおられますが」
虚人は、心の中で茶人の言葉を反復しながら、茶碗の中を見つめた。抹茶の残骸が黒の中でぐるぐると渦を巻いており、すべてを呑みこむ暗黒星雲にも見えてくる。黒い闇の奥底に吸い込まれるような気がしてきて、そっと視線を外す。
茶人は、幾重にも折った薄紙を手渡し、それで飲み口を拭うように告げた。虚人は、その折り紙のような紙で、口をつけた部分を何度も拭った。織り込むと、茶を拭った緑の面は跡形もなく消え去り、母星の果てしない表面を持つ住居を思い出させる。
茶人は、部屋の片隅から丸い白皿を取り出した。小花模様が浮き彫りになっているその皿には、動植物を模した、色とりどりの砂糖の塊が乗っている。虚人は、茶人の所作を真似ながら、砂糖の兎を薄紙の上に載せて取り、そっと口の中に入れた。甘みの塊のようなその菓子は、あっという間に舌の中で溶け、気持ちを柔らかくほぐしてくれる。
さきほどとは別の茶碗を持ち出して、抹茶を入れて湯を注ぐ茶人。しゅっしゅっという、茶筅を動かす小気味よい音が耳に入ってきた。茶人は上腕を固定して平静を保っているが、下部の手だけ素早く動かしている。茶碗の内部の渦がくるくると回り、白い小さな泡が沸き立っている。反復される動作を見ていると、酩酊に陥る。虚人は、一瞬の間、時間と空間を飛び越えたように思った。
ほどなくして、再び茶を供された。雪のように白い泡の下に隠れる、薄緑色の液体。さきほどよりも、ずっと薄く飲みやすい。飲み進めるほどに、茶碗の底が徐々に姿をあらわす。
飲み終えると、茶碗の全貌が目についた。母星の深海で沸き立つ銀の泡か。未開の鉱脈で息を潜める宝石か。沈んだ藍の中に、角度によって色味が変わる粒子が点在している。虚人は、星が誕生する時や、若くて核融合反応が速い星がこうした輝きを見せることを思い返した。先ほどの黒い茶碗が宇宙の終末をあらわすのならば、この茶碗は宇宙の終わりを経た始まりを示すようである。
「なにやら、お気に召されましたか?」
茶人の言葉尻に、密やかな喜びを読み取った虚人は、静かに頷いた。
「ええ。まるで、夜空の星々が誕生するさまのようです」
その言葉を聞いて、喜色を隔そうとする茶人。
「このような模様は、どのように出すのでしょうか?」
茶人は首を横に振った。
「やきものは、全てをいったん釜に委ねるもの。作り手に操作はできませぬ。その椀の、深い色味や無限の輝きも、偶然の産物と聞いております」
「これほど美しいものが、再現できないというのですか……」
「ええ。茶の道は、口伝によるところが大きいもの。貴人がいらした時のみ執り行う点前などもございます。茶の湯で説かれる一期一会は、同じ時を過ごすことはできぬものとして生きよということです」
合点がいった。この極めて特殊な茶会に関しては、聚合情報においても、ところどころ情報が欠けている。それは茶の道が口伝であるために、聚合化されていない情報があるからだ。そうであれば、調査の甲斐があるというものである。
とはいえ、虚人は、自分が理解できているのか不安だった。今体験していることは、全て記録しているが、事柄が理解できなければ体系化も難しい。ただ、最初は当惑に呑まれていた手続きの一つ一つに深い意味があるということは、体感できるようになっていた。
ひと心地ついたところで、茶人は静かに切り出した。
「お薄の茶碗を気に入っていただけたようで、嬉しく存じます。それは貴重な唐物茶碗で、ある方が秘密裡にわたくしのもとへ預けたものでございます」
「そんな大切なものを、返さずに使っていいのですか?」
虚人が尋ねると、茶人は涼やかな顔をして告げた。
「その方は、既にこの世におられませんので、どうやって返せばよいものやら。それに、わたくしがこれを使うのも、今日この日が最後になりますもので」
驚いた虚人は、茶人の顔を見た。平静なままである。
「あなたのような素晴らしい茶人が、もう、茶事を行わないのですか?」
問うと、茶人は一瞬遠くを見はるかす目をして、最初に使った黒い茶碗を目の前に出した。
