梗 概
夢をのぞく
高校生の夢子と母親は2人暮らし。母親は若くして夢子を一人で産み、区役所で働いている。最近顔色が良くない母親を夢子は心配する。母親は悪夢が怖くて眠りたくないと言うほどになってしまう。
夢子は夢を見ないので辛さはよくわからない。クラウドファンディングで資金を募っている夢見アプリを見つける。そのアプリを使うと、人の夢がのぞけるという。悪夢の削除も可能だ。
アプリを開発したのは才野という大学生だった。モニターになればいち早くアプリが使用できるという才野の言葉に夢子は飛びつく。しかも才野は夢子に好意をもっているようだ。眠った母親の耳の下に切手サイズの薄い金属シートを貼る。シートは体温に反応し透明になる。シートとアプリをBluetoothでつなぎ、VRとコネクトして母親の夢をのぞく。
テストを受ける夢。答えがわかっているのにどこにどう書けば良いのか混乱してしまうというもの。すでに夢子を身ごもっているらしく、母親は太っている。夢子は母親の横に立ち回答欄を一つずつ指し示す。誰も夢子には気づかない。朝起きると母親はいくらか顔色がいい。逆に夢子は頭痛がする。母親は職場で問題を起こす。「どうしてこんな書類も書けないのか」と客に怒鳴ったという。母親は大学中退で区役所でも平職員だったが、今は大卒の係長になっている。
夢子と母親の関係もぎくしゃくする。目つきが「お前さえいなければ」と言っているようだ。才野に連絡とると、「次の夢を消せば変わるかも」という。
京都の夢。母親がサークルを終え下宿先に帰ろうとすると、暗い路地から人が飛び出して来るもの。夢子は痴漢から母親を助けようとして、男を突き飛ばして殺してしまう。夢子は自分の叫び声で起きる。知らない男が家にいた。自分の顔の造形もその男と似た醜い顔になっている。住んでいる家も大きく裕福で、母親は専業主婦になっている。明日翔という双子の弟を両親は可愛がっている。信じられない夢子は才野を訪ねるが、才野もまた夢子のことを今日香という名前でしか認識しない。元の状態に戻したいと夢子は訴えるが、才野はよそよそしい。デバッグを重ねており、バージョンがどの段階なのかわからないし発売間近になっている。アプリテストを打ち切りたいと言われた夢子は、才野を脅して初期設定に戻そうとする。初期化完了を待つなか警察のサイレンの音が聞こえ、才野ともみ合い窓から落ちる。
夢子はベッドから跳ね起きる。病室で点滴につながれている。ガラス窓の向こうに元の優しい母親が見え、安心したのもつかの間、不安に襲われ耳の下を搔きむしる。そこにはなにもない。笑いかけようと母親の方を見やると、才野と小さな声で話をしている。ふとうなじに違和感を感じて、手をやると切手大の金属シートがあったのだった。
文字数:1191
内容に関するアピール
主人公は母親の夢を良かれと思って変えてあげるだけのつもりだったのに、過去を変えてしまうことになってしまう。そして父親も変わり、「主人公」の同一性も揺らぐわけですが、最後の段落でオチがつく、という体になります。よくあるオチですが、開かれたオチ、というか、バッドエンドというか、こういうオチが好きです。
「夢」というのはレム睡眠下で過去の経験や現在の抑圧が映像になるもの、という仮定が基本にあります。もし夢を見せないようにするなら、過去を変えることしかないけども、現在の自分は過去の自分の積み重ねだから、母親の人格が変わるのも当然で……、と連想しながら話を組立てました。
高畑京一郎の『タイム・リープあしたはきのう』、映画では「トライアングル」「バタフライ・エフェクト」が好きです。
私も夢見が悪くレンタル獏があれば利用したいのですが、昔の失敗を忘れると高慢ちき野郎になってしまいそうです笑。
