梗 概
えれ魂ちゃん
2068年、東京。鶯谷駅が山手線から外れ、廃駅となる。盛大なセレモニーが行われた廃駅当日の夜、突然の雷雨が明け方まで続く。翌朝、向かいのラブホで熟年カップルが窓のカーテンを開けたら鶯谷駅が消失していた。
宝暦12年(1762年)。江戸・湯島で鉱物の物産展を開催し終えた平賀源内は、鶯谷の恋人・お苗のもとにいた。夜通し続いた雷雨が明けた朝、顔を洗いに長家を出た源内は、桶の水に映る長い髪を逆立てた自分に「俺で遊ぶんじゃねえ」と独りごちる。部屋で煙管を持つと軽く電気が走り「いい加減にしろ」と怒鳴りつける。それを見たお苗は「またえれ魂ちゃんに遊ばれてんのかい?」と笑い、庭の小さな塚に野花を添え手を合わせる。
前年入手した「えれきてる」を独自研究していた源内は「えれきてる魂魄」(静電気の思念体)の飼育・繁殖に成功していた。そして今日、いつもより元気なえれ魂たちを見て、えれ魂が雷を喰って強い力を得ることを知った。
外が騒がしい。村人たちが見上げる崖の上に巨大構造物が鎮座している。看板に「鶯谷駅」の文字。調査を始めた源内は、駅員室の遺失物箱からSuicaを取り出し改札機に当ててみる。カシャっと音がなる。トイレでボタンを押すと音姫の愉快な音楽。駅員室でボタンを押すとホームスピーカーからメロディが鳴る。
〈こいつは面白え。いっちょ遊んでやっか〉
源内は数日かけてえれ魂を鶯谷駅の各所に注入。様々な仕掛けを施す。
大安吉日。30人ほどの村人が源内の合図のもと一斉にSuicaを改札に通して走り抜ける。すると鶯谷駅が「く〜ん」と鳴く。ある者がホームの柱を撫でると「はあはあ」と気持ちよさそう。ある者がホームの黄色い線の丸い突起を箒でくすぐると駅全体がお尻を上げるように傾く。ある者が駅看板に水をぶっかけると「シャー!」と威嚇の声を上げる。鶯谷駅のペット化に成功した源内はしたり顔。
鶯谷駅の噂が広まり、大勢の人たちがお伊勢参りそっちのけで遊びにくる。壁をくすぐる人、天井によじ登り忘れ物のビニール傘で踊る人、あらゆる人たちに鶯谷駅はじゃれる。源内は入場料金をとってホクホク。
ある日Suicaを持った人たちが100人連続で改札を通り抜けたら、鶯谷駅がバク宙した。死者、怪我人が出て非難轟々。源内は一旦入場を停止する。
だがえれ魂をもっと注入して鶯谷駅を空に飛ばすことを密かに画策。そんな源内にお苗が「私を空に飛ばしてほしい」と相談を持ちかける。30年前、3歳で亡くなった弟が極楽浄土で元気に暮らしているか見に行きたいという。二人は口論となるが、源内はしぶしぶ承諾する。
今まで以上に頑張って鶯谷駅を改造する源内は、お苗を好きだったことに改めて気づく。そして鶯谷駅の駅舎屋根のてっぺんに独自開発した受雷針をつけ、雷を充填。改造完了。
時は来た。月夜のホームでお苗が火打石を打つ。するとスピーカーから「本日もJR東日本をご利用いただきありがとうございます」とおじさんの声。「おかしな子だねえ」と笑うお苗。床下のえれ魂が地面に超反発。ホーム屋根が左右に開き、羽ばたきを始め、鶯谷駅が空に浮かぶ。
見送る源内もわずかに浮いている。足元のえれ魂に怒鳴りつけると、足をすくわれて転ぶ。鶯谷駅が雲間に消えていくのを仰向けで眺める源内、ちょっと涙目。
文字数:1363
内容に関するアピール
えれ魂はガサツな源内にはちょいちょいイタズラをするのですが、優しいお苗には懐いています。源内とお苗、それぞれに違う表情を見せるえれ魂を描ければなと思います。鶯谷駅もお苗のためなら頑張っちゃう、という感じです。
源内は長崎人のくせしてカッコつけて江戸弁を話すのですが、それをおなえに馬鹿にされています。
ちなみに僕はこの講座でこれまで井伊直弼、小林一茶、フェルメールと書いてきて、はっきりとわかったことがあります。「歴史SFが面白い!」なので僕は歴史SF、特に歴史上の人物を使ったSFを専門に書く小説家になることをここに宣言します。よろしくお願いします!
