碧光の仔象

印刷

梗 概

碧光の仔象

A)17世紀中頃、オランダ・デフルト。生粋の楽天家で売れない画家フェルメールは赤外線犬や紫外線猫など様々な光のペットを飼っている。全ての光の波長が見え、その手で光を彫塑し、命を吹き込む力を持っているのだ。ある日、居酒屋の一角を間借りしたアトリエで遠近法を研究するため、消失点(※1)の技法に最近流行のカメラオブスクラ(※2)を併用したら、初めて創作した“あらゆる色に変化できる碧光の仔象”が消失点に吸い込まれていった。

B)21世紀後半の日本。大光子メガフォトン製造実験中に突然変異で意識を持つ光の塊が生まれた。数年後その技術が(可視光線のみ)民間転用され、フォトンペットとして流行している。
 あらゆる波長の光が見える若手画家・潤也が親からもらったフェルメールの贋作を見ている時、消失点から碧光の仔象が飛び出してきた。潤也は仔象にブラウと名付け、可愛がる。可視光線や紫外線などいろんな光に変化するブラウをヒントに、潤也は様々な波長を細密に描写した動物の絵画を描き、一躍脚光を浴びる。
 だが光子ペット製造工場の所長・橋本がその絵を非難する。近年、危険な電磁波等の違法フォトンペットが一部のコレクターの手で闇売買されているが、潤也がそれらを描いているに違いないというのだ。

 批判に晒された潤也は絵画制作をストップする。ブラウと深夜の散歩中、橋本(電磁波可視コンタクトレンズを装着)が現れた。背後に大量のバッタモドキガンマ(※3)を浮遊させている。橋本は潤也にブラウの入手先を詰問する。潤也は答えない。バッタモドキガンマがブラウを攻撃する。光速の戦い。ブラウは波長を変えながら応戦するが体の一部を破壊される。だがなんとか家まで逃げ切った。潤也はブラウを消失点に帰す。潤也は押しかけてきた男たちに捕えられる。

A)フェルメールは傷ついた仔象に心を痛め、体を修復し、秘技「ダーク・ポワンティエ(※4)」を施す。仔象は復活し、再び消失点に飛び込んだ。フェルメールは居酒屋で絵画制作そっちのけで乾杯を始める。

B)橋本の極秘施設。監禁された潤也は、橋本が「電磁パルスコウモリ」を製造し、民間軍事組織やテロ国家に販売していること、そして潤也が描いた絵が橋本の製造した多くの違法フォトンペットと酷似していることを飯田から聞く。飯田は公安のスパイだった。橋本が現れ、潤也と飯田をバッタモドキガンマで殺そうとする。だがその時、光速で日本中を探索したブラウが施設に現れる。ブラウはバッタモドキガンマの突撃をダーク・ポワンティエの鎧で吸い込む。バッタモドキガンマ全滅。次いで橋本に突撃し、橋本消滅。潤也は飯田が手配した公安の手で解放される。

 後日、闇製造工場が摘発。世界各国に電磁パルスコウモリの存在が明らかになり、対象国は電磁波変調カラスで対応する。

 潤也はブラウに施されたダーク・ポワンティエの技術を絵画に生かそうと研究している。ブラウは潤也と一緒に暮らすが、時々フェルメールのもとに帰っては友達を連れてくる。

A)ある午後。フェルメールは光のペットたちに囲まれて酒を飲んでいる。数匹少ないことなど気にも留めない。

文字数:1295

内容に関するアピール

※1 遠近法の起点。画布に針で穴を開け、糸を張り、そこから直線を引く。
※2 小さな穴を開けた箱に光を通し、箱の内側に外の景色が映し出される装置。
※3 バッタに擬態したガンマ線の融合粒子(きっと未来にはガンマ線に粒子性が発見されます!)
※4 光が反射している場所に白く点描する絵画技法「ポワンティエ」(本当のフェルメールが得意)から、小説内のフェルメールが編み出した「光に闇(無の光)の点描を行う」技法です。

今月ニューヨーク大学が光子衝突に成功したという記事を読みました。光子が衝突した時、反発するだけでなく、吸着する現象が起きたそうです。そこで、「吸着の先には融合があり、融合の先には大光子メガフォトンがある」と想像し、大光子をペットにするアイデアが浮かびました。「光の魔術師」と呼ばれるフェルメールがそんな未来に介在したら、というところを楽しんでいただけたらと思います。

文字数:389

印刷

碧光の仔象

※梗概からBパート(未来)の物語を大幅に変更しています。

 

居酒屋のくたびれた木枠の窓から夕陽が差し込むと、ぽつぽつと集まり始めた汗臭い男たちの夜の讃歌を先取りするかのように、内壁の茶色いレンガが真っ赤に染まる。だが燃え上がるのは一瞬。すぐに夜の手足が忍び寄り、壁という壁を灰色に変える。太った腹にエプロンを縛りつけた中年の女中が八つあるテーブルの蝋燭に火をつけてまわるのは、この店の客たちが闇に溺れないようにするためだ。
 フェルメールは居酒屋のすみで、どの客よりも早くできあがっていた。とろんと潤む目に映るのはデフルトブルーで色付けされた美しい陶磁器。それをためつすがめつビールに口をつけ、盛大なゲップをひとつ。
「きたないわね、フェルさん!」
 女中がカウンターの中から嫌悪感たっぷりで唾を飛ばす。
「悪い悪い。だがもう一杯」
 フェルメールは心ここにあらずといった様子で店内に目を向ける。夜の帳がおりた居酒屋の窓から赤や青や紫の光の帯がうっすらと漂い流れてくる。膝の上では紫色に光る猫がすやすや眠り、足元では赤く光る犬がのんびりと座り込んでいる。
「おりなさい」
 つい口に出してしまった。
「おいおい、聞いたか。フェルさん、とうとう独りごと言い始めたよ」
 いつの間にか満員になった居酒屋の、近くに座した常連の一人がと哄笑すると、居合わせた男たちがそろって高笑いした。
 その声に赤光の犬が後ろ足で耳の裏を掻いて、気持ちよさそうに舌を出す。紫光の猫が床に降り立ち、尻をぐいっとフェルメールに向ける。光の生き物はそれだけではない。赤光の兎がテーブルの間を跳ねまわり、同じく赤光のトンボが蝋燭の炎の先にとまり、青紫光の蛇が二、三匹カウンターをよじ登っている。
「あんた、いつになったら売れるの。まったくどうしようもない男だよ」
 女中が新しいビールをフェルメールのテーブルに乱暴に置いた勢いで、陶磁器からこぼれたしたたりが蝋燭にきらめく。
〈なんと美しい〉
 したたりに乱反射する金銀の光にフェルメールは恍惚とした。

