梗 概
コブつきの男
十年前、ニホンはにょろにょろの海坊主みたいな宇宙生物に包囲された。ニホン人は地下へ逃げた。地下での生活は、不便で、文明的な生活とは言い難かった。
主人公、黒部トイチは元警察官。いまでは半グレの日雇い労働者。酒に弱いくせに安酒をかっくらうような男。彼は地下世界を拡張する為に日夜、穴を掘っている。
そんな彼には秘密がある。
「ピロピロ~」
トイチの後頭部には『ゴス』と名付けたちっちゃな生物が寄生している。円らな瞳の喋る瘤。布お化けに似ているのでゴースト、縮めてゴスと呼んでいる。
刑事の先輩を死なせてしまった日、ゴスはトイチの首に取付いた。引き剥がそうとすると自分も痛い。それ以来、文字通り一心同体の生活を続けている。
ゴスが鳴くのは空腹の合図。
「あ? 仕方ねぇな。そこらでちょっと喧嘩吹っ掛けるか」
ゴスのエサはトイチが喧嘩すると分泌される神経伝達物質らしい。
それが分かったのは偶然だった。ある時、仕事も人生もやる気がなくなった。ゴスはみるみる弱っていった。哀れになってドタバタ色々試してみた。五月蠅い! と大家のばばぁが乗り込んできて、口喧嘩になった。するとゴスは元気になった。
トイチはゴスのエサ集めの為にも喧嘩をする。
エサを食べるとゴスは情緒も身体も成長した。いまでは伸び縮み出来るようになった。
「あ~。飛びてぇ……」
トイチが死にたいと思うと、ゴスは慌てて彼を励まそうとお喋りしたり、綺麗な石を持ってきたりするのだ。トイチは寄生主を生かす為のおべんちゃらでもやっぱりちょっと嬉しかった。
ある日、トイチはギャンブルに大負けしてすっからかんになった。ゴスもシオシオである。
国土開拓事業での穴掘り役を探している知り、出稼ぎにいった。
キャンプ地の不味い飯と気の短い連中。嫌味な監督官。仕事中でもは喧嘩の連続。しまいには監督官のクロロに飯をぶん投げて大喧嘩。ゴスは大喜びだが不味いことになった。
クロロは上司は元ヤクザのコグレ。コグレはトイチの先輩が死ぬ原因になった奴だ。いまでは掘削事業で大成功して、裏の顔をすべてなかった事にしていた。でもコグレは今も陰で人身売買を行っていた。
かつて警察官だった頃の正義感が蘇ったトイチ。トイチはゴスに自分の昔話と心情を吐露する。ゴスはトイチを勇気づけた。役に立たないが、ゴスがいればやれる気がする。
警察の腐敗をよく知っているトイチはコグレと一騎打ちに持ち込む。ボディーガード達をかいくぐり、巨体のコグレと殴り合いになるトイチ。
殴り、殴られ、血まみれになると、ゴスはどんどん成長した。コグレにチャカだされたトイチ。撃たれたて瀕死だが、そのままコグレを殴りぬける。膨れ上がったゴスがトイチに代わってコグレにとどめを刺す。
ぶっ倒れたトイチ。成人男性くらいの大きさに成長したゴスがトイチを看取った。
と思ったらトイチは生きていた。ゴスの頭の瘤になって。ゴスに「連れて行ってくれるのか?」と尋ねる。ゴスはピロピロと答えた。連れていかれた宇宙生物の群れには死んだはずの先輩が宇宙生物の瘤になって、元気に手を振っていた。
文字数:1281
内容に関するアピール
徹夜で『ベルセルク』読んでしまったので眠いです。でっかい男とちっちゃい妖精の組み合わせ良すぎる。そんなわけで、でっかい(とは書いてないけど、でっかくてムキムキの男と思って書きました)とちちゃい瘤のお話です。
ポイントは喧嘩シーンです。ぼこぼこな感じ。ファイトクラブよりももっとぼこぼこに書きたい。梗概書く前に『あしたのジョー』と『メガロボクス』見ちゃったのが良くない。こんな話になっちゃって……。