文字数:274
あまりにもえれきてる
こめかみを伝う汗が顎の先からしたたり落ち、平賀源内はつるはしを振るう手をとめた。首にかけた手拭いで汗をぬぐい、手のひらを開くと指の付け根のまめが潰れていた。
「まだまだ甘い」
源内は鼻でわらい、薄茶けた小高い崖を見上げる。
「まめは潰れるくらいで一人前よ」
崖の所々にきらりと光る桃色の鉱石に源内は目を細めた。その煌めきを壊さぬよう、つるはしを構え周囲を打ち砕く。最後に鑿で取り出すと、ふいに冷たい風が蓬髪の襟足を撫でた。見上げると西の空がどす黒く濁っている。源内は口惜しそうに舌打ちして、背負い籠につるはしや鑿、採集した三つばかりの鉱石を入れ、急ぎ足で長屋へと帰っていった。
崖の麓、鶯谷にその小さな村はあった。おんぼろ長屋のひとつに身を寄せていた源内は、小雨が屋根をポツポツと打つ音を聞いていた。
「あとはえれきてるに魂を吹き込むだけだ」
小さく砕いた桃色の鉱石を石臼で挽きながら、お苗に話しかける。
「この前の物産展でせっかく稼いだってのに、そんなことばかりしてちゃあ、またその日暮らしに戻っちまうねえ」
お苗は内職の縫い物をする手を動かしながら、あきれたように笑った。
「伊豆の山から採れた石がたくさん売れたからなあ。まだ働かなくても一ヶ月はなんとかなるだろう」
源内はお苗の杞憂を物ともせず、石臼を回す手に力を込める。
この長屋に源内が転がり込んで、もう半年が経とうとしていた。
二日前まで湯島の商家で全国から集めた鉱石の物産展を開いていた。今、江戸では珍しい色をした鉱石が愛玩品として人気を博しており、商魂たくましい源内はめざとくその需要をかぎ分け、誰よりも早く商売にした。その拠点としてこの家はちょうどよかった。鶯谷と湯島は不忍池の森を挟んで北と南に位置している。不忍池の森を抜け、そのどんつきにある崖を降りたところに鶯谷の村があるのだ。湯島へ商談に行くにはうってつけだ。
それにもうひとつ理由がある。半年前、不忍池をぶらぶら歩き、鶯谷までやってくると、その岸壁に桃色の鉱石を見つけたのである。源内は静かに興奮した。この村に滞在しようと心に決めたが、村は貧しく宿など一軒もない。しょうがなしにと、もたれあうように並び立つ長屋のひとつに声をかけ、出てきた女にいくばくかの金で泊めてくれるようにせがんだ。驚いた風ではあったが嫌そうな顔はせず、むしろ面白がって話を聞いてくれた。それがお苗だった。最初の一日二日は、世話になる身とおとなしくしていたが、三日目にもなると気風のよいお苗と妙に気が合った。恋仲になるにはそう時間はかからなかった。言わなくてもわかる。それが心地よかった。
「あんた、この家を金ピカの豪邸に建て替えてやるって言ってたの、いったいいつになるんだい?」
そんな小言も源内には十年も連れ添った女房のようにしっくりくる。
「もうすぐだよ」
源内は、「この石は時代を変えるぜ」と切れ長の目に遊び心をうかばせた。「えれきてるを犬や猫のように飼う。そんな時代が来るんだ」
背後を振り返るその目線の先に大きな白い木箱が置いてある。赤色で縁取られ、花や蔓草の模様が描かれた木箱。その壁面には把手がついていて上面から銅線が二本伸びている。
「去年、長崎でこの電気発生装置を見て俺は驚いた。把手を回すと二本の銅線の間に青い稲妻が走る。原理は簡単だが、今まで誰も考えたことがなかった。箱の中には内と外を鉛で塗られたガラス瓶がある。その内側を金属の棒で摩擦することで電気が溜まるんだ。つまりガラス瓶が蓄電装置で、そこから伸びた銅線が放電装置となっている」
「難しい話は明後日してくんないかい?」
お苗のつっけんどんな物言いにたじろぐことなく源内は、
「俺は直感したんだ。電気は飼える」とほくそ笑んでから一度唾を飲み込むと、「その電気動物をさ、江戸中の人間に売りさばいたらどうなる。俺たちは億万長者だ」
源内は目を閉じて想像する。この電気をなんらかの方法で制御し、自律的に動けるように調教したら…… そう思うだけで胸が躍る。
源内の探究心はえれきてるの進化に焦点が絞られていた。そこで大切なのが鉱石だった。源内の考えでは、鉱石はえれきてるの血肉となる。だが全国から集めたどの鉱石を試してもダメだった。だけど先日、この桃色の鉱石の欠片をえれきてるの稲妻に投げると、踊った。箱を開け、ガラス管の中に投げ入れると、小さな桃色の霧の塊ができた。しかし鉱石が少量すぎてその効果はすぐにかき消えた。
〈この鉱石を大量に集めることができたら〉
そんな源内の追想を破るように、天井に激しい雨が打ちつける音がし始めた。なんとか小降りでこらえていた空が決壊したようだ。外でびちゃびちゃと雨が土に跳ねる音がする。
「やだ、雨漏り」
お苗が天井を見上げ、慌てて立ち上がる。
「まかせろ」
源内は臼を挽く手を止め、天井から雨がしたたり落ちる所に茶碗と湯呑みを置いた。
こんこんたんたんと雨漏りの音に囲まれながら、源内は再び臼を挽き始めた。
誰かを幸せにしたい。そう思ったのは初めてだった。今まで自分のためだけに生きてきた。生まれてこのかた奇天烈なことを思いついたり、のめり込んだりしては、それなりに日の目を浴びてきた。蘭学で名を上げた。人形浄瑠璃の作品もいくつも作ったし、本草学の図鑑も描いた。讃岐国では焼物を工芸品にまで仕立て上げ、鉱山開発をしているうちに地質学にも精通した。鰻屋にせがまれて作った「土用丑の日」という宣伝文句も大当たりした。気まぐれついでに竹トンボを作ってみたら、あれよあれよいう間に人気の遊び道具になった。だけど全て、最初は楽しかったが、成し終えたあとは空っぽだった。何にでも興味を持つが飽き性で、ちょっと成果が出たら次の何かに気もそぞろ。そんな自分が虚しく、自分で自分を動かし続けることに空疎な痛みを感じていた。そこにスッと入り込んできたのがお苗だった。