「この茶碗は、黒のうわぐすりを使っております。こちらにて、さる方に茶を出したところ、怒りを買ってしまいまして」
「そんなことで……」
整っていないものを愛でる心に価値がある。多様な黒はあらゆる色を内含する。
さきほど受け取った心づくしの説明は、茶人の客人には伝わらなかったのだろうか。
「まあ、事はそれだけではないのです。千々に重なることがありまして、今は謹慎中の身ですから」
そう告げると、茶人は少しだけ寂し気な顔をした。
「ここに人の気配がないのは、皆があなたを置き去りにしたと……?」
虚人が尋ねると、茶人は首を横に振る。
「いえ、わたくしが皆を遠ざけました。かつて大切な弟子を失っておりますので、繰り返したくないのです」
「失うとは……?」
「打ち首になりました。わたくしも恐らく、それに近い処分を受けるでしょう」
虚人が絶句していると、茶人は大したことではない、という口調で告げた。
「しかし、わたくしを知らぬとは、あなたは珍しいお人だ。世俗から離れていられるとは、なんとも羨ましい」
実感の籠った口調に、虚人はふと、自分の正体を明かし、これほど達観している茶人の反応を知りたくなった。そんな風に感じるのは、初めてのことだった。
「私が、世俗から離れているどころか、この星から離れた存在だと言ったら、信じられますか?」
虚人の言葉に、黙り込む茶人。ほどなくして破顔する。
「面白いことをおっしゃる。そんなわけはないと思いながらも、どこかで納得しているような。なにしろあなたは、浮世離れしたところがあるもので」
虚人はいったん、それまでの外観を遺棄し、茶人そっくりの姿を纏った。
黒く細い影が伸び縮みして、鮮やかに切り替わり、自分と同じかたちになるさまに、茶人は目を丸くする。
「これで信じてもらえますか? 私はどんな姿にもなれますし、どんな場所にも赴くことができます」
言葉を失う茶人。暫くの後、小さく呟く。
「では、夜に輝く月などに、住んでおられるのか」
「いいえ、もっとずっと離れた星です」
虚人は、懐かしい故郷を思い出しながら言った。
「ああ、私はあなたをそこにお連れしたい。無意味に見えることに意味があり、不完全さに価値を見出す心が尊いとするそのお考えを、道具の一つ一つに小宇宙を見出すその道を知り、広めたい」
「今日のお点前は、あなたにお伝えいたしました」
そう告げる茶人に、虚人は首を横に振る。
「いいえ。私は星々を巡って情報を集める仕事に就いていますが、口伝でしか伝わらないことは、取りこぼされてしまうものです。今日知ったことも、全体の中のわずかな一部なのでしょう。本質の一部に触れた以上、私はもっと知りたい。理解したい」
そう告げると、彼は茶人の手を取った。
「私の乗ってきた船は、この庵をそのまま入れることができるし、私の技術があれば、有機物であれ無機物であれ、模型を複製することもできる。どうか共に来てください。そして、茶碗の中の無限の宇宙を披露してください」
茶人はじっと考え込んだが、やがて虚人の目を見て頷いた後、独り言のように呟いた。
「褪せた道を棄て、新奇なる茶の湯をはじめて十年。ようやく完成を見、最後の一服と思い点前を行った次第。しかし、新天地にてすべきことがある、ということやもしれませぬな」
翌日、茶聖として名高い千利休が、豊臣秀吉の命により、聚楽屋敷にて切腹した。
軍勢三千に囲まれる中、利休は動じることなく使者にこう告げたという。
「茶室にて、茶の支度ができておりまする」
言葉通り、利休は検分役らに茶を点ててふるまい、茶事が終わると見事な切腹を遂げ、秀吉は利休の首をさらし首とした。本物の利休は、彼が待庵と並んで深く愛した無銘の庵と、樂焼きの創始者である長次郎が最初につくりなした黒樂茶碗、それに織田信長の所持していた曜変天目茶碗と共に、宇宙の彼方へ旅立ったとは露とも知らず。
虚舟は、たまさかに時を超えて日本各地の上空にあらわれ、舟内に招待された人は菓子で手厚くもてなされるという。
人生七十 力囲希咄 吾這寶剣 祖佛共殺 堤る我得具足の一太刀 今此時ぞ天に抛 利休遺偈
<了>
文字数:8186