梗 概
盲目
米大統領の児童ポルノ所持。
中国の核ミサイル発射。
大学入試の結果。
誰かの悪口。
エトセトラ。
ネットから得られるあらゆる情報が価値を失ったのは、もう随分とむかしのこと。国も、恋人も、隣人も、みんな疑心暗鬼に陥った。
暴動が起きて、暴力が蔓延って、無実の人が逮捕されて、誰も彼もが傷ついた。原因が生成AIのだと分かったときには後の祭り。日々幾千と生まれる情報に、あるいは書き換わる事実に人類は対処しきることができなかった。
そして誰かが引き金を引いたその日、世界は大きなきのこ雲に包まれた。
世界は生成AIの、無垢なフェイクに滅ぼされた。
†
ちゃりん。
音がして振り返る。二人組の男が物乞いをしている盲目の少女の前にある器に石やゴミを投げ込んでいた。少女は困ったように笑っていた。男たちは笑いながら立ち去った。少女は器のゴミを握り締めている。私は少女に近寄った。
「なんで笑ってんのよ」
「笑っていれば、迷惑にならないので」
私は苛立って、少女のほっぺをつねった。少女は驚いていた。
「あんたもやってみなさいよ」
少女は私のほっぺに恐る恐る触れる。
「力が弱い」
私が言うと、少女はやっぱり困ったように笑っていた。
それから私は毎日のように少女の様子を見に行った。彼女は私が見ている世界の話を聞きたがった。満天の星空の話。果てなく続く青い海の話。大半は嘘だった。目が見えないのならせめて、瞼の裏に描く世界くらいは美しいものでもいいはずだ。
あるいは盲目の彼女なら私を疑わないし嫌わないと思った。気がつくと嘘を吐く癖のある私は、そのせいで独りだった。
でも誰だって何が真実か分かるはずがなかった。私たちにあるのは、何を信じたいかという歪んだ眼差しだけだった。
ある朝起きると、ママたちが分厚い唇を震わせていた。ニュースなんてもう意味がないのに、テレビを眺めている。移民が結託して暴動を起こしたとテロップが流れていた。続くテロップは武装した移民に対する注意と警戒を促している。
問題なのは真偽ではなかった。私たちの肌の色が黒いことだった。
ママたちが危惧した通り、移民狩りが始まって、家には武器を持った人たちが押しかけた。もちろん私たちは武装なんてしていなかった。まず私とママを庇って殴られたパパが動かなくなった。ママは背中を踏みつけにされながら私を逃がした。
頼れる人なんていなかった。だから私の足は自然と少女のもとへと向かった。
私は少女に助けを求めた。私の嘘すら気付けない彼女だけは、盲目ゆえにAIの嘘に左右されなかった。追手がやってきて、私たちを取り囲んだ。不安と焦燥がじりじりと詰め寄ってきた。
少女は懸命に私を庇った。けれど私を庇う少女にまで怒号が飛んだ。
私は路傍の尖った瓦礫を掴み、少女を羽交い絞めにした。
「それ以上近づいてみろ。この子を殺してやる」
心にもない言葉を吐いた。
少女は目が見えない。
だからきっと、私の涙にも気づかない。
文字数:1223
内容に関するアピール
今回の課題に対して何本か書いてみて、技術(課題)のほうに引っ張られるのはきっと私の作風じゃないなと思ったりして、競合バトルとネタかぶりに目を瞑り、私にとって一番身近かつ一番ポピュラーそうな最新技術である生成AIをテーマにしました。
あれは嘘を吐きます。そしていつの時代も、私たちは嘘の上で踊ります。
本当の盲目は誰なのか、問い直すための作品です。
文字数:171
感染
ハイターを飲んだことによる死者が全国で五〇〇人を超えたというニュースを、私は職場である地方グルメ誌の編集デスクで聞いていた。
「どうなっちまうんすかね、世の中」
少しくぐもった二重のマスク越しの声で、隣りに座っている後輩の高梨が言った。高梨は自分のデスクに据え置いているアルコール消毒液をワンプッシュ出し、手指に揉み込んで馴染ませていた。
殺菌効果のあるハイターを飲むと致死率五〇%を超える新型感染症〈フレアウイルス〉を予防できるというニュースを耳にしたとき、最初に思ったのは「そんな馬鹿な」だったことを鮮明に覚えている。ウイルスがいくら猛威を振るっているからといって、あるいはそれに対する有効な対策が何一つ存在しないからといって、そんな眉唾な話、正気な人間が信じるとは思えなかった。しかしあれから一週間足らず、現実としてハイターを飲んで死んだ人間は五〇〇人を超えている。〈フレア〉の脅威が私たちから正常な判断力を奪い去っている証拠だった。