翌日、太陽がすでに頂を過ぎた頃、フェルメールは大きな木箱を抱えて再び居酒屋にやって来た。もう数ヶ月誰からも依頼がないので、暇にあかせて居酒屋のすみにアトリエを構えた自身の自画像の制作を進めていた。まだスケッチの素案段階だが、遠近法を使って正確に描かねばならない。木箱はそのためのものだ。カメラ・オブスクラという最近流行り始めた装置で、箱の側面の一点に穴を開け、そこから光を取り込むと内部の壁に外の景色が映し出される。これまではキャンバスに消失点と呼ばれる遠近法の起点となる点にピンを刺し、そこから張った糸に沿って線を描くことで、空間内に配置される人や物に奥行きをつけていた。だがカメラ・オブスクラはそんな手作業ではなく、本来の遠近をそのまま箱の中に再現してくれる。数日前に居酒屋に出入りしている大工の男に、見様見真似でいいから作ってくれと頼んでいたのだ。サイズもぴったり注文通り。これでまた新しい境地が開けるかもしれない。そう思いながらも、「その前に」とひとりごちた。
 居酒屋に誰もいないことを確認してから大きく手を広げ、砂を掻き集めるように窓から差し込む光をゆっくりと集める。そこには黄色や金色などの目にみえる光だけではなく、赤や紫、またよく見ないと見つけられない碧の光もある。今回は全光の動物を塑像しようとしていた。アフリカ帰りの商人から見せてもらったスケッチにあった、象という鼻の長い動物。
 フェルメールは自分の目がおかしいことを知っている。自分の手が変なことも知っている。他の人たちが見える光以上の光が見えるし、他の人たちが触れるはずのない光に触れられる。粘土をこねるよう造形して人工呼吸すれば、光の生き物は命を宿す。これまで何度も作ってきた。今日も赤光の犬が椅子の上で首を伸ばして従順な眼差しを投げかけている。他の生き物たちはこぞって外に遊びに出てしまったようだ。
 フェルメールは丹念に光を集め、小型犬ほどの大きさの象をかたどった。何色にも変化できるように窓から差し込む光の帯をすべて丸めたが、基本の色は空と同じ碧光にした。フェルメールは満足げに出来上がったばかりの碧光の仔象に口づけをする。すると仔象は一度身震いをして宙に浮かんだ。嬉しそうに鼻を動かし、大地を踏み締めるように太い足を広げ、元気いっぱい尻尾を振る。
「この世界にようこそ」
 フェルメールはぼさぼさ頭をかいて、眼前に浮かぶ碧光の仔象を歓迎した。仔象は無邪気にまばたきしてフェルメールの周りを旋回する。
「ようしようし」
 いい子だとばかりに背を撫で、満面の笑みを浮かべた。それからようやく今日の仕事にとりかかる。この居酒屋の遠近を正確に取るのだ。
 イーゼルスタンドからキャンバスを外し、カメラ・オブスクラの内部の壁面にくっつくように立て、蓋を閉じる。そうして大量の光で線描してやろうと何度も光を集め、壁の穴に押し込んだ。
 その瞬間、好奇心を体いっぱいに詰め込んだ碧光の仔象が箱の中に飛び込んだ。
 あっ、と思うや否や、ボン! とカメラ・オブスクラの中で爆発音がした。
 フェルメールは慌てて箱の蓋を開ける。キャンバスを見てみると、居酒屋の風景が焦げた線で細密に描写されている。それだけでなく消失点も焦げている。箱の中のどこにも仔象はいない。
「まだ名前もつけていないというのに」
 爆発に巻き込まれて死んでしまった。フェルメールはそう確信すると、悲しさよりも自身の愚かさに打ちひしがれ、ぼりぼりと頭を掻いた。カメラ・オブスクラからキャンバスを取り出して消失点を覗き込んだが、見えるのは壁の茶色いレンガだけだった。

耳の奥でつんざく叫び声に潤也は目を覚ました。ベッドの上から床を手でまさぐりスマホをタップすると、午前3時24分。またか、とため息を漏らし、耳の奥に残る叫び声に腫れぼったい目を細める。三日前、今のバイトを始めた日の夜からその断末魔が聞こえるようになった。声の主は明らかに大光子動物フォトンペットだ。大学を卒業して五年、売れない画家生活のなぐさみにもっと光のことを理解したいと思って始めたバイトだった。