文字数:396
夢をのぞく
「ママが具合悪そうなんだよね」
私はフライドポテトをつまんだせいで脂っぽくなった指先を紙ナプキンにこすりつけた。紙ナプキンは脂を吸って半透明になったけど、指はまだぬるぬるとして気持ち悪い。諦めて右手の親指と人差し指を使わずに紺色の補助バッグのジッパーを開けて、除菌シートを取り出し、手を拭いた。向かいに座った千果は、ハンバーガーを食べた手でスマホの画面を触っている。
「聞いてる?」
「うん聞いてるよ。続けて」
画面を操作し続けている千果を見て、爪を噛みたくなったけどぐっと我慢する。
「ママ、なんか悪い夢を見るみたいなわけ。起きてもげっそりして眠る前よりよけい疲れたみたいだし、最近眠りたがらなくってさ」
「ふうん」
千果の親指はもっと動きが早くなる。空いた方の手で、探るようにポテトをつまみ、口元に運び、おいしくもなさそうに咀嚼する。
今日、ママは仕事も休んだはずだ。テイクアウトしていこうか、とも思うけども、今朝の顔色ではファストフードが食べられるだろうか。冷凍していたご飯をお鍋に移して、お出汁で煮て、卵でも落とすといいかもしれない。
「夢子」
と、スマホをバッグに入れ、制服の裾で手を拭いながら千果が言った。
「おにいがラボに来いって」
「はあ?」
「だからさ、おにいがラボに来てもいいって。おかあのことで悩んでるんでしょ?」
「そうだけど、千果のお兄ちゃんと何の関係があるのよ?」
千果の兄はT×大学大学院で准教授をしている。千果の家に行ったとき、一度会ったことがある。曇ったフチなしの眼鏡をかけていた。汚さそうというのはなかったけど、頭で学んだ生活様式として清潔を辛うじて保っているような、そんな感じがした。千果とは年が離れている。浮世離れしているところとカエルっぽい顔がそっくりだったけど。
千果の兄・伊万里は千果から私の母について聞いていたようで、研究室の中に着くなり、
「どんな夢をみるの?」
と訊いてきた。
「あの、座ってもいいですか」
私が尋ねると、兄妹はああそうかという顔をして、誰も座ったことがなさそうな丸椅子をすすめた。おしりがざらつく気がする。
「千果から君のお母さんが悪夢を見ると聞いてね。悪夢! そう、うっとりするような質の悪い悪夢を今探していたんだ、まさに今ね」
千果の様子を見ると、またスマホをいじっている。
「母が夢見が悪いことは事実ですけど、内容まではそんな本人にしかわからないし、起きると忘れちゃってる部分も多いみたいなので」
私は座ったばかりの椅子から腰を浮かして言う。千果には悪いけどちょっと引く。まあまあまあまあ、と、伊万里は私の肩を手の甲で軽く押さえ、再び座らせる。まるで手のひらで女性は触ってはいけませんと躾されたみたいだった。
「僕はね、ちょっと機密性の高い研究をしているんだよ。これが成功すれば、人類はみんな最高にハッピーな夢だけ見られるんだ」
「はあ」
ちょっともう何言ってるのかわからない。
「だから、臨床実験に協力してほしい。もちろん守秘義務がある。SNS投稿も禁止。本人にも被験者だと言わない。本人に言うと、深層心理に影響を及ぼす可能性があるからね。そして夢子さん、あなたは夢日記を書いて最後に僕に提出する。まあ実験ノート見たいなものだね」
伊万里は、A5サイズの紙のノートを出した。表紙には伊万里の字なのだろう、太マジックで「夢日記」と書かれている。まじか。雑。
「そして、観察だけだよ。夢をのぞくだけ。何もしないようにね。夢に接触なんてしないように」
私はつい笑いそうになって、かろうじてそれを飲み込む。夢にさわるもなにも……。ただの夢なのに?