「こんなときだからこそ、メディアが重要なのよね」
私は高梨と、そして自分に言い聞かせるように吐き出して、開いたままさっきから作業の進んでいないラップトップに視線を落とす。検索画面の一番上には、インターネット上にある雑多な情報をAIが検索ワードに応じてまとめた要約が表示されている。
私たちのようにメディアに関わる人間は誇りと責任を感じなければならない。社会が混乱している今であれば、その重要性はより際立つ。けれどそれは私が今書いている〈特集・オンナをオトスための店〉のことでないのだけは確かだった。
「時間、大丈夫すか? そろそろ出ないと。あそこのマスター、時間にうっさいでしょ」
「いけない。もっと早く言ってよ!」
腕時計に視線を落とした私は、慌ててラップトップを鞄に突っ込んで席を立つ。呑気に上着を羽織ろうとした高梨の襟首を掴んで編集部を飛び出す。エレベーターを待つ時間すら惜しく、階段を駆け下りて車に乗り込んだ。いつも通り私が助手席、高梨が運転席だ。
「どうしてこういう場合、男が運転席で女が助手席なんすかね」
「そういう場合があることは否定しないけど、この場合は私が先輩であなたが後輩だからだと思う。それに私、免許ないし」
「それ信じらんねえすよね。車なくて不便じゃないんすか」
「ずっといらない人生だったのよ。東京って車のほうが動きづらかったりするの」
「はい、出た。東京自慢。どうせここは田舎っすよ」
高梨がアクセルを踏み、車が走り出す。私を乗せた車はあっという間に加速して、窓の外の風景を置き去りにしていく。私は腰のあたりでぎゅっとシートベルトを握りしめる。
生まれも育ちも東京で、東京の大学に進学し、東京の新聞社に就職をした。報道に携わろうと思ったのは、小さいころから特別扱いされ続けた容姿と、そのからだのなかに流れる半分の血と無関係ではない。
窓に薄く映り込んでいる自分の姿を見る。黒い肌に縮れた髪。加熱式タバコを喫おうとマスクを下げれば、分厚い唇が露わになる。今年でもう三九になるというのに、老け方だって同年代の友達とは違っている。
そんなワールドワイドな容姿の割りに、私はほとんど東京から出たことがなかった。もちろん学生時代に旅行をしたし、就職してから出張もあったけど、まさか自分が東京から遠く離れた場所で暮らすことになるなんて、一昨年の春になるまでこれっぽっちも考えたことがなかった。
あんなことさえなければ、私は今もまだ東京で働くことができていたのだろうかと、夜になるたび考える。誰のためになるわけでもない、矜持も意味もない記事を、ただ生活のために書かずに済んでいたのだろうかと、朝が来るたびに考える。
私がタバコを咥えたからか、高梨が素早く助手席側の窓を開けた。風が吹き込んできて、冷たい空気が肌に刺さった。
「やっぱまだ未練あるんすね。そんなにグルメ誌はイヤっすか? それともイヤなのはこの町っすか?」
高梨は言って、まあ田舎っすからね、と付け加える。もちろんそれがこの町でずっと育ってきた高梨の本心ではないことは知っている。未だに東京の人間だと思われている私に対する彼なりの親しみのようなものだった。
「そんなことないよ。でもさ、このままでいいのかなって、世の中が歪んでるのに、私にできることってないのかなって思うんだよね」
「傲慢すね」
高梨はハンドルを握ったまま前を見ている。二重に引っかかっているマスクの紐が高梨の薄い耳を餃子のように潰している。
「一個人が世の中にできることなんてたかが知れてますよ」
「冷めてるなぁ、青年。抱く大志はないのかね」
「自分に過度な期待すると疲れるっすよ。人生はなるようにしかなんねえす」
「そう」
私は煙を吐き出す。白く濁った息は、すぐに風に連れ去られて見えなくなる。
†
「ったくさ、商売あがったりだよ。ほら、何だっけ、粉末感染? 食べながら話しちゃいけないとかさ。酒ってのは会話と一緒に楽しむもんだって、古代ギリシャから決まってんのによ」
そう言って、取材先であるバーのマスターは深い溜息を吐いて頭を抱えた。マスクの紐が頬についた贅肉に食い込んでいる。
「バイトの子たちには本当に申し訳ないよ。でも売り上げがなきゃ給料は払えねえんだ」
時間に厳しいことで知られるマスターは、私たちが二分遅れで店に着いたにも関わらず上の空で、インタビューが始まってからずっとこの調子だった。正直、オンナをオトスどうこうの以前の問題だった。