潤也は横になったままベッドのそばの遮光率100%のカーテンを少し開け、そこに注ぎ込む赤外線を指でくすぐる。物心ついた頃から可視光線だけでなく紫外線や赤外線など、本来見えるはずのない光が見えていた。自分の目が他人の目と違うことに気づいたのは幼稚園の時だ。光をこねて造形できることを知ったのも幼稚園の砂場だった。幼いながらも他人と違う目を持っていることを自身に言い聞かせるのは恐ろしいことだった。言ったら嫌われる、頭がおかしいと思われる。そんな思いが潤也を内向的にし、絵画へと向かわせた。
 だが少年時代から今に至るまで、たった一つだけストレス解消方法があった。実家であれ一人暮らしの部屋であれ、窓から差し込む光で鞭を作り、絶えず差し込み続ける光のビームをめった打ちすることだ。千切れても千切れても光は再生し、永遠のビームであり続ける。それが潤也の救いであり、また苛立ちでもあり、ことあるごとに鞭打たせ続けてきた。
 眠れなくなった夜の煩悶をやり過ごすため、潤也は体を起こして赤外線のビームに手をいれ、ひと掻きふた掻きする。猫じゃらしを握るように手のひらを甘握りし、すうっと引く。杖ほどの長さの赤い光の棒が出来上がる。それを何度か甘握りの手で伸ばすと赤い光の鞭が出来上がる。
 潤也はカーテンを端まで開け、きっと誰にも見えない月明かりを全面的に部屋に招き入れた。ふわっと柔らかい赤外線や紫外線の洪水が押し寄せる。多重の光の帯の端にかすかな黒いビームが混じっている。おそらくはほんのわずかなX線やガンマ線。潤也はこの薄い光の洪水を久しぶりに打ち据えてやろうと、赤外線の鞭を構えた。真っ二つにしてやる。そう意気込んだ時、視界の端に見えるものに生まれて初めて目を疑った。仄暗い壁にかけた絵の一点から、何色もの光が煙のようにぽっぽぽっぽと湧き立っている。そしてあろうことか象の鼻が突き出ている。あっけに取られて見ていると、ボン! 爆発音がして碧光の仔象が飛び出してきた。
 仔象は穢れのない目をパチクリさせ、鼻を狂ったようにブンブン振り回し、だけど尻尾を硬直させて、突如対面することになった鞭を持つ潤也に驚き、怯えている。
「お、お前、何なんだ?」
 潤也は赤い鞭を床に落とす。仔象は樽のような体を震わせて後退りする。潤也は驚きながらも、自分にとってこの状況が異常事態であるように仔象にとっても異常事態であることを瞬時に理解した。
「だ、大丈夫。敵じゃないよ」
 まんまるの目に哀願を滲ませた仔象に向かい合い込み上げてくるのは、否応ない愛くるしさだった。潤也はとっさに窓から差し込む光に手を差し入れ、握りこぶし大の黄色い光の玉を三つ作る。そしてやったこともないのに、下手くそなジャグリングを始める。
「ほうら、僕は大丈夫、敵じゃないよ」
 潤也がおどけてみせると、碧光の仔象は震えを止め、目に好奇心の色を浮かべた。
「ようしようし」
 潤也は光の玉をひとつ仔象に放る。仔象はそれを鼻の先に乗せ、息を吐き、噴き上げたり、下ろしたりして、ためらいがちに、だけど次第に夢中になって遊び始めた。仔象の後ろで光の滓がまだプスプスと煙をあげている。その絵画は、17世紀後半、オランダ・デフルトの居酒屋の一角に佇むフェルメールの自画像。だがこの時代のオランダにはいない犬や猫なども一緒に描かれていることから、とっくに贋作認定されている絵だ。中世・近世ヨーロッパの風俗史を研究している父が数十年前に購入し、大学の卒業祝いにとプレゼントされたものだ。その絵が今、仔象が発する碧い光を受け、ほのかに浮かび上がっている。目を凝らして見ると、消失点が焼け焦げていた。

翌朝、潤也はフォトンペット処理ショップ「ベストフレンド」の二階オフィスで大竹社長から仕事の説明を受けながら、あくびを必死に我慢していた。黙っていると瞼がくっついてしまいそうなのに、この後タブレットで研修動画を見ないといけない。入社後一週間は、仕事の流れやフォトンペットの歴史、関連する法律、一階買取フロアでの接客方法などを頭に入れるため、午前中に一時間のEラーニングを受けることになっているのだ。
「あなたは飲み込みが早いほうですから。自分のペースで大丈夫。頑張ってくださいね」
 暑くもないのに大竹が額の汗を拭いてぎこちない笑顔を作った。大竹は社長とは思えないほど腰が低く、潤也は逆に気を遣ってしまいそうになる。
「ありがとうございます。頑張ります」
「あとは飯田くんに任せていますから。彼は隣のラボにいますので、何かあればいつでも彼に」
 大竹は慇懃な態度で潤也に頭を下げ、オフィスから出ていった。
 潤也は大竹がドアを閉めるのを確認してから眠くてたまらない頭を振り、タブレットをタップして動画を再生した。

そもそもフォトンペットとは、二十年以上前にニューヨーク大学が成功した光子衝突の技術を発展させたものだった。光子を衝突させて融合光子を作り、融合光子同士をさらに融合させる。それを丹念に拡大していくと、38センチ52ミリ34マイクロ63ナノメートルを超えたところで突如動物レベルの意識を持つようになる。世界中が驚いたその意識を持つ光子の塊は動物の形へと光子彫刻フォトンカービングされフォトンペットと呼ばれる存在になる。あらゆる波長の光で製作可能なため、安全と健康のために可視光線のみフォトンペットとして民間利用が許されている。
 フォトンペットが今日本で流行っているのは、ただ目新しいからというわけではない。動物のペットを殺処分しなくていいということが最大の理由であり追い風になっていた。フォトンペットは意識を持つとはいえ、とどのつまり巨大な光子の塊にすぎない。フォトンペットには殺処分という概念そのものが必要ないのだ。
 2038年当時、ペットの殺処分をいまだゼロにすることができず欧米諸国から厳しい目を向けられていた日本政府は、フォトンペットの大量製造の成功を機に新たに動物を飼うことを禁止して、フォトンペット飼育への移行に大量の予算を投じた。その甲斐あって半年後には全てのペットショップがフォトンペットショップへと装いを変えた。殺処分の罪悪感を持たなくていいフォトンペットは大いに歓迎され、買い替えや廃棄を行う処理ショップも次々と誕生した。潤也が働いているのも、そんな処理ショップのひとつだった。