「えーと、参加するなんて一言も言ってないじゃないですか、私」
霊感商法に連れてこられたみたいな気分だ。伊万里は私を無視して、ラボの棚から箱をひとつ持ってきた。茶色の書類整理箱みたいな、A4のファイルが入るサイズのものだ。上蓋を取ると、中にゴーグルみたいなものが入っていた。画面の大きさはA5ぐらい。本体はシルバーの金属のようなもので、メッシュ地の太いバンドが左右二本ずつ付いていた。
帰るつもりでバッグまで抱えたのに、私はついまた座ってしまう。伊万里が机の上を白衣の袖で軽く拭き、ゴーグルをそっと置いた。ゴーグルからはバンドとは別にコードが二つ伸びていて、指先にはめて心拍数をはかるような器具がついていた。伊万里はVRの応用機器だと言った。
「ほらゲームの……」
「私ゲームしないんですけど」
私がかぶせるように言うと、伊万里はいくぶんしゅんとして、
「ドリームログとか、ナイトメアウォーとか、流行ったと思うんだけどなあ」
とひとりで言った。ゴーグルとは別に、ニキビパッチみたいにな丸いシートが12枚並んだものもあった。一円玉ぐらいの大きさだ。「受信機」と、伊万里は言った。
「こっちはね」
と言いながら、受信機をシートを剥がし、自分の手の甲に貼って見せてくれる。
「ほら、今は白く見えるけど、しばらくすると体温になじんで違和感が無くなるから。起きてるうちに貼ると良いかな、お風呂に入っても剝がれないはずだけど。うまく脳の近いところに貼ってもらえれば。首の後ろとか、肩とか。ほら、VR装着してみて」
なんで私、この話引き受けることになってるんだっけ、と思いながら、つい好奇心が勝つ。ゴーグルをかけてみる。見た目より重くない。バンドはあごの下と後頭部にマジックテープで留めるようになっている。イヤホンをしていないのに、環境音がすっと消え、自分の手足も見えなくなった。閉塞感はない。指先にはめた器具から少し圧迫感を感じるだけで、浮遊感すらあるようだ。
〈結構いい感じでしょ〉
伊万里の声が聞こえた。耳から、というよりは直接脳に届くようだが、うるさくはない。むしろ、ゴーグルなしで聞いていた声より、心地よくさえあった。〈僕が覚醒しているから映像は見えないはずだけどね〉
片方の目をずらしてみると、伊万里の口は動いていないのに、まださっきの声が遠く聞こえた。
〈まずは一晩試してみて〉
伊万里は薄く笑った。
伊万里は車で私を家まで送ってくれた。会話がもちそうになかったので、千果も無理やり乗ってくれるように頼んだ。杞憂だった。3人ともうわの空だったから誰もしゃべらなかったのだ。千果は私が箱を抱えて車から降りるとき、箱の中に布みたいなものを滑り込ませた。
「髪に紐が絡むと痛いから。被るといいよ」
と言った。
「千果もやったことあるの」
そう訊こうとしたとき、すでに伊万里のくすんだ白い車は走り始めていた。
「千果のお兄ちゃん、もてないんだろうな」
という、どうでもいい感想も抱えながら、エレベーターがないマンションの階段をあがっていった。頭につけたときは軽かったのに、今では箱は石でも詰めたように重くて、1度地面におろして一息ついた。それから肩で押し開くようにして玄関のドアの隙間に体をいれこむ。家の中はしんとしていた。私たち二人分のサンダルとブーツが混在している小さな下駄箱の上に置き、一息ついた。母は起きているときは家じゅうを掃除したり料理をしたり、働き続けていたから、古い2DKで物は多くても清潔だった。私たちは居間の奥の6畳の和室に布団を敷いて一緒に眠っていた。ママが寝てるだろうと思って、ダイニングテーブルの上を見ると、ママの給与明細がぐしゃぐしゃに丸めて置いてあった。書類は何でもきれいにファイリングしているから、珍しいなと思ってしわを伸ばした。定位置にあるパンチで穴をあけて閉じる。ママははたちからずっと同じ市役所で務めてきた。そして最初から扶養欄に〇がしてあって、その扶養者とはつまり私のことだ。
