梗 概
あたしたちは喰らい合う
とある島に存在する特殊な二枚貝。貝の大きさは、大人の手のひらと同じくらい。表面はひんやりと冷たく、荒波のようなごつごつとした凹凸に覆われていて、ざらついた粗い感触がする。貝が少し殻を開くと、つんと濃い海の匂いがした。殻の隙間からは、ぶにぶにと濡れた身体が蠢いているのが見える。貝は、食べたものの半分を自分たちの養分にして、残り半分は自身の外套膜に包んで吐き出す。貝は取り込んだものの味を反映することから珍味として、内地の飲食店で非常に人気があり、貝の養殖は家内制手工業として島の主要な産業になっていた。一方で島に暮らすイリヤは、貝の触感が苦手で、家で養殖されている貝にあまり関心を示さなかった。
イリヤは初めて歯が抜けたその夜、口の中に鈍い痛みを感じながら、抜けた乳歯をふと一匹の貝に与えてみた。貝はすぐさまぼりぼりと音を立てながらイリヤの乳歯を食べた。すると、貝は乳白色の淡く虹色に光る真珠のような結晶を吐き出した。その月の光を集めたような輝きにイリヤは心惹かれた。
その日から、イリヤはその貝を持ち出し、こっそり自身の一部を与えるようになった。しかし、髪やかさぶた、まつげなどを与えても乳歯の時のような美しい真珠は生まれない。
ある日、イリヤは、貝を入れた水槽の水面に触れて遊んでいると、突然、強い痛みを感じた。貝がイリヤの指に噛みついて、爪を引き剥がしたのだ。イリヤは痛みと驚きで茫然とする。貝はあの日と同じように殻の奥から鈍い音を響かせた。それはまるで咀嚼音のように聞こえた。しばらくすると、貝は、この前よりも、やわらかに赤みを帯び、水蜜桃のように甘くたっぷりと濡れた光を放つ美しい真珠を吐き出した。イリヤは今まで見たことのない美しい真珠にすっかり心を奪われた。
イリヤは、自分が痛みを感じるほどに貝の生み出す真珠は美しさを増してゆくのだと気づく。イリヤは痛みを堪えながら貝に自分の爪を引き剝がして与え続け、夢中で真珠を集めた。しかし、痛みは次第に甘やかな痺れに変わっていき、貝から響く鈍い咀嚼音はイリヤを陶酔させた。だんだんと、イリヤは、自分の爪を与えるだけで心が満たされるようになり、貝の吐き出す美しい真珠への興味を失ってゆく。
しかし、ある晩、イリヤが貝のために体を傷つけていることを母親に知られてしまう。母親は、イリヤから貝を取り上げると、そのまま貝を海に捨ててしまった。
イリヤは夜な夜な両親の目を盗んで貝を探した。毎晩、岩陰を隅々まで探し回ったが、なかなか見つからない。もうだめかと諦めかけながら、水面に手を突っ込んだ瞬間、右手の小指に燃えるような熱さを感じた。慌てて手を引くと、イリヤの右手の小指に貝が喰らいついていた。イリヤは小指に感じる感触で、それがすぐに自分の貝だとわかった。飢えた貝は、そのまま小指の先をぼぐりぼぐりと鈍い音を立てて咀嚼する。貝に咀嚼されている小指の先から、甘やかな電流が全身に駆け巡り、イリヤはうっとりとした。その瞬間、イリヤは自分が貝の生む真珠ではなく、この貝自身のことを愛しているのだとはっきりと理解した。月明かりの下で、イリヤは、貝から与えられる甘やかな痛みと貝から響く鈍い音だけを感じていた。
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内容に関するアピール
ペットの定義を「自分の一部を分け与えて育むことで、心を通わせられていると(たとえ一方的な錯覚であっても)思えるもの」「自分を捧げることを惜しまないもの」と考えました。ペットというのは、弱い立場で、飼い主が一方的に可愛がる存在のように思えて実は、飼い主側を支配する存在なのでは?というペットには少し怖い面もあり、その怖い部分をできるだけじわじわと表現したいです。
最初は貝のことをペットでもなんでもないと思っていたイリヤが自分の一部を分け与え、痛みを感じるほどに貝への愛着を強めてゆき、貝への愛を自覚する過程を丁寧に描きたいです。
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