お裾分けの精神

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梗 概

お裾分けの精神

 新築マンションに引っ越して一ヶ月、隣の弘前さんから時間をお裾分けされた。時間を冷凍保存していたのに、冷蔵庫が壊れて溶け出してしまったらしい。自分で持っていても溶かしてしまうだけでもったいないから、周りに配っているのだと言って、何個か時間のパックを差し出してきた。最初は遠慮したが、弘前さんの押しの強さもあって、ありがたく受け取ることする。お返しにお裾分けできるものを探しても、引っ越しの時にすでに渡した蕎麦ぐらいしかなく、とりあえず未開封だった醤油を渡した。
 突然受け取っても、時間は今必要ない。どこかで使うことがあるかもしれないので、貰った時間は冷凍の野菜や魚の間に詰めて、再冷凍した。
 数日後に踊り場で弘前さんに会うと、時間はどうだったかと訊かれる。まだ使っていなかったのではぐらかしていると、上の階の赤田さんがゴミ捨てに通りがかった。弘前さんは赤田さんにも時間を渡していて、赤田さんは早速弘前さんの時間を使っていた。二人が親そうに話しているので、前からの知り合いかと尋ねると、赤田さんは時間のお裾分けの時に初めて話したと言う。どちらかと言うと静かそうに見える赤田さんは、こちらには少し緊張しているようだった。
 別れ際「私も今度時間渡すね」と言いながら二人が別れていたのを見て、時間のお裾分けがこのマンションでは当たり前に行われているものなのだと知る。ただ、自分の時間を誰かに分けることに少し抵抗があるので、自分では特にお裾分けはしないようにしようと心に決める。
 また何日か経つと今度は赤田さんが時間のお裾分けにやってきた。子どもの足音が煩くてすみませんね、と恐縮しながら保冷バックに入れた時間を分けてくれた。期限が近いけれど自分では使えずにいてもったいないから使って欲しいと言われて見てみると、期限は半年後ぐらいで、わざわざ届けてきてくれたのだと少し申し訳ない気分になる。自分の時間を保存してはいないので、交換で渡すことはできない。お裾分けできるものは、実家から送られてきたかぼちゃぐらいだったので、一番大きいのを渡すと、当たり前のように受け取って帰っていった。赤田さんから貰った時間も今は必要としていなかったので、冷凍しておいた。
 互いの時間の共有をすると親密さが格段に上がる。いつしか踊り場を通るたびに井戸端会議が開かれるようになっていて、その人数はどんどん増えていた。そこまで近所付き合いをする気もなかったけれど、流石に無視しきれなくなって、貰っていた時間を無理やり使うことにする。冷凍庫を開けると貰った時間のパックには穴が空いていたらしく、すでに時間は使われてしまっていた。スカスカの冷凍庫には、冷凍野菜と魚が変化して種と魚卵がポツポツと固まっているだけだった。

文字数:1139

内容に関するアピール

 時間を冷凍保存できる世界線のお話です。時間を気軽に誰かに分け与えられるぐらい、軽く扱うようなお話ってなさそうだなと思って考えました。現実の延長線にあるようなSFが好きなので、近所付き合いと時間を掛け合わせてみて、現実的ではないけど駆け引きとか主人公のちょっと隣人と馴染めてない感じはリアルというラインを狙っています。コンセプトがネタっぽいので、あまりオチを落としすぎずに、これからの近所付き合いどうするのだろう? と少し気になるところで止めてみました。『近所付き合い』というタイトルにするか迷いましたが、課題は『宇宙、または時間を扱うSF』だったので、時間のやりとりの名目上の理由である『お裾分けの精神』をタイトルとしました。