(大学さえ卒業できていれば初任給から違ったんだけど)
ママは後から入ってきた同級生が早く昇進したり、役職付になったりするたび、いつもより少し高いビールを一本だけ自分のために買ってきて飲んだ。給与明細をめくっては、このときに夢子が保育園で私は税務課で、小学校に上がった時に異動があってとても忙しくて……、と自分の経歴と私の成長を思い出すのを肴にして。
「帰ってたの?」
ママがこめかみを押さえながら起きてきた。仕事着のまま眠っていたみたいだった。スカートがしわになってるし、ストッキングも履いたままだ。
「ひどい顔してる」
「今日くどいぐらい言われたわ」
苦笑いするママにパジャマを出してあげた。といっても着古したTシャツと短パンだけど。するとママは顔をしかめて、
「いい、楽な格好すると眠くなるから」
と言った。私がつくったおじやもあまり食べない。
「糖質食べると眠くなるからね、ごめんね」
器の中から箸先で卵の白身だけを慎重に選ぶようにする。おそるおそる口に運ぶというふうだ。
「食べたほうがいいんじゃない」
ママは痩せたと思う。
「なんの夢見るわけ?」
「言いたくないの、ごめんね。ママは大丈夫」
「そう言ってもさ」
「昔から見る夢だから。なんて言うのかな、説明したくないの、体調が悪いときによく見てたんだけど、最近は夢しか見れなくて眠れないというか……」
そのまま、考えるようにして椅子のうえ膝を抱え、膝小僧の間にうつむいた。そのうなじすら色が悪く見えた。以前までのピンクがかった乳白色のきれいな肌をしていたのに。私は肩をもんであげる、と言い、
「眠くならないように、強くよ、強く。痛いぐらいでね」
と言うママのうなじの生え際にそっと受信機を貼った。
「ほら、もっと強く」
とママは言い、受信機の違和感に気づかないようだ。固く張った肩を揉んでいると、ママは肩に置いた私の手に自分の手を重ねて、
「こんないい子に育ってママは幸せねえ。よかった。よかった。あなたを生んでよかった」
「そうかなあ」
「あなたを生んで幸せ」、これは、私が小さい頃から繰り返し繰り返し聞かされたママの口癖だ。私はママの手をぎゅっと握り返してから、冷たい麦茶を入れてあげる。
「アイスコーヒーがいいな」
「胃が痛くなるぐらいがぶがぶ飲んでんじゃん、お替りはアイスコーヒーにしたらいいよ」
私は言うと、室内が涼しくなるように窓を閉め、冷房をつけた。ママはそれでも横になると眠くなるからと言って、長い時間椅子の上で膝を抱えていた。私の方が眠くなってしまうぐらいに長い時間。それでも眠さでもうろうとし始めたので、肩を貸すようにして畳の部屋に連れて行った。
千果がくれたキャップをかぶってゴーグルをつける前に、スマホのアラームをかけた。ママは仕事に遅刻したくないだろう。数時間も眠れなかったとしても。
うすいタオルケットの中で、まだ寝つけていないのか、ママは何回も寝返りを打った。それでも、呼吸は穏やかに規則正しくなっている。指に器具をはさむ。伊万里に教えられたとおりにVRの端末のボタンを長押しする。緑のランプが点滅し、ママのうなじに貼った受信機も緑に光った。これが赤くなったらコネクトできていない、と伊万里が言っていた。オッケーだ。
それでも、しばらくは暗い中でぼうっとした。ママが言いたくないというような夢をのぞいていいのかどうか。胸のあたりにむかつくような重さがあった。
指を強く噛んでその痛さを確かめると、私はゴーグルをはめた。
