梗 概
それは私のペットです
綾が大学生となって一人暮らしを始める際、伯母からお祝いとして贈られたのは最新型のトイレ装備だった。伯母が務める会社で作っている試作機らしい。洗浄乾燥機能の充実、便座の温度調整及び質感や形状の変化、便器を含む個室全体の自動除菌洗浄。壁面への動画投影に、消音目的を超えた音響機能。すばらしく多機能なので感謝を伝えて使い始めたが、綾には一つ不満な点があった。トイレが感情を表すのだ。具体的には、音や光や質感の変化で喜びや寂しさを表現するのである。組み込まれているのは弱いANI(特化型人工知能)で、強いAGI(汎用人工知能)ほどの知性はなく、できるのは健康観察と簡単な反応のみだが、そもそも綾はトイレが感情表現する必要性など微塵も感じない。それでも指示をした際の反応は便利なため感情表現機能は停止させずに済ませていたのだが、乱暴に座れば悲しげな音を立て、素っ気なく接すれば拗ねて反応が悪くなる一方、こちらの体調が悪い時や気分が落ち込んでいる時には、健康状態の分析を表示しつつ気遣うような光の明滅や動きを見せるトイレに、綾は徐々に心を開いていった。“トー君”と名前も付け、その日あったことを話したり愚痴や失恋話を聞かせたりして、音や光や質感の反応に癒されるようになった。細かな毛を逆立てたり寝かせたりして好みの質感と形状に変化させた“トー君”を撫でることも習慣となった。友人達が遊びに来た際には、女友達には懐き、男友達には立って用を足すことを許さない“トー君”に大笑いした。急いでいる時以外はトイレで一定の時間を過ごすことが綾の日常となった頃、突然“トー君”は故障した。バイト先での苛々をぶつけてしまった翌日だった。引き取りに来て新しいものと取り替えると告げた伯母に、綾は懸命に頼んだ。「できる限りの修理費を払うので、直して返してください」と。「何故?」と問い返してきた伯母に、綾は躊躇ってから“トー君”と過ごしてきた日々を語り、言った。「もう、それは私のペットです」と。伯母はにやりと笑い、明かした。「ありがとう。その言葉が聞きたかった。故障は仕組まれていたの」と。最新型トイレ装備試作機は、社員の知人何名かに、そうとは明かさず貸し出されて機能試験をされていたらしい。そして、当初から組み込まれていた故障を起こした時、使用者がどういった反応を示すかで、出来を判断しているというのだ。「トイレには、強いAGIより、弱いANI。執事や友人よりペットのほうが向いているという私の持論が立証された」と伯母は満足げだ。「確かに」と納得しつつ、綾は伯母に“トー君”を無事に返してくれるよう改めて頼み、その替わりとして使用感のアンケートに答えた。会社での“トー君”の検査とデータ収集には一週間かかるという。日々ロスを感じて過ごした綾は、元通り取り付けられ、嬉しげに反応した“トー君”に座り、いつものように撫でたのだった。
文字数:1200
内容に関するアピール
自宅トイレは最も自分の素が出せる場所だと思います。そこに、寄り添ってくれる存在がいたら、離しがたくなるのではないでしょうか。そういった発想から考えた物語です。ただ、ペットの定義については、かなり考えを深める必要がありました。言葉よりも仕草でコミュニケーションをとり、知性よりも感情を表し、手触りで癒やしを与えるだけでなく、世話をする(構う)ことを怠ると、拗ねたり、調子が悪くなったりと、意のままにならないことも多い存在。トイレを、そういう存在として描いてみました。今回描いた“トー君”は、トイレに取り付けるトイレ装備として、一人暮らしを始めて寂しさを感じることもある主人公の生活に馴染んでいきます。排尿や排便から健康観察をおこなって知らせ、使用者が最も心地よいと感じるトイレ空間を作り、音や光や細かい毛を用いた質感の変化で可愛らしい反応をする装置は、将来、実際に制作されるのではと想像が膨らみました。
文字数:400