このマスターのように追い込まれてしまった人たちが、ハイターを飲むというようなデマに踊らされるのかもしれない。マスターの丸まった背中や目の下にくっきりと刻まれたくまから漂う哀愁と疲労感が、私にそう感じさせた。
「少しでもお店の力になれるように、私たちも記事を作りますから」
「頼むよ。期待はしちゃいないけどさ、こっちは藁にも縋る思いなんだ」
マスターは力なく笑った。
私はまだ営業前の、薄暗い店内を見回す。感染症が流行る前、取材でも、客としても、何度か訪れたことのある店内は薄っすらと埃が積もってしまったように色褪せて見えた。
どこかでランチを、と思ったけれど取材が終わった一五時半ではどの店のランチタイムも終わっていたので、私たちは仕方なくコンビニで各々ご飯を買い、路駐した車のなかで食べることにした。
サラダチキンに照り焼きチキンのサンドイッチ。全国のどこにいても変わらない味を提供してくれるコンビニ飯は、帰る場所を失くした私にとっては数少ない憩いだった。
「チョコチップメロンパンって、栄養足りなくて力出ないよ?」
「何言ってんすか。カロリーと値段で見ると、これがコスパ最強なんすよ」
素っ気なく言った高梨がチョコチップメロンパンをかじり、コーラをごくごくと呷る。炭酸で喉が痛まないのかなと不思議に思いながら、私はそれを眺める。
「じろじろ見んのやめてくださいよ。食べづらいっす」
「ごめんごめん」
私はサンドイッチを呑み込んで、鞄からスマホを取り出す。ロック画面を解除すると、取材前に調べていたウェブページがそのまま表示された。
〈ハイターを飲んで五〇〇人が死亡 ネット上で拡散される偽情報が原因か〉
どのウェブニュースもこの手の記事で持ち切りだった。そしてどの記事も、ハイターを飲むことに感染症予防の科学的根拠がないことと、それどころかハイターの主成分である次亜塩素酸ナトリウムは胃液と反応して体内に有毒な塩素ガスを発生させる危険性を記している。情報のソースを確認するように。大抵の記事は情報化社会の黎明期から言われ続けている、カビの生えた言葉で締めくくられていた。
記事としては真っ当だった。けれどそれは本質ではないような気がした。偽情報を偽情報であるかどうかと疑う余裕がないから、五〇〇人はハイターを飲んだのだ。正しい判断を呼び掛けるだけでは、何も考えていないのと一緒のように思えた。
一体誰がこんなことを。
とっくの昔に忘れたと思っていた正義感が膨らみ、頭をもたげるような感覚があった。
たぶん私は憤っていた。バズるために、あるいはイイネを稼ぐために、デマを流した軽率な自己顕示欲と悪意に対し、怒りを覚えている。
「許せないよね、やっぱり」
私は呟いて、奥歯が鳴るまで噛み締めた。
「え、俺なんかしました?」
チョコチップメロンパンを平らげた高梨が目を丸くして私を見ていた。マスク生活が続いているせいで油断したのか、高梨の口にはまだらな無精ひげが生えていた。
「なんも」
私は言って、カーテレビをつける。荒い映像を映す小さな長方形のなかで、髪を丁寧な七三分けにしたアナウンサーが神妙な表情で原稿を読み上げる。
「〈フレアウイルス〉の予防法としてハイターを飲むという偽情報が流されていた事件ですが、偽情報の出所が各社検索エンジンに搭載されている生成AI〈Chatter-Box 5.0〉によって生成されたものであることが、Yahee!グループの調査によって明らかになりました」
「は?」「え?」
私と高梨の声が重なる。
持っていたサラダチキンが手から滑り落ちた。私はそれをすぐには拾うことができなくて、鼓膜の数ミリ手前で意味を為さなくなっていくアナウンサーの声を、義憤と困惑の狭間で聞いていた。
†
昨日から暖房が不調なせいで、屋内だというのに編集部のデスクで吐く息はほんのりと白い。身体に流れる半分の血のせいか、寒いのはあまり得意ではない。
私は悴みつつある指を動かして、検索窓に「フレア 予防法」と打ち込んだ。検索結果の最上部に、生成AIによる検索結果の要約欄が表示されている。相も変わらず、ハイターを水で二〇倍に薄めて飲むとフレアウイルスの感染予防になるという文章が書いてある。
何度やっても表示される画面は同じだ。
それどころか、たった二日で状況はさらに悪化しているとすら言える。