「そろそろどう? 見終わった?」
 半分開けたドアの隙間から飯田が潤也に声をかけた。
「はい、だいたい全部」
「じゃあ一階に行こうか」
 飯田は潤也を手招きし、一緒にオフィスを出て階段を降りていく。
「どう? 動画の内容、覚えた?」
「いやあ。寝るのを我慢するのに必死で」と苦笑いした潤也に、「いいんだよ、あんなの適当で」と飯田は鷹揚に笑った。
 一階に降りていくと買取担当の若林が接客をしていた。フロアには蓋の開いた鉛のケージが八つ、壁に沿って置かれている。その中に赤光のスコティッシュフォールド、青緑光のフレンチブルドッグ、オレンジ光のゴールデンレトリバーなど四、五匹の犬猫がおとなしく身を伏せている。いずれも処理されるのを待つフォトンペットたちだ。
「お昼になるまで若林くんの仕事見てて。午後は二階で僕の仕事手伝ってもらうから」
そう言い残し、飯田は階段を上がって行った。潤也はカウンターの内側で若林の隣に立つ。どうやら今は、目の前にいる若いカップルに青紫光のマンチカンの処理手続きを説明しているようだ。契約のこと、買取金額のこと、処理の仕方、そして大竹社長が経営する隣の販売ショップで新しいフォトンペットを購入すると5%引きになること。話を聞きながら若林の手元を見たりカップルの顔を交互に見たりしていると、急に変な眩しさを感じた。悪い予感がして見上げるとブラウが浮かんでいた。
 昨晩ジャグリングしてしまったのが運の尽き、碧光の仔象は妙に懐いてしまった。もといた世界に帰りたくないのか、それとも帰り方を知らないのか、ベッドの足元で優しく目尻を下げて膝を折るその子を、潤也はオランダ語でブルーを意味するブラウと名付けた。今朝、言葉が通じるかどうか自信はなかったけれど「帰ってくるまでお留守番するんだぞ」と言い聞かせ部屋を出たが、やっぱり通じなかったみたいだ。そもそもブラウは光であるからして、本気を出せば光速で飛べる。自分に見つからないような速度で後ろをつけて来たのかもしれない。
 頭上のブラウにショップの誰も気づいていない。ブラウの碧光は空の波長と酷似しているから、近くでは目立たないようだ。潤也は若林にトイレにいくと断りを入れてその場を離れた。
 ショップの奥のトイレで便座に座りため息をつくと、正面のドアをブラウがすり抜け入ってきた。鼻を高く掲げ、口を開けて笑っている。
「なにしてんだよ。ついてくるなって言っただろ」
 ひそひそ声でたしなめる潤也にブラウはまんまるの目に力を込め、鼻からぷんぷんと灰色の光を吐く。
「やめろよ、X線吐くなよ。怒ってんのか?」
 ブラウは碧光からオレンジ色に体色を変えた。
「色を変えるなって。可視光線は見つかるから」
 ブラウは反抗するように体を一度虹色に染め、碧光に戻った。
「家に帰りな」
 キョトンとするブラウ。
「やなの?」
 頷くブラウ。
「なんで言葉がわかるんだよ」
 潤也が突っ込むと、ブラウは潤也の頭に鼻をちょこんとのせた。
 遊ぶんじゃない、と胸で独りごちて潤也は鼻を丁重に払いのけ、「じゃあ屋上で待ってて。あとで行くから」と上を指差した。ブラウは鼻を一度ぶるんと大きく振り回し、車がウィリーするみたいに前足を跳ね上げて天井を突き抜けていった。

午後になると二階のラボで行われているフォトンペット処理業務のサポートに入った。飯田の隣に座り、モニターに映し出された箱の中を見つつオペレーションの手順を確認する。午前中だけで三匹のさよならが行われたようだが、午後には八匹が予定されている。今、モニターには緑光のシェパードが落ち着きなさげに舌をはらはらと震わせている。シェパードが入れられているのは、一階の買取ショップからラボに運ばれてきた厚さ3センチの鉛の箱。このあと六つの壁面に無数に開いた極小の穴から30秒間に9千兆個の光子が発射される。その怒涛の光の掃射に緑光のシェパードは木っ端微塵に解体され、ナノレベルの光子に戻ることになる。
 大竹も飯田もEラーニングの動画も、フォトンペットは肉体を持たない、だから殺すのではない、ただ光を解体するだけだ、そこに心を痛める必要はないという。フォトンペットは泣くことも叫ぶこともないと。だが潤也はバイト初日にこの作業を見学したときから叫び声が聞こえていた。
 飯田がタブレットの画面で、さよならされるフォトンペットの種類、ニックネーム、IDナンバー、持ち主などの情報を書類と見比べる。「ジャーマン・シェパード・ドッグ、ココア、MTS67592、将田かなえ」。次に箱の外部に据え付けられた装置に充填された光子量を確認し、「確認」をタップする。最後に遷移した白い画面に現れる「発射」をタップする。すると十秒後に全ての壁面から光子が発射される。モニターにはまるで光の嵐のような映像が広がり、シェパードは姿を消す。
 そのとき潤也の耳に甲高い超音波のような悲鳴が聞こえた。鼓膜に爪を立てるかのようなその叫びに潤也は首筋を硬直させる。三十秒後、モニターに映るのは充満した黄色い光。その空間に緑色の光子がそこかしこにきらめいている。