私は大学のキャンパスにいた。ママの母校のキャンパスだとすぐわかった。ママは関東の高校を出ると、「日本らしいところに住んでみたくて」という単純な理由で、京都の大学に進学したと笑いながら言っていた。私は実際には行ったことがないのだけども、ネットで見たことがある建物や、その建物の向こうに見える山の形や、周囲の大学生たちの訛りで、ここはママの話していたあのキャンパスだとわかった。
私はゴーグルをかぶった時と同じ、丈の短いスウエットを着ていて、はだしだったけども地面を歩いても暑くもなかった。周囲からは私が見えてもいないようだった。
私には不思議とママがどこにいるのかわかった。私は今、キャンパスの広場のようなところにいるのだけども、遠くの山裾の古びた建物の方角をほの温かく、太陽の光と違う種類の光が見えるような気がした。
ぺたぺたと引き寄せられるように歩いていくと、廊下には誰もいなかった。授業が始まる時間らしい。ちらりと教室をのぞくと、等間隔に座って何か説明を聞いている。テストか。大学生もおんなじかんじなんだな。教室わきの女子トイレに入っていくと、個室のドアを開けたままで地面に膝をつき洋式便器に向かって吐いている学生がいた。彼女のほかには誰もいなかった。
「ママ」
つい呼ぶと、学生はギョッとしたように振り向いた。でも目は合わない。眼のふちが涙で滲んでいた。顔はむくんで、色は紙のように白く、口の端には吐しゃ物がついていた。今では考えられないほど、むっちりとした背中で、大きな尻をしていた。胎盤を守るような体つき。足元に落ちたトートバッグからはテキストとノートがはみ出していた。テキストは何度も読み返したせいか、表紙は柔らかくなっている。
ママは、ハンカチで辛うじて口元を拭くと、立ち上がって洗面台で顔を洗った。髪を掻きむしるのを見て、駆け寄って後ろから抱きしめるけども、ママはそれに気づいたそぶりはない。やはり、私はここの世界にはいないみたいだ。それでもやめられない。
「ねえママ、テストなんじゃない? 勉強したんじゃない? 大丈夫だよ、私、ママがテスト受けてる間は静かにしてるから。動いたり蹴ったりしないから。気持ち悪くもしない。安心してテスト受けて」
洗面台から顔を上げた。少し震える手でママはバッグを拾うと、その中からミント味のタブレットを取り出して口の中に放り込んだ。
「がんばって。私見てるから」
今度は何も聞こえなかったようで、ママは少し足早に教室に入った。開始時間には間に合ったらしい。教員に一番後ろの席に座るのを許されると、問題用紙を見て紙にすらすらと書き込みを始めた。その手つきからすると、きっと大丈夫だと思えた。私は改めて教室を見回す。男の学生もいる。この中に、私の父親もいるのだろうか。
朝になると、ママはとても顔色がよかった。久しぶりにママが作った朝食を一緒に食べる。ママは新聞を読んでいた。うちは新聞を取っていただろうか? 職場で読めばいいって言っていなかったっけ。もったいないからと言って。
ママはさらさらと流し読みすると、惜しげもなく古新聞をためているらしいラックに投げ入れた。
「昨日、なんか夢見た? ママ」
するとママは眉をしかめて、
「なにその赤ちゃんみたいな呼び方。やめてよ。ちゃんとお母さんって呼んでくれる?」
手に力が入ってしまって、フォークが皿に当たって音を立てた。
「音立てないで、下品じゃない」
つん、としてママは奥の部屋に入っていく。そのとき、部屋がもうひとつ増えていて、家具の種類や系統がそろっていることに気が付いた。ママは、ぴっちりしたパンツスーツに着替えて、自転車の代わりに車のカギを持つと、
「さっさと支度して学校に行くのよ。男にかまけたりしないで、ちゃんと勉強さえしておけばいいんだから。いいね」
私は千果に学校に休むって言っておいて、とスマホを操作すると、ママの給与明細表を手に取った。前と初任給の額が違っている。直近のものを見ると、もっと差があった。うそでしょ、とひとりごちで自分の部屋に行くと、私の制服が中高一貫の私立のものになっていた。でも、高校が一緒だったはずの千果は今も同じ学校のようだ。