出会って半年だが、年月など関係ない。自分の空虚を埋めるためではなく、この女を幸せにするために、俺は自分の手に余るこの能力を使うんだ。源内はそう心に決めていた。
その時、世界が爆破するかのような雷鳴が轟いた。お苗がビクッと身を震わせ、
「やだよ、源さん。近くじゃないか」と気弱な声を漏らした。
少し間をあけてもう一度雷が落ちたかと思うと、そこから狂ったように雷が鳴り続けた。
「こりゃあ雷神さんがお怒りだ」
「こんなに鳴ってちゃあ、耳がバカになっちまうよ」
「こんな夜は二人で布団にくるまっちまうにかぎるぜ?」
源内は気障な笑みを唇の端に浮かべた。
*
翌朝玄関を開けると、寄り合い長屋の狭い路地は一面泥のぬかるみだった。
「こりゃ草履なんて履いてらんねえなあ」
源内は裸足で井戸へ行き、水を汲み上げ顔を洗った。そこに長屋の連中もやってきて、昨夜の雷雨の凄まじさを感嘆まじりに話し合った。
「雷のやつ、夜が白みはじめるまで続いてたな」
源内が目をひん剥くと、
「そうだよ、まったく。一睡もできなかったんだから」と小太りの男がたっぷりとした頬を揺らす。何年か前まで力士をしていたらしいが、兄弟子に喧嘩をふっかけて破門になった舛五郎だ。
「なにいってんだい。繊細なふりしちゃってさ。あんた、私が起こすまでグースカいびきかいてたじゃないのさ」
隣で将棋の駒のような顔をした眉毛のほとんどない女が舛五郎の肩を叩く。舛五郎の妻おみつだ。
「え、覚えてねえぜ? 俺寝てたかい?」
「まったく図々しくできてるよ、相撲取りの体ってのは」
おみつが大声で笑い立て舛五郎の腕を叩いた。
その時、小袖の裾をまくったお苗が泥を跳ね返しながら小走りでやってきた。
「源さん! あ、あれ! 見ておくれ!」
目を丸くしたお苗が振り返り、崖のほうを指差した。「村中、大騒ぎだよ!」
「なんだあれ?」
そこいたみんなが一斉に目を凝らした。
南の崖の一角を覆い隠すように煙を上げて鎮座する不可思議な構造物に、源内は息をのんだ。
「どいてくれ」
人だかりを掻き分け、その構造物の前に進み出た。見上げると『鶯谷駅』と看板が掲げられている。それに菱形の金属の屋根、「きっぷ」「きっぷ・定期」と書かれた見たこともない二つの装置、「JR線近距離きっぷ運賃表」と題された江戸近郊の地名で埋め尽くされた地図。何もかもがちんぷんかんぷんだ。
「雷神様が雲の上から落っことしたのかねえ」
惚れ惚れするようにおみつが言った。
「ここに見取り図があるよ」
舛五郎が屋根の下の壁に黄色い図面を見つけると、どうやら源内たちは北口改札という場所に集まっていることがわかった。
「ここが北口改札で、あっちの崖の上のやつが南口改札か」
舛五郎が指差した斜め前方の崖の上に赤茶けた三角屋根の建物がある。
「間違いねえ」と源内は目をすぼめ、「この見取り図によると……」と目の前の構造物と見取り図を見比べながら説明を始めた。今、源内たちがいる崖の下の草むらには北口改札と「ホーム」と書かれた灰色の長い床が二枚ある。それらを繋ぐように通路と階段、それになんのことか分からない「エスカレーター」「エレベーター」がある。そして南口改札はやはり崖の上に繋がっているようだ。
「とりあえず入ってみるか。外から眺めてるだけじゃわからねえ」
源内は固唾をのむ村人たちの顔をぐるりと見渡し、
「来たいヤツはついてこい。その代わり命の保証はしねえ。鶯谷駅はまだ煙を吹いているからな。何があるか分からねえ」と言い放ち、改札の中へと入って行った。ついてきたのはお苗、舛五郎、おみつと数人の村人、それに小さな子どもがひとり。
「なんだろうねえ、この落書きは」
改札を入ったところでお苗が壁の異様さに声を上げた。他の者もみな一様に、目に驚きの色を浮かべている。それもそのはず、通路の壁という壁にぎっしりと言葉が書き込まれているのだ。お苗はその一つひとつに顔を近づけて読み上げた。
『さよなら、今まで長い間ありがとう。貴洋 欽礼12年9月15日』
『たくさんお世話になりました! 2073年9月15日 俊太』
『ここで生まれて、育って、家庭も作りました。祖父も、父も、僕も、息子も、鶯谷駅が大好きです。今までありがとうございました。 2073年9月15日 九橋裕樹』
他にも、『ありがとう』『さようなら』『お世話になりました』という言葉がところ狭しと埋め尽くしていて、そのほとんどに2073年9月15日か欽礼12年9月15日のいずれかが付記されている。ただお苗はアラビア数字が読めない。源内に尋ねて、オランダ人が使う数字だと教えてもらった。
「欽礼っていつだかわかんないけど、この駅は時を超えてやってきたってことかい」
お苗が口をあんぐり開けていると、慌てふためいたおみつの声が舛五郎を呼んだ。
「あんた! ちょっとこっち来てよ!」
「なんだよ」
「この化粧室ってとこ、すごい臭いのさ! 気持ち悪くってこんなところで化粧なんてできないよ!」
「うわ、男用なんて、そっちの比じゃないよ。臭いにもほどがある。でも男用の化粧室があるってことは、ここはもしかしたら歌舞伎役者が使うところなのかもしれねえよ?」
「ひどい暮らしだね、歌舞伎やってる連中も。あたしゃ不憫だよ」