ハイター事件の偽情報元が生成AI〈Chatter-Box〉であることが判明した当初も、「フレア 予防法」と検索すると、今と同じようにハイターを飲むことを推奨する文章が要約欄に表示された。しかし参照されている記事を見てみると、どこにもそのような情報は記されていなかった(辛うじてハイターのような次亜塩素酸ナトリウムがドアノブなどの除菌に効果的と書かれている記事はあった)。つまるところ、偽情報の原因は、生成AIによる記事の誤読だと解釈することができた。
けれど報道から二日が経った今、同じように検索してみると、要約欄から参照できる記事には要約欄と同様の内容――ハイターを飲むことによるフレアウイルス予防について記載されるようになっていた。
私は記事を掲載しているメディアへ連絡し、科学的根拠があいまいな誤情報を掲載するのはいかがなものかと申し立てた。けれど即座に確認対応をしてくれたメディア側には、該当する記事を書き直した履歴も、外部からの攻撃や不正なアクセスを受けた形跡も存在しなかった。
信じがたいことに、通常の編集画面を通ることなく記事が書き換えられていた。
「何が起きてるのよ……」
私は睡眠不足でうまく働かない頭と身体に気安めの栄養ドリンクを流し込む。
自分の仕事をそっちのけにしている私に、隣りでイヤホンを外した高梨が溜息を吐いた。
「AIが自分の要約を正当化するためにリライトしてんじゃないすか。ってか仕事してくださいよ。ぼちぼち組版しないと脱稿間に合わなくなるんすけど」
「やっぱりそう思う? というかそんなことってあり得るの?」
後半は聞かなかったことにして、私は高梨に訊いた。高梨は編集長のほうを横目に伺い、それから作業していたマウスから手を離してもう一度息を吐いた。
「生成AIがハルシネーションって嘘を作るのは、流行り出したときから問題視されたりしてたっすからね。精度が増したとかいっても、完璧なわけないでしょうし。間違えたときとか、嘘吐いたとき、それを隠そうって思うの、人間だったら割と普通っすよね」
「人間じゃなくて、AIの話なんだけど」
「知性っぽい振る舞いって意味じゃ、もうそこの区別なんてできなくないすか? 俺らだってそのへんに転がってる情報、てきとうに鵜呑みにしたり、解釈したりしてるだけっすからね」
高梨は大きなあくびをするとイヤホンをつけ直し、再び作業に戻っていった。
寝ぼけた顔で覇気のないこの後輩は、ときどき本質を突くようなことをあくびと同じくらいの軽率さで溢すことがある。素直に感心する一方で、そんな洞察力を持ちながらそれを発揮する気のない怠惰に苛立ちを覚えもした。
「なるほど。ハルシネーションね」
私は口のなかに残る栄養ドリンクの甘さを感じつつ、高梨の言葉を小声で繰り返す。
もしそんなことが起きているとしたら、とんでもないことだ。どの情報が事実で、どの情報が嘘なのか、すぐに判断がつかなくなってしまうだろう。
私は思わず行き着く可能性に想像を巡らせてしまった。背筋に悪寒を感じたのは、きっと暖房が壊れているせいではないはずだ。
†
肌が黒いという理由だけで被ることになる理不尽は、意外なほど世の中に溢れている。
そのことを最初に意識したのは小学三年生のとき。ナイジェリア人である父が仕事帰りの夜道で警官に声を掛けられ、そのまま不当に逮捕されかけたのがきっかけだった。
もちろん父が何か悪さをしたわけではなく、人手不足の自動車工場でたくさんの残業をして疲れた身体を引き摺りながら歩いていただけだった。日本人である母はちゃんとした説明を求めたけれど、警察署は夜道を歩く姿が怪しく見えてしまったと雑な弁解と形式的な謝罪をしただけで、要約すれば父は怪しいと判断されても仕方がない外見をしていることを言外に告げるだけのものだった。
父と同じように肌の黒い私にも、同じようなことが起きた。
運動会の徒競走で一位になったり、バスケの授業で立て続けにシュートを決めたりすれば、やっぱりすごいねと褒められた。その”やっぱり”は私個人ではなく、私の肌に向けられていた。
中学のとき、少ないお小遣いを握りしめて向かったデパートの文房具売り場でいきなり腕を掴まれて万引きを疑われた。高校のとき、職業体験で保育園に行くと子供たちは私を見るや怖いと言って泣き出した。同じ試験に合格して入ったはずの大学の入学式で、日本語上手だねと本気の顔で褒められた。
私の半分はみんなと同じはずなのに、違う半分だけが常にスポットライトを浴び続けた。
