梗 概
声優たちの話
声優事務所〈NeoSky〉に所属する奥沢真霧は、AIRVoC(AI Realtime Voice Changer)の訓練データ用に自分の声を提供する承諾書へのサインをためらっていた。「真霧もプロの声優なんだから」とマネージャーはせかすが、真霧は曖昧に頷いて誤魔化した。
数日後、真霧はアフレコのためにスタジオにいた。来クール配信のAI作画補助のアニメ『Knight Game』で、真霧は初のヒロイン級の役を射止めていた。憧れのベテラン声優・笹倉奈央にも演技を褒められ、真霧は改めてサインはしないでおこうかと考える。
ラウンジに出ると、事務所の親友でありAIRVoC声優のトップランナー・百文字瑠華がスマホアプリのAR音ゲー〈Psytone〉で遊んでいた。瑠華は音ゲーが苦手だったはずだが、いつの間にかMASTER難易度をフルコンできるまでやりこんだらしい。聞けば瑠華は配信オリジナルの洋画の吹き替えで呼ばれていた。たまたま真霧が端役で出演するものだったこともあり、真霧は瑠華の演技を見ていくことに。
AIRVoCでの声の変換は、誰がやっても上手くいくものではない。瑠華は自分の声のフォルマントやピッチを精密に把握し、AIが学習した声の範囲に変換しやすいようチューニングした上で、地声とはまるで違う他人としての演技も完璧にこなしているのだ。顔馴染みの音響エンジニア・千曳が嬉々として瑠華の天才性を褒めるのを、真霧は複雑な気持ちで聞き流した。瑠華が今日担当した声は昨年、兼業が本業になり引退した人気男性声優のそれだった。
なかなか仕事に巡り会えなかった真霧は、「私は声優だ」とはとても言えなかった。いまヒロインクラスの役をもらっているからといって、半年後に仕事があるかどうかは怪しい。声優は声を当てる依頼がなければそもそも仕事がないのだ。であるのに、そのために持ちうる武器は自分の声ひとつしかない。だから他の有名声優の人気にあやかって仕事をもらう瑠華のことを認められなかった。
ある日、収録終わりに奈央と向かったレストランで、真霧は『Knight Game』の収録が終わったら声優を引退する、と奈央から聞かされる。「今の時代、AIRVoCがあるから私の声は残り続けるし」という奈央の言葉が、真霧の耳に奇妙に残った。奈央がSNSで引退を発表した日、奈央は一言も言っていないにもかかわらずAIRVoCや瑠華が槍玉に挙げられ、それに瑠華が反論したせいで炎上していた。
翌日、朝起きると熱があった。事務所に連絡を済ませ、真霧は毛布にくるまる。今日の収録は見送りだ。もしあの日サインしていれば、瑠華が代理で現場に行って事務所に頭を下げさせずに済んだのかと思うと、真霧は申し訳ない気持ちになる。けれどそうならなくてよかったと思う自分もいるのだ。
一日ベッドで休み、熱も引いた中うつらうつらしていると、千曳から着信が。瑠華が収録現場から消えたらしく、居場所を知らないかとの連絡だった。瑠華に通話をつなぐと、今にも消え入りそうな泣き声が聞こえた。〈Psytone〉がサービス終了したとの記事を見て、真霧は慌てて家を飛び出す。〈Psytone〉のナビゲーターの少女は、瑠華が唯一自分の声で収録したキャラクターだった。
歩道橋にいた瑠華が飛び降りそうに思えて、真霧は慌てて抱きしめた。瑠華が突き放し2人は言い合いの喧嘩になる。言い合いの中で、真霧は「声優とは、生き方の選択だ」と気づく。「声優になる」とは声を武器に戦っていく覚悟を決めることなのだ。
「真霧が声を提供しないのは、あたしの『真霧』が、本物の真霧を超えるのが怖いからなんでしょ?」
その言葉が、真霧の胸に深々と刺さった。自分は覚悟が決まっていなかっただけではないか?
翌朝、真霧は事務所で訓練データ提供の書類にサインをした。「風邪ひいて懲りた?」と揶揄うマネージャーに真霧は決意を込めるように言った。
「いいえ。私が声優だからです」
文字数:1636
内容に関するアピール
他人の声を学習してその声を再現できてしまうAIボイスチェンジャーが声優の世界に食い込んだときどうなるだろう、というお話です。いまから十数年後をイメージして書きました。
AIボイスチェンジャーが登場して声質による区別がつかなくなったとき、声優をその声優たらしめるのは純粋な演技の実力差になるはずです。序盤では「声優」を職業ではなく状態と捉えている真霧が、無意識のうちに考えないようにしていたAIボイスチェンジャーのその性質に気づき、生き方としての「声優」に改めて向き合うまでを描きました。
文字数:242
声優たちの話
スリープモードに入ってしまったタブレットを、ユミさんがタップする。点いたときにデータ破損でもしてくれてれば儲けもんだったんだけど、生憎と事務所のタブレットはそこまでポンコツじゃなかった。
画面に表示されているのは、さっきと何も変わらない、無機質なドキュメント。一番上には、「AIRVoC学習データとしてのボイスサンプル提供の同意書」なんて明朝体。
「ほら、真霧」ウィダーを握りつぶすように飲みながら、ユミさんが画面をスクロールして、自筆署名欄を表示する。「せっかく念願のヒロイン役、射止めたんだし」
「――とは、言われましても」
朝8時に〈NeoSky〉の事務所に呼び出されてからずっと握り続けているスタイラスは、手汗で少し濡れていた。私がここに「奥沢真霧」と書きさえすれば、マネージャーであるユミさんは安心して担当声優をアフレコ現場に送り出せるし、当該担当声優であるところの私はこの気まずい打ち合わせブースからの脱出に成功する。
それは、解ってるんだけど――。
――――――――
――――
「……時間かな」時計を見たユミさんがふう、と息をついて、ウィダーのカラをゴミ箱に放り捨てた。「高円寺で合ってたよね?」
