まばたきほどの永遠

印刷

梗 概

まばたきほどの永遠

無人島でとある博士が死んだ。彼は医者としても優秀だったが、現役を退くとすぐに、無人島に籠りきりになり、不死の研究に没頭しているという噂が流れた。博士の死後、研究を暴こうとする者や金品を奪おうとする者たちが次々に島を訪れたが、そのほとんどが行方不明に。島には誰も近づかなくなった。

30年後、貧しいルポライターの男が単身で島を目指す。ネタもコネもなく、船舶免許を持っているというだけで先輩に島の取材を強引に押し付けられたのだった。男は船で島に近づいている最中に、二人の女が抱き合って島の岬から飛び降りる瞬間を見てしまう。慌てて落下地点に向かうと、片方の女がもうひとりを背負って悠々と泳いでいた。女たちは無傷のようだった。不気味に思いながらも男は、二人を舟の上に引き上げた。女はメイと名乗り、気絶しているもうひとりの女を「奥様」と呼んだ。

島には小さな農園があり、家畜もいたが、人の気配はない。メイに連れられて、男が辿り着いた先は古い屋敷だった。部屋をあてがわれ、男は歓待を受ける。夕食時にドレス姿で現れた奥様は目が眩むほど美しく、男は心を奪われた。奥様は食事には一切手をつけず、男を見つめていた。深夜、奥様が男の部屋にやってきて、恋人のように男を抱きしめたまま眠った。奥様の冷たい胸に抱かれると、不安や憂鬱が消え、幸福感で満たされた。翌朝も奥様は恋人のように男のそばを離れない。男は奥様のもたらす多幸感の虜になって仕事を忘れた。永遠に続くような幸せな日々の中で、男はふと、博士の不死についての研究資料と手記を見つける。手記には、余命宣告を受けた博士が死を恐れ、憔悴し、やがて死に魅入られてゆくまでが綴られていた。そして、奥様は、博士が罪悪感を抱かずに済む心中相手として生み出された不死の人造人間であることが判明する。憤りを感じた男は奥様に真実を確かめようとするが、奥様は男を抱きしめて微笑むばかり。男は恐ろしくなって、屋敷を飛び出す。追いかけてきたメイを岩で殴りつけるが、メイには傷ひとつつかず、男は逆に殴り倒された。

メイは男を引きずって岬を目指す。男は指一本すら動かせない。メイは、奥様は人間と心中を繰り返すことだけが彼女の存在理由だと信じていて、自分はそんな奥様をそばで支えることしかできないのだと語る。男は、時間が永遠にあるのだから、辛い過去は忘れて未来をいくらでも生きたらよい、とメイを説得するが、メイは「ほんの一瞬のためだけに生み出された私たちには、過去も未来もない。あるのはいまこの瞬間だけ」と答える。

岬で奥様が待っていた。男は奥様の胸に抱かれると、たちまち痛みや不安から解放された。つめたくなめらかな感触の中で男は、確かに永遠を感じた。生まれる前から、そして、これからもずっとこの腕の中にいるように思えた。

メイは奥様に抱きしめられている男に一言囁いて、ふたりを岬から突き落とした。落下しながら、男はそっと目を閉じる。「永遠なんて、限られた時間を生きるものたちだけのもの。私たちにはただ一瞬の繰り返しでしかない」と囁いたメイのひび割れみたいな微笑がまなうらに焼きついていた。

文字数:1290

内容に関するアピール

時間について考えた時、真っ先に思いついたのが「永遠」と「一瞬」でした。人生の中で、永遠に思える一瞬、という体験がいくつかあって、永遠と一瞬の背中合わせのような関係をお話の核にしようと思いました。

また、他者との「分かり合えなさ」を描きたいという気持ちがあって、知覚している時間の差というのをテーマにしました。実生活でも、「この人とは時間感覚が合わないな」とか「この人とは生きるスピードが違うな」と感じることがあって、それぞれ感じている時間が違うともはや別の生き物のような、どうしようもない隔たりに思えてしまうのですが、でも、どこかひとときでも重なり合う瞬間があれば、という祈りのような気持ちを込めました。実作では、かっちりしたSFというより幻想文学のような雰囲気のものに仕上げられればと思います。

去年から引き続きですが、誰かの「ない記憶」になりたいと思います。「ない記憶」というのは、実際に自分が体験したことはないけれど、なにか小説や漫画や映画で追体験したことがまるで自分の体験みたいに残ってる、みたいな、そんな物語を目指しています。少しでも誰かの「ない記憶」になれるSFを書きたいです。どうぞよろしくお願いします。