ペットは居てもなんの役にも立ちませんし、何なら手のかかる存在ですが、居ると人生が豊かになる気がします。死にたい男が生きてもいいかなと思えるくらいの力はあるのではないでしょうか。そんな話に実作では持っていけたらいいなと思いました。よろしくお願いします。
文字数:325
コブ付き
※未完
これでは書けないよと言われたのを突っ切ってみたけれど、本当に書けなかったので、記録としてアップロードさせてください。自戒。
つまんねぇことばっか起こる世の中だ。
黒部トイチはかつて地下鉄と呼ばれていた駅のベンチに座り込むんだ。地面はひび割れ、悪臭が漂っている。列車がくる気配はない。ホームにバラック小屋やテントがばらばらと建てられていた。アルコールランプで、どこぞで手に入れた食材を焼こうとする者が見える。ホームにある古いテレビは、一応、国営放送くらいは見られる。テレビを調達してきたのはトイチだった。
トイチは、色褪せた黒いフードを目深に被り、向いのホームを走り回る子供を睨む。キャッキャッとはしゃぐ声をうるさいとは思わなかった。ただ、こんな環境でいきなきゃならない子どもが哀れだと思った。
ひとり、小僧が転んだ。そいつは泣かずに走り去る少女を追いかけた。
おにさんこちら! 手のなるほうへ!
無邪気な声にトイチは地上での生活を思い出す。ああいうガキが事件に巻き込まれないように警邏するのが仕事だった。トイチはポケットに詰め込んだ安酒を煽った。ウィスキーのミニボトルに入れられた酒は赤く濁っている。仕事帰りにコンビニで買ったブラックニッカは三百円だったと懐かしさを覚えた。酒は都営新宿線と東西線を繋ぐ市ヶ谷のヤミ市で仕入れた。ニッカの十倍はしたし、味もイマイチ。出どころなんてしったこっちゃない。まともなものではないのは想像できる。
トイチのような男たちは旧都営新宿線、新宿三丁目駅を根城としている。地上にでて使えそうなものを回収して売る。それが彼のような男の出来る唯一の仕事だった。
もっと下の大江戸線は富裕層のたまり場で、行き来するにも怖いお兄さんが立っていて近づけない。地下世界でも富むものは富む。富裕層の家や様々な快適グッズの資材はだって、地上に出た連中が調達したものだ。けれど、富める者に感謝されることはきっとない。むしろ、忌み嫌われていると彼は思っている。
「うっ!」
トイチの体がびくりと揺れた。
「んだよ。起きたのか。ゴス」
フード越しにもわかるほど不自然に膨らんだ首の後をなでる。もぞもぞと何かがうごめき、顔とフードの隙間から柔らかめのグミのような青黒いスライムが顔を出す。ぬいぐるみのような目がふたつ。復刻されたアーケードゲームのお化けキャラクター、ゴーストに似ていた。ゴーストだからゴス。トイチが名付けた。
ゴスはむずむずと身じろぎする。色つやが悪い。多分腹が減っているのだ。トイチは周囲を見渡す。疲れ切った男や女が転がっている。覇気のあるやつは、いない。
トイチは立ち上がり、溜息を吐いた。
「お前、なんでこっちにいんだよ? お仲間はみんな上にいんだろ」
ゴスが動くとトイチの首がむず痒く疼いた。フードに手を差し込み、トイチは軟体生物との結合部分を撫でる。ケロイドのように皮膚が盛り上がり、分かち難く繋がっている。ゴスは喋れない。何をするでなく、トイチの身体にくっついていた。
じゃりじゃりと靴底を引き摺る音にトイチは反応した。
「よぉ、トイチさんよぉ。この前はどーも」
小便の匂いを放ち、脂塗れのロン毛を振り乱した男が肩を揺らして近づいてきた。まぁ、自分も似たり寄っただなとトイチは思う。トイチは一瞥すると僅かに残った酒を飲み干した。
「俺のシマから盗ってっただろ」
「なんだよ。名前でもつけてあんのかよ?」