それから源内たちは数刻かけて徹底的に鶯谷駅を探索した。二つあるホーム、エスカレーター、エレベーターをはじめ駅の中をくまなく見てまわったが、源内は訳が分からなすぎて歯噛みした。
一行は南口改札まで辿り着いた。
「あっちの改札にもこれあったな」
源内が銀色の扉の前で立ち止まった。扉上部に「駅員室」と札がかかっている。源内はここが鶯谷駅解明の鍵となると直感した。だが把手を回してみても鍵がかかっていて開かない。把手の下に数字とアルファベットが付された十数個の釦がある。
「ははん、そういうことか」
ピンときた源内は、「おい、藁松を連れてこい。あいつは足を洗ったとはいえ元はコソ泥だ。この暗号も破れるに違いねえ」ニタっと笑うと、村の者が「承知した!」と猪のごとく改札を駆け抜け、藁松を呼びに走った。
しばらくすると、藁のように細い手足をした背の高い男がやってきた。本名は実松というが、いつも眠そうな顔をしていることから眠りの藁松と呼ばれている。
「こいつはまたきれいな扉だね」と余裕しゃくしゃくの笑みを浮かべ、「お安いご用だよ。おいらは鶯谷きっての天才だぜ?」
扉の前にひざまずき、把手の下に整列した釦を順番ずつに押し始めた。
「ほほう、そういうことか」
藁松は合点がいったように頷き、釦を何度か押しては把手を回し、把手を回しては釦を押してを繰り返した。
「むむむ、きみは気難しいねえ」
藁松は扉に耳をつけ、釦を四つ五つ押しては把手を回す。
それから反刻が経った。源内たちは歯軋りしながら待ってはみたが、一向に扉は開く気配はない。
「どけ、藁松」
耐えきれず、藁松の肩を掴んだのは上半身をはだけた舛五郎だった。
「これを開けちまえばいいんだろ? 鍵なんて開けなくても扉は破れるよ」
舛五郎は両手に唾をペッと吐き、左肩を威勢よく叩いた。
「見てろよ。これが元力士の実力だ」
十歩ほど後退りして、「よおし!」と気合を入れると全力で駆け、銀色の扉に体当たりした。
「痛えええ!」
舛五郎は扉の前で肩を押さえて転げ回った。どうやら肩が脱臼したようだ。
おみつは怒るどころか恥ずかしくなって、
「うちの亭主がすみません」と肩身が狭そうにみんなに会釈した。
そうして、そこに居合わせた者たちが一斉にため息を吐いたその時だった。
「お寺の鐘をつくあの木の棒で、みんなで打てば?」
幾分鼻のつまった幼い声の主にみんなが振り向いた。そこにいたのは目やにと洟水をカピカピに乾燥させた小さな子どもだった。
「でかした坊主!」
源内はなんでそんなことを思いつかなかったのかと悔いながらも、名案を編み出した子どもを褒めた。
「おい誰かこの坊主にみたらし奢ってやってくんな!」
源内は満面の笑みでその場にいる者の顔を眺めまわした。だがその言葉はぎこちなく宙に浮く。
「誰?」
「誰が奢んの?」
「お前だろ?」
「俺ヤダよ。あんたでいいじゃねえか」
「うちだって文なしさ。やめとくれよ!」
みんな口々に奢り役を隣へ隣へとまわしていく。
「ああ! てめえら本当にケチくせえ連中だよ。鶯谷ってんだから雅に鳴きやがれ! おい、お苗、この子にみたらし一本買ってやっておくれ。ご褒美だ」
「あんたはいい格好ばかりして、しょうがない男だね」
そう言いながらもお苗はそんな源内が嫌いではない。
「この駅があるおかげで崖の下にすぐ行けるねえ」と機嫌の良い声で崖の下の団子屋に向かった。
半刻もたたぬ間に撞木がもたらされ、二十度目の突撃で扉は壊された。源内は興奮しきりの村人たちを制止し、まずはひとりで中へ入っていった。室内には机、椅子、遺失物入れ、そして一見したところ何か分からないような帳面型の機械や壁に据え付けられた大型装置がある。この部屋を調べるには時間がかかりそうだ。
「ここにあるもん盗むんじゃねえぞ、あとでじっくり調べる」
駅員室の外に出た源内は、空が赤みがかっていることに初めて気づいた。
「もう日暮れじゃねえか」
「やだよ、ご飯の準備しなくちゃ」
おみつが我にかえるように目をしばたかせた。
「おい、みんな、鶯谷に客人なんて来るこたあねえけどよ、こいつは今のところ内密に頼むよ。噂はすぐに広がるからね。この部屋は今夜一晩かけて俺が徹底的に調べる。幕府に知られたらすぐに接収されちまうからな」
源内の言葉とともに、一人また一人と帰っていく中、ひとり通路を逆行してくる者がいた。お苗だ。
「ほら、買ってきたよ」
最後まで源内のそばで待っていた子どもが目やにいっぱいの目をこすりながら嬉しそうに笑った。
*
深夜、南口改札の駅員室に、ろうそくの炎にじりじりと照らされる源内の鬼の形相があった。
〈こいつがどこから飛んできて、どうやって辿り着いたかなんて、もうどうでもいい。こいつの存在が面白え〉
一刻前にこの部屋にやって来て、なんのきなしに手を伸ばした書籍の、一ページ目を開いた途端、法悦ともいえる喜びを感じたのであった。そこには源内の知らないこと、知りたいことしか書かれていなかった。源内は我を忘れるように次から次へと読書に耽った。『高圧電源大全』『IoTと駅』『二種電気工事士になるための全て』『駅員マニュアル』。他にも書棚に置かれていた十数冊の電気関連の書籍を読破し、源内は蓄電装置、変電装置、送電線、高圧電源、通信機器など、電気そのものの幅広い知識、鶯谷駅を動かすための方法を水を飲むように吸収した。中でも鳥肌が立つほど震えたのは半導体と呼ばれる装置の存在だった。
〈えれきてるを逆半導体にすればいいんだ〉
源内は閃いた。