文字数:314

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お裾分け

 お隣の弘前さんがくれた時間は、たぷたぷとしている。なんとなく受け取ってしまって、返すタイミングを失った。大容量パックで持ってくるところ、かなり気合を感じる。全部使ったら一日ぐらいは余裕でもちそうだけど、私と何をしたいんだろう。ただ貰って欲しいだけだったとしても、すぐに使い切れそうにない。
 弘前さんは突然押しかけてごめんなさいね、と少し申し訳なさそうにしている。会うのは引越し初日に挨拶して以来だった。その時はお互いにペコペコと頭を下げていたせいで、まともに顔を見るのは初めてだ。最近よく映画に出ている目鼻立ちのくっくりした女優に似ている気がするけど、名前が思い出せない。
 いいんですか? と訊くと、弘前さんはパッと顔を輝かせた。
「全然! むしろ貰ってくれた方が嬉しいです。冷蔵庫が壊れちゃったんですよ。ちょうどうちの両親から時間を貰ったばっかりで、たくさんあるし困っていたところなんです」
 そう来たか、と妙に感心してしまった。貰う側として、時間のお裾分けは少し気が重い。これからご近所さんとして密に関わっていきたいという下心が透けて見えて苦手だった。だから時間は唐突に貰うよりは、弘前さんのように何か建前があってくれる方が納得できる。ちょっとした作法のようなものだと思ってもいいのかもしれない。パックの真ん中は、まだ凍った部分が残っていた。時間のパックを握ると、真ん中の部分がポキっと折れる。
 弘前さんは他の家にも配って回るつもりらしく、持っている紙袋には時間がいっぱい入っている。こんなに時間を持て余しているのだと嫌でも目が袋に行ってしまう。もっと欲しがっていると思われたのか二つ目を勧めてきたので、慌てて大袈裟に手を振った。
「一つで大丈夫です。一人暮らしなので。ありがとうございます」
 わざわざ週末の午後に持ってくるところ、本当に時間をばら撒きに来た訳ではないのかもしれない。時間のお返しがなくても平気なタイプかどうかは分からないから、このままありがたく受け取っていいのかどうかは怪しい。
 引っ越す前に全ての時間は使ってしまった。時間の搾取機は、まだ開いていない段ボールのどこかに入っている。もう自分では時間を貯めるのは止めようと決意してのことだったのに、いざ手元に返せるものがないとなると不安がよぎる。
「遠慮しないでくださいね。家族でも何袋か使ったんですけど使いきれなくて。本当に、余ってるだけなんです。子どもたちが夏休み最終日に使うぞー、なんて言っているんですけど、今使ってもらわないと悪くなっちゃうし」
「時間使ったら、宿題も一日でいけますもんね」
 冗談めかして言ってみたものの、弘前さんはきょとんとしている。このぐらいの冗談でも、親睦を深めてからでないと取り合ってくれないのなら、ちょっと本気でまずいかもしれない。
「皆川さんは、普段週末はなにされてますか?」
「特に何かってことはないですね……。映画観たりとか本読んだりとかしてます」
「あ、じゃあシティモールよく行きます? あそこの映画館、私もよく子どもたちと行くんですよ」
 返答に詰まって変な間ができた。完全に黒だ。弘前さんは、日常会話の上澄みのようなやりとりをするために来ているのではない。私は頭を抱えたくなった。私と仲良くなる為だけに時間をお裾分けしに来ている。