地上で危険を顧みず、資源を調達する奴は二種類に分けられる。
元締めのいる者と全くフリーのも。トイチはフリーだ。フリーは資材を売り買いするのも一苦労だが、手柄は独り占めできる。元締めにピンハネされるのは御免だ。ロン毛はどこぞのヤクザモンの下っ端か下請けなんだろう。哀れなもんだ。トイチは立ち上がった。
「引っ込んどけ。あぶねぇから」
頭を撫でるとゴスと呼ばれた軟体生物はしゅるりとフードの奥へ隠れた。肉にめり込まれる感覚に少し眉を潜める。痛くはない。けれども、体を虫が這うような嫌悪感は拭えなかった。
「なんだいまの?」
「なんでもいいだろ」
ロン毛の男の濁った目にはゴスが上手く捉えられなかったのだろう。肺もやられているのか呼吸音に隙間風のような音も混じっていた。
「砂竜にやられてんだな。はやいとこ医者いっとけ」
「どこにいんだよそんなもん!」
ロン毛の言うことはもっともだった。医者の資格を持った奴はまだいるが、治療するための器具も薬品も限られている。医者に診てもらうなんて貧乏でど底辺には無理なことだった。
ロン毛の拳が飛んでくる。気の短い奴だ。トイチは一発殴られてやる。
喧嘩は自分が一発殴られてから始める。
それが彼の流儀だ。
「公務執行妨害で逮捕」
にやりと笑ってトイチは言った。
「ポリ気取りやがって!」
「ポリ公だよ。元だけど」
トイチは腰溜めに一発。ロン毛を殴る。ロン毛は両腕で顔面を庇ったけれど、フック気味に横から繰り出された拳にガードが間に合わなかった。がくんと上体がのけぞった隙にトイチの腕が横っ面を殴った。一瞬、宙を浮き、ロン毛は舌を垂らして倒れる。ロン毛の息を確認する。気絶しているだけだった。大きく息を吸い込み。
にゅるりと背骨のあたりからゴスが顔を出す。
心なしか喜んでいるように目を輝かせている。
目をしぱしぱさせて、にっこりとでも表現できそうな顔をトイチに向ける。
昨日より伸び縮みできる範囲が広がっている気がする。
成長しているのだろうか。
トイチはゴスの様子とは裏腹に、拳が少し震えていた。
「いやーな感じだ。ま、お前はこういうのが好きなんだろうけど」
振りかぶった拳と共にフードがめくり上がったのか、トイチの黒黒とした短髪が顕にっていた。
「喧嘩がエサってのはな。全く意味不明だぜ」
乱れた髪を撫でつけながら、トイチは言った。殴り合いの喧嘩があっても警察も来ねぇなんて。今でも警察は警邏しているのだろうか。人々を守りたいと思う心の余裕のある警官はいまでもいるのだろうか。
俺には少なくても無理だな。トイチは鼻を鳴らした。
そろそろ仕事行くか。彼は使われなくなった自販機の中に隠しておいた作業着を取り出す。防具は手袋くらい。装備はない。
「見てんじゃねぇよガキ」
じっと、向かいのホームから十二歳くらいの子供が見つめていた。鼻を垂らし、よれて垢だらけのTシャツを着ている。
「かっこいい!」
洟垂れ小僧が叫んだ。トイチは目を細めた。
「ばかか。かっこいい訳ねぇだろ。真面目に生きろガキ」
こんな世界でどう真面目に生きろっていうんだよ。トイチは自分の愚かに腹が立った。
地下鉄大江戸線の都庁前駅は垂直農業の一大プラントになっている。地熱発電を利用し、作られる作物は人々の生活の要だった。最近では豆を使った肉を豚肉だとか牛肉だとか言って公然と販売するようになった。
農業で電力を大幅に食らう為、一般庶民に供給される電力は僅かだ。トイチは久しぶりに瑞々しいトマトが食べたいと思いながら薄暗い地下道を歩く。
海坊主の侵攻は素早く、一気に行われた。人口はみるみる激減した。