金属などの導体とゴムなどの絶縁体を巧妙に混ぜ合わせることで伝導性を変化させる半導体は、それを組み込んだものを制御できるという。ならば、導体や絶縁体を基盤にするのではなく、電気の塊そのものに、基盤となる導体や絶縁体を血や内臓のように取り込めばばいい。まるでえれきてるをその身体とするように——
源内は最後の書籍を閉じた。そして長家へ帰ろうと痺れる頭を抱えて駅員室を出た。しばらく通路を歩いて階段をおりた。ところがどこにも出口はない。提灯を鉄柱の一つに寄せてみたら、「1番線 京浜東北線 田端・赤羽・大宮方面」と書かれている。
「ホームに降りてきちまったか」と疲れた目をこすった瞬間、源内は強烈なめまいがした。
本当なら夜の闇に染まりきっているはずの崖壁が、まるで夜空の星を散りばめたように銀色と桃色を混ぜたような色でまたたいているのだ。
〈雷をしこたま浴びてこいつらもどうにかなっちまったか。それとも俺の頭がおかしくなったか〉
源内はホームから降りて崖に近寄り、足元に落ちている銀桃色の欠片を取り上げた。
長屋に戻り、寝息を立てるお苗をよそに銀桃色の欠片を金槌で砕き、石臼で挽いた。えれきてるの前に座ると、把手を回し、電気を溜めた。銅線から小さく力強い稲妻が走る。そこに先ほど作った銀桃色の粉を大量に振りかけた。すると稲妻が弾けるように鮮烈に輝きを発した。まるで心臓のように鼓動を打っている。銀桃色の稲妻は二本の銅線の間から飛び出て、まるで納豆の藁のような形で宙に浮いた。
〈マジかよ!〉
源内は驚嘆が口から出そうになるのを堪えた。
「やっとできたな、お前を待ってたんだ」
小さな声で囁きかけたら、稲妻は源内に抱きつくように飛びついた。
瞬間、源内は感電した。
頭のてっぺんから足の先まで痙攣がやまない源内は、
「馬鹿野郎、殺す気か!」
大声を張り上げると、床についていたお苗が振り返り、
「あんた、また何かしでかしたね」
とろんとした目で源内に微笑んだ。
雷納豆と名付けられたその小さな稲妻は、蝋燭の炎より格段に明るく部屋を照らしている。源内の説教により、中空に静止することを覚えたのだ。その明かりの下で源内は稲妻には二度と粉をふりかけまいと誓い、えれきてる装置内部のガラス管に鉱石の粉を投入し、小さな銀桃色の雲を生産し続けた。
二刻もすると、外で雀が鳴き始めた。
源内はお苗を隣に座らせ、目の下に黒々とくまを刻んだ顔で自慢げに言った。
「こいつらは魂を持ったえれきてるだから、えれきてる魂魄。通称えれこんだ」
部屋に二十個ばかり浮かんでいるえれこんは小さく膨らんだり縮んだり、まるで呼吸しているようだ。目などないのに、興味津々の無邪気な目でこっちを見ているようにお苗には思えた。
「えれこんちゃん? かわいいじゃない」
お苗が犬や猫を見るような優しい目つきでえれこんに指を伸ばそうとした。
「やめとけ! 感電するぞ」
源内は感電の恐ろしさをこんこんとお苗に説いてから、
「これからもっと強いこいつらを作って調教する」と宣言した。
一睡もしていないが目も頭も冴えに冴えきった源内は、しばらく後に井戸で顔を洗い、そこで世間話をしている長屋連中に声をかけた。
「できるだけたくさんの人を鶯谷駅の1番線ホームに集めてくれ。各自つるはしと鑿を持ってくるように」
そう告げると早足で長屋に戻り、冷やご飯に温かい茶をかけ、たくあんを二、三切れ齧り、喉に流し込んだ。
*
「おうい、銀桃色の鉱石はできるだけ壊すなよ。足元に落ちた欠片も拾っておくれよ」
源内は岩壁につるはしを振るう十数人の村人たちに声をかけてまわり、次々と採集されていく銀桃色の鉱石の山に心が震えるのを抑えられなかった。1番線ホームを振り返ると、家具や農具の職人が七、八人、巨大な箱を作っている。高さも長さも人の背よりはある箱だ。源内はといえば湯島の商家からガラス管を大量に買い付けてきた。これで巨大えれきてる装置を作るつもりなのだ。採掘する村人にも箱を作る職人にも、賃金は支払う。あと一週間もすれば文なしになってしまうだろう。
〈だけど大丈夫だ。自分を信じろ。それまでに間に合わせればいい〉
源内は興奮を抑え、静かに時を待った。
1番線ホームに巨大えれきてる装置が組み上がったのは四日後だった。ホームの下には銀桃色の山がいくつも並んでいる。
「よし。ではこれからこの鉱石を砕き、臼で挽いてくれ」
源内は手拭いを鉢巻のように頭に巻いた村人たちに指示を出した。
「おう、源さん! 俺が全部見事に砕いてやるよ」
一番元気な返事をしたのは舛五郎。他の者たちはそれなりに疲れている様子で、ため息をついたり、肩を回したりしているが、お苗が全員分のみたらし団子を差し入れで持ってくると、「やっぱりお苗さんは人の気持ちがわかるね」とサッと頬張り、重い腰を上げた。
源内は自ら監督となり、鉱石を砕く者、砕いた鉱石を臼で挽く者、巨大えれきてる装置を回す物、その内部に設置されている四十個のガラス管に鉱石粉を入れる者などに適切に指示を出した。
巨大えれきてる装置の内部で十分にえれきてるが溜まったら、外壁を外し、えれこんを取り出す。えれこんはホームに飛び出て空中をぴょんぴょんと兎のように跳ねている。
「あんまりはしゃぐんじゃないよ。人にぶつかったら悪いからね」
源内はえれこんに注意した。えれこんは言葉がわかるのかわからないのか、おそらくはなんとなく察したのだろう、おとなしく浮遊した。
「ようし、みんな集まれ!」