 親睦を深めたい時は、お裾分けしてもらったのと同じ時間を相手にお返しする。お互いに貰った時間を使って、部屋に遊びに行ったり外でお茶をしたり、とにかく相手がどういう人なのかと腹の探り合いをするから疲れる。私のように初対面の人と話すのがそこまで得意ではない人だと、苦行でしかなかった。
 特にマンション内に大きなコミュニティがある場合は、全員にをする。実際の時間は一秒と経っていなくてもかなりの労力を使う。前のマンションでは越してきた時に一人ずつと近くのファミレスで一人一人とお茶をした。まとめて進めればよいいのに誰も言い出さなくて、一人一人と時間の交換をしなければいけなかった。
 上京して初めての一人暮らしだったので、私も妙に張り切ってしまって、マンション近くのファミレスに十五時間ぶっ続けで隣人たちと親睦を深めた。友人ならそれでも楽しいかもしれないけど、とにかく話を聞いているだけでもかなり疲れた。相手が話しやすい人だったらまだいいけれど、私と同じようにあまり社交的では無い人と喋るのは地獄だ。だんだん話すことがなくなっていき、余計に無駄な時間を使っただけということも起こる。二、三人はそういう人と当たったはずだ。あんまりにもつまらなすぎてうとうとしないように必死だった。しかも何人も相手をすると最後には集中力がほとんど残っていない。空調はよく効いていているしコーヒーを飲みすぎて、最後の人の時間では、ことあるごとにトイレと言って席を立った。まともに喋れなかったから、その後若干険悪な空気になった。なまじっか近くにいるせいで、ばったり会ったりもする。そういう極端な例でなくても、たかだか数時間一緒に居たところで深い関わりは生まれなかった。
 カフェインでしばらく眠りに付けなかったから、時間パックを作ったけど、結局捨ててしまったような気がする。時間のお裾分けにはいい思い出は一つもないから、自分からは絶対にやらないようにしようと心に決めた。
 幸いなことに最近では若者を中心にご近所付き合いが希薄になりつつある。まだ人間関係が希薄な新築マンションであれば尚更だ。だから少し予算を上回っていたけれど、このマンションに決めた。無理に距離を詰めることなくお互いになんとなく認知し合っている程度の距離感が一番嬉しい。そもそも、隣人というだけでズカズカと踏み込んでくるのもおかしな話だ。
 時間のパックは、私の手の中でどんどん液体になっていく。最初からいらないとはっきり言えるような人間だったら、こんなに細々と考えない。

 ちょっと待っていてください、とサンダルを脱いで台所へ向かう。時間はないけれどお返しになりそうなものを探さなければいけない。誰かにお裾分けできそうなものは引越しそばぐらいしかない。それこそ引越した挨拶にと買ったもので、弘前さんには既に渡している。時間の代わりに渡しておけば角も立たないし良いかと思ったけど、逆に周りと仲良くしたい人だと思われたのかもしれない。
 私は台所に置いてある段ボールを開封した。実家から届いた箱は、私が引越し後にも使えそうなものを選んでくれたらしく、電子レンジで調理できるものや、調味料が多かった。どれもぱっとしなかったけど、とりあえず実家から送られてきた醤油を袋に入れる。うちの地元の名産だし、あって困るものでもないだろう。
 お醤油ちょうど切らしていたんです、と喜んでくれたものの、袋にそれしか入ってないと分かると、みるみるうちに弘前さんの表情が曇った。
「あれ、時間は……」
 冷凍庫が壊れているのでは、と喉元まで出かかった。そんなまどろっこしいやり方で渡して来なければ、最初から断ったのに。私は機械的に目尻と口角を上げた。そうすると勝手に声も上擦ってしまう。
「すみません、越したばかりでまだ機械を出してなくて。もしあれだったら、いただいた時間もお返しします」
「いえ、良いんです。貰って欲しいのは本当なんです。余ってるものを押しつけちゃってるのは私の方なので。それに時間が全てじゃないですもんね」
 弘前さんは、自分に言い聞かせるように頷いている。
「私も、弘前さんとは仲良くさせてもらいたいとは思っているんです。せっかくのお隣さんですしね」
 自分の言葉が薄い。そう思って余計に言葉を重ねた。弘前さんに対して敵意はないと喋るたびにどんどん墓穴を掘っている。どう止めていいのか分からなかった。私のことをじっと見ていた弘前さんが、そうなんですけど、と遮る。
「皆川さんと、もっと仲良くなりたいなと思っていたので残念で」
「じゃあ開けた時間じゃなくて、お茶とかしましょうよ」
「でも最初はやっぱり、お互いにあげた時間を一緒に過ごした方が気持ちが通じませんか?」
 お互いに相手が理解できなくてきょとんとする。今この時間をパックに詰めてしまいたかった。
「すみません。ちょっとまた、時間ができたらお渡ししますね」
「近くに、時間をもらえる親戚の方とかいないの? 自分での時間は難しいかもしれないけど、全員が忙しいってことはないでしょう」
 ほんの少しだけ目を逸らした。柔らかく問い詰められて、鳥肌が立っている。弘前さんは、無邪気さを装って、覗き込んで来る。私、悪くないよね? と目で訴えられているような気がして、罪悪感が見事に吹き飛んだ。こういう人がいるから、私は時間のお裾分けをしたくなかった。
「いや……まぁ、いないですね」
 そうなのね、と自分に言い聞かせるように言った弘前さんは、急に興味を失ったようで、挨拶もそこそこに去って行った。