「そうです、〈タイタン〉」お開きの空気に、こっそり胸をなで下ろした。
「AIRVoCに抵抗あるのは解らんでもないけどさ」事務所物品のタブレットを雑にケースに放り込んだユミさんは、呆れたように立ち上がった。「真霧もプロの声優になったんだし。ね?」
「――――」
「それじゃ、アフレコ頑張って」
ひらひらと手を振ると、ユミさんは足早に打ち合わせブースを出て行った。
”プロ”の声優、ねぇ。
その響きに居心地の悪さを感じながら、私はのっそりと立ち上がった。
*
日常でAIが取り沙汰され始めたのは20年台の前半だったと思う。読書感想文でChatGPTを使うな、っていうのは毎年言われたし、中学校の頃は学校支給のPCでStable Diffusionで推しのイラストを生成していた。上京した頃にはAI作画のアニメもちらほらと出てきてたし、業界に無知な私は「アニメが増えれば、きっと声優もたくさん必要になる」なんて、無邪気に考えてたっけ。
AIは私の未来を明るくしてくれる。
もちろん、世の中はそんなに甘くないわけで。
「おはようございます。〈NeoSky〉所属の奥沢真霧です。よろしくお願いします!」
今日、9月13日は冬クール放送のAI作画アニメ『Knight Game』第3話の収録だ。アフレコスタジオ〈タイタン〉は、朝っぱらから残暑厳しい高円寺の商店街を抜けた先、こぢんまりとしたビルの6階にある。
コントロールルームの大人たちに挨拶をして、私はそのすぐ隣の部屋、収録ブースに入った。部屋にはマイクが3本と、映像を流す用のモニタ。据え付けのソファには、先客がもう何人か座っている。私はそのうちの一人、三色ボールペン片手に紙台本を広げる女性の隣に、そろりと腰掛けた。
「おはようございます、悠宇さん」
「ん? ああ、真霧ちゃん。おはよう」
同じ事務所の先輩、笹倉悠宇さんは、少年声を得意とする超人気声優で、『Knight Game』では私の演じるヒロインの親友役だ。そして何を隠そう、悠宇さんは私の推しなのだ。写真集は3冊(※鑑賞用、布教用、保管用)買ったし、ソロライブはほとんど全部行った。いまはゴールデンタイムのドラマにも出演中だし、来週に迫った舞台の立ち稽古もいよいよ本格化してるはずだ。声優という枠を超えて活躍する悠宇さんに、私は憧れている。
「いつもは30分前には来てるのに。朝っぱらからバイト?」
「いえ。その、同意書にサインしろ~って軟禁されまして」
「あはっ、もしかしてユミちゃん?」
「はい……」
〈NeoSky〉の敏腕マネージャーであらせられる出水夕実氏は、普段はサバサバとしたお姉さんなくせに、妙なところで執念深いことがある。先輩たちはそんなギャップを楽しんでいるフシがあるけれど、その執念深さはできれば私以外の担当声優に向けてほしい……。
「それで、サインさせられたんだ」
「あ、それが……私、まだサインしてなくて――」
「え? ユミちゃんから逃げ切ったの?」
「逃げ切れてはないです」多分ユミさんは日を改めて私を軟禁するだろう。そしてまた私にサインを迫るのだ。「――悠宇さんはサインしました?」
「ええ」それが当然のように、悠宇さんは頷いた。「いろいろ便利になるもの。ウチのAIRVoC声優が優秀なのは、真霧ちゃんもよく知ってるでしょ?」
「…………」
にやにやと笑うあいつの生意気な顔が浮かんで、慌てて振り払った。
Artificial Inteligence Realtime Voice Changer――通称〈AIRVoC〉。その名の通り、任意の人の声を学習させれば、その人の声で喋ることができるようになるボイスチェンジャーだ。某有名少年探偵の蝶ネクタイを想像してもらえば、それでいい。
私が初めてAIRVoCの存在を知ったのは、大学のオタク仲間が見せてくれた、ファンメイドの二次創作ボイスドラマだった。本編では絶対に存在しなかったちょいアレなBLシーンが、どう聞いてもそのキャラの声優さんの声で再生されている。これまでもテクノロジーに頼らない声まね動画はいくつか見たことあるけれど、あそこまで忠実で長尺なものは見たことがなかった。
投稿された音声動画は、SNS上で半ば炎上気味にバズっており、コメント欄はかつてのAI絵師騒動を彷彿とさせるような修羅場だった。声をパクられた声優さんが所属する事務所が声明を出したし、たしかあの動画きっかけで、「声の肖像権」運動も加速したんじゃなかったっけか。
――けれどむしろはっきり覚えているのは、あの動画が炎上した日の夜、養成所でのあいつとのやりとりのほうだ。
「これ、素人がやってるから聞くに堪えないけどさ、プロがAIRVoC専用声優になったら、すごいことになるんじゃない?」
「そうなったら私たち、商売あがったりかもね」
「きゃは、生意気ー! そーゆうのはあたしたちがプロの声優になって初めて言えるの」
そう笑い合ったのが、たしか5年くらい前。無事に二人して同じ声優事務所に所属できたのが3年前。そして令和15年の今、私はヒロイン役を射止め、同じ夢を見ていたはずのあいつは――。
「迷ってる?」悠宇さんが心配するように微笑む。「自分の声を提供するの」
「――ええ、まあ」その気遣いが少し申し訳なくて、私は目をそらした。
一時期は吹き上がるように粗製濫造されていたAIRVoC利用の二次創作も、最近はかなり減った。声優はナマモノだってこともあって、オタク界隈に自浄作用が働いたのも大きいと思う。そりゃあ、勝手に使ってるひとはいるだろうけど、少なくとも明確なゾーニングはできていた。
そんなオタクのオモチャだったAIRVoCを、声優業界は貪欲に取り込んだ。
本来、自らの声を武器として戦う声優は、決して代役を立てることができない。けれどAIRVoCは、それを可能にしてくれる。本人がライブで全国を巡っていようが、インフルで寝込んでいようが、プロのAIRVoC声優が同じ声でアフレコができるようになったのだ。