「じゃあ、これお願いしていい?」
 潤也は飯田の指示を受け、車輪のついた鉛の箱をエレベーターに運んだ。
 屋上は数枚のタオルが物干し竿にかかっている以外、ところどころ錆びた手すりが四方を囲っているだけの簡素な空間だ。潤也はすぐに通りに面した手すり近くで鼻を巻いて眠るブラウを見つけた。潤也が押す鉛の箱のしたでキュルキュルと車輪が軋みを上げると、ブラウが目を覚まし、顔をこちらに向けた。潤也はブラウの近くまで箱を運び、浮かない顔で空を見上げた。足元の街道から電気自動車の低くてスムーズな駆動音が聞こえてくる。不思議そうな目を投げかけてくるブラウに潤也は弱々しく微笑みかけ、箱の蓋に手をかけた。
 箱に充満していた大量の光子が大気に広がり始めるのを潤也はじっと眺めた。緑光を混じらせた黄色の光は、砕いたステンドグラスを撒き散らすようにほんの一瞬煌めいて、すぐに消えていく。急にブラウが落ち着きなさそうに辺りを見回し、目の周囲の肉を震わせる。潤也はそんなブラウのおでこを優しく撫でる。
「うん。俺だってつらいよ。光だって生きてたんだよな」
 潤也はその場にしゃがみ、あぐらをかいてブラウを招き寄せた。

それから三度、潤也は屋上でかつてフォトンペットだった大量の光子とさよならをしたが、隣にブラウがいてくれるだけで昨日までよりいくらか心の痛みは軽減された。四時になって潤也は再び一階の買取ショップに配置され、若林の隣で接客を学び、十八時の定時を迎えた。着ていたエプロンをロッカーにしまい、バッグを肩にかけると早々に飯田と若林に挨拶して屋上に向かった。
 ブラウを驚かせてやろうと思いそっと鉄扉を開けたら、思いのほか風が強く、髪の毛が顔に張りついた。外から誰かの声が聞こえて目を細めると、大竹がいた。
「ほうら、空へおかえり」
 大竹は通りに面した手すりの近くで、手に握りしめたスティックから伸びた黒く光る鞭をしならせている。手すりには光子首輪をつけたフォトンペットの犬と猫が二匹ずつ黒い光のロープで繋がれている。黄色のロングコートチワワ、オレンジの秋田犬、そして緑色のアメリカンショートヘアと青色のアビシニアンだ。四匹は逃げようにも逃げきれず、鞭で叩かれるたびに身をよじらせ、削られ、光子を飛散させている。潤也は悲痛な叫び声に耳を塞いだ。
鉄扉が風に揺れ、蝶番がギイっと音を立てる。大竹が潤也を振り向いた。
「あー、ばれちゃいましたね」
 大竹は眼鏡の奥の目に興奮を滲ませて笑っている。
 潤也はショックで返事ができない。逃げ惑う四匹のわきに、碧光を弱々しく明滅させるブラウが大竹の足元に転がっているのだ。
「どうせみんな知ってるんですけどね。いくらいじめても、いじめにならないなんてホントいいですよねえ。虐待でも殺しでもないんですから」
「何を言ってるんですか」
「君もやってみますか? ストレス解消ですよ?」
 大竹は悦に入った表情で光の鞭を潤也に差し出した。
「あ、これ? 僕が作ったんです。フォトンカービングの技術を応用して」
 潤也はそんなことよりも無数の鞭の傷跡が刻まれたブラウから目が離せない。
「ああ、これね。これが気になるんですね」
 大竹は陰湿な笑みを浮かべた。
「見たことのない子がいましてねえ。こんなの誰が作ったんですかねえ。どこかの研究所から逃げてきたのかなあ。象なんて作っちゃダメですよねえ。でもこの子、すごいかわいいんです」
 大竹はうっとりとした目でブラウに黒光の鞭を打った。口を歪ませて身悶えるブラウの背中から碧い光子が飛び散った。
「ていうかこの子のこと、見えるんですか?」
 大竹は一度驚いてから、すぐに合点がいったように、「そうか、君はコンタクトをつけてるんですか。最新ですね。僕はまだこれですよ」といって眼鏡のフレームを人差し指でとんとん叩いた。テンプルに「ALL LIGHTS」の文字が刻印されている。広告でしか見たことのない電磁波可視眼鏡だ。
「この子は可視光線で作られてるけど、空と地上くらい離れないと視認できない碧でできてるんです。僕もこのゴーグルしてなかったら見つけられなかった。こんな絶妙な波長のペット見たことないですよ。よくできた子です」
「やめましょうよ、こんなこと」
 潤也は大竹の話を遮るように声を絞り出す。だが大竹はそんな潤也をせせら笑う。
「そもそも象を作るなんて違法なんです。だから消滅させて問題なし。むしろ世直しです」
 大竹は頬を上気させて鞭を振り上げた。
「やめてください!」
 潤也が大竹の腕を掴んだ。その時、奥の鉄扉が再びぎいっと鳴った。
「あれ、潤也くんもいるんすか?」
 ゴーグルをかけた飯田がニヤけ顔で現れた。
「社長、早いっすよ。俺にもやらせてくんなきゃ」
「まだ全然終わってないから大丈夫ですよ」
 大竹は優しい言葉遣いとは裏腹に潤也の手を乱暴に引き剥がし、「今日は飯田くんに面白いものを見せてあげようと思ってたんです」といって空を見上げて口笛を鳴らした。
 潤也もつられて空を見上げると、はるか上空で旋回していたドス黒い光の塊が大竹の前に降りてきた。
「これは私がガンマ線で作って調教したバッタモドキガンマです。最新作かつ自信作。かっこいいでしょ?」
 塊に見えていたものはヌラヌラと黒い光を放つ大量のバッタだった。
 大竹が目の前のそれらに指示を出すように、二本の指先を小さくフリックする。すると黒い塊から数匹のバッタモドキガンマがまるで銃弾のように中空を切り裂き、黄色のロングコートチワワの体を貫いた。
 潤也の耳に痛々しい悲鳴が届き、ロングコートチワワは床にぐったりと倒れ込んだ。
 他の三匹が光子首輪を首に食い込ませて慌てふためく。続けざまにもう一度大竹が手のひらを弾くように素早く動かすと、大量のバッタモドキガンマがオレンジ色の秋田犬を襲った。今度は体を貫くのではなく、秋田犬を取り囲み貪り食っているかのようだ。しばらくして離れると、秋田犬はもはや原型ととどめていなかった。
「うわあ、こんなの初めて見た!」
 リンゴの芯のような形で痙攣しているかつて秋田犬だったそれを見て、飯田が息を弾ませた。
 潤也は言い返す元気も、立ち向かう勇気もない。
「さあ、残る二匹をどうやってお空へかえそうかな。そのあとはこの子」
 大竹がトロンとした目でブラウを見た。
「君は鞭でいっぱいなぶってあげようね」
 その時、横たわるブラウから潤也にだけはっきりと聞こえる叫声が上がった。
〈キイーーーーーー!〉
 ブラウが震える足で立ち上がり、鼻を鉈のようにふるって四匹の光子首輪から伸びる黒光のロープを切った。そしてロングコートチワワと秋田犬の残骸を鼻で思いきり吸い込んだ。続けてアメリカンショートヘアとアビシニアンに鼻先を向ける。二匹の猫はまるでブラウと無言の会話をするかのように差し出された鼻先に身をかがめ、尻尾をピンと立たせて鼻の穴に飛び込んだ。
 ブラウの体が強烈な虹色に輝いた。
「何をやってるんですか、あなた!」
 大竹が苛立たしげに鞭を振り上げた瞬間、ブラウが消えた。
 ほんの数秒だけ残っていた虹色の残像もかき消えた。
「ふざけんなよ、あいつ」
 飯田が手すりを握って空を探している。
「社長、あいつ何なんすか。光速で逃げやがった」
「全く人騒がせな象ですよ!」
 大竹は目に冷たい怒りを込め、スティックで手すりをカンカンと打った。
「でもなぶりがいはありましたよ。また来ないかな、また来ないかな。また来たらその時は、もう!」
 鼻息を荒くした大竹が溢れる笑みを隠すように口を手で塞いだ。