思えば私の人生は、自分の何がみんなとそんなに違うのかと考えることに、大半の時間を割いてきたようにすら思う。そして違わないことを証明するための私の努力はいつも、変えがたい肌の色によって簡単に打ち砕かれた。
だから私は新聞社に就職することを選んだ。揺るぎのない事実を世の中に伝え続ける場所に立つことで、みんなと違う自分の半分を救うことができるような気がした。
けれどそれすらも、気がしただけだった。
入社から一二年が経ってようやく念願の政治部へと配属された私は、たぶん傍から見れば新卒社員さながらに野心と情熱を抱いているように映っただろうし、実際にそうだった。
言ってしまえば、あのときの私は社会正義に燃えていた。噴き上がる炎と立ちのぼる煙で右も左も、進行方向であるはずの前すらも、よく見えなくなってしまうほどに。
在日クルド人のレイラ・タクマズが東京出入国在留管理局で死亡したことは、当時、深刻な人権侵害として大きく報道されていた。私もまた、ジャーナリストとしてその事件に関わる人間のうちの一人だった。
レイラはトルコ兵士に暴行を受け、難民として日本にやってきた。けれど二年半が経っても難民認定はおりず、レイラはその間、入管の収容所に囚われ続けた。やがてレイラは体を悪くしたけれど、入管が彼女に適切な治療を与えることはなかった。彼女は縋りついたこの国の土地を踏むことなく、苦しみのなかで息を引き取った。
この国にはどうしたって島国根性というものが滲みついている。多様性を説きながら、内心では異質なものを遠ざけている。
私は、強く憤っていた。
仮に正義が炎で表現されるというのなら、私は今燃え上がっているこの炎とともに燃え尽きても構わないと思っていた。レイラのために戦うことが、私の天命であるとさえ感じていた。
その証拠に、レイラの死は入管による重大な人権侵害を暴くきっかけとなった。具体的には、入管職員の収容者への対応の低俗さが監視カメラの映像によって暴かれることとなった。
ある男性職員は医者に連れて行ってくれと懇願するレイラに「兵士にしたみたいにオレのも咥えてくれたらな」と答えた。別の職員は〝躾〟と称し、レイラに対して日常的に暴力を振るっていた。数名の職員が、体調の悪さから食事のトレイをひっくり返してしまったレイラを笑い、もったいないからちゃんと食えと冷たい言葉を浴びせていた。尋常じゃない様子で腹痛を訴えて縋るレイラを、ある職員は乱暴に振り解いて突き飛ばした。
人の皮を被った悪魔だと思った。
悪魔を徹底的に糾弾することを誓った私がまず目を付けたのは、レイラが死ぬ二時間前に、腹部の激痛を訴える彼女を突き飛ばした八島という職員だった。
私は早朝から八島が家族と暮らすマンションの前に張り込み、姿を見せる八島を連日のように問い詰めた。
「八島さん、あなたがあのときレイラさんを医者に見せていれば、彼女は死ななかったかもしれませんよね?」
「レイラ・タクマズさんの死を、どう思ってるんですか?」
「外国人は見殺しにして、あなたは家族と団欒ですか? いい身分ですね!」
「謝罪もなしですか。八島さん、あなたそれでも人間ですか?」
八島はいつも逃げるように家に入っていき、あるいはタクシーに乗り込んでいった。私は八島を問い詰め続けた。新聞社にはクレームが行き、私は上司から注意を受けたが無視をした。日に日にやつれていく八島を見るたび、正義が執行されている満足感があった。
「八島美代子さんですよね。旦那さんの今回の行為について、お考えを聞かせてください」
私の糾弾は八島の家族にまで及んだ。
「あの、記者さん、もういい加減にしてください。夫は周りに逆らえなかっただけなんです。病死してしまった方には、その、本当に申し訳ないと思っていますから」
「いますから? から、何なんですか? 申し訳ないと思えば彼女が生き返るんですか? 周りに逆らえなかったら、外国人は虫けらみたいに殺してもいいんですか?」
「子供の前です。やめてください……」
八島美代子は小学校に上がったばかりの娘の手を引いていた。
「お子さんに、パパが人殺しなんだってバレたらマズいですもんね。分かりますよ」
「やめてくださいっ!」
美代子は声を荒げ、マンションへと入っていく。どうして被害者面ができるのだろうか。私はオートロックのエントランスに消えていく背中を睨みつけた。