これは事務所や制作会社にとっては、とてもありがたい。声優のアフレコスケジュールに融通が利くようになるから。そして、万一の事情でアフレコを欠席してもセーフティーネットがあるのは、声優本人にとってもありがたい。ついでに言えば、代役が立ったとしても、自分の声の利用料という形でちゃんとお金は入ってくるから、声の使われ損ということもない。
プロのAIRVoC声優は、いま日本に20人ほどいる。彼ら彼女らが現れたところで、商売あがったりには全くならなかった。AIRVoCは自分の声のアウトソースを可能にしたことで、声優業界に選択肢を増やしたのだ。
だから私も、同意書にサインをして、アウトソース先を持っておいた方がいい。
――それは、解ってるんだけど。
「なんか、モヤモヤしてて――」
結局それは、私から不可分であるはずの「私の声」を他人に預けるってことだ。例えば、自分の腕が勝手に使われるのって嫌じゃん。その感じ。
AIRVoCは私から、私の声を奪いとる。
私の声は、私だけのものであるべきだ。
上手く折り合いのつけられない私の感情を察してくれたのか、悠宇さんは肩をポンポンと叩いてくれた。
「ま、サインしない、ってのも選択肢よ。決断するのは真霧ちゃんなんだし。それに、ユミちゃんを困らせるのも一興でしょ」
励まされた、んだよね。少し気持ちが楽になった気がする。
「――ありがとうございます」
感謝を伝えたところで、ブースのドア口に監督さんが現れた。
「えー、みなさまおはようございます。よろしくお願いします。監督の藤島です――」
「収録、頑張ろうね」
「っはい」
悠宇さんのひそひそ声のウインクに、不覚にもときめいちゃう私。裏返りそうな声で返事をして、トートバッグの中から、台本をダウンロード済のタブレットを慌てて取り出した。
*
「今日の演技、メッチャよかったよ!」
サムズアップを華麗にキメた悠宇さんは、足早にブースを出て行った。これから市ヶ谷で雑誌のインタビューがあるらしい。
「ありがとうございます!」
悠宇さんを見送ってから、私はふう、とソファに凭れかかった。胸の奥は仄かな満足感でほてっている。
アニメ尺は1話30分でも、収録自体は3~4時間かかる。数回のテストを経ての本番、って流れを、AパートBパートの2回ぶん繰り返すのだ。リテイクを何回も出すと、これがもっと伸びるわけだけど、我ながら今日は上手くいった。むしろ収録も少し巻いたし。悠宇さんとの掛け合いでも、なんとか演技で食らいつけた気がする。
「まきりんお疲れ様~」
「おつかれ~」
仲良くなった同年代の共演者に手を振って、私はすっくと立ち上がった。
……うん、あれだけ忙しい悠宇さんが、わざわざ収録に自分で来たんだもんね。スケジュールの忙しさよりも、自分の声を自分で出すことの価値を優先したんだ。
そう考えると、午前中から続いていたもやもやがふっと溶けていく気がした。
うん。悠宇さんもそう思ってるなら、サインはやっぱりしないことにしよう。やっぱり私は私の声を他の人に譲り渡したくなんかない。
音響監督さんたちに挨拶をして、廊下に出た。今日のお仕事はこれでおしまい。バイトのシフトも入ってないから、夕方は家に戻ってオーディションに向けた準備かなぁ。
声優は事務所に所属したからと言って、仕事を依頼されたり、固定で毎月仕事を与えられたりすることはない。「『Knight Game』のヒロイン役が良かったから次はこの役もお願い!」、なんてことは絶対に決して100%ありえない。声のお仕事はオーディションが全てだ。
ウチの事務所は、他のほとんどのプロダクションと同じ歩合制だ。『Knight Game』一本どころか、新人声優のうちのいまは毎日仕事を入れたって食って行くにはほど遠い。バイトとの両立はキツいけど、プロの声優になるって――声優だけで食べていくって決めたんだから、オーディションに勝ってひたすら役を手に入れ続けるしかない。
3日後に迫ったオーディションを思いながら、エレベーターホールを目指していると……。
その手前、自販機の置いてある小さなラウンジ。ネコ耳がピコピコ動くゴツいヘッドホンを装着した銀髪の女が、まるで机の上の見えない誰かに向かって指揮をするように、ひとりで奇妙に激しく手を動かしていた。
「…………」
見なかったふりをして、エレベーターホールに向かおうとしたけど、
「あ、真霧~! 偶然!」
気づかれる方が先だった。無視したらしたであとあと厄介になるのは解りきっているので、私はうんざりと振り返る。
「帰らせて」
「きゃは! なぁに~、その嬉しそうな顔! そんなにルカに会いたかった?」
この自意識過剰と生意気をこねて擬人化したような女は名前を百文字瑠華といい、驚くべきことに私の養成所時代からの仲でいらっしゃる。同じ〈NeoSky〉同期となった今じゃ、腐れ縁以外の何物でもない。
「嬉しそうに見えてるなら眼科に行った方がいいし、できれば今すぐエレベーターに乗って帰りたい」
「照れ隠しのツンデレも大好きだよ、まーきりん♥」
いらりときたけど、こいつは言い返せば言い返すだけ喜んでしまう変態なので、レスバ力Eの私は理性で悪態を飲み込んだ。瑠華は私が瑠華のことを嫌わないと解ってそう振る舞ってるんだから――事実それは間違っていないから――余計にたちが悪い。
感情のすかしっ屁みたいなため息をついて、
「瑠華は何しに来たの?」
「ねえ、聞いて聞いて! あたしさ、〈Psytone〉のMASTERでフルコンとれるようになったんだよ! 昔は音ゲーめちゃ苦手だったのに」
「会話!!」