自らのいびきで目覚めたフェルメールは、鼻の頭にとまる赤光のトンボのまぶしさに思わず顔を振った。居酒屋の中は自分用のテーブルにちびた蝋燭が最後の灯火ともしびを振り絞っているのみで、ほぼ真っ暗と言っていい。テーブルに小さな紙片が置かれているのに気づき、手に取って見ると、『鍵を閉めて帰ってください』の書き置き。どうやら隣のテーブルの常連たちとくだを巻いたり、来るべき我が栄光の時代を朗々と語っているうちにしたたかに酔っ払い、深夜まで眠り込んでしまったようだ。ここをアトリエに使わせてもらっているとはいえ、なんたる失態。見渡せば、赤光のトンボがカウンターの奥の陶磁器グラスの一つにとまり、カウンターの上では赤光の兎が、足元では紫光の猫と赤光の犬が眠りこけている。向こうの壁際のテーブルでは青紫光の蛇がとぐろを巻いている。
 フェルメールは伸びをしようと腕を上げた時、目の前のイーゼルに立てかけたキャンバスの消失点から伸びてくる一筋の碧い光に目を細めた。見覚えのある鼻が穴から伸びてきてクネクネと動き、しばらくぷるぷる震えた後に、鶏が卵を産むようにキャンバスからスポンと碧光の仔象が飛び出てきた。
「おお、帰ってきたか!」
 フェルメールは声に出して破顔した。しかし直後、表情を一変させた。
 碧光の仔象が力なく地面に落下したのだ。フェルメールは腹で荒い息をする仔象が傷だらけなことをすぐに見てとった。
「なんとむごい」
 フェルエールはひざまずき、「何かはらんでるな」お腹に手を当て、力強く押し出した。仔象は苦しそうに鼻を膨らませ四匹のフォトンペットを吐き出し、目をギュッと閉じた。出てきたのは体に複数の穴を空けた犬と、もはやりんごの芯のような何かの残骸、そして猫が二匹。フェルメールは前者の二匹が瀕死の重体で緊急手術が必要なこと、そして後者の二匹が健康であることを理解した。
 フェルメールは窓を全て開けると、ほのかに漂い流れてくる赤外線を掴み取り、体を貫かれている犬に手を当てて穴を埋めた。そして残骸は……もう原型がわからないことから急ぎで赤ちゃんロバに造形した。フェルメールは二匹が痙攣をとめ、静かに眠りに入ろうとしていることにホッとした。
〈お待たせ。次はお前だ〉
 フェルメールは人の目には見えないほど弱い月明かりから碧い光を選りすぐり、仔象の背や腹に塗り込め、丁寧に整形した。しばらくそれを繰り返していると、仔象は眠ってしまったのか、腹の動きが穏やかにになった。
「君は勇敢な戦士だ」
 安堵の眼差しを投げかけるフェルメールは、「暗黒点描ドンカー・ポワンティエ」と一言唱え、大気からつまみ取った闇の粒子を丹念に丸め、仔象の表皮に貼り付けていった。
「もう誰にも傷つけさせないよ」
 涼しい風が窓から入り込むにもかかわらず、フェルメールはじんわりと全身に汗をまとわせ、何時間もかけて暗黒点描を仔象の全身に施した。