侵攻してきた宇宙生物は人を取って食ったりはしなかったが、瓦解したビルや二次災害で多くの人が死んだ。
宇宙生物が原因なのか地上は目には見えない『砂竜』が吹き荒れ、その毒にやられたものも多い。
人々の生活は下りいっぽうだった。円は流通しいる。政府はまだ機能している。紙幣が流通しているのが証拠だった。侵攻されたのが日本だけだった為、国際社会からの支援もまだ期待できる。
トイチはその協力関係がいつまで続くだろうかと思った。もう十年だ。恐らく日本がこの窮地を脱して復興することは、ない。この世界で細々と生き延びる為の生存戦略を考え始めなければならない。
それが彼の意見だった。
しかし、閉鎖空間故に蔓延する感染症や対人問題、食糧問題、水不足問題、解決すべきことがやまのようにあった。正しく意思決定できるような人間はそう多くない。
誰も切り捨てずに生き延びることはできない。
トイチは地上にいたころ警察に所属していた。組織のよさも悪さも多少は知っていた。政府の無策に怒る気力はない。幼馴染で同じく警官だった先輩を亡くしてからほとんどの事がどうでもよかった。
「兄ちゃん、安いよ。買っててよ」
小汚い男が、痩せた女と共に地べたで店を開いていた。
「悪いが急いでるんでね」
トイチは少し迷ったものの、商品を見ることなく立ち去った。饐えた匂いが鼻に残った。
地下鉄を利用して生活を始めた人々の中には、逞しくも商売を始めるものもいる。食品はかつての三倍以上の値段が掛るので、自給自足でなんとかしようと考えるものも現れた。トイチが相手にするのはそういった逞しい人々だ。
トイチは逞しく生きようとする人々が次に欲しがりそうなものを考えて、様々な品を地上から持ち帰ってくる。とは言え、業者に比べれば大したものではないが。
もぞもぞとゴスが体の中を蠢いた。
食い破るつもりかもしれねぇ。
いやむしろこのまま食い破ってくんねぇかな。
自死さえも他力本願な自分にトイチは失笑する。
ゴスはきっと地上を包囲する巨大なスライム、妖怪海坊主にそっくりだった。きっと海坊主の仲間なのだとトイチは思っている。けれど恐怖も何も感じなかった。煩わしさはあったが、放置していたら愛着が湧いてしまった。
自分と同じように寄生された人間にはまだ出会ったことがない。
或いはもうみんな寄生されていてそれを黙っているだけなのかもしれない。
それを確認しようとは思わなかった。
「ガキの時、柴犬かっててよ。そういやそいつの名前もゴーストだったわ」
たまたま好きだった特撮番組の題名を付けただけだ。柴犬は黒くて毛は固かった。
ゴスは言葉を理解しているのかにゅるにゅると首の後ろから伸びあがり頬摺りした。ゴスは首から身体を伸ばし、トイチの顔に耳までぴったりと張り付く。視界が青黒くなる。息苦しさも感じるが、布マスクの感覚程度だ。ゴスに顔面を覆われているせいで呼吸困難になったことはない。耳を覆われているが、音が聞こえないなんてこともない。不思議なもんだ。トイチはゴスの身体構造を深く考えようとはしなかった。
伊勢丹近くの地上口の階段を上がる。
「おじちゃん!」
外の光が見えてきた頃、階下でさっきの洟垂れ小僧がトイチに声をかけた。舌打ちしつつトイチは速足で下る。
「なんだ坊主」
「紀伊國屋ってところで本持ってきてよ。妹が猫の絵本読みたいって」
きらきらした目にトイチは目を瞑りたい衝動に駆られた。
「金にもなんねぇそんなもん、誰がもってくっかよ」
「お願い! お願い! 多分、ミオン、元気になるから。咳が出て苦しそうなんだよ」
トイチは深々と息を吐く。
「結核か?」
見た目の割に賢い子供のようだ。小僧は黙って頷いた。
結核って。明治時代かよ。
トイチは少し前までは治る病気だったんだぜ。