伊万里のラボに行くと、伊万里はあいにく不在だった。でも、と、私は思い返す。「観察だけだ」そう言っていた。相談しない方がいいかも。着なれない制服は体にごわついて、学校帰りの千果とどこで待ち合わせたらいいのかもわからず、私はまた家に戻る道を歩いた。
今度はエレベーターを使って部屋に戻ると、まだ職場にいるはずのママがいた。いぶかしげに私を見るので、「テスト期間だから」と言った。すると、納得したようにソファに寝転がる。前のママなら、私の予定はすべて把握していたから、今テスト期間じゃないってすぐわかるのに。
「どうしたの、お、お母さん。具合でも悪いの?」
話を振ると、待ってましたとばかりに話始める。ママは、聞くばかりで自分の話なんてあんまりしなかったのに。
「部下がばかばっかりでさ。今日も仕事が遅くって。言い訳するから論理詰めてやったわけ。そしたら泣くわけよ。しかも泣きながらパワハラで訴えるって言いやがるの。なんなわけ、男のくせに」
喉がつっかえるようで、うまくつばが飲み込めない。ママはきれいに色を塗って尖らせた爪を噛みながら続ける。
「あたしが妊娠してたときなんか、ゲロ吐きながら勉強して単位も落とさず留年もせず、ちゃんと公務員試験の勉強までしたって言うのに。甘えてんじゃないよって」
「人はそれぞれちがうから、それぞれがんばればいいんじゃない?」
私はいつもママが言っていたことを言う。今のママの反応は想像できたけど。ママは舌打ちして、ぷいっと顔をそむけた。
「まったく。誰のお金でご飯食べてるって思ってるのかしら。それなのにあたしの味方もしれくれないなんて、産んだかいもないわ」
その日のママはお風呂に入ってもベッドに入らずぐずぐずしていた。
「眠らないの?」
と私がきくと、
「こういうイライラする日に眠ると、嫌な夢を見るのよね」
と言う。
「夢を見るの?」
返事はない。
「ねえ、肩凝ってない?」
無視するので、おそるおそる肩に触れる。体の温かさはママと一緒だ。
「痛いっ、やさしく。さするぐらいでいいわよ」
なでるようにさわる。やはり筋肉はこわばっているようだ。振り向いたらどうしようとびくびくしながら、それでも耳の後ろに受信機を貼った。今度も、受信機は体温になじむとともにごく透明になり、その上をさすっても指先に引っかかりを感じないほど皮膚に溶けていった。
私は夜の京都にいた。細い路地。直角に交わる道は死角だらけで、暗がりが多い。空を見上げると月が大きい。その明かりで足元が見えてもいいのに、軒先が重なり合っているせいかどうしても暗い印象がする。
コツコツと足音がする。私はママが自転車を押して歩いているのを遠目に見ている。ママはゆっくりとした足取りだ。早く帰った方がいい、お酒を飲んでいるから、酔い覚ましに歩いているのだろうと思うけども、その穏やかな後ろ姿が心配で胸がきゅっとする。
ママの後ろ姿はほっそりとしている。今の私ぐらい若いような気がする。私の姿かたちに似ているのかもしれない。何も知らない、悪いことがこの世にあるなんて知らない、無防備な感じの背中。駆け寄って、肩を抱いて、さあ急ごう、安全な部屋に帰ろう、と言いたい。でも、どうしてか、私の足はもつれて走れず、恐怖が胃袋の中で膨らんで心臓を突き上げるだけで、声にならない。私自身が夢を見ているみたいだ、まるで。
パーカーとジーンズ、汚れた白いスニーカーの男がママの後ろにいるのに気づく。あっという間に男はママに追いつき、軒と軒が区切れたあたりの駐車場でママの自転車を突き倒す。ママは運悪くスカートをはいている。スカートが車輪に絡んだせいと、突然のことでママは何が何かわからない。