居酒屋に雀の鳴き声が聞こえ始めた頃、闇色の鎧をまとった仔象はみなぎる力を感じて目を覚ました。足元でフェルメールがいびきをかいて眠っている。仔象は立ち上がり、フェルメールの顔を愛おしむように鼻で撫で、前足を高々と上げて再び消失点へと飛び込んでいった。

昨夜、家に帰ってもブラウはいなかった。どこに逃げたのだろう。光速で飛んでいけるブラウはこの世界のどこにでも行ける。もう二度と帰ってこないかもしれない。潤也は今朝、出勤するかどうか迷った。だけど自宅とこのショップしかブラウと自分を繋ぐ場所はない。あんな仕打ちをされてまたここにやってくるとは思えなかったが、一縷の望みを託し出勤することにした。
 だが昨日の惨劇が瞼の裏にまだ張り付いていて、Eラーニングの動画を見ても上の空だった。一階の買取ショップで若林の隣に立ったら、「昨日の話聞いたよ。洗礼を受けたんだな。でも楽しんだもん勝ちだから」と淡々と諭される。二階のラボで飯田の隣に座ったら、「大人の階段のぼれよ、青年」と訳のわからない励ましを受ける。「何言ってるんですか」とささやかな抵抗をしてみても、「考えすぎだって。相手は光の塊だよ? 海の水を蹴飛ばしたからって海をいじめてるって言われるか? それと同じだよ」と、正論のような屁理屈のような言葉で丸めこまれる始末。処理業務のアシスタントについていたら相変わらず鉛の箱からフォトンペットたちの阿鼻叫喚が耳を引っ掻く。屋上で光子に解体されたフォトンペットたちを空へ還してみても、ただ胸の痛みが広がるばかりで、空のどこを探してもブラウを見つけることはできなかった。

定時が来てエプロンをロッカーにしまったところで飯田に肩を組まれて無理やり屋上に連れてこられた。
「今日は緑で統一してみました」
待ってましたとばかりに得意げに口上する大竹の足元には、鮮やかな緑光を放つ豆柴とヨークシャーテリア、ポメラニアン、シベリアンハスキーが手すりに繋がれてもがいている。
 その隣でスティックを持った若林が、
「今日は潤也くんのウェルカムパーティだな」と潤也に黒い光の鞭が垂れ下がるスティックを差し出した。
「僕はいいですよ」
 潤也は首を振り、手を体の後ろで結んだ。
「つまんないな、お前。まだそんなこと言ってんの。ガンマ線が可視光線をぶっ壊す。それだけでしょ」
 飯田が頭を掻きながら潤也の顔を覗き込み、「そういう態度ってどうかと思うよ。こうやってやればいいの。法律違反じゃないんだから。これが虐待だとでもいうの?」と黒光の鞭を振り上げた。
 潤也は思わず目を閉じた。
 だが、何秒経っても聞こえてくるはずの叫び声がしない。
 目を開けると飯田が口をポカンと開けていた。大竹も若林も目をしばたかせ、何が起きたかわからない様子。飯田の手元を見ると、スティックの根本から光の鞭がちぎれてなくなっていた。
「ブラウ!」
 潤也は叫んだ。見上げる空の一点に闇色に光るブラウがいた。
「え? 知り合いだったんですか?」
 大竹が潤也とブラウに顔を交互に向けて驚いた。
 ブラウがゆっくりと上空から降りてくる。
「お前、その服、どうしたんだ?」
 再会の喜びそっちのけで暗黒の粒を鎖帷子のようにまとったブラウに潤也は目をむいた。
〈キェーーーーーーーー!〉
 大気を切り裂くような超音波を発したブラウは、空に突き立てるように鼻を掲げ、しっかと前を向く。直後、疾駆し、四匹の光子首輪から伸びる黒光のロープを鼻で断ち切り、再び空へと舞い戻った。
 四匹の犬は突然の出来事が飲み込めない様子で、水を振り払うかのように首を左右に振ってからその場にうずくまった。
「これはもう見過ごせませんね」
 大竹が怒りを抑えるように震える息をゆっくりと吐いて、口笛を吹いた。
 夕陽を受けてオレンジ色に染まった雲の中から巨大な黒光の塊が飛んでくる。昨日とは比べ物にならない数のバッタモドキガンマだ。
「三千億匹のバッタモドキガンマがいます」
 大竹は自身の頭上に到着したバッタモドキガンマに両の手のひらを胸元で何度かリズムを変えてクラップさせた。
「戦闘モードを発動させていただきました」
 大竹が言ったが早いか、上空でバッタモドキガンマの塊が十のグループに分かれてブラウを取り囲むように円陣を組んだ。
「残念ですけど、これで終わりです」
大竹は冷笑をたたえた目で潤也を空を見上げ、「黒色蝗害マッシブダメージ」と空に向かって囁くと、バッタモドキガンマの各戦隊は中心で待ち構えるブラウに向かって一斉に突撃した。と同時に黒い光子が爆発するように弾けた。
「よっわ」
 飯田が笑った。
「まあそんなものですよ」
 大竹も肩を揺すって笑った。
 しかし空からボロボロとこぼれ落ち、掻き消えていくのはバッタモドキガンマの残骸だった。黒い塊が拡散していくその中心に、傷ひとつないブラウが立っている。
 バッタモドキガンマが再び十の戦隊に分かれる。先ほどよりは数を失い小さくなった戦隊は、もう一度ブラウに向かって一斉突撃。だがその衝突で損害を受けたのはまたしてもバッタモドキガンマだった。ブラウは空の一点で微動だにせず、闇色の鎧を発光させるばかり。さらに数を減らしたバッタモドキガンマは次に六つの戦隊を組み、ブラウを囲む。そして再び突撃。
 だが同じことだった。チリチリと夕日に煌めきながら大気に馴染んでいくのは黒いガンマ線の残骸だ。それから三度同じことが繰り返され、その度ごとにバッタモドキガンマは数を減らした。
 とうとうひとつだけとなった戦隊を前にブラウは耳を扇のように振り、鼻を悠々と回してみせる。バッタモドキガンマは飛び込めない。じりじりと後ろに下がっていく。
 刹那、ブラウが動いた。戦隊の真横に瞬時に移動したかと思うと、その暗黒の鼻で戦隊を真横にぶった斬り、上下に分かれた塊を今度は縦にぶった斬り、四つに分かれた戦隊に縦横無尽に鼻を振るい、バッタモドキを一匹残らず消滅させた。
 その間、潤也はまばたきを三度しただけだった。
「なんだよ、あれ」
 飯田が生気のない声をこぼす。
「なんでしょうね」
 大竹はまばたきを忘れて呆然としている。
「もうヒーローじゃん」
 若林が暢気に頭の裏で手を組んだ。