最初は何人かいた同業者も、時間が経つにつれてだんだんと姿を見せなくなっていった。それでも私は諦めなかった。正義のために取材を続けた。
「八島さん、こんばんは。また痩せましたね。レイラさんもそうでしたよね」
その日は雨が降っていて、私は傘を打つ雨音に負けないように声を張った。八島は私の声に足を止めた。前に傾いた傘の向こうで、八島は何かを呟いていた。落ち窪んだ目には生気がなかった。疲弊しきっていることが伺えた。
「何ですか? 何か文句でもありますか?」
私は八島に詰め寄った。傘と傘が触れた。
「……まで、いつまで、こんなこと、続けるつもりなんですか……」
「レイラさんもそう思って二年半を過ごしたんでしょうね」
「……さい、ごめんなさい。もう、許してください……」
「随分と都合がいいんですね、八島さん。あなた、そうやって縋りついたレイラさんのこと、突き飛ばしましたよね? こんな風に」
私は自分の傘で八島の傘を弾き、伸ばした手で肩を押した。そんなに強い力で押したつもりはなかったけれど、地面が濡れていたのもあって八島は滑り、派手に尻もちをついた。
振り返ってみれば、私は酔っていたんだと思える。私は大義を掲げて悦に浸りながら、私を肌の色で区別し続けてきた社会に八つ当たりをしているだけだった。
「……て、どう、して、僕なんですか、他にも、みんなやってたじゃないですかっ」
「みんながやってたら何なんですか? 人を殺しても許されるんですか?」
「殺してないですよっ!」
雨を裂いて八島の声が響いた。怯えた八島の表情を、私は無感情に見下ろしていた。
「あなたは人殺しですよ」
八島が妻子とともに無理心中をしたのは、それから二日後のことだった。
†
家に籠らざるを得ないせいだろうか。最近、嫌な夢ばかりを見る。もう春だというのに、私は暁どころか夜半を覚えてばかりだ。
私は布団から起き上がり、シンクに向かう。乾いて張り付いた喉に、コップに汲んだ水を流し込む。閉め切ったはずの部屋に入り込んでいる夜に黒い肌は紛れてしまっていて、私はどうしようもなく曖昧で頼りない。
八島が心中を図ったことで、世間の非難は私へと的を変えた。当然私は新聞社を解雇され、生まれてからずっと住んでいた東京を離れざるを得なくなった。そしてそうなってやっと、私は自分がしたことが悪魔と断じた彼らと大して変わらなかったことに気がついた。けれどやはり彼らと同じで、気づいたところで取り返しはつかなかった。
私は引き出しから取り出した睡眠薬を嚥下する。もう一杯水を汲み、一気に飲み干す。布団に入って横になり、羊を数える代わりにスマホを眺める。
二か月前、〈フレアウイルス〉の感染者は増え続け、累計死者数は半年で三〇〇〇人を超えた。政府は緊急事態宣言を発令。さらに東京都による都市封鎖の実行を皮切りに、多くの都市や自治体がそれに倣い、人の移動と接触を徹底的に制限した。もちろん私の暮らすこの町も例外ではなかった。
編集部は無期限の休業となり、社命として自宅待機が言い渡された。私はこの二か月、その社命を律儀に守り続けている。けれどそれまで当然のように行われていた生産や流通すらも滞りはじめ、社会には混乱と不安だけが広がった。暗闇のなかで煌々と光るインターネットには相変わらず、真偽の不明な情報が溢れている。
たとえば、〈フレア〉流行に伴う原油価格の高騰により、トイレットペーパーが不足するとのデマが流れ、買い占め騒動に発展した。製紙に重油を使っていたのはいつの時代の話なのかと、溜息を吐く他になかったけれど、なければないで困るので、私も近所のスーパーへ走り、トイレットペーパーや食料品を買い込んだ。
あるいは〈フレア〉の感染経路が電波であるという情報が拡散され、大阪の一部の地域では町中のアンテナを折る連中が現れた。もちろんそんなSFじみた噂の根拠は存在せず、〈フレアウイルス〉はれっきとした生物学的存在だった。
ハイターの次は牛や羊の糞尿が予防に最適であるという情報すら出回っていた。注意深くニュースや政府の発表を見ると、日によって過去の感染者数が百人単位で変動していることもあった。〈フレア〉関連の情報だけでも真偽不明なものの数は枚挙にいとまがなく、それ以外のものも合わせればもはや全貌を把握することは不可能だった。もちろんそれらの爆発的な増え方から考えて、十中八九〈Chatter-Box〉の仕業と思われたけれど、事実を確かめるだけの余裕はもはや私たちの社会になくなっていた。