「すみません」
状況がわかっていないから、ママは男に謝りさえする。私はゾッとすると同時に、体が動くようになったこともわかった。そして私は手に包丁を持っていた。いつから持っていたんだろう、包丁なんて。うちの台所にある、近くのホームセンターで安くで買った包丁を私は強く握りしめている。
私はやるべきことをわかっている。男はまだ私に気づいていない。男はママに気を取られているから。ママは怖いのと男のせいで身動きが取れない。でも男の肩越しに私に気づいている。私とママの目が合う。何か言おうと口をぱくぱくさせている。男もママが何を見ているかわかれば、ママの気持ちに少しでも思いを巡らせられれば、朝を迎えられただろうに。
また朝が来た。両腕に残った重みと感触に、ひどく疲れを覚える。顔にかかった生温かい飛沫が嫌だったのを思い出して、顔を洗わなきゃと思う。手で顔をぬぐうけども、何もつかない。乾いてしまったのかも。
「おはよ、夢子」
「千果」
廊下で千果と会った。廊下なんて、うちにあったっけ。
「うっわ、ひどい顔」
くすくすと千果は笑う。私は両手で顔を覆った。
「メイクしたまま寝ちゃった? ダメじゃん、落とさないと。老けるよー、おかあに怒られちゃうんだから」
千果んちに泊まったっけ。なんだっけ、この状況。混乱しながら、私は洗面所に行く。不思議と場所はわかる。千果のおうちで洗面台借りたことあったか思い出せないけど。
鏡に映った自分の顔を見て、自分の顔を触り、鏡を触る。鏡の裏に何かあるのではとまで思って、鏡をひっかくけども、私の顔が変わるわけではない。
「うわーなに、おねえ、自分の顔まじまじと見ちゃって。ナルシストじゃん」
「おねえ?」
私が千果に問い直すと、千果は、きょとんとして首を傾げた。彼女がずっとスマホをいじっていつもうつむいていたから、気づかなかったのだろうか? こんなに私たちがそっくりだってこと?
「え、おねえ、夢子って呼ぶなっていつも言うじゃん。双子だけど私お姉ちゃんなのよって」
双子? 私と千果が? 私は顔をひっかく。そうだ、と、首の後ろや喉元も爪を立てて「受信機」を剥がそうとひっかく。
「おねえ、傷つくじゃん、やめなよ」
私は鏡を見ながら、受信機を探して顔じゅうに爪を立てる。
「おにい、ちょっと、来て! おかあ、おとう、おねえがおかしいの!」
私は伊万里と、ママと、知らない男に引きずられて、広いベッドの上に寝かされた。この、ふかふかのベッドと、私の家の半分もあるような広い部屋が、私の一人部屋であることもまた、頭の隅っこで理解している。
初めて持つ「父親」というものの顔を見る。昨日見た男の顔かたち背格好と全く違うことに安堵しながら、その、小柄で醜い男と自分の顔がそっくりであることに耐えられない。
「ねえママ、ママ!」
私は叫ぶようにママを呼ぶ。ママは今まで見たことがないぐらい、おっとりとした幸せそうな顔をしている。エプロンをして、仕事に不向きそうなワンピースを着て、前の私の顔にそっくりな顔で笑う。
「どうしたの、夢ちゃん。きれいなお顔をひっかいたりして。怖い夢みたの?」
こんな顔! 私は吐き気がする。
「違うの、これが夢なのきっと。私の悪い夢の中を誰かか見てるの」
「おかあの?」
「おかあじゃない、ママ!」
「はいはい。ママね。ママ」
ふふふ、と、ママは笑う。額を撫でてくれる左手には指輪をしている。
「ママ、仕事は?」
「あたしは子どもたちを産むのと育てるのが仕事よ」
「市役所の仕事は?」
ママは困ったように笑う。伊万里も男も千果も、顔を見合わせる。
「夢ちゃん、きっと怖い夢でも見たのよ。今日は学校休んでゆっくりするといいわ」
「ねえ、体のどこかに受信機がついてるはずなの、取って!」