 玄関を閉めるとどっと汗が吹き出てきた。どうして単にフレンドリーな人だと思ったんだろう。引越してからすぐじゃないから、本当にもらって欲しいのかなという自分の読みの甘さに自分でも呆れる。すでに時間は溶けきっている。突然時間を受け取っても、今は必要ない。とりあえず再冷凍しようと冷凍庫を開ける。大きいサイズのパックが入るかは怪しかった。外に出るのが億劫だからと、昨日冷凍食品を大量に買ってしまった。冷凍野菜や魚の間になんとかねじ込めばいけるかもしれない。試行錯誤しながら無理やり押しこんで、冷凍庫を閉めた。歪な形になりそうだけど、中身には影響ないはずだ。
 部屋にはまだ未開封の段ボールが半分ほど積み上げられている。段ボールをいくつか開けてみた。冬のコートや文房具が出てきたものは再び封をして元に戻す。時間の搾取機はいらないだろうと思って、底の方の段ボールに入れているのかもしれない。機械の使い方は簡単で、腕にパットを巻きつけて、スイッチを押せば簡単に時間を吸い取れる。今からやればすぐに弘前さんに届けることはできるけど、余計にややこしくなりそうだから、私はこれ以上探すのは止めた。
 お裾分けをしないのであれば、時間に制約はない。保存しておいたパックを開けば、その分の時間が戻ってくる。体感としては時差に似ていて、時間を吸い取ったりパックを開いた瞬間に自分自身が存在している時間が移動しているという感覚がある。パックを使うとが始まり、時間を吸い取るとを過ごすことになる。早くほとぼりが冷めて、適当な距離を保って近所付き合いができたらと思う。ゴンと壁に何か打ち付けたような音がして、後ろを振り返った。何度か打ち付ける音がする。引越してたった二ヶ月、もうこんなことが起こるんだったら、最初からドアを開けなければよかった。音が聞こえないところに移動して、なんとかやり過ごした。