文字数:507

印刷

まばたきほどの永遠

1
 曇り空を映した海面が鈍色に光りながらゆらゆらと揺らめく。錆びたお粗末なエンジンが唸り声のような音を立てて、モーターボートは波を切り裂くように進む。穴の開いた屋根から差し込む強い日差しに私は顔を顰めた。前方には、生い茂る木々のせいで、海面にうかぶ影のように暗く、陰鬱な表情をたたえた島が見えた。
 
 この島が連日メディアに取り上げられ、世間を熱狂させたのは、私がまだ十代の少年の頃だった。はじめは、ただの孤独死のニュースだった。かつて名を馳せた医者が隠居先に選んだ無人島で死んだ、ただそれだけのことだった。しかし、彼の死後、彼の友人たちの間で、彼が生前ひそかにクローンの研究をしていたのではないかという噂が流れ始めた。猟奇的な噂と、島の鬱蒼とした様子が人々の心を惹きつけ、次第に島に上陸する人々が現れ始めた。研究を暴こうとする者や度胸試しや注目を浴びたい者、金目のものを盗もうとする者などが次々に島を訪れ、そのほとんどが帰って来なかった。メディアは、いわくつきの島として騒ぎ立て、人々は怪しい噂の数々に熱狂したが、いつしか日々舞い込んでくる他の事件やスキャンダルに押し流され、次第に忘れられていった。
 
 わずかに東西に引き延ばされた楕円形をしているこの島は、東京ドーム約1個分の小さな無人島だ。島に船を近づけながら、船着き場を探していると、岬が見えてきた。高さはおよそ30メートルほどだろうか。岬の先端を見上げると、黒い布がひらひらと風にはためいている。私が、女のドレスだと気づいた瞬間、それは、海面に向かってひらりと落ちた。真っ逆さまに落ちてゆく黒い塊を茫然と目で追う。それが音もなく波間に消えたとき、ようやく、私は慌ててモーターボートを走らせた。落下地点に向かいながら、必死に海面を見渡していると、たっぷりとした黒い布を波の上に広げながら悠々と泳ぐ女の姿を見つけた。女は能面のようにつるりとした顔をしていて、あの高さから落ちたとは思えないほど落ち着き払っている。よく見ると、背中にもう一人同じように黒い服に身を包んだ女を背負っているようだ。私はすこし不気味に思いながらも、ふたりに近づいて、手を差し伸べた。
 
 船に引き上げると、能面のような女は小さく礼を述べた。私がタオルを差し出すと、女は背負っていたもう一人を丁寧な手つきでその場におろして、横たえた頭の下にタオルを差し込んだ。
「この島のひとですか?」
 わたしが尋ねると、女は頷いた。
「こちらの奥様がこの島の主です。わたしは使用人のメイと申します」
 私は、「奥様」と呼ばれた女にちらりと視線を移す。横たわったまま、ぴくりとも動かない奥様の頬は蝋人形のように白く、ぬるぬると濡れて、時折、淡い虹色に光っている。――あれは一体なんだろう? 
「もしよろしければ、わたしが船着き場まで案内しましょうか?」
 メイの声にハッと肩が揺れた。思わず奥様に見入ってしまった私を咎めるようなメイの視線が突き刺さる。
「お願いできるかな」
 私は、メイの視線に媚びるように笑みを浮かべながら答える。自分のこういうところがたまらなく嫌だと思う。けれど、こうして奥様とメイとコンタクトをとれたのは僥倖だ。ふたりは今までどの記事にも載っていなかった。
 これでようやく、売れないルポライターという肩書とおさらばできるかもしれない。淡い期待を胸に、私はハンドルを握る手に力を込めた。
 
 
2
 「もしよろしければ、お屋敷に案内します」
 船着き場は岬のちょうど反対側にあった。船を泊め、ちょうどエンジンキーを抜いた私にメイが声を掛けた。
「少し休んで行かれませんか?」
 思いもよらぬ幸運にすぐに言葉が出てこなかった。驚きと興奮と悟られないよう、私はまた卑屈な笑みを浮かべながら頷いた。
 