誰も答えないので、私はハッと気づく。私はまだ目覚めてなくて、これはまだママの夢の中なのかも。私は跳ね起きると、ママにつかみかかった。首の後ろを強くつかむ。ママは悲鳴を上げ、私の指先に皮膚がはがれた感触があった。
「よせよ」
伊万里が後ろからのしかかって、私をうつぶせにしてしまう。私は呻きながら、指先にこびりついたものが受信機なのか、確かめようと顔をあげようとするけども、その顔すら毛足の長い絨毯に押し付けられてしまう。
「私はママのためにやったのに! なのにこんな顔にするなんてひどい」
ママの声がした。
「夢ちゃん、それが本音?」
ママは重ねて言った。ひどく冷ややかな声だった。
「それが本心?」
伊万里の力が緩む。顔を上げると、ママが立って私を見下ろしていた。首から一筋血が流れていた。
「ママは私がいて幸せって言った!」
私は怒鳴る。声がかすれる。
「私がいたら何もいらないって言ったでしょ、ねえママ」
「ママはね、今とっても幸せ。働かなくていいし、パートナーもいるし、子どもも三人もいるもの。手も荒れないし、よく眠れるもの。怖い夢も見ないし、お酒を飲んで憂さをはらすこともない」
目頭が熱くなった。
「ねえママ、私とママがいたらそれだけで幸せでしょ、こんなバカみたいに大きな家も男も千果がいなくっても」
「夜中に夢ちゃんの泣き声で起きることもないし、夢ちゃんが熱を出したって保育所から呼び出されて職場で嫌な顔をされることもないし、夢ちゃんの学費を貯めるために友だちの結婚式に行くのを我慢しなくっていいし」
私はむせび泣いた。これは夢だ。悪い夢だ。
「ママは幸せになっちゃいけないの?」
私は嗚咽で声にならない」
「夢ちゃんの幸せを一番に思って生きてきて、これがその仕打ち?」
ママは自分の首筋を触った。私が好きなその手に、べっとりと赤い血がついた。
「ねえやだママ! ねえ! お願い! 夢子を見捨てないで!」
*
才野伊万里准教授は被験者の腹部から受信機を外し、体が隠れるようにタオルをかけた。
「どうでしたか、うまくシミュレーションできましたか」
被験者はVR型のゴーグルを外すと、深く息をついた。被験者は才野の大学の学生で、予期しない妊娠をしていた。このままなら出産のために中退になるところだったが、被験者が非常に優秀な成績をおさめていたため、伊万里の助手の千果綾子が心配して被験者に推薦したのだった。
千果はずっと目を落としてしたモニターから顔を上げた。千果も、モニターを通じて、被験者の脳波から再現された映像を見ていた。千果は、モニターの中で被験者の胎児が言っていたように一般的に言って美しくない顔つきをしていたが、学生に対しての気配りと実験データをとる緻密さを伊万里は評価していた。
「まだ実験段階のものですから、多少混乱はあったかと思いますが」
「思いますが概ね、生まれた子が私に対してとる行動としては正確、とおっしゃりたいのでしょうか」
被験者は白いブラウスのボタンを閉めながら言った。伊万里は答えあぐねて黙っていた。
「私以外知りえない経験が反映されていましたので、そこは確かだと思います。感じたことも分析して早めにレポート提出するようにします」
伊万里はいくぶんほっとした。最後の場面があんなふうだったので、実験に協力しないと言われるのではと危惧したのだった。正確なデータ分析を提供してくれる被験者は得難い。
身支度を済ませ、トートバッグを肩にかけてラボを出ていく被験者に、千果は何か声をかけたいというようなまごつきを垣間見せたが、声をかける勇気はないようだった。
「彼女は夢子をどうすると思う」
と伊万里は言った。
「わかりません。でも、彼女は賢いですから。今回のことを悪夢にはしないんじゃないでしょうか」
「そうだな。そうだといい」
伊万里は介入したことの重みを感じながら、両手でゴーグルを握りしめた。
文字数:10956