存在しない人間の殺人事件が起こり、本当に身に覚えのない汚職が暴かれた。
何が真実なのか分からなくなりつつあった。あるいは真実ではないと分かっていても、嘘に基づいて行動しなければならない状況が生まれていた。
もちろんこれは全世界的な問題で、すでに開発元であるアメリカのBS社は〈Chatter-Box〉の機能停止を試みていた。しかし機能停止に必要な一〇八桁のコードすらも〈Chatter-Box〉自身によって既に書き換えられ、誰にも分からなくなっているらしい(らしい、というのはBS社が正式に発表したわけではなく、これもまた真偽不明な情報の一つでしかないためだ)。
「一個人が世の中にできることなんてたかが知れてますよ」
いつだったか高梨が言っていた言葉を思い出していた。言う通りだ。少なくとも私には、できることが何もない。あるいは、世の中に向けて正しさを叫ぶ資格すら持っていない。
いつの間にかスマホの光が滲み始めていた。
微睡んでいるのか、泣いているのか、自分でもよく分からなかった。たしかなのは目の前の現実が見えなくなっていくということだけだった。
目を覚ましたのは、インターホンが鳴ったからだった。
睡眠薬を飲みすぎたせいか頭が判然とせず重かった。最初は居留守を決め込もうとしたけれど、インターホンが繰り返し何度も鳴るので私は仕方なく起き上がることにした。
小さな青白いモニターには、マスクをつけた高梨が映っていた。どうして高梨が私の家を知っているのかと驚いた。けれど前に一度、酔いつぶれた私を高梨が家まで送り届けてくれたらしいことをすぐに思い出した。
「……久しぶり。どうしたの?」
声を出したのが随分久しぶりだった。自分の声が自分のものではないような気がした。
「お願いがあって。開けてほしいんすけど」
「うん。あ、いいんだけど、めちゃくちゃ寝起きだから、ちょっと待てる?」
「あー、そっすよね。分かりました。待ってます」
「とりあえず開けるから、玄関の前で待ってて」
私はインターホンを解錠し、洗面所へ向かった。寝起きの縮れた髪の毛は、一体どんな実験に失敗したのかと悲しくなるほどに爆発している。目は腫れぼったく、充血している。
顔を洗い、整えた髪を結んだ。化粧をしなかったのは、そこまで準備万端で後輩を出迎える女の先輩ってどうなのよと思ったからで、こんな状況でそんなことを気にする自分が馬鹿馬鹿しくも思えたし、少しだけ頼もしくも思えた。
ジーンズとパーカーに着替えた私は、腫れぼったい目を隠すように伊達メガネをかけ、玄関の扉を開けた。扉に背を向けて廊下の柵にもたれかかっていた高梨は、私に気づくや振り返り小さく会釈をした。
こうして対面で会うのは休業になって以来で、だいたい二カ月ぶりだった。インターホン越しでは気付かなかったけれど、マスクをしていてもやつれているのがよく分かった。
「先輩、抱え込んでんすよね?」
二重のマスクの奥から聞こえるくぐもった言葉の意味を、私は理解できなかった。
「抱え込んでる? 何を?」
「飯とか、色々っす」
「どういうこと?」
「とぼけないでくださいよ。ほら、ここにも書いてあるんすから」
高梨は私にスマホを向けた。スマホにはYahee!ニュースが表示されている。
「先輩、移民すよね。ここに書いてあるんすよ。移民が独自のルートで物資を独占してるって。おかしいっすよね、ここ日本なのに、なんで日本人の俺らが割り食わなきゃいけねえんすか」
私が息を呑んだのはもちろん高梨の言葉に驚いたというのもあるけれど、何より私を真っ直ぐ見る彼の目がいつも通りの理知を宿していたからだった。
「私、移民じゃない。ちゃんと日本人だよ?」
そう答えるのがやっとだった。ちゃんと日本人。自分の舌の上を滑って吐き出された言葉の意味が、自分でもよく分からなかった。
数瞬のあいだ、沈黙が流れた。やがて私から視線を逸らした高梨は、二か月のあいだに随分と伸びた髪を掻いた。そうっすよね、と繰り返した。
「そうっすよね。日本人すよね。なに言ってんだろ、俺。すいません。疲れてんのかな。ほんとすいません。できれば忘れてください」
高梨はそう言ってからだの向きを変えた。足を引き摺りながら遠ざかっていく背中に、私は何も声を掛けることができなかった。
†
一人で家にいると、気が滅入ってしまいそうだった。
高梨の様子が明らかにおかしかったこともやっぱり気になったし、移民が食料品や生活必需品などを独占しているという根も葉もないニュースも気がかりだった。