「ちぇー」拗ねるようにヘッドホンを外す瑠華。テーブルの上に置いてある3Dタブレットには〈Psytone〉のリザルト画面が表示されていた。ノーツが3次元空間に飛んでくる音ゲーは私には難しすぎて、1日でアンインストールしたのだけれど、こいつはリリース時から延々遊び続けているらしい。「声優がスタジオにいるんだから、仕事する以外なくない? いまは千曳くんが調整してくれてるとこ」
「百文字~」ちょうど千曳くん本人の声がした。千曳くんは顔なじみの音響エンジニアだ。「ごめん、チューニングお願い」
「はぁい、いま行く~」
タブレットを手にひょこっと立ちがある瑠華に、私は訊いた。
「それで? 今日は誰の声?」
「犬井秀夫さんだって」瑠華が答える。「ほら、ちょい前に引退した、声渋い男のひと」
改めて、瑠華は声優だ。
――〈NeoSky〉唯一の、プロのAIRVoC声優だ。
*
「【つまり、俺以外にやつを殺せる人間が誰もいないってか?】」
「――そのまま、映像止めるまで続けちゃって」
私は音響監督さんの背後のソファにちまこんと腰掛けて、なぜか瑠華の収録を見学していた。例のネコ耳ヘッドホンを装着した瑠華がマイクの前に立っているのが、窓の向こうに見えていた。奥の壁にかかったモニタには、今年の冬に日本で公開予定のハリウッド映画『プライベートウォーズ Chapter3』のワンシーンが流れている。それがたまたま私が端役の吹き替えで出る映画で、挨拶がてら千曳くんにそう伝えた結果がこれだ。
普段、私たち声優が、挨拶以外でコントロールルーム――つまり大人たちがいる部屋に入ることはない。ましてその部屋で音響監督さんたちと一緒に他人の演技を聞くなんて生まれてこのかた初めてで、居心地の悪さのあまりさっきからお菓子をつまむ手が止まらなかった。当然、味はしない。
「【俺はただ静かに、普通に暮らしたいんだ】」
瑠華の地声とはまるで違う声が、――Chapter2までの吹き替えを担当していた犬井秀夫さんの声が、スピーカから聞こえてくる。もちろん、AIRVoCを通して変換された瑠華の声だ。華奢でフェミニンな瑠華から、聞き覚えのある渋い声が出ている状況が脳をバグらせる。
「――はい、いただきました」テイクにOKが出て、にわかに空気が弛緩した。「一旦休憩にしようか」
「【はぁい】」
気の抜けた返事まで犬井さんの声で、吹き出しそうになってしまう。
「どう、奥沢さん?」監督さんが、うーん、と伸びをしながら。「お友達の様子」
AIRVoC声優としてマイクの前に立つ瑠華を見るのは初めてだった。事務所が同じでも、同じ現場にならない限りお互いの収録の様子は見ない。
「めっちゃ犬井さんっぽかったです」素直に感じたことを言った。「吹き替えでこれまでの2本観直したんですけど、そっくりで」
「雰囲気まで完璧にコピーできちゃうのはすごいよね」と千曳くん。「AIRVoCでの発声ってただでさえ制約多いのに」
「そうなの?」
「あ、興味ある? ある?」やべ、これもしかしてなんかのスイッチ入れちゃったか?「AIRVoCの仕組み的に、変換が苦手な音があるんだよ。いまこの画面に映ってるのが、犬井さんの声を学習して、その特徴量を記録した潜在空間をヴィジュアライズしてたモデル。AIRVoCは入力された音声を潜在空間にプロットして、それをピッチ調整してこの潜在空間にフィットさせることで、声の変換を行ってるわけだ。逆に言えば、ピッチ調整してもこの潜在空間に当てはまらないエリアにある声を出しちゃうと、ノイズになったり変な補正がかかったりしちゃうってこと。ため息とかは、その最たる例だね。息混じりの声の変換はすごく苦手」
千曳くんは去年、声優向けのAIRVoC講座の時にアシスタントをしていて、そのときに仲良くなった。連絡先も交換してときどき話したりもするけど、まさかこういうタイプだったとは。
いきなり饒舌になった千曳くんを止めるわけにもいかず、解ったふりの私は曖昧に笑う。
「――けど百文字は、そんな補正がかからないように自分の声を完璧にコントロールしてる。恐らくはフォルマントレベルで。正直、人間業じゃないよ、あんなの」
「その上で、犬井さんの間の取り方とかまで完璧にコピーしてるからすごいんだよね、百文字さん」ペットボトルのお茶を口に含みながら、監督が言う。「声だけ似せるだけならAIRVoC使えば誰でもできるけど、演技力まで似せるのは本当にすごい」
「や、めっちゃ解ります」と千曳くん。「発声とヘッドホンとで変換ぶんのレイテンシそこそこあるのに、映像に台詞が合ってるのも意味解んなくないですか?」
「他の事務所の声優の声も、当てさせてもらえるわけだ」
AIRVoCトークに花が咲き始めた一方で、私は胸の奥が黒くくすんでいくのを感じていた。
瑠華は天才だ。瑠華の才能は、AIRVoCというテクノロジーを通して開花した。今の瑠華は誰でも、――きっと私のことだって、完璧にコピーしてしまう。
他人の声を使えば使うだけ、瑠華は輝く。
自分自身の声だけで戦うしかない私にとっては、それがすごくずるい。
AIRVoC声優に対するオタクたちの風当たりは強い。偽物のくせに、人気者の声で人気を稼いでいるように見える、らしいのだ。実際、瑠華が声優番組に出演したときのSNS上での反応は、あまり芳しいものではなかった。
そういうSNSでの反応を見ると「お前らが瑠華の何を知っているんだ」と問い詰めたくなるくせに、いざ自分がこういう場所に来てみるとこれなんだからどうしようもない。
「はい、じゃあそろそろアフレコ戻りましょっか」
「【はぁい】」
短い休憩時間でも遊んでいたらしい、〈Psytone〉のアプリを落として、瑠華は再びマイクの前に立った。返事をしたその声は、どう聞いても犬井さんの雰囲気じゃなかった。
*
「声優やめることにしたんだ」
「え?」
一瞬、頭の中が真っ白になった。
いやいやいやいや。待って? え、待って? 聞き間違い?