1番線ホームの屋根の下を埋め尽くす銀桃色の小さな雲の群れを呼び集めると、源内は「合体!」と叫んだ。しかし無数のえれこんたちはモゾモゾとうごめくばかりで、なんのことやらわからない様子。
「てめえら、やっぱり言葉がわかんねのかよ」
源内は舌打ちして、身振り手振りでひとつにくっつく様子を演じた。
無数のえれこんは桃色を少しだけ強めて輝くと、瞬時に一つにまとまり、濃密な銀桃色の円筒となった。源内はこれだ、と思った。これができる日をずっと待っていたのだ。電気を飼う—— 夢にまで見た愛玩電気。だが、もはやえれこんを売るだけでは面白くない。源内の考えはもっと大きかった。
「おうい、お苗」
作業している人たちにお茶を振る舞っていたお苗を源内は呼び止めた。
「ちょいとこいつらに言葉を教えてやってくれ。覚えはいいはずだ。鶯谷駅の説明も頼むよ」
えれこんの調教役をあずかることになったお苗は、思いのほか相性がいいのか、聞き分けのいい彼らを次々と飼い慣らしていった。
「ほら、これエレベーターっていうんだよ。おはいり」
源内から鶯谷駅の各所の名称と機能を聞いていたお苗はえれこんをエレベータに注入し、「ドアを開けて」と話しかけた。
えれこんはドアを開け、お苗を迎え入れる。
「ドアを閉めて。二階に行ってちょうだい」
お苗が言うとえれこんはドアを閉め、機械を動かしお苗を二階へ運んでいく。
「じゃあ、あなたはこっちにおはいり」
お苗が別のえれこんをエスカレターに注入する。
「動かしてちょうだい」と言うと黒い階段が自動運行を開始する。お苗は1番線・2番線ホームのエスカレータ―を何度も上がったり下りたりして、「よくできました」と微笑んでエスカレーターの手すりを撫でた。
「お苗、やるじゃねえか」
そばに寄ってきた源内は興奮の色を隠せない。お苗にはただえれこんが言うことを聞くように仕上げてほしいと思っていただけだが、ここまでやってしまうとは。
「よし、明日の朝までに全部やっちまうぞ」
他の作業が順調に進んでいるのを確認し、源内もえれこんの注入作業に入ることにした。
三日月が崖の上で煌々と輝き、岩壁のあちこちで銀桃色の鉱石がゆっくり呼吸するように明滅している。源内は昼の仕事で疲れ切ったお苗を長屋に帰し、ひとり雷納豆の明かりの下で鶯谷駅を夜通し改造した。自動券売機、各種照明器具、改札機、トイレ、柱、コインロッカー、自動販売機、ホームドア、ホームスピーカー、電光掲示板、非常用電源、変電装置、配電盤、ホーム天井に据え付けられた通信機器やHUB収容箱、そして駅員室のパソコンと制御機器。ありとあらゆる物にえれこんを注入し終えた時には、もう烏が鳴いていた。源内は1番線ホームで大の字になり、達成感に打ちひしがれながら眠りに落ちた。
一刻か二刻か、いやまだそれほど時は経っていないようであった。狐に鼻先で頬をつつかれて目を覚ました瞬間、源内はふと閃いた。
〈駅員室の遺失物入れにSuicaという小さな札が大量にあったな…… こいつで仕掛けをひとつ作って完成としよう〉
源内は無邪気な笑みを浮かべると、疲れも忘れて跳ね起きた。
*
午後になり、源内の呼びかけに応じた村人たちが群れをなして北口改札に集まった。舛五郎もおみつもいる。作業を共にしたやつらも誇らしげな顔で立っている。源内は改札を背にして胸を張り、百人を超す村人たちの隅々にまで聞こえるように、
「巨大愛玩電気動物、鶯谷駅の完成だ!」と声を張り上げた。「今日は歓迎会だ。さあ、このSuicaを渡すから、ここに整列してくれ」
源内からSuicaを手渡された村人たちは、その素材や見たこともない文字に怪訝な顔をした。
「みんな持ったか? じゃあ、軽く駆け足で、順番ずつにこの改札機にピッてかざして行ってくれ」
源内が言うと、先頭の者から順番ずつにSuicaを改札機にかざして駆け抜けていく。ひとり、ふたり、三人、四人と過ぎるだけでは何も起こらない。だが、二十人、三十人と過ぎたあたりから急に鶯谷駅が震え出した。
「お、おい! 地震だ!」
村人の誰かが言った。
「違うよ、駅が震えてるんだよ!」と別の者が驚きの声をあげる。
五十人目が過ぎたあたりで改札の上のスピーカーから「くう〜ん」と犬が甘えるような高い声がした。
どっと歓声が沸いた。
「ホントだ、ホントだ!」「動物だ!」「声がする!」「動いてる!」と口々に褒めそやす。次々と改札を通り抜ける村人たちに、鶯谷駅は横に縦にと尻を振るように揺れ、券売機を赤や黄や緑に点滅し、「くう〜ん、くう〜ん」と愛情たっぷりの声をあげる。
源内は会心の出来に思わず笑い出しそうになった。各所にえれこんを注入して個別に制御することもできるし、駅全体に張り巡らされている電線を通じて連動することもできる。鳴き声に関しても、駅員室の制御装置の自動音声機能を使ってお苗が上手に調教してくれた。
「好きなだけ可愛がってやってくれ」
鶯谷駅の虜になった村人たちに源内が高らかに言い放つと、村人たちは一斉に改札に詰め寄った。
ある者がホームの自動販売機をくすぐると、十数個の「あったか〜い」「つめた〜い」の釦が嬉しそうに点滅した。ある者がホームベンチに寝そべってぐるぐる回転すると、ベンチがゲタゲタ揺れた。またある者がトイレの便座でおならをすると、ウォシュレットが強い弱いのワンツーパンチ。エスカレーターで誰かが踊れば、拍子に合わせて速度を早めたり遅めたり。
「おうい! みんなでこのぶつぶつのついた黄色い板を箒で掃いてみようよ」
誰かが言うと、十人ほどが村から箒を持ってきて、ホームの端から端まで黄色い板の丸い突起を箒の先で撫でて走った。すると急に駅全体が寒さに震えるように微振動してホームが少しだけ斜めに傾いた。