気を紛らわすために何か料理をしようと思ったけれど、塩も醤油も切れていた。何かをしていないと不安だった。私はマスクをつけて近所のスーパーへ向かうことにした。
高梨はよく田舎だと卑下していたけれど、夜の繁華街は程よく賑わうし、一つ隣りの駅には大きなイオンもあるし、住宅街にも東京の下町と変わらないくらいの数の人が住んでいる。とはいえ東京のように人が雑多に入り乱れるようなこともないから、ちょうどよく過ごしやすい町だった。
けれど久しぶりに見た町の風景は、人だけが綺麗に取り除かれてしまっていて、ゴーストタウンという言葉がこれ以上なくしっくりくる有様だった。
歩いても誰とすれ違うこともなく、辿り着いたスーパーにもほとんど客はいなかった。四つあるレジは一つしか稼働していなくて、ぽつんと立っていた中年の男性店員が妙にはっきりといらっしゃいませと言うのが聞こえた。陳列棚は隙間だらけだった。生鮮食品のコーナーはネットが掛けられて閉まっていた。終末、という言葉が冗談抜きで頭をよぎった。
幸い、塩と醤油は売っていたので私はそれらを籠へと入れた。せっかく来たついでと思い、余りもののように残っていた長ネギと四分の一カットのキャベツを買った。中年の男性店員はレジを打ちながらちらちらと私を見ていた。私は気づかないふりをしてスーパーを後にした。
「おい」
声を掛けられたのはスーパーを出た瞬間だった。背後から届いた突き刺さるような声音は、中学生のとき、デパートの文房具売り場で万引きを疑われたときとそっくりだった。
私は振り返る。どこから出てきたのか、スウェット姿の男がシャベルを握って立っていた。
「お前、何を買ったんだ」
「何って……」
答えかけて、やめた。男の目が座っていて、私はにわかに恐怖を抱いた。
すぐにからだの向きを戻し、その場を離れようとした。けれど振り返った私の前には別の男が立っていた。私は一歩後退った。まるでゾンビ映画のように、私の周りに人が集まってきた。男も女もいた。老人も若い人もいた。私は囲まれていた。
「移民か?」
「どう見たって移民だろう。肌が黒い」
「逃がすなよ」
「取り返すぞ」
「これ以上奪われてたまるかよ」
「待って。私、移民じゃありません。ナイジェリアと日本のハーフの、日本人です」
私は彼らに呼び掛けた。彼らはお互いに顔を見合わせた。
「ハーフだってよ」
「いや、でもよ。今ちょっと発音おかしかっただろ」
「じゃあ移民か?」
「移民だろ。移民に違いねえ」
「移民は物資を独占してんだろ? 買い物してたのが証拠じゃねえか?」
「そうだ! そうだよ!」
「俺たちの国だ」
「返してよ」
「返せ!」
「この国から出てけ!」
声は重なり、押し寄せる波になった。私は瞬く間にその波に呑まれていった。
「違います! 私は移民じゃありません!」
懸命に声を上げた。人垣から伸びた腕が私の肩を突いた。私はよろめき、人垣に背中を受け止められる。その背中は、鋭くて固いものに穿たれる。
私は地面に倒れ伏した。買い物袋から醤油のボトルが転がる。長ネギは誰かのブーツで踏みつけにされる。背中が熱かった。反射的に振り返ると、スコップを握り締めた男が荒い呼吸で肩を上下させながら私を見下ろしている。
「……返せっ!」
私は移民じゃない。物資を独占なんてしていない。
私は何度も訴えた。けれど水の牢に閉じ込められてしまったみたいに、私の声は彼らの耳には届かなかった。
もう一度振り下ろされたスコップが、今度は私の頭を打った。頭の奥で火花が散った。見えていた世界が歪んで一回転し、私はいつの間にか地面に頬を擦りつけていた。
出ていけ。返せ。鋭い罵声が雨のように絶え間なく降り注いでいる。けれど私には出ていく先も、返せるものも何もなかった。私のみんなと同じ半分は、みんなと違う半分によってまた塗り潰されようとしていた。
アスファルトが赤く濡れていくにつれて霞んでいく意識のなかで、私は八島の娘のことを思い出していた。
母の美代子に手を引かれていく娘が、エントランスに入る間際で私を振り返る。母娘を睨んでいる私と目が合った気がする。
何度も夢に見た記憶だった。
けれど私は一度だって、そのときの娘の表情を思い出すことができなかった。
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