『Knight Game』第6話の収録が終わった10月初週の帰り道。「ねえねえ真霧ちゃん、ちょっとこの後お茶しない?」って悠宇さんに誘われて、ウッキウキで一緒に行ったカフェで、私は推しから天地がひっくり返るような告白を聞いたのだった。
口へ運ぶ途中のケーキを落としてカーディガンにクリームがついたけど、気にしてる場合じゃない。
「ちょっと、キャパオーバー気味になってきたって、マネージャーに話したんだ」放心する私に気づいているのかいないのか、悠宇さんは手元に視線を落としたまま、ブルーベリーケーキをフォークで切った。「声優もして、俳優もして、ライブもして、舞台もして、生配信番組やって、バラエティにも出て、執筆もして……って、――20代の頃はできたけどさ。四十路が見えてくると、さすがにね。私には厳しかったんだ」
そう話す悠宇さんは、なんだんか少し早口で、自分に言い聞かせているようにも聞こえて。私は、ただ目が離せなかった。
「だから、私が直接声を当てるのは今回の『Knight Game』を区切りに、お休みにしようって。これからもし私の声を使いたいアニメがあったら、AIRVoCで瑠華ちゃんにお任せするつもり」
「あ」
言っていることは理解できる。――理解できる、はずなのに、頭のどこかで悠宇さんの決断を拒絶していた。「サインしなくてもいいんじゃない?」って言ってくれたあの日の悠宇さんと同じ人物だとはとても思えない。
悠宇さんは切ったケーキを口に運ぶでもなく、代わりに紅茶を一口飲んだ。
「――あの、」
なんか、いきなりですね。なんで私に、先に教えてくれたんですか? あはは、びっくりしちゃったなー。実は私、悠宇さんにずっと憧れてて。そっかー、瑠華、悠宇さんの声で演技するようになるんだ。これからもよろしくお願いします。
なにか言わなきゃ、と思って、頭の中にぐるぐるといろんな言葉が溢れてきて、けれどほんとうに不意打ちすぎて何を選べばいいか全然解んなくって、結局、
「また戻ってきますか?」
なんて、どうしようもないことしか訊けなかった。
悠宇さんは、力なく笑って。
「瑠華ちゃんのコピーは完璧だよ。『声優としての私の声』は変わらずに残ってるんだから、戻ってくるも何もないでしょ」
まるでごまかすみたいな、「そういうことにしている」みたいな言い方の悠宇さんは、正直あんまりかっこよくなかった。
*
朝起きたらベッドから立ち上がることすら怠くて、もしやと思って手首に巻いたスマートウォッチを見ると、表示されていたのは38.1℃なんて数字だった。
「――最悪」
けほっと咳き込む。なにが最悪って、喉が終わってることだ。声優たるもの、喉が命だ。出血しようが骨折しようが、喉が無事ならアフレコには向かえる。逆にどれだけピンピンしてようが、喉がガラガラだったらアフレコはまず無理だ。龍角散は常に持ち歩いてるし、空気が乾燥し始めたこの時期、マスクはつけっぱ。加湿器もつけて、手洗いうがいもして、これで今年も冬を乗り切るぞ~って思ってたのに、11月初週からこのザマだ。
昨日の夜に寒気がしたから早めに呑んだ風邪薬は、結局効かなかったかぁ。今日入ってた端役のアフレコはキャンセルだ。
重い腕を持ち上げて、枕元のスマホに手を伸ばす。いつもなら音声入力を使うところだけど、これ以上喉を痛めたくはない。たぷたぷとフリックしながら、ユミさんに現状を報告した。
《ありがとう、解ったよ。アフレコは調整しておくね》
「明日の『エーテリック・エンジェル』のオーディションって?」
《無理は禁物。喉休めて》
「……はい」
『Knight Game』以来、合格通知は受け取れていなかった。居酒屋でバイトをしながら、なんとか食いつないでいるのが現状だ。
……ってそうだ、店長にも連絡しなきゃ。
気力を振り絞って解熱剤を飲みに行き、取ってきたポカリを枕元に置く。バ先に連絡をすませると、ベッドに倒れ込んだ。どろりとまぶたが重くて、けれど目を閉じたって眠気は来ない。体温は高いはずなのに寒気がして、毛布にくるまる。こうも思考力が鈍っていると、せいぜいYouTubeをザッピングするくらいしかすることがないわけだけど、それも10分で疲れてしまった。