「おっとっと」
あやうく転んでしまいそうになった村人たちはそれでも大笑い。だが、時には悲劇も起きる。ここぞとばかりに調子に乗った舛五郎がホームの柱のひとつに張り手をしたら、自動販売機の小銭投入口からきしめんのような薄桃色の稲妻が飛び出し、舛五郎の体を貫いた。膝から崩れ落ちる舛五郎。
「おいおい、舛五郎、口から煙を上げてるぜ」唖然とする村の者たち。
「感電ってやつだ。でも心配ねえ。えれこんは力の加減を知ってるよ」
源内は訳知り顔で教えてやった。
村人たちが遊びに興じる姿を存分に眺め、北口改札に戻ってくると、遠くの空の雲に赤い筋が走っていた。源内はその遠景に目を細め、自身の熱狂を冷ますかのように深呼吸をひとつした。
改札にみんなを集めると、今日の歓迎会を終わりにすることを告げた。誰も彼もが遊び疲れた顔をしていて、幸せが満ち満ちているように見えた。
「こいつのことを秘密にするのは今日で最後だ。明日からはこの村の外にまで知らせておくれ」
そう言ってから、「今日はお前もよく頑張ってくれた」と、北口改札の壁をねぎらうように叩いた。すると、駅に設置してあるスピーカーというスピーカーからまるで狼の遠吠えのような声が鳴り響き、源内の胸を締め付けた。
*
一週間もすると巨大愛玩電気動物、鶯谷駅は江戸中の噂になっていた。一ヶ月後には、『お伊勢参りより鶯谷駅』という宣伝文句が流行し、連日大行列ができた。鶯谷の村の連中には無料で開放し、外から来る者たちからは一人百文(約1200円)の入場料を取って、源内はざくざく金儲けした。
〈これでお苗を楽させてやれる〉
南口改札の入り口で源内は、これからお苗とどんな暮らしをしていこうかとぼんやりと夢想していた。米も野菜もたんと買ってやれるし、竈を新調したっていい。長屋を建て直すことだってできそうだ。二、三ヶ月かけて二人でお伊勢参りに行ってもいいかもしれない。
しかし、この甘く幸せなだけの想像は、ならず者どもの愚行に打ち破られることになる。
源内の背後で、十名ほどの男たちが南口改札の駅舎の三角屋根に梯子をかけて登り、駅員室の遺失物入れから持ち出した透明傘を広げ、雨乞いの踊りを遊びで踊り始めた。それだけだったらよかったのだが、屋根を足の裏でどんどん蹴ったり、閉じた傘で『鶯谷駅』の看板を叩いたり、悪ノリし始めた。
「おい、雨を降らせろよ!」
ひとりの男が屋根を傘で叩き、徳利に口をつけ、ゲラゲラ笑いながら暴れまわると、鶯谷駅はぶるぶると震えだした。源内には、鶯谷駅が怒りを我慢しているように見えた。
〈まったく、馬鹿野郎が〉
源内はため息を吐いて、「お前ら、もうやめとけよ」と忠告したが、
「遊びに来たんだからいいだろ」と男は酒をあおる。
「俺たちゃ、高いとこなんてお手のものよ」と別の男が徳利を奪い、ぐいとひとのみ。
「酔っ払ってんのか、お前ら」と源内は怒鳴りつけるが、男たちは意に介さない。
「雨降らせ、雨降らせ!」
男たちが傘を振り振り、踊っている。
鶯谷駅はぐるるると低い唸り声をあげ、駅舎と通路をぐらぐらと揺らす。
「うっひゃーあぶねえ! 落っこちるとこだよ」
屋根の上のひとりが笑っている。
遠くホームの方から、「なんだなんだ?」「あぶねえよ」「逃げよう」「ただごとじゃねえ」と騒めく声がする。通路にいた客たちも慌てて改札の外に走って出てきた。
「雨なら俺が降らせてやるよ」
顔を真っ赤にした男がしゃっくりをしながら股間をさらけ出し、痛快そうな笑い声を立てて屋根に小便をかけた。
「俺もそうしよう」
屋根の上にいた連中がこぞって屋根と看板に小便をかけ始めた。
〈こればかりは見逃せねえ!〉
カチンときた源内は、「おい、おめえら。あんま調子に乗るんじゃ」
ねえと言おうとした時、鶯谷駅が突如、全スピーカーから耳をつんざくばかりの咆哮をあげ、ガタンガタンと全身を大きく前後に揺らした。
そして崖の下の北口改札を重心にほぼ直立したかと思うと、三角屋根にしがみついている男たちを振り払うように北口改札を地面に叩きつけた。
とてつもない轟音と振動に源内は思わず目を閉じ、身をすくめた。
おそるおそる目を開けると、もうもうとたちこめる土煙がひいていく中、ぐしゃぐしゃにひしゃげた十の死体があらわになった。
源内は茫然とその無惨な光景に立ち尽くした。
「どうなってんだい、源さん!」
舛五郎が静止した鶯谷駅の通路をかけてきた。
「いやあ、こいつが怒っちまってよお……」
頭が割れ、手も足もあらぬ方に曲がった血みどろの男たちの前で源内は途方に暮れた。
「しょうがねえっちゃあ、しょうがねえけど……」
言い淀んでから「町奉行所が黙っちゃいないだろうな」とつぶやいた。
「どうするんだよ」
顔を青くした舛五郎が源内に問い詰める。
「向こうの改札やホームや通路に死人はいないか?」
「ああ、大丈夫だ。怪我人もいねえ。みんな異変を感じてすぐに逃げたよ」
「そうか、それはよかった」
胸を撫で下ろした源内は何かを決意したように口を真一文字に結んでから、「お苗を呼んできてくれねえか。急ぎだ」と舛五郎の目をしっかと見つめた。
舛五郎はただならぬ何かを感じ取ったようで、
「わかった。連れてくりゃいいんだな」と脱兎のごとく駆けて行った。
舛五郎がお苗を肩に担いでやってきた時には、改札前の血の海を取り囲むように人だかりができていた。
「恥ずかしいからおろしとくれ」
お苗が舛五郎の背中を叩き、地面に足をつけた。頭の上には雷納豆が浮かんでいる。