叫び出しそうになった。
抗生物質取ってきてやると言えたらどんなに良かっただろう。
トイチの不満に呼応するようにゴスの色が深い青に染まった。
「余裕があったらな」
トイチはそれだけ言うと、小僧を追い返した。地下で本を読むような家柄、『包囲』される前は文化的に裕福だったのだろう。トイチは胸に浮かんでくるどす黒い気配を感じた。
俺の家は親父が飼い犬殺すような家だったぜ。
彼は思わず笑った。
地下を出ると空は砂竜に覆われ、太陽の光は遮られていた。
トイチの目は段々とゴスに覆われた黒いフィルターに慣れてきた。
道向の地下鉄出口から何人か出てきた。防護服には『大山建設』と書かれていた。ヤクザもんだ。トイチは建物の影に身を潜めた。彼らは路駐していたトラックに乗り込む。資金源がある組織はああやって大量に仕入れて売りさばく。デパートの商品はあっという間に業者に持っていかれた。トイチは細々と業者が見逃したものを回収する。
歌舞伎町方面にトラックは走っていった。ガソリンももうそろそろ手に入らなくなるだろう。その時、運転手はどうするのだろうか。トイチはふと思った。
男達が移動するのを見送り、トイチは紀伊國屋方面へ向かう。
ガキの懇願を無碍にできなかった。
トイチは道ゆきのビルが燃え落ちているのを見た。
侵攻の最中、燃えてしまったものも多い。
紀伊國屋書店は炎上を免れた。
「砂だらけじゃねぇの」
一階の棚から本はほとんど持ち去られていた。冬を越す為の燃料として使ったのかもしれない。それともビジネスとして成立するから業者が持ち出したのかもしれない。
動かないエスカレーターには砂ぼこりが溜まっている。不意に巨大な黒が陰った。ずろずろと大通りを歩く海坊主にトイチは思わず気配を消す。連中は人間を襲ったりはしない。ただ、巨大なぬいぐるみのようなつぶらな瞳で一瞥するだけである。トイチは落ち着きを取り戻し、エスカレーターを駆け上がる。まばらに本が残されていた。人もおらず、電灯の明かりもない室内は薄暗かった。
「そういや、お前、文字読めるのか?」
トイチが聞くとゴスは顔に張り付いたまま、細い触手を伸ばす。
『ようこそ映像研!』
『めでたき日の歌』
『るろうの星』
頭文字を撫でるので、トイチはゴスが文字を読めると言っているのだと解釈した。
トイチはおやと首を傾げた。
ゴスはこんなに賢かっただろうか。
考え事は苦手なので、すぐやめてしまった。
階段はほとんど暗闇で、足元をライトで照らす必要があった。自家発電搭載の手回し式のライトだ。きゅるきゅるという間抜けな音と、トイチの靴音が響く。足元を照らすと靴底が剝がれそうなみすぼらしい己の靴が照らされる。買い替える金はない。デパートに靴は残っているだろうか。トイチは考えながら少しずつ上へと上がっていく。
息が切れてきた。歳か、それとも砂竜の影響か。昔ほど動けなくなった気がする。
「死んでるな」
五階の踊り場で瘦せっぽちの白い毛長の猫が横たわっていた。しゃがみ込んで、トイチはライトで猫を照らす。耳の端からノミが新天地を求めて飛び上がっていたので、死んで間もないのだろう。目の際が赤く、目ヤニだらけだ。数秒間、彼はそこを動けなかった。ゴスは細い触手を伸ばして飛び立とうとするノミを掴んだ。
「汚ねぇからやめろ」
そう言いながらも彼は飼い犬に対して同じような事をしたのを思い出した。同時に近所に住む気のいい兄貴分、自分より三歳年上だった宮城カナタのことも思い出す。宅配業者の段ボールに犬を寝かせ、ふたりで野花を差し向けた。犬の尻尾から飛び立とうとするノミが憎らしくて、裏切り者、一緒に死にやがれとぷちぷち潰したのだ。兄貴分、宮城カナタは一緒になってノミを潰してくれた。何匹潰しても沸いてくるので、カナタは