カーテンも開けてない部屋で、薄ぼんやり光る画面を見るともなしに眺めていると、ふいに瑠華からLINEが飛んできた。
《風邪引いたってユミちゃんに聞いたよ~。大丈夫そ?》
珍しいこともあるもんだ。瑠華が私を心配するメッセ送るなんて。
たぷたぷと返事を打つ。
「38.1℃」
《マジのやつじゃん! お大事にね~。体調はどんなもんなの?》
「そこそこだるおも」
《あらあらまあまあ。それじゃあ~ルカちゃんが~まきりんのおうちまでご飯作りに行ってあげましょうか~? なんかほしいもんある?》
「あんたの鎮火剤」
《辛辣で草》
昨日、悠宇さんが声優活動からの引退を発表した。「私の声はこれからも聞けるから!」っていう悠宇さんのコメントにAIRVoCアンチが反応して、巻き込まれるように瑠華に飛び火した。自分は悪くないんだから黙って見てればいいのに、瑠華がちくっと言っちゃったせいで、瑠華のSNSはもののみごとに炎上していた。
《風邪で落ち込んでるかも~ってユミちゃん言ってたけど嘘じゃん》
「そんなのでへこたれる私じゃないよバーカ」話題を変えるように水を向ける。「そっちこそ大丈夫なの?」
――しばらく、返事がなくて。
《まあ、ぼちぼちかな~》
どう読んでもだいじょばないときの返事でしょそれ。
瑠華が派手に炎上したのは、たぶん今回が初めてだ。もちろん瑠華を擁護するコメントも多いけど、誹謗中傷の人格否定は一つでもあれば心に傷をつける。ガラにもなく瑠華がお見舞いLINEを送ってきたのも、きっとそれが理由だ。
「そういうときはSNSから離れるのが鉄則だからね」
《わかってる》
きっと瑠華は、私と話したがってる。私も養成所時代、ヤバい先生から人格否定までされた後はそんな気分だったから。
返事を打とうとして、頭がぐらりと揺れた。「うあ」と声が出て、これ以上活動するのはヤバい、と身体が訴えていた。
「ごめん、そろそろキツいかも」
《ん。そっか、ごめんね》
「起きたら連絡するから」
《ありがと、おやすみ》
今度こそスマホを放り出して、枕に顔を埋めた。そのまま大きく息を吐いた。
私が思ってたより、私は落ち込んでいた。
風邪で弱った脳みそは、ぐるぐると私を黒い淵へと引きずり込んでいく。
オーディションのこと。悠宇さんのこと。瑠華のこと。
養成所で一緒に馬鹿を言って笑い合っていた瑠華は、いつの間にかプロの声優に――声だけで食っていける声優になっていた。しかも、音響監督さんたちが感動するほどの、天才声優に。瑠華は恐らく、〈NeoSky〉で唯一、オーディションなしで仕事を続けられる声優だ。ここ数年、瑠華がオーディションを受けたところを私は一回も見たことがない。
だから瑠華には、私が落ち込んでいることを気取られたくなかった。炎上してる瑠華に心配かけたくないって気持ちもあるけど、それ以上に私の薄っぺらい意地を瑠華に見抜かれたくなかった。
認めよう。
私は瑠華に嫉妬している。プロの声優として仕事をもらい続ける瑠華が、羨ましくて仕方ない。
もし私がサインしていれば、今日の現場は瑠華が向かっていたはずだ。でも、心のどこかにそうならなくてよかったと思っている私がいる。同時に浮かぶのは、あの日のカフェの、誤魔化すような悠宇さんの笑顔だ。
だって、現場に呼ばれたのは私の声じゃなくて、私のはずじゃん。それを瑠華に取られるなんて……とまで考えたところで、これじゃあ瑠華を否定しているクソゴミどもと同じ思考なんじゃないかと嫌になる。
思考が渦を巻いて落ちていくのを感じた。胸の奥がくしゃくしゃによれていくのが嫌で、無意味に寝返りを打った。
AIRVoCというテクノロジーは、声優の選択肢を増やしてくれた。それ自体に善悪はない。選択肢にどう向き合うのか。あとはもう、声優たちの話だ。
悠宇さんも、瑠華も向き合った。
じゃあ、私は?
私は、私から私を奪いかねないテクノロジーに、どう向き合えばいい?