「この子を置いて行けなくってさ。いいだろ、源さん?」
「ああ、かまわねえよ」
そこにおみつも息をはあはあ言わせて走ってきた。
「大変なことになっちまったね」と額の汗をぬぐうおみつ。「どうするんだい?」
「逃げるしかねえ」
源内は言って、奥歯を噛んだ。
「逃げるったってどうやって」
「空を飛ぶ」
「そんなことできるのかい?」
「こいつならできる」
源内は目に力を込めて鶯谷駅の看板を見上げた。
南口改札を取り囲む人たちの騒がしさも増してきた。
「こんなクソバカ野郎どものために、あんたが責苦を負わなくていいだろ」
舛五郎が血の海の死体を睨みつけた。
「そんなこと言ったって死人が出たんだから、町奉行書が捕まえに来るだろうよ。お苗にも手が回るかもしれねえんだ」
「ふたりがいないとさびしいよ。どうしても行くのかい?」
おみつが言うと、舛五郎も深く頷いた。ふたりは見送る者の常として、別れに未練があるようだ。
「ああ」
源内は決意を崩さない。
「しょうがないねえ」とおみつはため息を吐き、「あんたのへたくそな江戸言葉、嫌いじゃなかったよ」と皮肉っぽい笑みを浮かべた。その隣で舛五郎が涙を堪えていた。
群衆の騒がしさがさらに増す中、源内とお苗は雷納豆を連れて駅員室に入り、鍵をかけた。
源内は奥の壁際の装置から伸びるマイクの前にお苗を連れてくると、何やらぼそぼそと歯切れの悪い言葉をつぶやいた。
「え、そんなことするのかい! やだよ、恥ずかしい」
お苗は目を剥いて顔の前で手を振った。
「頼む! これはえれこんが一番懐いてるお前にしかできないんだ」
源内は頭を下げ、大仰に両手を合わせた。
「お前ならできる!」
源内の懇願に根負けしたお苗は一度肩を落としてから、意を決したように小さく両手で頬をパンパンと叩いた。そしてマイクをそっと指先でつまみ、優しく語りかける。
「えれこんちゃーん、ホームの下にみんな集まってー」
すると瞬時にホームが銀桃色に輝いた。鶯谷駅の各所で働いていたえれこんたちが集まった証拠だ。お苗は源内の顔を見て、唇をキッと結んだ。
「いくよ。本当にいいんだね?」
「ああ、頼む」
源内は唾を飲み込み、頷きかえす。
お苗は深く息を吸い、マイクに向かってあらんかぎりの力で叫んだ。
「超反発飛行! 西へ!」
言い終わると、顔を真っ赤に染め上げた。
直後、南口改札の改札機の上についているスピーカーが見知らぬおじさんの小慣れた声でしゃべりはじめた。
「ジェイアール東日本をご利用いただき誠にありがとうございます。まもなく2番線ホームに山手線、渋谷大崎行きがまいります」
源内とお苗がポカンと顔を見合わすと、グンっと床が縦に揺れた。ホームの下から大地が崩れるような轟音が響きわたる。ふたりがぎゅっと手を繋いだ瞬間——鶯谷駅が空へと跳ねた。
「飛んだ! 飛んだよ!」
尻餅をついたお苗が手を叩いて喜んでいる。
「やりやがったね、こいつは!」
源内も破顔して喜んだ。爆音をあげて上昇を続ける鶯谷駅の、駅員室や二階通路の窓ガラスが割れんばかりに震えている。駅員室では棚から書類が落ちてきて、ふたりは慌てて机の下に潜り込んだ。しばらくすると振動がやみ、爆音も静まった。どうやら空中で静止したようだ。
ふたりは互いに頷き合い駅員室を出ると、改札フロアへとおそるおそる歩み出た。床の向こうは空である。ふたりは四つん這いになって床の端まで行き、そうっと下を覗き込んだ。豆粒みたいな村人の群れの中に舛五郎とおみつがぴょんぴょん飛び跳ねながらこっちを見上げて手を振っている。
「おーい、ありがとな! 達者で暮らせよ!」
「元気でね。舛っさん、おみつさん!」
地上の声も届いてこない空の只中でふたりは懸命に声を振り絞った。
鶯谷駅は西へ西へとゆっくり進んでいく。南口改札の端に座り込んだふたりは、崖上の舛五郎とおみつが見えなくなるまで、黙ってその景色を眺めていた。
「これってどうやって飛んでるの?」
お苗が源内に尋ねた。
「ホーム下の空間でえれこんに斥力を構造化した電気体になってもらってるんだ」
「ふーん。よくわかんないけど立派なもんだねえ」
お苗は愛おしむように床を撫でてから立ち上がり、駅員室に入ったところで小さく驚きの声をあげた。
「あんたこんなとこで何してんだい」
みたらしをあげた子どもが駅長机の下から顔を出したのだ。どうしたどうしたと源内も駆けつける。
「あんた、親はいないのかい」
お苗が聞くと、子どもはためらいがちに頷いた。
「名前は?」
「亀吉」
「ほら、亀吉。洟水を拭いてあげよう」とお苗は手拭いを出したが、「そうだ、化粧室の陶器に水たまりがあったね。あれで一度洗っておいで」とお尻を優しく叩いた。
「うん!」
亀吉は嬉しそうに駆けて行った。その背中を見ながらお苗がぽつりと言う。
「このまま富士見物でもするかい」
「もっとも俺は、お前とお伊勢参りをしたいと思ってた」
「もっと西に行けば、地獄めぐりってのもできるらしいじゃないか。あんたにはおあつらえ向きだよ」
「ひでえこと言いやがる」
笑い合う二人に鼻をきれいに洗った亀吉が駆け寄った。お苗の太ももに抱きついて濡れた鼻を小袖でぬぐうと、くしゃみをひとつした。空は思いのほか寒く、お苗も小さく身震いした。
「えれこんちゃん、この部屋あったかくできるかい?」
お苗が部屋の中空に目を投げると、蛍光灯が二、三度点滅し、エアコンが暖かい風を吐き始めた。
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