「もうやめよう」
とトイチの手を止めたのだ。カナタの指先を思い出しながらトイチは猫耳の頂点にぶら下がるノミを潰した。
思い出から戻ってきたトイチは思わず舌打ちした。
「俺ぁ、死んだ犬から一目散に逃げだすノミみてぇな悪党を潰してやりたかった」
ゴスの目が移動し、彼の眉間辺りにやってきた。内側から目が合う。
「カナタ先輩もそうだったんだ。だから警官になった。あれであの人、虐待児でさ。家はデカくて綺麗だったけど、まともな家じゃなかった」
ゴスの滑らかな身体を撫でながら、トイチは立ち上がる。横たわる猫を振り向かないようにしながら六階まで登った。
「誰?」
部屋に入った途端にライトが照らされる。聞き覚えのある声にトイチはびくりと肩を揺らした。うぞうぞとゴスも落ち着きがなくなっていく。ぺろりと剥がれそうになるゴスをトイチは必死に宥めた。
「なんだ。トイチじゃないか」
目の前には先ほど思い出の中にいたカナタが立っていた。手回しのライトが消える。トイチは自分自身にライトを照らし、人懐こそうに笑うカナタを見つめた。
「なんで……」
「死んだはずって?」
カナタが言う。俺はずっとお前の側にいたよ。で、ここで待ってた。彼はトイチにボートブックの絵本を投げて寄越した。カナタはライトで表紙を照らした。目つきの悪い縞模様の猫が描かれていた。
「ワンちゃんはかわいいけど、俺は猫派なんだよ。昔、これ一緒に読んだよな。覚えているか?」
カナタが言う。トイチの脳裏に幼少期の記憶は、浮かんでこなかった。
あの人じゃない。絶対。本を一緒に読んだ思い出なんかない。
あの人は勉強が大嫌いだった。
せめて俺といる時くらい、文字も数字も忘れたいと言っていた。
「あんた誰だ?」
トイチの拳が反射的にカナタの偽物に牙をむいた。
ルール違反だ。
殴られてもいないのに殴ろうとしちまった。
後悔を悟られたのか、偽物が笑った。
右のストレート。
肉がぶつかる音。偽物は身体を流してトイチの拳を右掌で受け止めた。厚い掌の肉。偽物の左手が動く。暗くて相手の軌道が読めない。
アッパーだ。
トイチは首をのけぞらせて勢いを殺す。それでも痛かった。偽物の拳はかつて警察学校で手合わせした頃のカナタと同じく重かった。
ムカつく。
その気持ちが呼び水になったのかゴスの身体が薄く伸び、身体に密着した。範囲は広がり、腕を覆った。
なんじゃこれ。
疑問の間もなく、偽物がジャブを打ち込む。
「防御形態か。よっぽど人間が好きになったんだな」
偽物の表情は暗くてわからない。ただ声の響きにあざけりがあった。ジャブを細かく打ってくる偽物にトイチは防戦を強いられる。
だが、その間にも自分の打ちやすい角度に持ち込むことを忘れない。
一瞬、雲間から光が照り、窓ガラス越しに明かりがさした。トイチは光に目を眇める偽物の一瞬の油断を見逃さなかった。
タンッとステップを踏んで、トイチが前に歩を進める。
右拳が偽物の左頬にめり込むかのようにぶち当たる。右肘をその勢いのまま前のめりになった相手の鼻っ面に突き刺す。偽物はそのままトイチの方へと倒れてきた。床に倒れかけた偽物は砂竜を噴き上げ、ゲル状になって消えた。ゴスがしゅるしゅると伸びきった身体をいつものお化けスタイルに戻す。首の後ろに張り付いたゴスは興奮しているのか少し熱い気がした。
「いや、何なんだよ。いまの……」
呆然と立ち尽くす。トイチに踏まれた猫の絵本は薄汚れていた。
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