屋上に降りてくるブラウを四人は立ち尽くして見ることしかできなかった。
 ブラウが大竹の前にスッと進み出る。そして大竹に向かって鼻を振り上げる。
「うわあ、ごめんごめん」
 大竹が顔を守るように両手を上げる。
 ブラウは闇色の鎧をぐつぐつたぎらせて怒りに震えている。潤也が待て、と言おうとした時、不意にブラウの背中に緑光の豆柴が飛び乗った。ブラウは戸惑うように鼻先を豆柴に向けた。豆柴はじゃれるようにブラウの頭を短い前脚で撫でる。すると残りの三匹もブラウの背中に飛び乗った。ブラウの目から怒りが消えていく。四匹のほうに鼻を遊ばせながら、ブラウは潤也の目をじっと見つめてきた。
 潤也はブラウとしばらく目線を絡め合わせ、頷いた。
「もう、こういうことやめてもらっていいですか」
 大竹の目を見て言った。
「いや、そんなこと言われましても……」
 諦めきれない大竹は「考えさせてください」と目を逸らした。
「ダメですよ」
「どうしても?」
「当たり前じゃないですか」
「いいじゃないですか。だって光なんですよ?」
「ダメですよ。そんなんじゃないんです」
 潤也は初めて語気を強めた。
「次やったら?」
「ブラウがあなたたちをお仕置きします」
「何をするんですか!?」
 潤也はブラウの口元に耳を寄せて、言葉が聞こえるふりをしてウンウン頷いた。
「耳たぶ食べちゃうぞって」
「こっわ」
「その次は指だって言ってます」
「もういいです! やめますから!」
 その言葉を聞いて潤也はブラウに顔を向きなおした。
〈もう大丈夫だよ〉
 目でブラウに伝えると、ブラウはにっこり微笑み、ウィリーした。
 まばたきの後、そこにあるのは闇と緑の残像だけだった。

緑光の豆柴が短い前脚でフェルメールのふくらはぎを叩いた。
「はい、どちら様でしょう」
 寝落ちしかけた瞬間、フェルメールは誰かに話しかけられたような気がしてとっさに首を伸ばして辺りをキョロキョロした。
「はっはっは。また寝ぼけてるよ」
 隣のテーブルについた髭もじゃの男が笑う。
 フェルメールは今夜もすっかり出来上がっている。思い過ごしか、と瞼を閉じようとしたフェルメールの膝の上に豆柴がちょこんと乗っかった。
〈あれ、こんな子いたっけな〉
 豆柴がぼんやりと視界に滲む。
〈不可抗力とはこのことだ〉
 豆柴の顎の下をくすぐるフェルメールの胸に暢気な多幸感が満ちてきた。
 だが、酒で眠るのはフェルメールの真骨頂。ヨークシャーテリアが兎と鼻をつんつんし合っていたり、シベリアンハスキーが蛇二匹を首に巻きつけてテーブルの合間を闊歩していたり、ポメラニアンが生来の照れ屋ぶりを発揮して誰とも仲良くなれないことに気づくのは、また明日。
 いびきをかき始めたフェルメールの指を豆柴がパクッと咥えた。

緑光の四匹はどこに消えたのだろう。ブラウがベッドに腰掛けた潤也の膝の上ですやすや眠っている。窓から燦々と日光が降り注ぎ、潤也は色とりどりの光のビームがブラウの闇色の鎧にキラキラと反射するのを見ていると心が安らいだ。だが、重いため息が溢れる。屋上での陵辱がなくなったからといって処理がなくなったわけではない。彼らの罪悪感のなさは、彼らだけのものではない。もしかしたらあのような遊びは、他の店でもやっているのかもしれない。フォトンペットはこの先、どんな風に扱われていくのだろう。フォトンペットはこの先命の尊厳を得ることができるのだろうか。自分一人でどうにかできることではないけれど、自分一人だけでも大切にしないといけない。潤也はそう考えながら、ブラウの闇色の背中を撫でた。その時、久しぶりに絵描きとしての直感が走った。ブラウを起こさないようにベッドの下にそうっと手を伸ばし、スケッチブックと鉛筆のケースを掴む。
〈闇の点描か。悪くない〉
 潤也はブラウをスケッチし始めた。

 

文字数:15589

課題提出者一覧