 まさかこんなにすべてがとんとん拍子に上手くいくとは。東京でフリーの売れないルポライターとして取材先で怒鳴られたり、蹴られたりしていたのが嘘のようだ。奥様を背負って進むメイの後ろを、私は弾むような足取りで歩く。島は外から見るよりも、ずいぶん明るい。まっすぐ森を抜けて開けた場所には、菜園があり、牛や羊、鶏といった家畜の姿も見られた。お屋敷はさらにその先の森の中、さきほどの岬のすぐそばにあった。白い石造りのお屋敷は、びっしりと蔦に覆われて、森の中に溶け込んでいる。メイが扉を開けた。私は、獣のうめき声のような音とともに、お屋敷の中へと迎え入れられた。
 大理石の床のエントランスには吹き抜けの窓から差し込む光が燦々と降り注ぎ、日向の匂いで満ちていた。ちょうど島の形と同じ楕円形のエントランスには、ゆるやかにカーブした階段が3つあった。階段はそれぞれ3階まで伸びている。メイは、真ん中の階段を3階まで上がってすぐ目の前にある客間に私を案内した。天蓋付きの大きなベッドのあるその部屋は、高級ホテルのスイートルームと比べても遜色ないくらい広いが、どこか仄暗く陰気な印象を受けた。
「2階は奥様のお部屋がありますので、立ち入らないようお願いいたします」
 私は頷きながら、メイの背中でぐったりと目を瞑ったままの奥様を盗み見た。奥様は本当に無事なのだろうか。
「夕食の準備ができましたらお迎えに参ります」
 メイはそう言うと、客間の扉を静かに閉めた。私は、メイの気配が消えたことを確認すると、音を鳴らさないようにゆっくりと客間の扉を開けた。
 薄暗い廊下を歩きながら、ぽつりぽつりと並ぶ部屋らしき扉を順番に開けて行こうとするものの、どの部屋も鍵が掛かっていて開けられなかった。廊下の突き当りには、綺麗に掃除されているものの、明らかに使われていない様子の古ぼけたランドリールームがあった。
 
 私は客間に戻り、ベッドに腰かけた。雲の上のような心地よさに思わずそのまま倒れ込む。東京に残してきたせんべい布団の感触を、今はもう思い出せない。私は、ここまで来たからには絶対何か掴めるだろうという根拠のない自信を胸に抱きながら、ゆっくりと眠りに落ちていった。
 
 「夕食の準備が整いました」
 耳元で囁かれた私は、飛び起きた。メイは、慌ただしく起き上がった私を一瞥すると、そのまま何も言わずにすたすたと部屋を出てゆく。私は寝惚けながらも、入り組んだお屋敷の廊下を思い出し、急いでメイの背中を追いかけた。
 食堂の扉が開いた瞬間、私は思わず息を飲んだ。そこには、シャンデリアに照らされた長くて大きなテーブルと、暖炉、色とりどりの花ときらびやかな調度品で溢れていた。メイに促され、中に進む。深い色の絨毯は足が飲み込まれてしまうのではないかと思うほど柔らかい。
 メイが引いてくれた椅子に腰かけると、長い長いテーブルの反対側に座っている奥様と視線が合った。薔薇色の頬に黒曜石のように澄んだ大きな瞳、やわらかく結い上げられた栗色の髪はシャンデリアの光を受けて、きらきらと輝いている。大きく胸の開いた薄桃色のドレスからのぞく肌は抜けるように白く、真珠のようにやわらかな光を放っていた。奥様の目を瞠る美しさに、私は言葉を失った。そんな私をよそに、メイは色とりどりの料理の乗った皿を次々にテーブルに並べてゆく。不思議なことに、料理が出されるのは私だけで、奥様の前には、料理はおろか、グラスやカトラリーすら用意されていなかった。奥様は美しい微笑を浮かべながら、ただまっすぐに私を見つめていた。
 