 時間のお裾分けはしないという決意をあっさり翻して、私は段ボールを全て開いた。時間の搾取機はやはり底の段ボールから出てきた。わかりやすくテーブルの横にひっかけてあるから、やろうと思えばいつでも時間のパックを作れる。ただ、パックにいれる時間がなかった。最近同じ部署の人が一気に三人退職してしまったせいで、仕事が全く回っていない。むしろ弘前さんの時間を使ってしまいたいぐらいだった。時間のパックは通販で購入できるので、一応買っておいた。高いけど、背に腹は変えられない。ただ、今は時間の供給が追いついていないらしく、届くのにはしばらくかかる。日が開いていくにつれ、余計に渡しに行き辛くなって行った。
 ほとぼりが冷めるまで弘前さんと会わないようにと、人が出かけそうな時間帯を避けて外出するようにした。家を出る時もなるべく静かに鍵をかけ、弘前さんの部屋を通らないように反対側の階段から出ていく。
 うまく躱せているし、このままいけば快適に過ごせるんじゃないかと油断した。ばったりゴミ捨て場で会ってしまった。会釈してすぐに帰ろうとしたのに呼び止められる。ここに搾取機があったら、今すぐ時間を吸い取りたかった。
「いつもこのぐらいの時間なんですか? ゴミ捨て場で初めて会いましたよね」
 お隣なのに全然会わないですね、と言う弘前さんは、ニコニコとしているわりに、言葉にトゲがある。
「最近仕事がひと段落しまして、少し余裕を持って捨てに来たんです」
「お疲れ様です。ずっとお忙しいんですね! この間の時間、どうでしたか? 何かの役に立てれば良いんですけど」
「……すみません、良いタイミングで使おうと思って、まだとってあるんです。ほら、私もお渡しできてないので」
「えー、そんな気にしないでください。もしかして私、キツいこと言いました?」
「全然! あの私がしっかり準備してなかったのが悪いので」
 自分の意思とは関係なく取り繕おうとしている自分がいる。
「もし気分を悪くされたらごめんなさいね。時間を渡すのが皆川さんが最初だったものだから。ちょっとびっくりしちゃっただけですから」
 弘前さんは、時間のことはそれ以上は触れずに、仕事は何をしているのだとか、近所に何かいいところはないかとか、当たり障りのない話題にすぐに移った。少し話しただけで仲良くなれそうにないと思った。弘前さんが一方的に喋ってくるので、口を挟むタイミングがない。時間のお裾分けをして一日一緒にいるなんて、考えただけで恐ろしかった。早く進め、と心の中で念じる。しばらくして、ようやくゴミ捨てに人がやってきた。
「赤田さん!」
 赤田さんと呼ばれた人は弘前さんに大きく手を振った。郵便受けで見かけたことがある。弘前さんは私に背を向けて、赤田さんと喋り始めた。赤田さんも少し戸惑っているようで、相槌を打ちながらチラチラと私のことを見ていた。弘前さんの喋りはさっきよりもずっと密度が濃くて、とても会話の中に入れてくれそうな感じではない。二人の間には、十年来の知り合いのような雰囲気が漂っている。
「お二人は前から知り合いだったんですか?」
 無理やりそう割り込むと、煩わしそうに弘前さんが振り向いた。何かをえぐり出そうとするような、鋭い視線が刺さる。赤田さんは、冷ややかな視線を緩和するように、私にニコッと笑いかけた。
「弘前さんには、時間をいただいた時に初めてお会いしたの」
 ねぇ、と二人で顔を見合わせる。二人ともパン作りが趣味で、お裾分けした時間でパンを一緒に作っているうちに仲良くなったらしい。弘前さんがあの袋の中に入った時間を全て使って他の人たちと少しずつ仲良くなって行ったのだと思うと、並々ならぬ努力を感じる。その上赤田さんの方も一日程度の時間を捻出できる訳だから、相当余裕があるんだろう。
「今日ね、すごく良い出来のバケットができたから、後で持ってくね」
「え、いいの? すごい嬉しい。この間のタラコとチーズのパンも美味しかったよ。子どもたちが気に入っちゃってさ。一瞬でなくなった」
「ゆうきくんとみのりちゃん好きかなーって思いながら作ったから、よかったぁ」
 知らない子どもの名前に、二人の学校生活。二人の会話は尽きなさそうだったので、適当なところでゴミをそっと置いてそそくさと逃げてきた。