*
薄ぼんやりと目を開けると、もう外はすっかり暗かった。もぞりと身体を起こすと、時計は17時13分。17時台でこの暗さは、夏の頃と比べると普通にビビる。
体温を確認すれば37.3℃まで下がっていた。意識を失う前にブチ込んだ解熱剤が効いたのかもしれない。まだだるさは残っているけれど、朝起きたときに比べたらよほどマシだった。
寝汗で濡れた身体を拭いて、新しいジャージに着替える。シーツも取り替えたかったけど、さすがにそこまでする気力はない。どうしようかなーって思っていたところに、手首が震えた。着信が1件。相手は――千曳くん? 用件に全く見当がつかないまま、おずおずとスピーカーで通話をつなぐ。
「もしもし……?」
「もしもし、奥沢? 千曳」
「どうしたの?」けほっと咳き込む。「珍しいじゃん」
「いきなりごめん」千曳くんの口調は珍しく切羽詰まっていた。後ろからは車が通り過ぎる音とか、喧噪が聞こえる。「ひとつ訊きたくて。百文字の居場所心当たりない?」
「瑠華の?」困惑。「え、なんで?」
「それが、休憩中にスタジオを飛び出しちゃって……」
「は?」
一瞬、千曳くんが何を言っているのか解らなかった。
話を聞いたところ、今日は瑠華のAIRVoC収録が永福町であったらしい。ナレーションの仕事で、炎上のせいか普段よりも瑠華に元気がないなと思いつつも、順調に収録は進んでいた。けれど、3分の2が取り終わってあと少し、という休憩のタイミングで、瑠華は飛び出してしまったそうだ。
正直、信じられなかった。瑠華は確かに自意識過剰で生意気だけど、仕事をブッチするようなマネをする子じゃない。
「事務所には電話した?」
「もち。出水さんが電話かけてくれてるけど、繋がらないっぽい。それで奥沢ならワンチャン知ってるかもって」
「ごめん、正直さっぱり」待ったはずの頭痛が、じわりとぶり返す。「なんで飛び出したかに心当たりは? 瑠華、直前に何してた?」
「休憩中はずっとブースの中でスマホ見てたけど……」う~ん、と唸る千曳くん。「炎上コメントを読んでたとしても、それが直接のきっかけではないと思うんだよね」
結局二人で話していてもらちがあかず、何かあったら連絡する、という約束で通話を終えた。その流れですぐに瑠華に電話をかける。ユミさんからの電話には出なくても、私からなら出るんじゃないか、という一縷の望みをかけて。
1コール、2コール、3コール……がちゃ。
「…………まきり?」
「え、あ、」
思ってた以上にあっさりと瑠華が出てしまってたじろぐ。
「瑠華、あんたいまどこに――」
「どうしよう……」瑠華の声は湿っていた。バックには電車の車内アナウンスが聞こえている。『次は高井戸~、高井戸に到着です』。え? うちの最寄り?
「井の頭線乗ってるの?」
「ごめん、まきり……あたし…………」
瑠華は混乱しているみたいだった。背景音から推測するに、高井戸で降りたらしい。瑠華はいま、高井戸駅のホームにいる。
――なんだか嫌な予感がした。
「瑠華、そこで待ってて。絶対だからね」
拒絶するように、ぶつりと通話が切れた。
「ちょ、瑠華? 瑠華!? あー、もう!!」
一刻も早く瑠華の元に向かわなければと、ハンガーからコートをもぎりとったところで、メッセージ受信を知らせる音が鳴る。瑠華から画像が送られていたようで、スマートウォッチではサムネが小さすぎて確認できない。じれたようにスマホで確認すると、それは〈Psytone〉のサ終を伝えるユミさんとのLINE画面のスクショだった。
「――あぁ」
その瞬間、私は瑠華の心が理解できてしまった。
コートを羽織るやいなや、私は部屋を飛び出した。オートロックの鍵を取り忘れたことに気づいたけど、そんな場合じゃないと階段を駆け下りる。濡れたステップで滑りそうになりながら、慣れない素足のスニーカーで小雨の降る道路を駆けた。駅まで走って5分の道のりを恨んだ。
〈Psytone〉のナビゲーターの少女。
それは瑠華が、唯一自分の肉声で収録しているキャラクターだった。
*
「瑠華っ!!」
環8を跨ぐ歩道橋の上に瑠華を見つけられたのは、本当に幸運だった。ぜえぜえ息を切らしながら階段を駆け上ると、街灯の淡い明かりの下、雨に濡れて銀の前髪がぺったんこになった瑠華は、涙に腫れた目で情けない笑顔を浮かべた。
「えへへ――……ごめん、あたし、お仕事ほっぽり出しちゃった」
呆れるやらほっとするやらで、へなへなと、膝から崩れ落ちそうだった。見た感じどうもその気はなかったらしいけど、最悪の事態まで想像していたから。
「――ほんっと、この馬鹿!」
コートすら置いて飛び出してきたのか、瑠華は薄いセーター1枚の瑠華はふるふると震えていた。
「病み上がりなんだぞ、こっちは。マジほんと、マジで……」
「――ごめん」
項垂れる瑠華があまりにも惨めで、私は瑠華をそっと抱きしめる。瑠華の身体はやはり冷え切っていた。一瞬身を堅くした瑠華だけど、次第に私に身体を預けてきた。ようやく安心できたのか、「ごめん」と繰り返す瑠華の声がにじみ始める。
「あたし、ちゃんと声優だった。声優だったの」瑠華の声は震えていた。「自分の声で、ちゃんとやってた。だから大丈夫だったのに……」
私はようやく、瑠華自身もAIRVoCに向き合い切れてなかったことに気づいた。養成所で一緒に同じ夢を目指してたあの頃の瑠華は、AIRVoC声優として活躍する瑠華の中にいびつなしこりとして残り続けていたんだ。
――けれど、彼女の残滓は、〈Psytone〉のサ終で死んでしまった。
「あたしは、どこまで行っても誰かの代わりにしかなれないの。あたし、こんなことがしたくて声優になったわけじゃないのに」
その小さな叫びが、私の中のなにかを砕いた。
つー、と静かに涙がこぼれていた。
あの瑠華に、――いつのまにか私の遙か先に行っていた天才に、そんなことを言ってほしくなかった。
「――ふざけないでよ」
こぼれた言葉に、私自身が驚いていた。
瑠華への言葉を貯めたダムにひびが入っていた。
「瑠華はプロの声優なんでしょ?」あのとき憧れたモノじゃない、新しいプロの形を私に見せつけてきやがった。「私がなりたくてなりたくてたまんない、プロになったんだよ? 私より先に」
ああ、そうだ。私はプロの声優になりたいんだ。
冷静な私が塞ごうとするそのひびを、止めきれない感情が容赦なく壊し始めていた。
雨が私を打っていた。素知らぬ顔で歩道橋の下を、ヘッドライトが通り過ぎていく。
瑠華の肩をつかんだ。驚いたような顔で私を見ていた。
「なのに、なりたくなかったなんて言うの?」
瑠華の口が震えて、
「でも――」
その瞬間、ぷつりと糸が切れた。
でも? でもって言った?