 夕食を終えて、客間に戻ると、私はそのままベッドに倒れ込んだ。そのまま、微睡みかけたとき、ふいに背中に柔らかな感触を感じた。びっくりして振り返ると、薄い寝間着に身を包んだ奥様が微笑んでいた。
「なにしてるんですか?!」
 私は驚きのあまり声を荒げながら飛び起きた。奥様は一瞬、目を丸く見開いて、またにっこりと微笑んだ。奥様から離れようと、私が後ずさった瞬間、奥様は私の頭をそのやわらかな胸の中に抱きしめた。眩暈にも似た奥様の甘い香りに包まれて、全身から力が抜けてゆく。奥様の胸の中は、やわらかくて、冷たくて、恐ろしいほど居心地が良い。奥様の甘い甘い香りの中に、今まで抱いてきたすべての憎しみも悲しみも、妬みも、恐怖も、ありとあらゆる感情が溶けて消えていった。今まで味わったことのない、安心感が心臓の真ん中から滾々と湧きだして、全身を浸してゆく。仕事のことも、世界のことも、私自身のことすら、もうどうでもよく思えた。今、私を包み込むこの感触だけが、私が身を委ねるべきすべてだと心の底から信じられた。
 私は、生まれたての赤子のように、まっさらな気持ちで、ただただ意識が眠りの海へ沈んでゆくのを感じていた。
 
 
3
 翌朝、目を覚ますと、黒曜石の瞳が私を静かに見つめていた。湖面のように静かで、吸いこまれそうなほど深い瞳の中で私の影が揺らめいている。奥様は、私の頭を力いっぱい抱きしめた。私は、また、奥様の胸の中にすべてを委ねて、ゆっくりと目を瞑った。
 
 次に目が覚めた時、客間は真っ暗になっていた。窓の外から聞こえてくる虫の声で、とっぷりと夜が更けているのだとぼんやりと理解する。暗闇の中でも、奥様の濡れた瞳はわずかな光を捉えてゆらゆらと光を放っていた。少し外の空気を吸いたくなって、私が身を起こそうとすると、奥様は力いっぱい私の身体に追いすがった。私の身体がぐらりと揺れて、寝間着のポケットにも隠し持っていた小型カメラが床に転がった。私は一瞬、手を伸ばしかけて、やめた。もう私には必要のないものだった。奥様は、私をじっと見つめて、満足げに微笑む。私は、奥様の胸の中に自ら落ちてゆく。
 
 もう何度目か分からない朝が来て、また夜がやってきて、その繰り返しの中で、私はただただ奥様の胸に抱かれて眠り続けた。水も飲まず、食べ物も食べず、私の身体はみるみる乾いて、細く小さく縮んでゆくばかりだが、私は満ち足りた気持ちでいっぱいだった。
 
 ある夜、私は悪夢を見ていた。東京という小さな飢えた街で、私は地べたに這い蹲っていた。ある男が私に向かって「ゴミ虫が」と怒鳴った。背の低い男が、私を侮蔑を込めた瞳で見上げながら「小野寺さんってもう40なんすよね? このままでいいんすか?」と言い放つ。女が俯いたまま「あなたとはもうやっていけないわ」と呟いた。その言葉を聞いた瞬間、私は怒りに任せて女を突き飛ばした。
 バキッという音が聞こえて、私は飛び起きた。ベッドの上に奥様の姿がない。慌てて床を見下ろすと、バラバラに散らばった小型カメラと、割れた額から虹色に光る透明な液体を垂れ流す奥様の姿が見えた。
 
 
 