 私がなるべく人と関わらないように気をつけていた間に、弘前さんは井戸端会議ができるぐらい色々な人に時間を配ったらしい。週末に近くのコンビニに行こうとしたら、階段の踊り場で十人ぐらいが喋っていた。階段が使いたくても通る隙間がないから、ボーッと突っ立って誰かが気づくのを待つ。
 こないだはありがとう。ランチ楽しかったね。一緒にスーパー行ってくれて助かった。町内会の仕事一緒にやったけどあれ大変だよね。今度どこか近場で日帰り旅行行きたいな。
 紙袋の中に大量に入っていた時間を配りきったのだろう。口々に人が言うのを聞いて、弘前さんは満足そうにしている。
「誰も知らないところで、俺大丈夫かなって思ってたんですけど、皆さんに仲良くして本当よかったです。もうずっとここに住んでるみたいな気になります」
 ボソっと呟いた若い男性に、みんなが頷く。高野くん若いねぇ、と揶揄う人もいて、若者の首が赤くなった。
「あの、今日時間持ってきたんで、よかったらもらってください」
 照れ隠しなのか、高野くんは少し乱暴に手提げから時間を取り出して皆に配り始めた。パックは小分けになっているタイプで、十五分単位で使える便利なものだ。
「えぇ、いいの! ごめん今私なんも持ってないよ。ちょうど時間使い切ってたの」
「あ、別に俺が暇ってだけなので、気にしないでください」
 爽やかに笑う高野くんは、全員に配っている。何人かが断っても、次の人に回すだけで別段気にした様子もない。やっぱり弘前さんが繊細なだけで、普通はそこまで執拗に追いかけたりはしない。何人かは早速十五分を使って、長く居られるようにしていた。
「今度時間作ったらあげるね。うちの父と母がね、暇だ暇だってうるさいのよ。もう年だし、体もうまいこと動かせないっていうから、じゃあ時間でも取って置いてくれって言ったの。そしたら一日の大半を保存してるみたいで、すぐに溜まるみたい」
「うちも! 周りの人も同じような感じだから、分けてあげることもできないーって言ってる」
「でも、時間が有り余ってるからってすぐに送ってくるのは困り物よね。この間もう冷凍庫に入らないからって、ついに搾取機持って帰ってきたもん」
 ドッと笑いが起こる。外から聞いていると面白くもなんともないのに、笑いすぎて涙を浮かべている人もいる。涙を拭った弘前さんと目が合った。また嫌な顔をされるのかと思ったら、親しげに笑って私の腕を取った。
「皆川さんはどこかお出かけ?」
「あ、いや。近くに行くだけです」
「じゃあ、ちょっとおしゃべりして行かない?」
 赤田さん以外は初対面で、いきなり入ってきた私に怪訝そうな顔を向けてくる。ゴミ捨て場の時とは違って、弘前さんは率先して私のことを皆に紹介してくれた。
「こちら皆川さん、私のお隣さんなの。ほら、このマンション壁がそこまで厚くないじゃない? 子どもがうるさいだろうに何も言わずに居てくれるすごく優しい人なの」
「はじめまして、ちゃんと挨拶できてなくてすみません」
 うっすらと会釈してくれる人もいるけど、かなりよそよそしい。弘前さんが皆に私のことを吹聴したのかもしれない。他の人は私と同じで時間のお裾分けに興味がないと思っていたけど、どうやらそういう訳ではなさそうだった。
「忙しいんでしょう? 時間もパックにできないぐらい働かれているみたいだし、私たちに割く時間なんてないなら仕方ないわよ」
 弘前さんがペチペチと私の腕を叩く。覗き込むようにしてこちらを見る目は勝ち誇っていた。お前が時間を渡していれば、こんなことにはならなかった。弘前さんだけでもうんざりしてるのに、近所が全員そう思っているのだと思うと、流石に自分が妥協しなければいけない気がする。
 「あの、待っててもらってもいいですか? ちょうど時間を持て余してたんです。ちょっと取ってきます」
「無理しなくてもいいのよ。さっき高野くんがみんなに配ってたし」
 弘前さんが眉をハの字にする。今度こそ、チャンスを逃したら、このマンションでの生活はかなり厳しい。

 急いで家に戻って、台所へ向かった。人にあげる時間はある。通販で頼んでいた時間のパックが昨日ようやく届いた。冷凍庫にパンパンに入れているし人数分はあるはずだ。一応すぐに時間を使うかもしれないから、弘前さんからもらった時間のパックも持って行った方がいいかもしれない。冷凍庫を開けると、白い煙が吹き出してきた。思いっきり顔にかかって咳き込むと、いつの間にか一時間ぐらい時間が伸びている。
 奥に手を突っ込んで見ると、冷凍庫の裏側にペラペラになった時間のパックがあった。大容量の時間パックは、大きな穴が空いていた。弘前さんに時間を渡しても、もらった時間がない。関係の修復は絶望的だった。
 いっそのこと時間を進めてしまう方が良いかもしれない。私は冷凍庫を閉じて、時間の搾取機を腕に巻いた。

文字数:8185

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