理性が、消し飛んだ。
「情けないこと言ってんなよ!!」私は瑠華の肩をつかんだ。「瑠華が信じられないなら、私が何度でも『瑠華は天才だ』言ってあげる。SNSでクズどもがなんて騒ごうと、製作会社が契約切ろうと、私だけは絶対に瑠華のことを認めてあげる。
解ってる? 私じゃあんたにかなわないんだよ! 私、あんたに嫉妬してるんだよ? だからとっとと私に背中を追わせろ、瑠華! ずっと憎たらしく私のこと馬鹿にしてればいいんだよあんたは!
……どうせ私には、AIRVoCへの向き合い方なんて解んないよ。私の声は、私の声のままにしておきたいの。怖いんだよ、私。たかがボイチェンに、ここまでメンタルボコボコにされてんの。……だからあんたは、AIRVoCの天才になったあんただけは――ただのボイチェンなんかに、負けないでよ……」
気づいたら目からボロボロ涙がこぼれていた。過呼吸になりそうなくらい息が苦しくて、叫び出したかった。
崩れ落ちそうで、瑠華の肩にすがっていないと立てなかった。
惨めだった。惨めすぎて、瑠華の顔が見れなかった。
「――それが、真霧の本当?」
「そうだよ」もう投げやりだった。嗚咽をこらえるのに必死だった。「どうせ私はプロじゃないもん」
瑠華は呆れかえるだろうか、それともブチ切れるだろうか。
握りこぶしが飛んできても、甘んじて受けようと思っていたのに。
身を固くする私に代わりに瑠華がくれたのは、頭を抱きしめる優しい腕だった。
「――ほんと、真霧ってツンデレだよね」弱々しい声だった。「あたしのこと好きすぎじゃん」
「んなわけあるかよ、ばーか」
拗ねた私は瑠華の胸におでこを当てた。とくんとくん、って瑠華の鼓動を感じた。いきり立った心が、まるで子守歌にまどろむ赤ちゃんみたいに、すうっとほどけていく。
瑠華に、私の心の柔らかい部分をぶつけたのは、初めてだった。
雨の冷たさも、自動車の音も、感じなかった。
「真霧はプロだよ。あたしよりずっと」瑠華の手が私の頭をなでた。「あたし『声優』って、職業じゃなくて生き方だと思ってるから。バイトもガンガン入れて、オーディションも受けて、声優だけで食っていくって覚悟決めてるじゃん。逃げだそうとしたあたしより、よっぽど」
「…………」
「――ありがと。もうちょっと頑張ってみる」
その一言が聞けただけで、なんだか救われた気がした。
我ながら、馬鹿みたいに単純だと思う。
それから瑠華は、事務所と現場、それぞれにごめんなさいの電話をした。バチギレるかと思ってたけど、意外にもユミさんは2、3言の注意で済ませていた。千曳くんは、ただほっとしていた。千曳くんは別にいいと言っていたけど、まだスタジオの時間があるから瑠華はこれから収録に向かうらしい。
その、別れ際。
「……瑠華はさ」歩道橋を降りる瑠華に、私はそろりと訊いた。「私は同意書にサインすべきだと思う?」
私はAIRVoCに、どう向き合えばいいと思う?
そんな言外の意味を知ってか知らずか、瑠華は、
「すべきだよ」即答だった。
「え? なんで?」
瑠華は、少し悩んで見せたあと。
「――あたしね、真霧に嫉妬してるんだ」
そう言った。
「は?」
「だから、あたしが真霧の声であんたを超える演技をして、あんたの夢をへし折ってやりたいの。『あ~ん、瑠華様にはかないませ~ん♥』って言わせたげる」きゃは、と瑠華はイジワルに笑った。「だからとっととサインして、この天才AIRVoC声優様にあんたの声を使わせろ、ばーか」
「ふはっ」
思わず吹き出したそれは、紛れもなくいつも通りの、
「ほんと、あんたのこと大ッ嫌い」
自意識過剰でクソ生意気な、私が大好きな百文字瑠華だった。
*
誰かさんのせいで長引いた風邪が完治するのに、一週間もかかってしまった。
「風邪で懲りたんでしょ」
事務所の打ち合わせブース。サインを終えた私は、ウィダーを握り吸いつぶすユミさんの言葉をきっぱりと否定する。
「いえ。私、プロの声優なんで」
「は?」
ぽかんとした顔を浮かべたユミさんは、それ以上私が何も説明しないとみるや「はぁあ~」っと大げさにため息をついた。
「真霧も瑠華も、――お前たちに何があったんだよ。瑠華もいきなり『オーディション受けたい』なんて言い出すし……」
「…………」
初耳だった。
ふ~~~~ん。
瑠華、オーディション狙い始めたんだ。
ふ~~~~~~~ん。
マウントのネタができたことにホクホクしながら、私はブースから立ち上がる。
「それじゃあ私、アフレコあるんで」
「はいはい、行ってらっしゃい」
「あ、その前に、一個だけ」
事務所を飛び出す直前で、私は振り返る。
「私の声、絶対に瑠華以外には使わせないでくださいね?」
「もともとウチにAIRVoC声優は瑠華しかいないよ」ユミさんは呆れたように、手をしっしっと振る。「だからとっとと行った行った」
その返事に胸をきゅるんとさせながら。
「行ってきまーす!」
私はスキップしながら事務所を飛び出した。
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