4
 遠くで、ごうごうと波音に似た深く規則正しい響きが聞こえる。背中に硬く冷たい床を感じた。私がゆっくりと目を開けると、蛍光灯の白い光が瞳の奥を刺した。涙目になりながら身を捩ろうとして、その時初めて、自分の手足が縄で縛られていることに気づいた。頭をどうにか動かして、辺りを見渡す。コンクリートの壁と床に囲まれた部屋の中には、部屋の幅とほぼ同じくらいの大きな水槽と、人がひとり寝転べるくらいの大きさの銀色の作業台のようなものがあった。何か不穏なものを感じて、声を上げようとするが、カサカサに乾いた私の喉は、ただひゅーひゅーと細く空気を吐くことしかできなかった。
 ふいに、背後から、コツコツと軽い足音が聞こえてきた。足音の主は、私の頭の上でぴたりと止まると、「目が覚めたようですね」と小さく呟いた。メイの声だった。私がメイの顔を見ようと身体をジタバタと動かすと、メイはそっと私の肩に触れながら「じっとしててください」と言った。メイは、そのまま私を通りすぎて、水槽に向かって歩いてゆく。肩に残ったメイの指先の感触に奥様が重なった。
 よく見ると、水槽には、虹色の塊がゆらゆらと浮かんでいた。メイは、大きな網を持って、水槽の端に取り付けられた梯子に登ると、水槽から虹色の塊を掬って、作業台の上に乗せてゆく。作業台にちょうどぴったり乗るくらいまで、虹色の塊を集めたら、メイはおもむろにそれを捏ねだした。最初は水飴くらいの柔らかさに見えた虹色の塊は、メイの手の中で徐々に硬くなっていくようだった。全体が粘土くらいの硬さになると、メイは、大きな塊をちぎって、大小様々な大きさの塊に分けてゆく。そして、それぞれの塊の形を整えて、やわらかな曲線を与える。私の全身がぶわっと、粟立った。メイが形づくるどの曲線も私はすべて知っている。肌がすみずみまで磨き上げられ、指先に小さな爪が差し込まれ、メイの作業が進むほど、私の恐怖は確信へと変わってゆく。
 メイがそっと黒曜石の瞳を嵌め込んだ瞬間、私は、メイの仕事が終わったことを悟った。
「それは一体……?」
 作業台の上に横たわるモノを見つめながら、私は声を振り絞って尋ねた。
「博士が心安らかに死ぬために作った心中人形です」
「心中人形?」
「はい。ただ、博士と一緒に死ぬためだけに生み出されたのが奥様です」
 メイの声には苛立ちが滲んでいた。
「生涯孤独だった博士は自分の死期を悟ると、一緒に死んでくれる奥様を造り出しました。けれど、博士は、失敗したときに備えて、奥様の身体をいくらでも造り直せるように設計したのです。自分だけ取り残されたくないという、単なるわがままで。そして、いざというときに奥様を造り替える役目を負わされたのがこのわたし」
 メイは一息にまくしたてると、「これが知りたくてここに来たのでしょう?」と私を嘲笑った。
 
 今度は、本物の波音が聞こえた。岩肌に波が打ち付けられて散ってゆく音。気がつくと、私は草原の上に横たわっていた。ここが、最初に見た岬だと気づくのにそう時間は掛からなかった。
 目の前には、初めて見た時と同じ黒いドレスを身に纏った奥様が立っていた。奥様の燃えるような瞳が私を捉えた。メイが私に近づいてくる。
「私は博士の身代わりか」
 ふいにつぶやきが漏れた。メイが私の縄を解き、私を抱き起しながら、静かに「はい」と答える。
「もしかして、この島に来た人たちは、みんな奥様と……?」
 メイは何も答えず、じっと私の目を見た。私は、この瞬間に、初めて、メイも奥様と同じ黒曜石の瞳を持っていることに気づいた。
「奥様は、人間と心中することだけが自分の存在理由だと信じているのです」
 メイの声はどこまでも冷たかった。
「永遠を持つあなたたちと私では、生きる時間が違うかもしれないが、それでも、過去を忘れて、未来を一緒に生きていくことは出来ないのだろうか」
 死にたくないからこんなことを言っているのか、奥様を愛してしまったからこんなことを言い出したのか、自分でもよくわからなかった。ただ、奥様の温度が、感触が、たまらなく恋しく思えた。
「ほんの一瞬のためだけに生み出された私たちには、過去も未来もありません。あるのはいまこの瞬間だけです。永遠なんて、限られた時間を生きるものたちだけのもので、私たちにはただ一瞬の繰り返しでしかないのです。」
 メイは私の甘い期待を切り捨てるようにきっぱりと答える。そして、「それに……」と一瞬言葉を詰まらせたあと、
「奥様は博士への愛が自分を突き動かしていると思っていますけど、わたしには、時折、それが復讐に思えてならないのです。一瞬の安らぎのために、ただ、消費するためだけに生み出され、こんな身体と運命を押し付けられた奥様の、人間に対する復讐なのだと」
 と、ガラス片のような声で言った。私はメイの、奥様の、瞳の奥の炎に触れた気がした。そして、もう、私にできることは何もないのだと悟った。
 
 私は、やせ衰えてボロボロの身体をメイに支えられながらなんとか岬の先端まで歩いていった。目の前には、奥様がやわらかな微笑みを浮かべている。奥様はゆっくりと私を抱きしめた。奥様の胸に包まれると、たちまち不安や恐怖が消えてゆく。つめたくなめらかな感触の中で私は、確かに永遠を感じた。生まれる前から、そして、これからもずっとこの胸の中にいるように思えた。
 メイが私たちを突き落とす。海面に向かって落ちてゆきながら、私は目を閉じる。「復讐」という言葉を口にしたときの、メイのひび割れみたいな微笑がまなうらに焼きついていた。

文字数:6578

課題提出者一覧